犬好きじゃなくてもこれは切ない [映画ア行]

『ウェンディ&ルーシー』

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ミシェル・ウィリアムズが主演した、2008年の日本未公開作。
女性ふたりの話ではなく、ルーシーは犬の名だ。

ウェンディは古いアコードにルーシーを乗せて、アラスカを目指してる。ルーシーの散歩中に、森で出会った若者たちからも、アラスカなら仕事もあるぜと聞かされた。
これは現代の話だが、大恐慌時代に、貨物列車で移動して、仕事のあてを探したホーボーのような若者たちがいる。


ウェンディはオレゴンの小さな町で立ち往生する。アコードのエンジンがかからなくなったのだ。
駐車場の警備員は、ウェンディの車を路上に出すように言うが、この犬を連れた若い女性のことを案じる様子でもある。
ウェンディはその年配の警備員から、整備工場とスーパーの場所を訊く。
ルーシーのエサも乏しくなってきた。旅の手持ちも心もとなくなってる。

ウェンディはスーパーでついドッグフードを万引きし、従業員につかまる。
警察に引き渡され、拘留されている間に、スーパーの入り口につないでいたルーシーの姿がない。
方々を探し回るが見つからない。

公衆電話から姉のデボラに電話をする。
ウェンディはインディアナにある姉夫婦の家に同居してたようだ。
なにか訳があって居づらくなったのか、人生を変えようと思ったのか。
受話器の向こうでは、妹に用立てるお金はないと言ってる。


疲れ果てて、とぼとぼと駐車場に戻ってくる。
犬がいなくなったと警備員に話すと、犬の収容センターが6キロほど先にあると教えられる。
ルーシーはレトリバーとの雑種だ。

その晩は動かないアコードの中で眠り、翌朝センターを訪ねるが、ルーシーはいなかった。
飼い主として自分の名前は記入できるが、住所もないし、ケータイも持ってない。

また駐車場に戻り、公衆電話の小銭の両替を警備員に頼むと、ケータイを貸してくれた。
「わしは一日ここにいるし、連絡係を引き受けよう」
ウェンディはその善意に一瞬言葉を詰まらせた。


アコードを整備工場に出すことにするが、距離が近くてもレッカー代は貰うと言われる。
旅の費用はどんどん目減りする。
ウェンディはセンターからの連絡を待ちながら、ルーシーの写真をコピーして、迷い犬のビラを町中に貼っていく。
シャッターを下ろした店が多く、不景気が町を覆ってる。

車を工場に預けたため、ついに町はずれの雑木林の中で、ウェンディは野宿するはめに。
夜、物音に目を開けると、ホームレスの男が立っている。
「こっちを見るな」
男は町の住民に対する恨みつらみを吐き出してる。
「俺は素手で700人殺してるんだ」
嘘であろうが、生きた心地はしない。
男は「負け犬が」と言い残して立ち去った。

ウェンディは荷物をまとめて、いつも体を洗ってる町中の公衆トイレに駆け込んで泣いた。
行き場もなく、駐車場の片隅にうずくまって過ごした。


翌朝、年配の警備員はいつもより遅く現れた。その日は非番だったのだ。
センターから連絡が入ったからと、ウェンディのもとにやってきたのだ。
車には警備員の娘が乗っていた。
ケータイを借りると、ルーシーがある住民の家で保護されてると教えられた。
警備員は「娘に見られるから、言い訳しないで受け取ってくれ」
と、数枚の紙幣をそっと渡して、車で立ち去った。

ほんのささやかな金額だった。
決して楽ではない生活の中から、他人に施せる精一杯なのだろう。

ウェンディは整備工場に出向くが、オーナーから、あの車はエンジンがやられてると告げられる。
修理代は高くつくし、廃車にするのなら、費用は貰わないと。
ウェンディは車を失ってしまった。

タクシーで、ルーシーを保護してる家を訪ねる。家人は丁度外出するところだった。
柵に囲まれた広い庭に、ルーシーの背中が見えた。


ウェンディはこのオレゴンの町で、犬を見失い、車を失い、手持ちの金も失っていく。
ルーシーは孤独を紛らわす心の拠り所であり、ルーシーの世話をするという気持ちが、自分を繋ぎとめる事にもなってた。
頼れる相手もなく、頼られる存在も失くしたら、自分は本当に根無し草になってしまう。
ウェンディが必死でルーシーを探すのは、見失うのが自分になってしまうからだろう。

ウェンディが下した決断は切なくはあるが、旅を続けるために不可欠だった。
ひとりでは生きていけない。ルーシーとふたりきりでは、いつもそこに閉じてしまう。
ウェンディには否応なしに、新しい人間関係が必要なのだ。
愛想笑いを覚えて、人とうまくやってくしかない。

ルーシーは犬だから、境遇に文句も言わず、寄り添ってるが、できればお腹いっぱいご飯を食べさせてやりたい。
ウェンディはそれが「飼い主」の責任と気づいたのだろう。


アラスカへの旅を描いた映画には、いい映画が多いのだ。
最近で一番知られてる所では、ショーン・ペン監督作の『イン・トゥ・ザ・ワイルド』がある。

『バグダッド・カフェ』で一躍名の知られたパーシー・アドロン監督の
1991年作『サーモンベリーズ』は、東ベルリンからアラスカの地へと逃れてきた女性が、自らの出生の秘密を調べる女性と出会う物語。
私生活でレズビアンをカミングアウトしてる歌手のk.d.ラングが、映画の中でも女性に好意を抱く役どころを演じてた。
映画の中盤に流れる彼女による主題歌『裸足』は名曲。
心の襞にまで染み渡るような歌声だった。

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1992年の『フォーエバー・ロード』は、人生を変えようと思った二人の女性が、偶然出会い、ともにアラスカを目指す。このブログでクリスティーン・ラーチのことを書いた時に、ちょっと触れた映画。
メグ・ティリーが可愛かったな。

先の読めない展開に引き込まれたのは、
1999年のジョン・セイルズ監督作『最果ての地』だ。

アラスカに流れてきた、子持ちの女性フォーク歌手が、地元の港町の便利屋と親しくなる。
3人はいい関係を築きつつあったが、便利屋の腹違いの弟が麻薬密売に絡んでたことから、トラブルに巻き込まれ、無人島に身を潜めざるを得なくなる。
廃屋に乏しい食料。ぎりぎりのサバイバルを余儀なくされるが、一機のセスナが3人を見つける。

操縦士は酒場の常連だった。燃料が不足し、無線も壊れてるから、もう一度燃料を積んで、戻ってくると言った。その操縦士が麻薬取引に絡んでることは、3人は知らない。
救助を待つ3人のもとに再び機影が見える。
なんと映画はそこで終わるのだ。
俺が心底おっかないと思ったエンディングの10本に入る。

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この『ウェンディ&ルーシー』の撮影時、ミシェル・ウィリアムズは28才になってたが、青いパーカーをはおい、化粧っ気もないし、十代の家出少女のようにも見える。
反面、彼女は時折、老成した表情を見せることもあって、『シザーハンズ』なんかに出てたダイアン・ウィーストという熟女女優と印象が被ったりもする。
おまけにこの映画では、髪を栗色で短くまとめていて、ふと山崎邦正に見えたりもするから困る。

だが「私の顔はこう!」というハリウッド女優のくっきりした打ち出し方と違って、なんか隙があるというか、顔に関して無頓着な感じがするのが、ミシェル・ウィリアムズの面白さではある。


俺んちはペットというと鳥しか飼ったことなかったから、犬も別段飼いたいとも思わなかった。
なので犬がメインの映画にも興味はなく、ほとんどをスルーしてる。

しかしこの映画は良かった。
ルーシーが可愛いわけでもなく、冴えない感じの犬なのがいい。
チャップリンの『犬の生活』の昔から、言い方は悪いが、貧乏な人間の傍らに、なぜか犬は似合う。

2012年8月12日

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韓国の法廷劇2作②『依頼人』 [映画ア行]

『依頼人』

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映画撮影現場で、特殊メイクの職人としてして働くハンは、その夜、妻に贈る「結婚記念日」の花束を助手席に置き、マンションに戻った。
入り口付近には複数のパトカーと人だかりができ、騒然としている。
ハンは住人たちの視線を感じながら、エレベータで自宅のある階へ。
警察官が出入りしてるのは自分の部屋だ。妻に何かあったのか?

現場検証に気をとられる警官たちは、ハンが戻ったことに気づかない。
そのまま寝室を覗くと、ベッドには血だまりができ、床にまで流れ落ちていた。
だが妻の姿はない。
ハンに気づいた警官は、その場で容疑者として、ハンに手錠をかけた。
だが死体はなく、寝室内にハンの指紋もない。状況証拠だけで逮捕されたのだ。


裁判ブローカーのチャンは、この事件をフリーの若手弁護士カンに持ち込んだ。
抜群の勝訴率を誇るカン弁護士は、はじめは気乗りがせず、固辞する。
だがブローカーのチャンが、裁判に勝った場合の取り分を譲歩してくる熱の入れように、しぶしぶ弁護を引き受ける。
だが事件を調べ始めると、検察及び警察の動きが不自然に早いことを感じ、これはただの殺人事件ではないという確信を抱く。

殺害現場を訪れると、警察がほとんどさらって行った後だった。照明器具の電灯まで持ち去られてる。
管理人に尋ねると、防犯カメラの記録も押収済みだと言う。
犯行現場に物的証拠はひとつもなかった。

裁判が始まると、カン弁護士は、担当検事が、司法研修所時代の同期のアン検事であることを知る。
二人の間にはライバル意識のようなものが漂っていた。
アン検事は決定的な証拠になるはずの、防犯ビデオの映像を、証拠として提出してこない。

証拠となるから押収したのではなく、ハンが犯人ではないとわかってしまうから押収した。
つまり防犯ビデオに、ハンが妻の遺体を運び出す映像は映ってないのでは?

