順ぐりに復讐してくというシステム [映画ハ行]

『ハングリー・ラビット』

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ニューオリンズの高校で教鞭をとる国語教師の、美しい妻が、暴行魔に襲われ、ひどい怪我を負って病院へ担ぎこまれる。駆けつけた国語教師は、病院ロビーで見知らぬ男に声をかけられる。
犯人は特定されていて、我々が制裁を加えることができるという。
報酬は必要ないが、後で簡単な仕事をしてもらうことになる。
男を怪しんだ国語教師は申し出を断るが、男は連絡先を書いたメモを置いて立ち去る。


犯罪被害者による「復讐劇」は過去に多い。犯罪被害者の家族による「報復劇」となると、少し絞られてくる。一番名の通ってる所では、チャールズ・ブロンソンの『狼よさらば』だろう。
ジョディ・フォスターの『ブレイヴ・ワン』はその女性版の趣だった。

両作品とも、警察の対応に都合のいい部分があり、「復讐」のカタルシスを感じさせるような作りだったが、2001年の『イン・ザ・ベッドルーム』はもう少しリアルだった。

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メイン州の小さな町で開業医を営む中年夫婦。その実家に帰省中の大学生の息子が、隣の家の人妻と恋に落ちる。夫のDV男とは別居中だが、復縁を迫って押しかけてきた夫と諍いになり、開業医夫婦の息子は銃で射殺される。
だが裁判で殺意は認定されず、刑期は僅か5年に。しかも保釈まで認められてる。
息子を失ったことで夫婦の間にも軋みが生じ、苦悶の日々の末に、開業医は決断を下す。

トム・ウィルキンソンとシシー・スペイセクが演じてるから、「活劇」のカタルシスは生まれようがない。そうなることを慎重に排除しながら、このテーマに挑んだ映画だったのだ。
ちなみに隣の人妻を演じたマリサ・トメイの、熟れた色気たるや必殺級で、そりゃ大学生などイチコロだろうという説得力に溢れてた。
開業医の夫婦も彼女のことを受け入れて、一緒に食事を楽しむ間柄だっただけに、悲劇の度合いも深いのだ。


犯罪被害者の復讐に「第三者」が介在してくる、この『ハングリー・ラビット』のようなケースは過去に2本思いつく。
1983年のピーター・ハイアムズ監督の秀作『密殺集団』では、マイケル・ダグラス演じる判事は、犯罪犠牲者の身内というわけではない。

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だが明らかに凶悪犯罪の犯人と思われる被告が、警察の捜査手順の不備などを突かれて、州法に照らし合わせると無罪にせざるを得ない、「法の矛盾」に苦悩してる。
その主人公が古参の判事から「私設法廷」の存在を明かされる。9人の現役判事で構成されてるが、一人の高裁判事が自殺したため、席が空いてるという。

「私設法廷」の目的は、犯人が不当に無罪となった事件を再審理して、「有罪」と認めれば、刑の執行を「プロ」に依頼するというものだった。


1996年の『レイジング・ブレット 復讐の銃弾』は、全米興行ではトップ10入りしたが、日本ではこの題名でビデオスルーとなった、サリー・フィールド主演作。

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娘の誕生日の準備で買い物に出た母親が、留守宅の娘に電話すると、受話器の向こうでドアの呼び鈴が鳴る。娘が出たところを男に襲われ、電話の向こうで叫び声が聞こえる。
だが家までは遠く駆けつけることもできない。娘は暴行され殺された。

近所に住む犯人はすぐに逮捕されたが、検察の捜査に誤りがあったと、裁判ではあっさり不問に処される。担当した刑事は母親の心痛を察し、「犯罪被害者の家族の集まり」を紹介する。
夫とともにその集まりを訪れると、メンバーの中年男性から、「犯人に復讐する手段」があると聞かされる。意志があるなら手助けできるというのだ。

母親は恐ろしくなり、一旦は距離を置くが、自分の娘を殺した男は、法廷で互いに顔を見ており、その男は極悪にも、母親の前夫との間にもうけた娘にも接触してきた。
母親は「復讐する手段」を行使する覚悟を決める。

キーファー・サザーランドの鬼畜っぷりが堂に入ってた。エド・ハリスはほとんど役に立たん。
80年代以降は娯楽映画の職人という割り切った仕事ぶりだったジョン・シュレシンジャー監督作で、キャストも多彩なんだが、未公開に終わったのは、どこかしら底の浅さが否めないからでもあった。

このニコラス・ケイジの新作は『レイジング・ブレット 復讐の銃弾』の設定に一番近いかな。



ニコラス・ケイジ演じる国語教師ウィルは、暴力とは無縁の気の優しい男だ。だが病院のベッドに包帯だらけで横たわる妻の姿に、憤怒の念が湧き上がる。
ロビーで声をかけてきたのは、サイモンと名乗る男だった。
この「制裁」を加える組織のやり方は周到だった。
まず組織の人間が直接「制裁」を加えることはしない。犯罪被害者の身内に実行させるのだ。
だが当事者が犯人に手を下せば、すぐに警察に辿られてしまう。

そこで「見ず知らずの相手」に制裁を加えさせるのだ。つまり犯罪被害者の身内は何人もいる。
その一人の依頼を叶えてやる代わりに、今度はその身内に、別の事件の犯人への制裁を行わせる。
それを数珠繋ぎのように行っていけば、殺された犯人と、犯罪被害者の身内との接点は見出せなくなる。ヒッチコックの『見知らぬ乗客』の「交換殺人」の応用編だね。

迷った末に、サイモンからの申し出を受けたウィルの元に、射殺された暴行魔の写真と、ネックレスが入った封筒が届いた。
犯人が妻を襲った時に持ち去った、妻のネックレスに間違いなかった。
自分がプレゼントに贈ったばかりの物だったからだ。
ウィルは妻の復讐を遂げたという満足感などなく、サイモンの組織の底知れなさに恐怖を感じた。
だがもう引き返すことはできない。


事件からしばらく経って、妻のローラの傷も癒え始め、ウィルは改めて夫婦の絆が深まったように感じていた。ローラには、あの犯人は自殺したと告げていた。
サイモンのことも気に留めなくなっていた矢先に、「軽い仕事」の指示がきた。

小児性愛者が動物園に現れるから監視して報告しろという。渡された写真の男は、家族連れで動物園に現れ、特に不審な所もない。
だがその姿を監視してるウィル自身が、何者かにビデオカメラで撮影されていた。

サイモンに仕事は果たしたと告げると、今度は「その男を事故に見せかけて殺せ」と言う。
できるはずがない。
だがサイモンは小児性愛者による犠牲者の痛ましさを語り、制裁の正当性を説いた。
指令を拒否すると、サイモンの組織はウィルの自宅や、高校の教室の黒板にまでメッセージを残していった。
警察に話すこともできない。ウィル自身だけでなく、妻の身にも危険を感じ、指令を受けざるを得ない状況に追い詰められた。

小児性愛者の通勤ルートとなるバスの停留所で、実行に及べ。
ウィルはその言葉通りに、バスで男と乗り合わせた。だが実行前に本人と話をすべきと、停留所を下りて声をかけると、なぜか男は襲いかかってくる。
揉み合いとなり、男はバランスを崩して、歩道橋から道路へと落下して死んだ。
ウィルはその場を逃げ出すが、その周辺には監視カメラが備えてあった。


テレビのニュースで転落死の事故を告げてたが、死亡したのはジャーナリストだという。
サイモンの言った「小児性愛者」というのは事実なのか?

そもそもあの事件の晩に、なぜサイモンはあれほど早くウィルの前に現れたのか?
疑いは深まるばかりだが、いまやウィルは転落事故の重要参考人として、警察に追われる身にもなってしまっていた。


「闇の制裁組織」という設定に留まらずに、その正義の暴走に、犯罪被害の当事者が翻弄される展開が、サイコロの目のように局面を変えながら描かれていく。
この組織の手が非常に広範囲に広がってるという、その結末に至るまでの不気味さは、例えば
1970年代の『パララックス・ビュー』の組織の描写なんかに繋がってる感じがある。

サイモンを演じるガイ・ピアースは今回スキンヘッドということもあり、なにか近年のエド・ハリスに通じる「黒幕」路線のキャラでいけそうな雰囲気だ。
ニューオリンズ市警の警部補を演じるのは「アメリカの伊武雅刀」と俺が呼んでるザンダー・バークレイ。腹の底の読めないキャラを演じさせると絶妙だ。

妻のローラを演じるのはジャニュアリー・ジョーンズ。
『アンノウン』の時はミステリアスな妻の役だったが、今回は傷が回復するとともに、自衛のために射撃を習い、銃を所持するという、芯は強い女性を演じてる。
彼女はかなりの美人なんだが、それを押し出さない「さり気なさ」を持ってるのがいい。

ロジャー・ドナルドソン監督のベテランらしい、テンポを壊さない演出ぶりで、さくさく見れる。
中盤のウィルが警察に追われて、ハイウェイを横切る場面は、スタントも迫力がある。
急ブレーキかけてドリフトしてくるトラックの直前を走り抜ける所なんか、見てて腰が浮きそうだった。

あとこれはどうでもいいことなんだが、つい気づいたんで。
ロジャー・ドナルドソン監督はオーストラリア出身なんだが、ニコラス・ケイジは「オセアニア」出身の監督たちとよく組んでるのだ。
『ノウイング』のアレックス・プロヤス監督は生まれはエジプトだが、オーストラリア映画界でキャリアをスタートさせた。
『NEXT/ネクスト』のリー・タマホリ監督と、『ロード・オブ・ウォー』のアンドリュー・ニコル監督はニュージーランド出身。
オセアニア人の気質とウマが合うというようなことがあるんだろうか?

