洋楽好きには楽しめる合唱ドラマ [映画サ行]

『ジョイフル♪ノイズ』

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これも都内では現在「シネマート新宿」のみの単館公開だ。先週別の映画をここに見に行った時には、小さいキャパの「スクリーン2」で上映されてて、満席の回とか出てたようだ。今週になり「スクリーン1」に再び格上げになってたので、この機にと見に行った。

「合唱映画」というのは、どんな曲を歌うのかというのが、俺のとっての一番の関心事だ。
ストーリーよりもそっちが楽しみ。

昨年1月に公開された、韓国の「塀の中の女性合唱団」を描いた『ハーモニー』では、合唱曲の中に、驚くようなレアな洋楽が含まれてた。
スペインのポップスバンド、モセダデスの『エレス・トゥ』という曲だ。
これは日本ではラジオの「全米トップ40」を聴いてたような洋楽好き以外には知られてない。坂本九の『スキヤキ(上を向いて歩こう)』と同様に、アメリカの音楽チャートで、「英語じゃない歌詞」としてヒットを飛ばした、数少ない曲のひとつなのだ。
多分韓国では70年代に、日本よりもよく聴かれてたんだろう。実際美しいメロディで、サビ部分はコーラスだから、合唱曲にもうってつけだ。

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モセダデスのヒットはこれ1曲で、こういうアーティストのことを
「ワン・ヒット・ワンダラー(一発屋)」と向こうでは呼ぶ。
この『ジョイフル♪ノイズ』でクイーン・ラティファ演じるヴァイ・ローズの息子ウォルターが、ヒット曲マニアで、一発屋に異様に詳しいという設定になってる。
ウォルターは自閉症気味で、学校ではイジメにあったりするが、音楽の才能はある。

人前では歌えないというウォルターを、ドリー・パートン演じるG.G.の孫ランディが励まして、ピアノで連弾しながら歌うのが、1966年の一発ヒット『いとしのルネ』だ。ビートルズなどから影響を受けたアメリカのバンド、レフト・バンクの全米5位を記録した曲だ。
この曲が映画で使われたのは初めてじゃないかな。
家族に口を開くと、まず「一発屋」のウンチクが入る、ウォルターのキャラが面白いんで、彼を主役に「ワン・ヒット・ワンダラー」の楽曲だけを使ったスピンオフを作ってもらいたい位だ。


ジョージア州のパカショーという架空の町を舞台にしていて、日本の地方都市と同じく、シャッターの下りた店ばかりが目立つ不況の町で、その住民たちの期待を担って、全米聖歌隊コンクール「ジョイフル・ノイズ」での優勝を目指す、教会の聖歌隊が主人公だ。
聖歌隊といえばゴスペル・ソングと思いがちだが、「神への賛美や、人生を肯定する」曲ならジャンルは問わないようだ。

この聖歌隊も冒頭でMJの『マン・イン・ザ・ミラー』を歌い、ポール・マッカートニーのソロ後のヒット曲『メイビー・アイム・アメイズド』なんて渋い所も持ってくる。
スライ&ファミリー・ストーンの『アイ・ウォント・テイク・ユー・ハイヤー』から、アッシャーの『YEAH!』、クリス・ブラウンの『フォーエヴァー』とつなぎ、「サインド、シールド、デリヴァード、アイム、ユアーズ♪」と歌われるスティービー・ワンダーの『涙をとどけて』に至る「ハイヤー・メドレー」など、合唱シーンはさすがに聴かせる。

合唱以外の場面でも、現代が舞台になってるわりには、ボズ・スキャグスの『ロウダウン』、カチャ・グー・グーの『君はトゥー・シャイ』(彼らも一発屋)、ルー・ロウルズの『ユール・ネヴァー・ファインド・アナザー・ラヴ・ライク・マイン』など「懐メロ」が流れるのは監督の趣味なんだろう。
年季の入った洋楽好きなら、この選曲は気に入るだろうな。


だが映画の作り自体はいろいろ難点もある。こういう映画の場合、逆境におかれた登場人物たちが、一丸となって栄光を目指すというのがルーティンだと思う。
ベタだけどやっぱりその展開が胸熱になるからだ。
聖歌隊のメンバーの、生活に窮してる様子とか、シャッター商店街の店主たちが、聖歌隊のために後方支援に回るとか、うなだれた町が覇気を取り戻していくような、ストーリーが見たい所なんだが、まったくそういう気配はない。

クイーン・ラティファ演じるヴァイ・ローズと、ドリー・パートン演じるG.G.が何かにつけ、角突き合わす様を見させられる。

G.G.の夫のバーニーをクリス・クリストファーソンが演じてるんだが、聖歌隊をまとめてたバーニーが急死してしまい、妻のG.G.が後任に選ばれる。
ヴァイ・ローズはサブとして聖歌隊に貢献してきた自分を差し置いて、G.G.が選ばれたのが納得いかないのだ。
そこに持ってきて、ヴァイ・ローズの娘オリビアと、G.G.の孫のランディが接近したりで、いよいよ二人の間はこじれていく。
クイーン・ラティファとドリー・パートンは、どちらも芸達者だから、いがみ合いもそれなりに楽しく見れはするが、所詮「家庭の揉め事」を見させられてるだけであって、他の聖歌隊のメンバーはほぼ空気となってる。
合唱団映画につきものの「人間模様」ってやつが無視されてるのだ。

アメリカ映画にありがちな、ヘッポコなチームや集団が、最後にはすごい成果を示すという設定にはなってないのはいいと思う。
「ここまでうまけりゃ、最初からある程度はうまいはず」と見てて思うことが多いので。
この聖歌隊は実力はあるんだが、地区大会に立ちはだかる強豪の壁を突破できないでいるのだ。
これは『チアーズ』と同じ設定だね。


その地区大会で見せる「デトロイト教会」のパフォーマンスが見事だ。実際のゴスペル界のスター、カール・フランクリンがソロパートを担ってるが、聴衆を煽る煽る。もう会場ノリノリだ。
だがコーラスがあまりに上手すぎて「プロなんじゃないか?」と、クイーン・ラティファたちは疑うと、察する通りに、プロを使ってたということで、宿敵は失格となり、思いもかけず全国大会決勝へと駒を進めることになる。

そしてこの決勝の相手として出てきたのが、子供時代のマイケル・ジャクソンかと思うような、見事な歌唱の黒人少年がソロパートを担う合唱団だ。
俺は合唱というと全編コーラスと思ってたが、ソロパートの役割が大きいのだな。
この相手チームのパフォーマンスも圧巻で、その後に出るパカショーの聖歌隊のメンバーは「不公平だよ」と意気消沈してるのもわかる。

難点として対戦相手のクオリティが高すぎないか?ということなのだ。
いや見る側にとっては、見事なパフォーマンスがいくつも見れて、それはそれで満足ではあるんだが。
パカショーの聖歌隊が勝てると思えないんだよな。

ドリー・パートンの顔の整形をネタにした、レストランでの大ゲンカの場面は、笑っていいのかな。
続編作るなら、ドリー・パートンとシェールで
「自然に歳を重ねたとはとても思えない人工感あふれた美魔女」
共演を期待したい。

2012年5月18日

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じいちゃんと孫の自転車ふたり旅 [映画サ行]

『さあ帰ろう、ペダルをこいで』

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昨年から「シネマート新宿」によく通ってる。都内ではここでしかかからない「単館上映」の作品にいいものが目立つからだ。封切り1週間以内に見るのが望ましい。
ここはスクリーンが2つあり、封切り直後はキャパの大きい「スクリーン1」でかかるが、入りが芳しくないと、翌週には「スクリーン2」に格下げになる。こっちの画面はべらぼうに小さい。
同じ料金があり得ない位に鑑賞環境が違うのだ。
俺はHPで、どっちのスクリーンでかかってるかチェックしてから見に行くようにしてる。

先週もここでツイ・ハークの新作『王朝の陰謀 判事ディーと云々…』を「スクリーン1」で見たんだが、俺の体調が思わしくなかったのか、なんとツイ・ハークであるにも係わらず、途中何度か意識が飛んでしまい、ちゃんと筋を追えなかった。
見る前に食べたハンバーガーに、睡眠薬が仕込まれてたとも考えられる。いや考えられない。
なので悔しいからもう1度見ようと思ってるんだが、今は「スクリーン2」に格下げ中なんで保留としてる。
この劇場はわりと細かく上映の割り振りをしてるんで、日に1回だけ「スクリーン1」になることもあり、チェックは怠れないのだが。


この『さあ帰ろう、ペダルをこいで』もここでしか上映してない、ブルガリア映画だ。
ブルガリアは年に10本も映画が作られてないそうだ。
日本公開されたものとしては、2009年の『ソフィアの夜明け』以来か。
さらに遡ると、1988年の『略奪の大地』まで1本もないと思う。だがどちらの映画も、それぞれにブルガリアの現在と過去を描いて、見応えがあった。

