フィルムセンターで『コンボイ』 [映画カ行]

『コンボイ』

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この29日まで京橋の「国立近代美術館フィルムセンター」で特集上映されていた「ロードショーとスクリーン ブームを呼んだ外国映画」のラインナップの中の1作。

6本見た中で一番プリントの状態が悪かった。前半の方のリールでは、「バラバラバラバラ」というノイズがしばらく乗っかっていて集中力を妨げる。


1978年公開のサム・ペキンパー監督作。見るのはその公開時以来のことだ。
ラストの見せ場は憶えてたが、ほかはほとんど憶えてなくて、初めて見るような新鮮さで楽しめた。

70年代には大型トラックを転がすアクション映画がけっこう作られてたね。
バート・レイノルズの『トランザム7000』シリーズはその代表みたいなもんだが、ほかにもジャン・マイケル=ヴィンセント主演の『爆走トラック'76』とか、
ピーター・フォンダ主演の『ハイ・ローリング』とか。
『マッドマックス2』でもメル・ギブソンが、クライマックスのチェイスシーンでは、タンクローリー転がしてたし、スピルバーグの『激突!』も、タンクローリーの馬力と迫力を強烈に印象づけた。

久方ぶりにトラック野郎のアクションを見たのは1998年の『ブラック・ドッグ』だった。
主演は今は亡きパトリック・スウェイジ。
髪も短く刈って、ずいぶんと渋くなったなと思ったもんだが。
最近活躍の目立つ伊原剛志って、パトリック・スウェイジとカブる感じがある。

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俺は『リアル・スティール』が気に入ってるんだが、それはヒュー・ジャックマン演じる主人公が、大型トラックで移動してるからという理由もある。


この『コンボイ』では、クリス・クリストファーソン演じるラバー・ダックが転がす黒のMACKトラックをはじめ、船団(コンボイ)を組むようにハイウェイをトラックが連なってくのが壮観なんだが、アメリカのトラックはとにかく無骨なんだよね。

一時期日本でブームになった「デコトラ」とは対照的だ。
あのデコトラは、その精神的なルーツをたどれば、祭りの「山車(だし)」から来てるのだろう。
煌びやかな装飾の中に、自分がどこの土地の者かを示す地名なども書かれている。
思い思いの装飾で自分をアピールし、自分の土地を誇らしげにアピールする。
それは自分の故郷の祭りで「山車」を担ぐ誇らしさに通じてる。
日本のトラッカーたちは自分のルーツを背負ってると言える。

アメリカの陸送トラックのルーツはなにかと言えば、西部開拓時代の幌馬車隊だろう。
当時のアメリカ人たちには、ルーツとなる土地は、海の向こうの捨ててきた国だ。
もう戻ることもない。
幌馬車隊は、新天地でこれから「ルーツ」となる土地を探して旅をするのだ。

幌馬車隊はいつ襲撃を受けるかわからないから、馬車を煌びやかに飾るなんてことはできない。
祭りの「山車」と違って祝祭とは無縁の、無事目的地に着くための、無骨な装いとなってる。
その精神が、現在のアメリカのトラックの風貌に引き継がれてるんじゃないか?

なので、この『コンボイ』も、ペキンパーが撮ってるということ以前に「西部劇」の再生となるのは必然だろう。
船団を組んで荒野のハイウェイを連なるトラックは、幌馬車隊そのままだし、不当な差別の上、留置場に入れられた仲間を、ひとり助けに行ったラバー・ダックのトラックに、後から追ってきた他の仲間のトラックが合流する場面。

テキサスのアルバレスという町の入り口に、トラックが道からはみ出して、何台も横並びに位置を取る。そして戦闘開始の雄叫びのように、警笛を一斉に鳴らす。
ここなんかは、西部劇でガンマンたちが、馬で横並びになる、あの構図をトラックで再現しててシビれるのだ。


映画はクリス・クリストファーソン演じるラバー・ダックと、トラッカーを目の仇にするアーネスト・ボーグナイン演じる悪辣な保安官ライルとの、対決の構図で描かれてく。
ただペキンパーの演出に、以前ほどの粘り腰が感じられないので、どうも全体的に淡白なアクションになってしまってる。

レストランでの乱闘場面や、クライマックスのアクション場面での、ペキンパーのトレードマークとなった「スロー撮影」も、エモーションを高めるに至らず、セルフ・パロディのように映る。
もっとも公開当時から、もう「ペキンパーのスロー」を期待するのも流行らないという気分はあった。

アーネスト・ボーグナインの「目の仇」キャラといえば、アルドリッチ監督の『北国の帝王』で、ホーボーたちの無賃乗車を絶対許さないという、鬼の車掌を即座に連想する。
あの映画のキャラは、職務と人間憎悪が混在して有無を言わさぬ恐怖を発散させてたが、この『コンボイ』の保安官というのは、難癖つけて罰金を巻き上げよう位の、「イヤな奴」レベルなんで、いざこざが、ちんまりした感じで展開されてる感が否めない。

それでもラバー・ダックが保安官をレストランでブン殴ったことから、トラブルがデカくなって、州境を越えようとするラバー・ダックと、その仲間たち、追う警官隊、ラバー・ダックを援護するため駆けつけるトラッカーたちで、ハイウェイは騒然となり、マスコミも動き出す。

選挙を控えた州知事は、票取りに利用できると、ラバー・ダックを労働者たちのヒーローに仕立て上げ、自分が応援する立場のように演出を図る。
追われる者が、次第に社会のヒーローに祭り上げられてというのは、アメリカ映画にはよくあるパターンで新鮮味はない。


トラック野郎たちがCBで交わす会話のやりとりは面白いし、ラバー・ダックに惚れてるレストランのウェイトレスの描き方なんかいいね。
船乗りだと「港港に女あり」なんて言われるが、トラック野郎の場合は「酒場酒場に女あり」ってとこか。
このウェイトレスのヴァイオレットは、ラバー・ダックが店に立ち寄るのを心待ちにしてる。
ラバー・ダックの誕生日が近いからと、プレゼントを用意したと言って、
「トラックの中で見せるから」と鍵を受け取る。

ラバー・ダックがトラックに戻ると、体にリボンを巻いて待ってるヴァイオレット。
だがラバー・ダックは、ちょっと前にハイウェイで知り合った、ジャガーXKEを運転するアリ・マッグローをトラックに乗せることに決めていた。
彼女がオイル漏れを起こしたジャガーを売っ払って、その先の足に困ってたからだ。
ふつうなら「アタシがいるのに、こんな女と!」
とキレそうなもんだが、ヴァイオレットは
「彼をよろしくね」と見送るのだ。なんだよ、いい女じゃないか。

キャシー・イェーツという女優のことは俺は知らなかったが、ちょっとテリー・ガーのような雰囲気がある。

ヴァイオレンスの巨匠の映画でありながら、カー・クラッシュや家屋粉砕や銃撃戦までありながら、死人はひとりも出ないという、その意外性は悪くない。

前にもこのブログで書いたが、C・W・マッコールの全米ナンバー1ヒット『コンボイ』の歌詞をヒントに作られた映画で、劇中に流れるのはC・W・マッコール自らが映画用に歌詞もアレンジしたバージョン。
エンディングにオリジナル版が流れてる。

2012年7月29日

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森山未來がエクセレントすぎる [映画カ行]

『苦役列車』

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原作は読んでない。そもそも芥川賞とか、直木賞とか、そういったものを受賞した小説自体ほとんど読んだためしがない。中卒で、単純労働の職場を渡り歩き、楽しみは風俗と本を読むことという、19才を主人公にした自伝的内容という。

森山未來が主演した『モテキ』は昨年の後半に映画館で見てるんだが、これといって書きたいことも浮かばず、コメントはスルーした。
あの主人公の自意識内部破裂のような症状は、昔の自分にもあった覚えはあるが、魅力的な女優を4人揃えてるわりには、そのうち2人は無駄キャラ扱いだったし、収拾のつけ方も俺には「刺さらなかった」のだ。


しかしこの『苦役列車』の貫多を演じる森山未來には唸った。
映画の最初の方で、港湾の荷役仕事に派遣されるバスの中で、貫多は専門学校生の正二から声をかけられる。正二は田舎から出てきたばかりで、屈託がなく、昼休みにもひとりで弁当をつつく貫多の隣にやってくる。
まずこの場面がいいし、森山未來の演技が秀逸だ。

貫多は仕事場でも日常生活においても、ほとんど人と言葉を交わすことがないのだろう。
俺の知り合いにもいたが、人とコミュニケーションを図るのが苦手な人の、くぐもった口調を、見事に捉えてる。
しばらくぎこちないやり取りが続くが、正二のことを「こいつとは話ができるかもしれない」という気持ちが芽生えてきて、段々口調が滑らかになってくる。
このワンシーンの中で、森山未來は表情とともに、口調を変化させることによって、貫多のパーソナリティを体現してた。

高良健吾が演じる正二は本当にいい奴で、貫多にとっては福音とも思えるような存在だ。
前田敦子演じる、古本屋の店番、康子に声をかけるきっかけを、貫多に与えてやったのも正二だし、
家賃滞納してアパートを追い出された貫多から、次の住まいの保証金を都合してほしいと言われ、金を貸してやるのも正二だ。

酔っ払った貫多が、幼い頃に父親が性犯罪者としてテレビに晒され、一家離散に追い込まれた過去を話し出し、「俺も親父と同じ血が流れてんのかなあ」と呟くと、
「お前と親父は関係ないだろ。俺はお前はいいとこあると思ってるよ」
と言ってやるのも正二なのだ。

正二も東京に出たてで、知り合いもいない寂しさはあったのだろう。貫多は正二を友達だと思った。
「友達の正二を風俗に連れてってやろう」それは貫多の友情の証だ。
だが潔癖な所がある正二は、風俗には馴染めない。