2012年7月8日

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伝説のガーリー・ムービー4時間半を見る [映画ハ行]

『花を摘む少女と虫を殺す少女』

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矢崎仁司監督の1990年作で、新作の中篇『1+1=11』が公開中の新宿「K'S CINEMA」にて、1週間限定で上映された。
ロンドンにロケした4時間37分に及ぶ大長編で、今まで上映の機会も少なく、ビデオ・DVD化もなされてない。
「伝説のガーリー・ムービー」としてカルト化してる映画なので、きっと混むだろうと、早めに入場整理券をとりに劇場に行ったんだが、拍子抜けするほど客は少なかった。

矢崎監督の1980年のデビュー作『風たちの午後』を、俺は当時どこかの自主上映の場で見た。
見ようと思ったのは「レズビアン」を題材にしてたからだ。
矢崎監督と長崎俊一監督が共同で書いた脚本は、都内のアパートで孤独に餓死したという、若い女性の記事をもとにしてた。

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美容師の美津は、アパートに同居するルームメイトの保育士・夏子を好きになってしまうが、女性同士なんで言い出すべくもない。
夏子には彼氏がいたが、美津はその彼氏を誘惑して、子供を妊娠してしまう。

それは彼氏を夏子から遠ざける意味もあったが、夏子を抱く男と肉体を交わすことで、間接的に夏子と結ばれ、彼女の子を宿したという、妄執としか言えないような心理もあった。
だがその行為は夏子を立ち去らせることになり、ひとり残された美津は、生きる気力を失う。

映画の中で、夏子の留守中に、彼女の出した生ゴミを床にぶちまけて、その上に寝転がってゴミをまさぐりながら、美津が陶然とする場面がある。
当時「ストーカー」という表現はなかったが、まさにその心理を描写した、ドン引きするほどに鮮やかな場面だった。

この「生ゴミ」というのも、人間が咀嚼した後のものという意味で、「排泄物」と捉えられるが、「排泄」は矢崎監督のモチーフになってるようだ。
この『花を摘む少女と虫を殺す少女』の「花を摘む」ヒロインとなる、ドイツ人ベロニカは、知人に勧められたと、毎朝トイレで排尿すると、それをペットボトルに入れて飲んでる。
「飲尿健康法」を実践してるのだ。


ベロニカは、ロンドンのバレエ団で『ジゼル』のヒロインに抜擢されたダンサーだ。ドイツから出てきて、まだ日が浅いようで、英会話学校に通ってる。
俺はドイツ人て英語も普通にしゃべれそうなイメージだったが、そうでもないんだな。

この映画は三角関係に至る男女の姿を、『ジゼル』をモチーフに描いていて、ベロニカも心臓が弱いというか、身体が弱そうな描写がある。朝なかなかベッドから起きられないとか、バレエのコーチが彼女の誕生日を手料理で祝うんだが、その彼の家の食卓で、食べた物をもどしてしまったりしてる。

ベロニカは生活費を稼ぐため、「スイス・コテージ・ホテル」という、小じんまりとしたホテルで、客室の清掃係のバイトをしてる。

その日もある部屋の清掃に入ったが、新しい宿泊客で、部屋はおびただしい数の衣服や下着が散乱してる。しばらく途方に暮れて眺めてるんだが、グレーのドレスに目が留まった。

なぜか着てみたくなってしまい、ベロニカはホテルの従業員服を脱いで、客のドレスを身につける。床に落ちてた真珠のネックレスを首に下げ、ベロニカは部屋の中で、ジゼルよろしく踊り出す。

この部屋の客が本当に不在なのか不安になった彼女は、風呂場のドアを開ける。バスタブに毛布にくるまれた人の気配が。「死体なの?」と恐る恐る毛布をめくると、若い日本人女性が眠っていた。
まだ寝ぼけていて「おはよう」と声をかけられたベロニカは、動揺して「グッモーニン」と挨拶してドアを閉めた。

部屋に戻り必死にドレスを脱ごうとするが、ファスナーが下りない。もたもたしてる間に、バスタブの女性が起きてきた。
気まずい表情で「アイム・ソーリー」と言うベロニカを、女性は手招きした。
「いいのいいの、アイ・ギヴ・ユー」
「それあなたにあげる。あなた似合ってるし」
「でもずっと着てられないわよね」
と、ナイフで背中のファスナーを切る。
彼女がナイフを手にする所は、その後の二人が辿る関係を暗示するようで、ちょっとゾクッとなる。

日本人女性は名をカホルといった。「ドレスを弁償したい」と言うベロニカに、カホルは
「じゃあ、そのかわりにロンドンを案内してくれる?」と。

あっという間にふたりは仲良くなった。ベロニカの方が英語はまだ話せる感じだが、ふたりは片言の英語でやりとりしながら、二階立てバスや遊覧船でロンドンの町を巡る。

カホルはロンドンに、好きになったカズヤという男を探しに来たのだという。
ベロニカは英会話教室で共に学んでいる、ケンという日本人男性と言葉を交わすようになり、二人は付き合い始めていたのだが、カズヤとケンが同一人物であるということは、ベロニカもカホルも、よもや知る由もなかった。


映画の題名には「少女」となってるが、ベロニカもカホルも少女という年齢ではないな。
メンタル的な意味合いでということだろう。

その二人の出会いとなる、ホテルの部屋の場面がまず良かった。
風呂場のバスタブの中で眠るカホルは、なにやらヴァンパイアのようでもあり、カホルはその理由を
「知らない土地のベッドでは落ち着いて寝付けない。バスタブの中が一番落ち着く」
と言い、ベロニカは「私も!」とそこで通じ合ってしまうわけだ。


「虫を殺す」ヒロインのカホルを演じてるのは川越美和。清純派としてキャリアを重ねてきた彼女が、この映画ではヘアまで見せるフルヌードも辞さず、このヒロイン役に賭けてる感じが伝わってきた。

彼女の身体は、失礼ながら女性にしては起伏に乏しいのだが、髪をショートにしてることもあり、
「両性具有」の雰囲気を醸し出してもいる。なので、ベロニカがすぐにカホルに心を通わせる感じもわかるのだ。

『風たちの午後』の生ゴミをまさぐる描写と、この映画の、見ず知らずの女の服を身につける描写にも、同じ官能の質を感じる。
ベロニカとカホルが、サウナのような場所で、素っ裸になって寝そべって語り合う場面は、天井から真俯瞰で捉えられており、アートっぽい絵面になってる。


一番いいと思った場面は、ずっとホテルの同じ部屋に滞在してるカホルを、ベロニカが起こす所。
もうバスタブではなくベッドに寝てるカホルを、清掃に来たベロニカがくすぐり攻めにする。
カホルはなにも着けてない裸の状態で、従業員服のベロニカに攻められて、身体をよじってる。ベロニカは執拗にくすぐり続け、カホルは手の甲に噛み付く。

時制は前後するが、ベロニカが手に包帯巻いて風呂に浸かってる場面があるんで、けっこう本気で噛まれたようだ。いやこの場面はエロかった。
女の子同士でこんな風にじゃれ合ってるのを4時間見せてくれてもいい位だ。

俺は「女の子がじゃれ合う」場面が「男が銃を撃ち合う」場面より、確実に好きなんである。
これは業という名の病である。愛という名の欲望である。

たしかこのベッドの場面は、カホルが地下鉄の通路でカズヤに再会して、セックスを交わす場面の後だ。その高揚は、カホルが、休日の市場で、連れ立って歩くカズヤとベロニカを、目撃してしまうことで、冷却されてしまう。
ベロニカはもちろんケンが、カホルの恋人カズヤだとは知らない。
そこであのベッドのじゃれ合いの場面になる。
なぜカホルが手の甲をあんなに強く噛んだのか、ベロニカはあとでわかるのだ。


まあしかし俺としては男女の三角関係になってからは、それまでのワクワク感はしぼんでしまった。
川越美和の「両性具有」ムードを生かして、男ではなく、もうひとり女を登場させて、
「女と女と両性具有」の三角関係にしてもらえたらな。


この映画はそもそも何で4時間半もかかるのかというと、登場人物たちが、会話を交わす場面より、それぞれが画面に向かって、インタビューに答えるような形式で話をする場面が多いのだ。
それと画面にかぶさる「独白」も多い。

この映画は全編ビデオカメラで撮影されており、その即物感といったものが、劇中の登場人物と、それを演じる役者たちの肉声(のように演出されてる)と、地続きのように感じさせている。
さらに劇中の登場人物は、そのまた劇中劇の『ジゼル』に関係が準えてあるという、虚と実が幾重もの「入れ子」構造のように組み立てられてるのだ。

川越美和はこの「肉声」の場面のしゃべり方が、普段しゃべりのようでいて、やはり芝居がかってるのが微妙な感じだった。
というより、俺はこういう形式があまり好きではないのだ。
まず画面に向けて語られてることが、ほとんど頭に残らない。

これは映画の側の問題ではなく、受け取る俺の問題なんだが、俺は映画のセリフというのは、わりと頭に残る方で、このブログでも印象的なセリフを書き起こしたりしてる。
だがそれは映画の中で、登場人物たちが会話を交わす、その芝居を通じてでないと、頭の中に定着しないのだ。40年近く映画ばかり見てきたせいで、俺の頭は「映画脳」になってしまってる。

なので現実の世界でも、人と会話してても、相手が何を話してきたか、後になってもほとんど憶えてなかったりする。よっぽど自分の興味のあるネタであれば別だが。
だからカメラに向けて、即ち自分に向けて語られるような形式のものは苦手なのだ。

多分『ジゼル』の内容とか、映画のテーマに関わる、自分の恋愛観や、死生観、家族の話なんかが語られてたと思うんだが。
最後の方に出てきたベロニカのバレエ団の団員が、ロンドンの夕日を眺めながら、「毎日この夕日が美しいと思う。そのために自分は踊ってる」みたいなことを語ってて、そこは印象に残ってるが。


俺は川越美和よりも、ベロニカを演じたニコル・マルレーネという女優に惹かれた。ルックスは美人ではあるんだろうが、とりたててという程ではない。
彼女の何がいいかというと、その動作だ。
最初の方でベロニカがホテルの部屋のベッドメイクをするんだが、それを黙々とこなす様子をカメラは捉えてる。
シーツを整えて、マットレスの下にはさむ様子とか、枕カバーをかえて、高さを均一に保つ動作とか、なぜかその仕事としての手さばきに官能を刺激される。

ベロニカにはお気に入りの場所が近所にあって、それは広場の銅像のある土台のスペースだ。
彼女は気持ちが沈むような時には、この場所に座ってじっと時を過ごしてる。銅像はバレリーナで、ベロニカはそのトゥーシューズの足裏をくすぐるように触れる。
ベロニカは「くすぐり好き」なんだね。くすぐるという行為は、性的な意味合いもこめられてる。

ベッドメイクであれ、銅像であれ、人であれ、彼女がその手触りに「生きること」への官能を探ってるように思えるのは、ベロニカが、自分の生命力があまり強くないことを意識してるからではないか。

ニコル・マルレーネという女優が、そのことを意識して演じてたかどうかはわからないが、俺には彼女から何かしら伝わるものがあったのだ。

バレエのコーチを演じてるのは、サイモン・フィッシャー・ターナー。ミュージシャンとして、デレク・ジャーマン監督の作品の映画音楽を手がけたりしてる。

カズヤを演じる太田義孝という青年は、英会話学校の生徒という設定だが、実際は英語に堪能なようで、ググッてみたら、現在は「海洋空間研究」というプロジェクトに関わってる研究者なのだな。当時は俳優業をしてたのか?
このカズヤがいつも同じジャケットを着てるんだが、赤と黒と白に分かれてて、なんかクラウス・ノミのステージ衣装みたいだった。キャスティングもユニークだ。

