オールモスト・ブルーな二人の歳月 [映画ワ]

『ワン・デイ 23年のラブストーリー』

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ラブストーリーというジャンルはあまり酷評を受けることはないもんだが、この映画はけっこうキツめの感想が目立つね。
ポスターのキーアートを見ても、題名の印象からも、二人の男女が、23年に渡って、理不尽な運命にも立ち向かいながら、愛を燃え上がらせていく、みたいな、さかんに映画化されてるニコラス・スパークスの小説っぽい内容を期待するんだろうねえ。
蓋開けてみれば、理不尽な運命というより、登場人物の性格づけが理不尽に思えるんじゃないか?

簡単に言うと、女には不自由してないから、女友達としてキープしとこうという男と、その男に想いを残したまま、別に好きでもない身近な男と同棲してしまう女の話なのだ。

「男の側」だろうが「女の側」だろうが、どちらに立とうとしても、共感を持つことが難しい。
むしろよくこの二人を主人公にしてラブストーリーを語ろうと試みたもんだなと、そのチャレンジ精神を褒めたくなる。

監督は『17歳の肖像』の女性監督ロネ・シェルフィグ。あの映画と同様、最初は洗練されてるように映るが、誠実さが足りない男と、経験が乏しく垢抜けないヒロインが、どんどん美しくなっていくという流れが、この映画に見てとれる。
女と男の人生曲線が交差するように、明暗が分かれていく。こういう流れの映画を過去に見た。


1999年の『オネーギンの恋文』だ。

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19世紀ロシアの没落貴族オネーギンが、隠遁する村で、田舎娘のタチヤーナから、愛を綴った手紙を受け取る。
だが垢抜けない生娘に関心も湧かず、オネーギンはその愛を拒む。
タチヤーナの妹の婚約者だった地主のレンスキーは、心に深い痛手を負った彼女の名誉のためにと、オネーギンに決闘を申し出る。
望まぬ決闘の末、レンスキーを撃ち殺してしまったオネーギンは、その苦悩もあり、すべてを捨てて流浪の旅に出る。

6年後にペテルブルグで再会したタチヤーナは、オネーギンの従兄の妻となり、洗練された淑女に変貌を遂げていた。
彼女の芯にあった美しさに初めて気づかされたオネーギンは、愛と謝罪をこめた手紙をしたためるが、時すでに遅かった、という物語だった。
レイフ・ファインズがオネーギンを演じ、タチヤーナの膝にすがりつくように赦しを乞う場面は哀れだった。


この『ワン・デイ 23年のラブストーリー』は、アン・ハサウェイ演じるエマと、ジム・スタージェス演じるデクスターが、エジンバラの大学の卒業式で出会う、1988年の7月15日をスタートに、この二人の毎年7月15日の1日だけを追い続けて、2011年まで描いていく。

卒業式の後に初めて言葉を交わした二人は、すぐに意気投合、エマはデクスターをアパートに招き入れた。エマはイケメンのデクスターが自分を気に入ってもらえてると確信して、当然ベッドインと思い、彼を待たせて洗面所から下着姿で戻るが、デクスターは帰り支度を始めてた。
「僕らは友達のままでいよう」
二人は下着をつけたまま、ベッドで眠った。

デクスターは家も裕福で、女の子にもモテた。エマの思いには気づいてるが、多分彼女に対しては、肉体的な欲望よりも、別の親和感を抱いたのだろう。一緒にいて和めるとか、会話してて楽しいとか。

だけどエマは恋だと思って、受け入れる準備もできてたのに「友達として」なんて言われたら、女のプライドだってあるし、そのひと言は後々まで、尾を引くことになるのだ。

その後の数年、エマはロンドンに出て、作家を目指そうと一人暮らしをしてた。
中南米料理のレストランでバイトしてたが、日々に追われ、小説のペンも進まない。
パリで気ままに暮らしてたデクスターは、エマの元を訪れ
「君に自信をプレゼントするよ」と上から目線。


やがてデクスターは、テレビの音楽番組のMCとして人気を博すようになる。
90年代前半というと、音楽ドキュメンタリーの『リヴ・フォーエヴァー』でも題材にされてたが、いわゆる「ブリット・ポップ」全盛の時。
オアシスやブラー、パルプといった人気バンドが台頭し、その煌びやかさは、例えばパンク世代などからは辛辣な言葉を浴びせられるような、「チャラい」雰囲気もあったのだ。

まさにデクスターの軽薄なMCぶりは、その時代を皮肉ってもいるんだが、収録が終わればパーティ三昧、女にも事欠かないというデクスターが、なぜか電話する先はエマなのだ。

その頃エマは、レストランのバイト募集に来たコメディアン志望のイアンと距離を近づけていた。
教師の職に就いたエマは、浮ついた人生は歩まずに、小説も書き進めていた。
デクスターはガンを患った母親を見舞うが、享楽的な人生を歩む息子に、母親は厳しく言い放つ。

「真っ当に生きられないなら、もう会いに来なくていい」

そのデクスターの我が世の春は短かった。ブリット・ポップの沈滞とともに、MCの人気も下火となり、芸能誌にはその存在を叩かれるなど散々な目に。
デクスターは自分を見失う日々の中で、唯一エマの胸に安らぎを得ようとした。だがエマは

「あなたのことを心から愛してる。でももう好きじゃないの」と告げる。


エマはイアンと同棲生活を送ってたが、それは自分を偽ってるに過ぎないとわかってた。
2000年の7月15日、二人は友人の結婚式で再会した。
デクスターは別の女性と結婚し、もう子供も生まれていた。
ブルーのチャイナ・ドレスに身を包んだエマの美しさに、デクスターの心は揺れてるようだった。
華やかな業界とも縁はなくなり、慣れない子育ての日々に追われるデクスター。

2003年、エマはパリにいた。彼女の児童小説は出版され、晴れて作家となったのだ。
結婚生活が失敗に終わったデクスターは、パリのエマを訪ねに行った。
だがエマにはフランス人の彼氏がいた。
紹介すると言われたが、それを断り、デクスターは未練を断ち切るように、笑顔でエマの前から立ち去った。
川沿いをとぼとぼと歩くデクスターは、背後からかけられた声に振り向いた。


友人の結婚式での再会あたりから、アン・ハサウェイがどんどん奇麗になっていき、パリでの、ショートカットの彼女はもう最高なんである。

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このあたりの変貌っぷりは、監督の前作『17歳の肖像』のキャリー・マリガンを思い起こさせるものがある。

互いに行き違ってたというか、思いが重なるタイミングを、逸し続けてたエマとデクスターは、2004年にようやく結ばれることになる。もう40近くなってるわけだ。

昔、向田邦子原作のドラマの中で、
「若い頃、さんざ女遊びとかして女房を泣かせたような亭主ほど、歳を取ってから、女房思いのいい亭主に変わるもの」
みたいなセリフがあったと記憶してるんだが、この映画のデクスターも、若い頃は遊び呆けてたが、この歳になってエマと結ばれて、いい夫になるんじゃないか?と、
その後はまったりとした展開でもよかったと思うんだよ。


もう方々でネタばれしてるけど、やっぱりこの結末のつけ方だと、特に女性の観客にとっては、
「誰に肩入れして見てればよかったの?」ってことになっちゃうよな。

デクスターは、俺は男だから、その駄目な感じも肯定してしまいたくなる所はあるけど、女性は嫌かもなあ。
エマにしてもなんでイアンとくっつくかと。イアンは悪いヤツではないよ。
だが見ればわかるが、惚れるのは厳しいんじゃないか?歯茎出して笑いかけてくるし。
大体イアンが話してる時、エマは全然乗ってないのにねえ。

まあその物語の成り行きとは別に、いろんな所にロケーションしてるし、画的には見所多い。
エジンバラの町の中心からでも眺められる、「アーサーの腰掛け」と呼ばれる小高い丘があるんだが、あそこには行った事があるんで懐かしかった。


この映画で印象的なのは、画面のあちらこちらに「ブルー」が配されていることだ。
それはエマが泳ぐプールの色だったり、レストランの内壁の色だったり、デクスターのシャツの色や、若い頃のエマのデニムや、スカートの色、彼女のチャイナドレスや、パリで着てるドレスもブルーだった。デクスターの家にあったタイプライターの色に至るまで、そのブルーが必ず目に入る。

パンフレットも多分そのあたりを意識してか、ページのバックの色や、文字の色をブルーにしつらえてる。この色が映画の「基調」となってるのだ。

エマとデクスターはお互いを想い合ってはいるんだが、燃え上がる赤のような恋にならない。
だが心の芯になる部分には、種火のように、青い恋の炎が消えずに灯され続けてる。
このブルーの配色がとても目に心地よい。

2012年7月13日

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現役兵士が映画でデモンストレーション [映画ナ行]

『ネイビーシールズ』

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現役のSEALSの隊員たちが、実際にあったミッションを元に、自らを演じる劇映画という作りが、過去の「コンバット・アクション」にはないリアルさを感じさせたのか、全米興行1週目にNo1を記録してる。
たぶんミリタリー・マニアには細部にわたる見所があるんだろう。
俺は戦争映画は好きで見はするが、銃火器の知識はない。
なのでこの映画が、例えば『ブラックホーク・ダウン』と比べて、どの程度本物っぽいのかとか、その差異は全然わからなかった。

予告編でも使われてる、敵の見張りを音を立てずに片付けていく手並みなど「なるほど」と思うし、拉致されたCIAの女性エージェントを奪還する、一連のアクションはスピード感溢れて、援護に来たSOCRボートからの掃射に繋げてく見せ場には目を見張る。

だがアクションとアクションを繋ぐドラマ部分が、本職の俳優でないため、エモーションが足りない。
SEALSの隊員も、子を持つ親であり、愛する女性から身を案じられる存在であるという、そういう場面を演じてるが、それっぽい場面に仕上がってるというだけだ。

むしろ悪役となるテロリスト側はプロの俳優を起用してるので、演技にメリハリがついて、見応えがあるというのは皮肉なものだ。


女性エージェントを奪還した敵のアジトから、イスラム聖戦派のテロリストが、過去最大規模のテロを計画してるという証拠をつかむSEALSが、その阻止に命を張るというのが物語の流れだ。

テロリストたちが「開発」した爆弾が難物で、ジェル状になったクラスター爆弾の球体をつらねて、ベストとして身体に羽織れるようになってる。セラミック製なんで、金属探知機もすり抜けるのだ。
破壊力は半端ないもので、それを身につけた16人の自爆テロ犯が、アメリカの主要都市に向かうのだという。
さすがに空からでは、空港の厳しいチェックをくぐるのは難しい。狙われるのはメキシコ国境だ。

しかしSEALSはあくまで「チーム」として機能してるので、各自が役割に応じて粛々と任務をこなしてく。スタローンやチャック・ノリスのようなスタンドプレーはあり得ないんで、その分地味なのだ。
軍の教育用シミュレーション映像を見せられてる感じにもなる。
後半はちょっと飽きてきた。

高らかに「アメリカ万歳」を叫ぶ作りではないが、隊員同士の絆をサーフィンで描く場面などあり、
『地獄の黙示録』でキルゴア中佐が「朝に嗅ぐナパームの匂いは最高だ」と言いながら、サーフィンしに海に入ってく場面を思い出しもする。
それが任務とはいえ「人を殺しまくった後はサーフィンだよな」みたいにも映るぞ、俺みたいなひねた人間には。

今の剣呑な世界に、彼らのような兵士たちの存在が、それなりの役割を成していることはわかる。
男には肉体の頑強さを限界まで高めてみたいという欲求があることも確かだ。人によるけど。

そうして肉体のレスポンスを、常人と比べ物にならない位に高めた「兵士」という男たちが、それに加えて殺傷能力を求めうる限りにまで高めた様々な武器を、その身に携帯する。
そんな相手が、もし敵意を持って自分の前に立ってたら、どうしろというのだ?
「ひとたまりもない」というのはこの事だ。

「アメリカに敵だと思われなければ、そんな事態にはならない」と日本人は思ってるだろう。
逆に言えばアメリカの機嫌をそこね続けてると、どうなるかわからんぞという事だ。
だからといって、明らかに間尺に合わないことに追随させられるべきではない。

アメリカが屈強な兵士たちを必要とし、武器の性能を高めることに血道を上げるのは、自身を敵と思う存在が世界にいると思ってるからだ。
なぜ敵と思われてるのか?怒りや憎悪というものには、必ず理由がある。
その理由をとことん突き詰めていって、解決の道を探るというのが、知性の使い道であって、人の命を奪うためのテクノロジーに使うものではない。

だがいくら知性を背景に、対話を試みようとも、最終的には分かり合えない、そういうものが厳然とあると、認識してるとすれば、それは「宗教」の壁だろう。
キリスト教とイスラム教は決して相容れない。双方がそう思ってるのだとすれば、だが人類の知性とはなんのためにあるんだと思わざるを得ない。

「平和は結局武力によってしか守れない」
とするアメリカに、世界の平和を預けることはそもそも矛盾があるだろう。


先日ネットのニュース欄で、きゃりーぱみゅぱみゅがフランスで単独コンサートを開いて、フランスの女の子たちの声援を受けたと出てた。
俺はこう書いてるが、きゃりーぱみゅぱみゅという女の子の事はよく知らない。
顔は見たことあるが、彼女がどう若い子たちにウケてるのかとか、どんな歌を唄ってるのかとか。

知らないんだけど、日本人の女の子が、フランスでコンサートやって、ちゃんとお客集めて、熱狂的なファンも多いとすれば、それはなかなかにすごい事なんじゃないか?

アニメのコスプレ風の衣装がウケたりしてるらしいし、先日見た『アタック・ザ・ブロック』の中で、モーゼスが年下の子供たちに「お前らは帰ってナルトでも見てろ!」というセリフがあった。
日本のアニメとか「カワイイ」の文化は、アジアだけでなく、ヨーロッパにも広く浸透していってるようだ。

「オタク文化」「萌えアニメ」「コスプレ」そういったキーワードで括られるモノを、「いい大人たち」は、精神的に未熟とか、よくあんな格好で歩けるなとか、現実逃避の産物とか、ネガティブにしか捉えない。

だが日本の旧世代は、日本から発進した文化で、世界を虜にさせることなどできなかったのだ。
アニメのコスプレで街を練り歩く若い子たちの集団を見かけたとして、それが幼稚っぽいとか、いい年してすることじゃないとか思われたとしても、少なくとも「軍事パレード」のおぞましさに比べれば、なんぼかマシだろう。

きゃりーぱみゅぱみゅに代表される、日本のカワイイを発進する人たちは、
「私がカワイイと思うことは、キリスト教の国であれ、仏教の国であれ、イスラム教の国であれ、
世界中の女の子たちがカワイイと思うはず」
そんな意識があるんじゃないか?
カワイイに国も宗教の違いもないのであれば、その価値観の伝播の強さは馬鹿にできないと思う。


俺自身はアニメをほとんど見ないし、これからハマろうという気持ちもない。
だが日本の若い世代が、世界に向けて、他の大国が成し得ないメッセージを発信してく可能性には期待をかけたい。
日本という国は特定の宗教を持たないがゆえに、宗教の違いで、殺し合いにまで発展するような国民性とは無縁でいられてる。
発進するものに、宗教的な価値観やメッセージなど塗り込められてないから、受け入れられ易いのだ。

ロシアにおいても、若い世代に、日本のアニメ文化はかなり広まってきてるという。ロシアを束ねるプーチンは、周辺国との揉め事は武力でカタをつけようという思考の持ち主だ。
だがもう武力にものを言わせるのは「ダサい」んだよと、ロシアの若い人たちが声を上げるべきだろう。
若い世代が今までとちがう文化を肌で感じ、政権への違和感を膨らませていけば、ロシアに限らず「武力」の時代からの脱却に繋がっていく素因となるかもしれない。


