ベタだけどなぜか泣ける『サニー 永遠の仲間たち』 [映画サ行]

『サニー 永遠の仲間たち』

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『ロボット』といい『愛と誠』といい、この映画といい、この所立て続けに「唄い踊るヒロイン」を目にしてるな。
高校時代の友情を再確認する、中年女性たちの話で、韓国映画らしい、てらいもなくベタな描写が連続するんだが、不思議と乗せられてしまう。

映画の中で、病室で韓流ドラマを見てる患者たちが、登場人物の告白場面で
「やっぱり兄妹だったのかよ!」
「俺はそうじゃないかと思ってたんだ!」とか、
「また交通事故かよ!いい加減にしてくれ!」
とか言い合ってる。韓国もののベタぶりを笑いのネタにしたうえで、
「この映画もベタだけどね」と進んでく、この監督したたかだな。

だがその一方で、映画は1985年を回想する構成になってるが、「サニー」のメンバーが、敵対する女子グループとの戦いの最中に、市街地での、学生デモと機動隊の衝突に巻き込まれる場面がある。

ここは1980年に起きた「光州事件」を連想されるような設定になってるが、もしベタに描くんであれば、ここはデモに巻き込まれた少女たちの混乱を、激しい暴力描写とともに、生々しく捉えていただろう。
だがこの場面で、監督はデモの衝突と混乱を、一種のミュージカルのモブシーンのように表現してた。
こういう技を繰り出してくるんで、一筋縄ではいかないのだ。


主人公のナミは42才の専業主婦。夫はエリートで何不自由ない暮らし。高校生の娘は反抗期なのか、朝の食卓に会話もほとんどなく、そんな毎日が続いている。
ナミは具合の優れない義母を見舞いに行った病院で、苦痛に叫び声を上げる患者の姿を目にする。
病室の名札には「ハ・チュナ」とある。
高校時代を共に過ごした、仲良しグループ「サニー」のリーダーだ。
「あのチュナが?」
容態の落ち着いたチュナの顔を覗きこむと、チュナはすぐにナミと気づいた。

あれからもう26年が経っていた。気が強く、いつもナミをかばってくれた、あのチュナが、ガンで余命2ヶ月という。チュナはナミに頼みごとをした。
「もう一度、サニーのみんなに会いたいな」

映画はここから、ナミが高校時代を回想する場面と、「サニー」の仲間の現在の消息を訪ね歩く場面とを、交互に描いていく。


地方からソウルの高校に転校してきたナミは、いきなり方言をからかわれ、クラスで悪ぶったサンミから目をつけられる。その窮地を救ったのがチュナだった。ナミを仲間に紹介した。

二重まぶたに憧れる、ちょい「ふくよか」なチャンミ。
国語教師の娘なのに、誰よりも口が悪いジニ。
ミス・コリアを夢見る乙女チック少女ポッキ。
文学少女だが凶暴化するクムオク。
そして仲間ではあるけど、いつも距離を置いて佇んでる美少女スジ。

成績優秀で絵もうまいナミは、すぐに仲間に認められた。敵対グループの「少女時代」との睨み合いの場で、ナミが機転を利かせたのも大きかった。
ナミが加わり、グループ名を「サニー」とつけた。
当時流行ってたボニーMの『サニー』を聴きながら、みんなで振り付けして踊った。
26年前、私たちの青春はキラキラと眩かった。


ナミは高校を訪れ、かつての担任教師に、居所の分かる仲間がいるか調べてもらった。
そして再開したチャンミは、より「ふくよか」になっていた。保険のセールスレディをしてるが、成績は上がらないとこぼす。
他のメンバーの消息はつかめず、チャンミのツテで探偵事務所に依頼した。

あの口の悪かったジニは、すっかり猫をかぶり、セレブ主婦の生活を謳歌していた。
だがチャンミに顔の整形をツッコまれ、思わず言葉遣いが元に戻った。
将来は作家を目指してたクムオクは、安アパートで姑の嫌味に耐えながら、家事をこなすのみだった。

そしてミス・コリアを目指していたポッキの今は、とりわけナミとチャンミにはショックだった。
母親の作った借金を背負い、怪しげな店でホステスになってた。愛する娘とも引き離され、絶望を紛らわすため、クスリにも手を出している。
あの乙女なポッキの面影はどこにもなかった。
26年の月日は、仲間たちの明暗をくっきりと分けていた。

その仲間たちを訪ね歩く途上で、ナミは高校生の娘が、路地裏でイジメにあってる姿を目撃する。
家に帰っても、娘はイジメのことを話そうとしない。口数が少なくなってたのはそのせいだったのか。
ナミはさっそく再会できた「サニー」のメンツを結集させ、娘をイジメる女子高生たちに鉄柱を下した。
警察沙汰になってしまうが、仲間たちには晴れ晴れとした笑顔が戻っていた。


だがそんな中で、ひとりだけ見つからないのがスジだった。
スジはナミにとって、他のメンバーたちとは、ちょっと違う因縁のある存在だった。
スジの凛とした美しさはナミの憧れでもあったが、なぜかスジは心を開いてくれなかった。

だがその理由は意外なものだった。スジも元々は地方出身で、方言でバカにされまいと、必死に突っ張ってきたという。同じ境遇のナミに以前の自分を見るようで嫌だったと。
二人は(高校生なのに)居酒屋でビールを飲み交わした晩に、ようやく打ち解けた。

だがいつもヘッドフォンで音楽を聴いてる、チャンミの兄の友達に、恋心を抱いたナミの失恋の原因となったのも、スジだったのだ。
ナミは回想した。彼を追って薄暗いカフェに入った時のこと。
後ろからヘッドフォンを耳につけられ、流れてきた『愛のファンタジー』
告白する決意をして、彼のもとへ駆けつけようとした晩に、木陰から見てしまった、彼とスジとのツーショット。

いま私が乗ってるのはあの時と同じ電車だ。
駅のホームのベンチでひとり泣いてた、あの時の私。
いま私は同じ駅で降りて、ベンチで泣いてる、16才のナミの肩を抱いてあげよう…


なぜあんなに仲が良かった私たちは、顔を合わすことがなくなったんだろう。
その運命を分かつ日は、高校の文化祭の当日だった。

「サニー」は体育館のステージで、ダンスを披露することになってた。すでに女子高生モデルとして活動してた、スジを目当ての観客も詰め掛けていた。
そんなステージ寸前の彼女たちの前に、サンミが現れた。シンナーを吸っていて、目が据わってる。
サンミは元々チュナたちとつるんでたが、性格がもとで、追い出されてたのだ。
暴れ出すサンミを止めようとして、悲劇は起こった。


この映画が「輝ける青春時代」を振り返る、ベタついた感傷に陥らないのは、高校時代の彼女たちが「バンカラ」だからだ。
威勢がよくて、女子版『ビー・バップ・ハイスクール』みたいなノリなのだ。
タイマン張るような場面も、最初の方ではユーモラスに処理していて、だが後半は凄絶な場面になだれ込んでいく。
その過去とリンクさせる現在の場面の見せ方も上手い。

ナミが高校時代の「サニー」のビデオを家で再生する。彼女たちが、将来の自分に語りかけるという内容だ。「これは反則だろ」と思うくらいの泣かせのポイントになってる。
もう現在の彼女たちの人生がわかってる上で、ビデオの中の、天真爛漫な自分たちを見てるわけだから。


この映画がベタでも心地よく乗せられるのは、主役で現在のナミを演じるユ・ホジョンの、自然だけど、ちゃんと情感のこもった表情をつくれる演技に拠る所が大きい。
この人、フリーアナの根本美緒に、顔の雰囲気が似てると思いながら見てたんだが、笑顔がとてもいいね。
演じすぎるような女優だったら、物語にもちょっと引いてしまうところだった。

高校時代のナミを演じるシム・ウンギョンは、本当に80年代にいたなあという感じの、顔の各パーツが丸い、おぼこっぽいルックスで、よく見つけてきたなと思った。
『愛のファンタジー』の場面は元ネタの『ラ・ブーム』そのまんまで笑ったよ。

映画としてポイントゲッターになってるのは、現在のチャンミを演じるコ・スヒだろう。
玉ノ井親方(大関栃東)そっくりなんだが、表情もいいし、出てくるだけで笑いを誘う。
だが例えば『ブライズメイズ…』のメリッサ・マッカーシーほどの「あくどい」演技にはならず、コミカルな振る舞いを、ほどよく抑制もしていて、この人は上手いなあ。

高校時代のスジを演じたミン・ヒョリンは実際にモデル出身だそうだが、ストレートの髪も美しく、「ザ・美少女」という感じ。デビュー当時の石田ゆり子を思わせた。

楽曲的には「80年代世代向けエクスプロイテーション」といえるが、ボニーMとか、シンディ・ローパーとか、『ラ・ブーム』とか、本当にベタ系で、俺としてはもう少しレアなのも聴けると良かったんだが。
それこそ「細かいことは置いといて」物語に身を委ねてしまった方がいいね。
ピンポイントで「泣かせ」要素を繰り出してくる、その精度の高さは侮れない。

2012年6月21日

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『愛と誠』で唄ってほしかった曲 [映画ア行]

『愛と誠』

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舞台は1972年の東京だ。セットでそっくりに再現されてる、新宿西口地下の「巨大な目玉」のオブジェの前で、太賀誠が不良たちに囲まれて一触即発。次の瞬間、西城秀樹の『激しい恋』を唄い出したのを見て「ああ、この線でいくわけね」と、こちらの鑑賞モードも合わせることにした。


良家の令嬢・早乙女愛は、少女時代に、スキーがコントロールできなくなり、大怪我寸前のところを、見知らぬ少年に助けられた。
その少年・太賀誠は、身を挺して少女のスキーを止めた時に、スキー板の先端で、額に一生消えないほどの深い傷を負ってしまう。
「金持ちのお嬢さんだから助けたなんて思ったら、ブン殴るからな!」
少年は少女をおぶって、彼女の別荘へと運び、立ち去った。
以来、早乙女愛にとって、太賀誠は「白馬の騎士」であり、一生の愛を捧げるべき存在となった。

高校生となった愛が、偶然に再会を果たした太賀誠は、荒ぶる獣のようになっていた。
その額の傷を見て愛は察した。
「私のために負った、あの傷跡のせいで、誠さんの人生は荒れてしまった」
「私はその罪を背負っていかなければいけない」
少年院に送られた誠は、すぐさま出所となり、良家の子女が通う「青葉台学園」に編入となる。
愛が両親に手を回してもらったのだ。

早乙女愛と、野獣のような太賀誠との因縁を知った、生徒会長で学園一の秀才・岩清水弘はショックを受ける。
愛が自分に振り向いてくれない理由を悟ったからだ。それでも
「僕の幸せは自分が幸せになることじゃない。僕が愛する人が幸せになることなんだ」
と、早乙女愛への報われぬ想いを貫こうとする。
「早乙女くん。この岩清水弘は、きみのためなら死ねる!」

だが太賀誠は学園でも教師を殴って退学処分となり、不良たちの巣窟である「花園実業」に転入となる。そして早乙女愛も誠を追って、花園に転入。さらに愛を追って岩清水までもが転入する。

ベクトルのまったく交わらない三角関係はここにきて、誠が「花園のウラ番」と恐れられる美少女・高原由紀に好意を抱かれることから、凄絶な「愛の四五角形」へと雪崩れ込んで行く。


「純愛と暴力と犠牲」の梶原一騎ワールドを、いま映画化しようというなら、アプローチは二つあっただろう。
ひとつは、韓国映画なみの熱いテンションで、真正面からこの「愛の神話」を草食時代の現代に叩きつけてやるという視点。
この映画はもうひとつのアプローチを選んだ。
俺が『ダーク・シャドウ』のコメントでも書いた
「70年代世代向けエクスプロイテーション」にしつらえるというスタイル。

妻夫木聡が唄う『激しい恋』を皮切りに、
武井咲が『あの素晴らしい愛をもう一度』を、
岩清水弘を演じる斉藤工が『空に太陽がある限り』を、
高原由紀を演じる大野いとが『夢は夜ひらく』を、
最強高校生・座王権太を演じる49才伊原剛志が『オオカミ少年ケン』を、
太賀誠の母親を演じる余貴美子が『酒と泪と男と女』を、
女番長ガムコを演じる安藤サクラが『また逢う日まで』を、
その唄われるナンバーは、70年代世代であれば誰もが知ってるだろう。


俺は映画の前半はかなり楽しんで見てたが、ミュージカルシーンが急激に減ってしまう後半部分は正直つまらなかった。こうと決めたアプローチで全編貫いてくれれば、最近にない日本映画の傑作と、俺自身の中ではなったはずだったが。

三池崇史監督の演出は、誠たちが「花園実業」に転入してからは、結局『クローズ』の焼き直しにしか見えなくなってしまうのだ。もう喧嘩喧嘩の連続なんだが、乱闘シーンが単調なんで、「またですか」と飽きてくる。

これは今までの三池監督作に、ずっと感じてることではあるんだが、力まかせというか、役者の気合まかせというか、アクションの演出自体はあんまり上手くないよね。
主人公の前にエグい面構えの奴らが必ず出てくるんだが、大抵「出オチ」なんだよ。すぐにボコられて、でもそいつらが何度も出てくる。出てきてはまた主人公にボコられる。

乱闘シーンも学校内の場所を変えてるだけで、見せ方に工夫がない。
例えば校舎の階段を上から駆け下りつつ戦うとか、水平に見せた後は、垂直方向でのアクションにしてみる。
学校のプールに不良たち全員で飛び込んで、水中で格闘を見せるとかさ、ただの殴り合い、蹴り合いを何度も繰り返されても、テンション上がらないよ。

コンセプトが前半と異なって、後半はけっこう原作のエッセンスをマジに再現しようとしてくんで、こっちはせっかく乗ってたのに、曲の途中でアンプ切られて、お開きにされちゃったみたいなブツ切れ感を禁じえない。
俺としたら後半にもガンガン唄い踊る場面が欲しかったし、唄ってほしかった曲もある。


舞台設定が1972年となってるが、いずれもその年に大ヒットした曲だ。
当時俺は洋楽に走ってたから、歌謡曲とかあんまり聴いてないんだけど、そんな俺でも知ってる3曲。

『誰かが風の中で』 上條恒彦

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テレビ時代劇『木枯し紋次郎』の主題歌で、西部劇のテーマのような勇壮さがカッコよかった。
「あっしには係わりねえこって」という紋次郎の生き方は、太賀誠のニヒルさと通じるものがあり、これは唄いながら、花園の不良たちをボコりまくってほしかった。
「血は流れ、皮は裂ける、痛みは生きているしるしだ」
なんていう歌詞も、荒涼とした誠の行く道に合う。
それか乱闘を遠巻きに眺めてる、花園の教師たちに唄わせるって趣向でもよかったかも。


『太陽がくれた季節』 青い三角定規

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村野武範が熱血教師を演じた学園ドラマ『飛び出せ!青春』の主題歌で、当時音楽の時間でもクラス全員で唄ったくらい流行った曲。男女3人組でメインヴォーカルは女性だった。歌詞は非常に前向きで、テンポもいい。
これを「花園」のスケバンたちに唄わせたら面白いのにと思った。
「君も今日からは、ぼくらの仲間。飛び込もう青春の海へ」
という歌詞とともに、早乙女愛をプールに突き落とすってのもいいだろ。


『ハチのムサシは死んだのさ』 平田隆夫とセルスターズ

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これはぜひエンディングで唄ってほしかった。
「チュチュチュチュルルチュルルチュチュ…」というスキャットとともに、出演者全員が集まってきての大団円。
その一大ミュージカルシーンで終わってほしかったんだよ。

この歌は、ハチをドン・キホーテに見立てたような歌詞が、寓話的で新鮮だったんだが、掴み切れないものを追い求める、登場人物たちの心情にクロスするものがある。
ラテン乗りのリズムもいいし、このくらい突き抜けて終わらせてもよかったんじゃないか?