HDカメラではなかったと思うが、ビデオカメラでも美しい場面はいくつもあり、4時間という長い時間を使って、人間の動作をつぶさに捉えていくので、まったく間延びすることなく見ることはできた。

2012年7月7日

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バード・ウォッチングに金かかりすぎ [映画ハ行]

『ビッグ・ボーイズ しあわせの鳥を探して』

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俺の実家で昔から、ペットというと鳥を飼うことになっていて、鳥といえばインコで、インコといえばブルーボタンという種と決まってた。
一度、九官鳥を飼ったことがあったが、言葉は覚えるものの、毎日水浴びさせなきゃならないし、けっこう鳴き声が隣近所に響くし、手乗りにはならんしで、一代でやめた。

つい先だって、自分の住所を言えることから、無事飼い主の元に戻してもらえた、賢いセキセイインコが話題になってたが、ウチで飼ってたブルーボタンは、言葉は覚えないし、手乗りには一応なるが、気性が荒いんで、撫でようとすると噛み付いてくる。
それも「あまがみ」ではなく本気噛みなんで、何度も指が流血した。
しかしそばで眺めてるだけで、なんか楽しくなるのだ。
俺は「バード・ウォッチング」の趣味はないが、鳥を眺める楽しさはわかるんで、この映画の題材には期待を寄せてた。

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アメリカには「ビッグ・イヤー」という、バード・ウォッチャーなら一度は参加したいというイベントがあるという。
それは1月1日から12月31日まで、1年間の間に、アメリカ国内で何種類の鳥をウォッチできるか、その数を競うという競技だ。
証拠の写真や、鳴き声を録音したテープなどがあるにこしたことはないが、基本申告制となっており、「何月何日どこで見た」と参加者が言えば、それもカウントできる。
ゴルフと同じで参加者が紳士であるという前提に立ってるのだ。


3人の男が出てくる。オーウェン・ウィルソンが演じるのは、前回の競技で「732羽」という大会記録を打ち立てた「バード・ウォッチング」界のカリスマと称されるボスティック。
だが彼には成し得てない目標があった。
それはアメリカ国内に僅かに棲息が確認されてる「シロフクロウ」を見つけること。
今回こそはという思いがあった。美しい妻のジェシカの前でも、鳥の情報となると、気持ちは持ってかれてしまう。

スティーヴ・マーティン演じるスチューは、大会社のCEOであり、息子の嫁にも妊娠がわかり、初孫の誕生も近い。
だが彼も体力があるうちに「ビッグ・イヤー」に参加して、優勝したいという夢があった。

ジャック・ブラック演じるブラッドは原発で働くバツイチで、今は両親と同居の鳥オタク。
彼には鳴き声でその鳥を当てられるという才能があり、それは人の鳴き真似でもわかってしまうのだ。

「ビッグ・イヤー」に参加して、ボスティックに挑戦しようと5000ドルを貯めたが、まだ足りないので、父親に借金を申し出るが、「仕事も結婚もなに一つ続かないじゃないか」と、鳥の観察にうつつを抜かしてるように言われ、喧嘩となる始末。
ブラッドは10000ドルは必要と見積もってるから、日本円で80万円以上はかかるってことだ。


費用の大半は移動にかかる運賃だろう。金の問題だけではなく、バード・ウォッチャーには、それぞれ人脈があるようで、全米各地から珍しい鳥の目撃情報が寄せられる。
すると、すぐにでも荷造りして現地へ向かうということになるんで、時間にも融通が利くような生活を送ってないと無理だよな。
趣味の世界のこととはいえ、金と時間に余裕がないとできないことだ。

映画はボスティックに対して、ブラッドとスチューが共闘していくという構図で進められてくが、誰が優勝するのか?とか3人の観察数が画面でカウントされてく割りには、あまりスリリングに乗せられてく感じはない。
それは「生活者」からすれば道楽に見えてしまうからかもしれない。

アメリカ大陸は広大だし、鳥を追ってアラスカまで足を延ばしたりもするから、その変化に富んだ自然の美しさは堪能できるし、飽きずに見ることはできる。

だが肝心の「バード・ウォッチング」の楽しさが描き足りてない。
カメラが鳥を捉えても「あっ、見つけた!」で終わってしまって、その鳥のどのあたりが美しいのか、とか鳴き声をじっくり聞かせるとか、仕草の面白さとか、そういう部分にフォーカスしてかない。
主役は鳥ではなく、鳥に執り付かれた人間たちだからということなのか。

それとブラッド、スチュー、ボスティックと三者三様のバックグラウンドが描かれてるが、結局のところ「趣味はほどほどにね」という着地点を見出すにすぎないのだ。

だが「趣味」の世界というものは、往々にして人生を逸脱させてしまう「魔力」があるもので、「逸脱したっていいのだ」という、ある種の狂気めいた所にまで踏み込まないと、醍醐味を感じさせるには至らない。
思うにこの映画の製作者たちは、「鳥」にも格段興味があるわけではなく、人生引換えにして趣味に生きるってことも、考えてもみない人たちではないか?


ジャック・ブラック、オーウェン・ウィルソン、スティーヴ・マーティンという強力なキャスティングが組まれながら、全米興行では苦戦した。
その要因はまずこの顔ぶれなら、誰しもコメディ乗りを期待するはずだが、見てみると、弾けた要素はないのだ。
ジャック・ブラックは「オタク体質」というだけで、以前の傍若無人キャラはなりを潜め、ごくごく常識人を演じる大人しさだし、オーウェン・ウィルソンの人物像は、あまりに奥さんを省みなさすぎて、反感しか買わないだろう。

俺自身がミスキャストと思うのがスティーヴ・マーティンだ。まずCEOのスチューのエピソードが面白くない。彼は早いとこリタイアして「ビッグ・イヤー」に専念したいんだが、部下たちが常に彼の決定を待つ状態で、会社と鳥の現場を行ったり来たりを余儀なくされる。

以前のスティーヴ・マーティンなら、ドタバタぶりを体全体で表現して笑いをとっただろうが、なんかこの映画の彼は老け込んじゃってるのだ。コメディ役者としての覇気がなくなってる。
スティーヴ・マーティンじゃなくてもいいという演じ方で、逆に彼が出てるからと見に行った客は失望するだろう。

映画としてクォリティが低いわけではないのに、ヒットに至らなかったのは、観客の期待したものと、ちがうテイストに仕上がってたからだと思う。

映画のエンディング・クレジットと同時に、この記録更新となった今大会の、すべての「観察された鳥」がスチルで画面に次々出てきて、そこは楽しい。あの鳥はやはり写ってなかったな。

2012年7月3日

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「やられた!」って思う映画 [映画ハ行]

『ハロー!?ゴースト』

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都内では新宿武蔵野館で1日2回上映のみという韓国映画だが、多分いま公開されてる映画の中で、最も口コミで評判が広まってるのがこれじゃないか。

俺も『ハロー!?ゴースト』という、何の期待も抱かせないような凡庸な題名だし、チラシを眺めても、全然食指が動かなかった。だが韓流好きの知り合いが「これは絶対見るべき!」とプッシュしてくるし、たしかに方々で評判がいい。

この映画はハリウッド・リメイクが決定したとチラシには書いてあったが、そもそも映画の設定自体は、過去のハリウッド映画にあったじゃないかと、見る前は思ってた。
生死の境をさまよって生還した青年に、複数のゴーストが取り憑いてしまい、彼らの願いを叶えて成仏させないとならないって話。


1993年の『愛が微笑む時』は、バスの事故で命を落とした4人の男女が、ゴーストとなって、その現場で産まれた赤ん坊の守護霊となる。だが成人した主人公は利己的な性格となり、ゴーストたちは彼の前に出現して、純粋さを取り戻させようとする。主人公を演じてたのはロバート・ダウニー・Jrだった。

それよりさらに近い設定だったのが、2008年の『オー!マイ・ゴースト』
人づきあいを極度に嫌う主人公の男が、内科検診の麻酔ミスで、7分間の心肺停止に。蘇生するとともに、ゴーストたちが見えるようになり、現世との仲介役を求められて四苦八苦する。

この『ハロー!?ゴースト』もほぼそういう展開であり、際立って演出が上手い訳でもない。
だがサッカーでいえば、残り10分でハットトリック決めて、逆転勝ちしたみたいな、途方もなく鮮やかな着地を決めるのだ。
それまで笑いは起こるものの、いたって静かな場内に、さざ波のようなすすり泣きの音が広がっていった。


安ホテルの一室で、いままさに大量の錠剤を飲んで、自殺を図ろうとしてる青年サンマン。
彼は孤児院で育ち、面会に来る大人で、サンマンと呼んでくれる人は一人もいなかった。
天涯孤独な上に、つい最近仕事もクビになった。生きてても希望もないので、自殺しようと思うのだが、なぜかうまくいかない。

錠剤の服用も失敗に終わり、朦朧としたまま、今度は川へ身を投げる。
だが丁度通りかかった警察の船に救助される。

病室のベッドで意識を取り戻したサンマンの前に、見慣れない顔ぶれが。
太っちょでヘビースモーカーの中年男。
美人看護師のヒップをガン見するのが楽しみの、呑んだくれじいさん。
なぜかロッカーの中で泣いてるアラサー女性。
ベッドで飛びはねてる子供もいる。
病院のスタッフの誰もが「そんな人どこにいる?」という反応を見せる。

この4人は自分にだけ見えるのか?
ゴーストに取り憑かれてしまったと思ったサンマンは、霊媒師を訪ねる。
なんとか取り除いてくれと頼むが、霊媒師は
「霊をあの世に送り出すような力はない」ときっぱり。

ゴーストたちを成仏させるには、この世に未練を残してることを解消してやるしかないと言う。
自殺すらする暇もなくなり、サンマンは、しぶしぶゴーストたちの願いを叶えるために奔走することになる。

その過程でサンマンは、シングルマザーで美人の看護師ヨンスと知り合う。
ヨンスの父親は彼女の勤める病院のホスピス棟に入院していた。彼女は父親にはきつい調子であたり、サンマンはやがてその理由を知ることになる。

生きる希望もなかったサンマンは、ヨンスに惹かれていく中で、人を愛するという気持ちに目覚め、ゴーストたちとの「共同生活」を通じて、生きる意欲が湧いてくる。


この映画はこれ以上あれこれ書くのは野暮だろう。ゴーストたちの願いを叶えてくことが、意味があることだとわかった途端に「すすり泣き」が広がったのだ。

「映画の日」で休日ということもあり、ほぼ満席に近かった。
新宿武蔵野館でいえば、最大キャパの「シアター1」でかければいいのにと思うし、もっと公開劇場も増やせばいいのにとも思う。