貫多という人間には、友達という概念も実はよくわかってない所がある。
古本屋の康子に「友達になってください」と言って快諾されると、正二には
「友達ってことは、つきあっていいってことだよな?」と真顔で訊く。
「つきあうってことは、ヤレるってことだろ?」
こんな調子なんで、康子も結局は離れていく。

そりゃあ、会えないからと康子のアパートの前で待ち伏せした上に、
「たのむからヤラせてくれよ!」などと迫られれば、決別の一撃も食らうだろう。
この場面の前田敦子の頭突きが見事だった。

貫多は独りでいる時は、読書にふける物静かな青年で、毒もないんだが、人と相対すると負の部分が漏れ出してしまう。
正二に昔つきあった女の話をする時も、酷い言い草でその彼女のことを腐す。
過去の恋愛話を吹聴する男を、女性は大体嫌うもんだが、それの最悪パターンといっていい。

しかもその話に出した彼女が、行きつけの風俗で働いていて、バッタリ再会、そのまま半ば強引に、彼女がホステスをやってるバーに押しかける。
自分の相手をせずに男といちゃついてる彼女に、またも暴言を吐き、その男にボコられる。
だがボコられた後も一緒に飲んで、動物のマネごっこをさせられる。
なんだこの場面は。
俺は山下敦弘監督の2002年作『ばかのハコ船』が大好きなんだが、このバーの場面なんかは、あの映画のシュールな脱力感に通じる感触があった。


映画を見てれば貫多のろくでもない人間ぷりが、これでもかと開陳されるわけだが、それだけがこの映画の視点ではない。
貫多はろくでなしには見えるが、常に働いてはいるのだ。
この映画は「労働する者」を描く映画でもある。


港湾倉庫での描写にいいものがある。貫多や正二より長く働いてる高橋という中年男が出てくる。
昼飯を食う若い二人にちょっかいを出しに来て
「お前ら、若いんだから夢をもたなきゃ駄目だろ」
などと余計なことを言う。貫多は思いっ切り鼻白んでる。

昼休みに港の堤防に張り付いてるカラス貝を、高橋は容器一杯に取ってくる。
「女房のみやげにするんだよ」
だが冷蔵庫貸してくださいと、社員に言うと
「こんな汚い海で取った貝が食えるわけないだろ、アホか!」と一蹴される。

後になってその場を見てた貫多は
「あの貝どうしたんすか?」
「残念だったすねえ、奥さんのみやげだったのに」
と薄ら笑って、高橋をキレさせる。

その高橋は作業中にフォークリフトの運転を誤り、転倒した車両に足を挟まれ、片足が使い物にならなくなる。臨時雇いで労災もおりない。

貫多と正二は真面目な仕事ぶりが認められ、荷役からフォークリフトへ「格上げ」となる。
このブルーカラーの仕事現場にもヒエラルキーが存在し、荷役に支給されるのは弁当だが、フォークリフトになると社員食堂で昼飯が食えるのだ。
「もうここで食うと弁当には戻れないよなあ」
と貫多は正二と話すが、高橋の事故を真近で見て以来、貫多は自ら荷役に戻ってしまった。


正二が専門学校で知り合った彼女とのデートを優先するようになり、貫多との友人関係はぎくしゃくしてくる。
正二の彼女を交えて3人での居酒屋で、目の据わった貫多は毒を吐き散らす。

下北沢に住んでるという正二の彼女に
「おまえら田舎もんは、決まって世田谷とか杉並とかに住みたがるよなあ」
そこからはもう歯止めが利かなくなり、思い切り下衆な言葉で、彼女を蔑む。
正二との友情はこの夜に終わる。

同じ港湾の倉庫で働き続けてる貫多と正二だが、もう職場でも会話はない。
二人が決別する場面は心が痛い。
正二は彼女と一緒に住むアパートに引っ越すため、仕事も変えると言う。

「電話番号教えてくれよ」
「いいけど、彼女との生活があるからな。緊急の用以外ではかけてこないでくれよ」

立ち去る正二に「俺たち友達だろ?友達だったよな?いままでありがとう」
貫多の言葉に正二は黙って手を上げた。


事故で港湾の仕事を辞めた高橋と貫多がカラオケバーで飲んでる。
「あの二人が?」と思ってしまうが、貫多が誘い出したのか、歌が得意だと言ってた高橋が声をかけたのか。
調子よく先輩風吹かせてた高橋の面影はない。

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「ほんとはな、夢なんて叶うわけねえんだよ」
「働いて、飯食って、寝て、また働いて、一生これの繰り返しだ」
貫多はおもむろに
「おれ、本が好きなんすよね」
「それがなんなんだよ?」
「いや、おれ本書こうかなと思ってるんですよ」
「おまえなんかが書けるわけねえだろ、この中卒が!」

高橋は吐き捨てて、ほかの客のマイクを奪い『襟裳岬』を熱唱しだす。これが上手い。
上手いのは高橋を演じてるのが、本職シンガーのマキタスポーツだから。

高橋の鬱屈と、貫多が初めて「成すべきこと」を口にするという、その感情の噴出とが、混然となった、ここは忘れ難い場面だ。


その日その日の労働で食いつなぎ、ほとんどを食費と本と風俗で使い果たし、まるで山手線のように永遠とループするような人生。
だが貫多は労働を止めることはない。生活保護の受給を画策したり、もっといえば犯罪に手を染めたりということにはならない。
貫多という「ろくでなし」と彼が行動範囲とする、きつい環境を描いていながら、そこに犯罪は出てこない。
まあ何度も貫多はボコられてはいるが、それは自業自得ということなんで。

余裕のないカツカツの生活に追われながら、でも大部分の人たちは犯罪に手を染めることなどなく、必死に暮らしてるのだ。
貫多もその「労働する」者の一人にすぎない。


エンディングのシュールな趣向も『ばかのハコ船』チックで俺は好き。
多分原作はもっと体臭がきついんだろうが、山下敦弘監督の作風は、どんづまりを描いても、どこかに飄々とした風通しのよさがあるもので、山下監督が手がけたとなれば、こういう感触に仕上がるのは予想はついた。

なんにしても欠落した人間を眺める映画は面白い。
森山未來という役者の凄さを初めて思い知らされた気分だ。

2012年7月23日

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飛び降り騒動はダイヤ狙う陽動作戦 [映画カ行]

『崖っぷちの男』

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マンハッタンの由緒あるルーズヴェルト・ホテル、その21階の表通りに面した部屋の窓を乗り越えた男が、40センチに満たない建物の縁に立った。
ほどなくその姿を目撃した通行人たちが、一斉にホテルを見上げ始め、周囲は騒然となる。

男は元ニューヨーク市警の警官だった。25年の刑を言い渡され、収監されてた刑務所から、父親の葬儀に参列するため、特別に一時出所を認められ、その墓地で監視の刑務官を振り払い、脱走したばかりだった。

男の罪状は時価4千万ドルの「モナークダイヤ」を盗み、闇で売り捌いたというもの。
たまたま非番の日に、貴金属輸送車の護衛のバイトを引き受け、その輸送車が襲撃された。
それを警官である男が仕組んだものと判断されたのだ。

男は自分が立つホテルの真向かいにあるビルを睨んでいた。
そこは「モナークダイヤ」の持ち主だった、不動産王イングランダーが所有するビルだった。


自殺志願者と思えた男が、自分の身の潔白と、自分を嵌めた相手に対して「礼」をするという、一石二鳥な賭けに出る、その設定は上手いと思う。

この映画の野次馬のように、ビルの屋上に人が立ってるのを目撃すれば、飛び降り自殺かと思うだろうし、あとの興味は「いつ飛び降りるのか?」だろう。
そのためにケータイのカメラをかざしてる。
駅で飛び込み自殺があっても、通勤中の人々は「はた迷惑なことしやがって」くらいにしか思わない。
ほとんどの人間は、自殺しようとする本人が、そこに至るまで、どんな苦しみを抱えてたのか、そんなことに思い馳せることもないのだ。


主人公の警官ニック・キャシディには、はなから飛び降り自殺をするつもりなどはないのだが、「自殺するしかない」という風に見えた人間が、人生逆転の大芝居を打つ、思い上がった相手に鉄柱を下す、そこに痛快さが生まれる。

ニックは父親の葬儀の場で殴り合いとなる、「ろくでなし」の弟ジョーイがいるんだが、そのジョーイがホテルの向かいのビルの屋上に現れるあたりから、この映画が新手の『ミッション・インポッシブル』なのだと気づかせてく。
ジョーイはラテン系の美人の恋人アンジーを、現場に伴ってる。屋上で小規模な爆破を起こして、そこからビルに忍び込もうという算段。

なぜそんなことをするのか?そのビルの15階には、超高額の貴金属などが保管されてる金庫室がある。
イングランダーは「モナークダイヤ」をニックに盗まれたと証言してたが、現物は保管してあるとニックは確信していた。イングランダーは盗難によって、高額の保険金を受け取っていたのだ。


ニックとジョーイが今回の計画を仕組んでるとすれば、兄弟のいがみ合いも演技ということになるし、父親の葬儀も本当だったのか?ということになる。
もちろんその答えは明らかになるんだが、この映画に関しては様々なツッコミ所があることは、見ればわかる。


まずジョーイとアンジーの「怪盗カップル」なんだが、プロっぽい装備を揃えて、実行に及んでるが、どうやってそんな装備や、スキルを学んだのか?
それはそういう稼業を続けてきたからという見方はできるが、そうなるとジョーイと兄のニックの関係性がわからない。
「泥棒稼業」の弟を持つ兄が、ニューヨーク市警の警官だったわけだろ。
兄弟とはいえ、互いに生きる道はちがうってことでは済まされないと思うが。

ジョーイがスキルを仕込まれたのは、父親からかも知れないことが、映画の中で匂わされてたりもするんで、そうなると、ますます兄のニックだけが警官という仕事に就いてるのが違和感ある。

ニックはホテルの建物の縁に立ちながら、体につけた超小型のマイクを通して、ジョーイと交信してるんだが、当然イングランダーのビルの内部のことは見ることができない。
ジョーイからの通信で見当をつけて指示を与えてる。その指示が的確なんだよな。

金庫までの通路に熱線感知センサーがあるんだが、それを即座に「冷やせ」とか指示してる。
ジョーイがどうやるかは見てのお楽しみだが、金庫室に入ってからも、センサーが張り巡らされて、元の配電盤のコードを切断することになるんだが、そのコードの色まで知ってる。
一介の警官がなんでそんな知識まであるんだよ?