ミュージカル仕立てで行こうと決めた時点で、もちろん沢山の曲の候補は挙がっただろう。使いたくても、楽曲の使用許可が下りなかったというケースも考えられる。

早乙女愛の両親を演じる一青窈と市村正規が歌い踊るナンバーは、当時の歌謡曲ではなく、小林武史によるオリジナルナンバーだった。この二人がやると俄然「ミュージカル」らしさが出るんだが、ここもできれば70年代歌謡でお願いしたかった。


キャストに関してはいろいろ意見はあるだろうが、俺は原作コミックを昔、友達んちで夜通しで読破したから、おおむね原作に沿ったキャスティングになってると思った。

妻夫木聡は学ランも、あの学帽もよく似合ってたし、太賀誠の少年時代を演じた、暴れる「こども店長」が見れるのも楽しい。
武井咲の外見は早乙女愛と寸分の狂いもない。思い込みの激しさと、察しの悪さという、早乙女愛のリアクションで笑いを取れてたし、シリアスな演技よりコメディが向いてるかも。
映画好きとしても知られる斉藤工は、自分に対しても人に対しても、ある種理不尽な岩清水弘という人物像の表現に健闘してる。
ガム子を演じた安藤サクラはさすがに安定感があって、見てるだけで楽しい。

多分キャストで論議を呼ぶのは、高原由紀を演じる大野いとだろう。
原作の高原由紀は、イメージでいうと、内田有紀にドスを利かせた感じのクールビューティなのだ。

大野いとは髪もショートではないし、ドスが利いてるという感じでもない。
セリフの棒読みが、意図したものなのか、本気なのかも微妙な所だが、俺は初めて見るこの女優の「白くて薄い」感じに惹きつけられた。
見た目の鋭さではなく、得体の知れない不気味さを、監督は彼女に託そうとしたのかも。
この女優はこの先ちょっと面白くなるかもなと思った。
49才伊原剛志に関しては、竹内力の「カオルちゃん」的な?


俺は近場のシネコンで見たんだが、まあ台風が近づいてるということはあったよ、そんな時に呑気に映画見に来る奴もあまりいないってことはある。だがそれにしたって観客は俺ともうひとり女性がいただけだ。興行は残酷なまでにはっきりと答えが出る。

「誰に向けて作られてるのか?」
映画を見る時に、何を選ぶかは、「俺はこれが見たい」と思うから選ぶんだよね。当たり前だけど。
でもそこには同時に「これを俺に見てほしいんだな」という、映画側からのメッセージを、観客は無意識に受け取ってるのだ。
いい悪いは別として、テレビドラマの映画化作とか、巷で人気のコミックの映画化がなぜ当たるかといえば、
「この映画の元となってるドラマを知ってる俺に、見てほしいんだな」
「このマンガを読んでファンになった俺に、見てほしいんだな」
と観客はそう思うからだ。
それはあまたの映画から、見るものを選ぶ時の、その映画との接点であり、きっかけになる。

『愛と誠』からそのメッセージを受け取るのはどんな観客なのか?
若い人は知らないよこのマンガ。同じ時代のものでも『あしたのジョー』や『銀河鉄道999』とかは、世代を経てもネームバリューは落ちないが、『愛と誠』はあの時代のヒットマンガであり、それを超越するものではない。
「70年代世代向けエクスプロイテーション」で行くと決めた時点で、もうパイが絞られちゃってるからね。
敢えて「テレビドラマ→映画化」の時流に叛旗ひるがえした姿勢は、俺は支持したいが、その結果
「ハチのムサシは死んだのさ」となったわけである。

2012年6月20日

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悪ロボットはパンチパーマ [映画ラ行]

『ロボット 完全版』

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まず映画の冒頭に、題名よりなにより先に「主演スーパースター、ラジニカーント」!とドドーンと出る。内容がどうとか関係ない。ジャンルは「ラジニ映画」なのだ。
これは最もブイブイ言わしてた時のアル・パチーノの状態と同じだ。
『クルージング』とか『スカーフェイス』とか、あのあたりの本国版のポスターは、タイトルより「PACINO」の文字がデカく表示されてたのだ。
一瞬「パチーノ」って題名の映画かと思ったよ。
今日びその位のスターはインド映画にしかいないのかも。

そして画面に登場するラジニカーント61才、もう思いっきり「ヅラ」である。
だがニコラス・ケイジのようにつけるにも、多少控えめな分量にするなんてことはない。
こんもりとボリュームたっぷりの「ヅラ」である。
きっとそんなことを気にするインド人もいないのだろう。
ラジニカーントは「ヅラ」も含めてのスーパースターなのだ。

昨年の東京国際映画祭ではチケットがとれず、一般公開となった際には、139分の「短縮版」になってた。
本来177分あるから、40分近く切られたわけだ。俺はなんかモタモタしてたら、そのうち177分の「完全版」もやりますという事になって、まあ「果報は寝て待て」というか「残りものには福がある」というか、ようやく見に行ってきたのだ。
わざわざ尺を縮めたのは、この映画をシネコンでも上映するために、妥協を図ったということもあるだろう。
シネコン側が、日に何度もかけられない上映時間に難色を示したと考えられる。


俺は「短縮版」を見てないからどこを切られたのかと、ネットで調べてみると、けっこうメインのミュージカル・シーンが2つ含まれてる。
いやたしかに映画のストーリーの流れには何も関係ないとはいえ、これ切っちゃうか。
配給会社もどこかに自責の念があると見えて、パンフにはその「未公開ミュージカルシーン」を見開きカラーで載せてるよ。

映画の最初の方に出てくるラジニカーントと、アイシュワリヤーが砂漠をバックに唄い踊るのは、ブラジルの「レンソイス・マラニャンセス国立公園」でのロケという。
砂漠と緑の湖の織り成すコントラストが美しい場所だが、なんだろうな「ジュワイヨクチュール・マキ」的なセンスで撮られてるというのか、なつかしのMTVを見てる感じ。

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そして後半の見せ場のひとつでもあるのが、「なぜそこにいる?」という、世界遺産「マチュピチュ」遺跡での、アルパカをバックに従えた大群舞のミュージカルシーン。
ここは民族衣装を大胆にアレンジした、アイシュワリヤーのダンスに目を奪われること必至。

日本人はともかく、インド人がこういうミュージカルシーンをカットされてると聞いたら激怒するだろうな。よく西葛西あたりで暴動が起きなかったなと思うよ。
インド映画といったら、一も二もなく、まずは「ミュージカルシーン」なのであって、それをカットして上映するってことは、例えばドニー・イェンの映画から、ドニーの格闘シーンをカットするようなもんだろ。


「完全版」という呼称は、もともと製作者側が短い尺で公開してたものを、後になって監督なのど意向を汲み、全長版として改めて世に出す時に使われるものだ。
今回の「完全版」上映は、何か有難い措置みたいに表現されてるが、これはそもそも「通常版」だろ?
最初の一般公開の139分版を、むしろ『ロボット 欠損版』と銘打つべきものだったと思うぞ。
逆に「何で残したのか?」と思うような場面もある。

ラジニカーント演じるバシー博士によって作りあげられた、二足歩行ロボット「チッティ」が、アイシュワリヤーが演じる、バジー博士の婚約相手サナから、頬っぺたにキスを受け、人間の感情が芽生えてしまうというストーリーだが、チッティはもう一度キスしてもらいたくて、夜中に彼女の寝室へ忍び込むが、彼女の頬っぺたで血を吸う蚊を発見。
目を覚ましたサナに、その蚊を捕らえてくれたら、もう一度キスしてもいいと言われ、追っかけてく。
ものすごく視力がいいんで、蚊を外まで追いかけて、ドブの蚊だまりまでやってくる。
すると唐突に蚊と何か言い合いとなってる。
「彼女の血を吸った蚊を差し出せ!」
「なんだこいつ、全員で襲いかかってやるか?」
だがロボットが只者じゃないと蚊も思ったのか
「今日のところは一旦引き上げよう」と。

いやこのほとんど本筋に関係ない、CGの蚊を見せたかっただけの場面も、後の伏線になってるのかと思いきや、その後、蚊出てこないよ!じゃ要らないじゃんかという話だ。

しかし見ていて、ペース配分というのか、インド映画は長尺が当たり前なんで、その振り分け方を心得てる感じはした。
始まって20分くらいは、ロボット製作に関わる小芝居が続いて、大した見せ場があるわけじゃない。
その内、ミュージカルシーンがポロポロ入りだし、映画そのものの馬力も上がってくような作りだ。

これは俺の勝手な想像なんだが、インドって暑いでしょ?
だから映画館に来た観客は、入ってしばらくは、涼を取るというのか、冷房きいた映画館で、気持ちをゆったりさせる、メンタル的にはそういう方向にシフトしてると思うんだよね。
のっけからド派手な見せ場や、ミュージカルシーンを持ってこられても、まだ体が慣れてないよということじゃないかな。
だから映画もローで発進して、少しづつギアを上げてく。
最初の本格的なミュージカルシーンはそのきっかけになるんだろう。
見せ場の演出とともに、ストーリー自体もどんどん展開が早くなってくる。


この映画でいうと、バジー博士がチッティにいろいろ学習させるのがスタート。
バジー博士はこのチッティを、「ロボット兵士」に使ってもらおうと考えてる。
「戦争になっても味方の兵士を死なせずにすみます」
相手はパキスタンなんだろうな。

だが立ちはだかるのが、ロボット工学では恩師となるボラ教授。自分も作ってるんだが、うまく動かずに、弟子だったバジー博士に嫉妬を燃やしてる。そのボラ教授は、AIRD(人工知能開発局)で、ロボットに量産化の認可を与えるか否かの立場にあり、チッティの欠陥を指摘する。
「学習能力は高くても、善悪の判断が出来てない」と。
このボラ教授は、俺には伊集院静にしか見えないんで、心の中では「伊集院教授」と呼んで見てた。

バジー博士は欠点を克服すべく、チッティに人間の複雑な感情を学習させ、神経回路を改良する。
上に書いたサナにキスされて、チッティがときめいてしまうのは、そういう前提があるから。
でもって人間的な感情が芽生えたチッティは、バジー博士による軍事用のデモンストレーションの場で、勝手に平和を語り出してしまい、軍との契約はご破算に。


がっくりきた帰り道で、大規模なアパート火災に遭遇。
チッティは全身磁石モードにし、アパート高層階の鉄製の手すりに照準合わせ、ジャンプする。
手すりから手すりに飛び移り、何人もの逃げ遅れた住人を救い出す。
その様子が丁度取材に来てたカメラに映される。バジー博士は、チッティが人の役に立つと証明されたので、AIRDも量産を認めざるをえないだろうと、ほくそえんだ。

だがチッティが最後に風呂場から助け出した少女は、裸のままカメラに囲まれ、恥ずかしさのあまり、その場から逃げ出すと、通りに出たところでトラックにはねられて即死。
その一部始終もテレビで中継され、チッティの命運は尽きた。

この場面はチッティに抱えられて救出された少女の体にモザイクが入ってた。
裸には見えるがボディスーツは着用してるだろう。にしてもインド映画でモザイクは初めて見たよ。

おまけに自我が芽生えたことで、バジー博士を恋敵と見なし、命令にも背くようになる。
バジー博士は激怒し、チッティの四肢を斧で叩き落し、産廃として埋め立て地へ送る。
そのことを知ったボラ教授は、埋め立て地でチッティを回収。組み立て直し、その胸部に、戦闘用プログラムのチップを埋め込んだ。
かくして「悪(ワル)チッティ」が誕生し、バジー博士とサナの前に立ちはだかるのだった。


このワルチッティになると人相が変わり、蝶野のようにも見えるし、ジョン・ベルーシのようにも見える。頭がパンチパーマになってるんで、インドでもパンチはその筋の方を連想されるのか?
しかしパンチパーマのインド人てあんま見たことないけどな。

それと元々肌は浅黒いんだが、それが一段と濃くなってる。ワルチッティが唄い踊るミュージカルシーンは、ダンスもヒップホップ系だ。
どうもインド人の共通認識としては、黒人ラッパー=悪い人てことらしい。

ワルチッティになってから、映画としては俄然スケールがデカくなってくんだが、クライマックスあたりの見せ場は、俺には所詮は「CGで遊んでるんでしょ」という感じで、騒ぎたてるようなもんでもないと思う。
三池監督の『ヤッターマン』なんかのCGの使い方と似た感じ。

61才のラジニカーントは一応バジー博士とチッティの二役ってことになってるが、ロボットの時にはデカいグラサンつけてるし、CG絡みのスタントシーンが多いし、正直中身がラジニカーントでなくてもいけちゃう感じだけどな。

2012年6月19日

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ごん太眉のリリー・コリンズがよい [映画マ行]

『ミッシングID』

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ピッツバーグで毎日バカやって楽しく暮らしてる高校生が、学校の授業の課題で、「行方不明児童」のサイトを何気なく調べてたら、どう見てもこれはガキの時分の俺だろうという写真に出くわし、両親のタンスをあさると、奥から写真の子供服とおんなじ物が出てくるに及び、たまらず母親を問い詰めると、私は母親じゃないとあっさり認めちゃうが、でも父親の話もきいてちょうだいと、下の部屋に呼びに行くと、玄関のベルが鳴り、母親が出ると、入管の者だというが、どう見ても怪しいんで、母親ドアを閉めようとすると、ブチ破られて、さあ大変!ということから、本筋へと入ってくわけだ。

育ててくれた両親が本当の両親じゃないとすれば、俺は本当は誰なんだ?という「自分探し」が始めるんで、そのあたり『ジェイソン・ボーン』シリーズにあやかった宣伝で行きましょうってことなんだろ。でもって、「ボーンを期待したら、全然軽かった」とか、あまり評判も芳しくないね。

だが「ボーン」シリーズは、この手のジャンルでは「破格」の出来の映画なんだよ。そんな映画がそうポンポンと誕生するはずない。
できるんだったら、映画に投資する人たちはみんな儲かってウハウハだよ。
映画の世界はそんなに甘くはないのだ。


この『ミッシングID』は、青春巻き込まれアクションとして、気楽な感じで見てやらないといけない。
どの位の気楽さで臨めばいいかというと、80年代の青春スターが主演した、巻き込まれ型アクションを思わせる感触なのだ。
3本挙げてみよう。いずれも1985年近辺の映画だ偶然にも。