しかしこれは金がかかるわけではないし、ほんと着想の勝利なんで、まだまだゴースト・ファンタジーも作りようがあるんだなあと感服したよ。

2012年7月1日

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アシュレイ・ジャッドのタイトスカート [映画ハ行]

『フライペーパー!史上最低の銀行強盗』

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都内では渋谷「シネクイント」1館でのレイト公開という、「首の皮一枚」繋がったような劇場公開作だが、これを見に行った理由は「アシュレイ・ジャッドが出てるから」という、その一点買いだ。

また便乗タイトルかと思いきや、『ハングオーバー!消えた花ムコと史上最悪の二日酔い』の脚本家が書いた新作なんで、このタイトルを名乗る権利はあるわけだ。

いつもシネコンのレイトを見に行くと、客が4,5人なんてザラだから、これも閑散としてるんだろうなどと、勝手に想像してたが、上映前には30人位は入ってたよ。立派なもんだ。
『ハングオーバー!』効果なのか、主演のパトリック・デンプシーという、『クレイズ・アナトミー』効果なのか。
劇中一番笑ったのは、そのデンプシーに
「愛は金では買えないんだよ」
ってセリフを言わせてる所。
彼のファンなら元ネタはすぐにわかるだろう。


転職してきて2ヶ月目という、窓口係のケイトリンの前に、100ドル紙幣を小銭に両替してほしいという、妙な男トリップが現れる。
両替の仕方をコインごとに正確に暗算して告げる。しばらく聞いていたケイトリンは、
「そのコインの枚数ってすべて素数よね?」
と返す。トリップは「銀行窓口」とはいえ、ケイトリンの数字の強さに驚く。

トリップは彼女を気に入り、なにかと話しかけようとする、その時、閉店間際だった銀行内に、武装した強盗が押し入ってきた。

5人いるが、明らかにタイプが二分してる。3人は完全武装し、マスクもしてるから顔もわからない。
サブマシンガンのような銃器を手に、SWATなみの出で立ちだ。
あとの二人は明らかに「ちょっと銀行でも襲う?」くらいの軽い乗りで銃を手にしてる。

行内は、行員も客も騒然となるが、一番動揺してるのは、2組の強盗たちだった。
しかもその騒ぎのさなかに、ロビーにいた男性が何者かに撃たれて死んだ。強盗たちは互いに
「撃っちゃいない!」
と言いあってるし、しまいには互いに銃を向け合った。

その緊迫の場面に、なぜかトリップが、ノコノコと間に分け入った。
「とりあえず、ちょっと集まろう」

肝っ玉がデカいのか、バカなのか、強盗たちは呆気にとられるまま、結局トリップの回りに集まった。
トリップは強盗たちの狙う物を聞いた。
武装3人組は、奥にある金庫を、カジュアルな2人組はロビーにあるATMを壊すつもりだった。
トリップは言った。
「金庫とATM、互いに狙うものが違うんなら、揉める必要はないよね?」
「ここは、気にせずにそれぞれの仕事をしたらどうだろう?」

なんでテメエがしゃしゃり出てくるんだよ!とトリップはボコられるが、まあそれも一理あるということで、強盗たちはそれぞれの持ち場につくことに。


強盗発生とともにセキュリティが作動し、外に通じるすべてのドアがロックされ、銀行は巨大な密室となった。
行員と客はひと部屋に集められた。
支店長とマネージャーを差し置いて、ここでもトリップが場を仕切り始める。
ケイトリンは「何者なの?」と見つめてるが、トリップは、数字の暗算のほかにも、並外れた観察力を持ってるようで、強盗発生時の銀行ロビーの様子を事細かく再現できた。

まるで「シャーロック・ホームズ」かのような、トリップの推理力により、ロビーで男性を撃ったのは、強盗たちではなく、まだ誰か銃を持った人間が行内に残ってる可能性が出てきた。

トリップは部屋の天井に、ダクト用の天蓋があるのに気づき、周りが止める声も聞かずに、天井に昇ろうとする。
そんな時、ATM狙いの二人がやらかした。ピーナッツバターとジェリーと呼び合う2人組は、いきなりATMにプラスチック爆弾を仕掛け、1台が爆発。何事かと強盗勢揃い。
「予告もせずに爆破すんじゃねえ!」
とまた一触即発に。

しかし2組の銀行強盗が、同じ日に、同じタイミングで強盗に入るなんて偶然があるのか?
トリップはその謎についても推理を働かし始めた。
そして強盗たちの断片的な発言などから、2組の強盗が同じ情報によって、計画の実行に動いてたことがわかる。
この日、銀行ではコンピューター・システムの入れ替えが行われる予定で、新たなシステムに移行するまで「空白の2時間」が生まれるということだった。
つまりその間はセキュリティも含め、すべてのコンピューター制御が無効になる。
強盗たちはその2時間を狙ってやって来たのだ。

だがその情報が自分たち以外にも流されていたことは予想外だった。
そして彼らに情報を流した者こそが、この銀行強盗劇の真の目的につながる存在であり、それは意外な立場にいる人物だった。

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『ハングオーバー!…』の脚本家の映画というんで、多分見に来た人はコメディ乗りを予想してたんだろうが、けっこう死人が出るんだよね。気楽に笑ってみようとするには血生臭い。
テンション高めの芝居でどんどん局面を進めてくが、落ち着いて考えると粗も目立つ。

俺が一番の疑問だったのは、黒幕の存在があるのはいいとして、「FBI最重要手配犯」リストのトップに挙がってるような人間が、映画の真相となるような立場に、どうやって就いてたのという点だね。

武装強盗の3人組の方は知ってる役者がいなかったけど、ピーナッツバターとジェリーを演じる2人は脇でよく見かける。
長髪にヒゲのピーナッツバターを演じるティム・ブレイク・ネルソンは、『オー・ブラザー!』が出世作だが、ホントに曲者という演技。そのバカっぽさが最高だ。

武装強盗側の人間に「俺のタトゥーはすごいんだぜ」と見せるんだが、腕の外側に鎖が描かれてて、その内側には鎖が切れてる様子が描かれてる。腕をひっくり返しながら
「捕まえられると」「思うなよ」
「捕まえられると」「思うなよ」
と何度も繰り返してイラっとさせてる。そこの場面は場内爆笑だった。
相棒の太っちょジェリーを演じるプルイット・テイラー・ヴィンスとともに、この二人がコメディ・リリーフとして機能してた。


さてお目当てのアシュレイ・ジャッドだが、まず俺は彼女のファン歴は長い。

1995年の東京国際映画祭で上映された『聖なる狂気』で初めて見て、可愛い顔なのに、目の下に荒んだ影を感じる、そのアンバランスに惹かれたのだ。

彼女が注目されるきっかけになったのは、1993年のインディーズ作『RUBY IN PARADISE』で、俺は輸入版取り寄せて見た。
夫との生活を捨て、祖母が暮らした海沿いの町で、新たな人生を送ろうとするヒロインが、どうにもうまく行かなくて、どんどん「負けていく」過程がシビアに描かれていた。
いい職に就けたのに、そこの女性オーナーの息子に言い寄られ、結局辞めることになり、町から離れた、白人女性などひとりもいないクリーニング工場で働くようになる。
全編ヒロインの日常を追うような作りで、アシュレイを愛でるための映画といっていい。

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輸入版買ったこの映画は、後にメジャー主演作『ダブル・ジョパディ』の公開時に、どこかのメーカーが便乗してリリースしたが、『ディープ・ジョパディ』などという、まったく意味の通らない邦題にされてて泣けた。

そのアシュレイも1999年の『ダブル・ジョパディ』あたりをピークに、その後は目立った役に就けていない。彼女は今年44才になるが、この『フライペーパー!…』では、胸元もあらわなブラウスで勝負してる。
俺の好きなタイトスカート履いてくれて、さすがの美熟女ぶりだ。

彼女を好きなのはルックスだけでなく、声質というか、その口調だ。
低めで落ち着いた調子で、きっぱりと言葉を発する。なんというか「たしなめられてる」感じがする。
俺は例えばメラニー・グリフィスみたいな舌足らずな口調は苦手で、「たしなめ」系にグッときちゃうのだ。
日本でいえば夏川結衣だね。

この映画でも銀行窓口の対応の口調がきびきびしてて、そこんとこはやっぱり好きだなあ。
なんか彼女が出てる割にはそんなに見せ場がないのも不満ではあるね。
彼女のもう1本の新作『イルカと少年』も、DVDがリリースされたから、早速見てみるつもり。

2012年6月30日


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弟チャーリーにも巡礼させたかったんじゃないか? [映画ハ行]

『星の旅人たち』

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フランスから、ピレネー山脈を越えて、スペインまでの800キロを、ひたすら歩く「聖地サンティアゴ巡礼」は、過去に2005年の『サン・ジャックへの道』でも描かれていた。

この『星の旅人たち』は、実際に敬虔なカソリック信者としても有名なマーティン・シーンが、巡礼の旅の途中で、不慮の死を遂げた息子の遺灰を抱いて、同じ道を踏破しようとする父親を演じるドラマ。
宗教的な臭みはなく、それぞれに思いを抱いて巡礼に臨む人々との交流を、マーティンの実の息子のエミリオ・エステベスが監督し、平易な筆致で綴っていく。

おせっかいだが憎めないオランダ人の大男と、DV夫のトラウマを抱えたカナダ人の元人妻、巡礼者のエピソードを、本にしようと目論むアイルランド人ジャーナリスト。
マーティン・シーン演じる70代の眼科医と、3人の旅の道連れが織り成すドラマは、やや図式的というか、際立った見せ場があるわけではない。
だがベタついた感傷に流されないので、後味は悪くない。

現在「ヒューマントラストシネマ有楽町」で上映してるが、水曜の「1000円鑑賞デー」とはいえ、ほぼ満席の入りだった。俺は舐めてたんで、15分前位に行ったら、もう席は前の方しかなかった。


ここでは映画の内容のことより、エミリオ・エステベスと、父親マーティン・シーンのことを書こうと思う。

『地獄の黙示録』はウィラード大尉の、徹底した「傍観者」キャラに惚れ込んで、1980年の初公開時には、テアトル東京はじめ、都内の映画館を5館くらい見て回った。
その公開の3年ほど前から「コッポラの戦争大作には新人が主役に抜擢されてる」と伝えられてた。
映画自体は遅々として完成を見ないので、その間にマーティン・シーンの出演作が、劇場やテレビ放映などで、次々に紹介された。

彼は当時日本では無名だったが、1973年のテレンス・マリック監督のデビュー作
『BADLANDS』に主演したことで、海外では知名度が上がってたようだ。
その作品が『地獄の黙示録』に便乗するような『地獄の逃避行』という題名で、TBSの深夜に放映されたのもこの時期だった。