題名にあるようにこれは自転車での旅を描く映画だ。俺も若い頃に自転車で旅したことあるんで、旅が主眼じゃなくても、『北京の自転車』とか『少年と自転車』とか、題名についてるだけで、見に行ってしまう。
旅を描いたものとしては、1992年の『ラテン・アメリカ/光と影の詩』を、やはり劇場で見た。
地図で見ると南米大陸の一番下、アルゼンチンのフエゴ島に住む少年が、父を探しに、南米を縦断しメキシコまで、5000キロを自転車で走破しようとする内容だった。
アストル・ピアソラのバンドネオンの音色が、少年の旅に寄り添ってて、俺はサントラ買いに走った。当時は外資系のCDショップ全盛で、サントラは「WAVE」で買うことが多かったな。
しかし南米を自転車でというのは厳しいだろうなあ。ほとんど悪路じゃないのかね。


『さあ帰ろう、ペダルをこいで』の主人公アレックスは、両親と乗る自動車の横転事故で、ひとりだけ生き残る。
一家はドイツから、長く戻れなかった祖国ブルガリアに里帰りする途中だった。
アレックスは事故の衝撃で記憶を失っていた。
ブルガリアではアレックスの祖父と祖母が悲報を受け取っていた。祖父のバイ・ダンは、幼い頃以来、顔を見れずにいた孫を案じてドイツの病院へとやって来た。

バイ・ダンの娘夫婦の一家はなぜ、祖父たちと離れたのか。
映画は2007年のドイツと、1982年のブルガリアを行き来していく。

祖父のバイ・ダンは「サイコロによる詰め将棋」のようなバックギャモンの名人。カフェで仲間たちとゲームに興じるのが日課だった。だが共産党政権下で、経済が停滞する中、体制維持による市民への締め付けが厳しくなっていた。
バイ・ダンはカフェの隅に座る見慣れぬ顔の男を、秘密警察呼ばわりしたことで、恨みを買うことになる。男はバイ・ダンの娘婿ヴァスコが勤める工場の人事部長だったのだ。

ヴァスコが以前、共産党青年同盟を除名され、大学に入るために陸軍の在籍記録を偽造してたことを掴んでいた。その弱みにつけこみ、人事部長はヴァスコに、嫁の父親とその周辺をスパイするよう強要した。
バイ・ダンは学生時代「ハンガリー動乱」に参加し、スターリン像を爆破した罪で、ブルガリアに送還されてたのだ。バイ・ダンの反政府的言動をつかみ、投獄しようという腹だった。
ヴァスコはその話は告げず、養父とバックギャモンの盤を囲む。
「俺はもう手詰まりです」
「戦略を変えてみろ。強行突破で道が開けることもある」
ヴァスコは密告の命に背き、妻と子を伴い、西ドイツへの亡命を図った。

バイ・ダンは、「サシコ」の愛称でみなに愛された孫のアレックスに、幼い頃バックギャモンの技を伝授していた。
病室で孫と向かい合っても、アレックスは祖父を思い出せない。
バイ・ダンは孫が住んでたアパートの部屋を突き止め、アレックスがどんな暮らしを送ってたのか、見当つけた。
自分が幼い頃のアレックスに贈った、手製のバックギャモンの盤も部屋にあった。
両親の写真を見せても記憶は戻らない。だがバックギャモンのやり方は憶えていた。

アレックスと見知らぬ祖父は打ち解けてきたが、相変わらず孫は病室から出ようとしない。
このドイツで孫は、友達もなく、仕事は翻訳文をメールで送るだけで、ほとんど「引きこもり」のように生活してたようだ。祖父にはそれが歯痒かった。
「バックギャモンも人生も、サイコロを振るのはお前自身だ」

両親の死を知らされてないアレックスに、バイ・ダンは自らも認めたくはない、その真実を告げた。
「両親はもう戻らない。だがお前が記憶を取り戻せば、思い出の中でまた会うことができるんだ」

西ドイツに亡命した両親の遺体は、ドイツの墓地に埋葬されていた。
バイ・ダンはアレックスを伴って墓参りをし、二人乗り用の「タンデム自転車」を購入してきた。
「飛行機で2時間で帰れるのに?」
アレックスは呆れるが、バイ・ダンは、自分の足で故郷ブルガリアへ帰らせようと思っていた。
そして寄る場所があることも。


ブルガリアから西ドイツへと亡命を図った娘夫婦と幼いアレックスは、なんとかイタリアまで辿り着いた。
一家が連れて行かれたのは難民キャンプだった。イタリアは政治亡命者を受け入れておらず、このキャンプで第三国への亡命申請を出す。だが行く先がどこの国であっても、申請の費用は高額で、この劣悪な環境で足止めを食う者がほとんどだった。

ブルガリアで裕福ではないが、安定した生活を送れていた妻のヤナは、この現実が耐えられなかった。
幼いアレックスはそんな日々の中でも、同じ年かさの少女と仲良く過ごすようになった。
父親にせがんで買ってもらったミニカーを後生大事に抱え、盗まれるといけないからと、少女といつも隣りあって座ってた建物の、床下の隙間に隠した。

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祖父と孫のタンデム旅行のペダルは快調だった。旅の途中には出会いもあった。キャンプ場の祭りで踊る、美しいダンサーのマリアに目を奪われたアレックス。
だが見つめるだけの孫にバイ・ダンは
「声をかけないでどうする」とハッパをかける。

マリアは情熱的で、ふたりはすぐに恋におちた。
内にこもるアレックスが、旅を通して自分を変化させてく、その様子を見ながら、バイ・ダンは
「また一つ駒を進めたな」と言った。

そして険しいアルプスの山々を越え、自転車はイタリアへと入った。亡命したあの日と逆のルートを辿って。
二人が立ち寄った建物は、すでにひと気がなく、門も錆び付いていた。
娘夫婦の一家が過ごした難民キャンプの名残だった。


この映画は旅を進めて行くにしたがってドンドン良くなってく印象があった。
前半のブルガリア時代の、人事部長の陰険さとか、人物描写が定石的で、演出としてさほど優れてるとも感じないんだが、物語の前半の人物や、小道具などが、後半に伏線として機能してくるなど、脚本は練られてると思った。

映画でアレックスは1975年生まれとなってるから、2007年時点で32才。そこから推測するに、祖父バイ・ダンは70代半ばくらいか。
ペダルを漕ぐ足も力強く、旅とともに孫の人生を導く頼もしさに溢れている。
演じるミキ・マノイロニッチは、クストリッツァ監督作の常連として名が通ってる名優。
『パパは、出張中!』でも、反政府的言動で投獄されてしまう、一家の父親を演じてた。

この映画で物足りない点があるとすれば、祖父バイ・ダンの、亡くなった娘夫婦に対する、思いというか、ある種の贖罪の気持ちが、描写として足りなかったんではと思うところ。
娘婿のヴァスコが亡命せざるを得ない、その原因の一端はバイ・ダンにあったわけだし。

バイ・ダンは体制に対しても怯むことのない、精神的にも強靭な男だ。バックギャモンに興じる、悠々自適な日々を送ってたといってもいい。
だが娘夫婦は生活者としての苦労がある。子供はまだ小さい。働き口がそう簡単に見つかるような国の情勢でもない。
自分のように強くあることができないでいる、そういう者たちへの目配せが足りなかったのでは?

映画で昔の難民キャンプを訪れた時に、アレックスはそれが記憶を取り戻すきっかけにもなり、場面としてはいい場面なんだが、その場所で娘夫婦たちがどんな思いでいたのか、バイ・ダンが悔恨とともに、思いを巡らすような描写も欲しかったと思った。

起伏に富んだ旅の風景の美しさや、気持ちのいい結末へと導いてくれる語り口で、映画そのものは見た後に晴れ晴れとさせてくれる。
なじみ薄い国の映画だとか、単館上映だとか、そういうイメージを払拭させる、見る人を選ばない「いい話」だ。

2012年5月16日

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ドニー・イェン対ジミー・ウォング仰天対決 [映画サ行]

『捜査官Ⅹ』

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雲南省の山間に、肩を寄せ合うように家が立ち並ぶ、小さな村で事件は起きた。
流れの強盗ふたりが、両替商を襲い、居合わせた紙職人ジンシーが巻き添えを食う。ジンシーが強盗のひとりの腰に必死に食らいつく中、同士討ちで、強盗の片割れが死ぬ。
ジンシーは腰にしがみついたまま、強盗とともに裏手の川に転がり落ちる。
強盗は馬乗りの体勢で拳を振るっていたが、急にもんどり打って水の中へと沈んだ。
思わぬ強運でジンシーは難を逃れたと、目撃した村人の誰もが思った。

家では牛を飼い、毎日美しい妻のアユーと幼い息子ふたりに見送られ、製紙工場で汗して働く。
実直なジンシーは一躍村の英雄となったが、村を訪れ、検死を行った捜査官シュウは、疑念を抱いた。
屈強な強盗ふたりを、丸腰の紙職人が倒せるはずがない。
水中に沈んでいた強盗の両目は充血している。