みたいな点が気になってくると、そもそもニック自体、100%「シロ」な存在なのか?と疑問も湧いてくる。


ニックを演じるのはサム・ワーシントン。なんと今年日本では5本目となる出演作の公開だ。
この映画は彼の個性を、これまでの映画では一番生かしてると思う。
垢抜けない感じなんだが、その朴訥さが「裏表がなさそう」な人物像という印象を与える。
つまりはそこが「引っ掛け」であって、警官ニック・キャシディは白なのか黒なのか?映画を見終わった後も、尾を引く感じがあるのだ。

ニックから交渉人に指名される女性刑事リディアを演じるエリザベス・バンクスがいい。
彼女はきわどいコメディにも臆せず出て、サラリとこなしてる、そのさばけた感じが以前から好印象な女優。
この映画ではひと月前に自殺志願者との交渉に失敗して自信を失くしてるという設定なんだが、現場では男どもには一歩も引かない勝気さも見せて、難しい匙加減の演技をこなしてた。

リディアと交代させられる刑事を演じてたのは、エド・バーンズ。以前はエドワード・バーンズと名乗ってたが。
彼が監督・主演した『マクマレン兄弟』からもう17年になるのか。
監督・主演作をその後も何本か作り続け、『プライベート・ライアン』で役者として次期スター候補にも上げられた。デニーロと組んだ『15ミニッツ』で主演するも、その後が続かず。

彼のマスクはアメリカ人が好む面長でタレ目なんだが、ウィークポイントが「声」なんだよな。
これで声が渋ければ間違いなくスターになってただろう。
そのエド・バーンズも久々に見たが、あの万年青年みたいな持ち味だったのが、すっかり中年のオヤジ顔になってた。

もう一人のエドは、イングランダーを演じるエド・ハリスだが、なんか痩せたな。
相手を恫喝する得意の演技を見せる場面もあるが、迫力が足りない気がした。
まだ62才だからね、老け込むには早いと思うんだが。

2012年7月15日

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麻生久美子の啖呵にシビれる [映画カ行]

『GIRL』

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20代後半から30代半ばという、映画と同世代の女性たちの溜飲を下げさせるように作られてる。
けなす事は簡単だろう。予定調和にすぎるとか、キャラクターが薄っぺらいとか、女だけが大変な思いしてるわけじゃないんだよ、とか。
映画の出来にうるさい男なら「いい気なもんだよ」くらい言いそうだ。

だがね、男の映画ファンが惚れこむような、例えば健さんの任侠映画であれ、アルドリッチや岡本喜八の戦争映画であれ、フィルムノワールであれ、ああいうものに溜飲を下げる男も「いい気なもん」と思われてるんでね。
しかしそれは悪いことじゃないよな。映画ってのは「いい気になれる」娯楽なんだから。


麻生久美子演じる聖子は、34才で大手不動産会社で管理職に抜擢される。だが年上でやり手を自認する男性社員の今井は、あからさまに見下す態度を取ってくる。

聖子は今井にやる気を起こさせるために、再開発プロジェクトの進め方を一任し、部下で建築デザインの才能を聖子も認める後輩の女性社員、裕子と組ませるが、今井は裕子の案など無視して、経験不足ばかり突いてくる。
「だから女は駄目なんだよ」
今井は上司の聖子に面と向かって暴言を吐き、両者は一気に対立関係となる。


吉瀬美智子演じる容子は、勤務先の文具メーカーに、いかにも好青年キャラの新入社員、慎太郎が配属され、その教育係として行動を共にするうち、「年下の男」への恋慕の情に、動揺していく。

結婚も恋愛すらも面倒くさいと感じてた筈なのに。
だが容子の変化は傍目にも感じられ、若い女性社員からはやっかみ半分に
「年増がなんか必死よねえ」
などと陰口を叩かれ、それを偶然耳にしてしまうもんだから。


板谷由夏演じる孝子は、4人の中で最年長で年齢非公開の、シングルマザー。
離婚を経て3年ぶりに、自動車メーカーの営業職に復帰。

小学生の息子に淋しい思いはさせまいと、自分もできない鉄棒やキャッチボールにも必死につきあうが、その必死さがやがて息子を悲しませる悪循環。
シングルマザーが社会的弱者だなんて、意地でも認めたくないのに。


香里奈演じる由紀子は4人の中では「妹分」な29才独身。ガーリーなものには目がないのだが、姉貴たちからは「潮時ってあると思わない?ガールにも」
とやんわり諌められる。
大学時代から交際を続ける蒼太とのデートはいつも同じ食堂で、「カワイイ」ものにも何の反応もくれず、ロマンティックのかけらもない。

クライアントの百貨店の売り場担当のキャリアウーマンからは、「ガール」的な感性を全否定され、激しく落ち込むことに。年齢によって、可愛いことを諦めろってことなのか?


シングルマザーの孝子のエピソードで印象的な場面がある。
会社の同僚の男性社員に、ボールの投げ方から手ほどきされ、公園で息子とキャッチボールする。
何度も何度も繰り返しボールを投げあう内に、あたりは暗くなってくる。もうボールがほとんど追えない状態なのに、孝子は気づかない。

そうなんだよ、キャッチボールしてると、暗くなってくることに気づかない。ホントにボールが見えなくなるまで止めないんだよね。
照明をほとんどたかずに、板谷由夏の顔が見えるか見えないかまで、暗くして撮影してる。

映画と関係ない話になるが、この孝子のように、女性はおしなべてキャッチボールを苦手としてる。
それは「オーバースロー」でボールを投げることが苦手だからだ。
なぜなのか考えてみたが、そこには男と女という「種」の違いにまで遡る要因があるんじゃないかと。


元来、男の役割は「家族のために食料を捕ってくる」ということだ。
そのために、岩山をよじ登ったり、高い場所にあるものをもぎ取ったり、時には獲物と格闘になることもある。喉笛に噛みつかれたら一巻の終わりなんで、肩から高い位置で腕を伸ばしても力が入るように、腕が機能してるのだ。

女の場合はどうか?キャッチボールは苦手であっても、野球とほぼ同じルールの球技「ソフトボール」は女子のスポーツだ。
振りかぶって投げ込む「オーバースロー」ではなく、下手から繰り出される速球は、投手によっては、野球選手と遜色ない球速を示す。
男があの同じフォームで投げろと言われても、うまく力を入れることは難しいだろう。
女だからこそあのフォームで力が込められるのだ。

それは元来、子供をしっかりと抱くために、腕の力が働くようにできてるからでは?
地面の我が子をぐいと抱き上げる、腕を肩から上に上げた時にではなく、腰から胸に近い位置で、最も腕に力が入るんだ、きっと。


なんでこんなことをつらつらと考えたかというと、この映画の中で描かれた女と男の、仕事場での軋轢とかを思うと、女の得意分野、男の得意分野というものはあるのだから、同じ条件下で角突き合わせるより、適材適所を経営者側は意識するといいんじゃないかと感じたからだ。

それに、シングルマザーの孝子が、父親の役割まで全うしようとして疲弊してしまうということも、むしろ父親がいないことを負い目と感じさせない、社会的環境からのフォローが、もっと考えられてもいいという、そういうことにも繋がってくと思うのだ。


麻生久美子演じる聖子が、ことごとく対立する今井を呼びつける場面は盛り上がる。

「コイントスで、負けた方が会社を去る、いいわね?」
「あなたに先に選ばせてあげるわ」

後輩・裕子のデザイン案を握り潰し、プレゼンを進めようとした今井の目論みを、聖子がひっくり返した後だった。
表か裏か、言葉を発せない今井に

「女と仕事したくないなら、土俵の上にあがりなさい」
「どこにでも女はいるの。奥さんでもホステスでも、部下でもない女がね」

麻生久美子も、セリフの歯切れのいい女優なんで、この啖呵がピシッと決まる。
ここが映画でも最大の溜飲ポイントだろう。
今井を演じた要潤は、とことん嫌な奴になり切っていて「功労賞」ものだ。

あと、こんなものまで見てるのかと言われそうだが、『マリア様が見てる』で凛とした女子校生だった波瑠が、聖子の後輩の裕子を演じてて、今井にスポイルされるのに耐える表情がいじらしく、目を引くのだった。
今井に啖呵切り終わって、部屋を出て行き、女子トイレで感情を鎮めようとする聖子を、裕子が追いかけて行って、トイレの中で抱き合って泣く場面は、映画で最も麗しい見せ場だった。


『セックス・アンド・ザ・シティ』以降のアメリカの「女子映画」は、下ネタもばりばり口に出す、そのあからさま加減が受けてる要素の一つだが、この映画は本音を描こうという意図はあっても、下品さでウケを狙うような所はない。
俺はあからさまなのも好きだが、あれはアメリカ人だから板につくのだ。
日本人は下ネタもりこんでも、無理してる感がでちゃうからね。