以前にこのブログで紹介した『カリフォルニア・キッド(連続殺人警官)』や、敵前逃亡の罪で処刑された、実在の兵士を演じた『兵士スロビクの銃殺』などの、印象深いTVムービーもあった。
1967年に彼が脇役で出た『ある戦慄』も、「トラウマ映画館」の著者・町山智浩と同じように、俺もこの時期にテレビの深夜放映で見て衝撃を受けた。

劇場公開作においては、『地獄の逃避行』の設定を模した、『ふたりだけの森』が1977年に公開されてる。主演はリンダ・ブレアで、元はTVムービーの作品だ。
同じ年にはジョディ・フォスター主演の『白い家の少女』で、最後に毒を盛られて絶命する男を演じてた。『地獄の逃避行』で共演したシシー・スペイセクも当時十代で、マーティンは少女とばかり出てる「ロリコン系」役者みたいなイメージつきかねない感じだった。

俺はマーティン・シーンの70年代の出演作は、ロバート・ケネディを演じたTVムービー『十月のミサイル』に至るまで、劇場公開作もテレビ放映作も、すべて見てると言っていい。
なのでこの役者には思い入れがあるのだ。


いよいよ『地獄の黙示録』も公開となり、マーティン・シーンのキャリアも華やかになってくのかと思ったが、その後は目ぼしい主演作は続かなかった。
彼は『地獄の黙示録』の撮影時に、あまりの過酷な環境で心臓発作に見舞われ、生死をさまよう経験をしてる。役者としての仕事に疲弊してしまったようで、1980年代以降は、役者としての野心を感じられなくなった。

元々彼は「演技賞」的なものには興味がないのだ。『地獄の逃避行』で、サンセバスチャン映画祭で主演男優賞に選ばれた折りにも、受賞を辞退してる。
それは前年の1972年に『激怒』で共演したジョージ・C・スコットの影響に拠る所が大きかった。
ジョージ・C・スコットは『パットン大戦車軍団』でアカデミー主演男優賞に選ばれながら、それを辞退してたのだ。
「俳優は演技の優劣を競うために役を演じてるのではない」
という、その考え方にマーティンも共鳴したのだ。


長男のエミリオは、父親が疲弊してた時期の、80年代前半に、役者としてのキャリアをスタートさせてる。
ちょうど80年代青春映画ブームで「ブラッドパック」の一員として、すぐに人気を博すが、エミリオは「キレるとやばい」という若者を演じることを好んだ。
これは父親が『地獄の逃避行』で演じた殺人犯キットのイメージを追ってるのだ。

そして1986年には、早くも監督第1作で主演も兼ねた『ウィズダム/夢のかけら』を発表。犯罪をおかして逃亡するカップルという、『地獄の逃避行』にオマージュ捧げるような設定の青春映画になってた。

1996年の監督3作目の『THE WAR/戦場の記憶』では、父親マーティン・シーンと「親子」の役で共演を果たしている。戦場で心に深い傷を負った若い帰還兵の物語は、やはり父親の
『兵士スロビクの銃殺』につながりを感じる。
エミリオは役者としては、父親マーティンのキャリアを追体験するように、演じてきたのではないか。
そして父親のキャリアをリスペクトしてる。

2006年の監督5作目となる『ボビー』は、ロバート・ケネディが暗殺された当日の、アンバサダー・ホテルに居合わせた人々を描いた群像劇だが、ここでも父親をホテルマンとして出演させてる。

これは身内だからということではなく、前述した『十月のミサイル』で、父親マーティンが、ボビーを演じていたということを踏まえてのものだろう。
ちなみにマーティンは1983年のTVミニシリーズ『ケネディ』でJFKも演じてるのだ。
マーティン・シーン近年の代表作となった、TVドラマ『ザ・ホワイトハウス』でのバートレット大統領役など、今や「アメリカで一番、大統領が似合う役者」となった。

だが皮肉にもアメリカ国民としてのマーティンは、反核や人権問題などデモ活動の常連で、67回の逮捕歴を誇るような、「体制に楯突く」立場なのだ。

エミリオは『星の旅人たち』のパンフに掲載されてるインタビューの中で、80年代以降の父親の役者としてのキャリアは、家族を養うために、役を選ばず出たようなものが多く、それもあってベテランの職業俳優に見られてると述べてる。
マーティンの関心が役者業より、社会の問題に向いていったということもあるだろう。

エミリオとしたら、父親の、役者としての本領を示すような映画を作ろうという心積もりがあったようだ。ここまで父親を敬愛する息子がいるだろうか?と思うよね。


この『星の旅人たち』でエミリオは、母親の死後に父親と疎遠となったまま、旅先で不慮の死を遂げる息子を演じてる。
ロスで眼科医を営む父親は、旅先の地フランスを訪れ、息子がスペインのサンティアゴ大聖堂を目指す「巡礼の旅」の途中だったことを知り、遺体を火葬にし、その遺灰を抱えて、同じ巡礼の道を辿ることにする。
自分が監督をして、死んだ息子として出演し、実の父親に「父親」を演じてもらい、自分の遺灰を運ばせる。映画とはいえ、演じるマーティン・シーンは、どんな心境だったんだろうか。
エミリオは、父親の巡礼の旅の先々で、ふとした瞬間に幻影として父親の前に現れたりもする。

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これは映画だが、エステベス親子のプライベート・フィルムと言ってしまってもいい位だ。
その親子の絆の再確認ぶりは微笑ましくもあるが、同時に、ここに次男のチャーリーの影すらないのが、淋しくもある。
あんまりにも父親と長男の絆が強すぎて、次男はスポイルされたんだろうか?

だが父親と映画で共演を果たしたのは、チャーリー・シーンの方が早かったのだ。
それが『ウォール街』だった。
マーティン・シーンの唯一の監督作『ミリタリー・ブルース』で主役張ったのは弟チャーリーの方だった。兄のエミリオも自身の監督・主演作『メン・アット・ワーク』と『キング・オブ・ポルノ』の2作でチャーリーを呼び寄せてる。

近年、DV騒ぎや、売春婦との乱痴気騒ぎなど、私生活荒れ放題でキャリアも混迷の度を深めてる次男だが、父親マーティンは「もちろん家族として心配はしてる。だがチャーリーの問題は、彼自身が克服しなければならないことだ」とコメントしてた。

若い頃からファンキーな性分だったのか、だが俺はチャーリーが若い頃、主演映画のキャンペーンで来日した時のエピソードを憶えてる。
インタビューの中で、最近「詩」を書きためてると語ってた。
「で、その詩を出版しようと、いろんな出版社に見せに行ったが、どこからもOKの返事来なかった」
「僕はハリウッドで有名になったから、その名前でどこか飛びつくと甘く考えてたんだ」
「なので、自費で出版することにした」とのこと。

その記事を読んでた南伸坊がエッセイで、
「多分チャーリーの書いた詩とやらは、大したものではないのだろう。だがそういう話を率直に語って、自費で出すことにしたという、そんな彼を悪くないなと思う」と書いてた。

若い頃のそういったナイーヴな感性が、どういう経緯で、あんなファンキーなことになってったのか。
それが彼自身の内面の問題なのか、エステベス家にも関わってくる話なのか、わからないが、エミリオが『星の旅人たち』で本当に巡礼させたかったのは、弟チャーリーなのではないか?
それも映画ではなく、実際に800キロの道のりを踏破させて、もう一度自分の魂と対話してみろと。


そんなことも思いつつ、しかし『地獄の黙示録』で、それこそ魂の闇を覗き見るような旅に赴き、自らも命の危険にさらされたマーティン・シーンが、いま息子の手によって、魂に光を差すような旅にいなざわれた。
その「映画的」な帰結のドラマに、長年のファンである俺は感じ入るものがあったのだ。

2012年6月8日

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美しいシャーリーンむさいクルーニー曇ったハワイ [映画ハ行]

『ファミリー・ツリー』

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現在アメリカ映画において、比較的若い世代の監督で、語り口の上手さと、着想の面白さで抜きん出てる三人の映画に、すべて係わってるのがジョージ・クルーニーだ。

この『ファミリー・ツリー』のアレクサンダー・ペイン監督、『マイレージ、マイライフ』のジェイソン・ライトマン監督、そしてウェス・アンダーソン監督のストップモーション・アニメ『ファンタスティック Mr.FOX』では主人公のキツネの声を担当してた。
こういう監督のセンスを目ざとく見分けるプロデューサー的才覚を持ち合わせてる。

この映画も語り口は滑らかで、人物描写にはユーモアと皮肉がこもり、オアフ島とカウアイ島を巡るロケーションの美しさと、ハワイアン・ミュージック。とにかく気持ちよく乗せてくれる。

「常夏の島」と呼ばれるわりには、この映画では晴天の日があまり描かれない。映画の内容に沿って、そういう日を選んでるということではなく、実際ハワイは意外と曇ってたり、雨が降ったりする日が多いのだ。
俺ももう10年近く前になるが、この映画のロケ地にもなってた、カウアイ島のプリンスヴィル・リゾート・エリアのコンドミニアムに、1週間ほど滞在したことがあるが、けっこう雨に降られた憶えがある。


ジョージ・クルーニーが演じるのは、オアフ島に生まれ育った弁護士のマット。彼の系譜を辿るとカメハメハ大王につながるという、由緒ある血筋で、先祖から代々受け継いでる、カウアイ島の広大な土地を所有してる。
弁護士としての仕事も土地取引に関するものだ。
ハワイには土地の永久拘束を禁じる法律があり、所有していられるのはあと7年だ。
マットの親族一同は、その広大な土地を、大規模開発を計画する企業への売却を望んでいた。一部には自然をそのまま残すべきと主張する者もいたが、ほとんどの親族は、その売却益の恩恵に預かることを期待していた。
親族会議での投票で方針が固まるが、最終決定権はマットにあった。

その親族会議を控えて、突然のアクシデントがマットと彼の家族を襲う。
マットの妻エリザベスが、パワーボートのレースに参加中に事故に遭い、昏睡状態に陥ってしまったのだ。
仕事にかまけ、家庭を顧みることのなかったマットの人生は一変する。
次女のスコッティはまだ10才で、情緒不安定となり、学校でも問題行動を起こすように。
子育ては妻に任せきりだったマットは、スコッティにどう接すればいいのか途方に暮れる。

ハワイ島の全寮制高校に通わせてる長女のアレックスを、とりあえず家に戻すため、マットは次女とともに迎えに行くが、酒も麻薬も覚えたらしく、言葉遣いも荒れ放題で、マットはいよいよ頭を抱える。
「なんでこんなことに」
だがそれは自分が家族に関心を払ってこなかったからなんだが。