シュウは現場の両替商をくまなく見て回り、床に残る足跡などから、格闘の様子をまざまざと、頭の中に再現していった。
そしてジンシーが攻撃受けてるように見せかけて、周到に強盗たちを同士討ちに持ち込み、川の中では、強盗のこめかみに、心臓を止めるツボに一撃を食らわしたと推理した。
紙職人ジンシーは只者ではない。これは確信に満ちた殺人行為だ。

だが実際ジンシーを尋問し、その生活ぶりを、つきまとうように眺めても、この男が殺人技を極めたようには見えなかった。
シュウの執拗な追求に、ジンシーは家族にも話してない素性を明かした。
故郷で父親から殺人をけしかけられ、10年の刑期の後、この村に流れ着いたのだと。

だがまだ疑いの晴れないシュウは、凄腕の殺し屋なら、反射神経も鋭いはずと、橋の上から背中を押すと、普通に落下してくし、背中から鎌を振り下ろせば、もろに肩に突き刺さるし。
シュウにそんな真似までされても、ジンシーは怒る素振りもなかった。
だが村人からは、捜査の度を越してると一斉に反発を食らい、シュウは山を降りざるを得なくなる。


ジンシーは実直で家族思いであることも重々わかった。だがシュウは以前ある少年に温情をかけ、釈放した後、家族から感謝の席を設けられ、その際少年が料理に仕込んだ毒により、家族は死に、シュウ自身もそれ以来、薬の手放せない身となっていた。

「情より法を」という彼の頑迷さは、その経験から来るものだった。
そしてシュウの推理を裏付ける事実が、同僚から告げられた。

ジンシーの過去を探るため、故郷の村で同僚が突き止めたのは、ジンシーが中国最凶の暗殺集団
「七十二地刹」のナンバー2だったのでは、というものだった。
80万人の同胞を殺された、西夏族の生き残りで構成されており、「同胞80万人分の復讐」を掲げて、女子供の命も容赦なく奪っていた。
マスターと呼ばれる首領の息子タン・ロンこそ、名を変えたジンシーだという。
ジンシーは過去の自分を捨てたということなのか?その理由は?

だがシュウが逮捕状を取り、雲南省の村に戻るより先に、女刺客に率いられた「七十二地刹」の一味が、村を襲撃に来た。


平穏に暮らす男が、殺し屋であった過去を、家族の前で暴かれるというのは、クロネンバーグ監督の『ヒストリー・オブ・バイオレンス』であり、金城武演じる捜査官シュウが、現場の状況から脳内再現を試みるのは『シャーロック・ホームズ』であり、『処刑人』の刑事デフォーのようでもあり。

俺が映画全体を通して、かくし味のように連想した映画は、1973年のマカロニ・ウェスタン『ミスター・ノーボディ』だった。

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あの映画は銃を置いて引退を決めた、かつての名ガンマン、ヘンリー・フォンダを、テレンス・ヒルが執拗に追い回す。彼はフォンダをリスペクトしていて、名ガンマンには、ふさわしい伝説が必要と勝手に思い込み、群盗たち相手に銃を再び手に取らせようとする。
フォンダにはその気がないのにだ。
そして群盗たちを倒した後、まだ計画があった。フォンダが引退を表明しても、命を狙う者は後を絶たないだろう。
テレンス・ヒルは自分と決闘して死んだと思わせるため、ひと芝居打つのだ。
最初はストーカーのように付きまとうが、最後には両者に結束感が生まれてる。


『捜査官Ⅹ』もその展開で、ジンシーが女刺客と壮絶な戦いを演じたことを告げられた「七十二地刹」のマスターは、一族を裏切った息子タン・ロンの命を奪いにやってくる。
シュウは医学の知識があり、ジンシーを薬によって、一時的に仮死状態に置き、マスターに「死体」を見せて納得させようと図る。
「死んだと思わせる」という脚本の設定も『ミスター・ノーボディ』をヒントにしてるのではないか。
そんな風にいろいろ既視感は否めないんだが、それでもこれは面白かった。


邦題からは金城武の捜査官が主役に思われがちだが、ジンシーが紙職人の仮面を脱ぎ捨てる後半は、もうドニー・イェンの映画だ。前半の金城武の「思い込み」捜査っぷりはそれはそれで面白いし、ドニーがされるに任せてるというのも可笑しみがある。

だが村人に危害を加える女刺客と一味に対し、妻子が見守る前で、ついに本来の姿で戦闘モードに入る瞬間は、見てるこっちも全身が総毛立つような興奮が湧き上がる。
ドラマのタメが利いてるのだ。
車でいえば、新車を慣らし運転から、一気にエンジン吹き上げてく感じか。

こういう時代ものの格闘場面だと、ふつうはパーカッションというか、太鼓の「ドドドンドドドン」という劇伴がつくんだが、この映画ではなんとギターソロ!ゲイリー・ムーアかという感じで、これがけっこう合うのだ。


女刺客を演じるクララ・フェイは80年代を代表するアクション女優だそうだが、俺は彼女の映画を見たことなかったんで、その動きの切れとか、気合の入った表情とか、思わず見入ってしまった。
両手に剣を振るう彼女とドニーの戦いも技が速い速い。

それを牛小屋の中でやるから、牛も小屋の柵こわして暴走し、庭の先の崖から滝の中へと落下してく。
この滝も濁流のような水量で迫力あるし、起伏に富んだアクションのロケーションが素晴らしい。


終盤にはついに「七十二地刹」のマスターとの決着を迎えるんだが、マスターを演じるのはジミー・ウォング。
カンフー映画の伝説の一人であり「片腕ドラゴン」だが、この映画では片腕じゃない。
しかしいかに伝説とはいえ、68才にもなる人が、ドニー・イェンと拳まじえるのはチト酷ではないか。
誰もがそう思うので、映画は驚愕の展開を用意してた。
俺はその場面で「うわっ!」と声を出してしもた。このリスペクトの仕方は凄いなと。

ジンシーの妻アユーを演じるのはタン・ウェイ。『レイトオータム』を見て俺もすっかり気に入ってしまったんだが、この映画でも村の女なので、化粧っ気がなく、そこがよかった。
中国・香港あるいは韓国は、顔のパーツそれぞれが目立つというか、アピールの強い顔立ちの女優が多い。
タン・ウェイは顔のパーツが控えめで、その地味さ加減が逆に目に留まるのだ。
ちょっと昔の日本の女優とかアイドルとかを思わせる「なつかしさ」を感じたりもする。

金城武のファンには物足りなさがあるのかもしれないが、ドニー・イェンが出てるとなれば、ドニー・イェンが暴れないと話にならないわけで、原題もそのものズバリ『武侠』というしね。

2012年5月12日

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ルイス・ガスマン大活躍が嬉しい [映画サ行]

『センター・オブ・ジ・アース2 神秘の島』

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『アバター』が先鞭つけた「新世紀3D映画ブーム」も、早くも下火の様相を呈してきてる。日本映画は実写に関しては、「もう3Dはやめようか」という方向らしい。
皮肉なことに『アバター』は、3D映画が客を呼べることを示したのと同時に、「これ以上の3D映画は作れない」という技術的に最高峰のものでもあったんで、その後のどの3Dを見ても「ショボく」感じられてしまう。
『アバター』が3Dの価値を生み、そして殺したということなのだ。

もう俺もほとんど3D実写には期待してなくて、アトラクション的に、いろんな物が飛び出してくるような作りの映画の方が、単純に楽しめそうだと思い、これを見に行った。
マイケル・ケインが出てるというのが一番の理由ではあったが。
本来は吹替版は見ないんだが、まあ役者の演技云々の映画でもないし、ワーナーマイカルの港北では、一番デカいスクリーンの「ウルティラ」でかかってたんで、吹替版を選択。
声優が、マイケル・ケインのカン高い声にちゃんと合わせてたのは、いい仕事といえる。

映画の内容は「ちゃちゃっと島行って、ちゃちゃっと帰ってくる」話だ。そのお茶漬けをかっこむ感の展開の早さは見事なもので、小さな子供も飽きさせない。


主人公の17才の高校生ショーンは、遭難信号と思われる無線を傍受する。事故死した父親の後に来た義父のハンクには馴染めなかったが、ハンクはその信号を解読できるという。海軍で暗号解読の任務にあったのだと。
その文面には、ジュール・ベルヌの冒険小説の登場人物の名や、小説に出てくる島のことが書かれていた。ショーンはピンときた。
「これはおじいちゃんからの信号だ!」

ショーンの祖父アレキサンダーは、家族も省みず冒険の旅を繰り返し、そのまま消息を絶ってしまっていたのだ。祖父はショーンが自分と同じように、ベルヌなどの冒険小説が大好きなことを知っていた。
「おじいちゃんは神秘の島を発見したんだ!」
ショーンが大切に持っていたベルヌの小説や、『ガリバー旅行記』には、それぞれ舞台となる島の地図が描かれていた。義父のハンクはひらめいて、その数枚の地図のページを破いて、重ね合わせてみると、「神秘の島」の場所が明らかになった。方位や緯度も書かれていた。
ショーンは義父が案外頼りになるというのは認めるが、冒険にはひとりで行こうとしていた。
だが義父のハンクは「未成年者には保護者が必要」と自分も一緒に行くことに。