アン検事は証人として医師を呼び、医師は
「犯行現場に流された血の量から、致死量を上回ってるのは明らか」
と証言するが、肝心の死体は見つかってない。

犯行現場にハンの指紋が一切残されてなかったのは、ハン自身の指に指紋がなかったからだった。
検察側は、削り取ったものと考え、犯行の隠蔽の根拠にしていた。
だが検察側の立証には無理を感じるカン弁護士は、これは切り崩す余地があると、チャンには容疑者の事件当夜のアリバイが成立するか、その立証に当たらせた。


事件当夜、ハンは自宅から遠く離れた撮影現場から、車で移動してる。
血の凝固具合から導き出された犯行時間近くに、ハンの帰宅ルートの中で、目撃者は見つかるのか?
チャンは鍵を握る人物を探し当てた。
山間部のダムのそばにある食堂の店主だった。
耳のきこえない息子が、自転車で車と接触事故を起こしてた。特徴からハンの車らしかった。

一方、アン検事は有力な証人を用意していた。それは職を辞した元刑事だった。
数年前に起きた女子高生の惨殺事件。
実はハンはその時も、容疑者として一時は拘束されながら、証拠不十分で釈放されてたのだ。
その元刑事はハンが犯人だと確信してたため、無罪放免の処置にショックを受け、辞職した。

その後も個人的にハンを追い続けてきたという。
だが今回の事件に関して、ハンの関与を覗わせる証拠は掴めなかったと、悔しさを滲ませた。


別の事件の容疑者に挙げられたことがあるという事実は、陪審員の心証を左右するに十分と思われた。
カン弁護士は、元刑事が証人に呼ばれた背景を探るうちに、女子高生惨殺事件の裁判を担当したのが、当のアン検事だったことを知る。
アン検事は完全にハンを今回の「死体なき殺人事件」の犯人に見立ててるのだ。

となればあの防犯ビデオは、弁護側の決定的な証拠になりうる。
弁護士事務所のスタッフとチャンは、カン弁護士に釘を刺されてたにも関わらず、防犯ビデオを手に入れる算段を整えた。
地元警察の刑事を丸めこんで、証拠保管室からディスクを持ち出したのだ。

だが映像を映してみると、それは防犯ビデオの画像ではなく、動物が映っていた。
アン検事は、弁護士側が防犯ビデオを盗み出すと読んで、罠を仕掛けてたのだ。

裁判は弁護側に不利に傾いていった。
有力な証人である食堂の店主も、証言台で、弁護側から金品の受け渡しをされたと、つい口をすべらして、証言そのものが認められなくなった。


すべてが検察のシナリオ通りに進む中、迎えた最終弁論。
カン弁護士は芝居がかった勝負に出た。
ハンを証言台に立たせ、弁護するはずが、逆に追い込んでいくような質問を投げかけた。

それまで裁判を通して、ほぼ無表情だったハンは、カン弁護士の
「殺したのはあなただろう?」という強い口調に、自分がやったと口にする。

涙ながらに、弁護士にすら信じてもらえない辛さを嘆き、
「本当に自分が殺ったのかもしれない」
「そう思いこむようになってしまった」と。
自分の指に指紋がないのは、特殊メイクの仕事で使う溶剤に、手を浸し続けてたからだと。

ハンの憔悴しきった表情と、その捨てばちとも取れる告白は、逆に陪審員に
「無実かもしれない」と思わせる迫真に満ちていた。
そしてカン弁護士は思いがけない証人の名を口にする。

「今から私が3つ数えると、この法廷のドアを開けて、ハンさんの奥さんが現れます」


『トガニ 幼き瞳の告発』の法廷場面で明らかにされる事件の衝撃的内容に、法廷劇として軍配を上げるいう向きもあるだろうが、そういう見方で、この『依頼人』がスポイルされてしまうのは、惜しいと思うし、目指してる方向性も違う。

こちらの場合は弁護側、検察側の法廷における一進一退の攻防に主眼を置いたリーガル・サスペンスを志向してるのだ。

ただこの展開の前提となるのは、韓国警察の初動捜査があまりにずさんであると仮定してのことだ。
謎解きの部分では、いくらなんでもそんな方法では、現場検証で痕跡が残るはずだし、証拠はおろか、死体すらないのでは、逮捕そのものが成立しないんじゃないか?
俺はまったく司法手続きとかには明るくないから、専門家が見れば、もっとあり得ない点が出てくるんだろうな。


でも俺は映画のテイストとして気に入ったのだ。
『トガニ 幼き瞳の告発』とは対照的と思えるくらいに、過剰な演出が控えられ、少しづつ事件の核心に近づいていく、その緊張感を保って描かれている。

『チェイサー』『哀しき獣』と役柄は違えど、逃げまくりっぷりが強烈な印象を残したハ・ジョンウが、やり手弁護士として、スーツもバリっと決めてる。
振る舞いも堂々としてるし、見事なホワイトカラーに変貌してるが、なぜか髪もなでつけて、小ざっぱりした顔になると、大鶴義丹に見えてしまうという。

ライバルのアン検事を演じるパク・ヒスンも、なんか悔い改めた遠藤憲一みたいだし。
チャン・ヒョクは、同じ法廷劇で、森田芳光監督の『39 刑法三十九条』の被告を演じてた堤真一を思わせる。

その3人が中心ではあるが、映画のポイントゲッターは、ブローカーのチャンを演じたソン・ドンイルだろう。
今年の春に公開され、このブログでコメント入れた『カエル少年失踪殺人事件』で刑事を演じてた。
この『依頼人』では、ちょっといかがわしい稼業ながら、裁判が始まると、弁護士をサポートして動き回る。いかにも海千山千の雰囲気が面白く、カン弁護士とは「ホームズとワトソン」のような関係性に見えたりもする。

2012年8月10日

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スパイダーマンは誰でもいいのか [映画ア行]

『アメイジング・スパイダーマン』

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にしても、あれだけ世界中で稼ぎまくったサム・ライミ版『スパイダーマン』3部作の、完結篇から僅か5年でリブート版を作らにゃならん理由はなんなのだ?
興行的また批評的に失敗したというならともかく、シリーズ物としちゃあ大成功を収めてるんだから、今回のマーベル及びソニー・ピクチャーズのやり方は、サム・ライミに対して失礼だと俺は思うが。

スタッフ・キャストを一新させてるということは、サム・ライミ版の臭みを払拭するのが狙いだったのか。
トビー・マグワイアはいかにも草食系かつオタクな印象があり、そんな主人公がめちゃ可愛い彼女をゲットするのも不自然ということで、キルステン・ダンストのMJとなるんだろう。
いやキルステンはとても奇麗に映る作品もあるんだから、『スパイダーマン』シリーズの「美人だかどうだか微妙なんだが、変にそそられる」キャラは、彼女の役作りの成果といえるのかも。

またピーターも毎回いろんなことで悩んでたしね。オタクっぽいし、けっこうウジウジ悩むし、ヒーローとしてそれはどうなんだと、映画会社の上層部も疑問を呈したのかもしれない。


でもって今回のキャスティングとなるわけだが、ピーター・パーカーを演じるのは、全方位的に無難な個性のアンドリュー・ガーフィールド。
MJに代わる彼女キャラのグウェン・ステイシーを演じるのが、髪をブロンドに可愛くまとめたエマ・ストーン。主役ふたりのとっつき易さは格段に上がっただろう。

そして僅か5年でのリブートにも関わらず、あまり反感も持たれず、興行も成功を収めたとなれば、要はピーター・パーカーを誰が演じるのかが重要ではなく、スパイダーマンのコスチューム着て、ビルの谷間を飛び回るような場面があれば、ファンは文句を言わないってことか。
ではスパイダーマンとしてどこまで許容されるのか、考えてみる。


ピーター・パーカーが黒人少年でもOKなのか?

例えばウィル・スミスの息子に主演させてみるとか。トビー・マグワイアもアンドリュー・ガーフィールドも、20代後半で高校生を演じてたわけだが、ジェイデン・スミスは今年まだ14才だからね。
歳をさば読む必要もない。
そういう話が持ち上がってもおかしくないと思うのは、ウィル・スミスは『ハンコック』でヒーローものを演じてる位にアメコミに憧れはあるだろうし、彼はソニー・ピクチャーズと専属契約を結んでる。
同じ会社でやってることだから、息子を推薦するってこともあり得る。


ピーター・パーカーが太ってたら?

『マネーボール』で好演したジョナ・ヒルに演じさせて、体重ありすぎて、たまに糸が切れて落下することもある、そんな『スパイダーデブ』も見てみたい気がするぞ。
「太っててもスパイダーマンになれる!」と勇気を与えることができるんじゃないか?俺とかに。


ピーター・パーカーが日本人だったら?

いろんなもん演じてるカメレオン俳優の松山ケンイチが主役になるのか。
いや日本でスパイダーマン大好きといえば中村獅童だから「俺に演らせろ」ってことになるだろう。
だが松ケンも獅童も高校生には見えんわな。『愛と誠』じゃないんだから。
キャラの性格に照らし合わせて、濱田岳とかいいんじゃないか?


スパイダーマンが女でも成立するのか?

蜘蛛っていうのは、そもそも女郎蜘蛛なんて名があるくらい、女性をイメージさせると思うんだよな。
『蜘蛛女』って映画もあったし。いやあれは比喩だよ比喩。
それに「スパイダーガール」のコスチュームとか想像するとちょっとエロい。
あのキメのポーズのM字開脚も勿論やってもらう。

ここはひとつ美少女アナソフィア・ロブに、ひと肌脱いでもらいましょう。
「サメに食われた後にクモになるのなんてイヤよ!」と拒否られるかもだが。


映画自体つまらないわけではなかったし、『スパイダーマン青春白書』みたいなノリで、これはこれでアリと思ったんだが、見せ場そのものは、CG主体でサム・ライミ版との差異も感じられない。

最近にない大役に抜擢されたリース・イーヴァンズ演じるコナーズ博士が、自らの失った片腕を再生させるために、爬虫類の細胞蘇生能力を使った血清を打った副作用で、ほぼトカゲになってしまうわけだが、その悪玉キャラ「リザード」とスパイダーマンの格闘は、どんなに派手に見せても「でもCGじゃん」と思ってしまうし、こういうのは俺にはもう退屈なのだ。

俺にとって唯一の胸熱シーンだったのは、あの何本ものクレーンのサポート場面だな。
そのクレーン車を率いてたのがC・トーマス・ハウエルってのがよかった。
この役者自身久々に目にしたんだが、彼のデビュー作はあの『E.T.』だった。
その時はBMXを駆る悪ガキの一団を率いるリーダー格を演じてて、最初はエリオット少年をイジメるような役回りだったが、あのクライマックスで、エリオットの逃亡をサポートする男気を見せてた。

まさにあのデビュー作の再現のような今回の役だったのだ。白髪まじりで随分と渋くなってたが。

2012年8月7日

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フィルムセンターで『エンドレス・ラブ』 [映画ア行]

『エンドレス・ラブ』

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この29日まで京橋の「国立近代美術館フィルムセンター」で特集上映されている「ロードショーとスクリーン ブームを呼んだ外国映画」のラインナップの中の1作。

1981年12月に「お正月映画」として公開されてるが、当時俺はスルーしてて、その後DVDとかでも見てなかったんで、今回初めてスクリーンで相対したわけだが、いや聞きしに勝る「困った映画」だったな。

青春ラブストーリーであり、ブルック・シールズを売るためのアイドル映画でもあるんだが、内容は今でいうケータイ小説の映画化作みたいなもの。『恋空』とかね。『恋空』見てないけどさ。
映画に描かれてるテーマをどう解釈するとか、そういう見方はどうでもよくて、とにかくよくこの人物設定とストーリーでGOサインが出たなという、そこんとこを楽しむべきものだった。
あらすじを真面目に書くのも憚られるので、くだけて書くんで、まあ聞いてください。


課外授業でプラネタリウム見学に来てる15才の女子高生が、ブルック・シールズ演じるジェイド。
その彼女の席の隣に後から忍び込むように入って来るのが、ボーイフレンドで、新人マーティン・ヒューイットが演じるデヴィッド。
17才で上級生の男子がジェイドと暗闇でいちゃついてるもんだから、周りの女子も色めきたつわけ。
純愛ドラマっぽく、二人が恋に落ちる部分は端折られ、肉体関係成立済み。