1本目は『ランナウェイ 18才の標的』

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ジョン・ヒューズ印の青春映画でお馴染みのアンソニー・マイケル・ホールが主演してる。両親の離婚を機に、兄夫婦を頼ってロスに着いたアンソニーだが、空港で、自分のスポーツバッグを間違えて持ってかれてしまう。
そうとは気づかず、アンソニーは同じ柄のバッグを持ってくが、その中には売人が奪った100万ドル相当の麻薬が。売人はすぐに気づいて、アンソニーを追跡、兄夫婦の家で急襲。巻き添え食った兄夫婦は殺され、アンソニーは決死の逃亡を余儀なくされるという筋立て。
アンソニーの力になってくれる、頼れる美少女ジェニー・ライトが可愛くてね。


2本目はアーサー・ペン監督作『ターゲット』

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80年代「ブラッドパック」のリーダー的存在だった、マット・ディロンが、ヨーロッパ旅行中に、母親を誘拐され、父親ジーン・ハックマンと捜し回る。
その途上で父親が元CIAだったことがわかって、息子びっくりの一席。


3本目は『ガッチャ!』

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『ER』のアンソニー・エドワーズがまだ毛がふさふさの時代に、UCLAのキャンパス内で、ペイント弾使った射撃ごっこに興じる、ボンクラ大学生を演じてる。
こっちのアンソニーは、やはりヨーロッパ旅行中に、マジなスパイ戦に巻き込まれてしまう。


この3本はそれぞれちょっとづつ『ミッシングID』に繋がる要素があるのだ。
兄夫婦が殺されるのと同じように、育ての親の夫婦も殺される。
父親が元CIAでびっくりって所も一緒。
最後の『ガッチャ!』は、アンソニーといい仲になる、チェコ人を名乗る美女が、実はピッツバーグ生まれのCIAエージェントだった。

まあそんな風に共通点が見つかることからも、この映画が「80年代青春映画」フォーマットの巻き込まれアクションとして楽しめる所以となるのだ。俺にとってはだけどね。


この映画の主人公ネイサンには、向かいの家に幼なじみで同級生のカレンがいるんだが、たまたま授業で「行方不明児童」の課題をペアで取り組むように言われ、カレンはネイサンの家を訪れた時に、ネイサンの母親が凶弾に倒れる瞬間を目撃してしまう。
恐怖で動けなくなってると、男に捕まり、銃を突きつけられる。その時ネイサンが男に飛びかかり、どこでそんな術を覚えたのか、格闘の末、男を組み伏せる。

男は「オーブンレンジに時限爆弾があるぞ」と言い、ネイサンとカレンが確認した時は残り5秒。
庭のプールに二人でダイブした直後に、ネイサンが住み慣れた家は、木っ端微塵に吹っ飛んだ。


ここから先はひたすら逃げるという展開だ。女子高生のカレンが、命の危険にさらされながらも、ネイサンのそばを離れないというのは、現実的ではないが、これでいいのだ映画としては。
だって「青春」だからだ。

ネイサンを演じるテイラー・ロートナーは、俺は『トワイライト』シリーズの1作目をDVDで見たきりなんだが、彼はネイティヴ・アメリカンの血を受け継いでるんだってね。
ルー・ダイヤモンド・フィリップスを超えるスターになれるだろうか?
実際に空手の達人だそうで、格闘場面の体の切れはマット・デイモンに負けてない。

俺が目が行ったのはカレンを演じるリリー・コリンズの方だけど。フィル・コリンズの娘なのかあ。
さかんに眉毛の太さが語られてるが、眉毛いいじゃないか。可愛かったよ彼女。
あの眉毛が個性であって、似た顔が多い、最近のハリウッドの若い女優たちにはないチャームを持ってるってことだ。彼女が白雪姫演じてるターセム監督の新作もインパクトありそうだな。

80年代は太い眉毛は普通だったよね。デミ・ムーアしかり。
『スター・ファイター』っていう憎めないSFに出てたキャサリン・メアリー・スチュアートって女優も、見事なゴン太眉だったし。

アムトラック車内での格闘も見応えあるが、クライマックスの舞台となる、ピッツバーグ・パイレーツの本拠地、PNCパークで本当の試合中に撮られたという、見せ場は臨場感たっぷりだ。
『瞳の奥の秘密』のサッカー・スタジアムの場面を彷彿とさせた。

この『ミッシングID』を見ようと思ったのは、監督がジョン・シングルトンだからということもあった。2005年の『フォー・ブラザース/狼たちの誓い』にはシビれたからね。
あの映画の演出には、自分のルーツを感じさせる舞台設定だったこともあるのか、とにかく熱気がこもってた。ウォールバーグも気合入ってたし。

今回の映画は正直「雇われ感」が漂ってはいる。そつなく仕上げる職人気質の人だけに。
脇にも渋い役者が揃ってるし、映画を長く見てる人間には、それなりに楽しみ所は見つかると思う。

2012年6月18日

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押し入れからビデオ⑭『ふたりだけの微笑』 [押し入れからビデオ]

『ふたりだけの微笑』

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歌手を夢見る青年ドリューと、耳のきこえないローズマリーが出会い、心を通わせていく様子を描いた1979年公開作。
今までビデオ・DVD化はされてなく、俺の手元にあるのは、テレビ放映時の吹替版を録画したビデオだ。『ダーティ・ハリー4』の宣伝スポットが流れるから、1984年の春頃の放映だろう。

テレビ朝日の深夜に「ウィークエンドシアター」という映画枠があり、ジャズ歌手のアンリ菅野が前説を行ってる。映画の舞台となるニュージャージーに関して話をしてる。
アメリカには州ごとに異なる「小売り売上げ税」があり、ニュージャージー州は、隣のニューヨーク州の半分の税率だそうだ。
日用品の買出しにはハドソン河の橋を渡って、ニュージャージーに行くのだという。
そのアンリ菅野は、2000年の6月にガンのため、世を去っている。

『ふたりだけの微笑』を公開当時に見に行った時は、正直そんなに期待はしてなかったのだ。
だが見終わって、とても気分がよかったのを憶えてる。
ハンデを負ったヒロインを描いた映画は多いが、この映画はあまり湿っぽくもならず、無理からな感動に持ってくわけでもない。ベースに「下町の人情」気質があるのがいい。

舞台となるニュージャージー州のホーボーケンは、ハドソン河の対岸に、マンハッタンのビル群を臨む、東京でいうと、足立区っぽい空気を感じる町だ。フランク・シナトラの生まれ故郷で、その名を冠した公園もある。


マイケル・オントーキン演じる26才のドリューは、この町で代々クリーニング店を営むロスマン家で、祖父と父親と、17才の弟と、男ばかり3世代4人で暮らしてる。
この男所帯のがさつな感じが上手く出ている。多分母親は早くに亡くなってるのだろう。
弟のレイモンドは、町のチンピラとつるんで、近くを通る車を停めては、「通行料」を巻き上げようとしてる。
それを見たドリューは、弟をたしなめるが、レイモンドは、賭けポーカーの負けが込み、その代金を払わないとボコられるという。

案の定、ポーカーを仕切る町のワルから手酷く痛めつけられるが、その姿を見て、ドリューと、父親、そしておじいちゃんまでもが、角材持って「お礼参り」に乗り込んでく。
叩きのめした後に、おじいちゃんが
「ロスマン家の人間を舐めるな!」
と啖呵切ってく。この場面は映画館で見た時に大ウケしたんだが、録画したテレビ放映版ではカットされててがっかりだ。
上映時間106分のものを、1時間半の番組枠で放映してるから、正味30分位は切られてるだろう。
完全な形でもう一度見たいんだがなあ。


ドリューはカセットテレコに自作の歌を吹き込んでは、レコード会社や、タレント・エージェントに送ってるが、テレコが壊れたんで、駅にある、カラオケボックスのような「レコーディングボックス」の中で熱唱してテープに吹き込んでる。

その最中に、階下の駅のエントランスを眺めると、ひとりの女性が目に入った。彼女は自分の名をパンチできる「コインメダル」のマシーンの前にいた。
彼女が去った後、ドリューはそのマシーンに1枚だけ取り忘れたメダルに気づいた。
「ローズマリー・レモン」と刻まれていた。

別の日、クリーニングの配達の途中に、バス停で彼女を見かけた。思い切って声をかけるが、彼女は無視するようにバスに乗り込む。運転手が手話で応対してるのを見て、ドリューは初めて気づいた。
次のバス停まで走って追いかけ、ようやくローズマリーの席の隣りに腰掛けた。彼女にメダルを渡す。
話しかけてもどのくらい理解されてるかわからない。

そのままローズマリーと同じバス停で降りると、彼女は聾唖学校の教師であることがわかった。
次に会う約束をとりつけたいが、ローズマリーは外で会いたくないようだ。
「君の家に行き、ドアベルを鳴らす。君が出なければ、諦めて帰る、それでどうかな?」
ローズマリーは承諾し、住所を紙に書いた。


ドリューは図書館で「手話」の解説本を借りてきて、部屋で練習した。耳がきこえない人の感覚を体験しようと、耳栓をして過ごしてみたりした。

祖父は声をかけてもしらんぷりで配達に出てしまう孫を怪訝に思った。
夕飯の食卓で、ドリューの帰りを待つ祖父と父親と弟。
レイモンドは「兄貴の部屋にこんなものが」と手話の本を父親に見せる。
「耳がきこえなくなってるのか?」
そこにドリューが帰ってくる。父親はわざと声を張り上げて
「配達はどうだった?」
「なに怒鳴ってんだよ」
「いいや、怒鳴ってなんかないぞ!」
と再び声を張り上げる。テーブルに手話の本があるのを見て、察したドリューは、
「そうじゃないよ。耳の聞こえない女の子と知り合ったんだ。手話を勉強しようかなと思ってね」

この場面のやりとりがユーモラスで、映画館でも笑いが起こってた。
飾り気のないユーモアが散りばめられてるのがいい。
父親を演じてるのは『ゴッドファーザー』などのアレックス・ロッコ。いかにもイタリアンなアクの強い顔した役者だが、ギャンブルには目がないという、ちょっと頼りない父親を、朗らかに演じてる。


ドリューはローズマリーの家を訪れ、彼女は迎え入れる。
出されたコーヒーに、ドリューは覚えたての手話で
「コーヒー、おいしい」と。
ローズマリーが初めて喜びの笑顔をみせた。

ローズマリーを演じるのは、エイミー・アーヴィング。『フューリー』の超能力少女など、エキセントリックな役のイメージがついてるが、この映画の彼女はまず可愛い。
彼女がこの場面で見せる笑顔には、なんか泣けてきそうになった。

この後、鳴ると光が点滅する電話を彼女が受ける場面がある。
電話機の隣にタイプライターのような機械があり、受話器をその上に乗せると、文字をタイプした内容が、電光掲示板のようなモニターに、スクロールされてくようになってる。
多分受話器を通じて、その音が相手側の同じ機械のモニターに、文字となって出る仕掛けなんだろう。

こういう機械は見たことがない。1970年代後半にはアメリカにあったんだろう。
日本に入ってきたりしてるんだろうか?

ローズマリーの電話の相手は、同じ聾唖者のボーイフレンドのようだ。
家に帰ってきたローズマリーの母親は、ドリューにいい感情を持たなかった。
歌手といってもプロではないし、下町のクリーニング店では裕福というわけでもない。
同じ境遇の彼氏がいて、その方が互いに分かり合って生活できるはずなのに、なぜふつうの男と付き合う必要があるのか?母親はそう思っていた。

初めてのデートが気まずく終わり、ローズマリーは自分の部屋で泣いた。決して声を出して話すことのない彼女が、声を上げて泣いた。


ドリューは彼女を諦めてはいなかった。聾唖学校を訪ね、彼女の授業風景を見学した。
耳の聞こえない子供たちに囲まれたローズマリー。
ひとりの子供が「先生、踊り、上手」というと、ドリューも
「僕もダンスを見たいな」と彼女に言う。
ローズマリーは子供たちの前で、歌詞を手話で表現しながら、なめらかに舞い踊った。
ドリューは彼女のダンスの才能を確信した。

その晩、ドリューはローズマリーとゆっくり話をした。彼女は6才の時に罹った「はしか」による高熱で、耳がきこえなくなったと。
相手の顔が正面にあれば、唇を読むこともできる。でも完全にはわからない。
ドリューは「きみの声がききたい」と言った。
ローズマリーはためらった。過去に声を出して笑われたりしたことがトラウマになってるのだろう。

だが勇気を出して目の前のドリューに言った
「わたしのこえ、へんでしょう?」
「どんな声だっていいさ。きみのすべてが好きなんだよ」
二人は初めてくちづけを交わした。

ドリューの家を訪れ、家族たちとも挨拶を交わしたローズマリー。
朝帰りした娘を母親が待っていた。
「あなたの彼氏は声で生きてこうとする人なのよ。でもあなたはその声がきこえない。
分かち合うことができないでしょ?」
「耳のきこえない人間と一緒に暮らすことの大変さを、彼が知った時、
それでも彼が離れないという保証がある?」


一方、ドリューはローズマリーとの結婚を意識するようになり、不安も芽生えてきた。
彼女は自分の言葉をたぶん半分も理解できてない。自分は彼女を支えていけるだろうか?