あっという間にパラオあたりに着いて、あとは島へ案内してくれる船を探すだけ。だが船長は「あそこは船の墓場と呼ばれてる」と案内を拒否。
「1000ドル出すから!」という声を聞いた、ヘリのパイロットのガバチョが
「そんなら俺にまかせてくれ!」と名乗りを挙げた。
ひどいボロヘリだったが、ガバチョを手伝ってる娘のカイラニの可愛さと胸の大きさに、ショーンは「このヘリでOK」とすんなり思った。
ヘリの目指す島の方向には猛烈な雷雲が待ち受けていた。操縦桿が利かなくなり、ヘリは渦の中に巻き込まれて、気がついたら島の海岸に打ち上げられてた。


とここまで映画にして20分足らずかな。もう着いちゃったよという。
ここが神秘の島であるということも、それから5分後くらいにはわかる。
ベルヌの『神秘の島』では生物の大小があべこべになってて、象は手のひらサイズに、逆に昆虫などは巨大化してるのだ。
いきなり卵を壊してしまったことから、巨大化したエリマキトカゲに追っかけられるんだが、そのピンチを救ったのがショーンのおじいちゃん。早くも再会。
祖父アレキサンダーはショーンたちを、とっておきの場所に案内する。

そこは神殿の跡があり「アトランティス」と石に彫られていた。海底に没したとされる謎の大陸は、周期的に地上に隆起してたのだ。
だが義父のハンクは気がついた。「地面が液状化を示してる」と。
元海軍のハンクは今はたしか土木関係の仕事をしてるとか言ってたな。もう何にでも詳しいのだ。
この場面は舞浜あたりのシネコンで見てたらシャレにならんけどな。

ハンクは、あと5日以内に島が沈むと読み、そりゃ大変とみんな脱出を急ぐことに。でもどうやって?
ここが本当にベルヌの書いた「神秘の島」で、謎の大陸アトランティスであるなら、ネモ船長の作った潜水艦「ノーチラス号」もきっと、どっかにあるだろう。という展開になるわけだ。


撮影当時79才になるマイケル・ケインが、インディ・ジョーンズみたいな格好で出てくるのは、単に余興のためだけじゃない。彼は1997年のTVムービー『ディープ・シー20000』(海底2万マイルが原作)で、そのネモ船長を演じてるのだ。

もう1本冒険映画で彼が主演したものに、1980年の『アイランド』がある。
今回の映画では祖父と孫という関係だが、『アイランド』では、息子を連れて、魔のバミューダ海域に取材に出かける記者を演じてた。続発する船の遭難事故の真相には、実は昔の海賊の末裔たちが係わっていて、親子は捕らわれの身となる話。
錚々たるスタッフが作ってるわりには盛り上がりに欠ける映画だったが、唯一ラストで、船の甲板でまったりしてる海賊たちを、マイケル・ケインがガドリング銃で皆殺しにする所は、
『ワイルド・バンチ』かよという壮絶ぶりで目が覚めた記憶がある。
そんなんで、いろいろと彼がこの映画に出てることの因縁を感じたりするのだ。

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ショーンを演じるジョシュ・ハッチャーソンは前作『センター・オブ・ジ・アース』からの連続登板。俺は前作見てないけど。彼も俺から見たら「決め手に欠ける」ハリウッドの若手のひとりだね。
そんなことでメインになるのは、義父ハンクを縁じるドウェイン・ジョンソンてことになる。この人はシリーズ物に後から呼ばれるというポジションを確立したようで、『G.I.ジョー』の続編にも出てる。

ドウェインがプロレスやってた時からの得意芸の、胸板をピクピク動かすという「胸板ダンス」をこの映画でも披露してるんだが、俺の近くで見てた男の子がケラケラ笑ってた。胸板で木の実はじくとことか、3Dで木の実が飛んでくるんで、子供大ウケ。
肉体派スターというのは珍しくもないが、身体使って子供を笑かすことができるのはドウェイン・ジョンソンとジャッキー・チェンくらいだろ。
子供が映画見て笑ってる声を聞くのはいいもんだ。こっちまでなんか朗らかな気分になる。
その子は劇中でノーチラス号の名前が出た時に「ネモ船長だよね」とお母さんに話しかけてて「しー!」てされてたけど、いいんですよ別に。
そういう時は「よく知ってるわねえ」と小声で返してあげれば。
子供が楽しんで見てる証拠なんだから。


ショーンの目を釘付けにした、タンクトップの女の子カイラニを演じてるバネッサ・ハジェンズは『ハイスクール・ミュージカル』でブレイクしたラテン系の美少女。彼女の胸は3Dじゃなくても十分立体的で、これは子供連れて見に来たお父さんへの、ささやかな配慮なのだろう。

映画好きとして嬉しいのは、ルイス・ガスマンがこんなに出づっぱりで映画を賑わせてくれてること。名前は憶えてなくても、「イボイノシシみたいな顔した寸詰まりの男」は一度見れば忘れない。

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役名は「ガバト」と発音するんだろうが、吹替版では「ガバチョ」となってる。そう「ドン・ガバチョ」のガバチョだよね。「ひょっこりひょうたん島」世代にはたまらない。
ルイス・ガスマンの体形がドン・ガバチョみたいだし、「島」つながりだしね。そういう意味でもこの役最高。

2012年4月22日

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ゾンビにすらなれなかった俺たちの旅 [映画サ行]

『ゾンビ・ヘッズ 死にぞこないの青い春』

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ボディバッグの中で目覚めたマイクは、周りの状況が掴めてなかった。
手に怪我を負ってるが痛みはない。
唸って歩いてる男がいるが、声をかけても無視される。近くの民家の戸を叩くと、いきなり中から発砲され、腹を撃たれた。ワラワラと民家に向かって来る者たちに
「撃たれるぞ!逃げろ~!」
と叫ぶが反応はない。
「もう、ダメだ。死ぬ」と倒れこんだが、死なない。痛みもない。

いよいよ混乱するマイクは男とぶつかった。
「おい、お前しゃべれるのか?」
嬉しそうに話しかけてくる男は、どう見てもゾンビだった。
ブレントと名乗り、窒息プレイの最中に死んで、気がついたらゾンビになってたと。
背後では他のゾンビたちが人間を食べていた。
「俺はゾンビじゃないし、人間も食いたくないぞ!」
二人は取っ組み合いとなるが、ブレントが引っ張ると、マイクの右腕がもげた。
痛みはないので、急いではめ直した。

まあしょーがないからビールでも飲むかと、近くのバーに入った。
そこで新聞を見て、マイクは最後の記憶から3年も経ってることを知った。
「俺はなんで死んだんだろう?」
「その頭に開いてる二つの穴のせいだと思うぞ」

その言葉とともにマイクはポケットの中にある物に気づいた。取り出したのは婚約指輪だった。
「そうだ。俺にはこれを渡す相手がいたんだ!」
「じゃあ、渡しに行けよ」
「行けるわけないだろ!ゾンビなんだぞ!」
「お前、その娘を愛してるんだろ?」
「ルークはレイア姫を諦めたか?」
「あれは妹だ」
「妹とやりたいと思ってたんだよ!」
ブレントの論旨はどこかズレてたが、なぜか熱意は感じた。
「この世で一番強いものは愛なんだよ」
「行動する者のみが勝利するんだ!」

マイクもその気になってバーを出ようとすると、いきなりライフルを持った黒人青年が乱入。
その後をゾンビたちが追ってきた。
「ここはゾンビに囲まれる。みんなで団結して戦うんだ!」
そう言われても俺たちゾンビなんだがな、とマイクとブレントは目立たないように、バリケードを作る振りをする。
だが子供にまじまじと見られ
「ゾンビだ!ゾンビがいるよ!」
と叫ばれピンチ。その時、窓を破った無数のゾンビの腕に掴まれ、マイクとブレントは外に引きずり出される。
だがゾンビたちに「こいつらゾンビじゃないか」と思われ、そのまま地面に放り出された。


ゾンビに襲われないというのは有難いことではあるが、問題はなんでゾンビなのに、自分は人間の意識を保ったままなのかということだ。

実はマイクは、指輪を渡そうとした彼女の父親に撃ち殺されてたのだ。その父親は軍で「ゾンビ兵士」を作る極秘プロジェクトの責任者だった。いくつもの蘇生薬が試されており、マイクやブレントに注入されたのは、意識は人間のままゾンビ化する「半分ゾンビ」用の蘇生薬だったようだ。
だが実験後に多くのゾンビたちが暴れ出したため、その事態収拾を図るため、軍の捕獲チームが動き出していた。


ここからマイクが恋人エリーの元に指輪を渡しに行くという、ゾンビによる「指輪物語」がロードムービー風に展開されてく。ブレントがいつの間にか手なずけてた大男ゾンビが旅のお供に。
「こいつはチーズって言うんだ。くさいから」
とブレントは簡単な芸を仕込んだりしてる。
ゾンビを教育しようとするのは、ロメロの『死霊のえじき』の引用だね。
このチーズが、軍の捕獲チームからマイクたちを守る用心棒となってく。