『ネイビーシールズ』のコメントから随分遠くに来てしまったが、俺は以前このブログで
「洋画離れが起きてるらしい」というテーマで、その要因を自分なりに考えたわけだが、特にハリウッド映画の請求力の低下について、いくつか挙げてみた。
その時に挙げなかったが、実は一番はこれかなという事がある。

それは今の10代、20代の人たちには、アメリカ文化に対する憧れとか、コンプレックスがそもそも希薄なんじゃなかろうか?という事だ。

50過ぎの俺あたりの世代はまだアメリカ文化の影響を色濃く受けていて、アメリカ映画も好きだし、アメリカのロックも好きだ。だから今も相変わらずハリウッド映画の新作を見続けてるわけだ。

CMやファッション雑誌は金髪の白人美女が定番だったから、「美しい=金髪」みたいな価値観が植えつけられた。
だが近年CMもモデルも「国産」の美女で占められてるし、映画雑誌も、日本やアジアのスターが紙面を飾ってる。これは実は戦後以来の、大変な価値観の転換が起こってるということなのだ。

世界的に見れば、まだアメリカ映画に代表される、アメリカ文化が強い影響力を誇ってる国は多い。
だがこの日本においては、その状況からの脱却が進んでるように思える。
近年、海外留学を希望する学生の減少が顕著だと言われるが、それは若い世代の「内向き志向」とともに、アメリカという国に、それほど魅力を感じなくなってるということも、理由にあると思う。

アメリカにおける「カワイイ」とは、すなわち「ディズニー」だ。
その世界を構築するプロフェッショナルな運営において、未だに「ディズニーランド」は、アトラクションの場として確固たる地位を築いてはいる。
だが逆に「ディズニー」以降、それに代わるような「カワイイ」をアメリカ文化は生み出し得ていない。

全般において、アメリカ文化の求心力が低下してきてる現在、「カワイイ」をその端緒にして、日本が経済でも、ましてや軍事でもなく「文化」で、世界的なイニシアチブを取っていけるような未来を目指せるといい。

2012年7月12日

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いや2回は死んでるだろ不死身の逃走犯 [映画ハ行]

『プレイ 獲物』

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先の「フランス映画祭」で上映された『スリープレス・ナイト』もそうだが、とにかくテンションの高い演出を、ノンストップで保ち続けるという、新時代のフレンチ・アクションが隆盛となり始めてる。

『すべて彼女のために』『この愛のために撃て』と、この『プレイ 獲物』など、それらに共通するのが、それまで日本では馴染みのなかった役者たちが主演してる点だ。
それほど若くはない、イケメンでもない男たちが、「大切なもの」を守るために、なりふり構わず突っ走る。そこに親近感も覚えるし、またフランス映画界の意外な層の厚さも思い知るのだ。

この映画の主役を演じるアルベール・デュポンテルも、日本で知られてはいないが、俺はたまたま彼の主演作を以前、劇場で見ていた。非常に濃い顔をしてるんで目に焼きついてた。

2003年の『ブルー・レクイエム』がそれで、2年後に、今はない渋谷マークシティの裏にあったミニシアターで封切られてた。
現金輸送車を襲う武装グループの襲撃場面に巻き込まれ、幼い息子の命を失った男が、復讐を誓う。
男は武装グループがまた襲撃を行うと予想し、自ら警備会社に入り、接触の時を待つというドラマで、男の執念が命知らずな行動へとエスカレートしてく様が、キリキリと締め付けるような緊迫感の中に描かれていた。

この『プレイ 獲物』でも、アルベール・デュポンテル演じる囚人は、愛する妻と、幼い娘に危険が迫ってることを知り、大胆な手段で脱獄を試みる。


銀行強盗犯として服役中のフランクは、刑務所の中で気を抜くことができない。
逮捕前にフランクは奪った大金を「ある場所」に隠しており、元の仲間たちは、看守を買収して、フランクにえげつない脅しを始終かけてくる。
唯一気を休めることができるのは、愛する妻アンナが面会に来てくれる時間だけだ。

同室のモレルはおとなしい男で、未成年への性的暴行の罪で服役してたが、本人は冤罪を主張してた。
だが刑務所内ではモレルは小児性愛者と目され、囚人たちからも侮蔑されていた。

ある晩、ロシア人の囚人たちが、フランクの房に入ってきた。自動ロックは買収された看守によって解除されたのだ。「お前は出てろ」と言われ、フランクは廊下に出される。
ロシア人たちは、モレルを獲物とするつもりだった。
しばらく悲鳴を聞いていたフランクは、思わず止めに入り、房内で乱闘となる。

騒ぎを起こしたことで、フランクの刑期は半年延長されてしまう。
面会に来たアンナは、もう生活費が厳しくなってると言い
「あのお金の隠し場所を教えて」とせがむ。
フランクは妻にさえ教えてなかったのだ。だがその妻の言葉にも、フランクは頷かなかった。

刑務所での演奏の慰問の時間に、フランクは突然後ろの席から羽交い絞めにされ、ケータイの画面を見せられる。妻と5才の娘アメリが外を歩いてる写真だった。
耳の穴にはアイスピックを突きつけられ「金のありかを言え」と。
フランクは偽の在り処を教え、なんとかその場を切り抜けるが、耳からは出血し、平衡感覚を一時的に失ったフランクはその場で意識を失う。

意識が戻ったのは4日後。刑務所の病室のベッドの傍らには、なぜか同室のモレルがいた。
「相手が証言を翻して、無実が認められた。もう釈放になるんだ」と言う。
フランクを襲った囚人たちは1週間独房に入れられてると言う。
出てきたら嘘がバレる。妻と娘の身が危ない。
「僕でよければ力になるよ」
と言うモレルに、フランクは妻への伝言を託した。
「身を隠す場所を探せ」
「父さんを頼れ」という伝言だった。

それはモレルに妻子の居所を教えるということだった。
看守まで買収されてるこの刑務所で、信用するに足りるのはモレル以外思いあたらなかった。


その日以降、妻子の安否を気にかけながら、残りの刑期を全うしようとするフランクに、見知らぬ男が面会にやってきた。憲兵隊に所属するマニュエルという男だった。

釈放されたモレルについて、知ってることを訊きたいと言う。
「冤罪で釈放されたんだろ?」
だがマニュエルは、少女連続殺害事件の容疑者として、モレルを探っていた。
逮捕時の尋問の受け答えや表情から、「こいつだ」と直感してたのだ。
だがモレルは狡猾で、役所勤めも真面目にこなし、妻もいる。
決定的な証拠がつかめないでいると言う。
「一番信用してはならない人間を信用してしまったのか?」

フランクの不安は事実となり、刑務所内から自宅に電話しても繋がらない。
5才の娘アメリは失語症で声を上げられないのだ。

そして追い討ちのように、独房から出てきた元の仲間たちに、作業時間終わりに囲まれてしまう。
看守はひとりニヤニヤと笑うばかりだ。すぐさま3対1の乱闘が始まった。
だがフランクは男たちの予想を上回るタフさで向かってきた。死闘の末、3人を倒したフランクは看守に近づいた。

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ここで図らずも脱獄を決行するんだが、いわば「レクター方式」というヤツで、これは『羊たちの沈黙』を見てれば察しはつくだろう。

この後は撮影当時46才の中年アルベール・デュポンテルが、逃げて逃げて逃げまくる。
と同時に妻子の行方の鍵を握ってるモレルの居場所を見つけ出さなければならない。
フランクが大金の隠し場所を訪れ、そこで見る衝撃の光景。

モレルの足跡を辿ると、そこには失踪した少女の死体が。フランクはそのことには気づかずに、自分の痕跡を現場に残してしまうことで、警察からは脱獄犯としてだけでなく、連続少女殺人犯という、モレルの罪も被る状況に追いやられる。

だが一度はフランクを追い詰めながら、取り逃がした敏腕の女刑事クレールは、
「ああまで必死に逃げるのには、なにか訳があるはず」と思い始める。


赤毛の少女に異常な執着を抱くモレルの、残忍な行いは被害者の写真や遺体などで描写されるが、モレルには妻のクリスティーヌがいて、実は彼女が夫の異常な欲望の手助けをしてるのだ。

彼女自身には異常性はないのだが、たぶん夫の愛を繋ぎとめるため、あるいは夫の行為を正当化する、洗脳めいた言いくるめられ方をされてるんだろう。
獲物を見つけると、まずクリスティーヌに声をかけさせて、警戒感を抱かせないようにしてるのだ。

16才の赤毛の少女が毒牙にかけられる場面があるが、それまで写真や遺体で、モレルの異常性は表現されてたんだから、どうやって網をかけるのかという実践ぶりを見せるにしても、あの末路の描き方は嫌な気分にさせる。

この映画の本筋は、フランクがいかに「逃げながら取り戻す」かということなんで、あの赤毛の少女のことが頭に残ってしまい、アクションとしての痛快さに水を差す。


『スリープレス・ナイト』の監督も、近年の韓国映画からの影響を述べてたが、この映画も例えば
『チェイサー』の、生き延びたと思えた女性が、思わぬ場所で犯人と鉢合わせし、殺されるという
「そこまでせんでも」的な描写に倣ってるようで、そこは真似しないでもいいんだよと言いたくなってしまう。

フランクの逃げっぷりは手に汗握るという表現そのままで、走る列車の屋根に飛び移るというスタントは、今までにもよく見かけたが、この映画はその後まで描いてる。
フランクはズボンのベルトを外して、列車の屋根の柵に括りつけ、それを命綱に客車の窓まで降りて行き、唖然とする乗客の前で窓を割り、窓の脇にある「非常停止レバー」を引いて、列車を止め、地面に飛び降り、逃げ去ってく。この一連の動作が理詰めに考えられていて感心したよ。

アクション演出自体はいいんだが、音楽がうるさ過ぎるね。ここぞという時にだけ鳴らせばいいんだよ。この辺はハリウッド製の悪しき真似だろう。

フランクが逃げる間にどんどん不死身になってくのはちょっと笑えるし。
少なくとも2回は死んでると思うんだがな。
アメリを演じる女の子はまあ、お人形さんのようだったね。

2012年7月11日

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娘を持つ父親の涙腺直撃しそう [映画サ行]

『スープ~生まれ変わりの物語~』

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生瀬勝久が堂々主演という、本人には悪いが、これから先あるかどうかわからないという事もあり、『三宅・生瀬のワークパラダイス』が大好きで、DVDでもう何度も見直してるという生瀬ファンでもある俺は、見に行かねばと思った次第。
しかしこの映画では『トリック』の時のようなボケは一切なしだ。


生瀬勝久が演じるのは、インテリア・デザインの会社に勤める渋谷健一、50才。
妻とは離婚し、15才の誕生日を間近に控える娘の美加を引き取ってるが、思春期の娘は親の離婚に傷つき、父親ともまともに口を聞こうとしない。

健一は離婚後は覇気も失い、デザインの仕事の契約もほとんど取れず、同僚たちは「ゾンビ」と陰で呼んでる。健一の得意先の仕事も、上司の綾瀬由美が引き継ぐことになり、二人は得意先への挨拶をかね、一緒に出張させられることに。

「何でそういつも暗い顔してるの?」と、由美は覇気のない健一を露骨に嫌う。
健一が娘とこじれたままの関係に悩んでると聞き、
「誕生日には花でも贈れば?」とアドバイス。

誕生日の当日、花屋で15本のバラの花を包んでもらってると、ケータイが鳴る。
学校をサボッた美加は、友達の少女とブティックで万引きして、店長に捕まったとの連絡が。
娘の代わりに平謝りに謝った健一は、なんとか警察沙汰にならずに済ませた。

「欲しい服があるなら、父さんに言えばいいだろう」
「こんな時だけ恰好つけないでよ。お母さんに逃げられたくせに!」
そのひと言に、思わず娘の頬を打った。

出張の朝も、美加とは顔を合わすこともなく、娘の部屋の前に、バラの花を置いて、健一は家を出た。
出張先で、娘に手を上げたこと、そのことで自己嫌悪に陥る健一を、由美はますます蔑んで見る。
険悪なムードの二人が、横断歩道で信号待ちをしてるその時、落雷が二人を直撃した。


目覚めるとあたりは夜の闇に包まれていた。場所も交差点なんだが、なにか違和感がある。二人は
「なんか変だよね」と辿り着いた先は、なにかのホールのような建物だった。

「状況が呑みこめない方のために、オリエンテーリングを行いますんで」
と言われ、映画館のような客席に座る。健一と由美のほかにも数人がいる。

「みなさんは死にました。ここは生まれ変わるまでの、一時的な場所と理解してください」
だがどの位の期間で生まれ変わることができるのか、それはわからないと言われる。
由美はショックを受けるでもなく、さばさばとしていた。
「だってどうせ生まれ変わるんでしょ?」
「私はね、過去なんかどーでもいいの。先のことしか考えないで生きてくんだから」
一方健一は、娘と和解することもできずに、死んでしまったことを、ウジウジと悔やむばかりだった。

この「死者の緩衝地帯」は、緑に覆われ、どこまで続いてるのか、見当もつかない広大さだった。
健一と由美はこの緑の野を探索する途上で、以前健一の得意先の社長だった石田とばったり会う。
石田は5年前に病死して、以来ここで過ごしてるという。
すっかり馴染んで、「あの世」の生活をエンジョイしてる風情だった。
居酒屋もあれば、死者たちが踊りまくるクラブもある。
由美はさっそく石田と意気投合するが、健一は暗いまんまだ。

石田はそんな健一に、
「この緑の野のずっと先に、死者にスープをふるまう水辺がある」
「そのスープを飲めば生まれ変われるらしい」と話す。
だが生まれ変わるのは、赤の他人で、しかも前世の記憶は失うという。

石田はこの死者たちの世界に、小さな頃に死に別れた母親がまだいるかも知れないと、探してるという。その道すがら、スープ飲み場まで案内してもいいと請け負う。
由美は生まれ変わる気満々だった。
だが健一は、生まれ変わっても、娘との記憶が失われてるんでは意味がないと思った。
旅の途中でふらりと立ち寄った食堂の、カウンターに立ってたのは、石田の母親だった。
死んだ時のままだから、65才の石田よりずっと年下だったが。

母親との再会を喜ぶ石田に別れを告げ、健一と由美は、旅を続ける。そこで出会った少女から
「スープを飲まずに生まれ変わる方法を知ってるオヤジがいる」
と聞かされ、会いに行く。
頑として教えるそぶりのないオヤジだったが、健一は食い下がる。
そしてついにその秘策を伝授され、健一は実行に移した。

健一の身体は、「あの世」から消え去り、時が経って、高校の教室には、口数の少ない、直行という名の男子生徒の姿があった。


この映画はファンタジーものによくある「生まれ変わりネタ」であるとともに、「花嫁の父」ものでもある。
あの世の旅を通じて、少しずつ心を通わせるようになってきた由美に、健一が離婚の経緯を話す。

娘には言ってないが、離婚は妻が男を作ったことが原因にあった。
だが離婚となれば、娘が傷つくことはわかってたので、平静を装って夫婦生活を続けてきたと。
自分の感情を殺して日々を過ごすうちに、会社でもどこでも表情のない人間になってしまったんだと。

だが娘のことを思ってというのは言い訳で、本当は自分の方が娘を必要としてたんだと気づいてた。
この「死者の世界」でのびのびと振舞う石田たちを見ながら、健一も、自分を見つめ直すようになっていた。


父親が娘を思う気持ちというのが、映画の根底にずっと流れているんで、健一が生まれ変わって以降の、それまでのキャスティングが一新され、若い役者たちによるドラマに移っても、映画そのものが寸断された感じは受けない。

実のところ、尺的には生瀬勝久や小西真奈美、松方弘樹といった熟練の大人たちが演じる「あの世」の部分がずっと長いにも関わらず、キャストが変わって、高校生たちの話に移ってからの方が、何か画面も弾んでくるのだから皮肉だ。

「あの世」のエピソード部分に挿入される形で、父親を亡くした美加の日常が描写される。
美加は母親のもとに移るが、そこには離婚原因となった、母親の浮気相手が同居していて、その男から、つきあい始めたのが、まだ両親の離婚前だと聞かされ、美加は両親が別れた真相を悟る。