ジェイドは飛び抜けた美少女で、映画で説明はないが、彼女の兄貴が、デヴィッドの同級生で、紹介されたのが最初だったのだろう。それからデヴィッドは頻繁にジェイドの家族の元を訪れてる。
ジェイドの父親ヒューは開業医で、その家庭もユニークだ。
どうもフラワー・チルドレン世代で、執筆活動もしてる母親アンは、子供たちの恋愛にも
「いいんじゃないの?ラブ&ピース」な立場だ。

ヒューは自宅でパーティを開くと、バンドは入るわ、マリファナは回すわで、テンション高くなるのだった。若い者に囲まれ、興が乗ると趣味のサックスを聴かせたりする。
デヴィッドはそのジェイドの両親から、家族扱いされてることが嬉しかった。
「こんな家族って最高だよなあ」

デヴィッドの両親は弁護士として互いに仕事に追われ、家庭ではろくに会話もない。
自分の話もじっくり聞いてくれる余裕も見られない。
デヴィッドは家族の温もりを味わいたくて、ついジェイドの家で過ごすことが多くなる。
まあ第一の理由は彼女とヤリたいってことなんだが。

「えっ?彼女の自宅に行ってヤッてるの?」
そうなんです。だがそこまでは彼女の家族もまだ知らない。
ジェイドの兄貴のキースは、すでに二人がデキてることは感づいていて、
「妹とヤッたからって、家族と認めたわけじゃないぞ」
とデヴィッドに言い放つ。

キースを演じるのが、これがデビュー作となるジェームズ・スペイダーだ。
映画に出て早々に嫌味なセリフが板についてるのはさすがだな。
キースとしては、自分が紹介したダチに妹を奪われたってのが面白くないんだろう。
妹がブルック・シールズなら、なおさらそう思うわ。


その夜もパーティで父親ヒューは酔っ払って寝室へ。最後まで残ってたデヴィッドには、
「暖炉の火が消えるまでに帰るんだぞ」と言い残し。

デヴィッドとジェイドは両親が眠る2階に聞こえるように
「じゃあ、明日学校で!」と調子を合わせ、ドアを閉めるふりして、そのまま居残り。
暖炉の前で始めるのだ。気づいたの母親アンだった。

なんとなく目が覚めて、寝室から下の階へ降りて行くと、暖炉の前で素っ裸で絡んでる娘とデヴィッド!
「なんということでしょう」と一瞬ショックで目を逸らすが、なぜかすぐにガン見。
娘のエクスタシー顔を眺めて微笑んでるではありませんか!そんな母親って…。

「ああ、私にもあんな若い頃があったんだわ」って表情なのだ。
もちろんアンはその事はオフィシャルにはしなかった。

期末試験の時期だというのに、勉強なんか手につかない二人。
ブルック・シールズも頑張って喘ぎ顔とか作ってる。
一箇所デヴィッドがおっぱいに触れる場面があるが、あれは別撮りのボディダブルだろう。


ほぼ毎日の夜這い状態が続くわけだが、ある朝、父親のヒューは、2階の娘の部屋に、デヴィッドが素っ裸で立ってるのに仰天。

「なんでここにいる?」
しかもそこにシャワーを浴びてきたと思しき娘が。
「いったいここで何をしとるんだ?」と問い詰めるも
「私の部屋で何しようと勝手でしょ!」と娘逆ギレ。

あとで妻のアンに訊くと
「あらあなた気がつかなかったの?」ときたもんだ。
「デヴィッドは家族が寝静まった夜中にそっと来て、夜明け前には帰ってくの」
「コウモリみたいで素敵でしょ?」
うーむ、自分の妻とはいえ、この女、話にならんな。

しかもジェイドはそんなどさくさに紛れて、診察室から睡眠薬を失敬しようとする。
父親に見つかり
「眠れないのよ!」とまた逆ギレ。
あれだけ毎晩ヤッてれば、疲れてぐっすり眠れそうなもんだが、若さゆえであろう。
「お前の歳で睡眠薬はまだ早い!」
父親もな、ここで医師的所見を述べるのも、指摘すべき部分がズレてる気がするが。

実際ジェイドは授業中は居眠りこいてて、成績もガタ落ち。
休日に夜這いではなく、昼間にジェイドの自宅を訪れたデヴィッド。
だが声をかけてもキースはガン無視。
父親ヒューからは
「娘に会わすわけにはいかない」
「試験前に勉強も手につかないでいる。30日間会うのは禁止だ」
「30日経ったら改めて考えよう」

後から出てきた母親のアンに頼ろうとするが、家に入ろうとするデヴィッドを「警察を呼ぶぞ」とまで言って拒絶する父親。
突き飛ばされて、追い払われるように出て行かされる。


学校でもジェイドの姿を眺めるだけの日々。すっかりくさったデヴィッドは、同級生の友達に事の次第をボヤく。
「そんな家、放火してやれよ」

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そう言った同級生の顔をよく見るとトム・クルーズではないか?
ジェームズ・スペイダーとともに、この映画がデビュー作だが、端役もいいとこで、この場面のみだ。
しかもセリフが「俺は前に放火したことあるけど、自分で通報したら、その家から感謝されたぜい!」
とバカ笑いしてる。

あの精悍な表情など微塵もなく、この端役の若者が、将来ハリウッドを代表する大スターになろうとは、この映画に係わった誰ひとりとして、夢想だにしなかっただろう。

スペイダーやクルーズがその後スターの階段を登ってくのに、この映画で主役に抜擢された、マーティン・ヒューイットは、すぐに忘れ去られてしまったのだから皮肉だよ。

でもってデヴィッドは、そのトム・クルーズのセリフ通りに、本当にジェイドの自宅に放火しちまうんだから、開いた口が塞がらない。
つまりこの映画で、物語をある意味劇的に動かしたのは、端役のトム・クルーズだったということも言えるんで、すでに影響力を発揮してるということだよな。


玄関先に積んであった暖炉の薪に火をつける。一応ボヤですむように、バケツで上の部分には水をかけてるんだが、17才の浅知恵というのか、瞬く間に火は燃え広がり、見てたデヴィッドは思わずドアを破って、ジェイドたちに火事を知らせる。

「なんでここにいる?」
ジェイドの両親にキースとその弟、火にまかれる前に逃げ出すが、デヴィッドはジェイドを助け出そうとして何かにぶつかり気を失う。
ジェイドも無事で、倒れたデヴィッドは、ヒューが抱えて外に連れ出した。
もう何やってんだよ。火つけといて助け出されるって。


デヴィッドは自供し、裁判の末、重大な罪だが情状酌量の余地もあるということで、保護観察処分で、精神療養施設への強制入所を言い渡される。
ジェイドの家の人間に接近してはならないとも。
ヒューは刑の軽さに激怒。まあデヴィッドは親が弁護士だしねえ。

その後2年間、施設で暮らす中で、デヴィッドは何十通もの手紙を、ジェイドに向けて出していた。
だがすべて院長の手に渡り、投函されることはなかった。

デヴィッドは面会に来た両親に
「もうこれ以上耐えられないから出してくれ!」
と泣いて頼み、両親は院長に手を回して、デヴィッドを退院させる。
それを伝え聞いたジェイドの父親ヒューはまた激怒。

ジェイドの家族はあの一件以来こわれてしまった。父親ヒューは若い女を作り、両親は離婚。
ジェイドはひとりバーモンド州の大学のそばで下宿生活をしていた。


この精神療養施設の描写もいかんなと思うのは、デヴィッドは我が身を嘆くだけで、施設の患者と触れ合って自分を見つめ直すとか、そういうことが一切ない。

それから映画で言及されてなかったが、放火で家を全焼させたんだから、当然賠償請求って話になるだろう。デヴィッドの両親が払ったのか?
自分の家に戻ってくる場面があったから、家を売ったということはないとすると、やっぱり弁護士って稼げるってことなんだな。


でこのあと、ジェイドの家族に会うことを禁じられてるのに、デヴィッドはニューヨークに住むアンの部屋を訪ねてる。その前あたり俺は一瞬眠ってたんで、どういう経緯か知らない。
アンはあれだけの目に遭わされたデヴィッドを、それでも拒絶してないね。驚いた。

アンはジェイドがバーモンドに居ることを教えちゃったみたいだが、デヴィッドはバス停まで行くものの、バーモンド行きのバスに乗る踏ん切りはつかなかった。

悶々としながら、ニューヨークの街を歩いていると、交差点の向こうにヒューがいるではないか?
隣には若い彼女が腕組んでる。
先に気づいたのはヒューの方だった。顔色が見る見る変わる。
その殺気を感じたのか、デヴィッドが顔を向けると、二人の目が合った。

「なんでここにいる?」
夜這い発見から都合3度目の疑問となるね。

デヴィッドは思わず身を翻し、ヒューは後を追おうと、赤信号で飛び出し、タクシーに轢かれて即死。
若い彼女は取り乱し、デヴィッドは一度は駆け寄るが、その彼女と目を合わせた後、その場を立ち去ってしまう。

ヒューの事故死は家族の元にもたらされ、アンは部屋を訪れたデヴィッドにそれを告げて泣き崩れる。
自分がその場にいたとは、まして自分が事故死の引き金になったとは、とても言えない。
だがその部屋にはヒューと一緒にいた若い彼女が。
ドアから見えるデヴィッドの横顔に「もしや」と思った。

アンのもとを立ち去り、ホテルの部屋に戻ったデヴィッドを、誰かが訪ねてきた。それはなんとジェイドだった。
葬式にやってきて、母親からデヴィッドの居場所を聞いたのだ。

デヴィッドはアンに会った時に、施設で投函されることのなかったジェイドへの手紙を、本人に渡してほしいと託していた。
いまジェイドはその手紙をすべて読み終えて、デヴィッドに会いに来たのだ。
「だけどもう元通りにはならない」
立ち去ろうとするジェイドの腕を掴み、ベッドに押し倒す。抵抗するジェイドに
「君はまだ僕を愛してる!」
デヴィッドの叫びに、ジェイドは腕の力を抜き、すべてを委ねた。


久しぶりにすっきりしてしまった二人だったが、ホテルの部屋に、ジェイドの兄キースから電話が。
「聞きたいことがあるから、母の部屋に来てくれ」
デヴィッドはジェイドを伴い部屋を訪れる。キースは父親の若い彼女に
「現場にいたのはあいつか?」
若い彼女は頷く。ジェイドは驚き
「デヴィッド、パパが死んだ時その場にいたの?」
「ああ、いたんだ」
「でもあれは事故だった」
ジェイドは後ずさった。
「お前のせいで父さんは死んだんだ!」
キースは掴みかかり、その騒ぎに警官が乗りこんで、デヴィッドは連行されていった。

裁判所命令を破った以上、行く先は刑務所しかなかった。
さすがに二人の関係もここまでだろう。
しかし、ジェイドは信じていた。「エンドレス・ラブ」を!