マイクたちを車で拾う、ベトナム戦の兵士だった老人は、マイクが恋人への思いを文章にして伝えようとしてるのを「思いは自分の口で伝えるんだ」と諭す。老人はベトナム人の娼婦と34年連れ添って、今は彼女の遺灰をミシガン湖に流しに行く途中だった。
持病のあった老人は、ミシガン湖に着いた時は事切れていた。その姿はマイクたちの胸を打った。
マイクは、生きてるうちに愛を告げなければと思いを強くした。死んでるんだけどね。

マイクは丁度、高校の同窓パーティが開かれてることを知り、エリーが来てるかもと乗り込んだ。
遠目でも彼女のことはすぐにわかった。
だがトイレの鏡に自分を見て、とても面とは向かえないと感じた。
会場に戻ったマイクはネズミの着ぐるみを着ていた。エリーは着ぐるみに気さくに話しかけてきた。
あの頃と同じ、美しい彼女が目の前にいた。

二人は互いのことをしゃべった。エリーは高校の時、好きだった彼氏がいたこと。急に姿を消されて、しばらく思いを引きずってたことを語った。マイクは
「僕はあの頃に戻りたい。あの頃、ちゃんと思いを伝えられてたら」
もちろんエリーは着ぐるみの中身がマイクとは気づかない。
エリーが背を向けた隙に、意を決して着ぐるみを脱いだマイクだったが、その瞬間に捕獲チームの職員に連行されてしまう。


監督は新人のピアース兄弟だが、父親がSFXアーティストで、サム・ライミのデビュー作『死霊のはらわた』を手掛けてた。しかも撮影したのが、父親の自宅の地下室だったそうで、幼い兄弟はその様子を見て育ったという。
血は争そえないね。
この映画の中で、ミシガン湖に向かう途中のドライブイン・シアターで『死霊のはらわた』を見てる場面がある。
大男のチーズがホラーが苦手という描写が可笑しい。

ホラー・コメディとしては、2月に見た『タッカーとデイル 史上最悪にツイてないヤツら』ほどの爆笑ポイントはない。キャンプ場面も冗長な感じだし、捕獲チームの部下の女の子とか、いまいち無駄キャラで、映画としてはもうちょいシェイプアップできそうなもんだが、この映画はなんと言ってもエンディングが素晴らしい。
こんなにあっけらかんと、ハッピーエンドでいいのかと思うほどだ。
その場面のブレントの盛り立て方とか、俺はちょっと感動した。

もはや人間の見てくれではないのに、ゾンビにすらまともになれてないという自分の境遇を嘆くマイクと、
「第2の人生と思えばいいだろ」とポジティブ・シンキングなブレント。
「いくら思いを溜めてても、なにもしないならゾンビと同じ」という作り手の熱いメッセージがそこにある。

この主役ふたりの役者がいい。二人とも無名だが、マイクを演じるマイケル・マッキディは、白塗りで若干腐敗してるメイクをしながら、溢れる思いを溜め込む表情が見てるこっちに伝わってくる。

それからほぼ唸ってるだけだが、大きなゾンビの「チーズ」を演じる役者の健闘が光る。こちらは完全にゾンビメイクなんだが、時折愛嬌を感じさせもする。ゾンビというよりフランケンという印象だ。
映画の副題も上手くつけたな。

2012年4月20日

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少年の機敏さが悲しいダルデンヌ兄弟の新作 [映画サ行]

『少年と自転車』

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ダルデンヌ兄弟の映画の少年や少女たちは滅多に笑わない。この映画の少年シリルも同じだ。
もうすぐ12才になるが、父親はシリルを児童養護施設に預け、アパートを引き払い、姿を消した。

シリルは動作が素早い。隙あらば施設を逃げ出そうとする。
つかまえようとしても、必死ですり抜けようと試みる。
シリルはきっと自分がモタモタしてたから、父親に施設に預けられ、置いてきぼりにされたと思ってるんだろう。
だからどんな局面でも身体が即反応できるように、身構えて緊張してるのだ。
人間になついてない野良猫や、野生の鳥のようだ。

年齢からいえば、もう自我が発達する時期なんだが、シリルの頭の中には父親のことしかない。
施設から学校に通わされてるが、そこでも抜け出して、バスを乗り継ぎ、父親と暮らしたアパートへ。

行き先を察した施設の職員が補導しに来るが、シリルは逃げ込んだ診療所にいた女性に、思わずしがみ付いた。女性が痛みに顔を歪ませるほど強く。
シリルは管理人に、空となった部屋を見せてもらい、父親に買ってもらった自転車もないことに落胆し、施設に連れ戻された。

後日、診療所にいた女性が施設のシリルを訪ねてくる。彼女の車には自転車が積まれていた。
それを見たシリルは、初めて少年らしい表情を見せた。
彼女は美容院を経営するサマンサといい、シリルの自転車の買い主を探し当て、買い戻したと言った。
シリルは「そいつは盗んだんだ」と決めつけた。父親が僕の自転車を売るはずない。
シリルはサマンサに、週末だけ里親になってほしいと懇願し、彼女も受け入れる。

自転車の持ち主は、ガソリンスタンドの張り紙を見て連絡し、自転車を譲り受けたと。
週末サマンサの美容院へ向かう途中、そのスタンドに寄ると、まだ張り紙が。
「バイクと自転車売ります」とあり、シリルの父親の名前があった。


父親の新しい住所をサマンサと共に訪ねると、見知らぬ女性がドアを開け、父親はレストランで仕込み中だと言う。二人が訪ねると、シリルの父親は少し動揺してる様子だった。
親子は厨房の中で、久々に話しをするが、父親の口は重い。

ケータイに連絡すると約束を取り付けたシリルがドアを出ると、父親はサマンサを呼ぶ。
「母親が倒れてしまって、もうあの子のことは重荷なんだ」
「子供がいると仕事口が見つからない」
手前勝手な理由をつけ
「もう会わないと伝えてくれないか?」
サマンサは「自分で言ったら?」とシリルを呼ぶ。

実の父親から無情な言葉を告げられたシリルは、帰りの車の助手席で不意に暴れ出し、サマンサは強く抱きとめた。
サマンサには彼氏がいたが、シリルには手を焼いた。
「俺とこの子とどっちを取るんだ?」
問い詰められたサマンサは、シリルと答え、彼氏は去って行った。

サマンサのもとで週末を穏やかに過ごしていたシリルだったが、町で自転車を盗まれた。
盗んだ少年をどこまでも追いかけ、森に追い詰めた。すると少年の仲間に囲まれた。シリルはそれでも少年に掴みかかり、リーダー格のウェスから、その根性を認められる。
ウェスはシリルのことを「ブル」と呼び、自宅に案内した。自宅には寝たきりの母親がいて、ウェスは一人で面倒を見てるようだった。
プレステ3で遊んで、シリルはすっかり打ち解けた。パンクした自転車の修理代も払ってくれた。

だが帰り際の通りで、二人を見つけたサマンサに、すごい剣幕で叱責される。
「あの男はクスリの売人なのよ!」
サマンサは、ウェスには二度と会うなと言った。

シリルには初めて、友達つきあいをしてくれた相手だった。翌日も二人は会っていた。
だがウェスの目的は、この怖いもの知らずの少年を、犯罪に加担させることだった。


監督のダルデンヌ兄弟はベルギー人で、映画もベルギーの町が舞台だが、これは世界中どこの町にでもあるだろう物語だ。日本にもシリルのような境遇に置かれた少年はいるだろう。
昨日コメントした『別離』と同じく、描かれてることは普遍的なテーマだ。

マイク・リー監督が、「会話」から人間を見つめるように、ダルデンヌ兄弟は「行動」を通して人間を見つめる。
なので画面も寡黙なのだが、今回の映画は、少年が自転車のペダルを軽快に漕いで移動する場面が何度も挟まれるので、映画のフットワークもいつもより軽く感じられる。少年シリルの機敏さも一役買ってる。

シリルのような少年が犯罪に手を染める例は多いだろう。そんな時に
「だが同じ境遇でも、真っ当に人生を歩んでる人間だって沢山いる」
と言う人もいる。それはそうだろうが、シリルは、たった一人の肉親の父親から
「もう会いたくない」と、面と向かって言われてるのだ。
このような事でなくとも、子供時代に親のネグレクト(育児放棄)に遭った子の辛さは如何ばかりか。

愛情をかけられず、関心を持たれることもなく、家の中で居場所もない。
大抵の子供は親から程度の差こそあれ、愛情をかけられて育ち、大人になってるだろうが、もし自分の子供時代が、シリルのようだったらと、想像することはないだろうか?
というより、ありったけの想像力を働かせて、そういう子供の身に自分を置き換えてみる、くらいのことは試みてみるべきと思うが。俺だったら耐えられないかもしれない。