2012年7月5日

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オーストリアのロッタちゃんか [映画カ行]

『カロと神様』

京橋の「国立近代美術館フィルムセンター」で6月16日まで開催されてるのが「EUフィルムデーズ2012」。
コンセプトがあるような、ないような、日本ですでに公開済の映画と、未公開の映画と、未公開で日本語字幕なしの映画が入り混じってラインナップされてる。
普段あまり目に触れない東欧、北欧の映画が見れるので、興味があればHPを覗いてみるといい。

上映は2階の大ホールだが、現在7階の展示室で行われてる催しも面白い。
日本映画の創世記から黄金時代への変遷を、当時の貴重な資料や、映画初期の映写機やカメラなどとともに、展示している。
題名のロゴにモダニズムを感じるサイレント映画のポスターなど、目に楽しい。
原節子と香川京子が並んで座ってる場面を、端正な筆致で絵にした『東京物語』のポスターが美しい。昔の日本映画にあった品格が薫り立ってくるようだ。

その展示を抜けると、今度は洋画に移り、
「ロードショーとスクリーン 外国映画ブームの時代」というコンセプトの展示が行われてる。
映画雑誌が活況呈した1970年代を中心に、当時のヒット映画のポスターやパンフ、試写状や映画半券が並ぶ。ちょうど俺が映画を見始めた時期に重なるので懐かしかった。

特に今は無くなった、当時の有名なロードショー館のスチールが大きく引き伸ばされて飾ってあるのがいい。
「テアトル東京」は俺も何度も通ったが、写真撮っときゃよかったと思ってる。
ヘラルドと東宝東和配給作の予告編が見れるスペースもある。
『地下室のメロディ』『小さな恋のメロディ』『エマニエル夫人』『コンボイ』『サスペリアPart2』『地獄の黙示録』『エレファント・マン』『愛と哀しみのボレロ』『プロジェクトA』『新Mr.BOO!鉄板焼』『霊幻道士』『ミッション』の12本だ。

フィルムセンターのチケットには前売りというのはなく、上映の30分前から順番に発券していく。
大人料金が500円というのは有難いし、休日ということもあり、俺の予想以上に人が並んでた。
310席の大ホールの9割がた埋まってたんじゃないか?
この『カロと神様』は読売新聞に紹介記事が出てたらしい。それでだな。

カロと神様.jpg

2006年のオーストリア映画で、日本ではこれが初上映。上映前にオーストリア大使館の文化担当の人が解説に立ったが、オーストリアは年間30~40本ほどの映画が製作され、ミヒャエル・ハネケに象徴されるような、陰湿でシリアスなものが多いとのこと。
この『カロと神様』のほのぼの感は異質だそうだ。

主人公は8才の女の子カロ。上の前歯2本の乳歯が抜けて、生え変わる前だ。こういう時期は人間の一生に一度だけだから、前歯の抜けた女の子をキャスティング条件にしてたとすれば、けっこう見つけるのは大変だったろう。しかもこの主役の子はリアクションの表情とか上手いし。
いかにも子役という媚びた可愛さではなく、不機嫌な顔に子供らしさがこもってた、スウェーデンのロッタちゃんの系統の女の子だな。

映画の冒頭でカロは、教会の礼拝に参加してる。神様の存在を感じてるのだ。母親のアリスがミサのオルガンを弾いている。親子3人で、その後遊園地へ行って遊ぶ。だが帰り際に父親のピーターは、休日だというのに「仕事が入った」と2人と別れる。母親アリスは寂しそうな表情だ。

夜遅く戻ってきた父親と母親は激しい言い争いをして、カロはショックを受ける。
それからほどなく両親は別居することとなり、カロは母親とともに、アパートに引っ越した。パパとは週1回しか会えないことに。

父親ピーターはテレビの「大切な人に愛を伝える」という、素人参加の番組の人気ホストをしていた。
カロは父親のスタジオに遊びに行き、メイク室でお姉さんからピエロのメイクをしてもらって上機嫌。
だけど父親ピーターは、そのメイク係のリジーとキスしてるではないか。
カロはまたしてもショック。
父親にアパートまで送ってもらっても、しょんぼりなままだ。
「次の休みには凧あげをしよう」父親はそう言って階段を下りて行った。

カロは父親に買ってもらったトランシーバーで、神様に相談してみようと思うが、もちろん応答はない。トランシーバーは1個あっても仕方がないのだ。

「助けてほしいのに、神様のバカ」
するとおじいさんのような声が聞こえた。
「神様なの?」
「きけばわかるだろう」
「パパとママが仲直りしてくれない」
「パパは戻ってくるさ」
相手の声に半信半疑のカロだったが、父親がドアを開けて
「おやすみを言ってなかったな」と顔を出したのには驚いた。
神様の言った通りだった。

次の日、カロはアパートの下の階で聞き覚えのある声を耳にする。ドアの前のキリスト教の勧誘の男女を追い払おうとする、ぞんざいな口調が、トランシーバーの声にそっくりだった。

ドアの新聞受けから「神様なの?」と尋ねると、面倒くさそうに「ああ、そうだよ」と。
パパが知らない女の人とキスしてたことを話すと、ドアの向こうの「神様」は状況を察したようで、
「今度会ってもごまをすったりしちゃダメだぞ」とアドバイス。

その通りにパパとリジーと3人で食事という席でも、カロは強い調子で臨んだ。ききわけのないカロに手を焼く父親に、リジーが助け船出そうとすると「ごますり」と言い放つ。
リジーはピーターに、「カロと私の戦いってことね」と笑った。

数日後たまたまアパートの入り口で、カートを引く老人と出会ったカロ。その声にピンときて、後を尾けると案の定、下の階の住人だった。

カロに追求され、観念してドアを開ける老人。
頭はボサボサ、ヒゲも伸び放題、汚れたコートを着たこの老人が神様?
だがとりあえず、アドバイス通りにやったけど、父親とリジーが別れることにもならず、カロは神様にダメ出し。
こうしてカロは、くたびれた格好の老人にくっついて回るようになり、最初は鬱陶しいと思ってた老人も、カロの絶え間ない質問攻めにもつきあうようになっていく。


「パパとママが、ふたりとも好きなことはないのか?」
カロは考えて、両親が以前タンゴを習ってたことを思い出す。
丁度町のタンゴ・クラブが店じまいするんで、カロは母親にそれを伝えて
「パパとタンゴ踊ってよ」とせがむ。
両親はカロの誕生日祝いを兼ねて、タンゴを踊り、久々で親子3人水入らずの日を過ごす。
だが最後にはアリスとピーターは諍いになってしまう。

「結局タンゴもダメだった」カロは神様に言う。
「魚と鳥は同じ場所では生きられないんだよ」
「多分パパとママは、話す言葉がちがうのさ。チェコ語と中国語のようにね」
老人はカロに、無責任に希望を持たせるような事を言うのは辞めた。
どうしてもうまくいかないこともあるんだと、それとなく教えようとした。

カロは老人と過ごす時間が長くなった。パパが「リジーからのプレゼントだ」とくれた凧をそのままにしておいたが、ある日、町を離れ、老人と凧あげに丘へと向かった。
その様子を教会の神父が目撃し、カロの両親に伝えてしまう。


老人は孤独な一人暮らしで、カロの両親に変質者扱いされ、一時は引き離されるものの、カロがめげずに、オレンジのパーカー被って、道の両端を歩きながら、トランシーバーで会話する場面がいい。

「友達ってどういうもの?」
「友達ってのは、足音が聞こえると、またいろいろ質問攻めにあって面倒だなあと思ってても、足音が聞こえないと寂しくなる。そういうもんさ」

老人はある日、カロの前から姿を消す。車に轢かれて病院に運ばれてたのだ。
「神様も死ぬの?」
「いや、ただ居なくなって、別の人になってるだけだ」

老人がただの老人なのか、カロの言うように神様なのか、ぼかして描いていて、どう解釈してもいいようになってる。見た後に子供と話をするのもいいと思う。

ヨーロッパには「キンダー・フィルム」と言われる児童映画が各国で製作されていて、この映画もその範疇に入るものだろう。後半は時間の経過を表すためにやたら暗転が繰り返されて、映画のつくりとしては拙い所もあるが、安易な「めでたしめでたし」な結末にはなってない。

2012年5月29日

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「男ならレイバンだろ」と宣言する映画 [映画カ行]

『キラー・エリート』

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上のパンフのヴィジュアルでステイサム、デニーロ、オーウェンの3人の目を覆ってるレイバン。
いや予め断っておくと、俺はグラサン関係は全く詳しくないんで、3人のかけてるのが全部レイバンなのか、よそのメーカーの違うネーミングのものなのか、そのあたりがわかってない。
なのでああいう形のものはレイバンと総称して話を進めることにする。

この映画は1980年が時代設定となってる。
「今の」アクション映画の見てくれではなく、「レイバンの似合う男たち」が闊歩してた時代の、古風なアクション映画の手触りを目指してる。

『メカニック』や『デス・レース』など、「70年代アクション」の再生に心血注ぐ
ジェイソン・ステイサムだが、この映画はサム・ペキンパーの同名映画のリメイクではない。

だが今売れてる若手の役者たちに
「おまえらにレイバンがかけこなせるのか、ああーん?」
というポーズから、レイバンをキー・アイテムに70年代アクションに目配せしてるように思える。

そう、スーツを「着こなす」と言うように、レイバンは「かけこなす」とでも言うべきか。特に定番の「ティアドロップ型」という、あの表面積の広いタイプは難物だ。

近年では『MIB』のウィル・スミスとトミー・リー・ジョーンズが思い浮かぶが、あれはキャラの一部になってる。「権力側」の象徴に使われることも多いので、レイバンをかけて、しかも渋さや、キャラクターの人間味を出すには、それなりの面相が必要になる。