母親を問い詰めても答えは返ってこない。
厄介払いのように、全寮制の女子校に入れられ、美加は荒れていく。

父親の墓に花を手向けることだけは欠かさない美加は、父親が自分の誕生日にバラを買った、その同じ花屋で偶然にも、花を買い続けてきたのだ。

そしてある日、花屋に顔を何箇所も腫らした美加が訪ねてくる。
いつも花を包んでくれる女性店長の前で、無言で涙を流してる。美加は絞り出すように
「ここで働かせてください」と言うのだ。


美加を演じる刈谷友衣子は初めて見るが、この花屋の場面の、心情を溢れさせるような演技は、見てる方も胸を詰まらせるものがあった。
彼女はベテランの役者たちが揃う、この映画において、じつは最もその成否の鍵を握る存在だった。
俺は子を持つ親ではないが、これは娘を持つお父さんはハンカチ必携だろう。

2012年7月10日

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「MIB」の裏テーマをこじつけてみる [映画マ行]

『メン・イン・ブラック3』

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2作目から10年ぶりに復活したシリーズ第3作のポスターのキー・アートが象徴的だ。
白人スターのトミー・リー・ジョーンズと、彼の若き日を演じるジョシュ・ブローリンを両脇に従えて、デンッと真ん中にウィル・スミス。
『MIB』はもはや『メン・イン・ブラック』の略称ではなく、『メイン・ブラック』、つまり
「メインはウィル・スミス」と宣言してるのだ。

もともと第1作の当初から、題名を「メイン・ブラック」と聞き違えてた人はけっこう居たらしい。
ネイティヴな発音で聞くと「メニンブラック」と聞こえ、俺はストラングラーズのアルバムを思い出したりしてたのだ。あれはよく聴いてたんで。

でもって『MIB』シリーズとストラングラーズのアルバムは、何の関係もないかというと、そんなことはなく、あのアルバムにはUFOをテーマにした曲もあり、「メニンブラック」という名の謎のキャラクターが出てくるんだが、その名前は、『MIB』で描かれた「黒服の男たち」の呼び名のもじりなのだ。ちなみにそのアルバムは1981年に発表されてる。


10年ぶりにエージェント・Jと、エージェント・Kのコンビの活躍を復活させるといっても、トミー・リー・ジョーンズはもう65才だ。アクションも辛くなってきてる。
そこでエージェント・Kを若返らせようとなった。しかし代役を立てるのは難しい。
二人の役者のコンビがしっかり定着してしまってる。
ではエージェント・Kの若き日を舞台にしよう。
そうすればトミー・リーの出番は少なくて済ませられる。

ウィル・スミスはどうする?タイムスリップさせて、若い時分のKに会わせるのだ。
そんな感じでアイデアがまとまったんだろうね。


月面にある重犯罪エイリアンを収容する刑務所から、ボグロダイド星の囚人ボリスが脱走し、地球に向かった。自分を捕らえて、40年間も檻の中に入れたエージェント・Kに復讐し、地球の運命を変えるために。
いつものようにエイリアン発見の通報を受け、現場に向かったJとKは、そこでボリスと出会う。
ボリスはKに向かい「お前は過去で死ぬ」と言い残し姿を消した。

1969年7月16日、フロリダの「ケープカナベラル空軍基地」が、その運命の場所だった。
若き日のエージェント・Kは、その「場所」でボリスを逮捕し、ボグロダイド星による地球侵略の企てを阻止してたのだ。
そのボリスが40年後のニューヨークにやって来たのは、禁じられてる「タイムスリップ」の前科を持つエイリアンの「雑貨屋」と接触して、タイムスリップ用のガジェットを手に入れるためだった。
そして1969年に戻って、Kを殺そうというのだ。

Jがボリスの企みに気づいた時は、すでに歴史が変えられた後だった。
バッテリー・パークの『MIB』本部に、Kの姿がないばかりか、自分の相棒も見ず知らずの奴に代わってる。
新任の上司エージェント・Oは「Kは40年前に死んでるのよ」などと話す。
「歴史が書き換えられてる」
Jは鍵を握る1969年7月へのタイムスリップに挑む覚悟を決めた。

この後の展開は、最近のハリウッド映画の流行りでもある、時代のカルチャー・ギャップ描写と、トミー・リー・ジョーンズの口調の癖を完璧に掴んだ、ジョシュ・ブローリンの芸達者ぶりで楽しませる。
タイムスリップの結末には、ジェームズの頭文字で「エージェント・J」と思われてた、その真の秘密も明かされる。


こっからは俺の妄想みたいな解釈なんだが、時代を「1969年」に設定してることに意味合いが潜んでると思う。
この映画で描かれるのは、アポロ11号の打ち上げと、ニューヨークに溢れるヒッピーたちだ。
1969年は史上最大のロックの祭典「ウッドストック」がニューヨーク近郊の小さな町で開催された年でもある。

アポロ11号は人類史上初めて「月」という、惑星に降り立つというミッションを成功させた。
一方若者たちの間では「ドラッグ」文化が一気に蔓延した。
地球の外にある場所に到達する「トリップ」と、精神世界の涯てをドラッグによって目指すような「トリップ」と、まったくベクトルの異なる「旅」によって象徴される年なのだ。

『MIB』の志向するSFのスタイルというのは、奇妙なモンスター星人が登場する1950年代から60年代前半にかけての、低予算SFの世界観を、大がかりに描き直してみようという所にあると思ってる。

SFという分野はその時代には「空想科学」と呼ばれていたが、アポロ11号が別の惑星に降り立つという事をなし得て、もはや「空想科学」の無邪気さは影を潜め、「実践科学」の領域に入ってしまった。
1969年を境に、もう突拍子もない形状の宇宙生物を楽しんでもらえるような、そんな雰囲気ではなくなったのだ。


『MIB』シリーズに出てくるエイリアンたちの形状は、ユーモラスなものもいるが、おしなべてグロテスクで、虫や爬虫類や甲殻類を思わせる。
なんでなのかと前から疑問なのだ。人類よりよっぽど早くから、惑星間飛行を成し遂げているような、洗練された文明を有した星の住人が、なぜ姿形は洗練されてないのかと。

ドラッグ中毒の禁断症状でよく言われるのが
「無数の虫が体を這い回ってる」とか、
「ヘビが床をうねってる」とかいうもの。

気色悪いエイリアンがぞろぞろ出てくる『MIB』の世界とは、実は禁断症状で見た幻覚の世界で、つまりこの映画はドラッグの禁断症状と戦う男が生み出したSF世界なのだ。


今回の映画で、書き換えられた現在の場面の中で、なぜかみんなチョコレート・ミルクを好んで飲んでるという描写がある。理由は映画では説明がなかった。

これもね、昔キース・リチャーズが、ドラッグを常習してた頃に、食べ物といえば、アイスクリーム以外は口にしなかったというエピソードを読んだことがあって、つまりは中毒患者は甘い物を欲するってことなんだと、強引にこじつけてみた。

今回ウィル・スミス演じる「J」が、タイムスリップするのに、クライスラー・タワー(だったかな?)のてっぺん辺りから飛び降りるって設定になってるけど、夢の定義の中で「飛び降りる夢」というのは、現在の自分に不安があるとか、自分の足元が定まらない感覚を反映してるなんて言われてる。

『MIB』シリーズにおいて、「エージェント・J」すなわちジェームズ・エドワーズの、家族や過去に関わる描写はなかった。エージェント・Jの潜在意識の中では、常に自分は何者なのか?という不安とのせめぎ合いが起こってた。
それが歴史が書き換えられたことで、自分と数少ない繋がりを持った存在のKも居なくなり、いよいよ不安が表面化したのだ。

タイムスリップのために飛び降りるというよりも、Jはすでに飛び降りる夢としてそれを見ていた。
そして映画の結末において、自分が何者であったかを悟り、ようやく魂の平穏を得るに至る。
そういう筋書きだったのだ。

それはドラッグの禁断症状に打ち勝ち、正気の自分を取り戻した証なのだ。
だからもうグロテスクなエイリアンたちは出てこないだろう。
このシリーズもこれで打ち止めだ。

2012年7月9日

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順ぐりに復讐してくというシステム [映画ハ行]

『ハングリー・ラビット』

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ニューオリンズの高校で教鞭をとる国語教師の、美しい妻が、暴行魔に襲われ、ひどい怪我を負って病院へ担ぎこまれる。駆けつけた国語教師は、病院ロビーで見知らぬ男に声をかけられる。
犯人は特定されていて、我々が制裁を加えることができるという。
報酬は必要ないが、後で簡単な仕事をしてもらうことになる。
男を怪しんだ国語教師は申し出を断るが、男は連絡先を書いたメモを置いて立ち去る。


犯罪被害者による「復讐劇」は過去に多い。犯罪被害者の家族による「報復劇」となると、少し絞られてくる。一番名の通ってる所では、チャールズ・ブロンソンの『狼よさらば』だろう。
ジョディ・フォスターの『ブレイヴ・ワン』はその女性版の趣だった。

両作品とも、警察の対応に都合のいい部分があり、「復讐」のカタルシスを感じさせるような作りだったが、2001年の『イン・ザ・ベッドルーム』はもう少しリアルだった。

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メイン州の小さな町で開業医を営む中年夫婦。その実家に帰省中の大学生の息子が、隣の家の人妻と恋に落ちる。夫のDV男とは別居中だが、復縁を迫って押しかけてきた夫と諍いになり、開業医夫婦の息子は銃で射殺される。
だが裁判で殺意は認定されず、刑期は僅か5年に。しかも保釈まで認められてる。
息子を失ったことで夫婦の間にも軋みが生じ、苦悶の日々の末に、開業医は決断を下す。

トム・ウィルキンソンとシシー・スペイセクが演じてるから、「活劇」のカタルシスは生まれようがない。そうなることを慎重に排除しながら、このテーマに挑んだ映画だったのだ。
ちなみに隣の人妻を演じたマリサ・トメイの、熟れた色気たるや必殺級で、そりゃ大学生などイチコロだろうという説得力に溢れてた。
開業医の夫婦も彼女のことを受け入れて、一緒に食事を楽しむ間柄だっただけに、悲劇の度合いも深いのだ。


犯罪被害者の復讐に「第三者」が介在してくる、この『ハングリー・ラビット』のようなケースは過去に2本思いつく。
1983年のピーター・ハイアムズ監督の秀作『密殺集団』では、マイケル・ダグラス演じる判事は、犯罪犠牲者の身内というわけではない。

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だが明らかに凶悪犯罪の犯人と思われる被告が、警察の捜査手順の不備などを突かれて、州法に照らし合わせると無罪にせざるを得ない、「法の矛盾」に苦悩してる。
その主人公が古参の判事から「私設法廷」の存在を明かされる。9人の現役判事で構成されてるが、一人の高裁判事が自殺したため、席が空いてるという。

「私設法廷」の目的は、犯人が不当に無罪となった事件を再審理して、「有罪」と認めれば、刑の執行を「プロ」に依頼するというものだった。


1996年の『レイジング・ブレット 復讐の銃弾』は、全米興行ではトップ10入りしたが、日本ではこの題名でビデオスルーとなった、サリー・フィールド主演作。

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娘の誕生日の準備で買い物に出た母親が、留守宅の娘に電話すると、受話器の向こうでドアの呼び鈴が鳴る。娘が出たところを男に襲われ、電話の向こうで叫び声が聞こえる。
だが家までは遠く駆けつけることもできない。娘は暴行され殺された。

近所に住む犯人はすぐに逮捕されたが、検察の捜査に誤りがあったと、裁判ではあっさり不問に処される。担当した刑事は母親の心痛を察し、「犯罪被害者の家族の集まり」を紹介する。
夫とともにその集まりを訪れると、メンバーの中年男性から、「犯人に復讐する手段」があると聞かされる。意志があるなら手助けできるというのだ。

母親は恐ろしくなり、一旦は距離を置くが、自分の娘を殺した男は、法廷で互いに顔を見ており、その男は極悪にも、母親の前夫との間にもうけた娘にも接触してきた。
母親は「復讐する手段」を行使する覚悟を決める。

キーファー・サザーランドの鬼畜っぷりが堂に入ってた。エド・ハリスはほとんど役に立たん。
80年代以降は娯楽映画の職人という割り切った仕事ぶりだったジョン・シュレシンジャー監督作で、キャストも多彩なんだが、未公開に終わったのは、どこかしら底の浅さが否めないからでもあった。

このニコラス・ケイジの新作は『レイジング・ブレット 復讐の銃弾』の設定に一番近いかな。



ニコラス・ケイジ演じる国語教師ウィルは、暴力とは無縁の気の優しい男だ。だが病院のベッドに包帯だらけで横たわる妻の姿に、憤怒の念が湧き上がる。
ロビーで声をかけてきたのは、サイモンと名乗る男だった。
この「制裁」を加える組織のやり方は周到だった。
まず組織の人間が直接「制裁」を加えることはしない。犯罪被害者の身内に実行させるのだ。
だが当事者が犯人に手を下せば、すぐに警察に辿られてしまう。

そこで「見ず知らずの相手」に制裁を加えさせるのだ。つまり犯罪被害者の身内は何人もいる。
その一人の依頼を叶えてやる代わりに、今度はその身内に、別の事件の犯人への制裁を行わせる。
それを数珠繋ぎのように行っていけば、殺された犯人と、犯罪被害者の身内との接点は見出せなくなる。ヒッチコックの『見知らぬ乗客』の「交換殺人」の応用編だね。

迷った末に、サイモンからの申し出を受けたウィルの元に、射殺された暴行魔の写真と、ネックレスが入った封筒が届いた。
犯人が妻を襲った時に持ち去った、妻のネックレスに間違いなかった。
自分がプレゼントに贈ったばかりの物だったからだ。
ウィルは妻の復讐を遂げたという満足感などなく、サイモンの組織の底知れなさに恐怖を感じた。
だがもう引き返すことはできない。


事件からしばらく経って、妻のローラの傷も癒え始め、ウィルは改めて夫婦の絆が深まったように感じていた。ローラには、あの犯人は自殺したと告げていた。
サイモンのことも気に留めなくなっていた矢先に、「軽い仕事」の指示がきた。

小児性愛者が動物園に現れるから監視して報告しろという。渡された写真の男は、家族連れで動物園に現れ、特に不審な所もない。
だがその姿を監視してるウィル自身が、何者かにビデオカメラで撮影されていた。

サイモンに仕事は果たしたと告げると、今度は「その男を事故に見せかけて殺せ」と言う。
できるはずがない。
だがサイモンは小児性愛者による犠牲者の痛ましさを語り、制裁の正当性を説いた。
指令を拒否すると、サイモンの組織はウィルの自宅や、高校の教室の黒板にまでメッセージを残していった。
警察に話すこともできない。ウィル自身だけでなく、妻の身にも危険を感じ、指令を受けざるを得ない状況に追い詰められた。

小児性愛者の通勤ルートとなるバスの停留所で、実行に及べ。
ウィルはその言葉通りに、バスで男と乗り合わせた。だが実行前に本人と話をすべきと、停留所を下りて声をかけると、なぜか男は襲いかかってくる。
揉み合いとなり、男はバランスを崩して、歩道橋から道路へと落下して死んだ。
ウィルはその場を逃げ出すが、その周辺には監視カメラが備えてあった。


テレビのニュースで転落死の事故を告げてたが、死亡したのはジャーナリストだという。
サイモンの言った「小児性愛者」というのは事実なのか?