ダルデンヌ兄弟の映画には珍しく、フランスの人気女優セシル・ドゥ・フランスが演じてるサマンサの存在は、この映画でも慈雨のように優しい。

シリルは犯罪に加担したことがもとで、映画の終盤に思わぬ危機に遭遇するんだが
「このまま終わったら、ちょっと無慈悲に過ぎるよなあ」
と思ってたんで、あの展開は俺にはアリだった。

2012年4月9日

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選挙もエンタメとなるアメリカ [映画サ行]

『スーパー・チューズデー 正義を売った日』

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アメリカの選挙の仕組みというのは、日本人には非常に複雑に感じるんだが、この映画はその複雑さを解き明かすという意図で作られてるわけではない。
選挙の仕組みに明るくなくても物語自体は楽しめるように出来てる。
ジョージ・クルーニーは一作一作、監督として物語の進め方が明解になってきてる。


ライアン・ゴズリング演じる主人公スティーヴン・マイヤーズは、民主党予備選の有力候補である、ペンシルヴェニア州知事マイク・モリスの、若き広報官であり選挙参謀。ベテランの選挙キャンペーン責任者ポール・ザラからの信頼も厚い。モリス知事の政治主張にも、正面から意見することもある。

すべては予備選を勝ち抜くためであり、スティーヴン自身が、モリスのクリーンな人柄に、国を変えることができる存在と期待を寄せていた。対立候補のプルマン上院議員との差も付き始め、3月15日のオハイオ州の票を取れば、勝利は確実と思われた。

だがそのスティーヴンに、プルマン上院議員の選挙参謀であるトム・ダフィが接触を試みてきた。この時期に対立陣営の関係者と会うことはご法度だ。だがダフィは重要な情報を握ってるという。
ポールはオハイオの雌雄を決する鍵を握る、大物上院議員との面会で不在だった。
スティーヴンは禁を犯し、バーでダフィと会うと、その内容は、スティーヴンの引き抜きだった。
そしてこちらの陣営はすでに大物上院議員の支持を取り付けており、モリスに勝ち目はないという。

スティーヴンは誘いを拒否はしたが、動揺は隠せない。
その晩、選挙スタッフのインターンで、美しい大学生のモリーと、ホテルで関係を持ってしまう。

翌日、果たしてダフィの言葉通り、ポールから、面会には何の収穫も得られなかったと連絡が入る。
苛立つポールに、スティーヴンはダフィと会ったことを報告した。軽率な行いを謝罪するが、ポールはその日の内に報告もなく、なによりスティーヴンの忠誠心の欠如に失望の色を隠さない。

それはほどなく政治部の新聞記者の嗅ぎつける所となった。記事を書かれたらスキャンダルとなり、自分の選挙参謀の職を失う。だが誰がその情報をリークしたのか?
そのことをポールに話すと、耳を疑うような言葉が返ってきた。
「情報をリークしたのは俺だ」
この時期のスキャンダルは、候補者モリスに大きな不利となる。
スティーヴン一人を切れば、モリスに火の粉は及ばない。

非情な判断に屈したスティーヴンは、だが思わぬ切り札を握っていた。
モリーは妊娠してたのだ。その相手はモリス知事その人だった。

自分を誘ってきたダフィのもとに出向いたものの、すげなく追い返されたスティーヴンは、今や理想に燃える選挙参謀から、自らを追い落とした者たちに、その報酬を払わせようと牙を剥く、手負いの獣と化していた。


予備選における対立候補との、知力を尽くした駆け引きが描かれるかと思いきや、下半身問題に収束してしまう展開は、食い足りなさを残すのは確かだが、ライアン・ゴズリングの周囲に、フィリップ・シーモア・ホフマンやポール・ジアマッティという芸達者を配して、スリリングな会話劇としても成立してるんで見応えはある。

アメリカ映画には政治や選挙を扱って、面白く仕上がった映画が結構数あるが、翻って日本にはあまり見当たらない。特に選挙を描いたものが思い当たらない。
この映画もそうだが、選挙を扱った映画が面白いのは、アメリカ人が「選挙」自体を面白いと思ってるからじゃないか。
来るべき大統領選に備えて、民主党、共和党それぞれの党内で、ふさわしい大統領候補を選ぶのが「予備選」というものだ。
この過程は最終的に大統領が、共和党、民主党どちらから選ばれるのかという頂上決戦よりも、むしろ過酷な戦いとなるようだ。

この選挙の仕組みというのは、アメリカのメジャー・スポーツ(MLB、MBA、NFL)の戦いと同じ行程を辿るといっていい。アメリカ人の価値観の根底にあるのは「勝ち抜いて掴みとる」というものなのだろう。
1からスタートした候補者がいくつものハードルをクリアして、頂点を目指す。
支持者集会での決意表明演説から、対立候補とのディベート、対立候補に対してのネガティブ・キャンペーンと、その対応。それら一つ一つのステージがメディアに取り上げられる。


日本だと選挙というと、候補者が出揃い、投票日となり、その集計結果の当日しかテレビで中継されたりしない。有権者は、それぞれの候補者が、どういう風に戦ってきたのかという過程を知らないまま、人というより党で票を投じがちとなる。
基本、選挙というものに対して関心が薄いんだね。

アメリカのニュースなど見てると、予備選の盛り上がり方とか、日本では想像できない感覚がある。
候補者本人も「自分は長い戦いを勝ち抜いてきた」という自負があるだろう。

だからアメリカの政治家にしてみたら、日本のように国のトップの座を勝ち得たような人間が、簡単にその地位を降りてしまうなんていうのは、考えられないことだろう。
「必死で戦って勝ち得たものじゃないのか?」
「そんなにすぐ捨てられる程度のステイタスなのか?」と。
ここ10年くらいで、日本の政治家はアメリカから相当軽く見られるようになってしまったと思うぞ。
彼らは戦わない者には敬意を払わないからだ。

そして「戦って勝ち取る」ということが、スポーツと同義となるのは、選挙もまた「ゲーム」であるということだ。
ゲームであるからには戦略が立てられ、時には罠を仕掛けることも厭わない。足をすくわれた方が負けるのだ。


この映画のように、自らの下半身で窮地に陥る政治家は過去に何人もいる。
アメリカはキリスト教的倫理観が根強くある国だから、大統領候補者には「クリーン」であることが求められる。
だが反面、清廉潔白でホコリひとつ立たないような人物が、政治の舵取りを出来るとも思ってない所がある。
アメリカ人の「本音」と「建前」のせめぎ合いが、選挙というゲームの複雑な面白さの根底にあるように思う。
自らを徹底して演じられるという資質もまた、候補者には欠かせないのだろう。
そうして腹芸も鍛えられたアメリカの政治家に拮抗しうる日本の政治家はいるだろうか?

2012年4月6日

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こんな依存症はイヤだ!イヤじゃない? [映画サ行]

『SHAME シェイム』

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この映画はR-18指定だったんで、文章も同じ指定ということで。

「仕事以外の時間をすべてセックスに費やしてる男」をマイケル・ファスヴェンダーが演じてるわけだが、そんな男の気持ちがわかるわけないだろー。
むしろそんな絶倫になってみたいわ、いや、やっぱり大変そうだからいいや。

映画では主人公ブランドンの「セックス依存」の原因を、仄めかす程度にしか描いてない。
彼が暮らす高級そうなアパートに、「恋人に捨てられたあー」状態の妹シシーが転がりこんでくるんだが、どうもその妹との過去にもなんかしらあるらしい。
セックスはするけど、人は愛せない。少しでも好意を持った相手としようとすると勃たなくなる。
でもすぐに催すから、縁もゆかりもない相手を見つけてする。

仕事中はさすがにセックスできないんで、パソコンでエロ動画拾いまくって、トイレ入って抜く。
だが会社のパソコンを一斉にウィルス検査に出され、ハードディスクがエロまみれということが、上司にバレる。
でもその上司は妹シシーとヤッてるので、お咎めはなし。
なんだこれコメディかよ。
この間新聞に出てたけど、咎められて停職になってた人いたな。

しかしこれだけ間断なく、したくてしょーがない状態というのは、オナニー覚えたての中1くらいの時期しかなかったぞ。ブランドンの場合は万年「中1」ってことだよな。
覚えたての頃は確かに大変だったな。学校帰ってきて、母親が買い物行ってると、その間に一発抜いとく。そんで夜に布団ん中でもう一発。それほぼ毎日のローテーション。
ウチはスーパーが歩いて5分位の所にあったから、けっこう母親が帰って来るのが早くて往生したよ。

中1の頃なんて、いまの十代みたいに身近にエロなんてないわけよ。パソコンなんかもちろん無いし。だからまず材料探しが大変。だいたい親父の買ってきた週刊誌の官能小説だったり。
今じゃ考えられないが「宇能鴻一郎で抜く」みたいな。

ブランドンみたいに会社のトイレで抜いたことあるよ。
20代の頃、映像制作会社に勤めてたんだが、もう徹夜続きでろくすっぽ家にも帰れないし、溜まるしで、徹夜明けに思い余って抜いた。
あれはなんでだろうな、寝てない状態でやると快感が倍増するという。
あの時は目の前が白くなりかけて、あのまま気絶してたらと思うとゾッとする。