祖父に相談してみるが
「わしには確たることなど何も言えんよ」
「だがどんなことであれ、掴み取るのは簡単なことじゃない」
「ただ、お前の母さんは、きっとあの娘のことを気に入っただろうな」
ドリューはその言葉に背中を押されるような思いがした。


町の劇場でダンサーのオーディションが開かれることを知ったドリューは、ローズマリーに受けるようにと勧める。
ためらう彼女に「当日は僕も付いてるから」と。
だがその当日、ロスマン家のクリーニング店でボヤが発生、その消火に追われてる内に、オーディションは始まっていた。
ローズマリーは耳がきこえないことを、主催者に話さないまま、ステージに立ち、散々な結果に。
駆けつけたドリューの胸に飛び込んで泣いた。

ドリューは彼女の手を引いて、ステージに上がった。
「2分でいいから時間をください」
インストラクターに
「彼女の顔を見ながら指示をもらえますか?」
「それから」と、舞台にあったスピーカーの音の出る面を、床につけてねかせた。
「こうすれば足を通じてリズムが伝わるんです」
ドリューの熱意に主催者も折れ、オーディションは再開された。

ローズマリーは指示通りに、寸分たがわぬダンスを披露した。
躍動する彼女の笑顔を、ドリューは見つめてた。

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映画としては終盤が予定調和っぽいのが惜しいんだが、気分よく見てられるのは、役者に拠るところが大きい。
マイケル・オントーキンは、最初に見たのは、海外テレビドラマの『命がけの青春/ザ・ルーキーズ』だった。新米警官たちの奮闘を描いてた。
ホッケーをやってたことが買われ、その後『スラップ・ショット』で、ポール・ニューマンと共演する大役を得る。
『ふたりだけの微笑』はその翌年の、初の主演映画ということになる。
大泉洋ばりに、モジャモジャの天パーがトレードマークなんだが、目元が優しく、善良な青年が似合うのだ。
彼の気取りのなさが「ハンデキャップもの」という構えを取っ払う効果を生んでる。

エイミー・アーヴィングはここでも繊細な表情を見せて、耳のきこえないヒロインの怖れや、ためらいを表現してる。

ドリューが自作した歌がラストで歌われる。
『待ちきれなくて』という、この映画のテーマ曲となってるが、これはオントーキンが唄ってるのではなく、バートン・カミングスによるもの。
「全米TOP40」のリスナーには馴染みの名前で、元ロックバンド「ゲス・フー」のリードヴォーカルからソロに転向。
『スタンド・トール』という全米トップ10ヒットを持ってる。ダイナミックな歌唱に特徴があり、『スタンド・トール』もサビの大げさなまでの盛り上がり具合が、俺なんかツボだった。

この映画のテーマ曲『待ちきれなくて』も、後半どんどん歌い上げてく感じで、ポップスというより、ミュージカル・ナンバーのよう。

テーマ曲もいいんだが、ローズマリーが聾唖学校の子供たちの前で踊った時の曲、その歌詞がよかったんで、ここに書いておこうと思う。
これはハンデを背負った子供たちに向けて、またローズマリー自身にも、勇気を持って一歩踏み出してみようという内容なのだ。

「魚のように泳げるよ、泳ごうとさえすれば」
「クジラが驚くでしょう、深海であなたを見たら」

「川のように走れるよ、川をくだって海へと」
「海がうらやましがるでしょう、あなたが来るのを見たら」

「木のように大きくなれるよ、落ちるのを怖れなければ」
「ほかの木がねたむでしょう、あなたがまっすぐなのを見て」

「鳥のように飛べるでしょう、あなたが恐れなければ」
「ほかの鳥が尊敬するよ、あなたが踊るのを見たら」

2012年6月17日

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7月の「フィルムセンター」が熱い件 [映画雑感]

と言っても、国の機関だから、夏の電力需要に気を遣って、館内冷房抑えめにしてるから、蒸し暑いとかの意味ではない。組まれてるプログラムが熱いってことだ。

先だって「EUフィルムデーズ」の『カロと神様』を見に行った際のコメントの中で、7階の展示室で
「ロードショーとスクリーン 外国映画ブームの時代」
と題された展示が楽しいと紹介したが、いよいよそれにちなんだ映画17本を、
7月12日(水)から7月29日(日)まで上映することになったのだ。

ラインナップを眺めてみると、これは『(裏)午前十時の映画祭』と呼べるもので、すべて35mmフィルムで上映される。ちなみに本家『午前十時の映画祭』で上映された作品も4本入ってる。

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上映作品は以下の通り。年代順に並べてみると


『サスペリアPART2』(1975)

1977年の『サスペリア』が日本で大ヒットしたため、東宝東和がその続編という体で翌1978年に公開した、ダリオ・アルジェント監督の「ジャーロ」的傑作。
『サスペリア』とは繋がりがないことは、すでに皆さんご承知の通り。
『欲望』のデヴィッド・ヘミングスが、あの不条理感を引きずった感じで翻弄される展開もいいし、気色悪い人形と、最後のばあさんはトラウマ級の怖さだった。フィルムで拝めるのは俺にとっては初公開時以来だ。
なお今回の上映は、後にビデオ・DVD化された際の126分の「完全版」ではなく、劇場公開時の106分版とのこと。


『キングコング』(1976)

ピーター・ジャクソン版のコングはCGだが、このジョン・ギラーミン版は「アニマトロニクス」&「着ぐるみ」という、手作り感がいいのだ。ジャック・ブラックには悪いが、こっちのジェフ・ブリッジスの方が格上だし。
ジェシカ・ラングもこの頃はちょいエロくてよかった。
なによりこのコングが登るのはエンパイア・ステート・ビルではない。
その「世界貿易センタービル」の在りし日の姿を偲ぼうってもんだ。


『カサンドラ・クロス』(1976)

先日『星の旅人たち』のコメントで、マーティン・シーンについて熱く語ったばかりなので、この映画の久々のスクリーン上映は嬉しい。
この年の年末に「お正月映画」として、東宝東和の『キングコング』への対抗馬に日本ヘラルドが打ち出したのがこの映画。パニック大作の触れ込みだったが、ラストのミニチュアは正直しょぼい。
だがそこに至るまでのサスペンス描写に、その後『ランボー怒りの脱出』で大きく当てる、新鋭コスマトス監督の手腕が見てとれる。
ジェリー・ゴールドスミスの流麗なスコアも聴きもの。
ちなみにこの映画アメリカではほとんど知られてないのだ。


『Mr.BOO!ミスター・ブー』(1976)

初公開時に見た時はなかなかに衝撃的だった。カンフー映画一色だった香港映画に、現代を舞台にしたコメディが出現、しかもギャグがドリフなみにベタなドタバタで、それが波状攻撃的に展開される。
マイケル・ホイが全くフツーのおやじ顔というのも衝撃。三男の年寄り顔したリッキー・ホイと3人ならぶと、さほどイケメンでもない次男のサミュエルがことさら美男に見えるという錯覚で、女の子から人気を博した。
これはテレビでやった時の、広川太一郎の吹替版で上映してほしいなあ。
ちなみに俺は3作目の『Mr.BOO!ギャンブル大将』まではつきあった。


『コンボイ』(1978)

このサム・ペキンパー監督作の元になってるのは、C・W・マッコールというカントリー歌手が、1976年の1月に全米ヒットチャート第1位に送り込んだ同名の曲。
俺は当時、ラジオ関東の「全米TOP40」を毎週聴いてたんで、この無名の歌手のいきなりの大ヒットナンバーには馴染みがあった。イントロにCB無線のやりとりが入るあたりから、ワクワクさせられるものがあり、もう自分の中で、大型トラックの「船団」がアメリカ大陸を爆走する絵面が浮かんでたのだ。
それをあのペキンパーが映画にするというんで、公開が待ち遠しかった。
いざ見てみると、妙にコミカルな味付けで違和感あったな。
だがこれも初公開のたしか丸の内ピカデリーだったか、そこで見て以来なので、今見れば気楽に楽しめるかもしれない。スクリーン映えする景色だし。


『エレファント・マン』(1980)

これがデヴィッド・リンチ監督の日本初紹介作だった。モノクロの、フリーキーであり、かつ胸を揺さぶられる描写に溢れているという、思えば他にあまり例のない映画なのかも。
新宿プラザで見たはずだから、リンチ作品としては、今に至るまで『砂の惑星』とともに、最大スクリーンでの公開だったわけだ。
「象男」の哀しみを全身で体現したジョン・ハートの驚異の名演。静かに受けるアンソニー・ホプキンスのこれも名演だ。
英ハマー・プロで数々のホラー映画を監督してきたフレディ・フランシスが、美しいモノクロのカメラを担当してる。彼が『フランケンシュタインの怒り』の監督でもあることからも、これは変則的な「フランケン」物であるとも言える。


『ジェラシー』(1980)

ミニシアター・ブームの先鞭をつける一館となった、新宿歌舞伎町のミラノ会館内「シネマスクエアとうきゅう」の、こけら落としとして公開され、俺も駆けつけた。
ニコラス・ローグ監督作では『地球に落ちてきた男』から4年後の新作で、評判だけは聞かれ、日本には入って来ないんじゃないかと思われてた。
日本公開は後になるが、1973年の『赤い影』のヴェニスから、舞台はクリムトの絵が小道具となるウィーンへ。
その迷宮感覚につながりを感じる。
DVDも出てはいるが、ローグ監督の映像感覚はスクリーンで、フィルムで味わいたい。
テレサ・ラッセルがこれ以上なくエロ美しい。


『エンドレス・ラブ』(1981)

実は今回のラインナップでこの映画だけ、初公開時に映画館で見てないのだ。
まあ青春ラブロマンスということで「けっ」と思ってたのか、アメリカ本国ではラジー賞候補にもなってて、前評判の悪さもあった。
今聴くとテーマ曲の、ダイアナ・ロス&ライオネル・リッチーの『エンドレス・ラブ』も、いい曲と思えるが、これも当時全米で何週も1位の座にあり「早く落ちろよ」と思ってたんで、全体的に印象が悪かったな。
だが当時まだ16才のブルック・シールズは、すでに美貌が完成されており、この機会にスクリーンで拝むのもいいだろう。トム・クルーズも端役で出てる。


『ハウリング』(1981)

こういうのをやってくれるのが嬉しいね。『ピラニア』の次は狼男と、ジョー・ダンテ監督が上げ潮に乗ってく時期の、サービス精神に溢れたモンスター映画。
脚本は『アリゲーター』も手がけたジョン・セイルズなんで、どこかしらヒネリがある。キャストも含めて「ロジャー・コーマン一派」の後押しも頼もしい。
主演のディー・ウォーレスは『E.T.』のお母さんだが、彼女この映画のほかに『クジョー』やら『アリゲーター2』やら『クリッター』やらと、怪物系に起用されてたね。
ロブ・ボッティンによる、狼男への変身シーンは、ビデオになった時に、何度も巻き戻して見たもんだ。


『愛と哀しみのボレロ』(1981)

この映画に関しては、以前このブログの、俺の『午前十時の映画祭』(80年代編)の1本に選び、コメントも入れた。
今回のラインナップでは、他の16本は現在DVDやブルーレイでも見ることができるが、この映画だけは、DVDが廃版となってるので、見ること自体が困難なのだ。
もともとはスクリーンでこそ見るべき映画で、俺も初公開の丸の内ピカデリーで見て以来だから、今回の企画の目玉だと思う。
ラベルの「ボレロ」はもとより、全編音楽に溢れた、クロード・ルルーシュ監督の渾身の大作。
音楽をフランスの巨頭2人、フランシス・レイとミシェル・ルグランが担当してる豪華さだ。


『ランボー』(1982)

1981年と1982年の、正月映画因縁の戦いというのがあった。
1981年にCICは、スピルバーグ監督の全米大ヒット作『レイダース/失われたアーク』を、満を持して正月映画に持って来た。ところが蓋を開けて見ると、東宝東和のオールスター映画『キャノンボール』に興行でまさかの敗北を喫する。
そして翌年、東宝東和はスタローンが新境地開拓となる「戦士」もの『ランボー』を正月に。
それを迎え撃ったのがCIC、スピルバーグ監督再びの『E.T.』だった。さすがにこれは強く、CICは前年の雪辱を果たしたのだ。
その『ランボー』は東宝東和がつけた邦題だが、それが本国でも通り名となり、大ヒット・シリーズに成長した。
この1作目はテッド・コチェフ監督の小気味よいアクション演出と、人物造形の説得力では、やはりシリーズ随一と思う。


『プロジェクトA』(1983)

この映画によって「ジャッキー・チェンの時代」が高らかに宣言されたと思う。
それまでの主演作はカンフーの見せ場の凄さはともかく、時代設定が古色蒼然としてたのだ。時代を近代に持ってくることで、映画全体が垢抜けた印象に変わった。
そしてカンフー以外の大仕掛けな見せ場や、目を見張るスタントシーンのアイデアなど、その後のジャッキー映画のエッセンスが、すべてこの映画に詰まっていた。
最初のアメリカ進出は成功しなかったが、何かを学んで帰ってきたジャッキーの、アクション映画哲学が結実したと言える。自分で歌う主題歌が流行ったのもここからじゃないか?


『ターミネーター2』(1991)

これはもちろん初公開時に見てるし、あの1作目をここまでブラッシュアップさせたかと、当時は圧倒されるのみだったな。
ただジェームズ・キャメロンの映画だったら、これより『エイリアン2』をやってほしかった。
あれはたしか先行上映で満席の日劇で見たのだ。リプリーが最後にパワーローダーに乗って出てくる場面では、場内に興奮のどよめきが起こった。あんな体験は滅多にない。

以下の4本は『午前十時の映画祭』で上映済なんで、コメントは割愛。

『大脱走』(1963)
『ジュリア』(1977)
『フィールド・オブ・ドリームス』(1989)
『ストリート・オブ・ファイヤー』(1984)


以上の17本、どうせ今年の夏も暑いんだろう。暑気払いに「フィルムセンター」に通うのもいいぞ。
各作品3度づつ上映機会がある。スケジュールは「フィルムセンター」のHPを参照のこと。

気になるとすれば、「ニュープリント」とは記載されてないから、フィルムの状態はまちまちかもね。
だがいやしくも「東京国立近代美術館フィルムセンター」という、日本を代表する「映画の保存・所蔵機関」であるからして、その状態には期待を持たせて頂きますよ。
入場料金が普段より高い1000円というのが残念だが。

2012年6月16日

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タイムスリップして体験したい年代 [映画マ行]

『ミッドナイト・イン・パリ』

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アカデミー賞の候補に挙がったりして、久々に前評判も高いウディ・アレンの新作だけど、だからといって、感動が押し寄せるみたいな作りではない。アレンの映画を見慣れてないと、物足りなさすら感じるかもしれない。
でもこれがいつものウディ・アレンのタッチなのであって、そのことにいささかのブレもないのが見てて嬉しい。

彼の映画は文章に例えると、小説というより、気の利いたコラムのような洒脱な語り口が身上だ。
この新作も「こんなことあったら楽しいよねえ」という、ソファにごろんと寝転がりながら、とりとめもなく夢想してみた、そんな気楽さを感じる大人の「ホラ話」に仕上がってる。
いや実際は、書斎で真剣な顔つきでストーリーを練ってたのかも知れないが、映画の感触はあくまで心地よく軽いのだ。

まず映画はアバンタイトルで、パリの街のさまざまな表情を映す。いつものアレンの映画のように、古いジャズの少しもの悲しい旋律をバックに、ナレーションも、テロップも入らず。

例えば『ベン・ハー』や『アラビアのロレンス』といった、昔のハリウッド大作の、オープニング前に、画面には英語で「序曲」と出て、数分間映画を彩る音楽が流れる前置きがあった。
「さあ、これから映画の世界に浸れるぞ」という、ワクワク感が高まる仕掛けとなってたが、この『ミッドナイト・イン・パリ』の冒頭数分間もそんな意味合いを感じた。
「さあ、これから素敵なパリの時間旅行が始まりますよ」という。


オーウェン・ウィルソン演じる主人公ギルは、ハリウッドではけっこう売れっ子の脚本家。だが娯楽映画の脚本には飽き飽きしていて、小説家への転身を試みたいと思ってた。
婚約者イネズの父親の出張旅行に便乗してやってきたパリの街に、興奮を隠せない。
ギルはパリで、その昔モンパルナスに集った芸術家たちのように暮らしたいと思ってたからだ。
だがイネズはマリブでのリッチな生活を思い描いていて、パリなどあり得ないという風情。
イネズの父親も、共和党支持者の自分に、正面から皮肉をぶつけてくる、娘の婚約相手が気にいらない。

ぎこちない空気が流れるギルとイネズと彼女の両親によるランチの席で、イネズのかつての男友達ポールが、偶然恋人を伴って挨拶にきた。イネズは女学生時代に、大学教授のポールのインテリぶりに憧れてたという。
ポールはパリの名所を案内しようと提案し、イネズはあっさり了承する。
ギルは渋々同行するが、行く先々で繰り出されるポールのウンチクに閉口する。イネズに
「あなたが書こうとしてる小説の内容をポールに聞いてもらいなさいよ」
などと余計なことを言われ、これも渋々話すことに。