ダイアナ・ロスとライオネル・リッチーによる主題歌が流れるラストシーンを、脱力して眺めるほかない俺がそこにいた。
もう映画の感想とかそんなことより、ストーリーを読んでもらえば、それがすべてという映画だ。
純愛ラブストーリーの名匠と謳われたフランコ・ゼフィレッリとしても、この脚本では途方に暮れたんではないか?

脚本はジュディス・ラスコーという女性で、他に何書いてるのかと思ったら、俺の大好きな
『ドッグ・ソルジャー』も書いてるのか!どうなっとるんだ。

マーティン・ヒューイットの演技はそれほど大根という感じでもなく、だがほとんどキャリアを伸ばせなかったのは、こんな共感も得られない「なんでここにいる?」男を最初に演じてしまって、そのイメージに足引っ張られたという不運さもあるんじゃないかな。

ブルック・シールズは、これはもう奇麗ですよ。
ときおり目線が定まってないような表情に見えることもあったが、アイドル映画としては成立してるんだろう。

2012年7月28日

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フィルムセンターで『愛と哀しみのボレロ』 [映画ア行]

『愛と哀しみのボレロ』

愛と哀しみのボレロ.jpg

この29日まで京橋の「国立近代美術館フィルムセンター」で特集上映されている
「ロードショーとスクリーン ブームを呼んだ外国映画」のラインナップの中の1作。

クロード・ルルーシュ監督の184分に及ぶ音楽大河劇といえる大作だ。現在DVDも廃版なため、見ることな困難となってる映画でもある。
俺は1981年の公開時に見ていて、このブログの「俺の午前十時の映画祭(80年代編)」の50本に選んだコメントの中で、その時の感動を思い出しつつ書いた。
30年以上経って、今回スクリーンで見直して、
「やはり思い出というのは美化されるもんだなあ」
と嘆息してしまった。

フィルムセンターの入場料は基本500円なんだが、今回はなぜか「特別料金」の1000円だ。納得いかない常連客の姿もあったが、にしても客席は8割方は埋まってた。
カラヤン、グレン・ミラー、バレエのヌレエフ、エディット・ピアフといった、国籍の違う音楽家たちをモデルとしたと思しき、登場人物たちの、世代を跨いだ、第2次大戦下から、80年代初頭までの人生の歩みを、音楽を散りばめながら描いていく。


その中で実在の人物をモデルとしない、ユダヤ系フランス人の男女のエピソードが、この映画の軸となってる。

パリの有名なキャバレー「フォリー・ベルジュール」の楽団員として出会った、ピアニストのシモンとバイオリニストのアンヌ。
ふたりはすぐに恋に落ち、結婚して赤ちゃんも授かるが、パリはナチスドイツの占領下に置かれ、ユダヤ人狩りの末、二人は赤ちゃんを抱いたまま、強制収容所への貨物列車に乗せられる。

このユダヤ人狩りのシークェンスには時間が割かれており、俺は忘れてたが、小学校の教室にナチスの軍人が生徒をチェックしに来る場面があった。
男子生徒のズボンを下ろさせ、割礼のあとを確認するためだ。

ひとりユダヤ人の少年がいて、軍人は少年に名前を訊く。フランス人の名だが疑っている。
女性教師は「これはおできの痕です」と言い、キリスト教の祈りの言葉を少年に暗唱させる。
軍人は教室を出ていき
「憶えておいて良かったでしょう?」
と少年は教師に言われる。そんな場面があった。

貨物列車に乗せられたシモンとアンヌ。赤ちゃんは泣き止まない。貨物列車の車両には、トイレ用の穴が隅に開けられており、シモンは妻に「子供だけでも助けよう」と言う。
そして紙にペンで書き置きをする。
文面を読んで泣き叫ぶアンヌ。だがシモンはアンヌの腕から赤ちゃんを放すと、服にくるんでその穴から、停車中の駅の線路に、そっと下ろす。

紙には「ダビッド」と名づけられた赤ちゃんを拾った人間に宛て、指輪といくばくかの紙幣が包んであり、「戦争が終わるまで預かってほしい」と書かれていた。

だがフランス国境沿いのその駅で、赤ちゃんを拾った男は、金と指輪だけ持ち去り、赤ちゃんを村の教会の玄関先に置いて行った。


前にブログの中で、強制収容所で、ガス室におくられるシモンを見つめるアンヌの場面に泣けたと書いたんだが、俺はその時の、アンヌを演じたニコール・ガルシアの表情が強く残ってたと記憶してた。
でも今回見直すと、その場面は彼女はじかにシモンの最期を見てたわけではなかったんだな。

アンヌは収容所でもバイオリンを弾かされていて、その姿と、ガス室で扉を閉められるシモンの表情がカットバックされるという描かれ方だった。
まあ、いい場面ではあるんだが、どこらへんで泣けたのかが、見直すとわからなかった。


でもって、この映画の趣向というのは、カラヤンを除いて、前に書いた3人の音楽家も含め、それぞれの二世代を同じ役者が演じてるのだ。

ジャック・グレン(グレン・ミラー)とその息子をジェームズ・カーンが。
グレン・ミラーの事故死する妻と、その娘でのちに世界的シンガーとなるサラをジェラルディン・チャップリンが。
ボリショイ・バレエ団の選考委員で、スターリングラードで戦死したボリスと、その忘れ形身で後にボリショイ・バレエの花形ダンサーとなり、西側に亡命を果たすセルゲイ(ルドルフ・ヌレエフ)にはジョルジュ・ドンが。
占領下のパリのナイトクラブで歌うエブリーヌ(エディット・ピアフ)は、若いナチスのと恋に落ち妊娠するが、終戦後、敵と寝た女と吊るし上げられ、頭髪を刈られてパリを追放される。
生まれ故郷で私生児を生み、自殺する。祖父母に育てられたエディットは、美しく成人してパリに出る。その二役をエブリーヌ・ブイックスが演じてる。

エブリーヌが情を通じた軍楽隊長カール(ヘルベルト・フォン・カラヤン)を演じるのが、ポーランドの名優ダニエル・オルブリフスキだ。
つまり映画の中では、ピアフがカラヤンの子を宿したという描かれ方だ。
しかもカールはこの時すでにドイツには妻がいたのだ。


そのカールは戦後指揮者としてヨーロッパで名声を得るようになり、初のニューヨーク公演へと意気込んだ。チケットは完売という。
だがコンサート開始時間、カールの妻は舞台カーテンの隙間から客席を覗いて愕然となる。
客がいないのだ。
中央に男が二人だけ。新聞の音楽欄担当のライターだった。

だがカールは演奏を敢行した。演奏を終え、楽団員から拍手が沸く中、天井からビラが撒かれる。
それは1枚の写真で、カールが若い頃ベルリンでヒトラーの前で演奏し、声をかけられてる場面だった。チケットはニューヨーク在住のユダヤ人たちが買い占めてたのだ。
この場面は映画のハイライトのひとつだろう。


もちろん最大のハイライトは、映画終盤17分間に及ぶ、ユニセフ・チャリティ・イベントにおける、ジョルジュ・ドンによる「ボレロ」の舞だ。

ジョルジュ・ドンにばかり注目が集まってしまうが、彼が演じるセルゲイの母親タチアナを演じてるのが、この映画のバレエシーンの振り付けを担当してるモーリス・ベジャールの、劇団のプリマでもあるリタ・ポールブールドだ。
彼女が戦場のロシア兵への慰問先で、民族衣装でコサックダンスのような踊りを披露する場面があるんだが、この時の彼女が可愛い。
本当にロシア人形が踊ってるようで、ここは見直して「発見」できた場面だった。

総じて一世代目のドラマはそれなりに見応えもある。
グレン・ミラーのエピソードはとってつけた感が否めない。
アメリカ人だから、フランス人のクロード・ルルーシュには、さして思い入れる所もないんだろう。
戦時中のエピソードといえば、ジャック・グレン夫妻の隣人の、いつも喧嘩してる双子の兄弟が、ノルマンディ上陸作戦の、パラシュート降下の最中に撃たれて死ぬという位だ。


戦後の二世代目のエピソードが面白くないのだ。
その要因として、同じ役者が親と子の世代を演じ分けてるんで、わかり易いのか、ややこしいのか、よくわからん状態に陥るということがある。

最たるものが、無名のフランス人の楽団員を演じたロベール・オッセンとニコール・ガルシアのケースで、特にロベール・オッセン演じるシモンは、ガス室で早々に命を絶たれるわけだが、彼らが託した赤ちゃんのダビッドを育てた、教会の牧師もロベール・オッセンが演じてる。
さらにダビッドではなく「ロベール」と名付けられた、シモンの息子の役もロベール・オッセンが演じてるんで、どこかしこにもロベール・オッセンが出てきてしまうのだ。

シモンの妻アンヌは、強制収容所から生きて戻り、戦後も楽団員として活動したが、頻繁に自分たちが赤ちゃんを置き去りにした、あの駅を訪れ、その消息を辿ろうとし続けてた。
一方作家として名をなしたロベールは、自分の出生の秘密を初めて知り、自分を生んだ母親が、今は精神を病んで施設にいることを突き止める。

息子と母親が再会を果たす場面は、終盤の「ボレロ」の旋律とともに描かれていて、施設の庭のベンチに座る二人を、かなりのロングの画で捉えた演出自体は上手いと思うのだが、どうしても夫婦だったロベール・オッセンとニコール・ガルシアが、母と息子として再会する、その絵づらが喉に引っ掛かってしまう。

グレン・ミラーのエピソードは二世代目に入って、さらに混迷を深めてく。ジェームズ・カーンは父親ジャックと、その息子でゲイのジェイソンを演じ、ジェラルディン・チャップリンは、交通事故で死亡した妻と、その娘の二役。
娘のサラは兄のジェイソンのサポートで、シンガーとして大成功を収めてるという設定だ。
劇中のセリフには「ビートルズに匹敵する人気」とか「世界中で1600万枚のレコードを売った」
多分、兄弟ということからカーペンターズをモデルにしてるんだろう。

まあカレン・カーペンターも決して美人というわけじゃないが、彼女にはあの歌声があったし、やはりスターのオーラがあった。
ジェラルディン・チャップリンには悪いが、華なさすぎ!
とても世界的人気シンガーには見えない。

この二世代目の描写でいかんと思うのは、シモンの息子ロベールを巡るエピソードが散漫なことだ。
アルジェリア戦争に従軍した戦友たちと友情を育むという展開だが、それまでの音楽絡みと関係なくなる。
当時フランスで有望視されてたリシャール・ボーランジェや、フランシス・ユステといった若い役者たちを出演させたいというだけの意図に感じられるのだ。
彼らのエピソードがペラい。


映画の流れとしては、前半で培った貯金も、後半で使い果たし、なんとかジョルジュ・ドンで元をとったみたいな。
この劇場公開版より長い4時間を越えるバージョンもあるらしい。
もっと描き込みがなされてるんだろうか。

2012年7月26日

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日米「森のアニメ」を見る① [映画ア行]