そんなことで、細かい部分では、このブランドンの行為もわからんこともないんだが、セックスをしてもしても満たされないというのは、俺にはわからない。セックスをすれば、男は射精するから一時的には「空虚感」というか、気の抜ける感じにはなる。だがその後でじわじわと満ち足りた気分になってくものだ。
俺はセックス自体もいたってふつうだ。前戯は長めかもしれない。
「長め」というのは自分に優しい表現で、「くどい」と思われてたフシはある。
足の指を舐められて、誰しもが気持ちいいと思うわけではないらしいことは、少ない経験から学んだ。
しょーがないんだよ、足フェチとしちゃ、そこをスルーして先には進めないんだから。

こんなこと書くと「キモい」とか「ドン引き」とか「ヘンタイ」とか思われるんだろうが、それは仕方ない。
だけどよくブログとか眺めてると、「おっぱい大好き」とか「やっぱお尻でしょう」とか書いてる人いるよね。あれは書いても「安全圏」だと知ってて書いてるんだと思う。
男がおっぱいとかお尻とか好きと表明しても、その位は女性にもわかってもらえる範囲だと。
「どーせ男っておっぱい好きなんでしょ?」
と軽く呆れられる程度と計算してるんだよな。敢えてそれを書くのは
「俺って堅物なわけじゃなくて、おっぱい好きな、くだけた人柄だよ」アピールだね。

でもそれ以外のフェチは引かれると思ってるんだろ?
でもなフェチなんてのは、仄暗い性癖であって、カラッと明るく表明するようなもんじゃないよ。
口に出したら「キモい!」と反応されるのを承知で書く覚悟はあるのか?ってことだ。
うーむ、俺は一体何を書いてるんださっきから。
外は春の嵐ですんごい事になってるが。


映画に戻すと、妹シシーを演じてるのがキャリー・マリガンだ。
昨日コメント入れた『ドライヴ』では可憐な感じだったが、この映画では兄と対照的な「恋愛依存の女」を表現するためか、お腹まわりに肉をつけた上で、裸体を晒していて、根性あるね。

その妹シシーに、洗面所で抜いてる所を見られたブランドンが、逆ギレして
「なんでおまえここにきたんだよお!」
と、掴みかかって、ソファーに押し倒すんだが、その時パンツが膝まで下りてて、ケツが丸出しになってるという、ファスヴェンダーえらいわ、そんな格好までして。

ファスヴェンダーがここまでしても構わないと思ってるのは、監督のスティーヴ・マックィーンに全幅の信頼を寄せてるからだ。
それはこの監督との前作『HUNGER』を見れば納得できるんだが、おととしの東京国際映画祭で上映されたきり、日本での一般公開が未だ実現してないんで。
『HUNGER』では実在したIRAの活動家が、刑務所内でハンガーストライキを敢行する過程を、ファスヴェンダーがギリギリまで体を痩せ細らせて演じていて、監督は余計な装飾を排して描いていた。
「この監督は小細工をしない」ということが役者魂に火を点けるんだろう。
「一生組んでいきたい」とまで言ってる。

キャリー・マリガンがナイトクラブで兄の見つめる前で「ニューヨーク、ニューヨーク」をジャズバラード風に歌う場面も、フルコーラス歌わせてる。「全部歌うのかよ」と思った人もいるだろうが、それがこの監督の演出なのだ。
あれ本人が歌ってるっていうんだけど、彼女上手いな。

セックスだけではイカンと感じたブランドンが、同僚のマリアンをディナーに誘う場面があるが、会話が微妙に噛みあわない、ぎこちない空気のテーブルの風景を、カットかけずに見つめてる。
日常生活では、どんな空気になってもカットかけるなんてことないよね。
映画見てて「カットかけた後、どんな会話が交わされてるだろうか?」と、そんなことに関心がある人なら、この映画は楽しめると思う。

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あとは一も二もなくマイケル・ファスヴェンダーで成立してる映画だ。これだけザーメンまみれな主人公を演じながら、汚らしさがないのは、今まさに乗っている役者の色気というものが、それを凌駕してるからだろう。
セックスアピールというのとはちょっと違うのだ。
女も男も問わず、目を惹きつける「役者の色気」というものだと思う。

監督はファスヴェンダーに『ラストタンゴ・イン・パリ』を参考に見とくように言ったそうだが、この映画の青白いニューヨークの風景も美しい。

2012年4月4日

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見てもうたコスプレ谷村美月 [映画サ行]

『サルベージ・マイス』

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いかんいかん、50過ぎの男が見るようなものじゃないと知りつつも、あのコスプレに敢えて挑んだ谷村美月の心中に去来するものは何なのか?その詳細を検証しなければ収まらないと、テキトーな言い訳を胸にバルト9へ。
パンフ売り切れって!そんなに人気なのか?谷村。
プロデューサーに西冬彦とあるので、空手ガールが大暴れするであろうことと、
「こんなホンで映画作っちゃうのかよ」という、ある種の度胸のよさは折込み済みで、こっちも臨んでるわけだが。
そういう意味では今回も度胸のよさは相変わらずだったわ。


谷村美月演じる真唯はアイマスクをつけたコスプレで、ヒットガールならぬ「サルベージ・マイス」と名乗り、奪われた「お宝」を持ち主に返すというボランティア活動に精を出してる。
鼠小僧のような義賊を気取ってるんで「マイス」なのだ。マウスの複数形なのは、相棒の男マリクがいるからだが、マリクは「お宝売った方が金になるじゃん」と映画開始数分で裏切り。
どうやって調べたのかしらんが、真唯がその在り処を詳細に綴った「お宝リスト」も奪われてしまう。
その上、「怪盗マイス」として、広島中に指名手配され、マリクが係わる強奪団の犯行は、真唯の仕業にされてしまう。

失意の真唯は街中で偶然、男たちを空手でなぎ倒す女子高生の美緒と出会う。
美緒は「広島をバカにする奴は許さない!」という性格の持ち主で、やがて真唯は美緒と新たな「サルベージ・マイス」を結成し、広島中の「お宝」を盗みまくってる強奪団との戦いに身を投じるのだった。


なんで広島かというと、これが広島の「ご当地映画」として企画されてるからだ。
いきなり広島の美術館にお宝を「奪還」しに入る場面があるが、美術館も悪者みたいに描かれて、ロケに使われてもあんまりいい気分ではないだろうな。

それに本来の持ち主がはっきりしてるんなら、その人と美術館との間で話し合いを持てばいいんじゃないか?
一般家屋にも盗みに入ってるが、設定そのものをもっと単純にできるだろ。
広島中のお宝を不法にかき集めて、人知れず保管してる組織なり、謎の大富豪なりがいて、「サルベージ・マイス」がその奪還に挑むってことでもいいと思うが。


今回監督は「平成仮面ライダー」シリーズを撮ってる田崎竜太という人だそうで、ファンは注目してるんだろう。
俺は平成版ライダーとか見てないから、その辺は関心がない。
だが門外漢というわけでもないぞ。
仮面ライダーの初代と2号に関しちゃ、リアルタイムで見てたからな。
もっとも俺の世代なら沢山いるだろうが、そんなの。

さらに言うと、藤岡弘と佐々木剛が、ウチの地元の集会所に来たのを見てたりもする。
「本郷猛です」「一文字隼人です」って挨拶してたぞ。
まあライダー号もなけりゃ、仮面ライダーのスーツでもなきゃ、あのベルトも締めてなかったけどな。
大体なんで来てたのか、ガキの俺にはそれすらわからなかった。
友達と一緒に遠巻きに眺めてただけだ。
俺はガキの頃から基本、遠巻きだな。
「遠巻きに眺め隊」だ。

こんな俺だが強い女の子を見るのは好きなんで、『ハイキック・ガール』も『KG カラテ・ガール』も、武田梨奈の初日舞台挨拶の回に、律儀に駆けつけてるのだ。
『KG』の時は上映後に、武田梨奈が自分のイメージDVDを手売りしてたんだが、さすがにそれは買わなかった。
サインと握手つきだったと思うが。
「買ってくれた人には、彼女が一発蹴りを入れてくれます」って言われてたら、俺買ってたな。
もちろんプロテクター着用でだけど。

コスプレ谷村とタッグを組んで暴れてるのが、600人のオーディションの中から選ばれた長野じゅりあという女の子。
15才にして空手暦10年という逸材で、型がビシッと決まっててカッコいいね。技も速い。
長野じゅりあは可愛い時と、へちゃむくれてる時があるんで、美人度では武田梨奈の後塵を拝するが、その分愛嬌を感じる。

『KG カラテ・ガール』で武田梨奈の妹役で、やはり抜群の身体能力を見せてた飛松陽菜が、強奪団の刺客ガールとして、全身白のトレーニングウェアで暴れてる。
長野じゅりあと飛松陽菜が、広島テレビのロビーで対決する場面は、この映画では一番の格闘的見せ場になってる。なのに飛松陽菜はチラシに名前も入れてもらえないなんて可哀相だよ。