昔懐かしい物や記憶を売るという「ノスタルジー・ショップ」を営む男を主人公にしてると。
するとポールは頼まれもしないのに、ギルの嗜好を勝手に分析。
「そういうのをゴールデン・エイジ・シンキングというんだ」
つまり何でも現在よりも過去が輝かしかったとする、一種の「懐古趣味」だと。
ギルはカチンときたが、うまいこと反論できない。


その晩もポールからダンスに誘われ、イネズは行くというので、ギルは彼女と別行動することに。
試飲会でワインを飲みすぎ、ホテルへの道に迷ったギルは、広場の階段に座り込む。
時刻は午前0時の鐘の音が聞こえる。

すると黄色いクラシックカーがギルの前で停まり、中から手招きしてる。誘われるままに車に乗り込み、着いた先は歴史を感じる社交クラブだった。
挨拶を交わしたカップルはスコット・フィッツジェラルドと、恋人のゼルダと名乗った。
ピアノを弾いてる男は、どう見てもギルが大好きなコール・ポーターだ。
さらにこのパーティの主催者はジャン・コクトーだという。
なんの仮装パーティなのかと、ギルは混乱するのみだ。

だがフィッツジェラルドから別のバーに誘われ、そこでアーネスト・ヘミングウェイを紹介されるに至り、自分がいま居るのは、1920年代のパリなのだと思うほかなかった。
情熱と死について熱く語るヘミングウェイに、ギルは圧倒されるのみだった。

明日の晩の再会を約束してバーを出たギル。
だが待ち合わせの場所をヘミングウェイに聞き忘れたと、バーに戻ろうとしたが、そこは閉店後のコインランドリーだ。バーなどどこにも見当たらない。
キツネにつままれたような気分で、だが明らかに高揚してたギルはホテルに戻ると、イネズに
「明日いっしょに来てほしい場所がある」と言った。


前の晩と同じ広場に、イネズを伴ってやってきたギル。まだ午前0時にはだいぶ間があった。
ここにいればあのクラシックカーが迎えにくるはずと待つギル。
だが一向に何も起こらず、イネズはしびれを切らして「先に帰る」とタクシーを拾ってしまう。

ひとり残されたギルに、午前0時の鐘の音が聞こえた。あのクラシックカーがやってきた。
中にはヘミングウェイが乗っており、ガードルード・スタイン女史のサロンへ向かった。
昨晩約束してたのだ。
ヘミングウェイに文章指導したことでも知られる、伝説の女性作家に、ギルの書きかけの小説を読んでもらうというのだ。

スタイン女史は率直な物言いだが、誠意を持って応対してくれた。そのサロンにはパブロ・ピカソがおり、愛人アドリアナをモデルに抽象画を描き上げたところだった。
ギルはアドリアナの美しさに心を奪われてしまう。

ギルはそれから毎晩のように、小説の構想を練る散歩と称して、ホテルを出て行った。
娘のイネズから話を聞いた父親は、フィアンセをほったらかして夜遊びに出るギルを不審に思い、探偵を雇って、後を尾けさせた。


さまざまな分野の芸術家が出てくるが、サルバドール・ダリが酒を呑むテーブルに、ルイス・ブニュエルとマン・レイが同席する場面が、映画ファンとしては楽しい。
この二人を登場させたことに、映画監督ウディ・アレンの思いを感じる所がある。

ルイス・ブニュエルとダリが組んで、悪夢的な実験映画『アンダルシアの犬』を作ったのが1928年のこと。
映画はこの時期、「音」のついた「トーキー映画」の登場により、新たな進歩を遂げるんだが、サイレントの時代から、映像表現においては、革新が進められてきた。
実験映画の分野でもマン・レイをはじめ、フェルナン・レジェの『バレエ・メカニック』など、芸術史に残る作品が生み出されている。

ウディ・アレンは映画作家として、この時代に生きてたら?と思うことがあったかもしれない。
アレンに限らず、そういう思いを持つ映画監督は結構いるのではないか?

映画という表現の分野はこの時期、まだまだ黎明期にあって、いろんなアイデアがまだ手付かずの状態にある。いま現在、映画はすでに語り尽くされてしまったような所がある。その話法は随分昔に確立されていて、いまも変わることがない。先駆者となる余地が見当たらなくなってるのだ。

あの時代に『アンダルシアの犬』のような強烈なビジュアル表現を試みた映画が撮られたことへの驚きと、ある種の嫉妬を、映画作家なら抱くのではないか。

ギルがブニュエルと別れ際に、「今度こういうストーリーの映画を撮ってみたら?」と、後にブニュエルが撮ることになる『皆殺しの天使』の設定を語ってきかせる場面が可笑しい。
ブニュエルが「しかし何でそのパーティ客たちは外に出ようとしないんだ?」と執拗に尋ね返してる。


ギルとアドリアナの異時間ロマンスとも言うべき展開になっていくが、その中でギルは自分の思いに踏ん切りをつける決断をすることになる。
タイムスリップ物とはいえ、ウディ・アレンの映画だから、シャマラン的な驚愕の結末なんてものは待っていない。
ラストもサラッとしたもんだ。大人の映画だからね。


俺が少し前に「洋画離れが進んでいるという」とタイトルつけたコメントの中で、最近のハリウッドの映画作家たちに見られる「懐古趣味」に言及したんだが、この映画のギルという主人公の人物設定には、ウディ・アレンによる、そんな風潮への冷やかしの気分が入ってるのかもと思った。

だが元々、古いものへの愛着を表明してきたのは当のアレン本人だろう。
自分の監督作の音楽は決まって古いジャズが使われるし、ラジオの時代へのノスタルジーを塗りこめた映画や、ドイツ表現主義の手法で描かれた映画、サイレント映画のスターに恋する主婦のファンタジーなど、アレンの映画には「古きよき」時代のアイテムが溢れている。

ところでこの映画、オーウェン・ウィルソンが演じる主人公の脚本家というのは、例によってウディ・アレン自身を投影してるキャラとなってるが、2002年の監督・主演作『さよなら、さよならハリウッド』と繋がってるように思えるのが面白い。
あの映画では落ち目の上に、新作の撮影前に心因性の失明に見舞われた映画監督をアレンが演じていた。なんとか失明をごまかしながら撮影を続けるというドタバタが描かれてたが、結局完成した映画は興行も大失敗。
ところがフランスでは絶賛されたんで、「フランス大好き!」と最後はパリに移住するというオチがついてた。
まあつまり『ミッドナイト・イン・パリ』はその後日談と見ることもできるわけだ。


この映画を見ながら、自分ならどの時代がいいかなあと考えたりもしたんだが、俺は常々あと7,8年早く生まれたかったなと思うのだ。
そうすれば1967~68年という、映画もロックもドラスティックなまでに変化を遂げる、その時代の空気を、一番好奇心旺盛な10代後半で体感できたのに。
その時代、俺は生まれてはいたが、まだホンのガキだったんで、なにも触れないまま70年代を迎えてしまった。上に兄弟でもいれば、間接的に享受もできただろうが、長男だしな。

1968年といえば、映画では『俺たちに明日はない』と『卒業』が公開され、アメリカン・ニュー・シネマのブームの先鞭をつけた。
その同じ年に『2001年宇宙の旅』も公開されてるのだ。これの初公開の「テアトル東京」に駆けつけたかった。
『猿の惑星』の驚愕のラストもリアルタイムで体験できたわけだ。

ロックでいえば、1967~68年に、ドアーズ、CCR、デヴィッド・ボウイ、ジミ・ヘンドリックス、ジャニス、ピンク・フロイド、レッド・ツェッペリン、ディープ・パープル、T-REX、スライ&ザ・ファミリー・ストーン、イエス、トラフィック、クリーム、ヴェルヴェット・アンダーグラウンド、ザ・バンド、バッファロー・スプリングフィールドほか、あまたのビッグネームがこの時期デビューしてるのだ。

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中でも俺的に最重要なのは、リンダ・ロンシュタットが、ストーン・ポニーズのヴォーカルとして、音楽活動を開始してる時期ということ。
彼女はその後ソロとなり、1974年の『悪いあなた』の大ヒットで一躍スターとなるが、俺はその前の1971~72年くらいの時期の、彼女のステージを直に見てみたかった。

後のイーグルスの面々をバックに、裸足でステージに立ってた頃のリンダを。


今でもリアルタイムで見たり聴いたりしてた1970年代以降の映画や音楽に、一番思い入れはあるが、その前の時代にも好きな映画や音楽は沢山ある。
だけどリアルタイムで体験してないという「引け目」がどっかにあるんだね。「好き」ということを全面的に表明しずらいというのか。

ちなみに俺が自分の金で初めて「外タレ」のコンサートを見たのはスージー・クアトロだった。
1975年か76年だったと思う。

2012年6月15日

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『ジェーン・エア』のワシコウスカの眉間のシワ [映画サ行]

『ジェーン・エア』

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ミア・ワシコウスカとマイケル・ファスベンダーの競演てrことで、まずは万難を排して、駆けつけたわけですよ。俺にしてみたら、いま望み得る最高の顔合わせなもので。
でもなければ積極的には見ようと思わないジャンルのものだ。

原作はシャーロット・ブロンテ?『嵐が丘』のエミリーの姉?そうですか。
この物語も全然知らなかった。古典を読んでないという、基礎教養に欠ける俺なのだが、逆にこういう映画を見る時に「サラ」の状態で楽しめるということはある。

『ジェーン・エア』は過去に何度も映画化されていて、俺の好きなスザンナ・ヨークがヒロインを演じた1970年版は、見ようにも見る機会がないのだ。

でもって今回の監督は、2009年の『闇の列車、光の旅』で鮮烈な長編デビューを果たした、日系のキャリー・ジョージ・フクナガ。前作と同様に、ここでもカメラが美しい。
美しいといっても、英国のコスチューム物に見られる、絵のような美しい風景の切り取り方とはちがう。草木や土肌や、光の捉え方が、もっと皮膚感覚に近いような印象を受ける。

原作は文庫本で「上下」に分かれて出てる位に長いもので、それを2時間にまとめてるから、一見の俺には、話の流れが唐突に感じられる部分があり、描き足りてないんじゃないか?ということは感じた。


映画はジェーンが、北イングランドの荒涼とした大地をさまよい、無人の野に一軒佇む、牧師の家に辿り着く場面から始まる。
ジェーンはどこから来て、なぜさまよっていたのか。
介抱受けた牧師とその二人の姉妹に語ることはない。
ジェーンは回想する。少女時代の自分。
両親を亡くして、彼女を引き取った叔父も亡くなり、叔母とその息子からは手ひどく扱われた。

この映画の序盤に思わず息を呑むような描写がある。
ジェーンが図鑑を読んでると「それは俺の本だ」と叔母の息子が取り上げる。息子が手にした本を振り上げ、ジェーンは思わず両手でガードする。
息子が「冗談だよ」と言うような顔をするんで、ジェーンは両手を下ろすと、息子は本で顔面をバンと振りぬく。
衝撃で脇にあった引き戸の取っ手に、ジェーンはこめかみのあたりを強打し、血が流れる。

この場面はどんな風に撮ったのか?本当に顔面に当たってるように見える。
衝撃を食らって耳が「キーン」となる、その音響効果もつけるという細かさだ。
女性の観客はショックを受けてたようだ。
だがジェーンはすぐさま反撃に出て、息子に飛びかかり、馬乗りになって殴りつける。
ジェーンという少女の気性がわかる。

結局ジェーンは、叔母から厄介払いのように、寄宿学校に入れられ、そこでも校長から、四面楚歌の扱いを受ける。ただひとりジェーンを気遣ってくれたヘレンも、病で逝ってしまった。
それでもジェーンは気持ちを折らずに、学業に専念し、卒業後は寄宿学校の教師となった。
そこで一旦回想が終わる。


ジェーンを助けた牧師セント・ジョンから、村に女子校を作るので、教師になってほしいと言われ快諾する。
その後また回想になるんだが、教師を辞め、由緒あるソーンフィールド館の家庭教師に決まったジェーンが、学校を去る場面。ここがちょっと見てて混乱する。

その生徒との別れの場面が、寄宿学校の、つまり回想場面のものなのか、牧師に依頼された村の女子校でのものなのか、場面が短いので、すぐには判断できないのだ。勘のいい人ならすぐわかるんだろうが。
時制をいじった構成になってるのが、こういう部分でわかりにくさを生んでしまってる。

実際は寄宿学校を去って、ソーンフィールド館へ向かうという流れになってる。
その屋敷の主であるロチェスターとの出会いと別れの経緯は、すべて回想という形式の中で描かれることになる。
母を亡くして、ロチェスターが後見人となってる、フランス人少女アデールの家庭教師として雇われるわけだが、主のロチェスターは3ヶ月も不在で、ジェーンはただこの広大な屋敷の敷地内で過ごすしかない。
家政婦頭のフェアファックス夫人に
「ここから見える地平線が、女性の限界だなんて思いたくない」とこぼす。

ジェーンは「気晴らしに」と、町に郵便を出しに行く使いを頼まれるが、その途上に森の中で、馬に乗ったロチェスターと鉢合わせとなる。気難しそうな男だった。館で正式に挨拶を交わす。
「家庭教師になる女には、たいがい悲話があるもんだ。聞かせてくれ」
と慇懃な口調で訊かれ
「ここより立派な屋敷で育ちました。悲話などありません」と言い返す。


全体的にストーリーの流れに、描き足りなさを感じる一方、会話の場面が見応えある。
ジェーンとロチェスターの、互いに牽制し合いながらも、相手に興味を惹かれていく、その会話と、表情の揺れ動きをじっくり凝視するカメラがいい。

前に「東京国際映画祭」の『アルバート・ノッブス』にコメント入れた時に、ミア・ワシコウスカの「しかめっ面」が魅力と書いたんだが、それがふんだんに見られるんで、思わず「監督わかってるなあ」と褒めたくなった。
『アルバート・ノッブス』の後に『永遠の僕たち』も見てるんだが、その時のベリー・ショートのミアは、それは綺麗ではあったが、表情の作り出す魅力を捉えきれてなかった。
やっぱりガス・ヴァン・サント監督は女に興味ないんだなあと感じたよ。

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この『ジェーン・エア』では、ミアはロチェスターの言葉に食ってかかるような反応をする時に、あのしかめっ面になってて、眉間を眺めては「いいシワ出てるなあ」と、そのキュートさに見入ってしまうのだ。
ミア・シワコウスカと改名してほしい位だ。
だけど若い頃からあんまり眉間にシワ寄せてると、肌に刻まれて、歳を重ねてから「険のある顔」になってしまう恐れもあるので、ほどほどにしといた方がいいとも思う。

ロチェスターと会話の応酬となる、居間の暖炉の火に照らし出されるミアの表情が美しい。
彼女が緊張で唾を呑みこむ、その首の筋肉の動きまでが、くっきりと映し出されて、もうとにかくこの映画は、ミア・ワシコウスカを眺めてればいいのである。