アレックスは家に戻っても反抗的な態度を崩さないし、母親の見舞いに行こうともしない。仲のいい母娘だったのに、前年のクリスマスに喧嘩して以来、アレックスは母親と口も聞いてなかった。
マットは医者から告げられた事を娘に話した。

「母さんの意識はもう戻らないだろう。生命自体もそんなに長くは持たないそうだ」
マットはまだ息があるうちに、身内の人間にお別れをさせるために、病院に来てもらうよう、方々に連絡するつもりでいた。
だからなぜ娘が見舞いに行こうとしないのか、理由がわからなかった。
問い詰めるとアレックスは思いもかけないことを言い出した。
「父さんは何も知らないのね」
「母さんは浮気してたんだよ!」

クリスマス前にその現場をアレックスは目撃し、母親を責めたことが喧嘩の原因だったのだ。

マットには晴天の霹靂だった。矢も立てもたまらずに、マットは家を飛び出し、近くに住むエリザベスの親友夫婦の家に上がりこみ、妻の浮気の真偽を問い質す。妻は離婚まで考えていたようだった。
相手の男の名前を聞き出したマットに、やるべきことは一つだった。
長女のアレックスもそれに加わるという。
バラバラだった父親と娘たちが、予期しない結束へと動き始めていた。

ここから先はいつにも増して物語の核心部分に触れてるので、まだ見る前であれば、読まないでおいてほしい。この映画を語るには、物語の畳み方に言及しないわけにはいかないからだ。


マットは浮気相手の男が、カウアイ島のコテージに滞在してることを突き止める。
マットは長女アレックスと、「彼といれば私はいい子にしてるよ」と言われ、仕方なく同行を許したボーイフレンドのシド、次女のスコッティと共に、旅行に来てる風を装い、丁度海岸に出てきた浮気相手の妻と、二人の小さな息子たちに接近する。妻に何気なく声をかける。
「互いに子育ても大変ですよね」などと。

浮気相手の男はブライアンという名だ。ブライアンの家族が滞在してるコテージは、マットの親族がオーナーだった。
そしてその親族とブライアンが懇意にしており、今回の土地の開発業者側の斡旋を担当してるのが、他ならぬブライアンだということを、妻との会話からマットは引き出した。

海岸で話しをしたその日の晩に、マットは長女とともに、ブライアンのコテージへと乗り込む。ブライアンの妻は昼間に会った人ということで、快く迎え入れたが、後から出てきたブライアンは、マットのフルネームを聞き、顔を引きつらせた。
長女のアレックスが機転を利かせ、妻にコテージの中を案内してもらうと言い、マットとブライアンはキッチンで一対一で向かい合う。

ブライアンは謝罪しつつも、エリザベスが離婚を考えてたのは本当だと言った。だが自分はやはりこの家族を捨てることはできなかったと。マットは問い詰めた。
「エリザベスに近づいたのは、土地のことがあるからじゃないのか?」
ブライアンは言葉を濁した。
「あんたはエリザベスを愛してたのか?」
「いや…愛してはなかった」
マットは「妻は昏睡状態だ。もう長くはない。あんたにも妻に会ってやってほしいんだよ」

この時、ブライアンの妻は話を聞いてないから、マットが浮気相手の家族の前で、すべてを暴露したわけではない。
だがエリザベスの病室に見舞いに来たのは、ブライアンではなく、彼の妻だった。
明らかにあの時、夫が動揺を示したので、何があったのか問い詰めたという。
その結果「私の家族はボロボロになってしまった」と。


マットはブライアンの勤め先は既に突き止めてたわけだから、家族の元に顔を出さなくても、ブライアンに直接会えば済む話だったはずだ。

マットは親族会議で、投票では多数が開発業者への売却を支持したにも係わらず、売却を辞め、所有する期間内に、大自然を保全する道を模索するという決定を下す。
それはマットが自分のルーツに目覚め、その遺産を受け継いでいくことの尊さからの決定というより、開発業者への売却することで、妻の浮気相手に、莫大な仲介手数料が入ることを阻止するという理由からなのは明らか。

なのでマットと娘たちが、カウアイ島の美しい海岸沿いを一望できる「所有地」に立って、「この景色を失くすべきではない」という心境の変化に係わる場面の説得力がなくなる。

ブライアンの浮気の理由もいまいち明瞭さを欠く。エリザベスが、土地の所有権を有しているならともかく、彼女はマットの妻というだけで、そのエリザベスと「いい仲」になった所で、それがマットの決定に影響を及ぼすなんて保証などないだろう。
逆に浮気がバレるリスクの方が高い。実際アレックスに現場を押さえられてるんだし。

妻の浮気相手を突き止めるという一連の行動を通して、父親マットと娘たちはコミュニケーションを図ることができ、家族が修復へと向かうことになったが、それとひきかえに、もう一つの家族は大きなダメージを被ることになった。
「浮気された家族には当然の権利の行動」とマットは思ってたかも知れないが、そもそも妻が浮気に走った要因は、家族を省みなかった夫にもあるのだ。
相手の家族がいない場所で、ブライアンに「浮気はバレてるぞ」と告げて、制裁として、売却話を反古にする。
それで十分ではなかったのか。

ブライアンもそれだけ痛い目を負えば、深く反省もするだろう。
だが家族を壊されてしまっては遺恨が残る。
弁護士というにしては、マットのやることはスマートとは言えないな。

娘ふたりとソファーで、アイスクリームを分け合いながら、テレビを見てる場面で映画は終わるが、自分たちがした事が及ぼした苦い後味を、アイスの甘さでかき消してしまうようで、見てる方はスッキリしないのだ。


ジョージ・クルーニーはね、まあジョージ・クルーニーじゃないの?いつもの。
長女アレックスを演じたシャイリーン・ウッドリーがいい。
俺は内外のテレビドラマをほとんど見ないから、彼女がテレビ界ですでに注目浴びてる存在とは知らなかった。美人だし、感情表現が滑らかというのか、こみ上げてきて涙目になるあたりの芝居にあざとさがない。

彼氏のシドを演じたニック・クラウスも面白い。言葉遣いもぞんざいで、アホっぽいし、こんなのが彼氏なのかと、マットは最初はげんなりしてるんだが、それでも行く先々に付いて行ってる。

意外といい奴なのだということは、行動を共にするうちに分かってくるんだが、マットがこの若い男を拒絶したりしなかったのは、実はマットは「息子」がいればよかったのにと、思う部分があったからじゃないのかな。
なんとなく家族と距離を置き、仕事にかまけてきたのも、家族の中に息子がいれば、という思いが拭えなかったのかも知れない。

妻の浮気相手ブライアンを演じてるのはマシュー・リラード。久々に顔を見たが、相変わらずインパクトあるね。
なんか彼の持つ「ウサン臭さ」はケヴィン・ベーコンに通じるものを感じるんだよな。

いがみ合う父親と娘が、刑事ものの定番パターンである「バディ(相棒)ムービー」の関係性に倣って、行動してくという作劇の面白さがあるだけに、結末のつけ方にはどうも困り果ててしまう俺なのだ。

2012年5月25日

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洗車してくれキャメロン・ディアス [映画ハ行]

『バッド・ティーチャー』

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昨日コメントした『ダーク・シャドウ』に続き、「洋楽おやじ向けエクスプロイテーション映画」なのか?と思わず身を躍らせるのがオープニング。
タイトルバックに流れるのは、1980年代初頭に、ニック・ロウとデイヴ・エドモンズが組んだポップロックバンド、ロックパイルの『ティーチャー、ティーチャー』ではないか。
先生が主役の映画だからという、ごくベタな選曲ではあるが、この曲は全米ではトップ40にも入ってなかったんだから、渋いとこ突いてきたと言える。

あとキャメロン・ディアス演じる女性教師エリザベスが、教師たちのパーティに出る場面で、 1982年の「一発屋」トミー・ツートーンの『ジェニーズ・ナンバー/867-5309 』がかかってた。
この曲はディアブロ・コディが脚本書いた学園ホラー『ジェニファーズ・ボディ』でも、ヴァンパイアたちが鼻歌で唄ってた。アメリカ人には意外と愛着持たれてるんだな。
ちなみにエンディングはジョーン・ジェットによる、イギー・ポップの『リアル・ワイルド・チャイルド』のカヴァーだった。

『ヤング≒アダルト』『ブライズメイズ…』に続く「しょーもない女」シリーズ3部作と呼びたいこの『バッド・ティーチャー』だが、3本中最も中身がない。

これはケナしてるわけじゃなく、キャメロン演じる女性教師について潔いくらいに、人物の背景が描かれないからだ。
『ヤング≒アダルト』のシャーリーズ・セロンは、勘違い暴走キャラだったが、その人生になんとも言えない寂寥感が漂ってもいた。
このキャメロン・ディアスには、その人物像に思い入れる要素がなく、というより、ハナからそんな見方を拒否してるような佇まいがある。
『ニッポン無責任時代』に始まる一連の「無責任男」を演じた植木等と同じように、人物の背景などなく、ただ周囲を振り回す「キャラクター」として存在してるのだ。

近年のアメリカン・コメディの主流である、ジャド・アパトーの一派が描く、下品で下ネタも満載だけど、最後にはホンワカとさせたり、ある種の教訓を含んだりという、そういうソフト・ランディングを考えず、ひたすらドライな展開に終始してる。


とりあえず、よく採用されたな、と同時によく免職にならんなと、笑っちゃうくらいやる気がない。
公立の中学教師だが、金持ちの御曹司捕まえてるんで、結婚に漕ぎつければ、教師なんぞさっさと辞める構え。だが御曹司の母親は、息子の金でガンガン買い物してるエリザベスが、玉の輿目当てと見抜き、結婚はご破算に。
学校の同僚から一応お別れパーティを開いてもらったものの、同僚の名前も満足に憶えてなかった。
仲間に入るつもりもなかったからだ。
だが玉の輿が失敗に終わり、学校に舞い戻ることに。
エリザベスに気がある体育教師ラッセルは歓迎するが、やたら授業に情熱を燃やす同僚のエイミーとは露骨に敵対する。

エリザベスは新学期の授業の初っ端から、「学園映画」をただ見せるだけ。
一応評価の高い映画を選んでいて、エドワード・ジェームス・オルモスが、荒れた生徒たちと真摯に向き合う教師を演じた『落ちこぼれの天使たち』や、モーガン・フリーマンが校長を演じた『リーン・オン・ミー』、ミシェル・ファイファーが熱血教師を演じた『デンジャラス・マインド』など、エリザベスとは似ても似つかない、立派な教師たちを描いた映画を、生徒に見せてるのが可笑しい。