アメリカ映画で、最初に強烈なイメージとして残ったのは、1967年の『暴力脱獄』だ。囚人ポール・ニューマンたちの屋外労働を監視する看守たちが、シルバーの鏡面のレイバンをかけてた。

そのポール・ニューマンは『新・動く標的』でレイバンをかけてたし、ペキンパーの映画でいえば、『ガルシアの首』のウォーレン・オーツが断トツ渋いし、オーツも出てた『ボーダー』で、国境警備隊を演じたジャック・ニコルソンもレイバンでキメてた。

『パニック・イン・スタジアム』でSWATの隊長を演じたジョン・カサヴェテスが、主役のチャールトン・ヘストンを完全に食ってたのは、あのレイバンに拠る所が大きい。
『ローリング・サンダー』のウィリアム・ディヴェインにもシビれた。

レイバン人気を日本で高めたのはトム・クルーズが『トップガン』でかけてかららしい。
あと忘れちゃいかんのがスタローンの『コブラ』だよ、スタローンの『コブラ』。
連呼しちまったが、まあ映画自体はポンコツな部分もあるんだが、スタローンが
「俺に足りない渋さを出すにはどうしたら?」
と考えてレイバンに行き着いたと、俺は見てる。だから何か憎めない。

日本でいえば「遊戯」シリーズの松田優作、「大門軍団」の渡哲也、それに原田芳雄というところか。
日本人の細面な顎の骨格や、面長感の足りない顔の輪郭だと、レイバンをかけこなすのは難しい。
大人がかけても「フィンガー5」みたいなことになってしまうのだ。俺も昔試して挫折した。

この『キラー・エリート』でステイサムをはじめ、デニーロも、クライヴ・オーウェンも、レイバンが顔から浮いてない。
アクション映画を演るんなら、それなりの面構えも必要なんだよ、という主張がこめられてるのだ。


1年前、殺しの依頼を受けたダニーは、相棒のハンターとともに、リムジンの標的を襲うが、同乗してた少年に引き金を引けず、その一件を契機に仕事から足を洗った。
メルボルン郊外で牧場を営む幼なじみのアンと、平穏な日々を送るダニーのもとに一通の封筒が届く。
中にはオマーンへの航空券と、何者かに捕らわれたハンターの写真が。封筒はダニーたちに殺しを斡旋してきたエージェントからだった。
相棒を見捨てられず、ダニーは「殺しの世界」に舞い戻ることに。

ハンターを拘束してたのは、オマーンの首長のひとり、シーク・アムルとその息子だった。シーク・アムルは四男を除くすべての息子たちを、SASの兵士たちに殺されていた。背後には石油を巡る利権争いがあった。
ハンターはそのSASの兵士3人を捕らえ、自白させたあと、事故死に見せかけて殺害するという依頼を、単独で受けていた。それは高額な報酬目当てだったが、手に余ることから、ハンターは仕事を放棄し、シーク・アムルの四男に捕まってたのだ。

引き継がなければハンターの命はない。相棒であり、殺しの仕事のイロハを教わった、父親代わりでもあるハンターのため、ダニーは無謀な依頼を呑むしかなかった。


パリに飛んだダニーは、かつての「殺しのチーム」を呼び寄せた。依頼内容を聞いて、兵士時代にSASの試験に落ちたというデイヴィスは、呆れたように言った。
「あいつらはパラノイアだ。常にバックアップを用意してる」
「拷問に口を割るようなことはない」
「ネイビー・シールズが逃げ出すくらいの精鋭部隊なんだぞ」

だがその報酬は魅力だし、殺しの標的として、これほど歯ごたえのある相手もないだろう。
「殺しのエリート」を自認するような、チームのプライドに火が点いた。

だがダニーたちが、SASの元メンバーの居所を探ってるということは、すぐにSAS側にも察知された。
SAS出身者の利益や身の安全を守る「フェザー・メン」の工作員スパイクは、作戦中の事故で片目を失い、SASを引退してたが、その凄腕ぶりは組織内でも知れ渡っていた。
世界一の精鋭部隊と、それを標的にする殺し屋たちの、まさに血で血を洗う戦いの火蓋は切られた。


正直言うとね、脚本的にはもう少し面白くなってもいいんじゃないか、という出来ではあるんだよ。
だってさんざん前振りで「SASやべえよ」と言っておきながら、意外と簡単に仕留めちゃってるし。

「こいつはSASの中でも、相当エグい経歴の持ち主」と標的のプロフィールが紹介されるんだが、単なる女好きで、風呂で転んで頭打って死んだことに見せかけるのも無理があるだろ。
そのために、まず標的の家に侵入して、風呂のタイルを1枚失敬する。それをコピーして、ハンマーにペタペタ貼っつける。そのハンマーで頭を殴れば、タイルの成分がくっつくから、アリバイになるということだな。実にローテク。

結局その標的となってる元SASの3人は大したことなくて、手強いのはスパイクなのだ。
ダニーを演じるステイサムと、スパイクを演じるオーウェンの真っ向勝負の肉弾戦は迫力あるね。
アスリート出身で、スピードと切れがあるステイサムが、研ぎ澄まされたナイフとすれば、オーウェンは委細かまわずぶった切る牛刀のような戦いっぷり。
オーウェンの方が3つ年上だが、ともにイギリスの地方都市出身で、売れ出した時期も近い。ライバル意識もあるんではないか?

あのデニーロが完全にサイドキックスの役割に徹してるのは、長年彼の映画を見続けてきた者にとっちゃ感慨もあるが、ダニーの幼なじみアンの護衛を任されたハンターが、地下鉄のホームで、彼女の危機を、本人には知られずに回避する場面はカッコいい。

そう、拘束されてたハンターは、ダニーの手によって、脱走に成功してたのだ。
というかシーク・アムルの護衛たちがヘボすぎ。丸腰のダニーに、二度までもボコられてる。
そういう部分の甘さが、映画としては惜しい。

だが銃撃戦をカッコよく決めようとか、カーチェイスをアクロバティックに見せようとか、演出に変な色気を見せない所はいい。
ゴツゴツとして融通の利かない、それこそ70年代には普通に見られた、アクション映画のフォルムで撮られていて、それが「レイバン」の男たちの風貌に合ってるのだ。

2012年5月28日

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チャン・ドンゴンと『燃えよ!カンフー』 [映画カ行]

『決闘の大地で』

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この映画でチャン・ドンゴン演じる主人公はただ「戦士」と呼ばれている。
中国で暗殺集団「悲しき笛」で幼少の頃から、殺しの技術を叩き込まれた戦士は、最強の刺客も打ち倒し、敵の一族を全滅させる。
だが最後に生き残りである、姫として生まれた赤ん坊を殺すことができず、掟を破ることを覚悟した戦士は、旧友の住むアメリカへ逃れる。

赤ん坊を背負って西部の町「ロード」に辿り着くが、住人から旧友の死を聞かされ、行く宛てを失う。
町はゴールドラッシュを当て込んで、遊園地を作ったものの、ブームは過ぎ去り、建設途中の観覧車が虚しくそびえていた。
住人はほとんどがサーカス団の団員で、ブームの後、この町に居ついてしまっていた。


子連れの東洋人に興味を示したのは、ナイフ投げの美女リンだった。戦士の旧友だった男は、この町でクリーニング店を営んでいて、
「行くあてもないなら、ここで店を共同経営しない?」と持ちかけた。
殺しの技術しか身についてない戦士は、慣れない仕事と詮索好きな住人に戸惑うが、今まで味わったことのない、人間の温もりを感じる生活に、心地よさを感じるようになっていた。

赤ん坊の面倒を見てくれるリンに、戦士は「ナイフ投げ」の極意を授ける。リンはナイフ投げの担当なのに、まともに的に当てられなかったのだ。

彼女は戦士が1本の刀を隠し持ってることを知る。表情をほとんど表に出さない「静かなる男」は、只者ではない。リンはそう感じていた。

同じような視線を戦士に注いでいたのは、常に酔いどれてる中年男のロンだった。かつて凄腕の強盗だったロンは、銃を捨てこの町に流れてきた。以来、無為な日々を送り続けてる。
ロンはこの東洋人に殺気を感じとっていた。


謎の東洋人が開拓時代のアメリカ西部に渡ってくるという設定で思い出すのは、
1970年代のテレビドラマ『燃えよ!カンフー』だ。
「燃えよ!」と邦題はつけてるが、そんなに威勢がよくはない。
原題は『KUNG-FU』であり、ドラマ性と、主人公のミステリアスな人物像を重視して描かれていた。

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少林寺でカンフー・マスターの称号を得た、アメリカ人を父に持つ混血の青年クワイ・チャン・ケイン。子供時代に彼のことを「コオロギ」と呼んで、厳しくも愛情をかけてくれた師匠のホー先生が、皇帝の甥の凶弾に倒れたのを目撃し、怒りのあまり、甥を殺してしまい、追われる身となる。
ケインは腹違いの兄が住むアメリカへと逃げるが、皇帝の刺客たちも後を追う。

ドラマはケインが立ち寄る西部の名も無き町での、住民たちとのエピソードを1話完結の形で描いていた。
ケインを演じてたのはデヴィッド・キャラダインで、東洋人には見えないが、無国籍の風情はあって、たしかにミステリアス。1972年に放映が開始されてる時代性か、無造作に伸ばした長髪と、埃まみれの出で立ちは、ヒッピーを思わせるものもあった。