ロチェスターを演じるマイケル・ファスベンダーは、原作では結構ゴツい男らしく、そういう感じを出そうとする役作りだが、ちょっと柄に合ってない気がするね。


この館には、夜中に物音やうめき声がきこえて、幽霊ではないかとジェーンは怯えるんだが、実はジェーンに求婚したロチェスターが、気の触れてしまった妻を、隠し部屋に幽閉していると知ることになる。
そこに至る経緯はセリフで説明されるが、ロチェスターの苦悩する内面も描写が足りないので、どうも捉えどころがないのだ。ファスベンダーも演じてて苦労したんじゃないだろうか?
俺はこの顔合わせだったら、上映時間3時間位あっても全然構わなかったんで、もっと細かい描きこみを見たかったね。


妻がいることを知り、すがりつくロチェスターを振り払うように屋敷を去ったジェーンが、辿り着いたのが牧師セント・ジョンの家だった。ここで回想から「今」の場面に戻る。

一軒家を借り、村の女子校で教えるジェーンの元に、セント・ジョンが知らせを持ってくる。ジェーンの叔父が、彼女に2万ポンドもの遺産を残してたという。
セント・ジョンは、ジェーンがもう立ち去るものと思ってたが、彼女は牧師と姉妹4人で分けようという。
さらに「私を妹として家族に迎えてほしい」と。
ここのくだりも原作を知らないと、唐突感はある。
ジェーンの言葉通り、家族に囲まれる温もりを求めてのものだとも、だがその後の場面で別の真意があったのかとも取れる。

セント・ジョンはインドへ布教の旅に出ると言い、ジェーンを伴いたいと。
「妻として付いてきてほしい」
だがジェーンは、ロチェスターのことが心から離れない。
「私はあなたを兄としては見れるけど、夫としては見れない」
そしてセント・ジョンが責めると、どこからともなく「ジェーン」と呼ぶ声が。

「私を呼んでるの?これは空耳?どこ?どこなの?」
「お、おい、話はまだ終わってないんだけど…」
みたいな感じで、声のする方にフラフラと行ってしまうジェーン。

悪いけどここはコメディっぽいぞ。都合の悪い時は空耳が聞こえるフリして、その場を去ってく、女の上級テクかよと思う。


ジェーン・エアの人物像に共感できるかどうかは、見る人によるだろうが、俺なんかは、せっかく遺産が入ったんだし、自分の世界が広がるチャンスが目の前にあるわけだろ。
ロチェスターかセント・ジョンかという、狭い選択肢で考えることもなかろうと思ったよ。外の世界に出れば、男は沢山いるんだから。ロチェスターから
「君は好奇心に満ちた小鳥だ」
「鳥かごを開ければ、飛び立っていくだろう」
と喝破されてたが、彼女の性分を考えれば、違う世界を求めて旅立つような生き方が、似つかわしかったんでは?

2012年6月14日

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キャメロン・クロウはこのままでいいのか [映画サ行]

『幸せへのキセキ』

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困った。まずいぞ、まずいこれは。つい昨日、文章が長すぎるなあなどと書いて、自ら改善を促そうと思ったんだが、舌の根乾かぬうちから長くなりそうだぞ今日のは。
それとほとんどボヤきめいた内容になってしまうだろう。誰に対してかというと、この映画の監督のキャメロン・クロウに対してだ。

まず前提として、俺はキャメロン・クロウの映画はほぼ好きだ。音楽ジャーナリスト上がりだから、映画も「ロックねた」がふんだんの織り込まれてるし、使われる楽曲が好みと合う。
主人公は大抵「青臭い」キャラだ。
デビュー作『セイ・エニシング』では、ジョン・キューザックが、好きな女の子の部屋の下に立って、デカいラジカセを掲げ、「僕の気持ちはこの曲に込められてる」って感じで流してた。
ヒャー!青臭い。でもそれがよかったのだ。そのてらいのなさが。

俺が一番好きなのは、監督の自伝的要素が強い『あの頃ペニー・レインと』だが、その後の『エリザベスタウン』には、ちょっとこの監督のタッチへの懸念が生まれてもきた。
主人公の青臭さとか、「甘ちゃん」な生き方に肩持ってしまう感じとか、そういう部分が突出してきてるように思ったのだ。
それはこの監督の「芸風」とも言えるんだが、今回の映画のように実話ベースで、しかも主人公は二人の子供を育てなきゃいけないという状況だと、いよいよ芸風にそぐわない印象を持ってしまう。


映画の主人公ベンジャミンは、体を張った体験レポートが売りのコラムニスト。半年前に愛する妻は病死し、14才の息子ディランと、7才の娘ロージーの世話に追われるが、悲しみは癒えないままだ。
息子ディランもそれは同じで、その喪失感は、禍々しいスケッチとなって、学校の教師をひるませ、窃盗の現場を押さえられたことで、ついには退学処分を受ける。

家庭内の悩みを抱えたベンジャミンは、自分の企画が通らず、意に沿わぬ仕事を振られたことで、衝動的に新聞社を辞めてしまう。

妻との想い出に息がつまる現在の町を離れ、新しい家を探すことにした。
家族の人生をリセットするのだ。
ロサンゼルスから、かなり離れた丘陵地帯で何軒かの家を見て回る内、外観が気に入った家があった。
ベンジャミンはここに決めようと思ったが、案内した不動産屋の男は
「この物件にはひとつ条件が…」
すると猛獣の咆哮が響き渡った。

この地で動物園を営んでいたオーナーが死去し、2年間休園状態となった動物園が、物件に含まれてたのだ。ライオンやトラやグリズリーまでいる、その約50種の動物たちは、飼育員たちが、前オーナーの遺産を切り崩しながら、面倒見続けていた。

ベンジャミンはさすがに素人に手が出せることではないと、帰ろうとするが、一緒に連れて来ていた娘のロージーは、くじゃくに餌をやって大はしゃぎしてる。
母親の死後も持ち前の明るさで、健気に振舞ってきたロージーだったが、こんな嬉しそうな顔は久々に見る思いだった。ベンジャミンは決めた
「よし、動物園を買おう!」


飼育員リーダーで独身のケリーたちとともに、ベンジャミンは新オーナーとして、動物園の再生に乗り出す。動物園の繁忙期は夏。2月の今から整備していけば、7月の開園に間に合う。
だが開園には農務省の検査官による(意地の悪いまでの)厳しい検査にパスしなければならず、動物の餌代ほか、経費は湯水のように溢れ出ていく。
そして何の相談もなく、動物園経営の生活を強いられることになった息子のディランは、ますます父親への反発を募らせていく。
ベンジャミンが再生させなければならないのは、動物園だけではなかったのだ。


というような、あらすじだけ書けば、実話ベースのいい話なんじゃないか?と思うところなんだが、細かい所がいちいち気になる。
今出てる「キネマ旬報」で、映画ジャーナリストの大高宏雄のコラムにこんなことが書かれてた。
トム・ハンクスとジュリア・ロバーツが共演する『幸せの教室』を見た知人と激論になったというのだ。俺はその映画は、キャストに新鮮味がないんでパスしたんだが、コラムの中で、大高宏雄の知人は、映画の設定の細かい部分に納得がいかず、楽しめなかったと。

これを受けて大高は、映画のリアリティや、辻褄にばかりこだわる見方が最近の観客に多いのではないか?と感じ取っている。
そのことに捉われてしまって、映画の楽しみ方を狭めているのではという論旨だった。
「映画をまっとうに見過ぎるとつまらない」
そういう事に捉われずに見ると、映画が浮かび上がらせるテーマの面白さを感じとれたりするのだと。

それはわかるんだけどね。俺も元々は「細けえこたぁいいんだよ」派だし、そうやって40年近く楽しんできてはいるけど、まあそれでも、ここはさすがに目をつぶれんなあということはありますよ。


この『幸せへのキセキ』は実話ベースだが、別に実際と細かい差異が出ることは全然構わないんだよ。
物語としてすんなり乗せてもらえれば。
だけど、例えば動物園を立て直すプロセスが漠然としすぎ。
ベンジャミンが当初どの位の貯えを持って始めたのか、前オーナーの遺産はどの程度残ってるのか?
この動物園の規模が、何エーカーあって、餌代その他の維持費のランニングコストが、1日幾らかかるのか?まずそこを短いカットの積み重ねでもいいから描写しといてくれよ。
映画では、なんかいろいろ修繕したり、ベンジャミンがやたら小切手切ってく場面しかないから、再生がどの位のハードルなのかが見当つかない。

オーナーとして経営に乗り出すんだから、7月開園と決めたなら、5ヶ月間のスケジュールを組むべきだし、言われるがままに経費を払ってるのもおかしい。
案の定、途中で資金が尽きたことが、飼育員たちに知れ渡ってしまう。
だがなんと亡き妻が、ピンチの時にと隠し資産を作ってたことを、ベンジャミンは会計士の兄から知らされるのだ。
それがあったから乗り切れたようなものの、これじゃ「結果オーライ」だろう。

子供ふたりを育てなきゃならない時に、簡単に職を辞めちゃうし、経営は行き当たりばったりだし、息子に反発されても仕方ないよ。
そもそも動物園を買うのは、下の娘の笑顔が決め手になってるけど、それまでに相当ヤバい絵を描きためてた息子のケアを、先にすべきだと思うぞ。


あと役者の演技のつけ方に関して、観客への「媚び」を感じるのが居心地悪い。
下の子ロージーを演じるマギー・エリザベス・ジョーンズという女の子は、まあ誰が見ても可愛いと思うだろうし、演技も達者だが、俺は苦手なのだ、子供に大人びた口調や仕草をさせてウケを狙う、いかにもアメリカ映画的な手法が。子供がそういつも機嫌いいわけがない。

あともっと細かいアラ探しみたいになって、俺もそんな俺が嫌いになりそうなんだが、あえて書こう。
人物が画面からはけて行く時の表情にも「媚び」がある。

劇中で、ベンジャミンと会話を交わす、息子の学校の教師、不動産屋の男、農務省の検査員、みんな会話終わりに立ち去る時に、「やれやれ」という表情を一瞬画面に向かって見せてはけてく。
つまり細かい所で、いちいち観客の反応を伺うような演出をしてるのだ。

昨日コメントした『ソウル・サーファー』も実話ベースということでは同じだが、演出に変な「媚び」は感じられなかった。
この映画は全体的に、判で押したような感情表現や、エピソードの収拾のつけ方が目立つ。


でもそういう演出プランの下でも、役者はいい演技をしてると思った。
マット・デイモンは体重を増やして「万年青年」のイメージから、「生活者」の顔になってた。俺の好きな役者のブレンダン・グリーソンのような顔にこれからなってくのかも知れない。

飼育員リーダーのケイトを演じるスカーレット・ヨハンソンは、男を惑わすヴァンプな雰囲気は、作業服の中に封印して、仕事に誇りを持つ女性像を好演してた。

キャメロン・クロウ監督はリアルタイムで見続けている、好きな監督のひとりなだけに、
「この演出の方向性のままでいいのか?」と言いたくなってしまう。
映画ファンの中には、その監督が好きとなったら、どんな映画でも断固支持するという、そういうスタンスの人もいるが、俺はそうじゃない。「アバタもエクボ」とはならない。

好きな監督だからこそ、気にならない所も気になってしまうのだ。
あーもう、ダラダラと書いてしまった。次はほんと頼む監督!

2012年6月13日

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片腕サーファー/魂のパドリング [映画サ行]

『ソウル・サーファー』

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ブログを続けてきて最近自分でも思うんだが「文章長いな」。
最初の頃に比べてどんどん長くなってる気がする。
なので「くどくど書くより見るがよろし」的な内容の映画を見当つけて見に行った。

これはいい映画だった。それこそ俺のブログタイトルの「敗北」などに、もっとも似つかわしくない、そういう生き方のヒロインが眩しすぎるほどだ。

サーフィン中に、サメに襲われ、片腕を失った少女のニュースは俺も憶えてる。
2003年10月31日、ハワイ・カウアイ島北海岸での事故だった。
その少女ベサニー・ハミルトンに取材した番組を、たしかCBSのニュースかなにかで見た。
奇跡的な回復を遂げ、事故から1ヶ月後には、またサーフィンを再開したという、当時まだ14才の誕生日前だった、この少女の不屈の闘志に「すごいな…」と感嘆した。

そのベサニーを撮影当時17才位だったであろう、アナソフィア・ロブが演じてる。彼女は小柄だし、アメリカの女優には珍しく、実年齢より幼く見える感じがあるので、13才の役柄に違和感がない。


ハミルトン一家はカウアイ島に生まれ育ち、家族全員がサーフィンに親しむ。特にベサニーは子供の頃からその才能を開花させ、母親からは「人魚」と呼ばれるほどだった。
いつも一緒に海に入った幼なじみで親友のアラナとともに、ベサニーは13才で、地元タートルベイのジュニア大会に出場。ライバルのハワイアン少女マリーナを振り切り優勝を果たす。
アラナとともに、スポンサーの目にとまり、ベサニーは夢だったプロサーファーへの最初のステップを踏んだかに見えた。

地元のクリスチャン団体のボランティア活動にも、積極的に参加してたベサニーだったが、サーフィンへの情熱から、その活動とも疎遠になっていく。
次の目標は地区大会だ。その先には全米学生チャンピオンシップという頂がそびえている。
だがハロウィンの朝、アラナと、彼女の父親と弟と連れ立って、練習に臨んだ北海岸で、ベサニーは悲劇に見舞われることになる。

この場面は怖い。ボードにうつ伏せになり、波を待ってた4人の中で、不意にベサニーが海中に引き込まれ、直後には周囲が赤く染まる。
アラナの父親は瞬時にベサニーをボードに戻し、懸命に岸へと漕ぎ戻る。
血の匂いで、さらに襲われる危険がある。アラナと弟に指示を出し、応急処置をとる。
弟はケータイで救急車を要請した。

ベサニーは泣き叫ぶこともしない。正気を保とうと必死なのか、一種のショック状態におかれて、痛みで叫ぶことも忘れてるのか。
ここから病院に搬送され、聞きつけた家族たちが駆けつけるまでのシークェンスは、役者たちの演技も真に迫っており、ほんとに涙出てきそうになるくらい怖いのだ。


それはサメに片腕を肩口から食いちぎられてしまうのが、まだ13才の少女だということの無残さに拠るところもある。
だがこれこそ不幸中の幸いだったのは、その現場に、アラナの父親という「大人の男」がいたことだ。
映画はここで一気にシリアスな空気に転じるんだが、そのまま重たい雰囲気を引きずりはしない。

彼女を治療した医師が、ベサニーの両親に「あの娘は奇跡だよ」と言うように、60%以上の血液を失いながら、感染症もなく、乗り越えたのだ。
そして病室では早くも「いつ海に戻れるかな?」などと話してる。
この身体だけでなく、精神の回復力がすごい。

退院後は早速ベサニーの片腕だけの生活が始まるわけだが、義手のメーカーから、本物の皮膚に近い質感の義手を提供されても、サーフィンで腕に力をかけられないとわかると、
「私には必要ない」

ベサニーは部屋の鏡で自分の半身を映して、さすがに落ち込むが、それはそうだろう。
アナソフィア・ロブは撮影時には、左腕の肩から下を、グリーンのビニール状の筒で覆っている。
「ブルーバック合成」で使う手法で、CGでその部分だけ消せるようにだ。