長野じゅりあと谷村美月がタッグで立ち回りをする場面があるが、空手有段者と女優では動きが違いすぎて辛い。谷村美月はダンス踊ってる感じに見えてしまう。
彼女は特殊警棒みたいな物を武器にしてるが、もっと殺傷能力強い武器を携帯しててほしいよ。
「これはご当地映画で、子供も見れるように作られてるから」という遠慮が感じられるんだが、真唯が強奪団に捕まってリンチされる場面は、殴る蹴るとボコボコにされてるぞ。
なんかそこだけ妙にリアルな描写だ。腹を思い切り蹴られたり。
俺はたとえ映画の描写であれ、女性のオナカを蹴ったりしちゃいかんと思うぞ。
それこそ子供に見せちゃダメだろ。

ここまでやられるんなら、真唯も手加減抜きで行くべき。
「ヒットガール」もあれだけ殺しまくってたけど、すっきり痛快だっただろ?
殺していいんだよ。

強奪団のリーダー格は『KG カラテ・ガール』にも出てた大きな外人さん。
なぜかセリフはアテレコ。
今回も『KG』の時と一緒で、この外人さんと1対2の最終対決となるが、『KG』の時は、武田梨奈と飛松陽菜のタッグで、今回は長野じゅりあと谷村美月って、前よりスペックが下がってるのは如何なもんか。

広島が舞台なんだから、ここはラスボスには「ブンカッキー」に出てきてほしかったよ。
(知らない人は、みうらじゅんのゆるキャラ参照のこと)

2012年3月31日

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スピルバーグの馬への詫び状 [映画サ行]

『戦火の馬』

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メジャー中のメジャーであるスピルバーグ監督作なんで、あらすじをくどくど書く必要もないだろう。
イギリスの貧しい農家に引き取られた一頭のサラブレット。農耕馬ではなかったが、農家の息子アルバートは、その馬にジョーイと名づけ、弟のように可愛がった。農耕馬として立派に家族の力となるジョーイだったが、大雨により作物は全滅。父親は第一次大戦の開戦を知ると、軍馬としてジョーイを売り渡してしまう。

戦場に送られたジョーイは、イギリス陸軍で放火をくぐり、ドイツ軍に引き渡され、フランス人の娘と祖父のもとで、しばしの安息を得て、再びドイツ軍で砲台を引く。やがてアルバートも、年齢を重ね、イギリス陸軍の歩兵として戦場へと赴く。アルバートと愛馬ジョーイの再会は叶うのか?というストーリーだ。


1950年の西部劇に『ウィンチェスター銃’73』という作品がある。1丁のライフルが人から人の手に渡っていく中で、それを手にした人間の運命が描かれていくという物語だったが、この映画はそのライフルを馬に置き換えたような感じだね。

今回スピルバーグは「ディズニー」でこれを撮っている。家族そろって見ることができるように描いてるのだ。
なので戦争映画でも『プライベート・ライアン』のようなリアルすぎるような描写は避けてる。
登場人物も、戦争下でありながら「性善説」に基づいたような人たちばかりだ。
それは人間のドラマが主眼ではなく、これはあくまで「馬」に思いを馳せる映画だからだ。

俺は見てて思ったんだが、馬という生き物は
「なんで自分は馬に生まれてきたんだろう?」
と思うことはないのだろうか?
馬の一生というものは、生まれた瞬間から人間の手中にある。人間たちはこっちの了承も得ず、背中にまたがって当然のように思ってる。

産業革命前までは、馬は移動の手段に使われてきた。農家であれば、畑を耕す力に、狩猟民族の場合は、獲物を追いつめる力に。人間の賭け事の興奮のために、ひたすら速く走ることを強要され、サーカスでは曲芸を習わされ、だがそれならまだましな方だろう。

つらいのは戦場に駆り出される「軍馬」だ。大きな音や銃弾に驚かないよう訓練するというが、人間だって戦場にいるのは怖いんだから、馬だって怖いに決まってる。生来が臆病な動物なんだし。
弾丸が降り注ぐ中を、猛スピードで突っ込んで行かされる、重い砲台や、大量な物資を引かされて何十キロも歩かされる、人間に馬の限界が感じ取れることはないから、力尽きて足を折り、体を横たえた時は最期なのだ。
もう二度と立ち上がることはできない。
この映画では描かれないが、死んだ馬は食料にされてしまう。

人類が繁栄する過程で、馬の果たした役割は、どの動物よりも上だろう。だが人間はその恩を、馬に返してきただろうか?スピルバーグ自身、もう15年も馬を飼い続けてるという。
映画の中で、数奇な運命に翻弄される馬のジョーイを、死なせてはならない。

これは馬への一種の「詫び状」として綴られた一作と思う。


そうは言っても俺も映画の中で馬を見るのは好きで、疾走する馬の体のラインの美しさとか、ヒズメが土を噛む音とか、気持ちを高揚させるものがある。ギャンブルの才は全くないと思ってるんで、競馬に縁はないが、真近でターフを駆け抜ける様を見れば、きっと魅了されるだろうな。

人間が馬を戦地に連れていったのは、もちろん道具として役に立つという他に、駆け抜ける馬の雄姿が、人に高揚感を与えるからではないか?
馬の背に乗り、共に敵陣へ突っ込む時に、馬の存在が勇気となる。馬はそんな風に人間に思われてしまうことで、それが仇となってしまった、皮肉な生き物なのだと思う。


この映画を銀座で見たんだが、土地柄ということもあるんだろうが、観客の年齢層がべらぼうに高かったぞ。
俺もいい歳だが、俺より下に見える人があんまり居なかった。最初は『一枚のハガキ』と間違えて入ったかと思ったほどだ。つまりそういう年齢層の人たちが見たいと思うような雰囲気の映画なのだ。
デヴィッド・リーンの『ライアンの娘』や、キューブリックの『突撃』を思わせる描写もあるし、撮影監督のヤヌス・カミンスキーが、いつもの色を抑えた感じではなく、昔の映画のテクニカラーを再現するような色調を狙って出している。スピルバーグも今年66才だし、「ブロックバスター映画の巨匠」のイメージから変容遂げつつあるのかもしれない。


今回も第一次世界大戦の時代という「過去」を舞台にしてるが、スピルバーグは劇場映画初監督作の『続・激突!カージャック』以降29本の監督作の内、現代劇と呼べるものは、デビュー作と『ターミナル』の2作しかない。
名匠と呼ばれる存在でこれは珍しい。
俺は次にいつ現代劇を手がけるのか、そんなとこに注目してる。

イギリスで書かれた原作の通りに、イギリスでロケーションして、イギリス人のキャストが揃う。
『ハリー・ポッター』シリーズは、イギリスの名のある役者たちがぞろぞろ出てくる「イギリスのオールスター映画」の趣だったが、この映画は、渋いけど映画ファンなら顔を知ってるという、イギリスの役者たちが出ていて、B-サイドの『ハリポタ』のようだ。

まずアルバートの両親だが、父親には昨年のTIFF出品作『ティラノサウルス』での演技も記憶に新しい、スコットランドの名優ピーター・ミュラン。この映画ではアゴひげをたくわえ、往年のジョン・フォードの映画に出てきそうな風貌になってた。
母親のエミリー・ワトソンは、『アンジェラの灰』やこの映画などで「イギリスのお母さん」のイメージが出来つつあるかな。
冷徹な地主を演じるデヴィッド・シューリスは、マイク・リー監督の『ネイキッド』で俺のヒーローとなった役者だが、『ハリポタ』にもレギュラーで出てるんだよね。
最近のイギリス映画で欠かせない顔になってるリーアム・カニンガムとエディ・マーサンが、終盤に軍医と軍曹として、一緒に出てくるのも嬉しい。

イギリス人ではないが、ジョーイと交流するフランス人の祖父を演じるのは、この1月に待望の公開となった傑作『預言者』で貫禄を示してたニエル・アルストリュプ。
同じく戦争下のドラマ『サラの鍵』でも似たような役回りを演じてた。
孫娘を演じてるのはエル・ファニングかと思ってたら、セリーヌ・バッケンズという、ベルギー人の女の子だった。
これが映画デビューで可愛い子だったね。


さてそんな中で、俺は『アメイジング・グレイス』以来注目してる、ベネディクト・カンバーバッチの登場場面を楽しみにしてたんだが、イギリス陸軍の騎兵隊を率いる大尉を演じてて、ジョーイのよきライバルとなる黒馬に騎乗していてカッコよかったね。
今回は口ひげを生やしてるんだが、遠めから見ても、顔が一際目立つ。
今回特に感じたのは、顔が馬に似てるってこと。
よく面長の顔の人を「馬面(うまづら)」と表現するが、カンバーバッチの場合は単に顔が長いだけじゃなく、顔そのものが馬に似てるのだ。だから映画の中では「馬が馬に乗ってる」みたいに見える。
背の高い草村に潜んだ騎兵隊が、馬を起こし敵陣に突撃をかける場面は、絵的にも美しいが、カンバーバッチの出番がそこで終わってしまうのが残念。
あの声のしゃべりをもう少し聞かせてほしかったんだが。

2012年3月16日

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