ケインは行く先々で好奇と偏見の目にさらされるが、むやみに争そうことをしない、その人間性の深さに、出会った人々は感銘を受けるのだ。
しかし大概において、もうどうしても相手にならなきゃしょーがない状況が、毎回ドラマの後半に訪れるんで、その際には銃をも恐れない少林寺拳法が炸裂するわけだ。

デヴィッド・キャラダインは「拳法など知らないから、習ってたモダンダンスの動きを応用した」と昔語っていて、まあ正直格闘場面はヘッポコではある。
だが格闘にいたるまでのドラマで、ちゃんとタメが作られてるんで、「耐えたすえに炸裂させた」という痛快感が得られた。
日本では1976年に放映され、俺は当時毎週の楽しみとしていた。
子役時代のジョディ・フォスターが出てる回もあった。


さて映画に話を戻すと、貧しくも平穏に見えるこの「ロード」の町にも、恐怖の種はあった。自ら兵隊を率いる無法者の「大佐」の一団が、傍若無人に暴れ回ってるのだ。

リンがまだ少女の頃、大佐は町を襲い、リンを捕えて犯そうとした。その時リンは反撃して、大佐の顔に深い傷を負わせた。激怒した大佐によって、彼女の家族は目の前で殺され、リンも撃たれて瀕死の重傷を負った。
リンがサーカスでナイフ投げに志願したのは、いつか大佐に復讐するためでもあった。
リンはそんな生い立ちを戦士に話した。戦士はリンに剣の技術を教え、クリスマスで町の住人が賑わう中、ふたりは初めて口づけを交わした。

だがその聖なる夜に、再び大佐たちの一団が町を襲った。住人たちはその振る舞いに耐えるのみだ。
娼婦に扮して大佐に近づき、復讐の機会を狙ったリンだったが、正体を見破られ、絶対絶命に。
その時、疾風のような勢いでリンを救ったのは戦士だった。
大佐が差し向ける兵隊たちを次々に打ち倒していく。町の住人たちも呆然と見つめた。そして酔いどれのロンも。
思いもかけぬ反撃に混乱した一団は、大佐に率いられ撤退した。

東洋人の戦いぶりに、町の住人たちも勇気を奮い立たせた。
大佐たちは報復に戻ってくるだろう。だがもう泣き寝入りはしない。町は自分たちで守るのだ。
貧しさとともに、誇りも見失ってた住人たちは、迎え撃つ決意にまとまった。

だが戦士が封印してた必殺剣の、その空気を震わす音を、はるか彼方で聞き取った者がいた。
暗殺集団「悲しき笛」の首領は、追ってた裏切り者が、いまどこに居るのか確信した。


チャン・ドンゴンのハリウッド進出第1作となるんだが、監督も韓国人のイ・スンムなので、チャン・ドンゴンの韓国でのステータスに敬意が払われてる。
ハリウッド映画界が、東洋人スターに「場を貸してやる」という、軽く見た感じがないのがいい。

東洋人のミステリアスなキャラクターというのは、定石的ではあるが、名の通ったハリウッドの役者たちが、手を抜かずに脇を固めているので、むしろこの手の合作にありがちな「ツッコミ入れながら見る」という要素が乏しくて、そこは感心するやら、物足りないやら。
その位きっちり作られてるという印象なのだ。

なにより『ブルー・クラッシュ』や『スーパーマン・リターンズ』のロイス・レーン役など、主演級で活躍してる、ハリウッドの白人女優ケイト・ボズワースとのキスシーンがあるのは特筆もの。

過去にハリウッドの白人女優が、東洋人の男優とキスを交わす場面は、ほとんど描かれたことがない。
アメリカ映画における保守的なヒエラルキー構造は、今も根強くあるのが実情なのだ。
ケイト・ボズワース自身が『わらの犬』のリメイクで、男たちに暴行されるシーンを演じるなど、挑戦を厭わない女優であるということもあるだろう。
彼女はこの映画で、大佐との格闘場面も体当たりで演じており、その役者根性はすがすがしい。

酔いどれのロンを演じるのは名優ジェフリー・ラッシュ。ロンがライフルを再び手にして、観覧車の上から、大佐たちの一団を迎え撃つ場面は痛快だ。
それにも増して大佐を演じるダニー・ヒューストンが、ケレン味全開の悪玉演技を披露してて、場面をさらう。
作劇として問題があるとすれば、この大佐がキャラ立ちしすぎてるのだ。


ラスボスであるはずの「悲しき笛」の首領と、その刺客たちが、クライマックスで満を持して登場する作りのはずが、もう大佐たちとの戦闘場面で盛り上がってるんで
「あれ、なんかどさくさにまぎれて来ちゃいましたよ」という、パーティに遅刻して参加したタイミングの悪さは否めない。

その首領を演じるのは『男たちの晩歌』のティ・ロンという贅沢なキャスティングなのにね。
ティ・ロンは若い頃には「武侠映画」にも出ているんで、このラスボスの佇まいも堂に入ってる。

戦いを終えたチャン・ドンゴンが、住人が見送る中を、デッカい夕陽に向かって去ってくのは、ベタすぎる絵ヅラで「おいおい」と思うが、その後にももう一場面あったのだ。

俺としてはクワイ・チャン・ケインを思い出したり、楽しみ所のある映画だった。

2012年5月10日

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肝心な所を描いてないマイケル・マンの娘の監督作 [映画カ行]

『キリング・フィールズ 失踪地帯』

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ヒューマントラストシネマ渋谷で継続中の「未体験ゾーンの映画たち2012」の上映作で、俺としては 『タッカーとデイル 史上最悪にツイてないヤツら』に次ぐ2本目。
監督はマイケル・マンの娘で、父親が製作を買って出てるのは、先日コメントした『汚れなき情事』と同じパターン。
まず画面が暗い。夜の場面が多いからだ。父親のマイケル・マンも夜の場面を好んで撮ってるが、父親の映画の場合はほとんど都会が舞台なので、夜といっても様々な灯りが映るし、それが画面に色気を与えもする。
だがこの映画はテキサスの田舎が舞台なんで、夜の灯り自体が乏しく、ただ暗い画面が続くだけだ。
そこですでにかったるくなってくる。


3人の刑事が登場する。サム・ワーシントン演じるマイクはテキサスシティの殺人課刑事。父親も同じ職にあった。コンビを組むのは彼より年上で、ニューヨーク市警から転属されたブライアン。
ジェフリー・ディーン・モーガンという役者は知らなかったが、TVドラマ『グレイズ・アナトミー』で脚光浴びた人だそう。ヒゲをたくわえたハビエル・バルデムのような印象。
もう一人同僚の女性刑事パムを演じるのが、もう今年3本目の公開作となるジェシカ・チャスティン。
マイクとパムは離婚した間柄で、職務上もなにかにつけ、反目しあってる。

マイクと相棒のブライアンは、売春をしていた少女が殺害され、無残な遺体となって発見されたとの報を受け、捜査を始める。その過程で母親が男を連れこんで売春をしてる家に聞き込みに入る。
その家の娘アンを演じてるのが、クロエ・グレース・モレッツだ。彼女はいかにも怪しそうな風貌の兄と、その家に入り浸る兄の友達と同居していた。
同じ頃パムは別の少女の失踪事件を追っていて、マイクたちに救援を頼むが、マイクは忙しいと断る。
その少女はテキサスシティから少し離れた湿地帯で遺体となって発見される。

連続殺人事件として、容疑者の目星をつけたマイクは、地元のポン引きの黒人男と、マスタングに乗り、道行く少女に声をかけてるという白人の男を追う。
だがニューヨーク市警から来たブライアンは、このテキサスの湿地帯で、何十年にも渡って女性被害者の死体が上がり続けてることにショックを受ける。マイクと捜査を行ってる殺人事件は管轄内で起きたものだが、湿地帯で発見された死体は、彼らの管轄外だ。
だがブライアンは、地元で「キリング・フィールズ」と呼ばれる、湿地帯で死体で発見された被害者の女性たちのことが、頭から離れなくなってしまう。

ブライアンは聞き込みで訪れた家の娘アンのことを気にかけていた。思春期の少女が暮らすには、あの家は過酷すぎる。ブライアンは非番の日にアンに声をかけ、自分の家へ。妻や子供との食事の場に招き、アンに家族の温もりを味わってもらおうと。
だがそのアンも失踪してしまう。ブライアンは単独でアンの行方を追い、あてどもなく広大な「キリング・フィールズ」の中へと分け入っていく。


この脚本も問題だな。どこに焦点を合わせたいのか、まずわからない。
マイクとブライアン、同僚のパムが一丸となって連続殺人事件を追うという展開にならない。
ブライアンは悩み始めちゃうし、マイクとパムは夫婦喧嘩の延長戦みたいなことを繰り返してるし。
夫婦のいざこざほど、どーでもいいことはないんだよ。
テレビでせっかく盛り上がる場面なのに、「どこそこ県知事当選しました」の速報テロップ、
あれくらいどーでもいいのよ。

ほんと「キリング・フィールズ」はどうなっとるのかと。


映画は実話ではないが、実際に1960年代以降、このテキサスの湿地帯では断続的に、殺害されてとおぼしき死体が上がり続けてるという。
犯人は単独でも一世代でもなく、綿綿とそこに死体を捨てる、あるいはその場所で殺害に及ぶという行為が繰り返されてきてる場所ということだ。

見る側の興味としては、それがどんな場所なのか、それが俯瞰できるような描写がまず欲しい。
「ああ、ここなら死体も捨てたくなるだろうなあ」という絶望感が感じられるような。
そこで犯人がどんなプロセスで、殺害に及び、また遺体を捨てに来るのか、そこが描かれてないと、「キリング・フィールズ」という地帯のおぞましさが感じとれない。
死体が上がった後の描写しかないのだ。

主演はサム・ワーシントンだから、マイクが話の中心にいるのかと思うと、相棒の中年刑事ブライアンの人物描写に重きが置かれてくるし。正直女性刑事パムはいらんし。
なんか見てるこっちが映画の方向を見定められなくて、失踪した気分になってしまうのだ。

「犯人は近くにいたんだね」という結末にしても、ミスリードしてるつもりの描写がたっぷりあるんだが、単に無駄な感じに思えてしまう。
父親のマイケル・マンは娘の演出にアドバイス送ったりしただろうが、まず脚本の不備に意見すべきだったんじゃないか?