そうやって映画では完全に片腕が肩口からないように見える。片方の腕がないと、身体全体の見た目のバランスがどうしても崩れてしまう。顔が大きく見えてしまうのだ。
だけどベサニーはハワイに生きて、サーフィンをやってこうとしてるのだから、服で体を覆うわけにはいかない。
演じるアナソフィア自身も、出来上がった映像を見てショックを覚えたんではないか?
こんな風に映るのかと。

事故から3ヶ月後には早くも大会に復帰するが、片腕でのパドリングの困難さを克服できず、惨敗する。「片腕のサーファー」という好奇の目でメディアに晒され、一時はボードを手放すまでに。

ベサニーに父親は語りかける
「サメはお前を殺さなかった」

ハミルトン一家は敬虔というほどではないが、クリスチャンとしての自覚や精神に裏打ちされた生き方をしてるという風に描かれている。

父親の言葉が「お前はまだ生きてるじゃないか」ではなく
「サメはお前を殺さなかった」と言うところに、それが表れてる。
片腕は奪われたが、サメは命までは持っていかなかった。
そのことに何か意味が、あるいは何かの意志が働いてるんじゃないか?そう語りかけてるのだ。

ボランティア活動のリーダーのサラからも言葉をかけられている。
「試練の先には必ずなにかがあるのよ」と。
片腕を失って、サーファーとしては絶望的な状況で、そんな言葉が慰めになるのか?
だがベサニーはその言葉に耳を傾ける。
「苦しい時の神頼み」というのとはちがうのだ多分。


映画を見てて、信仰とはなにかと思うと、神様を信じるとか信じないとか、そういう事の前に(まあ信じる事が前提にはあるんだろうが)、人が自分にかけてくれる言葉に耳を傾ける、受け入れる下地があるかどうか、ということではないか。

苦しい時に、人の言葉が自分の助けになるということを信じる、人が自分を思ってくれているという、その気持ちを信じる。
そういう下地を、幼いときから培っていく、そういうことではないかと感じた。
ベサニーという少女は、その自分の魂の素直さに救われたと言えるのかも知れない。


サーフィンの場面のカメラの気持ちよさは、なるべく大きなスクリーンで見たいと思うもの。
ショーン・マクナマラという監督の映画は初めて見るが、演出自体は際立った所はあまりない。

サーフィンの場面に必ず音楽が被さるのも凡庸だと思う。
もう少し実際の波の音を聞かせれば、臨場感も増したのに。
ベサニーがチューブをくぐっていく場面は、悪くはないんだが、なんか目薬のCMみたいにも見えてしまうね。

映画のエンディングにベサニー・ハミルトン本人の映像が出てくるが、大きな波に乗った彼女の向こうに、虹がかかってるラストカットが美しい。できすぎな位に。

さて文章振り返ってみると、やっぱ長いな…

2012年6月12日

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まとまりすぎてるツイ・ハーク [映画ア行]

『王朝の陰謀 判事ディーと人体発火怪奇事件』

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以前のブログでこの映画を見に行ったが、体調が芳しくなかったのか、途中で寝てしまったんで、リベンジの機会を待つと書いた。
これは「シネマート新宿」で上映してたんだが、しばらくの間、小さな画面の「スクリーン2」に格下げされてた。なのでHPをマメにチェックし、「スクリーン1」に格上げされる「月曜メンズデー」が来るのを待ってたのだ。
先日ようやくその機会があり、2度目の鑑賞。う~む、中盤けっこう記憶がすっ飛んでたんだな。


則天武后という、中国初の女帝が出てくる。唐の時代の人で、後の西太后と並び称されるほど、冷酷残忍な権力者だったと伝えられてる。
映画の舞台は、皇宮のある洛陽の都。女帝の座に就く則天武后は、その権力の象徴として、自らの顔を模した弥勒菩薩像をかたどった、巨大な「通天仏」の建立を急がせていた。
それはまさに天にも届かんとする高さだった。

だがスペインからの使者を招いた、建立前の内見で、都を一望できる像の目の部分に足を運んだ一行の中で、工部副長官の体が突然火に包まれた。

この怪事件の捜査に司法官シュエと、野心家の部下ペイ・ドンライがやってくる。
死体の状態を見たシュエは、これは火を放たれたのではなく、人体内部から燃えたのだと結論づけた。
工事に使われる溶剤の中に、人体で化学反応を起こす物があると。犯人は工夫の中にいる。

ペイ・ドンライはその中の一人に目をつけた。建立の造営頭を務めるシャトーだった。
彼は以前、武后への反逆罪に連座し、片腕を落とされる刑を受けていた。
だが建立が遅れれば、それこそ全員が打ち首になると、工事の妨害工作を否定した。

司法官は事件を報告すべく、部下とともに則天武后の皇宮にお目通りを願うが、武后の目の前で、今度は司法官のシュエが全身火だるまとなり、朽ち果てた。
部下のペイ・ドンライは呆然と立ち尽くした。

困惑する武后の前に一頭の鹿が姿を現した。鹿は「国師」のお告げを口にした。
「怪事件を解決できるのは、朝廷を離れ、8年も獄に繋がれた“明けの星”しかいない」

“明けの星”とは、皇帝の死とともに権力の座に就いた当時の武后を非難し、投獄されていたディー判事のことだった。ディー判事は明晰な頭脳と、武術にも長けていた。
武后はディー判事を呼び戻すことにし、美貌の側近チンアルを監視役に、ペイ・ドンライを捜査の補佐役に任命した。


光の差さない獄に幽閉されてたディー判事だが、国師のお告げに相前後して、すでに刺客が投じられてきた。
ディー判事は拳法で刺客を蹴散らし、チンアルも見事な鞭さばきでディーを手助けした。
チンアルはディーの行動の真意を探るためなら、夜の相手もせよと命じられていた。

彼女はディー判事に誘いをかけるが、乗ってくる様子はない。
強引に出ようと思った矢先、またしても刺客の放つ無数の矢が二人を襲う。

危うく難を逃れたものの、この事件には、反武后派の企み以外にも、底知れぬ陰謀が隠されていると悟ったディー判事は、化身術を使うという、元宮廷侍医のワン・ポーが隠れ住む「地下世界」へと足を踏み入れる。
そして人体発火の鍵を握る「火炎虫」の存在にたどり着く。
それを操るのは一体誰なのか?
だが真相に迫りつつあるディー判事と、行動を共にするチンアルとペイ・ドンライの身にも、危険が迫っていた。


ツイ・ハークの映画らしいと思うのは、小道具がイカしてる所だ。
アンディ・ラウ演じるディー判事の武器は「降龍杖」というもの。青銅の棒なんだが、この武器には、触れた物質の弱点が音で判別できる力が備わってるのだ。

ディー判事がお忍びで現れた武后の前でその力を披露する場面がある。灯篭を「降龍杖」でなぞっていき、音の変わった部分を一撃すると粉々に崩れ落ちる。こういう場面があるのが楽しい。

美貌の側近チンアルを演じるのは、リー・ビンビン。
彼女の鞭さばきがカッコいい。しばいてほしい。
アクション監督はサモ・ハンで、随所に飛び道具を使ったような見せ場をこしらえてる。

鹿が「国師」のお告げをしゃべり出した場面は、『鹿男あをによし』かと思ったが、鹿はあとの場面で、ディー判事に猛アタックで襲いかかってきたりするんで、意外と重要な存在だったりする。
アンディ・ラウは生真面目に対応してたな。

人体自然発火というと、そのものズバリな題名の、トビー・フーパー監督作『スポンティニアス・コンバッション』を思い出すってもんだが、その種明かしが「火炎虫」という。
もちろん架空の虫なんだが、映画の中では、見た目は「ダンゴ虫」の巨大なヤツで、家の中で見かけたら卒倒するレベル。
この火炎虫の体液をなんらかの形で、人間の体内に注入させると、太陽の光を浴びた途端に、体内でその成分が発火するという設定なのだな。


そういった小道具やら、妖術やら、いろんな要素が盛り込まれていて、クライマックスの「通天仏」大崩壊に至るまで、2度目の鑑賞では飽きずに見終えることができた。

だがこれは贅沢な不満というもんだが、ツイ・ハークにしては、破綻なくまとまりすぎてるなと。
言い方かえると、今まで見てきたツイ・ハークの映画は、ストーリーの辻褄が多少合わなくても
「なんだこれ、すげえ!」っていう見せ場がどっかしらにあったのだ。

このブログでも以前コメント入れた『ブレード/刀』もしかり。
その後に見た『ドリフト』もどんな話だったかさっぱり憶えてないが、九龍あたりの高層&ボロアパートの階段を、ワイヤー使ってビュンビュン駆け下りてく、まさに「ワイヤーアクション」な場面とか、壁面使ったアクションとか、その凄さだけは目に焼きついてる。
今回の映画では、そういう目に焼きつくような見せ場がなかったのは、なんか物足りない。


則天武后をカリーナ・ラウが演じてるが、伝え聞くような冷酷な女帝という面は強調せずに、女が権力の座に就くことの孤独を滲ませる描写もあり、その人間的な部分を表現しようと好演してる。

ペイ・ドンライを演じるダン・チャオは、俺は知らない役者だったが、中国では人気の若手という。この映画では髪も睫毛も白くしていて、大人なのか子供なのか、不思議な佇まいをしていた。

アンディ・ラウは王朝時代の衣装とか、着こなすのが難しそうなのに、ビシッと決まってて、さすがスターの風格だ。

登場人物のほとんどに非業の死が訪れるという、なかなか悲壮感あふれる展開も、お気楽な冒険探偵ものと違って、余韻があっていい。
ディー判事でシリーズ化されそうな気配はあるね。

2012年6月11日

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原作読んで再度観た『裏切りのサーカス』 [映画ア行]

『裏切りのサーカス』

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キャストが好みだったし、公開後すぐに見に行ったのだが、ご他聞に漏れず、ちょっと掴みどころのない印象だった。わかりにくいというより、結末に関して「ふーん」という程度の感慨しか抱けなかったので、これはジョン・ル・カレの原作を読んでみなきゃいかんなと、読んだ上でもう一度見てみようと思った。
しかし俺は本を読むのがとにかく遅いのだ。520ページもあるんで、休み休みなんとか読み終えて、もう1回見に行ったわけだが。

それでも映画を見てから原作にトライして良かったことは、登場人物に、俳優の顔が乗っかってイメージできるんで、錯綜する人間関係が捉えやすくなる。読んでて入り込みやすくなるのだ。
で、2度目に映画を見たら、漠然としてた部分の背景が掴めた。

1回目に見た時から、映画の雰囲気はいいなと思った。色彩設計が、監督の美意識で統一されてる。
1970年代の東欧の風景とか、俺はよく知らないが、灰色を基調としながら、イーストウッドの映画の彩度を落とした色合いとは違って、ところどころに赤やオレンジなど、強い色も入ってくる。
「サーカス」本部内のデザインも凝ってるし、目を楽しませる画面作りだ。
ゲイリー・オールドマン、カンバーバッチ、マーク・ストロングにコリン・ファースと、英国男がズラリ居並ぶ。


ロンドンのケンブリッジ・サーカスに本部を置くことから、通称「サーカス」と呼ばれる、英国諜報部。そのリーダーのコントロールは、サーカス内部に、「モグラ」と称される、ソ連の二重スパイがいるとの情報を得る。
1970年前半、東西冷戦下の諜報戦が熾烈を極めていた、そんな状況下だった。

コントロールは、ハンガリーの将軍が、「モグラ」の情報と引き換えに、西側に亡命を望んでいると聞き、独断で工作員ジム・プリドーをブタペストへ向かわせる。
だが将軍は取引の場には現れず、ジムが罠と悟った時は手遅れだった。
ジムは射殺され、作戦の失敗が公になったことで、コントロールは失脚。
長年右腕として働いていたジョージ・スマイリーも連座させられ、サーカスを追われた。

コントロールは引退直後に、謎の死を遂げた。
妻のアンにも去られ、孤独な日々をかこってたスマイリーは、政府の次官レイコンの呼び出しを受ける。
サーカスのトップにいる4人の中に、「モグラ」がいる。それを突き止めろという極秘指令だった。
スマイリーは、信頼を置く部下のピーター・ギラムに声をかけ、調査を始める。

死んだコントロールの自宅からはチェスの駒が見つかった。駒にはサーカスの4人の顔写真と、コントロールがつけたと思しきコードネームが振り分けられている。
現リーダーのパーシー・アレリンは「ティンカー(鋳掛だがけ屋)」、
組織随一の実績を誇り、色男でもあるビル・ヘイドンは「テイラー(仕立て屋)」、
勇敢だが急進的思想のロイ・ブラントは「ソルジャー(兵隊)」、
東側から転向したトビー・エスタヘイスは「プアマン(貧乏人)」とされていた。

そして駒はもう一つ出てきた。その駒にはスマイリーの顔写真が。
コントロールは、右腕として信頼を置いてた自分にも疑いをかけていたのか?


スマイリーは時を同じくしてサーカスを退職した、ベテランの女性職員コニーのもとを訪れる。
コニーは今回の件には「カーラ」が絡んでると言った。ソ連の大物スパイで、スマイリーとも因縁浅からぬ人物だった。
以前「カーラ」は西側に捕らえられ、スマイリーが西側のスパイに転向させるよう、説得の役にあたっていたのだ。ソ連に送還させられても死が待つのみだと。
だが「カーラ」は「屈服よりも死を選ぶ」と帰国した。
取調べの席でスマイリーから借りたライターを手にしたまま。
「アンより愛をこめて」と彫られた、妻からの贈り物だった。

コニーは今回の作戦失敗の影には、「カーラ」と、その手先となるソ連大使館のポリヤコフの存在があると、リーダーのパーシーに報告する。
だが「それは妄想だ」と、判断能力の低下を理由に解雇されたのだ。

一方ピーターの調べで、死んだはずのジム・プリドーに宛てて、彼の偽名口座に1000ポンドが振り込まれてるという。ジムは生きてるのか?