『おおかみこどもの雨と雪』

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滅多にアニメを映画館で見ることのない俺だが、珍しく公開初日に、しかも2本ハシゴした。
『サマー・ウォーズ』の細田守監督の新作『おおかみこどもの雨と雪』と、
ピクサーの新作『メリダとおそろしの森』だ。
奇しくもどちらも森が舞台となっていて、「母と子」の物語でもある。

そして俺にとっては、この勝負は「おおかみこども」の圧勝だった。
物語の前半からすでに、俺も更年期障害で、自律神経イカレて、涙腺がゆるみっ放しになったのか?と思うくらいに涙が出てしょーがない。
このアニメは劇場で予告編が流れ始めた頃から「見たいな」とは思ってたんだが、期待にたがわずどころか、もう素晴らしいとしか言いようがない。

物語に関しては整合性など細かい突っ込みを入れる気はない。大体、人間の女性と「おおかみおとこ」が結ばれて、「おおかみこども」が生まれるって設定なんだから。


大学生の花が、端の席で講義を聞きに来てる、物静かな「彼」を目に止め、二人が心を許しあうようになるには、時間はかからなかった。
彼は大学生ではなく、講義を内緒で聞きに来てた。引越し屋でバイトをしてた。彼は言った。
「アパートの部屋といっても、みんな同じじゃない」
「独りで暮らしてる人もいれば、子供と暮らす一家もある」
「誰かが待ってる家っていいな」
「そんな風に暮らしてきたことないから」
「じゃあ、私が待ってようか?」

だが次のデートの夜、彼はいつまで待っても約束の場所に現れなかった。
それでも道端に座り込んで待つ花。

ようやく現れた彼は、花に謝って、自分の秘密を打ち明けた。
目をつぶってと言われた花が、少しして目を開けると、目の前にはおおかみの姿に変わった彼が立っていた。
でも花は彼を受け入れた。

花が妊娠して、でも病院に行くことはできず、自宅分娩の道を選ぶ。
彼も甲斐甲斐しく、花の世話を焼く。

このあたりの場面はセリフはなく、時折挟まれるナレーションと、音楽だけで描写され、その満たされた日々の情景がまず心を揺さぶる。
ピクサーの『カールじいさんの空飛ぶ家』の冒頭10分の、あの感じに近い。

雪の日に生まれた長女の雪、その1年後の雨の日に、弟の雨が生まれるが、父親の「彼」は、家族のために都会で「狩り」をする最中に命を落とした。
その死体はゴミ収集車に放りこまれ、花は都会に見切りをつけ、彼が持ってた写真に写る、日本アルプスの峰々を戴く、山里への移住を決意する。


雪はおてんばで、ひと時もじっとしてない。好奇心も旺盛、食欲も旺盛な女の子。
弟の雨は内向的で、虫が出る田舎の家を怖がって、町に帰りたいという。

人間の子供の姿をしてる雪と雨は、体をブルブルッと震わせると、大きな耳が頭からポンと出る。そうするともう全身はおおかみとなって、あたりを駆け回る。
雪がおおかみになって駄々をこねる場面は、場内大ウケだった。


民家から離れた廃屋に、隠れるように住まい始めた母親と二人の子供、その手探りで頼りない生活をまず見つめる。

雨と雪が、生まれて初めて家を取り囲んだ一面の銀世界に興奮する場面。
おおかみの姿になって、山の斜面を滑るように駆けていく。
母親の花も走って後を追う。転げながら、雪まみれになって、3人は大きな声で笑う。
オーケストラの旋律の高まりとともに、画面が躍動する。
どの国の子供たちが見ても、目を輝かせて夢中になるだろう。

田舎暮らしは生易しくはない。いくら野菜を植えようとしても、すぐに枯れてしまう。でもなんかの拍子に、雨と雪がおおかみに変わるかも分からないので、里の人間に相談もできない。
途方に暮れる花を、里の住人たちは何気なく目を配っていて、気難しいが頼りになる里の老人のスパルタ指導により、花は畑作りを無事やり遂げ、しだいに花の一家も輪の中に加わるようになっていく。


6才になった雪は、小学校に通いたいと言い出す。
絶対に人前でおおかみにならないと約束させ、花は娘を学校に送り出すことにした。
すぐに仲良しの友だちもできたが、雪は人間の女の子と、自分の好む物がちがうことにとまどう。
人間の女の子は平気でヘビを手づかみにはしないし、宝箱の中に生き物の骨や死骸を入れたりしない。
そこらじゅうを駆け回ってた、おてんばの雪は、人間との同化を図ろうと、すっかりおしとやかな女の子に変わった。


雪の1年後に同じように小学校に入った雨は、気弱なためにイジメにあった。
おしとやかな雪も、弟がいじめられてる時は豹変していじめっ子たちを蹴散らした。
隣り合った雪と雨の教室をカメラが左右にパンさせて、1年、2年、3年と学級が上がってく様子を表現する場面は上手い。

雨はいつからか登校拒否となり、母親の花の働き先の、地域の自然保護センターに出入りするようになってた。
そこにはロシアのサーカスから用済みとなり、引き取られた年老いたおおかみがいた。
「おおかみはどんな風に生きてくの?」
雨はそのおおかみに訊ねた。

この頃から雨はあれほど虫などを怖がって立ち入らなかった山の中へ、ひとりで分け入っていくようになった。
「お母さんに、僕の先生を紹介するよ」
そう言う雨の後について険しい山を分け入って行った花の目の先には一匹のキツネがいた。
「この山の主なんだよ」
そう言うと雨はキツネの後を追って、駆けていった。
花は気弱だった雨の中に、眠っていた野生が呼び覚まされたのだと、思い知らされた。


人間に同化しようとする姉の雪と、おおかみとしての野生を自覚する弟の雨は、互いのズレに苛立ち、ついにはおおかみの姿になって、壮絶な兄弟ゲンカにまでなる。
花はその野生の迫力に、止めに割って入ることもできなかった。


人間の女の子として周りとうまくやれていた雪は、転校生の草平から何気なく
「おまえ犬飼ってない?犬の匂いがするんだけど」
と言われショックを受ける。

以来、草平を避けるようになるが、その態度が気になる草平に逆に付きまとわれ、
「オレ、なんか気に障ること言ったか?」
と肩をつかまれて、雪は思わず爪を出し、草平の耳を傷つける。
その瞬間、雪はおおかみに変わっていた。


設定は「おおかみこども」だが、描かれていることは、人間の子供をとりまく、成長や悩みや自我の芽生え、そのものだ。
草平が雪に「犬の匂いがする」と言ったのは、悪気はないが、小学校高学年になってくると、女の子はそういうことを気にし始める。
イジメにあう子は「あの子なんか臭い」というような理由をつけられたりすることが多いのだ。
それに傷ついたりする子がいるのだということを、作り手は観客にわかってもらおうとしたのだろう。

母親は子供のことを、「自分の子供だから」と思ってしまいがちだが、子供は一人ひとり違った人格であり、また違った人格になってくものだ。
母親の花は「おおかみこども」の出自を隠そうとしてきたが、雪も雨もそれぞれに、そんな自分の出自を表明する場面が訪れる。

ここは両方の場面ともに、特に涙腺がやられるところなのだ。


このアニメは音楽も非常に印象に残る。
高木正勝という人のことは知らなかったが、ありきたりな劇伴ではなく、インディストリアルな感じもあり、一時期流行ったアディエマスのようでもあり、丁寧に作画された山里や深い森の佇まいや、吹き渡る風の描写などに、その音楽が深みを与えている。
細田守監督の作詞で、アン・サリーが歌うエンディング曲『おかあさんの唄』もいい。

宮﨑あおいや菅原文太など、有名どころが声をあててるが、中でもおおかみおとこの「彼」をあててた、大沢たかおの声がいい。
これはもう1回見ようかなと思ってる。

2012年7月21日

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エイリアン対不良、団地の対決 [映画ア行]

『アタック・ザ・ブロック』

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ストリート・キッズvsエイリアンという図式が面白い。
コピーをつけるなら「今度は団地で戦争だ!」ってとこか。

低所得者用の巨大な公共団地がそびえる南ロンドン。住人の少女はいみじくも言った。
「なんだって南ロンドンを侵略に来るのよ!」
つまりこんなとこ侵略したって「誰得」?っていうくらい、物好きにも程があると言いたげな、そのセリフに爆笑した。

最初に目撃された1体は、侵略というより、アクシデントで偶然この地に落下したようだ。
見習い看護師のサムも、若い白人女性には、あまり似つかわしくない、この公共団地の住人だったが、帰宅間際に、同じ住人の悪ガキたちに囲まれてカツアゲされる所だった。

いきなり何かが路上駐車の車に落下し、悪ガキたちが覗きこむと、小さな謎の生物が飛び出してくる。
近くの倉庫に逃げ込んだ生物を追い詰め、ボコボコにして「俺らの前に現れたのは不運だったな」と、その死体を団地に運び込む。サムはそのどさくさに難を逃れた。

「こいつの正体は何なんだ?」
最上階に住むオタク白人のロンに聞いてみようと、悪ガキのリーダー、モーゼスたち5人は部屋を訪れる。
ロンの部屋にはたまたま生物学を学ぶブルースが、ドラッグをやりに来ており、死体を眺めて
「地球上の生物の形状とはちがう」と言う。
やはりこいつはエイリアンなのか?

その最上階には、マリファナを栽培する巨大な温室があり、モーゼスたちは、そこを仕切るギャングのハイハッツへの手土産にしようと、エイリアンの死体を持って行く。

だが時を同じくして、夜の闇を裂くように、閃光とともに、隕石が次々に南ロンドンの町に落下してきた。窓からその様子を見たモーゼスたちは、
「また返り撃ちにしてやる!」
と、それぞれの家に一旦戻り、武器になるものを手にして、母親には「晩ごはんまでには帰る」と約束して、団地から外に出た。
原付とマウンテンバイクとで、落下現場に急行する。

サムからカツアゲ被害の通報を受けた警察のバンと鉢合わせになり、モーゼスたちは拘束されてしまうが、次の瞬間、二人の警官は真っ黒な生物に襲われ、無残な死体となる。

「俺たちがやっつけた奴よりデカい!」
しかも闇夜では姿が見えず、凶暴そうな歯が並んだ口蓋部だけが青白く光ってる。
その場に居合わせたサムとともに、モーゼスは警察のバンに乗り込み、アクセルを踏んだ。

真っ黒なエイリアンは執拗に追いかけてくる。駐車場に逃げこんだ所で、他の車とクラッシュ。
その車にはギャングのハイハッツが乗っており、警察のバンでカマを掘ってきたモーゼスたちに
「いい根性じゃねえか!」と銃を向ける。

次の瞬間ハイハッツの手下が、真っ黒なエイリアンの餌食となった。
「とにかくヤバい!」
モーゼスたちも、サムも、ハイハッツも、団地に逃げ戻ることに。


団地周辺での騒ぎに警察も出動してくるが、あっという間にエイリアンに襲われる。
その真っ黒で俊敏なエイリアンたちは、続々とモーゼスたちの団地に襲来してくる。
敗走する間に、悪ガキ仲間の一人も犠牲となる。