アミ・カナーン・マン監督は女優の撮り方が、父親と似てるかなと思った。
女優が笑顔をほとんど見せないのは、父親の映画の女性像を思わせる。
アンの母親をシェリル・リーが演じてるんだが、「美人が荒むとこうなる」という表情で、
あの「世界一美しい死体」と呼ばれた『ツイン・ピークス』から隔世の感だ。
クロエもジェシカ・チャスティンもほぼ笑わない。
ブライアンの妻を演じてるのが、若い頃『ミスティック・ピザ』でジュリア・ロバーツと主演を分け合ってたアナベス・ギッシュだが、彼女も昔の柔らかい表情ではない。

この映画に出てくる女性たちは、一様に表情が暗いのだ。
そのことは映画を見てて一番印象に残るところだ。
サム・ワーシントンは可も無く不可も無くな感じだが、ラストカットの表情はよかった。

2012年4月29日

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ジョルジアの眼差しと共に歩む『輝ける青春』 [映画カ行]

『輝ける青春』

輝ける青春.jpg

この6時間に及ぶ、イタリアのある家族の物語の見所を一から十まで語ったら、ブログ1週間分くらい必要になってしまう。ここでは物語の中心となる兄弟と、ジョルジアという少女のことだけを書こうと思う。

1966年、イタリアのトリノ。兄のニコラは医者を志し、弟のマッテオは文学を学んでる、ともに大学生。兄弟は兄の友達2人とともに、夏休みの北欧旅行を楽しみにしていた。
旅行まで間もない頃、精神病院のボランティアに参加したマッテオは、そこでジョルジアという美しい少女の面倒を見るよう言われる。彼女は目を合わさず、ほとんど言葉を口にしない。
マッテオは彼女を散歩に連れ出し、図書館に立ち寄ったりするが、不意に道路に飛び出したり、その行動には手を焼くばかりだ。
心を通じ合うきっかけも掴めぬまま、マッテオは趣味のカメラで、ジョルジアを撮る。
いきなり顔を撮るのは嫌がられそうだから「君の手を撮るよ」と言いながら。
そして思いつめたような表情のままの、彼女の横顔をアップで撮る。

マッテオ.jpg

マッテオは家に帰り、彼女の写真を現像し、その横顔を引き伸ばして、何かに気づく。
兄のニコラに写真を見てもらう。彼女のこめかみの少し上あたりに、焼けたような黒い斑点がある。
「電気ショックだと思う」
ジョルジアは病院で虐待を受けてるのではないか?
マッテオは深夜に病院に行き、収容されてる部屋を調べて、寝ているジョルジアを起こす。
「ここから出ていくんだよ」

兄弟は北欧旅行を保留にして、ジョルジアを父親の元に返す旅に出る。汽車の座席でマッテオの肩に頭を預けて眠るジョルジアを、ニコラは優しい眼差しで見つめている。マッテオにジェスチャーで
「おまえと彼女はお似合いだよ」と。

二コラ.jpg

ジョルジアの生まれ故郷に着くと、彼女を知る神父から、父親は引っ越したと告げられる。その場所までは1日かかる。3人は神父の家の納屋を借りて1泊することに。
夜中に目覚めたマッテオは、床に落ちてたジョルジアのノートを拾って、何気なくページをめくる。そこには彼女の心を映すような絵とともに「マッテオ」の文字が。
それ気づいたジョルジアは「あんたは泥棒よ!」と激しくマッテオをなじり、抑えが利かなくなった。
ニコラが何とか彼女をなだめる。


だが父親の住む町を訪ねる道中も、ジョルジアとマッテオの間には強ばった空気が流れた。
ジョルジアの父親は彼女を引き取ることを拒否し、兄弟は途方に暮れる。
マッテオがジョルジアを病院から無断で連れ出したことは「誘拐」にあたる行為だ。兄弟はアドバイスを乞うために、弁護士の姉が住む町を訪ねる。駅に着き、兄のニコラだけで姉に会いに行く。

留守番をするマッテオとジョルジア。
「僕のことを怒ってるんだろ?」ジョルジアは何も答えない。
「じゃあ、手話でいいよ、何か飲むかい?」
ジョルジアは手話で答え、ふたりはホームのカフェへ。

ジョルジアはジュークボックスの前で立ち止まる。
「何か聴きたい曲は?」マッテオが訊ねると、手話で返した。
ファウスト・レアリというカンツォーネ歌手の『誰に』という曲だった。

ジョルジアは曲が流れ始めると、その歌詞とともに、マッテオをじっと見つめた。
人と目も合わせなかった彼女が、強く、強く、気持ちを込めて、マッテオを見つめてた。

ジョルジア2.jpg

「誰に、微笑めばいい」
「君以外の、誰に」
「もう君は、ここにいない」
「もう何もかも、終わった」
「終ったんだ、僕たちの恋は」

ニコラが戻ってきた。ジョルジアを別の信頼できる施設に移すしかない。マッテオと話しをするために、ジョルジアにアイスクリームを買いに行かせた。
だが売店で挙動不審な彼女に警官が目を止め、ジョルジアは兄弟たちの目の前で補導されて行った。
二人は何も声をかけることができなかった。
ニコラは友達との北欧旅行に向かうことにしたが、マッテオは旅には行かなかった。
マッテオは深く打ちのめされていた。彼は大学も辞め、そのまま軍隊に入った。

その後の兄弟のそれぞれの人生が描かれていくが、あの時の駅の兄弟と同じように、映画を見てるこっちも、ジョルジアにずっと後ろ髪引かれるような思いを残したままになる。


マッテオは軍を退役して警察官となった。パレルモに赴任した時、港のカフェで、写真を撮る女性に声をかける。
「もっと被写体の内面を覗きこむように撮るんだ」
ミレッラという名の女性はマッテオに興味を持った。読書が好きという彼女に「ローマにいい図書館がある」とマッテオは言った。ミレッラはそんなマッテオの顔にカメラを向けた。
映画の中ではもう十年近くの年月が流れ、駅の別れの場面からも上映時間にして1時間は経過してる。

ニコラは精神科の医者となり、当時のイタリアの精神病院の改善に乗り出していた。
問題のある病院があると聞きつけ、内部視察に訪れる。看護士長は「患者を治療の一貫で、今は外出させてる」と話すが、ニコラは嘘を嗅ぎ取り、建物の奥まった部屋に、ベッドに縛りつけられた患者たちを見つける。
そしてさらに扉を開けると、一人の患者が隔離されてる。
「いたああああ!」「ジョルジアあああ!」
これは劇中のニコラのセリフではない。見ている俺が心の中で叫んだ言葉だ。

兄弟から不意に引き離されたジョルジアは、あれから十年間、劣悪な環境に閉じ込められていた。
ニコラは自分が管理する療養施設にジョルジアを引き取り、マッテオに手紙を送った。


マッテオはベッドにじっと腰かけたままのジョルジアの背中側に椅子を持っていき、彼女に話しかけた。だが反応は返ってこない。
「うわの空だな」
「この世のすべてに」
「あの夏のこと憶えてるかい?」
「君の好きだった歌」
「あのとき、君はどんなだった?」
「僕はどんなだったろう?」

そして諦めかけたマッテオに、ジョルジアが口をひらいた。
「マット…」「マッテオ」
「ジョルジア」
ジョルジアは振り向いてマッテオを見つめた。
あの曲を聴いた時のように、あの眼差しで。


マッテオとジョルジアの出会いのきっかけとなったのが、マッテオが彼女を撮った一枚の写真だった。
そしてもう1枚ジョルジアの人生にとって重要な意味を持つ写真が出てくる。それがパレルモで、ミレッラが撮ったマッテオの顔のアップだ。
それがどんなエピソードとして出てくるのか、ここでは書かないが、この2枚の写真が、ジョルジアを外の世界へと導くことになる、その脚本のつながりが感動的なのだ。


ジョルジアだけでなく、この映画は「眼差し」が強く印象を残す。
ニコラが、フィレンツェの大洪水のボランティアに駆けつけた現場で出会い、一緒に暮らすようになるジュリアは、彼との間に娘をもうけながらも、次第に政治運動に傾倒していく。
警察官のマッテオとは反りが合わない。
イタリア国内が揺れた「政治の季節」に、ジュリアは過激派組織「赤い旅団」に加わってしまう。ニコラにもその溝は埋められない。

家族の前から姿を消したジュリアだったが、娘をひと目見たいと、ニコラに懇願する。
ニコラは娘を博物館に連れ出す。背後に気配を感じたが、ニコラは振り向かなかった。ジュリアは金髪を黒く染めていた。小さな娘はふとジュリアの方を振り向く。

二人は目を合わせるが、娘は一瞥しただけで、背を向ける。
この場面の娘の「眼差し」も深くて、怖いものがあった。


俺はこの映画が公開される時に「岩波ホール」と聞いて怖気づいたのだ。
「あのホールの座席で6時間は…」と。
そのまま見る機会を先延ばしにしながら、ここまできた。
今月末開催の「イタリア映画祭」で、この映画の姉妹編と位置づけられてる、やはり6時間の大長編『そこにとどまるもの』を見ることにしたんで、予習の意味も兼ねてDVDを見たんだが、本当に後悔した。
「なんで岩波で見とかなかったかな」と。