調査を進める二人の前に、東側に寝返ったと思われてた工作員のリッキー・ターが現れた。
ピーター・ギラムはやおらリッキーに殴りかかった。
リッキー・ターは、ピーターが束ねる「手を汚す部隊」の一員だったのだ。
リッキーは事の次第を話した。

イスタンブールで活動中に、東側の通商使節団員の女性イリーナと恋に落ちたという。
イリーナが恋人からDVを受ける様子を、リッキーは目撃していたのだ。
違反行為を承知でイリーナと接触すると、彼女はリッキーの素性を読んでいた。
イリーナは「モグラ」の情報と引き換えに、西側に亡命を望んだ。

だがリッキーがその電文をサーカスに送った直後、イリーナはソ連の工作員に連れ去られてしまう。
「彼女を救ってほしい」とリッキーは涙声でスマイリーに訴えた。

電文の記録は当直日誌に残ってるはずだ。ピーターはサーカス本部から、巧妙な手段で日誌を持ち出したが、リッキーが電文を打った日のページは破かれていた。
この調査すら「モグラ」に筒抜けなのだ。


スマイリーはジム・プリドーが撃たれた夜に、ハンガリーからの緊急連絡を受けた当直に話しを聞いた。
スマイリーの自宅に当直が電話したが、出張中で、妻のアンが電話に出たという。
そして混乱きたすサーカス本部に駆けつけたのはビル・ヘイドンだった。
ビルはハンガリー大使館を呼び出し、
「ジムが死んだら容赦しないぞ」と凄んだ。
ビル・ヘイドンとジム・プリドーは、「一心同体」と言われる間柄だった。
同志という以上の結びつきだったのだ。

そして死んだと思われてたジムは、ビルの援助を得て、今は教師として、静かに暮らしてるらしい。
あの1000ドルもビルからのものだろう。
スマイリーはジムの居所を突き止めて、あの作戦の真相を聞きだした。


ジムは撃たれて動けなくなった後、東側に捕らえられ、拷問を受けた。
何日も経って「この女に見覚えは?」と連れて来られたのはイリーナだった。
ジムは首を横に振ると、直後にイリーナは射殺された。
その場に居た男はスマイリーのライターを持っていた。
「カーラだ」

ここまでの調査でピーターが腑に落ちなかったのは、ハンガリーの作戦失敗の報を受けて、不在のスマイリーに替わるようにビルが駆けつけたことだ。
作戦はコントロールが独断でジムを使って行ったことで、右腕のスマイリーに緊急連絡が入るのはわかる。だがそれ以外の人間は知らないはず。

スマイリーはピーターに口を開いた。
「あの時、自宅にいたのはビルなのだ」
つまりそれはビルと、妻のアンが不倫をしてるということだった。


パーシー・アレリンと、彼に従うトビー・エスタヘイスが、コントロールに代わってサーカスの実権を握った裏には、彼らが「ウィッチクラクト作戦」と呼ぶ、ソ連側の新しい情報元から得た機密があった。
英国諜報部は、かつての存在意義が低下し、アメリカの諜報機関と手を結ぶべきと、パーシーたちは大臣に働きかけていた。

だが「ウィッチクラクト作戦」とは、ソ連が英国諜報部を通じて、「敵国」アメリカの情報をより得やすくするために撒いた餌だった。
スマイリーはロンドン市内に「ウィッチクラクト作戦」の密会所があると踏んで、ひと芝居打つことにした。


この物語ではスマイリーとビル・ヘイドンの関係が重要になるんだが、映画ではビルの描きこみが少なすぎる。

原作にはなく、映画独自の描写として上手いと思ったのは、往年のサーカスの人間たちが一堂に会したクリスマス・パーティの場面だ。
興が乗って、ソ連の国歌をみんなで歌いだすという皮肉のこもった場面だが、その会場で、スマイリーは、庭の木陰で抱き合う、妻とビルの姿を目撃してしまうのだ。

スマイリーとビルはだからといって敵対関係にあるわけではなく、互いを認め合ってもいるんだが、原作ではビルがどういう実績を積んできたかとか、その人物像にページが割かれてるので、キャラクターが頭の中で立つんだが、映画ではそこまで把握できない。

映画ではスマイリーと、部下のピーター・ギラムの描写がメインで、疑いをかけられてる4人のメンバーがほとんど画面に出てこないので、誰が「モグラ」であったところで、「ああ、そうなの」という反応になってしまう。
「この映画は謎解きがメインではない」という見方もあるが、ではなにがメインなのか?


スパイという因果な稼業の男たちの苦悩なのか、矜持めいたものを描くのか。
だがスパイという仕事をしてる人間に、なにか思い入れるとか、共感を持つということは、一般の生活を送る人間には困難なことじゃないか?

もちろんそのニヒリズムであるとか、ダンディズムであるとか、そういうものを感じ取って、自ら悦に入ることは出来なくはないが、なにかその先に広がってくようなものがないな。


映画はウェルメイドというくらいに丁寧に出来てるとは思うんだが、世界が内に向かって閉じてるような印象を受ける。
ひとつには、監督のトーマス・アルフレッドソンが、この「サーカス」の男たちの世界を、ホモソーシャルな結びつきとして、色濃く描いてるという点だ。
ビルとジムがそういう関係であることは原作と同じだが、ピーター・ギラムの恋人が原作では女性なのに、映画では男性になっている。

度々スマイリーによって回想される「クリスマス・パーティ」の場面は、妻の不倫を目撃するという痛恨の記憶であるとともに、あの会場でスマイリーが目配せする、ビルやコントロールや、サーカスの男たちとの、口元に浮かぶ微笑などは、「男たちとともにいる時代の甘美な記憶」として、去来してもいるのだ。

トーマス・アルフレッドソン監督は、前作の『ぼくのエリ、200歳の少女』にも偲ばせていたが、本質的にはゲイの物語を語ろうとする人だ。なのでゲイではない俺には、本質的な部分がわからない。
というか閉じられてるという印象に繋がってしまう。

多分この映画をコントロールしてる、品の良さとか、ラストに流れる楽曲などの音楽の趣味とか、そのあたりにも表れているのだろう。スパイ映画だが、女性の方がハマる要素があるように思う。

あとサイドストーリー的に、教師になったジム・プリドーが、眼鏡の小太り少年と交流する場面があるが、原作ではその二人の係わりがもっと描かれていて、これをスピンオフで1本作ればいいのにと思う位にいい。
ジムが少年が教室でどんな存在なのかを瞬時に見抜いて

「孤独な人間は、いい観察者になれる。君はいい観察者だろ?」

映画ではマーク・ストロングがジムを演じてるが、彼の演技する場面をもっと見ていたかった。

2012年6月10日

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弟チャーリーにも巡礼させたかったんじゃないか? [映画ハ行]

『星の旅人たち』

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フランスから、ピレネー山脈を越えて、スペインまでの800キロを、ひたすら歩く「聖地サンティアゴ巡礼」は、過去に2005年の『サン・ジャックへの道』でも描かれていた。

この『星の旅人たち』は、実際に敬虔なカソリック信者としても有名なマーティン・シーンが、巡礼の旅の途中で、不慮の死を遂げた息子の遺灰を抱いて、同じ道を踏破しようとする父親を演じるドラマ。
宗教的な臭みはなく、それぞれに思いを抱いて巡礼に臨む人々との交流を、マーティンの実の息子のエミリオ・エステベスが監督し、平易な筆致で綴っていく。

おせっかいだが憎めないオランダ人の大男と、DV夫のトラウマを抱えたカナダ人の元人妻、巡礼者のエピソードを、本にしようと目論むアイルランド人ジャーナリスト。
マーティン・シーン演じる70代の眼科医と、3人の旅の道連れが織り成すドラマは、やや図式的というか、際立った見せ場があるわけではない。
だがベタついた感傷に流されないので、後味は悪くない。

現在「ヒューマントラストシネマ有楽町」で上映してるが、水曜の「1000円鑑賞デー」とはいえ、ほぼ満席の入りだった。俺は舐めてたんで、15分前位に行ったら、もう席は前の方しかなかった。


ここでは映画の内容のことより、エミリオ・エステベスと、父親マーティン・シーンのことを書こうと思う。

『地獄の黙示録』はウィラード大尉の、徹底した「傍観者」キャラに惚れ込んで、1980年の初公開時には、テアトル東京はじめ、都内の映画館を5館くらい見て回った。
その公開の3年ほど前から「コッポラの戦争大作には新人が主役に抜擢されてる」と伝えられてた。
映画自体は遅々として完成を見ないので、その間にマーティン・シーンの出演作が、劇場やテレビ放映などで、次々に紹介された。

彼は当時日本では無名だったが、1973年のテレンス・マリック監督のデビュー作
『BADLANDS』に主演したことで、海外では知名度が上がってたようだ。
その作品が『地獄の黙示録』に便乗するような『地獄の逃避行』という題名で、TBSの深夜に放映されたのもこの時期だった。

以前にこのブログで紹介した『カリフォルニア・キッド(連続殺人警官)』や、敵前逃亡の罪で処刑された、実在の兵士を演じた『兵士スロビクの銃殺』などの、印象深いTVムービーもあった。
1967年に彼が脇役で出た『ある戦慄』も、「トラウマ映画館」の著者・町山智浩と同じように、俺もこの時期にテレビの深夜放映で見て衝撃を受けた。

劇場公開作においては、『地獄の逃避行』の設定を模した、『ふたりだけの森』が1977年に公開されてる。主演はリンダ・ブレアで、元はTVムービーの作品だ。
同じ年にはジョディ・フォスター主演の『白い家の少女』で、最後に毒を盛られて絶命する男を演じてた。『地獄の逃避行』で共演したシシー・スペイセクも当時十代で、マーティンは少女とばかり出てる「ロリコン系」役者みたいなイメージつきかねない感じだった。

俺はマーティン・シーンの70年代の出演作は、ロバート・ケネディを演じたTVムービー『十月のミサイル』に至るまで、劇場公開作もテレビ放映作も、すべて見てると言っていい。
なのでこの役者には思い入れがあるのだ。


いよいよ『地獄の黙示録』も公開となり、マーティン・シーンのキャリアも華やかになってくのかと思ったが、その後は目ぼしい主演作は続かなかった。
彼は『地獄の黙示録』の撮影時に、あまりの過酷な環境で心臓発作に見舞われ、生死をさまよう経験をしてる。役者としての仕事に疲弊してしまったようで、1980年代以降は、役者としての野心を感じられなくなった。

元々彼は「演技賞」的なものには興味がないのだ。『地獄の逃避行』で、サンセバスチャン映画祭で主演男優賞に選ばれた折りにも、受賞を辞退してる。
それは前年の1972年に『激怒』で共演したジョージ・C・スコットの影響に拠る所が大きかった。
ジョージ・C・スコットは『パットン大戦車軍団』でアカデミー主演男優賞に選ばれながら、それを辞退してたのだ。
「俳優は演技の優劣を競うために役を演じてるのではない」
という、その考え方にマーティンも共鳴したのだ。


長男のエミリオは、父親が疲弊してた時期の、80年代前半に、役者としてのキャリアをスタートさせてる。
ちょうど80年代青春映画ブームで「ブラッドパック」の一員として、すぐに人気を博すが、エミリオは「キレるとやばい」という若者を演じることを好んだ。
これは父親が『地獄の逃避行』で演じた殺人犯キットのイメージを追ってるのだ。

そして1986年には、早くも監督第1作で主演も兼ねた『ウィズダム/夢のかけら』を発表。犯罪をおかして逃亡するカップルという、『地獄の逃避行』にオマージュ捧げるような設定の青春映画になってた。

1996年の監督3作目の『THE WAR/戦場の記憶』では、父親マーティン・シーンと「親子」の役で共演を果たしている。戦場で心に深い傷を負った若い帰還兵の物語は、やはり父親の
『兵士スロビクの銃殺』につながりを感じる。
エミリオは役者としては、父親マーティンのキャリアを追体験するように、演じてきたのではないか。
そして父親のキャリアをリスペクトしてる。

2006年の監督5作目となる『ボビー』は、ロバート・ケネディが暗殺された当日の、アンバサダー・ホテルに居合わせた人々を描いた群像劇だが、ここでも父親をホテルマンとして出演させてる。

これは身内だからということではなく、前述した『十月のミサイル』で、父親マーティンが、ボビーを演じていたということを踏まえてのものだろう。
ちなみにマーティンは1983年のTVミニシリーズ『ケネディ』でJFKも演じてるのだ。
マーティン・シーン近年の代表作となった、TVドラマ『ザ・ホワイトハウス』でのバートレット大統領役など、今や「アメリカで一番、大統領が似合う役者」となった。

だが皮肉にもアメリカ国民としてのマーティンは、反核や人権問題などデモ活動の常連で、67回の逮捕歴を誇るような、「体制に楯突く」立場なのだ。

エミリオは『星の旅人たち』のパンフに掲載されてるインタビューの中で、80年代以降の父親の役者としてのキャリアは、家族を養うために、役を選ばず出たようなものが多く、それもあってベテランの職業俳優に見られてると述べてる。
マーティンの関心が役者業より、社会の問題に向いていったということもあるだろう。

エミリオとしたら、父親の、役者としての本領を示すような映画を作ろうという心積もりがあったようだ。ここまで父親を敬愛する息子がいるだろうか?と思うよね。


この『星の旅人たち』でエミリオは、母親の死後に父親と疎遠となったまま、旅先で不慮の死を遂げる息子を演じてる。
ロスで眼科医を営む父親は、旅先の地フランスを訪れ、息子がスペインのサンティアゴ大聖堂を目指す「巡礼の旅」の途中だったことを知り、遺体を火葬にし、その遺灰を抱えて、同じ巡礼の道を辿ることにする。
自分が監督をして、死んだ息子として出演し、実の父親に「父親」を演じてもらい、自分の遺灰を運ばせる。映画とはいえ、演じるマーティン・シーンは、どんな心境だったんだろうか。
エミリオは、父親の巡礼の旅の先々で、ふとした瞬間に幻影として父親の前に現れたりもする。

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これは映画だが、エステベス親子のプライベート・フィルムと言ってしまってもいい位だ。
その親子の絆の再確認ぶりは微笑ましくもあるが、同時に、ここに次男のチャーリーの影すらないのが、淋しくもある。
あんまりにも父親と長男の絆が強すぎて、次男はスポイルされたんだろうか?

だが父親と映画で共演を果たしたのは、チャーリー・シーンの方が早かったのだ。
それが『ウォール街』だった。
マーティン・シーンの唯一の監督作『ミリタリー・ブルース』で主役張ったのは弟チャーリーの方だった。兄のエミリオも自身の監督・主演作『メン・アット・ワーク』と『キング・オブ・ポルノ』の2作でチャーリーを呼び寄せてる。

近年、DV騒ぎや、売春婦との乱痴気騒ぎなど、私生活荒れ放題でキャリアも混迷の度を深めてる次男だが、父親マーティンは「もちろん家族として心配はしてる。だがチャーリーの問題は、彼自身が克服しなければならないことだ」とコメントしてた。

若い頃からファンキーな性分だったのか、だが俺はチャーリーが若い頃、主演映画のキャンペーンで来日した時のエピソードを憶えてる。
インタビューの中で、最近「詩」を書きためてると語ってた。
「で、その詩を出版しようと、いろんな出版社に見せに行ったが、どこからもOKの返事来なかった」
「僕はハリウッドで有名になったから、その名前でどこか飛びつくと甘く考えてたんだ」
「なので、自費で出版することにした」とのこと。

その記事を読んでた南伸坊がエッセイで、
「多分チャーリーの書いた詩とやらは、大したものではないのだろう。だがそういう話を率直に語って、自費で出すことにしたという、そんな彼を悪くないなと思う」と書いてた。

若い頃のそういったナイーヴな感性が、どういう経緯で、あんなファンキーなことになってったのか。
それが彼自身の内面の問題なのか、エステベス家にも関わってくる話なのか、わからないが、エミリオが『星の旅人たち』で本当に巡礼させたかったのは、弟チャーリーなのではないか?
それも映画ではなく、実際に800キロの道のりを踏破させて、もう一度自分の魂と対話してみろと。


そんなことも思いつつ、しかし『地獄の黙示録』で、それこそ魂の闇を覗き見るような旅に赴き、自らも命の危険にさらされたマーティン・シーンが、いま息子の手によって、魂に光を差すような旅にいなざわれた。
その「映画的」な帰結のドラマに、長年のファンである俺は感じ入るものがあったのだ。

2012年6月8日

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