マリファナの温室に逃げ込んだ彼らと、居合わせたブルースが何かに気づく。
それはモーゼスのジャンパーだった。紫外線ライトを照らすと、無数の白い模様が浮き出てる。

最初のエイリアンをボコった時に付着した、エイリアンの体液ではないか?
そのエイリアンはメスで、体液は強烈なフェロモンを出し、それを嗅ぎ付けた体の大きなオスたちが、群がってきてるのだと。
騒ぎの種を撒いたのは自分たちなのか?モーゼスは腹をくくることにした。


真っ黒で毛むくじゃらで、凶暴な歯を持つエイリアンの造形は『クリッター』を思わせる。
モーゼスたちを追っかけてくる場面などはCGではなく、着ぐるみで、中に「シルク・ド・ソレイユ」の団員が入ってたそうだ。身のこなしが俊敏だったわけだ。

海兵隊とかではなく、ストリート・キッズたちが、ロケット花火なんかで武装するという、小じんまりした戦争っぷりが楽しい。低予算ではあるが、スピード感に溢れていて、安っぽさはない。

看護師のサムが、行きがかり上、団地の自分の部屋で、怪我を負った悪ガキの一人を手当てすることになるが、彼女が簡単には打ち解けないのもいい。
そりゃカツアゲされそうになった相手なんだから。

リアルに感じたのは、この団地の廊下部分だな。普段は暗くなってて、人が通る時だけ照明が灯る。
団地の廊下ってひんやりと、底冷えするような感触があるのだ。
その場所を見せ場として効果的に使ってた。


俺自身も「団地っ子」と言える生活を続けてきた。
公営団地から引っ越したアパートは、「一棟立て」だったので、厳密には「団地」ではないんだろうが、住人のメンタルは変わらないものがあったと思う。
今と違って子供の数がやたら多い時代だったから、この映画の悪ガキたちより、もっと大勢のアパートの子供たちが、塊になって毎日遊んでた。

あの時代にはまだ私立の学校に通う子は少なかったし、そういう家庭はあまりアパート住まいとかしないんで、住人の子供たちは、学区の小学校や中学校に通い、学校でも帰宅後も、それこそ四六時中、顔を合わせてるようなもんだった。

アパートやマンションや、いわゆる「集合住宅」の住人のつながりは希薄と、よく言われることだが、それは単身で住んでる人間たちの間のこと。
子供がいると、子供を介して、その母親同士が言葉を交わすようになる。
俺の住んでたアパートは、特に一棟しかないから、住人の顔ぶれもほぼ把握されてる。

こういうコミュニティの中心になるのは「子を持つ母親」なのだ。
俺はまだガキだったから、当時は推し量るべくもなかったが、母親の間には、自分の亭主の仕事先とか、稼ぎとか、あるいは子供の成績とか、毎日の井戸端会議で交わされる会話の中から、浮かび上がってくるものがあり、そこはかとない「ヒエラルキー」が形成されてもいるようだった。

それと、子供を持つ母親と、持たない奥さんとの間柄というのは、やはり付き合いの密度が薄くなるようだった。

この映画の悪ガキたちのように、つるんでカツアゲに及ぶなんてことは勿論なく、事件らしい事件も起こらなかったな。
あの頃はローラースケートが流行ってたんで、学校終わって、夕飯までの時間は、アパートの子供たちが一斉にあたりを「カチャカチャ」いって走り回ってたんで、大人たちにとっちゃ、うるさくてしょーがなかっただろう。

もうひとつ学校でもアパートでも大流行りしたのが、酒のフタによる「おはじき」だ。
酒というのはいろんな銘柄があるから、珍しいのをはじいて手に入れると自慢できたのだ。
アパートの近くに、酒屋の倉庫があり、酒の空瓶が木箱に詰まれていて、そこに無断で入っては、フタだけ失敬していく。
「どうせ要らないもんでしょ」とガキは思ってるが、人の所有する敷地内に無断で入り、物を盗んでく「窃盗罪」には違いない。

あまり頻繁にフタが無くなるんで、酒屋から小学校にクレームが入り、それをもとに教師が、生徒たちに聞き取りを行ったところ、俺の名前が出て、母親が学校に呼ばれた。

たしかにアパートの子供たちの間で、俺は年長の一人だったし、率先して倉庫に入りこんでたのは事実だ。それで年下の子供が名前を出したんだろうが、簡単に名前を出されるという所に、俺の人望のなさが偲ばれるんである。

その後も現在に至るまで「あなたは人望がある」などと、一度も言われたことがないな。
そのへん悪ガキだが、悪ガキならではの人望がありそうなモーゼスとはちがう。

2012年7月5日

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『愛と誠』で唄ってほしかった曲 [映画ア行]

『愛と誠』

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舞台は1972年の東京だ。セットでそっくりに再現されてる、新宿西口地下の「巨大な目玉」のオブジェの前で、太賀誠が不良たちに囲まれて一触即発。次の瞬間、西城秀樹の『激しい恋』を唄い出したのを見て「ああ、この線でいくわけね」と、こちらの鑑賞モードも合わせることにした。


良家の令嬢・早乙女愛は、少女時代に、スキーがコントロールできなくなり、大怪我寸前のところを、見知らぬ少年に助けられた。
その少年・太賀誠は、身を挺して少女のスキーを止めた時に、スキー板の先端で、額に一生消えないほどの深い傷を負ってしまう。
「金持ちのお嬢さんだから助けたなんて思ったら、ブン殴るからな!」
少年は少女をおぶって、彼女の別荘へと運び、立ち去った。
以来、早乙女愛にとって、太賀誠は「白馬の騎士」であり、一生の愛を捧げるべき存在となった。

高校生となった愛が、偶然に再会を果たした太賀誠は、荒ぶる獣のようになっていた。
その額の傷を見て愛は察した。
「私のために負った、あの傷跡のせいで、誠さんの人生は荒れてしまった」
「私はその罪を背負っていかなければいけない」
少年院に送られた誠は、すぐさま出所となり、良家の子女が通う「青葉台学園」に編入となる。
愛が両親に手を回してもらったのだ。

早乙女愛と、野獣のような太賀誠との因縁を知った、生徒会長で学園一の秀才・岩清水弘はショックを受ける。
愛が自分に振り向いてくれない理由を悟ったからだ。それでも
「僕の幸せは自分が幸せになることじゃない。僕が愛する人が幸せになることなんだ」
と、早乙女愛への報われぬ想いを貫こうとする。
「早乙女くん。この岩清水弘は、きみのためなら死ねる!」

だが太賀誠は学園でも教師を殴って退学処分となり、不良たちの巣窟である「花園実業」に転入となる。そして早乙女愛も誠を追って、花園に転入。さらに愛を追って岩清水までもが転入する。

ベクトルのまったく交わらない三角関係はここにきて、誠が「花園のウラ番」と恐れられる美少女・高原由紀に好意を抱かれることから、凄絶な「愛の四五角形」へと雪崩れ込んで行く。


「純愛と暴力と犠牲」の梶原一騎ワールドを、いま映画化しようというなら、アプローチは二つあっただろう。
ひとつは、韓国映画なみの熱いテンションで、真正面からこの「愛の神話」を草食時代の現代に叩きつけてやるという視点。
この映画はもうひとつのアプローチを選んだ。
俺が『ダーク・シャドウ』のコメントでも書いた
「70年代世代向けエクスプロイテーション」にしつらえるというスタイル。

妻夫木聡が唄う『激しい恋』を皮切りに、
武井咲が『あの素晴らしい愛をもう一度』を、
岩清水弘を演じる斉藤工が『空に太陽がある限り』を、
高原由紀を演じる大野いとが『夢は夜ひらく』を、
最強高校生・座王権太を演じる49才伊原剛志が『オオカミ少年ケン』を、
太賀誠の母親を演じる余貴美子が『酒と泪と男と女』を、
女番長ガムコを演じる安藤サクラが『また逢う日まで』を、
その唄われるナンバーは、70年代世代であれば誰もが知ってるだろう。


俺は映画の前半はかなり楽しんで見てたが、ミュージカルシーンが急激に減ってしまう後半部分は正直つまらなかった。こうと決めたアプローチで全編貫いてくれれば、最近にない日本映画の傑作と、俺自身の中ではなったはずだったが。

三池崇史監督の演出は、誠たちが「花園実業」に転入してからは、結局『クローズ』の焼き直しにしか見えなくなってしまうのだ。もう喧嘩喧嘩の連続なんだが、乱闘シーンが単調なんで、「またですか」と飽きてくる。

これは今までの三池監督作に、ずっと感じてることではあるんだが、力まかせというか、役者の気合まかせというか、アクションの演出自体はあんまり上手くないよね。
主人公の前にエグい面構えの奴らが必ず出てくるんだが、大抵「出オチ」なんだよ。すぐにボコられて、でもそいつらが何度も出てくる。出てきてはまた主人公にボコられる。

乱闘シーンも学校内の場所を変えてるだけで、見せ方に工夫がない。
例えば校舎の階段を上から駆け下りつつ戦うとか、水平に見せた後は、垂直方向でのアクションにしてみる。
学校のプールに不良たち全員で飛び込んで、水中で格闘を見せるとかさ、ただの殴り合い、蹴り合いを何度も繰り返されても、テンション上がらないよ。

コンセプトが前半と異なって、後半はけっこう原作のエッセンスをマジに再現しようとしてくんで、こっちはせっかく乗ってたのに、曲の途中でアンプ切られて、お開きにされちゃったみたいなブツ切れ感を禁じえない。
俺としたら後半にもガンガン唄い踊る場面が欲しかったし、唄ってほしかった曲もある。


舞台設定が1972年となってるが、いずれもその年に大ヒットした曲だ。
当時俺は洋楽に走ってたから、歌謡曲とかあんまり聴いてないんだけど、そんな俺でも知ってる3曲。

『誰かが風の中で』 上條恒彦

レコード誰かが風の中で.jpg

テレビ時代劇『木枯し紋次郎』の主題歌で、西部劇のテーマのような勇壮さがカッコよかった。
「あっしには係わりねえこって」という紋次郎の生き方は、太賀誠のニヒルさと通じるものがあり、これは唄いながら、花園の不良たちをボコりまくってほしかった。
「血は流れ、皮は裂ける、痛みは生きているしるしだ」
なんていう歌詞も、荒涼とした誠の行く道に合う。
それか乱闘を遠巻きに眺めてる、花園の教師たちに唄わせるって趣向でもよかったかも。


『太陽がくれた季節』 青い三角定規

レコード太陽がくれた季節.jpg

村野武範が熱血教師を演じた学園ドラマ『飛び出せ!青春』の主題歌で、当時音楽の時間でもクラス全員で唄ったくらい流行った曲。男女3人組でメインヴォーカルは女性だった。歌詞は非常に前向きで、テンポもいい。
これを「花園」のスケバンたちに唄わせたら面白いのにと思った。
「君も今日からは、ぼくらの仲間。飛び込もう青春の海へ」
という歌詞とともに、早乙女愛をプールに突き落とすってのもいいだろ。


『ハチのムサシは死んだのさ』 平田隆夫とセルスターズ

レコードハチのムサシは死んだのさ.jpg

これはぜひエンディングで唄ってほしかった。
「チュチュチュチュルルチュルルチュチュ…」というスキャットとともに、出演者全員が集まってきての大団円。
その一大ミュージカルシーンで終わってほしかったんだよ。

この歌は、ハチをドン・キホーテに見立てたような歌詞が、寓話的で新鮮だったんだが、掴み切れないものを追い求める、登場人物たちの心情にクロスするものがある。
ラテン乗りのリズムもいいし、このくらい突き抜けて終わらせてもよかったんじゃないか?