エリザベスは授業よりもファッション誌のチェックに余念がなく、自己評価も「10点満点で8点」と言い切る。
その足りない2点はバストなのだ。彼女の唯一のコンプレックスであり、
「玉の輿を狙ってバービー体形の女と張り合うのは大変なのよ」
と言ってる。そこに千載一遇のチャンス到来。
イケメンの代理教師スコットと出会う。エリザベスが目ざとく、彼の腕時計が「ジャガー・ルクルト」であることをチェック。それをスコットに告げると「その一族の身内」だと言う。
「玉の輿キターーーー!」
がっちり押さえるにはあとは豊胸手術あるのみ。だが手術代は半端ない。


生徒たちの課外活動の「洗車アルバイト」に目をつけたエリザベスは、「見本をみせてあげる」と、超短パン、ヘソ出しルックで、泡まみれの洗車ショー開始。
たちまち周囲の車が殺到し、課外活動は大盛況に。
エリザベスは洗車代からちゃっかり着服するが、それをエイミーが目撃し、ただちに校長に報告。
だが課外活動で今までにない売り上げを収められたと、校長はエイミーのチクリには耳を貸さない。

エリザベスはさらに耳よりな情報を手に入れた。共通一次テストで最も成績の良かったクラスの担任には、ボーナスとして5700ドルがもらえるという。
エリザベスの授業内容が一変した。もう映画はなしだ。スパルタで目指すは共通一次トップの成績。
だが予備テストをやらせると惨憺たる成績に。
「こんなことだからジャップに負けるのよ!」
エリザベスは考えた。
「そうだ、共通一次の問題集が事前に手に入ればいいんだわ」

どうもスコットはあろうことか、天敵エイミーに心が動いてるらしい。
「彼女の授業に対する情熱に打たれる」と。だが本当のところは、エイミーの胸元にあるようだ。
エリザベスは見てくれにおいて、エイミーに劣る部分などないと思ってる。だが1箇所だけ。
エイミーは明らかに自分より胸があるのだ。一刻も早く手術をしなければ。
エリザベスの違法な「課外活動」が加速した。


この映画は他の映画とカブる場面がある。スコットを演じるジャスティン・ティンバーレイクが、教師たちで組んだバンドのお披露目ライヴに出るくだり。
この時点でスコットはエイミーに惹かれており、自作の曲を彼女に向けて唄う。ギターの弾き語りなんだが、微妙にヘタ。本職のジャスティンがわざとヘタに唄ってのが聴きものなんだが、この場面は
『ヤング≒アダルト』で、元カレの奥さんが組んでるバンドが、地元のクラブで演奏する場面を連想させる。
あの場面では元カレが昔シャーリーズに贈った「お気に入り曲」の自作テープに入ってた曲が演奏されて、今の奥さんが「夫から送られた曲なんです」と言ってた。
あの時のシャーリーズとおんなじような表情を、キャメロンもしてたよ。

あと結局エイミーとつきあうことになったスコットが、本来彼女と一緒に行くはずだった、泊まりがけの研修に、エリザベスが代理で行くことに。いつもエイミーがかじってるリンゴに細工をして、彼女が行けなくなるように仕向けるんだが、もうスパイなみの仕業だよ。

それで、研修先のホテルでエリザベスは果敢にアタック。スコットはエイミーを裏切られないからと、服を着たままの「エア・セックス」を了承する。
エマ・ストーンの『小悪魔はなぜモテる?』にあったね「エア・セックス」の場面が。
だがこっちのはちょっと描写がアダルティで、実際はしてないにも係わらず、スコットはジーパンの中で射精。ジーパンから染み出してる。
ジャスティン・ティンバーレイクも元は音楽界のスーパースターなのに、ここまでやっちゃうか。


キャメロンは『メリーに首ったけ』『クリスティーナの好きなコト』など、下ネタ耐性は抜群の女優だから、今回も際どいセリフ満載だが、カラッと決めてる。
スコットを最初に見た時の「顔の上に跨りたい」ってセリフも凄かったが。
しかもこの二人、実生活で4年付き合ってたんだから、セリフも生々しいよな、考えてみれば。

だがキャメロンやジェスティンよりも、この映画で目立ってるのは、エイミーを演じたルーシー・パンチという女優。
「超イラつく」キャラなのだ。生徒たちの前ではハイテンションで授業を進めるんだが、その空回りぶりに、生徒たちは呆気にとられてるのみ。エリザベスを追い出すため、校長を動かそうと必死だが、逆にたしなめられる。
「2008年のようなことになってもいいのか?」
と校長に言われてるんで、なにかエイミー自身もやらかした過去があるんだろう。
そのトラウマが表情に出る。
「口をそんな風に動かすのはやめなさい」
と校長に言われる時の口の動きが最高に可笑しい。

エリザベスは何一つ正しい行いをしてないにも係わらず、エイミーみたいな女は叩きのめされればいい、と見てる方に思わせてしまう。そのくらいキャラが立ってる。
見てなんの教訓も得られないが、そのサバサバした感触が俺は気に入った。

2012年5月22日

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ギャグセンス抜群のクリステン・ウィグ [映画ハ行]

『ブライズメイズ 史上最悪のウェディングプラン』

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コメディを見る時、そのクリエイターの映画が初めてのものだった場合は、どういうギャグの発想があるのかを楽しみにしてる。
それで自分にとって「あたり」か「はずれ」かわかるからだ。

この映画の最初の方に、クリステン・ウィグ演じる主人公のアニーと幼なじみのリリアンが、公園でエクササイズに励んでる場面がある。なぜか太い木の陰で行ってる。
離れた芝生の上で、ブートキャンプ乗りの黒人インストラクターが、生徒たちに檄を飛ばしてる。
アニーとリリアンは、そのエクササイズの方法を盗み見ながら腹筋とかしてるのだ。
それをインストラクターに見つかり
「おい!タダで真似てるんじゃない!」
と怒鳴られると、ダンスの振りしてごまかす。
「公園でダンスするんじゃない!」
そのダンスの振りが人を舐めきったような感じで。

多分テレビの通販番組のエクササイズ商品とか見ながら発想したんだろう。
「なに高い金払って痩せようとしてんのよ」って。こういうギャグの発想は出そうで出ない。
この場面で大笑いしたんで「これは大丈夫、俺楽しめる」と映画に乗れた。


アニーの母親をこれが遺作となった、70年代女性映画のヒロイン、ジル・クレイバーグが演じてる。この母親は「アル中患者の会」に参加してる。アニーは
「なんでお母さんアル中でもないのに参加してるのよ」
「なるといけないと思うからよ」
このやりとりも可笑しい。

アニーは手作りケーキの店を出したが失敗、貯えも無くなり、母親の口利きで宝石店で働いてる。
恋人にも振られ、金持ちのセフレがいるだけ。
この先も共に独身と思ってたリリアンに婚約を決められ、真近で幸福の絶頂の顔を見させられる。気持ちもささくれ立つわ。

宝石店に婚約指輪を買いにきたアジア系のカップルに
「永遠の愛なんてないわよ」
「あなた彼氏になんの疑いも持たないわけ?」
「彼氏アジア系ですらないかもよ」
と言いたい放題だ。当然店長にたしなめられ
「永遠の笑顔をつくってみろ」
「それじゃあせいぜい4日分だ」
他の店員が見本をみせる。笑顔というより、恍惚とした表情だ。アニーもそれを真似てる。
ここもひたすら可笑しい。


アニーはリリアンからブライズメイド(花嫁介添人)のまとめ役である「メイド・オブ・オナー」の大任を仰せつかる。
婚約披露パーティは盛大なもので、金持ちの臭いがプンプン漂うのは主に、花婿側の人脈だった。

特に花婿の上司の妻ヘレンは、ひと目見た時から「いけ好かない」オーラを発してる。
美貌ではアニーは負けてる。
婚約披露の席での、友人代表スピーチで、アニーはごくシンプルに、花嫁へのエールを述べた。するとヘレンがマイクを奪い、妙に上手いスピーチでリリアンを涙ぐませる。

ちょっと待てと。最近知り合いになったばかりだろ?

こっちは子供の頃からのつきあいだと、またマイクを奪う。延々続くマイクパフォーマンス合戦。
ついに言うことがなくなり、アニーが出し抜けに歌い出したのは、結婚ソングの定番
『ザッツ・ホワット・フレンズ・アー・フォー♪』
なんとそこにもヘレンが割り込んでデュエット状態となるオチが。

ブライズメイドは、兄貴が大嫌いという、花婿の妹メーガンを含む計5名。
式に着るドレス選びに、ヘレンが顔が利く超高級ブティックへ。だが直前にアニーおすすめのブラジル料理店で出された肉に、ベジタリアンのヘレン以外全員が食あたり。
ブティックのトイレは阿鼻叫喚の場と変わる。

ウェディングドレスを着たままのリリアンはなぜか外に駆け出してしまい、道路の真ん中で力尽きる。
アニーの車の助手席で顔面蒼白のリリアン
「私、道路の真ん中でウンコ漏らしちゃったあああ」
「よくあることよ」
…犬ならな。


この映画に限らず最近「体内からいろんなものブチまけ」系の描写が目立つのは、アメリカ人のマイブームなのか?
ヘレンに「あなたは大丈夫なの?」と見据えられ「私はなんともないわよ」と便意を我慢するアニーの顔から、油汗が吹き出てる。そうだそうだ、これは辛いぞ。
ラッシュの電車の中で急な腹痛に見舞われた時とかな。そんな時に限って急行だから、中々駅に停まらない。
だから俺はカバンの中に「ストッパ」を常備してるのだ。

アニーはリリアンのために、なんとかメイド・オブ・オナーとして頑張るんだが、天中殺に入ってるのか、やることなすこと裏目に出る。独身最後の旅行も、自分の案は却下され、ヘレンがラスベガス行きを決めてしまう。

ミルウォーキーからベガスまで飛行機だ。アニーは飛行機がダメなのだ。
恐怖を酒で紛らわそうと、さらにヘレンがくれた薬との相乗効果か、機内でアニー大暴れ。
5人全員がワイオミングの空港で降ろされる。ベガスまで地図で見ると丁度中間あたりだな。
シカゴ行きのグレイハウンド(バス)の車内で、リリアンから「メイド・オブ・オナー」の解任を告げられた。

男たちの独身最後の旅行を描いた『ハングオーバー』と同じようにベガスでの大騒動が描かれるのかと思いきやだったが、この機内の場面はけっこう長い。しかしここもかなり笑える。
実際乗り合わせたら『フライトプラン』のジョディくらい迷惑千万ではあるが。


この映画で脚本も書いてる主演のクリステン・ウィグの表情芸が見事だ。ジム・キャリーのような極端な顔芸ではなく、微妙な感情のグラディエーションを表情に反映させてる。
だから見ていて、いたたまれなくなるんだが笑えるという。
しかし凄い才能の持ち主がいるもんだな。