そもそもあの事件の晩に、なぜサイモンはあれほど早くウィルの前に現れたのか?
疑いは深まるばかりだが、いまやウィルは転落事故の重要参考人として、警察に追われる身にもなってしまっていた。


「闇の制裁組織」という設定に留まらずに、その正義の暴走に、犯罪被害の当事者が翻弄される展開が、サイコロの目のように局面を変えながら描かれていく。
この組織の手が非常に広範囲に広がってるという、その結末に至るまでの不気味さは、例えば
1970年代の『パララックス・ビュー』の組織の描写なんかに繋がってる感じがある。

サイモンを演じるガイ・ピアースは今回スキンヘッドということもあり、なにか近年のエド・ハリスに通じる「黒幕」路線のキャラでいけそうな雰囲気だ。
ニューオリンズ市警の警部補を演じるのは「アメリカの伊武雅刀」と俺が呼んでるザンダー・バークレイ。腹の底の読めないキャラを演じさせると絶妙だ。

妻のローラを演じるのはジャニュアリー・ジョーンズ。
『アンノウン』の時はミステリアスな妻の役だったが、今回は傷が回復するとともに、自衛のために射撃を習い、銃を所持するという、芯は強い女性を演じてる。
彼女はかなりの美人なんだが、それを押し出さない「さり気なさ」を持ってるのがいい。

ロジャー・ドナルドソン監督のベテランらしい、テンポを壊さない演出ぶりで、さくさく見れる。
中盤のウィルが警察に追われて、ハイウェイを横切る場面は、スタントも迫力がある。
急ブレーキかけてドリフトしてくるトラックの直前を走り抜ける所なんか、見てて腰が浮きそうだった。

あとこれはどうでもいいことなんだが、つい気づいたんで。
ロジャー・ドナルドソン監督はオーストラリア出身なんだが、ニコラス・ケイジは「オセアニア」出身の監督たちとよく組んでるのだ。
『ノウイング』のアレックス・プロヤス監督は生まれはエジプトだが、オーストラリア映画界でキャリアをスタートさせた。
『NEXT/ネクスト』のリー・タマホリ監督と、『ロード・オブ・ウォー』のアンドリュー・ニコル監督はニュージーランド出身。
オセアニア人の気質とウマが合うというようなことがあるんだろうか?

2012年7月8日

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伝説のガーリー・ムービー4時間半を見る [映画ハ行]

『花を摘む少女と虫を殺す少女』

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矢崎仁司監督の1990年作で、新作の中篇『1+1=11』が公開中の新宿「K'S CINEMA」にて、1週間限定で上映された。
ロンドンにロケした4時間37分に及ぶ大長編で、今まで上映の機会も少なく、ビデオ・DVD化もなされてない。
「伝説のガーリー・ムービー」としてカルト化してる映画なので、きっと混むだろうと、早めに入場整理券をとりに劇場に行ったんだが、拍子抜けするほど客は少なかった。

矢崎監督の1980年のデビュー作『風たちの午後』を、俺は当時どこかの自主上映の場で見た。
見ようと思ったのは「レズビアン」を題材にしてたからだ。
矢崎監督と長崎俊一監督が共同で書いた脚本は、都内のアパートで孤独に餓死したという、若い女性の記事をもとにしてた。

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美容師の美津は、アパートに同居するルームメイトの保育士・夏子を好きになってしまうが、女性同士なんで言い出すべくもない。
夏子には彼氏がいたが、美津はその彼氏を誘惑して、子供を妊娠してしまう。

それは彼氏を夏子から遠ざける意味もあったが、夏子を抱く男と肉体を交わすことで、間接的に夏子と結ばれ、彼女の子を宿したという、妄執としか言えないような心理もあった。
だがその行為は夏子を立ち去らせることになり、ひとり残された美津は、生きる気力を失う。

映画の中で、夏子の留守中に、彼女の出した生ゴミを床にぶちまけて、その上に寝転がってゴミをまさぐりながら、美津が陶然とする場面がある。
当時「ストーカー」という表現はなかったが、まさにその心理を描写した、ドン引きするほどに鮮やかな場面だった。

この「生ゴミ」というのも、人間が咀嚼した後のものという意味で、「排泄物」と捉えられるが、「排泄」は矢崎監督のモチーフになってるようだ。
この『花を摘む少女と虫を殺す少女』の「花を摘む」ヒロインとなる、ドイツ人ベロニカは、知人に勧められたと、毎朝トイレで排尿すると、それをペットボトルに入れて飲んでる。
「飲尿健康法」を実践してるのだ。


ベロニカは、ロンドンのバレエ団で『ジゼル』のヒロインに抜擢されたダンサーだ。ドイツから出てきて、まだ日が浅いようで、英会話学校に通ってる。
俺はドイツ人て英語も普通にしゃべれそうなイメージだったが、そうでもないんだな。

この映画は三角関係に至る男女の姿を、『ジゼル』をモチーフに描いていて、ベロニカも心臓が弱いというか、身体が弱そうな描写がある。朝なかなかベッドから起きられないとか、バレエのコーチが彼女の誕生日を手料理で祝うんだが、その彼の家の食卓で、食べた物をもどしてしまったりしてる。

ベロニカは生活費を稼ぐため、「スイス・コテージ・ホテル」という、小じんまりとしたホテルで、客室の清掃係のバイトをしてる。

その日もある部屋の清掃に入ったが、新しい宿泊客で、部屋はおびただしい数の衣服や下着が散乱してる。しばらく途方に暮れて眺めてるんだが、グレーのドレスに目が留まった。

なぜか着てみたくなってしまい、ベロニカはホテルの従業員服を脱いで、客のドレスを身につける。床に落ちてた真珠のネックレスを首に下げ、ベロニカは部屋の中で、ジゼルよろしく踊り出す。

この部屋の客が本当に不在なのか不安になった彼女は、風呂場のドアを開ける。バスタブに毛布にくるまれた人の気配が。「死体なの?」と恐る恐る毛布をめくると、若い日本人女性が眠っていた。
まだ寝ぼけていて「おはよう」と声をかけられたベロニカは、動揺して「グッモーニン」と挨拶してドアを閉めた。

部屋に戻り必死にドレスを脱ごうとするが、ファスナーが下りない。もたもたしてる間に、バスタブの女性が起きてきた。
気まずい表情で「アイム・ソーリー」と言うベロニカを、女性は手招きした。
「いいのいいの、アイ・ギヴ・ユー」
「それあなたにあげる。あなた似合ってるし」
「でもずっと着てられないわよね」
と、ナイフで背中のファスナーを切る。
彼女がナイフを手にする所は、その後の二人が辿る関係を暗示するようで、ちょっとゾクッとなる。

日本人女性は名をカホルといった。「ドレスを弁償したい」と言うベロニカに、カホルは
「じゃあ、そのかわりにロンドンを案内してくれる?」と。

あっという間にふたりは仲良くなった。ベロニカの方が英語はまだ話せる感じだが、ふたりは片言の英語でやりとりしながら、二階立てバスや遊覧船でロンドンの町を巡る。

カホルはロンドンに、好きになったカズヤという男を探しに来たのだという。
ベロニカは英会話教室で共に学んでいる、ケンという日本人男性と言葉を交わすようになり、二人は付き合い始めていたのだが、カズヤとケンが同一人物であるということは、ベロニカもカホルも、よもや知る由もなかった。


映画の題名には「少女」となってるが、ベロニカもカホルも少女という年齢ではないな。
メンタル的な意味合いでということだろう。

その二人の出会いとなる、ホテルの部屋の場面がまず良かった。
風呂場のバスタブの中で眠るカホルは、なにやらヴァンパイアのようでもあり、カホルはその理由を
「知らない土地のベッドでは落ち着いて寝付けない。バスタブの中が一番落ち着く」
と言い、ベロニカは「私も!」とそこで通じ合ってしまうわけだ。


「虫を殺す」ヒロインのカホルを演じてるのは川越美和。清純派としてキャリアを重ねてきた彼女が、この映画ではヘアまで見せるフルヌードも辞さず、このヒロイン役に賭けてる感じが伝わってきた。

彼女の身体は、失礼ながら女性にしては起伏に乏しいのだが、髪をショートにしてることもあり、
「両性具有」の雰囲気を醸し出してもいる。なので、ベロニカがすぐにカホルに心を通わせる感じもわかるのだ。

『風たちの午後』の生ゴミをまさぐる描写と、この映画の、見ず知らずの女の服を身につける描写にも、同じ官能の質を感じる。
ベロニカとカホルが、サウナのような場所で、素っ裸になって寝そべって語り合う場面は、天井から真俯瞰で捉えられており、アートっぽい絵面になってる。


一番いいと思った場面は、ずっとホテルの同じ部屋に滞在してるカホルを、ベロニカが起こす所。
もうバスタブではなくベッドに寝てるカホルを、清掃に来たベロニカがくすぐり攻めにする。
カホルはなにも着けてない裸の状態で、従業員服のベロニカに攻められて、身体をよじってる。ベロニカは執拗にくすぐり続け、カホルは手の甲に噛み付く。

時制は前後するが、ベロニカが手に包帯巻いて風呂に浸かってる場面があるんで、けっこう本気で噛まれたようだ。いやこの場面はエロかった。
女の子同士でこんな風にじゃれ合ってるのを4時間見せてくれてもいい位だ。

俺は「女の子がじゃれ合う」場面が「男が銃を撃ち合う」場面より、確実に好きなんである。
これは業という名の病である。愛という名の欲望である。

たしかこのベッドの場面は、カホルが地下鉄の通路でカズヤに再会して、セックスを交わす場面の後だ。その高揚は、カホルが、休日の市場で、連れ立って歩くカズヤとベロニカを、目撃してしまうことで、冷却されてしまう。
ベロニカはもちろんケンが、カホルの恋人カズヤだとは知らない。
そこであのベッドのじゃれ合いの場面になる。
なぜカホルが手の甲をあんなに強く噛んだのか、ベロニカはあとでわかるのだ。


まあしかし俺としては男女の三角関係になってからは、それまでのワクワク感はしぼんでしまった。
川越美和の「両性具有」ムードを生かして、男ではなく、もうひとり女を登場させて、
「女と女と両性具有」の三角関係にしてもらえたらな。


この映画はそもそも何で4時間半もかかるのかというと、登場人物たちが、会話を交わす場面より、それぞれが画面に向かって、インタビューに答えるような形式で話をする場面が多いのだ。
それと画面にかぶさる「独白」も多い。

この映画は全編ビデオカメラで撮影されており、その即物感といったものが、劇中の登場人物と、それを演じる役者たちの肉声(のように演出されてる)と、地続きのように感じさせている。
さらに劇中の登場人物は、そのまた劇中劇の『ジゼル』に関係が準えてあるという、虚と実が幾重もの「入れ子」構造のように組み立てられてるのだ。

川越美和はこの「肉声」の場面のしゃべり方が、普段しゃべりのようでいて、やはり芝居がかってるのが微妙な感じだった。
というより、俺はこういう形式があまり好きではないのだ。
まず画面に向けて語られてることが、ほとんど頭に残らない。

これは映画の側の問題ではなく、受け取る俺の問題なんだが、俺は映画のセリフというのは、わりと頭に残る方で、このブログでも印象的なセリフを書き起こしたりしてる。
だがそれは映画の中で、登場人物たちが会話を交わす、その芝居を通じてでないと、頭の中に定着しないのだ。40年近く映画ばかり見てきたせいで、俺の頭は「映画脳」になってしまってる。

なので現実の世界でも、人と会話してても、相手が何を話してきたか、後になってもほとんど憶えてなかったりする。よっぽど自分の興味のあるネタであれば別だが。
だからカメラに向けて、即ち自分に向けて語られるような形式のものは苦手なのだ。

多分『ジゼル』の内容とか、映画のテーマに関わる、自分の恋愛観や、死生観、家族の話なんかが語られてたと思うんだが。
最後の方に出てきたベロニカのバレエ団の団員が、ロンドンの夕日を眺めながら、「毎日この夕日が美しいと思う。そのために自分は踊ってる」みたいなことを語ってて、そこは印象に残ってるが。


俺は川越美和よりも、ベロニカを演じたニコル・マルレーネという女優に惹かれた。ルックスは美人ではあるんだろうが、とりたててという程ではない。
彼女の何がいいかというと、その動作だ。
最初の方でベロニカがホテルの部屋のベッドメイクをするんだが、それを黙々とこなす様子をカメラは捉えてる。
シーツを整えて、マットレスの下にはさむ様子とか、枕カバーをかえて、高さを均一に保つ動作とか、なぜかその仕事としての手さばきに官能を刺激される。

ベロニカにはお気に入りの場所が近所にあって、それは広場の銅像のある土台のスペースだ。
彼女は気持ちが沈むような時には、この場所に座ってじっと時を過ごしてる。銅像はバレリーナで、ベロニカはそのトゥーシューズの足裏をくすぐるように触れる。
ベロニカは「くすぐり好き」なんだね。くすぐるという行為は、性的な意味合いもこめられてる。

ベッドメイクであれ、銅像であれ、人であれ、彼女がその手触りに「生きること」への官能を探ってるように思えるのは、ベロニカが、自分の生命力があまり強くないことを意識してるからではないか。

ニコル・マルレーネという女優が、そのことを意識して演じてたかどうかはわからないが、俺には彼女から何かしら伝わるものがあったのだ。

バレエのコーチを演じてるのは、サイモン・フィッシャー・ターナー。ミュージシャンとして、デレク・ジャーマン監督の作品の映画音楽を手がけたりしてる。

カズヤを演じる太田義孝という青年は、英会話学校の生徒という設定だが、実際は英語に堪能なようで、ググッてみたら、現在は「海洋空間研究」というプロジェクトに関わってる研究者なのだな。当時は俳優業をしてたのか?
このカズヤがいつも同じジャケットを着てるんだが、赤と黒と白に分かれてて、なんかクラウス・ノミのステージ衣装みたいだった。キャスティングもユニークだ。

HDカメラではなかったと思うが、ビデオカメラでも美しい場面はいくつもあり、4時間という長い時間を使って、人間の動作をつぶさに捉えていくので、まったく間延びすることなく見ることはできた。

2012年7月7日

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この映写室はサナギである [映画サ行]

『シグナル 月曜日のルカ』

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変なコメント題になってしまったが、この映画においてはという意味だ。
映画館という空間は思えば不思議な所だ。
館内の客席部分は、開かれていて、見知らぬ人々が同じ目的のために集う「パブリック・スペース」のようなものだが、彼らにその場所に集わせる「モノ」を送り出す、「映写室」という場所は、客からは閉ざされている。
そこで、どんな風に映画が映し出されようとしてるのか?どんな人間が働いてるのか?客たちに知る由はない。
『ニューシネマ・パラダイス』では、少年トトが、映写室に入り込んでたが、現実には当然「部外者立ち入り禁止」だし、客もきちんと映写されてればそれでいいので、どう映写されてるかなんてことまで、関心も向かないだろう。

この映画に限らず、過去に映写室が重要な舞台となった映画はけっこうある。
フィルムで映写する場合は、1巻のフィルムが約20分位だから、2台の映写機で、交互に切れ目なく映写を繋いでく。映写機は大きな物だし、それが2台あるわけで、もう空きスペースはあまりない。

映写機は大きな音を立てるので、外部からの音も届かない。
この閉ざされた、手狭な空間は、しかしきっと居心地がいいんだろうなと思う。


ヒロインのルカは、大きな川のある田舎町の、古めかしい映画館で映写技師をしてる。
20代前半の若い女性なのだから、珍しい存在だろう。
なぜ彼女にそんな技術があるのかというと、ルカの祖父が、この「銀映館」という歴史の古い映画館の、映写技師を長年勤めてたからだ。
ルカは「おじいちゃん子」で、小さな時分から映写室に入り込んでは、祖父がフィルムを架け替えたり、小窓からピントのチェックをするのを眺めて育った。

その祖父が3年前に他界し、自分が跡を継ごうと決めたのだ。
ルカを長く見てきた映画館の支配人も、それを快諾した。

夏休みで帰省中の大学生・恵介は、「アルバイト募集」の張り紙を見て、銀映館を訪れた。
臨時雇いで短期で済みそうなので、夏休みに働くには丁度いいと思った。
映写を司る「技師長」が足に怪我を負ったため、その助手をしてほしいということだった。
映画館に定休日はないので、休みはない。だが「時給1500円」は破格だった。