ミュージカル仕立てで行こうと決めた時点で、もちろん沢山の曲の候補は挙がっただろう。使いたくても、楽曲の使用許可が下りなかったというケースも考えられる。

早乙女愛の両親を演じる一青窈と市村正規が歌い踊るナンバーは、当時の歌謡曲ではなく、小林武史によるオリジナルナンバーだった。この二人がやると俄然「ミュージカル」らしさが出るんだが、ここもできれば70年代歌謡でお願いしたかった。


キャストに関してはいろいろ意見はあるだろうが、俺は原作コミックを昔、友達んちで夜通しで読破したから、おおむね原作に沿ったキャスティングになってると思った。

妻夫木聡は学ランも、あの学帽もよく似合ってたし、太賀誠の少年時代を演じた、暴れる「こども店長」が見れるのも楽しい。
武井咲の外見は早乙女愛と寸分の狂いもない。思い込みの激しさと、察しの悪さという、早乙女愛のリアクションで笑いを取れてたし、シリアスな演技よりコメディが向いてるかも。
映画好きとしても知られる斉藤工は、自分に対しても人に対しても、ある種理不尽な岩清水弘という人物像の表現に健闘してる。
ガム子を演じた安藤サクラはさすがに安定感があって、見てるだけで楽しい。

多分キャストで論議を呼ぶのは、高原由紀を演じる大野いとだろう。
原作の高原由紀は、イメージでいうと、内田有紀にドスを利かせた感じのクールビューティなのだ。

大野いとは髪もショートではないし、ドスが利いてるという感じでもない。
セリフの棒読みが、意図したものなのか、本気なのかも微妙な所だが、俺は初めて見るこの女優の「白くて薄い」感じに惹きつけられた。
見た目の鋭さではなく、得体の知れない不気味さを、監督は彼女に託そうとしたのかも。
この女優はこの先ちょっと面白くなるかもなと思った。
49才伊原剛志に関しては、竹内力の「カオルちゃん」的な?


俺は近場のシネコンで見たんだが、まあ台風が近づいてるということはあったよ、そんな時に呑気に映画見に来る奴もあまりいないってことはある。だがそれにしたって観客は俺ともうひとり女性がいただけだ。興行は残酷なまでにはっきりと答えが出る。

「誰に向けて作られてるのか?」
映画を見る時に、何を選ぶかは、「俺はこれが見たい」と思うから選ぶんだよね。当たり前だけど。
でもそこには同時に「これを俺に見てほしいんだな」という、映画側からのメッセージを、観客は無意識に受け取ってるのだ。
いい悪いは別として、テレビドラマの映画化作とか、巷で人気のコミックの映画化がなぜ当たるかといえば、
「この映画の元となってるドラマを知ってる俺に、見てほしいんだな」
「このマンガを読んでファンになった俺に、見てほしいんだな」
と観客はそう思うからだ。
それはあまたの映画から、見るものを選ぶ時の、その映画との接点であり、きっかけになる。

『愛と誠』からそのメッセージを受け取るのはどんな観客なのか?
若い人は知らないよこのマンガ。同じ時代のものでも『あしたのジョー』や『銀河鉄道999』とかは、世代を経てもネームバリューは落ちないが、『愛と誠』はあの時代のヒットマンガであり、それを超越するものではない。
「70年代世代向けエクスプロイテーション」で行くと決めた時点で、もうパイが絞られちゃってるからね。
敢えて「テレビドラマ→映画化」の時流に叛旗ひるがえした姿勢は、俺は支持したいが、その結果
「ハチのムサシは死んだのさ」となったわけである。

2012年6月20日

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まとまりすぎてるツイ・ハーク [映画ア行]

『王朝の陰謀 判事ディーと人体発火怪奇事件』

王朝の陰謀 判事ディーと人体発火怪奇事件.jpg

以前のブログでこの映画を見に行ったが、体調が芳しくなかったのか、途中で寝てしまったんで、リベンジの機会を待つと書いた。
これは「シネマート新宿」で上映してたんだが、しばらくの間、小さな画面の「スクリーン2」に格下げされてた。なのでHPをマメにチェックし、「スクリーン1」に格上げされる「月曜メンズデー」が来るのを待ってたのだ。
先日ようやくその機会があり、2度目の鑑賞。う~む、中盤けっこう記憶がすっ飛んでたんだな。


則天武后という、中国初の女帝が出てくる。唐の時代の人で、後の西太后と並び称されるほど、冷酷残忍な権力者だったと伝えられてる。
映画の舞台は、皇宮のある洛陽の都。女帝の座に就く則天武后は、その権力の象徴として、自らの顔を模した弥勒菩薩像をかたどった、巨大な「通天仏」の建立を急がせていた。
それはまさに天にも届かんとする高さだった。

だがスペインからの使者を招いた、建立前の内見で、都を一望できる像の目の部分に足を運んだ一行の中で、工部副長官の体が突然火に包まれた。

この怪事件の捜査に司法官シュエと、野心家の部下ペイ・ドンライがやってくる。
死体の状態を見たシュエは、これは火を放たれたのではなく、人体内部から燃えたのだと結論づけた。
工事に使われる溶剤の中に、人体で化学反応を起こす物があると。犯人は工夫の中にいる。

ペイ・ドンライはその中の一人に目をつけた。建立の造営頭を務めるシャトーだった。
彼は以前、武后への反逆罪に連座し、片腕を落とされる刑を受けていた。
だが建立が遅れれば、それこそ全員が打ち首になると、工事の妨害工作を否定した。

司法官は事件を報告すべく、部下とともに則天武后の皇宮にお目通りを願うが、武后の目の前で、今度は司法官のシュエが全身火だるまとなり、朽ち果てた。
部下のペイ・ドンライは呆然と立ち尽くした。

困惑する武后の前に一頭の鹿が姿を現した。鹿は「国師」のお告げを口にした。
「怪事件を解決できるのは、朝廷を離れ、8年も獄に繋がれた“明けの星”しかいない」

“明けの星”とは、皇帝の死とともに権力の座に就いた当時の武后を非難し、投獄されていたディー判事のことだった。ディー判事は明晰な頭脳と、武術にも長けていた。
武后はディー判事を呼び戻すことにし、美貌の側近チンアルを監視役に、ペイ・ドンライを捜査の補佐役に任命した。


光の差さない獄に幽閉されてたディー判事だが、国師のお告げに相前後して、すでに刺客が投じられてきた。
ディー判事は拳法で刺客を蹴散らし、チンアルも見事な鞭さばきでディーを手助けした。
チンアルはディーの行動の真意を探るためなら、夜の相手もせよと命じられていた。

彼女はディー判事に誘いをかけるが、乗ってくる様子はない。
強引に出ようと思った矢先、またしても刺客の放つ無数の矢が二人を襲う。

危うく難を逃れたものの、この事件には、反武后派の企み以外にも、底知れぬ陰謀が隠されていると悟ったディー判事は、化身術を使うという、元宮廷侍医のワン・ポーが隠れ住む「地下世界」へと足を踏み入れる。
そして人体発火の鍵を握る「火炎虫」の存在にたどり着く。
それを操るのは一体誰なのか?
だが真相に迫りつつあるディー判事と、行動を共にするチンアルとペイ・ドンライの身にも、危険が迫っていた。


ツイ・ハークの映画らしいと思うのは、小道具がイカしてる所だ。
アンディ・ラウ演じるディー判事の武器は「降龍杖」というもの。青銅の棒なんだが、この武器には、触れた物質の弱点が音で判別できる力が備わってるのだ。

ディー判事がお忍びで現れた武后の前でその力を披露する場面がある。灯篭を「降龍杖」でなぞっていき、音の変わった部分を一撃すると粉々に崩れ落ちる。こういう場面があるのが楽しい。

美貌の側近チンアルを演じるのは、リー・ビンビン。
彼女の鞭さばきがカッコいい。しばいてほしい。
アクション監督はサモ・ハンで、随所に飛び道具を使ったような見せ場をこしらえてる。

鹿が「国師」のお告げをしゃべり出した場面は、『鹿男あをによし』かと思ったが、鹿はあとの場面で、ディー判事に猛アタックで襲いかかってきたりするんで、意外と重要な存在だったりする。
アンディ・ラウは生真面目に対応してたな。

人体自然発火というと、そのものズバリな題名の、トビー・フーパー監督作『スポンティニアス・コンバッション』を思い出すってもんだが、その種明かしが「火炎虫」という。
もちろん架空の虫なんだが、映画の中では、見た目は「ダンゴ虫」の巨大なヤツで、家の中で見かけたら卒倒するレベル。
この火炎虫の体液をなんらかの形で、人間の体内に注入させると、太陽の光を浴びた途端に、体内でその成分が発火するという設定なのだな。


そういった小道具やら、妖術やら、いろんな要素が盛り込まれていて、クライマックスの「通天仏」大崩壊に至るまで、2度目の鑑賞では飽きずに見終えることができた。

だがこれは贅沢な不満というもんだが、ツイ・ハークにしては、破綻なくまとまりすぎてるなと。
言い方かえると、今まで見てきたツイ・ハークの映画は、ストーリーの辻褄が多少合わなくても
「なんだこれ、すげえ!」っていう見せ場がどっかしらにあったのだ。

このブログでも以前コメント入れた『ブレード/刀』もしかり。
その後に見た『ドリフト』もどんな話だったかさっぱり憶えてないが、九龍あたりの高層&ボロアパートの階段を、ワイヤー使ってビュンビュン駆け下りてく、まさに「ワイヤーアクション」な場面とか、壁面使ったアクションとか、その凄さだけは目に焼きついてる。
今回の映画では、そういう目に焼きつくような見せ場がなかったのは、なんか物足りない。


則天武后をカリーナ・ラウが演じてるが、伝え聞くような冷酷な女帝という面は強調せずに、女が権力の座に就くことの孤独を滲ませる描写もあり、その人間的な部分を表現しようと好演してる。

ペイ・ドンライを演じるダン・チャオは、俺は知らない役者だったが、中国では人気の若手という。この映画では髪も睫毛も白くしていて、大人なのか子供なのか、不思議な佇まいをしていた。

アンディ・ラウは王朝時代の衣装とか、着こなすのが難しそうなのに、ビシッと決まってて、さすがスターの風格だ。

登場人物のほとんどに非業の死が訪れるという、なかなか悲壮感あふれる展開も、お気楽な冒険探偵ものと違って、余韻があっていい。
ディー判事でシリーズ化されそうな気配はあるね。