この6時間はちっとも苦ではない。見終った時には登場人物の表情が焼きついてる。
兄のニコラ、彼は誠実な人間だ。精神科医として、患者に対して深い共感を持って接してる。だがニコラは自分の一番身近な人間に寄り添うことができなかった。マッテオとジュリア。
もう少しどうにかできてたのかも。だがどうにもならなかったかもしれない。
人間は全能ではない。だが自分の力が及ばないことがあるにせよ、自分はできることするしかない。
そのニコラの人としての「真っ当さ」がこの6時間を支えてるのだ。

俺はどっちかというと、真っ当に生きられない人間を描いたような映画の方に、惹かれがちなんだが、真っ当じゃない人生を6時間も見るのはさすがにしんどい。「太く短く」じゃないが、せいぜい2時間くらいで語り切ってもらうのがいい。

ニコラを演じるルイジ・ロ・カーショは、もちろん男だが、その黒い瞳が非常にきれいなのだ。主人公の人間性が映し出されてるようだ。

弟のマッテオを演じるアレッシオ・ボーニは、その複雑な内面を表すように、軍隊に入って髪を刈り込んでから印象がガラリと変わる。若い頃のスコット・グレンと、ジョナサン・リース=マイヤーズの面影が入ってる感じのルックスで、長身だし画面映えがする役者だ。
近年のイタリア映画をあまり見てない俺には、この二人も初めて見る顔だったが、若いいい役者が出てきてるんだなと感じる。

あとはともかくジョルジアに心を掴まれてしまった。
ジャスミン・トリンカという女優で、モレッティの『息子の部屋』に出てたというが、印象に残ってなかった。たぶん彼女を見るためにも、あと何回か見るだろう。
一気に見るんじゃなく、区切り区切りででも、見直したくなる映画だ。

2012年4月24日

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制服の処女とミスG [映画カ行]

『汚れなき情事』

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1934年、イギリスのスタンリー島という小さな島に、ひときわ目立つ古城のような建物があった。カソリック系の全寮制の女子校だ。
その女性徒たちの憧れの眼差し浴びるのが、「ミスG」と呼ばれる若く美しい女性教師だった。彼女は「ダイビング」の授業に熱心で、特にその授業に参加する生徒たちは、ミスGに心酔していた。生徒たちのリーダー格のダイは、ミスGから誰よりも目をかけられていると思っており、それは恋慕の情に近かった。

ミスGは型通りの授業などせず、生徒たちには、自分が世界各地を旅してきた話を聞かせたりした。
環境に囚われず、自由な精神を持つこと。
心を解き放って自分を表現すること。
池に作られた飛び込み台を使ったダイビングでも、彼女はそんな風に生徒たちを諭した。
そこは女性教師と、女性徒たちだけの、閉ざされた秘めやかな楽園に思われた。

そこにスペインからの転校生フィアマがやってくる。お付きの者が荷物を運ぶ姿を見て、彼女が良家の子女であることは一目瞭然だった。
就寝室で私物を広げるフィアマに、ダイは早速ここのルールを言い聞かせるが、フィアマは超然としていて、ダイはその美貌とともに、気に食わなく感じた。
フィアマは英語にも堪能で、生徒たちの知らない知識も豊富だった。ダイと彼女のとりまきのような生徒たちはともかく、年下の女性徒たちは、フィアマに懐いていった。

そしてフィアマに誰よりも惹きつけられたのがミスGだった。「ダイビング」の授業で、いつも一番の飛び込みを見せるダイも霞むほどの、身体を回転させた見事な飛び込みを見せたフィアマに、ミスGは心を奪われた。


月明かりの夜。ミスGは生徒たちを起こし、ナイトスイミングに誘う。
フィアマは気乗りしなかったが、水の中で戯れる生徒たちを見て、自分も後に続いた。フィアマには喘息の発作があり、吸引器が欠かせなかった。

泳いだ後に発作が起き、先に脱衣所へと向かうフィアマ。
ミスGは様子を覗きに来て
「あなたと私はいい友達になれるわ」
と言う。フィアマは無言だった。

フィアマはミスGの「うさん臭さ」を見透かしているようだった。彼女はミスGが生徒たちの前で、アフリカ旅行に行った時のエピソードを聞いて鼻白んだ。その話のオチを先に話した。
ミスGは「前に話したかしらね?」ととぼけたが、フィアマは隣に居たダイに
「あの話は小説のまんまよ」と小声で教えた。
ダイの顔に失望の色が浮かんだ。


ミスGには生徒たちの知らない本当の姿があった。彼女はこの学校に赴任してきたのではなく、元々この学校の生徒だったのだ。
彼女には外の世界に出ることは恐怖だった。ましてや海外旅行などできる筈もない。学校の近くの町にパンを買いに行くだけでも、恐ろしい緊張に見舞われるのだ。

彼女が生徒たちに語る言葉や、物の考え方はすべて学校にある蔵書からの受け売りだったのだ。
「心を解き放て」と生徒を諭す本人こそが、自分だけの妄想の世界に囚われて、心を閉ざしてきた。


ダイたちのグループに受け入れられたフィアマは、夜中に仮装パーティをしようと提案する。生徒たちは思い思いに扮装して、どこから調達したのか、ワインを飲んで盛り上がった。

ミスGは少女たちの哄笑を、廊下から暗い眼差しで聞いていた。
やがてフィアマは飲みすぎて、酔いつぶれてしまう。
ミスGは部屋に入り、生徒たちに片付けを命じ
「私が介抱する」とフィアマを抱えて出て行った。

胸騒ぎを覚えたダイは、ミスGの部屋をドアかげから覗き見た。
ミスGは眠ってるフィアマに口づけして、
「私からさせないで」と呟きながら、フィアマのはだけた胸に顔を寄せていた。
ダイは激しいショックに、ドアの前から逃げ去った。


この物語のオリジンを辿ると、1931年のドイツ映画『制服の処女』に行き着くと思う。

制服の処女.jpg

どちらの映画もまず監督が女性であること。
『制服の処女』も全寮制の女子校に、転校生がやってきて、生徒に慕われる女性教師との関係が物語の軸となってる。
ただその関係性が真逆というか、『制服の処女』の転校生の少女は、貧しい家の出で、下着も破れてたため、女性教師が自分のを一枚あげるのだ。
そんなことから少女は教師を好きになってしまい、学芸会で男装をした晩に、ワインを飲んだ勢いで、教師への愛を告白してしまう。
これは当時「エス」と呼ばれた女性同士の愛を描いた初めての映画と騒がれたそうだ。

もう1本連想させる映画が、1969年のイギリス映画『ミス・ブロディの青春』だ。
こちらは『汚れなき情事』と時代設定が同じ1930年代のエジンバラの名門女子校が舞台。
保守的な校風の中、派手な服装と柔軟な物言いで、生徒たちに慕われる女性教師ミス・ブロディが、その奔放さと、生徒からの嫉妬などで、窮地に立たされる過程が描かれてた。

ミスブロディの青春.jpg

ミス・ブロディは中年だったが「私はいま青春のただ中にいる」と公言してはばからない。
『汚れなき情事』のミスGは、むしろ十代の自分から時が止まってしまってる。


この映画がユニークなのは、『ミス・ブロディの青春』や『モナリザ・スマイル』に出てくる進歩的な女性教師が主人公と思わせておいて、それをひっくり返してる所だ。

女性徒が見本のような女性教師に、憧れの感情を抱くというパターンを逆手に取って、大人である女性教師が、スペインからの転校生の少女に「本当は自分はこうなりたい」と憧れてしまうという、倒錯した関係性を描いてるのだ。


ただミスGがフィアマを部屋に入れる場面の後が、話が急に進んでしまい、結末を迎えるので、そこが物足りない。「女が女を巡って女に嫉妬する」という、俺がこの世で一番好きなシチュエーションを、もっと時間取って描いてくれよと。


監督が女性と書いたが、この『汚れなき情事』は、リドリー・スコットの娘でジョーダン・スコットの長編第1作となる2009年の日本未公開作。
スタッフリストを眺めてみると、父親はじめ、叔父のトニーや、スコット一族総力挙げてバックアップしましたって感じだな。映像はとても奇麗に撮れてはいる。ナイトスイミングの場面などは、水中から裸で泳ぐ少女たちの肢体を収めてるが、エロくはなくて奇麗。

多分父親が相当アドバイスしてるようで、ちょっと絵がCM的に「決まりすぎ」な面も見られた。
ミスGの人物像とか、設定は面白いと思うんだが、もっと踏み込んで描けてもいいんじゃないか?ヒリヒリ感が足りない気がする。
同じ立場の先輩格ソフィア・コッポラのように、自分の個性を作っていけるかは何とも言えない。


ミスGを演じたエヴァ・グリーンはいい。彼女はどの映画でも眉を鋭角に書いて、目の周りも黒で縁取って、顔に迫力を出そうとしてるような所を感じるんだが、今回の映画は、場面によって、素顔が透けるような表情になる。
彼女のスッピンは、パッツィ・ケンジットのような「柔らかい顔」なのだろう。
ミスGの言動と内面が乖離する人物像と、エヴァ・グリーンの「演出したい私」と、素の柔らかい表情が漏れる部分とが、なにかシンクロするようで、この役柄はスリリングに思えた。

ダンを演じるジュノー・テンプルは、美人ではないが、エキセントリックな輝きを放つ女優に成長していきそうだ。
転校生フィアマを演じるマリア・バルベルデは、スペインの女優で、俺は初めて見るけど、ジュリー・デルピー入ってる感じの美少女。

邦題の「情事」というのは内容に適してないね。原題は「亀裂」という意味。

2012年4月19日

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