恵介は技師長というからには、当然年季の入ったオヤジだろうと想像してたんで、ルカを紹介されて面食らった。彼女はニコリともしないが、大きな黒い瞳には惹きつけられた。

支配人は「採用するかどうかは技師長の判断に委ねる」とし、恵介に働くための3つの条件を言い渡した。
「技師長(ルカ)との恋愛は禁止」
「月曜日のルカは憂鬱なのでそっとしとく」
「ルカの過去を詮索してはいけない」

恵介は愛想のないルカとの仕事や、経験もない映写機の取り扱いなど、とまどうばかりだったが、素直な性格は気に入られたようだった。
映写室の隣には小さな部屋があり、技師長はそこに寝泊りしてるらしい。

詮索するなと言われてたが、恵介はどうしても気になって、支配人の南川に尋ねた。
「時給を下げるよ」と釘を刺されたが、南川は少しだけ、ルカの秘密を語ってくれた。

「技師長はもう3年間、この銀映館から外に出たことがないんだ」

恵介はにわかには信じられなかった。亡き祖父の替わりに、技師長となったのが3年前。ルカはその少し前に、地元のある青年と付き合っていた。
川沿いの邸宅に住むイケメンのレイジという青年で、曜日ごとに「彼女」がいるという、プレイボーイだった。
だがレイジは「月曜日」のルカに、ことさら愛情を向けるようになった。

レイジの子供を妊娠した「日曜日」のアンナは、レイジに愛情を向けられず、自殺してしまう。
それを知ったルカはレイジから離れようと決めるが、レイジは逆にルカへの執着を強め、ストーカーと化していたのだ。

ルカは以来、この銀映館に身を隠してきた。映写室なら誰の目にも留まらない。
恵介はルカの秘密を知るにつけ、彼女への思いが高まっていくのを感じた。
だがそのことは、恵介を否応なしに、歪んだ愛憎劇に引き込んでいくことになる。


ルカへの執着を口調や、微妙なリアクションの取り方で表現する高良健吾の演技力を持ってしても、このミステリー仕立ての愛憎劇の部分は、どうも切迫した雰囲気にならない。

それは、いくら祖父を継いで、映写室を守っていこうという意志があるにせよ、身の危険を感じてまで、この土地に留まる選択肢しかルカにはないのか?と思ってしまうからだ。
警察に相談する様子もない。

井上順が演じる支配人の南川は、理解のある大人という描かれ方だが、こんな異常な状態に、まるで無力のように装ってるのは、大人としてどうなのか?
まあ「ひきこもる」場所として、映写室ってのはアリだなあと思ったりはするが。

恵介を演じる西島隆弘は、ルカを守ろうと思うんだけど、非力で守りきれない、そういう気の優しい青年をうまく演じてる。たいていの人間は、暴力など振るった経験はないはずで、恵介の人物像はリアルだった。

恵介がルカのことをずっと「技師長さん」て呼んでるんだが、昔の漫画で『750ライダー』ってのがあって、主人公の早川光が、互いにちょっとは気にし合ってる同級生の久美子のことを「委員長!」(学級委員だから)って呼んでたのを思い出しちまった。

そして技師長ルカを演じてるのが、三根梓。モデルの経験はあるが、演技はこれが初めてで、しかも映画の主演だ。彼女は映写技師を演じるにあたって、ベテランの本職から、みっちりと映写機やフィルムの扱い方を習ったという。
彼女の手際のいい動きと、スクリーンの映りを見つめる真剣な眼差しは、ここが「彼女」の居所なのだと納得させる。その仕事の手際に比べると、演技の方はまだ硬く、ぎこちない。

ただ三根梓という、まさに「女優の卵」がこの役を演じることによって、この映写室そのものが、彼女にとって「サナギ」の役割を果たしてると見えるのだ。
外界と遮断されたその世界で、三根梓自身が、女優になるために、ひとつひとつのプロセスを積み、監督や共演者に、叱られたり、励まされたりしながら、そのプロセスを養分として蓄える。

映画の終盤で、銀映館の敷地から、一歩一歩足を踏み出して「外界」へと出た場面の、ルカの笑顔は、三根梓が女優として羽化した瞬間であり、女優人生の第一歩をこの映画で印したということでもある。
眼差しに強さを感じるので、例えばNHKの朝の連ドラのヒロインとかに抜擢されるかもしれない。


谷口正晃監督は『時をかける少女』でも、8ミリ映画の撮影の風景を描いてたが、映画への思いを、ノスタルジックに表明することにこだわりがあるようだ。

劇中、銀映館のスクリーンに映し出されるのは、『悪名』や『新・平家物語』や『ガメラ』シリーズなど、往年の「大映」作品だ。製作協力に角川大映が絡んでるからなのか。
そういえば、ルカの祖父を演じた宇津井健も、大映の『黒の…』シリーズや、大映テレビドラマなど、大映の看板スターの一人だった。

銀映館のロケ場所として使われた、新潟県上越市の「高田世界館」は、築100年にもなるという、由緒ある映画館。
外観も洋風で洒落てるし、客席の作りも面白い。

2012年7月6日

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エイリアン対不良、団地の対決 [映画ア行]

『アタック・ザ・ブロック』

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ストリート・キッズvsエイリアンという図式が面白い。
コピーをつけるなら「今度は団地で戦争だ!」ってとこか。

低所得者用の巨大な公共団地がそびえる南ロンドン。住人の少女はいみじくも言った。
「なんだって南ロンドンを侵略に来るのよ!」
つまりこんなとこ侵略したって「誰得」?っていうくらい、物好きにも程があると言いたげな、そのセリフに爆笑した。

最初に目撃された1体は、侵略というより、アクシデントで偶然この地に落下したようだ。
見習い看護師のサムも、若い白人女性には、あまり似つかわしくない、この公共団地の住人だったが、帰宅間際に、同じ住人の悪ガキたちに囲まれてカツアゲされる所だった。

いきなり何かが路上駐車の車に落下し、悪ガキたちが覗きこむと、小さな謎の生物が飛び出してくる。
近くの倉庫に逃げ込んだ生物を追い詰め、ボコボコにして「俺らの前に現れたのは不運だったな」と、その死体を団地に運び込む。サムはそのどさくさに難を逃れた。

「こいつの正体は何なんだ?」
最上階に住むオタク白人のロンに聞いてみようと、悪ガキのリーダー、モーゼスたち5人は部屋を訪れる。
ロンの部屋にはたまたま生物学を学ぶブルースが、ドラッグをやりに来ており、死体を眺めて
「地球上の生物の形状とはちがう」と言う。
やはりこいつはエイリアンなのか?

その最上階には、マリファナを栽培する巨大な温室があり、モーゼスたちは、そこを仕切るギャングのハイハッツへの手土産にしようと、エイリアンの死体を持って行く。

だが時を同じくして、夜の闇を裂くように、閃光とともに、隕石が次々に南ロンドンの町に落下してきた。窓からその様子を見たモーゼスたちは、
「また返り撃ちにしてやる!」
と、それぞれの家に一旦戻り、武器になるものを手にして、母親には「晩ごはんまでには帰る」と約束して、団地から外に出た。
原付とマウンテンバイクとで、落下現場に急行する。

サムからカツアゲ被害の通報を受けた警察のバンと鉢合わせになり、モーゼスたちは拘束されてしまうが、次の瞬間、二人の警官は真っ黒な生物に襲われ、無残な死体となる。

「俺たちがやっつけた奴よりデカい!」
しかも闇夜では姿が見えず、凶暴そうな歯が並んだ口蓋部だけが青白く光ってる。
その場に居合わせたサムとともに、モーゼスは警察のバンに乗り込み、アクセルを踏んだ。

真っ黒なエイリアンは執拗に追いかけてくる。駐車場に逃げこんだ所で、他の車とクラッシュ。
その車にはギャングのハイハッツが乗っており、警察のバンでカマを掘ってきたモーゼスたちに
「いい根性じゃねえか!」と銃を向ける。

次の瞬間ハイハッツの手下が、真っ黒なエイリアンの餌食となった。
「とにかくヤバい!」
モーゼスたちも、サムも、ハイハッツも、団地に逃げ戻ることに。


団地周辺での騒ぎに警察も出動してくるが、あっという間にエイリアンに襲われる。
その真っ黒で俊敏なエイリアンたちは、続々とモーゼスたちの団地に襲来してくる。
敗走する間に、悪ガキ仲間の一人も犠牲となる。

マリファナの温室に逃げ込んだ彼らと、居合わせたブルースが何かに気づく。
それはモーゼスのジャンパーだった。紫外線ライトを照らすと、無数の白い模様が浮き出てる。

最初のエイリアンをボコった時に付着した、エイリアンの体液ではないか?
そのエイリアンはメスで、体液は強烈なフェロモンを出し、それを嗅ぎ付けた体の大きなオスたちが、群がってきてるのだと。
騒ぎの種を撒いたのは自分たちなのか?モーゼスは腹をくくることにした。


真っ黒で毛むくじゃらで、凶暴な歯を持つエイリアンの造形は『クリッター』を思わせる。
モーゼスたちを追っかけてくる場面などはCGではなく、着ぐるみで、中に「シルク・ド・ソレイユ」の団員が入ってたそうだ。身のこなしが俊敏だったわけだ。

海兵隊とかではなく、ストリート・キッズたちが、ロケット花火なんかで武装するという、小じんまりした戦争っぷりが楽しい。低予算ではあるが、スピード感に溢れていて、安っぽさはない。

看護師のサムが、行きがかり上、団地の自分の部屋で、怪我を負った悪ガキの一人を手当てすることになるが、彼女が簡単には打ち解けないのもいい。
そりゃカツアゲされそうになった相手なんだから。

リアルに感じたのは、この団地の廊下部分だな。普段は暗くなってて、人が通る時だけ照明が灯る。
団地の廊下ってひんやりと、底冷えするような感触があるのだ。
その場所を見せ場として効果的に使ってた。


俺自身も「団地っ子」と言える生活を続けてきた。
公営団地から引っ越したアパートは、「一棟立て」だったので、厳密には「団地」ではないんだろうが、住人のメンタルは変わらないものがあったと思う。
今と違って子供の数がやたら多い時代だったから、この映画の悪ガキたちより、もっと大勢のアパートの子供たちが、塊になって毎日遊んでた。

あの時代にはまだ私立の学校に通う子は少なかったし、そういう家庭はあまりアパート住まいとかしないんで、住人の子供たちは、学区の小学校や中学校に通い、学校でも帰宅後も、それこそ四六時中、顔を合わせてるようなもんだった。

アパートやマンションや、いわゆる「集合住宅」の住人のつながりは希薄と、よく言われることだが、それは単身で住んでる人間たちの間のこと。
子供がいると、子供を介して、その母親同士が言葉を交わすようになる。
俺の住んでたアパートは、特に一棟しかないから、住人の顔ぶれもほぼ把握されてる。

こういうコミュニティの中心になるのは「子を持つ母親」なのだ。
俺はまだガキだったから、当時は推し量るべくもなかったが、母親の間には、自分の亭主の仕事先とか、稼ぎとか、あるいは子供の成績とか、毎日の井戸端会議で交わされる会話の中から、浮かび上がってくるものがあり、そこはかとない「ヒエラルキー」が形成されてもいるようだった。

それと、子供を持つ母親と、持たない奥さんとの間柄というのは、やはり付き合いの密度が薄くなるようだった。

この映画の悪ガキたちのように、つるんでカツアゲに及ぶなんてことは勿論なく、事件らしい事件も起こらなかったな。
あの頃はローラースケートが流行ってたんで、学校終わって、夕飯までの時間は、アパートの子供たちが一斉にあたりを「カチャカチャ」いって走り回ってたんで、大人たちにとっちゃ、うるさくてしょーがなかっただろう。

もうひとつ学校でもアパートでも大流行りしたのが、酒のフタによる「おはじき」だ。
酒というのはいろんな銘柄があるから、珍しいのをはじいて手に入れると自慢できたのだ。
アパートの近くに、酒屋の倉庫があり、酒の空瓶が木箱に詰まれていて、そこに無断で入っては、フタだけ失敬していく。
「どうせ要らないもんでしょ」とガキは思ってるが、人の所有する敷地内に無断で入り、物を盗んでく「窃盗罪」には違いない。

あまり頻繁にフタが無くなるんで、酒屋から小学校にクレームが入り、それをもとに教師が、生徒たちに聞き取りを行ったところ、俺の名前が出て、母親が学校に呼ばれた。

たしかにアパートの子供たちの間で、俺は年長の一人だったし、率先して倉庫に入りこんでたのは事実だ。それで年下の子供が名前を出したんだろうが、簡単に名前を出されるという所に、俺の人望のなさが偲ばれるんである。

その後も現在に至るまで「あなたは人望がある」などと、一度も言われたことがないな。
そのへん悪ガキだが、悪ガキならではの人望がありそうなモーゼスとはちがう。

2012年7月5日

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麻生久美子の啖呵にシビれる [映画カ行]

『GIRL』

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20代後半から30代半ばという、映画と同世代の女性たちの溜飲を下げさせるように作られてる。
けなす事は簡単だろう。予定調和にすぎるとか、キャラクターが薄っぺらいとか、女だけが大変な思いしてるわけじゃないんだよ、とか。
映画の出来にうるさい男なら「いい気なもんだよ」くらい言いそうだ。

だがね、男の映画ファンが惚れこむような、例えば健さんの任侠映画であれ、アルドリッチや岡本喜八の戦争映画であれ、フィルムノワールであれ、ああいうものに溜飲を下げる男も「いい気なもん」と思われてるんでね。
しかしそれは悪いことじゃないよな。映画ってのは「いい気になれる」娯楽なんだから。


麻生久美子演じる聖子は、34才で大手不動産会社で管理職に抜擢される。だが年上でやり手を自認する男性社員の今井は、あからさまに見下す態度を取ってくる。

聖子は今井にやる気を起こさせるために、再開発プロジェクトの進め方を一任し、部下で建築デザインの才能を聖子も認める後輩の女性社員、裕子と組ませるが、今井は裕子の案など無視して、経験不足ばかり突いてくる。
「だから女は駄目なんだよ」
今井は上司の聖子に面と向かって暴言を吐き、両者は一気に対立関係となる。


吉瀬美智子演じる容子は、勤務先の文具メーカーに、いかにも好青年キャラの新入社員、慎太郎が配属され、その教育係として行動を共にするうち、「年下の男」への恋慕の情に、動揺していく。

結婚も恋愛すらも面倒くさいと感じてた筈なのに。
だが容子の変化は傍目にも感じられ、若い女性社員からはやっかみ半分に
「年増がなんか必死よねえ」
などと陰口を叩かれ、それを偶然耳にしてしまうもんだから。


板谷由夏演じる孝子は、4人の中で最年長で年齢非公開の、シングルマザー。
離婚を経て3年ぶりに、自動車メーカーの営業職に復帰。

小学生の息子に淋しい思いはさせまいと、自分もできない鉄棒やキャッチボールにも必死につきあうが、その必死さがやがて息子を悲しませる悪循環。
シングルマザーが社会的弱者だなんて、意地でも認めたくないのに。


香里奈演じる由紀子は4人の中では「妹分」な29才独身。ガーリーなものには目がないのだが、姉貴たちからは「潮時ってあると思わない?ガールにも」
とやんわり諌められる。
大学時代から交際を続ける蒼太とのデートはいつも同じ食堂で、「カワイイ」ものにも何の反応もくれず、ロマンティックのかけらもない。

クライアントの百貨店の売り場担当のキャリアウーマンからは、「ガール」的な感性を全否定され、激しく落ち込むことに。年齢によって、可愛いことを諦めろってことなのか?