2012年6月11日

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原作読んで再度観た『裏切りのサーカス』 [映画ア行]

『裏切りのサーカス』

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キャストが好みだったし、公開後すぐに見に行ったのだが、ご他聞に漏れず、ちょっと掴みどころのない印象だった。わかりにくいというより、結末に関して「ふーん」という程度の感慨しか抱けなかったので、これはジョン・ル・カレの原作を読んでみなきゃいかんなと、読んだ上でもう一度見てみようと思った。
しかし俺は本を読むのがとにかく遅いのだ。520ページもあるんで、休み休みなんとか読み終えて、もう1回見に行ったわけだが。

それでも映画を見てから原作にトライして良かったことは、登場人物に、俳優の顔が乗っかってイメージできるんで、錯綜する人間関係が捉えやすくなる。読んでて入り込みやすくなるのだ。
で、2度目に映画を見たら、漠然としてた部分の背景が掴めた。

1回目に見た時から、映画の雰囲気はいいなと思った。色彩設計が、監督の美意識で統一されてる。
1970年代の東欧の風景とか、俺はよく知らないが、灰色を基調としながら、イーストウッドの映画の彩度を落とした色合いとは違って、ところどころに赤やオレンジなど、強い色も入ってくる。
「サーカス」本部内のデザインも凝ってるし、目を楽しませる画面作りだ。
ゲイリー・オールドマン、カンバーバッチ、マーク・ストロングにコリン・ファースと、英国男がズラリ居並ぶ。


ロンドンのケンブリッジ・サーカスに本部を置くことから、通称「サーカス」と呼ばれる、英国諜報部。そのリーダーのコントロールは、サーカス内部に、「モグラ」と称される、ソ連の二重スパイがいるとの情報を得る。
1970年前半、東西冷戦下の諜報戦が熾烈を極めていた、そんな状況下だった。

コントロールは、ハンガリーの将軍が、「モグラ」の情報と引き換えに、西側に亡命を望んでいると聞き、独断で工作員ジム・プリドーをブタペストへ向かわせる。
だが将軍は取引の場には現れず、ジムが罠と悟った時は手遅れだった。
ジムは射殺され、作戦の失敗が公になったことで、コントロールは失脚。
長年右腕として働いていたジョージ・スマイリーも連座させられ、サーカスを追われた。

コントロールは引退直後に、謎の死を遂げた。
妻のアンにも去られ、孤独な日々をかこってたスマイリーは、政府の次官レイコンの呼び出しを受ける。
サーカスのトップにいる4人の中に、「モグラ」がいる。それを突き止めろという極秘指令だった。
スマイリーは、信頼を置く部下のピーター・ギラムに声をかけ、調査を始める。

死んだコントロールの自宅からはチェスの駒が見つかった。駒にはサーカスの4人の顔写真と、コントロールがつけたと思しきコードネームが振り分けられている。
現リーダーのパーシー・アレリンは「ティンカー(鋳掛だがけ屋)」、
組織随一の実績を誇り、色男でもあるビル・ヘイドンは「テイラー(仕立て屋)」、
勇敢だが急進的思想のロイ・ブラントは「ソルジャー(兵隊)」、
東側から転向したトビー・エスタヘイスは「プアマン(貧乏人)」とされていた。

そして駒はもう一つ出てきた。その駒にはスマイリーの顔写真が。
コントロールは、右腕として信頼を置いてた自分にも疑いをかけていたのか?


スマイリーは時を同じくしてサーカスを退職した、ベテランの女性職員コニーのもとを訪れる。
コニーは今回の件には「カーラ」が絡んでると言った。ソ連の大物スパイで、スマイリーとも因縁浅からぬ人物だった。
以前「カーラ」は西側に捕らえられ、スマイリーが西側のスパイに転向させるよう、説得の役にあたっていたのだ。ソ連に送還させられても死が待つのみだと。
だが「カーラ」は「屈服よりも死を選ぶ」と帰国した。
取調べの席でスマイリーから借りたライターを手にしたまま。
「アンより愛をこめて」と彫られた、妻からの贈り物だった。

コニーは今回の作戦失敗の影には、「カーラ」と、その手先となるソ連大使館のポリヤコフの存在があると、リーダーのパーシーに報告する。
だが「それは妄想だ」と、判断能力の低下を理由に解雇されたのだ。

一方ピーターの調べで、死んだはずのジム・プリドーに宛てて、彼の偽名口座に1000ポンドが振り込まれてるという。ジムは生きてるのか?


調査を進める二人の前に、東側に寝返ったと思われてた工作員のリッキー・ターが現れた。
ピーター・ギラムはやおらリッキーに殴りかかった。
リッキー・ターは、ピーターが束ねる「手を汚す部隊」の一員だったのだ。
リッキーは事の次第を話した。

イスタンブールで活動中に、東側の通商使節団員の女性イリーナと恋に落ちたという。
イリーナが恋人からDVを受ける様子を、リッキーは目撃していたのだ。
違反行為を承知でイリーナと接触すると、彼女はリッキーの素性を読んでいた。
イリーナは「モグラ」の情報と引き換えに、西側に亡命を望んだ。

だがリッキーがその電文をサーカスに送った直後、イリーナはソ連の工作員に連れ去られてしまう。
「彼女を救ってほしい」とリッキーは涙声でスマイリーに訴えた。

電文の記録は当直日誌に残ってるはずだ。ピーターはサーカス本部から、巧妙な手段で日誌を持ち出したが、リッキーが電文を打った日のページは破かれていた。
この調査すら「モグラ」に筒抜けなのだ。


スマイリーはジム・プリドーが撃たれた夜に、ハンガリーからの緊急連絡を受けた当直に話しを聞いた。
スマイリーの自宅に当直が電話したが、出張中で、妻のアンが電話に出たという。
そして混乱きたすサーカス本部に駆けつけたのはビル・ヘイドンだった。
ビルはハンガリー大使館を呼び出し、
「ジムが死んだら容赦しないぞ」と凄んだ。
ビル・ヘイドンとジム・プリドーは、「一心同体」と言われる間柄だった。
同志という以上の結びつきだったのだ。

そして死んだと思われてたジムは、ビルの援助を得て、今は教師として、静かに暮らしてるらしい。
あの1000ドルもビルからのものだろう。
スマイリーはジムの居所を突き止めて、あの作戦の真相を聞きだした。


ジムは撃たれて動けなくなった後、東側に捕らえられ、拷問を受けた。
何日も経って「この女に見覚えは?」と連れて来られたのはイリーナだった。
ジムは首を横に振ると、直後にイリーナは射殺された。
その場に居た男はスマイリーのライターを持っていた。
「カーラだ」

ここまでの調査でピーターが腑に落ちなかったのは、ハンガリーの作戦失敗の報を受けて、不在のスマイリーに替わるようにビルが駆けつけたことだ。
作戦はコントロールが独断でジムを使って行ったことで、右腕のスマイリーに緊急連絡が入るのはわかる。だがそれ以外の人間は知らないはず。

スマイリーはピーターに口を開いた。
「あの時、自宅にいたのはビルなのだ」
つまりそれはビルと、妻のアンが不倫をしてるということだった。


パーシー・アレリンと、彼に従うトビー・エスタヘイスが、コントロールに代わってサーカスの実権を握った裏には、彼らが「ウィッチクラクト作戦」と呼ぶ、ソ連側の新しい情報元から得た機密があった。
英国諜報部は、かつての存在意義が低下し、アメリカの諜報機関と手を結ぶべきと、パーシーたちは大臣に働きかけていた。

だが「ウィッチクラクト作戦」とは、ソ連が英国諜報部を通じて、「敵国」アメリカの情報をより得やすくするために撒いた餌だった。
スマイリーはロンドン市内に「ウィッチクラクト作戦」の密会所があると踏んで、ひと芝居打つことにした。


この物語ではスマイリーとビル・ヘイドンの関係が重要になるんだが、映画ではビルの描きこみが少なすぎる。

原作にはなく、映画独自の描写として上手いと思ったのは、往年のサーカスの人間たちが一堂に会したクリスマス・パーティの場面だ。
興が乗って、ソ連の国歌をみんなで歌いだすという皮肉のこもった場面だが、その会場で、スマイリーは、庭の木陰で抱き合う、妻とビルの姿を目撃してしまうのだ。

スマイリーとビルはだからといって敵対関係にあるわけではなく、互いを認め合ってもいるんだが、原作ではビルがどういう実績を積んできたかとか、その人物像にページが割かれてるので、キャラクターが頭の中で立つんだが、映画ではそこまで把握できない。

映画ではスマイリーと、部下のピーター・ギラムの描写がメインで、疑いをかけられてる4人のメンバーがほとんど画面に出てこないので、誰が「モグラ」であったところで、「ああ、そうなの」という反応になってしまう。
「この映画は謎解きがメインではない」という見方もあるが、ではなにがメインなのか?


スパイという因果な稼業の男たちの苦悩なのか、矜持めいたものを描くのか。
だがスパイという仕事をしてる人間に、なにか思い入れるとか、共感を持つということは、一般の生活を送る人間には困難なことじゃないか?

もちろんそのニヒリズムであるとか、ダンディズムであるとか、そういうものを感じ取って、自ら悦に入ることは出来なくはないが、なにかその先に広がってくようなものがないな。


映画はウェルメイドというくらいに丁寧に出来てるとは思うんだが、世界が内に向かって閉じてるような印象を受ける。
ひとつには、監督のトーマス・アルフレッドソンが、この「サーカス」の男たちの世界を、ホモソーシャルな結びつきとして、色濃く描いてるという点だ。
ビルとジムがそういう関係であることは原作と同じだが、ピーター・ギラムの恋人が原作では女性なのに、映画では男性になっている。

度々スマイリーによって回想される「クリスマス・パーティ」の場面は、妻の不倫を目撃するという痛恨の記憶であるとともに、あの会場でスマイリーが目配せする、ビルやコントロールや、サーカスの男たちとの、口元に浮かぶ微笑などは、「男たちとともにいる時代の甘美な記憶」として、去来してもいるのだ。

トーマス・アルフレッドソン監督は、前作の『ぼくのエリ、200歳の少女』にも偲ばせていたが、本質的にはゲイの物語を語ろうとする人だ。なのでゲイではない俺には、本質的な部分がわからない。
というか閉じられてるという印象に繋がってしまう。

多分この映画をコントロールしてる、品の良さとか、ラストに流れる楽曲などの音楽の趣味とか、そのあたりにも表れているのだろう。スパイ映画だが、女性の方がハマる要素があるように思う。

あとサイドストーリー的に、教師になったジム・プリドーが、眼鏡の小太り少年と交流する場面があるが、原作ではその二人の係わりがもっと描かれていて、これをスピンオフで1本作ればいいのにと思う位にいい。
ジムが少年が教室でどんな存在なのかを瞬時に見抜いて

「孤独な人間は、いい観察者になれる。君はいい観察者だろ?」

映画ではマーク・ストロングがジムを演じてるが、彼の演技する場面をもっと見ていたかった。

2012年6月10日

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