アニーはとてつもなく豪勢なヘレンの自宅での「ブライダルシャワー」の席でついにブチ切れる。そのキレ方は『ヤング≒アダルト』のシャーリーズ・セロンを彷彿とさせるが、シャーリーズの場合は「思い込みの暴走」であり、自分が負け犬とは思ってない。
この映画のアニーは負け犬の自分にどっぷり浸かってしまってる。

リリアンだって、今までの人生と全然違った環境の人々の身内に突然ならなきゃいけない、そのプレッシャーを、アニーは思い遣れない。
壊れたテールランプがきっかけで知り合った、気のいい警察官ローズ(男です)とも素直な関係が築けない。
この映画を見て、アニーのダメっぷりに腹が立つという声が上がるとすれば、それこそ製作者側の目論見が当たったということだ。
「あなたは認めないかもしれないけど、こういう部分はきっとある」
というのが、アニーのキャラクターなのだ。


リリアンに絶交まで叫んで、その後に自己嫌悪に沈むアニーを、半ば力づくで叱咤する、花婿の妹メーガンを演じる、太めのメリッサ・マッカーシーは儲け役だが、「宿敵」ヘレンを演じるローズ・バーンが、今までにないような、アクの強さを見せて、インパクト絶大だ。
悪意はないのに、人をイラつかせずにおかないという、これは難しい按配の演技だったろう。


『ヤング≒アダルト』『ブライズメイズ…』そして公開待ちのキャメロン・ディアス主演『バッド・ティーチャー』と、いづれも「30過ぎて独身ですけどなにか?」なヒロインがこのとこ目立つね。
「開き直り」の気分の反映かもしれんが、裏を返せば「結婚」というステータスへの絶ちがたい価値観が、アメリカ人女性の中にあるんだろう。
そのわりにはバンバン離婚してるけどね。

こういう映画見てると「結婚生活」よりも「結婚式」を挙げるということが重要に見えてしまう。
「私にはこんなに友人がいて、友人にこんなに祝ってもらってる」
家族でも親戚でもなく「友人」というのが、この場合重要。
婚約披露パーティに始まり、いくつものイベントの過程で、自分の歩んできた人生を、肯定できる場なのかも知れない。

2012年5月11日

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バトルシップと基地のこと① [映画ハ行]

『バトルシップ』

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このコメント題にしたのは、海軍イケイケの戦争アクション『バトルシップ』と、偶然にも同じ時期に公開されてるドキュメンタリーがあるからだ。
『誰も知らない基地のこと』という題名で、渋谷のイメージフォーラムで上映中だ。
イタリアのドキュメンタリー作家が、なぜ米軍は世界40カ国以上に、計700箇所を超える駐留基地を展開してるのか?という疑問の答えを求めて、ピチェンツァ(イタリア)、ディエゴ・ガルシア(インド洋上の珊瑚礁の島)そして普天間(沖縄)に取材してる。
わざわざこの2作をセットでコメントしようというのは、ある種の予防線を張るということでもある。

俺は『バトルシップ』にすっかり興奮させられてしまって、もう2度見てしまったのだ。
最初は「ユナイテッドシネマズ豊洲」の最大キャパである「オーシャンスクリーン」で、初日に見た。海上の戦いを「オーシャンスクリーン」と名のつく劇場で見るのも洒落てると思った。
駆逐艦がこれだけ満身創痍で戦う映画も初めてのことで、熱気冷めやらず、次に「ワーナーマイカルシネマズ港北」の最大キャパの「ウルティラ」で再び堪能。もう一度見るとすれば「新宿ミラノ座」だな。

映画はアメリカ海軍が全面協力してるわけだし、米軍のPR映画の性格もある。海上での戦いを、陸から援護するような存在となる、義足の黒人退役兵が出てくるが、アメリカでは、戦争で手や足を失った元兵士のための、義手や義足の開発も非常に進んでる。脳から指令を送るだけで、指が動かせるような物まである。そういう側面のPRもなされてるわけだ。

まんまとPR映画に乗せられてしまったとも言え、そのままではいい大人としてバランスを欠くだろうと、勝手に配慮して、米軍のネガティブな部分も押さえてますよ、ってことなのだ。誰に対して配慮してるんだって話だが。


太平洋のハワイ沖で行われる、「リムパック(太平洋海軍合同演習)」の最中に飛来した、エイリアンの戦艦が、ハワイ真珠湾基地を含む一帯にバリアを張ったため、米軍2隻、自衛隊1隻の駆逐艦が、その中に取り残されてしまう。バリアの外側とは通信もできない。
しょーがないから俺たちだけで戦うぞという展開。
エイリアンの戦艦には装備で劣り、しかも海中を移動して、レーダーにも補足されない。ただ向こうも、なぜか相手に戦意があると分かるまで攻撃はしてこないという、紳士的な一面を持ってる。

ならばと、浅野忠信演じる、海上自衛隊駆逐艦「みょうこう」の艦長ナガタはひらめいた。
「津波ブイを計測するんだ」と。
津波を計測するために、ハワイ沖には無数のブイが設置されてる。潮位の変化を見ることで、津波を予測するためだ。
エイリアンの戦艦が海中を移動するとすれば、通過する地点のブイに潮位の変化が出る。バリア内だから、データも拾える。
ブイをディスプレイにマス目状に表示させ、潮位から敵戦艦の動きを予測して、ミサイルを発射する。

この時すでに「みょうこう」は撃沈されていて、ナガタはテイラー・キッチュ演じる、アレックスが指揮を執る、米海軍駆逐艦「JPJ」の司令室にいるんだが、アレックスはその作戦を認め、ナガタに艦長の椅子を譲るのだ。
その予測通り、エイリアンの戦艦の位置が赤く示され、ナガタはミサイル発射命令のタイミングを測る。
この場面の浅野忠信の緊張感に満ち溢れた表情がいい。
ハリウッドの役者たちに囲まれ、まったく遜色なかった。


「津波ブイ」をレーダーに見立てる作戦が、この映画の肝になってるのは、映画を製作してる玩具メーカー「ハスブロ」社の、対戦型ボードゲームを元にしてるから。アメリカ本国ではそのオリジンとなった紙のゲームは1931年に考案されてるそうだ。
対戦型ボードゲームとして日本に入って来たのは1967年。タカラが「レーダー作戦ゲーム」として売り出した。

レーダー作戦ゲーム.jpg

今のノートパソコンのように、蓋面と床面を使う赤と青のボードがセットになってて、2人で向かい合わせに座って対戦する。ボードを背中合わせに置いて、相手から見えないようにする。
蓋面がディスプレイ面、床面はキーボード面というのはパソコンと同じ。
その両面は透明プラスチックが張られていて、たしか10×10位のマス目が区切られてた。
マス目の座標部分は丸くくり貫かれている。
床面のマス目に開けられた穴に、戦艦や空母や駆逐艦などのミニチュアを無作為に差し込んでいく。
これが自陣の隊列のようなことだ。
ディスプレイ面の穴にはピンを刺すようになってる。

どう配置してるかわからない相手の隊列を予想しながら、「ビンゴゲーム」の要領でタテにABC、ヨコに数字が振り当てられた座標を、相手に申告して、ピンを刺してく。
その位置に船が置かれてたら、相手は「命中!」と答えなければいけない。
相手の船を先に全部沈めた方が勝ちというゲームだ。


俺もガキの頃買ってもらい、近所の子とよく遊んでた。
あの「レーダー作戦ゲーム」を、こんなスケールのデカい映画にしてしまったというのがたまらん。
あのゲームをやってる最中は頭ん中では、戦艦同士で撃ち合ってる場面が浮かんでたんだからね。

特に感激したのは、エイリアンの戦艦から放たれたデカい砲弾が、まず船体に突き刺さるように着弾する所。それから起動して爆発するんだが、「レーダー作戦ゲーム」でボードの上部にピンを突き立てて着弾とする、あれをわざわざ再現してるんだから。いや細かいのよ、こだわりが。


駆逐艦は英語では「デストロイヤー」と言うんだそうで、じゃあ何で「バトルシップ」という題名なのかという謎は終盤に解ける。
「それでかあ!」とここでテンション上がんなかったら、もう帰った方がいいと言う位なもんだ。
こっからは海の『スペース・カウボーイ』だもの。

エイリアンが飛来する時点でツッコむのも野暮な話なんだが、前提がまずね。
NASAが行った「ビーコン・プロジェクト」という、地球に似た条件の惑星へ信号を送って、反応を待つのが発端になってるが、そこは『スピーシーズ』と同じだ。
その信号を受けて「先遣隊」が来ちゃうわけだが、他の惑星に来れるような文明を持ってるなら、信号受ける前に、向こうから探して来てるんじゃないか?
それこそ『AVP』みたいに「マヤ文明はプレデターが作った」というように。
「どうぞお入りください」と招かれないと、家に入れない吸血鬼設定でもないだろう。

それよりこれだけ熱くなってしまうのは、この映画が「鉄最強!」で貫かれてるからだな。
こっちの海軍の武器がミサイル含めて「鉄」で出来てのは当然として、地球よりかなり高度な文明持ってるはずのエイリアン側も、ほとんど装備とか「鉄」だよね。「鉄」じゃなくてもいいと思うんだが。
カッキンカッキン、チャリンチャリン、ドッコンドッコン、ガシャコンガシャコンと、もう全編に渡って「鉄」の音が響いてるような映画なのだ。
映像もさることながら、「鉄」の音に身を浸す快感があるんだね。

男はどうも鉄とかメタリックなものに惹かれてしまう。女が宝石が好きなのと一緒だと思う。宝石をなぜ好きなのかとか、一々考えないよね。ただ美しい、キラキラしてる、まあ希少価値っていうのもあるけど。
男もなぜ鉄に惹かれるのか?一つには、「鉄」には大人の男の持ち物という感覚がある。
鉄でできてる物を、乗り物であれ、道具であれ、それを操れたり、身につけたりできるようになるのが、大人になるこという漠然とした憧れが、幼い頃から、心の中に備わってるんじゃないかと思うのだ。

テイラー・キッチュは、短絡的だがやる時はやるという、いかにもアメリカ映画のヒーロー像を体現してるが、彼はカナダ人なんだよね。
兄のストーンを演じるアレクサンダー・スカルスガルドは、『メランコリア』の時は線の細い印象だったが、海軍中佐を凛々しく演じてて、テイラー・キッチュより、女性の人気は高まるんじゃないか?
アレックスの部下の下士官を気合たっぷりに演じてたのはリアーナ。彼女の健闘はかなり大きいと思った。
面白いのは、海上の戦いの中心にいるのが、カナダ人、日本人、スウェーデン人、黒人女性と、アメリカの白人俳優が入ってないこと。
ハリウッドの娯楽映画も、少しづつ革新を遂げてきてるのか。

2012年4月27日

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