シングルマザーの孝子のエピソードで印象的な場面がある。
会社の同僚の男性社員に、ボールの投げ方から手ほどきされ、公園で息子とキャッチボールする。
何度も何度も繰り返しボールを投げあう内に、あたりは暗くなってくる。もうボールがほとんど追えない状態なのに、孝子は気づかない。

そうなんだよ、キャッチボールしてると、暗くなってくることに気づかない。ホントにボールが見えなくなるまで止めないんだよね。
照明をほとんどたかずに、板谷由夏の顔が見えるか見えないかまで、暗くして撮影してる。

映画と関係ない話になるが、この孝子のように、女性はおしなべてキャッチボールを苦手としてる。
それは「オーバースロー」でボールを投げることが苦手だからだ。
なぜなのか考えてみたが、そこには男と女という「種」の違いにまで遡る要因があるんじゃないかと。


元来、男の役割は「家族のために食料を捕ってくる」ということだ。
そのために、岩山をよじ登ったり、高い場所にあるものをもぎ取ったり、時には獲物と格闘になることもある。喉笛に噛みつかれたら一巻の終わりなんで、肩から高い位置で腕を伸ばしても力が入るように、腕が機能してるのだ。

女の場合はどうか?キャッチボールは苦手であっても、野球とほぼ同じルールの球技「ソフトボール」は女子のスポーツだ。
振りかぶって投げ込む「オーバースロー」ではなく、下手から繰り出される速球は、投手によっては、野球選手と遜色ない球速を示す。
男があの同じフォームで投げろと言われても、うまく力を入れることは難しいだろう。
女だからこそあのフォームで力が込められるのだ。

それは元来、子供をしっかりと抱くために、腕の力が働くようにできてるからでは?
地面の我が子をぐいと抱き上げる、腕を肩から上に上げた時にではなく、腰から胸に近い位置で、最も腕に力が入るんだ、きっと。


なんでこんなことをつらつらと考えたかというと、この映画の中で描かれた女と男の、仕事場での軋轢とかを思うと、女の得意分野、男の得意分野というものはあるのだから、同じ条件下で角突き合わせるより、適材適所を経営者側は意識するといいんじゃないかと感じたからだ。

それに、シングルマザーの孝子が、父親の役割まで全うしようとして疲弊してしまうということも、むしろ父親がいないことを負い目と感じさせない、社会的環境からのフォローが、もっと考えられてもいいという、そういうことにも繋がってくと思うのだ。


麻生久美子演じる聖子が、ことごとく対立する今井を呼びつける場面は盛り上がる。

「コイントスで、負けた方が会社を去る、いいわね?」
「あなたに先に選ばせてあげるわ」

後輩・裕子のデザイン案を握り潰し、プレゼンを進めようとした今井の目論みを、聖子がひっくり返した後だった。
表か裏か、言葉を発せない今井に

「女と仕事したくないなら、土俵の上にあがりなさい」
「どこにでも女はいるの。奥さんでもホステスでも、部下でもない女がね」

麻生久美子も、セリフの歯切れのいい女優なんで、この啖呵がピシッと決まる。
ここが映画でも最大の溜飲ポイントだろう。
今井を演じた要潤は、とことん嫌な奴になり切っていて「功労賞」ものだ。

あと、こんなものまで見てるのかと言われそうだが、『マリア様が見てる』で凛とした女子校生だった波瑠が、聖子の後輩の裕子を演じてて、今井にスポイルされるのに耐える表情がいじらしく、目を引くのだった。
今井に啖呵切り終わって、部屋を出て行き、女子トイレで感情を鎮めようとする聖子を、裕子が追いかけて行って、トイレの中で抱き合って泣く場面は、映画で最も麗しい見せ場だった。


『セックス・アンド・ザ・シティ』以降のアメリカの「女子映画」は、下ネタもばりばり口に出す、そのあからさま加減が受けてる要素の一つだが、この映画は本音を描こうという意図はあっても、下品さでウケを狙うような所はない。
俺はあからさまなのも好きだが、あれはアメリカ人だから板につくのだ。
日本人は下ネタもりこんでも、無理してる感がでちゃうからね。

2012年7月5日

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バード・ウォッチングに金かかりすぎ [映画ハ行]

『ビッグ・ボーイズ しあわせの鳥を探して』

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俺の実家で昔から、ペットというと鳥を飼うことになっていて、鳥といえばインコで、インコといえばブルーボタンという種と決まってた。
一度、九官鳥を飼ったことがあったが、言葉は覚えるものの、毎日水浴びさせなきゃならないし、けっこう鳴き声が隣近所に響くし、手乗りにはならんしで、一代でやめた。

つい先だって、自分の住所を言えることから、無事飼い主の元に戻してもらえた、賢いセキセイインコが話題になってたが、ウチで飼ってたブルーボタンは、言葉は覚えないし、手乗りには一応なるが、気性が荒いんで、撫でようとすると噛み付いてくる。
それも「あまがみ」ではなく本気噛みなんで、何度も指が流血した。
しかしそばで眺めてるだけで、なんか楽しくなるのだ。
俺は「バード・ウォッチング」の趣味はないが、鳥を眺める楽しさはわかるんで、この映画の題材には期待を寄せてた。

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アメリカには「ビッグ・イヤー」という、バード・ウォッチャーなら一度は参加したいというイベントがあるという。
それは1月1日から12月31日まで、1年間の間に、アメリカ国内で何種類の鳥をウォッチできるか、その数を競うという競技だ。
証拠の写真や、鳴き声を録音したテープなどがあるにこしたことはないが、基本申告制となっており、「何月何日どこで見た」と参加者が言えば、それもカウントできる。
ゴルフと同じで参加者が紳士であるという前提に立ってるのだ。


3人の男が出てくる。オーウェン・ウィルソンが演じるのは、前回の競技で「732羽」という大会記録を打ち立てた「バード・ウォッチング」界のカリスマと称されるボスティック。
だが彼には成し得てない目標があった。
それはアメリカ国内に僅かに棲息が確認されてる「シロフクロウ」を見つけること。
今回こそはという思いがあった。美しい妻のジェシカの前でも、鳥の情報となると、気持ちは持ってかれてしまう。

スティーヴ・マーティン演じるスチューは、大会社のCEOであり、息子の嫁にも妊娠がわかり、初孫の誕生も近い。
だが彼も体力があるうちに「ビッグ・イヤー」に参加して、優勝したいという夢があった。

ジャック・ブラック演じるブラッドは原発で働くバツイチで、今は両親と同居の鳥オタク。
彼には鳴き声でその鳥を当てられるという才能があり、それは人の鳴き真似でもわかってしまうのだ。

「ビッグ・イヤー」に参加して、ボスティックに挑戦しようと5000ドルを貯めたが、まだ足りないので、父親に借金を申し出るが、「仕事も結婚もなに一つ続かないじゃないか」と、鳥の観察にうつつを抜かしてるように言われ、喧嘩となる始末。
ブラッドは10000ドルは必要と見積もってるから、日本円で80万円以上はかかるってことだ。


費用の大半は移動にかかる運賃だろう。金の問題だけではなく、バード・ウォッチャーには、それぞれ人脈があるようで、全米各地から珍しい鳥の目撃情報が寄せられる。
すると、すぐにでも荷造りして現地へ向かうということになるんで、時間にも融通が利くような生活を送ってないと無理だよな。
趣味の世界のこととはいえ、金と時間に余裕がないとできないことだ。

映画はボスティックに対して、ブラッドとスチューが共闘していくという構図で進められてくが、誰が優勝するのか?とか3人の観察数が画面でカウントされてく割りには、あまりスリリングに乗せられてく感じはない。
それは「生活者」からすれば道楽に見えてしまうからかもしれない。

アメリカ大陸は広大だし、鳥を追ってアラスカまで足を延ばしたりもするから、その変化に富んだ自然の美しさは堪能できるし、飽きずに見ることはできる。

だが肝心の「バード・ウォッチング」の楽しさが描き足りてない。
カメラが鳥を捉えても「あっ、見つけた!」で終わってしまって、その鳥のどのあたりが美しいのか、とか鳴き声をじっくり聞かせるとか、仕草の面白さとか、そういう部分にフォーカスしてかない。
主役は鳥ではなく、鳥に執り付かれた人間たちだからということなのか。

それとブラッド、スチュー、ボスティックと三者三様のバックグラウンドが描かれてるが、結局のところ「趣味はほどほどにね」という着地点を見出すにすぎないのだ。

だが「趣味」の世界というものは、往々にして人生を逸脱させてしまう「魔力」があるもので、「逸脱したっていいのだ」という、ある種の狂気めいた所にまで踏み込まないと、醍醐味を感じさせるには至らない。
思うにこの映画の製作者たちは、「鳥」にも格段興味があるわけではなく、人生引換えにして趣味に生きるってことも、考えてもみない人たちではないか?


ジャック・ブラック、オーウェン・ウィルソン、スティーヴ・マーティンという強力なキャスティングが組まれながら、全米興行では苦戦した。
その要因はまずこの顔ぶれなら、誰しもコメディ乗りを期待するはずだが、見てみると、弾けた要素はないのだ。
ジャック・ブラックは「オタク体質」というだけで、以前の傍若無人キャラはなりを潜め、ごくごく常識人を演じる大人しさだし、オーウェン・ウィルソンの人物像は、あまりに奥さんを省みなさすぎて、反感しか買わないだろう。

俺自身がミスキャストと思うのがスティーヴ・マーティンだ。まずCEOのスチューのエピソードが面白くない。彼は早いとこリタイアして「ビッグ・イヤー」に専念したいんだが、部下たちが常に彼の決定を待つ状態で、会社と鳥の現場を行ったり来たりを余儀なくされる。

以前のスティーヴ・マーティンなら、ドタバタぶりを体全体で表現して笑いをとっただろうが、なんかこの映画の彼は老け込んじゃってるのだ。コメディ役者としての覇気がなくなってる。
スティーヴ・マーティンじゃなくてもいいという演じ方で、逆に彼が出てるからと見に行った客は失望するだろう。

映画としてクォリティが低いわけではないのに、ヒットに至らなかったのは、観客の期待したものと、ちがうテイストに仕上がってたからだと思う。

映画のエンディング・クレジットと同時に、この記録更新となった今大会の、すべての「観察された鳥」がスチルで画面に次々出てきて、そこは楽しい。あの鳥はやはり写ってなかったな。

2012年7月3日

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爆音で見た『ラスト・ワルツ』と『未知との遭遇』 [映画ラ行]

『ラスト・ワルツ』

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ライヴ用の音響システム組んで映画を見ようという企画「爆音映画祭2012」を開催してる、「吉祥寺バウスシアター」に、雨のそぼ降る中、足を向けた。
『ラスト・ワルツ』はほぼキャパの220席が埋まってたんじゃないか?

『ラスト・ワルツ』は過去に何度かスクリーンで見てはいる。
日本公開時の1978年には、俺は試写会で見て、それまでザ・バンドを聴いたことがなかったんで、「こんなカッコいいバンドがいたのか!」と、LP買い漁った。

公開初日の「みゆき座」に、ロビー・ロバートソンが舞台挨拶に現れ、ギターで1曲披露したと知り、
「駆けつけときゃよかった」と後悔したよ。
その後もスクリーンでかかる機会があると見に行った。

ハイライトは2002年の「東京国際映画祭」での特別上映だろう。
「シアターコクーン」の壇上にロビー・ロバートソンが登場した時はテンション上がったなあ。
5.1chデジタルリマスター版のDVD発売に合わせた上映だったと記憶してるが、音響もかなり鳴らしてくれてて最高だった。
そうかあれからもう10年経っちゃったか。

今回上映に使ったフィルムは、初公開時の物か、リバイバル時に焼いた物か、わからないけど、音の「抜け」や輪郭のクリアさでは、「シアターコクーン」上映時の方が良かった。

今回の音は「アナログ」でガンガン鳴らしてる感じだった。学生時代に「フィルム・コンサート」ってのが、時々催されてて、見に行ってたんだが、その時のデカい音の印象に近い。
音楽が終わると耳が「シーン」って鳴ってるあの感じだ。


今年レヴォン・ヘルムが逝ってしまったことで、この映画に映される5人のバンドメンバーで、あと二人しか残ってない。
ゲストで出てくるアーティストを見ても、このコンサートの数年後に世を去ったポール・バターフィールドと、すでに高齢だったマディ・ウォーターズを除いて、すべてがまだ存命してることを考えると、ザ・バンドから3人もが「欠けて」しまってるのは只事ではない。

見るたんびに追悼の気分が高まってしまうのはやり切れない。

『シェイプ・アイム・イン』を唄い出す前の、リチャード・マニュエルの瞳がとても奇麗で悲しくなるし、『同じことさ』のリック・ダンコの熱唱には胸が熱くなる。

それに今だからというわけじゃなく、俺が昔から『ラスト・ワルツ』のベストショットだと思ってるのは、『オフィーリア』を唄うレヴォン・ヘルムを、ドラムの背中越しから捉えてるとこ。
そのままアルバムのジャケに使えそうなほど絵になる。

もちろんジョニ・ミッチェルのカッコよさや、ヴァン・モリソンの短足地面蹴りは、何度見ても色褪せないね。



『未知との遭遇』(特別編)

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スクリーンで見るのが随分と久しぶりだったんで、楽しみにしてた。

だがチケット窓口で「フィルムの状態がよくないですが、よろしいですか?」
と言われ、支配人からも、上映前に「初公開時のプリントを使用してるんで、退色やコマ飛びなど状態はよくないのでご了承を」
と、かなり念入りに予防線張ってこられたんで、覚悟して見ることに。

それにしても状態の悪いフィルムだったね。
退色が進んで赤茶けた画面になってる。終盤はフィルム傷バリバリに出てるし、こんだけ事前に謝るんなら、料金割引にでもすればいいんだよ。
「シアターN渋谷」で新藤兼人監督の『鉄輪』を見て以来の退色フィルムだった。

音もデジタルリマスターとかではなく、とにかく昔のフィルムのサウンドトラック部分をそのままボリューム上げてるだけだから、中盤あたりのジョン・ウィリアムスのスリリングな劇伴も、音がベタッとつぶれてしまってる。
音量自体も「爆音」って感じでもない。デジタルIMAXの方がよっぽどデカいよ音は。


スピルバーグ作品の中において、『未知との遭遇』は地味な扱いになってる。
公開当時は、同年の『スター・ウォーズ』と張り合う話題作だったし、実際大ヒットした。
なぜ地味になったのかというと、スクリーンでかからなくなったからだ。

この映画をテレビ画面でちんまりと見ても、その醍醐味は味わえるはずもない。
ビデオ時代となって、初めて見たという世代にはインパクト薄いだろう。
テレビで見るようには作られてないのだ。

UFOに初めて遭遇する夜の場面の、ドキドキする感覚。
それは画面の大部分に夜の空間が広がっていて、まばゆい光を放って飛ぶUFOの航跡が、画面の奥の方にまで視認できる、そういう絵作りをしてるからで、その闇に包まれてる感覚が、テレビでは生まれ得ない。
スピルバーグは明かりを落とした映画館の館内自体を、「夜の空間」に見立てて演出してるのだ。

それをまた味わいたくて、今回の上映に駆けつけたんだが、フィルムが退色してて、夜の闇までが赤茶けてしまってるんで、まったく気分が出ない。

『未知との遭遇』に関しては「爆音」上映する意味がなかったと思うよ。

2012年7月2日

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「やられた!」って思う映画 [映画ハ行]

『ハロー!?ゴースト』

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都内では新宿武蔵野館で1日2回上映のみという韓国映画だが、多分いま公開されてる映画の中で、最も口コミで評判が広まってるのがこれじゃないか。

俺も『ハロー!?ゴースト』という、何の期待も抱かせないような凡庸な題名だし、チラシを眺めても、全然食指が動かなかった。だが韓流好きの知り合いが「これは絶対見るべき!」とプッシュしてくるし、たしかに方々で評判がいい。

この映画はハリウッド・リメイクが決定したとチラシには書いてあったが、そもそも映画の設定自体は、過去のハリウッド映画にあったじゃないかと、見る前は思ってた。
生死の境をさまよって生還した青年に、複数のゴーストが取り憑いてしまい、彼らの願いを叶えて成仏させないとならないって話。


1993年の『愛が微笑む時』は、バスの事故で命を落とした4人の男女が、ゴーストとなって、その現場で産まれた赤ん坊の守護霊となる。だが成人した主人公は利己的な性格となり、ゴーストたちは彼の前に出現して、純粋さを取り戻させようとする。主人公を演じてたのはロバート・ダウニー・Jrだった。

それよりさらに近い設定だったのが、2008年の『オー!マイ・ゴースト』
人づきあいを極度に嫌う主人公の男が、内科検診の麻酔ミスで、7分間の心肺停止に。蘇生するとともに、ゴーストたちが見えるようになり、現世との仲介役を求められて四苦八苦する。

この『ハロー!?ゴースト』もほぼそういう展開であり、際立って演出が上手い訳でもない。
だがサッカーでいえば、残り10分でハットトリック決めて、逆転勝ちしたみたいな、途方もなく鮮やかな着地を決めるのだ。
それまで笑いは起こるものの、いたって静かな場内に、さざ波のようなすすり泣きの音が広がっていった。


安ホテルの一室で、いままさに大量の錠剤を飲んで、自殺を図ろうとしてる青年サンマン。
彼は孤児院で育ち、面会に来る大人で、サンマンと呼んでくれる人は一人もいなかった。
天涯孤独な上に、つい最近仕事もクビになった。生きてても希望もないので、自殺しようと思うのだが、なぜかうまくいかない。

錠剤の服用も失敗に終わり、朦朧としたまま、今度は川へ身を投げる。
だが丁度通りかかった警察の船に救助される。

病室のベッドで意識を取り戻したサンマンの前に、見慣れない顔ぶれが。
太っちょでヘビースモーカーの中年男。
美人看護師のヒップをガン見するのが楽しみの、呑んだくれじいさん。
なぜかロッカーの中で泣いてるアラサー女性。
ベッドで飛びはねてる子供もいる。
病院のスタッフの誰もが「そんな人どこにいる?」という反応を見せる。

この4人は自分にだけ見えるのか?
ゴーストに取り憑かれてしまったと思ったサンマンは、霊媒師を訪ねる。
なんとか取り除いてくれと頼むが、霊媒師は
「霊をあの世に送り出すような力はない」ときっぱり。

ゴーストたちを成仏させるには、この世に未練を残してることを解消してやるしかないと言う。
自殺すらする暇もなくなり、サンマンは、しぶしぶゴーストたちの願いを叶えるために奔走することになる。

その過程でサンマンは、シングルマザーで美人の看護師ヨンスと知り合う。
ヨンスの父親は彼女の勤める病院のホスピス棟に入院していた。彼女は父親にはきつい調子であたり、サンマンはやがてその理由を知ることになる。

生きる希望もなかったサンマンは、ヨンスに惹かれていく中で、人を愛するという気持ちに目覚め、ゴーストたちとの「共同生活」を通じて、生きる意欲が湧いてくる。


この映画はこれ以上あれこれ書くのは野暮だろう。ゴーストたちの願いを叶えてくことが、意味があることだとわかった途端に「すすり泣き」が広がったのだ。

「映画の日」で休日ということもあり、ほぼ満席に近かった。
新宿武蔵野館でいえば、最大キャパの「シアター1」でかければいいのにと思うし、もっと公開劇場も増やせばいいのにとも思う。

しかしこれは金がかかるわけではないし、ほんと着想の勝利なんで、まだまだゴースト・ファンタジーも作りようがあるんだなあと感服したよ。

2012年7月1日

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アシュレイ・ジャッドのタイトスカート [映画ハ行]

『フライペーパー!史上最低の銀行強盗』

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都内では渋谷「シネクイント」1館でのレイト公開という、「首の皮一枚」繋がったような劇場公開作だが、これを見に行った理由は「アシュレイ・ジャッドが出てるから」という、その一点買いだ。

また便乗タイトルかと思いきや、『ハングオーバー!消えた花ムコと史上最悪の二日酔い』の脚本家が書いた新作なんで、このタイトルを名乗る権利はあるわけだ。

いつもシネコンのレイトを見に行くと、客が4,5人なんてザラだから、これも閑散としてるんだろうなどと、勝手に想像してたが、上映前には30人位は入ってたよ。立派なもんだ。
『ハングオーバー!』効果なのか、主演のパトリック・デンプシーという、『クレイズ・アナトミー』効果なのか。
劇中一番笑ったのは、そのデンプシーに
「愛は金では買えないんだよ」
ってセリフを言わせてる所。
彼のファンなら元ネタはすぐにわかるだろう。


転職してきて2ヶ月目という、窓口係のケイトリンの前に、100ドル紙幣を小銭に両替してほしいという、妙な男トリップが現れる。
両替の仕方をコインごとに正確に暗算して告げる。しばらく聞いていたケイトリンは、
「そのコインの枚数ってすべて素数よね?」
と返す。トリップは「銀行窓口」とはいえ、ケイトリンの数字の強さに驚く。

トリップは彼女を気に入り、なにかと話しかけようとする、その時、閉店間際だった銀行内に、武装した強盗が押し入ってきた。

5人いるが、明らかにタイプが二分してる。3人は完全武装し、マスクもしてるから顔もわからない。
サブマシンガンのような銃器を手に、SWATなみの出で立ちだ。
あとの二人は明らかに「ちょっと銀行でも襲う?」くらいの軽い乗りで銃を手にしてる。

行内は、行員も客も騒然となるが、一番動揺してるのは、2組の強盗たちだった。
しかもその騒ぎのさなかに、ロビーにいた男性が何者かに撃たれて死んだ。強盗たちは互いに
「撃っちゃいない!」
と言いあってるし、しまいには互いに銃を向け合った。

その緊迫の場面に、なぜかトリップが、ノコノコと間に分け入った。
「とりあえず、ちょっと集まろう」

肝っ玉がデカいのか、バカなのか、強盗たちは呆気にとられるまま、結局トリップの回りに集まった。
トリップは強盗たちの狙う物を聞いた。
武装3人組は、奥にある金庫を、カジュアルな2人組はロビーにあるATMを壊すつもりだった。
トリップは言った。
「金庫とATM、互いに狙うものが違うんなら、揉める必要はないよね?」
「ここは、気にせずにそれぞれの仕事をしたらどうだろう?」

なんでテメエがしゃしゃり出てくるんだよ!とトリップはボコられるが、まあそれも一理あるということで、強盗たちはそれぞれの持ち場につくことに。


強盗発生とともにセキュリティが作動し、外に通じるすべてのドアがロックされ、銀行は巨大な密室となった。
行員と客はひと部屋に集められた。
支店長とマネージャーを差し置いて、ここでもトリップが場を仕切り始める。
ケイトリンは「何者なの?」と見つめてるが、トリップは、数字の暗算のほかにも、並外れた観察力を持ってるようで、強盗発生時の銀行ロビーの様子を事細かく再現できた。

まるで「シャーロック・ホームズ」かのような、トリップの推理力により、ロビーで男性を撃ったのは、強盗たちではなく、まだ誰か銃を持った人間が行内に残ってる可能性が出てきた。

トリップは部屋の天井に、ダクト用の天蓋があるのに気づき、周りが止める声も聞かずに、天井に昇ろうとする。
そんな時、ATM狙いの二人がやらかした。ピーナッツバターとジェリーと呼び合う2人組は、いきなりATMにプラスチック爆弾を仕掛け、1台が爆発。何事かと強盗勢揃い。
「予告もせずに爆破すんじゃねえ!」
とまた一触即発に。

しかし2組の銀行強盗が、同じ日に、同じタイミングで強盗に入るなんて偶然があるのか?
トリップはその謎についても推理を働かし始めた。
そして強盗たちの断片的な発言などから、2組の強盗が同じ情報によって、計画の実行に動いてたことがわかる。
この日、銀行ではコンピューター・システムの入れ替えが行われる予定で、新たなシステムに移行するまで「空白の2時間」が生まれるということだった。
つまりその間はセキュリティも含め、すべてのコンピューター制御が無効になる。
強盗たちはその2時間を狙ってやって来たのだ。

だがその情報が自分たち以外にも流されていたことは予想外だった。
そして彼らに情報を流した者こそが、この銀行強盗劇の真の目的につながる存在であり、それは意外な立場にいる人物だった。

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『ハングオーバー!…』の脚本家の映画というんで、多分見に来た人はコメディ乗りを予想してたんだろうが、けっこう死人が出るんだよね。気楽に笑ってみようとするには血生臭い。
テンション高めの芝居でどんどん局面を進めてくが、落ち着いて考えると粗も目立つ。

俺が一番の疑問だったのは、黒幕の存在があるのはいいとして、「FBI最重要手配犯」リストのトップに挙がってるような人間が、映画の真相となるような立場に、どうやって就いてたのという点だね。

武装強盗の3人組の方は知ってる役者がいなかったけど、ピーナッツバターとジェリーを演じる2人は脇でよく見かける。
長髪にヒゲのピーナッツバターを演じるティム・ブレイク・ネルソンは、『オー・ブラザー!』が出世作だが、ホントに曲者という演技。そのバカっぽさが最高だ。

武装強盗側の人間に「俺のタトゥーはすごいんだぜ」と見せるんだが、腕の外側に鎖が描かれてて、その内側には鎖が切れてる様子が描かれてる。腕をひっくり返しながら
「捕まえられると」「思うなよ」
「捕まえられると」「思うなよ」
と何度も繰り返してイラっとさせてる。そこの場面は場内爆笑だった。
相棒の太っちょジェリーを演じるプルイット・テイラー・ヴィンスとともに、この二人がコメディ・リリーフとして機能してた。


さてお目当てのアシュレイ・ジャッドだが、まず俺は彼女のファン歴は長い。

1995年の東京国際映画祭で上映された『聖なる狂気』で初めて見て、可愛い顔なのに、目の下に荒んだ影を感じる、そのアンバランスに惹かれたのだ。

彼女が注目されるきっかけになったのは、1993年のインディーズ作『RUBY IN PARADISE』で、俺は輸入版取り寄せて見た。
夫との生活を捨て、祖母が暮らした海沿いの町で、新たな人生を送ろうとするヒロインが、どうにもうまく行かなくて、どんどん「負けていく」過程がシビアに描かれていた。
いい職に就けたのに、そこの女性オーナーの息子に言い寄られ、結局辞めることになり、町から離れた、白人女性などひとりもいないクリーニング工場で働くようになる。
全編ヒロインの日常を追うような作りで、アシュレイを愛でるための映画といっていい。

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輸入版買ったこの映画は、後にメジャー主演作『ダブル・ジョパディ』の公開時に、どこかのメーカーが便乗してリリースしたが、『ディープ・ジョパディ』などという、まったく意味の通らない邦題にされてて泣けた。

そのアシュレイも1999年の『ダブル・ジョパディ』あたりをピークに、その後は目立った役に就けていない。彼女は今年44才になるが、この『フライペーパー!…』では、胸元もあらわなブラウスで勝負してる。
俺の好きなタイトスカート履いてくれて、さすがの美熟女ぶりだ。

彼女を好きなのはルックスだけでなく、声質というか、その口調だ。
低めで落ち着いた調子で、きっぱりと言葉を発する。なんというか「たしなめられてる」感じがする。
俺は例えばメラニー・グリフィスみたいな舌足らずな口調は苦手で、「たしなめ」系にグッときちゃうのだ。
日本でいえば夏川結衣だね。

この映画でも銀行窓口の対応の口調がきびきびしてて、そこんとこはやっぱり好きだなあ。
なんか彼女が出てる割にはそんなに見せ場がないのも不満ではあるね。
彼女のもう1本の新作『イルカと少年』も、DVDがリリースされたから、早速見てみるつもり。

2012年6月30日


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アイルランド田舎町のクセ強警官 [映画サ行]

『ザ・ガード~西部の相棒~』

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フィルムセンターで開催されてた「EUフィルムデーズ2012」で上映された『アイルランドの事件簿』を、俺はメインに据えてたのに、時間が取れず見逃した。
なんか気勢を削がれてしまい、結局『カロと神様』の1本しか見ずに終わったんだが、その『アイルランドの事件簿』が、題名を変えてDVDリリースとなり、こんなにすぐに見れるとはと喜んだよ。

主演はブレンダン・グリーソン。彼が主演のものでは、やはりDVDスルーとなった
2008年作『ヒットマンズ・レクイエム』が、「映画好きなら見なきゃダメ!」な設定と脚本のヒネリ方で、俺も続けて二度見たほどの傑作だった。

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その監督マーティン・マクドナーが製作総指揮を執り、弟のジョン・マイケル・マクドナーが監督・脚本を手がけたのが、この『ザ・ガード~西部の相棒~』だ。

どうも兄弟そろってヲタ体質のようで、この映画でも小ネタがいちいちマニアックなのだ。
ブレンダン・グリーソンは『ヒットマンズ・レクイエム』では、文学や古い史跡なんかに興味を示す、インテリ肌の殺し屋を演じてたが、今回はアイルランドの小さな田舎町の警官だ。


舞台となるゴールウェイは、地図で見ると、ダブリンやベルファストといった、イギリスに向かい合わせの位置にある主要都市とは、真逆の側にある海沿いの町だ。

映画に出てくる「田舎の駐在さん」というと、人は善いけど、とんちんかんみたいなステレオタイプに描かれがちだが、この映画の警官ジェリー・ボイルは、外観も内装もシックな一軒屋に住む独身で、ステレオからはチェット・ベイカーが流れ、DVDで何を見てるのかと思えば、スコモリフスキー監督の『シャウト』で、ジョン・ハートが叫び殺される場面を大音響で流してるという、「どんだけマニアックだよ!」という趣味をしてる。

思慮深いインテリなのかと思いきや、職務倫理が欠如してる。
猛スピードで目の前を走り去る車を、面倒くさそうにパトカーで追跡するが、先のカーブで車が大破するのを目撃すると、救急車を呼ぶ前に、死体のポケットをあさり、コカインを見つけるとくすねる。

非番の日には出張サービスの女たちに、婦警のコスプレさせて、管轄外の町に繰り出し、ホテルにしけこむ。
「こんな格好で外歩かせて捕まらない?」
「捕まえるのは俺だからな」

事件らしい事件も起きない田舎町に、突如起きた殺人事件。
ちょうどダブリンから若い警官エイダンが異動してきた。現場で死体や遺留品を素手で触りまくるボイルに、エイダンは呆れる。

壁に血文字で妙な数字が書かれてる。「快楽殺人か?」
テキトーな憶測をもとに捜査を始めるボイルのもとに、謎のタレこみ電話がかり、それに基づいて容疑者を尋問すると、被害者の男とは、バーで口論になり、殴りかかったが、殺してはいないと言う。
被害者の死亡推定時刻には別の場所にいたと。

エイダンは、ボイルの取っ付きにくさに手を焼くが、初日の捜査で少しは打ち解ける。
だがボイルと違って生真面目なエイダンの人生は、この日に最期を迎えてしまう。
ボイルと別れて夜のパトロール中に、不審な車を見かけて職質かけるが、車に乗ってた3人の男に撃ち殺されてしまうのだ。

その夜遅く、エイダンの妻のガブリエルが、ボイルの自宅を訪れる。
「主人が帰って来ない」と。
「異動したての警官が恨みを買うこともない、ましてこんな田舎町だ」
と、朝まで待って帰って来ないようなら、また連絡くれとガブリエルを帰す。


翌日ゴールウェイにFBI捜査官がやってきた。地元の警察官を集めたミーティングで、エバレット捜査官は、この町の港に、5億ポンド相当の麻薬の積荷が到着するという。ボイルが質問する
「その末端価格はどこの基準だ?」
いきなり何を言い出すのかと驚くエバレット。
「いや、あんたらの公表する末端価格は、俺が買ってるとこなんかのとは違うと思ってさ」
一同呆然。

さらにその取引に関与してるというマフィアの顔写真をスライドで見て、
「全部白人だな」
「いや麻薬の売人は黒人かメキシコ人じゃないのかと思ってさ」
エバレット捜査官は絶句した。彼は黒人だったのだ。
その暴言にも冷静を装い
「今のは差別発言と取られるぞ」
「アイルランドの文化みたいなもんだよ」
ボイルは、お前はもう黙ってろと上司から釘を刺される。

その容疑者のマフィアのスライドの中に、先日の殺人事件の被害者の顔もあった。
名はマコーミックという。あれはただの殺人事件じゃなさそうだ。
エイダンも見当たらないし、ボイルは案内役を兼ねて、エバレット捜査官と行動を共にすることに。

よく刑事映画で、初対面の相棒に「おれの家族の写真見るか?」っていう挨拶の手続きみたいなもんがあるけど、この映画でもエバレットが
「娘の写真見るか?」と言うと
「見たくない」
「思いっきりブサイクな娘なら笑えるから見たいが、普通なら見てもつまらん」
エバレットまたも絶句。


捜査本部から、どうも取引場所がゴールウェイから、かなり北方のスライゴになるようだとの情報が入り、二人は向かう。泊まりがけの捜査だ。
翌朝エバレットが海岸をランニングしてると、クソ寒そうな海で誰か泳いでる。ボイルだった。

朝食の席で「モスクワ五輪の競泳で4位だった」と聞かされ
「ウソつけ」とエバレット。
だがボイルはいたって真顔だ。
「4位じゃ参加してないも同じだがな」
まだ信じてないエバレットに
「黒人は泳げないんだろ?」
などと、またすれすれアウトな発言かますボイル。

しかも「今日はどの辺を捜査してく?」と水を向けると
「今日は非番だから仕事はしない」
と言い放つ。怒るより呆れるエバレットは「もういい!」と単独で聞き込みに向かう。

だがアイルランド北方の地での聞き込みは至難を極める。
まず「なんでここに黒人が?」というあからさまな偏見の視線。
なにを聞いてもゲイル語で返されるから、聞き込みにならない。英語はわかってるのに話さないのだ。
村人相手に埒があかず、しまいには馬に聞き込みするという自虐に走るエバレット。
演じるドン・チードルの「やってられない」感漂う表情がいいね。

ボイルは何してたかといえば、お決まりの出張サービスだ。
ゴールウェイに戻ると、バーでビールをあおるエバレット捜査官。ボイルもつきあって、杯を重ねるうちに、互いに胸襟を開き始める。
そのうちボイルが気づいた。このバーはマコーミックと、殺害の容疑者の男が喧嘩した場所だ。
店には防犯カメラがあった。

店からビデオを借りて、二人はボイルの自宅で検証し始める。
すると二人の喧嘩の場に、手配写真のマフィアも同席してた。
「あの男は殺人の罪を着せられたんじゃないか?」
となるとタレコミの電話の主も怪しい。二人の捜査は進展の気配を見せた。

その頃、海岸沿いの奥まった草村で、エイダンのパトカーが見つかった。
ボイルは彼の妻のガブリエルと現場に行った。
「自殺かな?」
「自殺する理由なんかないわ」
「女絡みでトラぶってたとか」
「彼はゲイよ」
予想もしないひと言だった。
ガブリエルはクロアチア出身で、ビザ取得のため、エイダンと結婚したのだと言う。
ボイルにはますます謎が深まった。


そのボイルは顔なじみのコールガール、シニードに呼び出されるが、その席に手配写真の男のひとり、スケフィントンが現れる。
ボイルは出張サービスを利用したホテルで、ふざけて写真を撮られていた。
シニードはスケフィントンと繋がっており、ボイルはまずその写真を見せられた。
その上で賄賂とおぼしき封筒をテーブルに置く。麻薬取引を見逃せという意味だ。
「受け取るいわれはないな」
ボイルは脅しにも賄賂にも動じる様子がない。
アイルランド中の警察は賄賂で黙らせることができるのに。
スケフィントンはボイルという男を値踏みするように、しばらく表情を見てると、席を立った。
シニードは「受け取らないと殺されるわよ」と警告した。

マフィアの3人は、厄介な警官のことについて話し合った。
リーダー格のスケフィントン、水族館でサメを見るのが大好きなコーネル、手を汚すのはオレアリーだった。

ボイルは捜査の途中で、自転車の少年に呼びとめられる。用水路にデカいバッグが沈んでると。
少年に手伝わせてバッグを引き上げると、中から大量の拳銃やライフルが出てきた。
ボイルは警察には持ち帰らずに、誰かに電話をかけた。

空港の駐車場にやってきたのは、IRAの幹部の男だった。銃器はIRAが隠したものだったのだ。
男はバッグを開けて「数が合わないな」と言う。ボイルは
「善意で俺がわざわざ動いたのに、疑うようなことを言うのか?」
ボイルの剣幕に幹部は謝罪した。実際はボイルがちょろまかしてるんだが。
小さな銃を指差し
「デリンジャーなんかIRAが使うのか?」
「ゲイが股間に隠しとくんだ」
「IRAにゲイがいるのか?」
「ああ、1人2人はな。」
「ゲイだとMI6とかに潜入しやすいんだよ」
このセリフには爆笑した。

夜になり、ボイルが家に戻ると、すでに来客があった。
オレアリーが銃を構えて座ってたのだ。


細かいくすぐりのような小ネタが満載で、それらがモザイク状にストーリーを形作ってるような印象がある。
『ザ・ガード~西部の相棒~』というDVDタイトルは、アイルランド北西部が舞台になってることと、クライマックスの趣向が「西部劇」風であることが所以となってるんだろう。
アクションの見せ場はそこだけと言ってもよく、兄マーティンの監督作『ヒットマンズ・レクイエム』のツイストの利かせ方と比べると、やや平坦な印象は否めない。

悪玉スケフィントンを、リーアム・カニンガム、一味のコーネルをマーク・ストロングが演じるという、層の厚いキャスティングだが、マフィアのくせに(?)詩や哲学の議論を戦わせたりしてる、この一味のインテリっぷりが、あまり行動に反映されてない所や、せっかくのマーク・ストロングに、見せ場が少ないなどの物足りなさも感じる。

意地悪な見方をすれば、ユニークな人物像を描くことに腐心して、そこで停まってしまったようにも思えるのだ。

それでもやはり小ネタには惹かれる。
ボイルとスケフィントンが睨み合うカフェではBGMにボビー・ジェントリーの『ビリー・ジョーに捧げる歌』なんて渋い曲が流れてる。スケフィントンが
「この歌は嫌いなんだよ。大体ビリー・ジョーって奴は、川から何投げたんだ?」
「赤ん坊じゃないのか?」
なんて歌詞に言及するセリフがある。
この曲を元に映画化されたのが、ロビー・ベンソンとグリニス・オコナーという『ジェレミー』コンビが再び共演した、1976年作『ビリー・ジョー/愛のかけ橋』だ。

それから映画のエンディングで、ドン・チードルの表情に被さるように流れる、
ジョン・デンヴァーの『悲しみのジェットプレイン』も余韻に浸らせてくれる。

とりあえずは、アンチヒーローすれすれの、ブレンダン・グリーソンの快演を見るべし。

2012年6月29日

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フランス映画祭⑦女と男と育児を描く2作 [フランス映画祭2012]

フランス映画祭2012

『理想の出産 』
『わたしたちの宣戦布告』

この2本の映画を、続けて見れるように上映スケジュールが組まれてたのは、考えがあってのことだろう。
先に上映された『理想の出産 』は、女性の妊娠がわかり、出産、そして子育てにいたるプロセスを、女性の本音に沿って描いてる。

『わたしたちの宣戦布告』は、出産に喜ぶ若い夫婦が、その後子供に脳腫瘍ができてることがわかり、看病と葛藤の日々を送るという、実話に則した内容のドラマだった。
スタッフ、キャストもまったく違うが、この2本を一組の男女の物語と捉えることもできるのだ。


『理想の出産 』

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この映画をを見た後にこの監督が男性と知って驚いた。
『わたしたちの宣戦布告』と同じに女性の手によるものと思い込んでたからだ。
男には窺い知れない出産にまつわる女性の本音が、あからさまなほどにてんこ盛りとなってる。

俺は当たり前だが、まず出産は経験できないし、結婚もしてないし、当然育児も経験ないし、この映画に関しては、門外漢な要素が、ミルフィーユのように積み重なってるわけだが、そんな俺でも相当面白く見れてしまったのだから、演出と脚本がよく練られてるってことだろう。

だから出産を経験した女性が「あるある」ネタとして共感持って見れることはもちろんだが、むしろ男性にこそ積極的にアピールすべき内容だと思う。

俺は見てないけど、『アデル/ファラオと復活の秘薬』で冒険ヒロインを快活に演じてたという、ルイーズ・ブルゴワンが、大きなおなかのボディスーツをつけて熱演してる。
ベッドから降りる時にどういう体の動かし方をしなきゃならないのか、とかその大変さがわかる。

おなかが大きくなり始めると、夫の方もいろいろ気が引けてくるらしいが、映画によると、妊娠中はホルモンの働きも激しくなるんで、性欲も一時的に増すんだそう。
ルイーズ・ブルゴワン演じる大学院生バルバラが、ランチの店で女友達と「ヤリた~い!」みたいな会話を交わしててウケた。


身体だけでなく、メンタルな部分でも不安定になったりする。夫にいろいろ話しを向けるんだが、どうも噛みあわない。
「男ってどうしてすべての問題にかんして、簡単に流してしまうんだろう?」
このセリフは核心を突かれるようでドキッとするね。
そのほかにも吹き出すようなセリフが散りばめられていて、もう一度見直したいくらいだ。

いまは出産前に性別がわかってしまうが、バルバラが夫のニコラに
「医師には、出産前に私に言わないでと頼んでおいて」
と話してたのに、ニコラはすっかり忘れて、女医があっさり
「ほら画像見て、女の子よ」と告げるんで
「出産前に知りたくないって言ったでしょ!」
とバルバラがキレて、夫と女医が気まずい顔をする場面とか、細かい描写にも実感がこもってる。

いよいよ陣痛がはじまり出産という場面に、夫のニコラも立ち会うんだが、浮き足立っちゃってるんで、足を覆うビニールは頭に被っちゃってるし、いきんでる妊婦の顔を冷やすためのスプレーを、看護士に手渡されて、自分の顔に吹き付けて「いや彼女に」とか言われてるし、妻の絶叫とともに、胎児が外に出始めるのを見て卒倒してるし、この場面は、ニコラを演じるピオ・マルケルの振る舞いに場内爆笑だった。
笑い事ではないんだろうが、出産場面でこれだけ笑いを取れるというのが凄い。


ここまでは「あとのことは出産してから考えましょー」的な勢いで、主人公たちとともに、映画も軽快にすっ飛ばしていくんだが、産後にバルバラは「マタニティ・ブルー」のような状態に陥っていく。

しかしあれだけおなかが膨れて、しかも体から「生命」を産み落として、そんな身体が元の形に戻るもんだろうか?
そこんとこも言及されていて、「器官」の形状が変わってしまうケースもあるという。
バルバラもイケメンの医師から、普通にそんなことを指摘されてた。
いづれにしても「女体の神秘」である。

育児に入り、バルバラと夫のニコラの間のズレが大きくなっていく。
バルバラは「母乳」で育てることにこだわり、そういう集まりにも通うようになる。「母乳で育てる母親の会」みたいな所で、啓発セミナーっぽい。
バルバラが名乗って「ハ~イ、バルバラ」って応えるあたりは、アル中患者の会に似てるよ。
「あなた、それはすばらしいことだわ」
と集まった母親たちが語りかける、その笑顔がとり憑かれてるみたいで怖い。


この映画を見てると、この世の中で、男にできて女にできないことは、ほぼないと思うが、その逆は確実にあるんでね。男はどんなに逆立ちしたって「生命」を体から生み出すことはできない。

男が経済活動であれ、芸術活動であれ、身体能力を競う場であれ、料理の味を追求することであれ、とにかくその活動に血道を上げる、その源は、「生命」を生み出すということが叶わない、そのことへの「擬似出産行為」ではないのかと思いたくなってくる。

それは突き詰めれば「自らの痕跡」をこの世に残したいということであり、子供というのは、自分の血の継承者ではあるんだが、自分のおなかの中でゼロから育み、養分を与え、胎児に語りかけながら、その結晶である「作品」を、自ら産み落とす。そういうことができないわけだからね。

この映画は、出産を通して女性の身体と心に起こる変化を、「はしたない」と思うことでも臆せず描くことによって、男性にも当事者の意識をもっと高めてもらおうという意図があるのだろう。

それと同時に、出産から育児へと移った時に、母親となった女性が、いかに夫に疎外感を持たせずに、赤ん坊に向き合わせることが大切かということも描いている。
ユーモアを散りばめて見やすく作られてはいるが、語られてるものは深い。



『わたしたちの宣戦布告』

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本作のユニークさは、これが当事者による「再現ドラマ」であるという点だ。
監督・主演のヴァレリー・ドンゼッリと、共演のジェレミー・エルカイムは実際の夫婦だった。
劇中ではジュリエットとロメオという役名に変えてある。

若者たちが集うクラブで、ひと目で惹かれあった二人。愛を育んだ二人には、やがてアダムという名の男の子が。順調に成長してるかに思えたが、異変は少しづつ顕著になっていった。
ミルクを飲ませても、全部吐くようになる。18ヶ月になっても、足が立たない。

診断した女医はアダムに呼びかけて反応を見る。
「右目の瞳が動いてないわ」
身体も少し傾いでるという。指摘されるまで、若い夫婦は気がつかなかった。

精密検査が必要と言われ、ジュリエットの親族にツテがある、マルセイユの病院に向かった。
ジュリエットはそこでショッキングな診断を下される。
ロメオは新居のアパートの壁の塗り替えを、友達に手伝わせてやっていた。
医師の説明を聞くジュリエットの表情と、友達と気楽に仕事を進めてるロメオとの落差が残酷だ。

「アダムは、脳に腫瘍がある」
ジュリエットからケータイに連絡が入り、ロメオはその場で慟哭する。
両親にそのことを告げ、パリからマルセイユへと急行するロメオ。

この映画はテーマの深刻さに引きずられないようにと思ってか、アクション映画のような、動きのある演出が施されている。


「手術で腫瘍は取り除ける」と聞かされ、マルセイユで手術するか、パリにいる、小児外科の名医を頼るか、二人の意見は割れるが、結局パリの名医に委ねることに。

だがその病院に入院したものの、スタッフからは、その医師が執刀するとは限らないと言われ、夫婦は動揺する。空くと言われた病室も、別のスタッフからは違うことを言われ、ジュリエットのストレスも頂点に。
ロメオは「攻撃的な態度を見せちゃ駄目だ」と諭し、病院側と冷静に交渉し、なんとかアダムと同じ部屋に寝泊りできるようにした。
このあたりの病院とのやりとりは、俺も経験あるし、リアルだった。

いよいよ手術の日。二人はまだ親の言葉を理解できないアダムに、かけられる限りの愛情を込めた言葉で送った。ここは涙出てくるよ。

7時間に及ぶ手術。執刀した小児科の名医は、夫婦を部屋に呼んだ。
「手術は無事成功しました。後遺症もないでしょう」
二人に安堵の表情が。
「だが、腫瘍は悪性でした。再発もあるし、最低5才までは生きられるとしか今は言えません」

ジュリエットとロメオは、病院の外に集まってた互いの家族たちに「手術は成功したよ!」と告げた。
抱き合って快哉を叫ぶ家族たちを眺めながら、ロメオは妻に言った。
「強くなろう、ジュリエット」


それから若い夫婦は、子供の闘病とともに、自分たちも強くなろうと、覚悟を決める。
それが彼らの「宣戦布告」なのだ。
だがアダムの脳は、さらに治療の困難な腫瘍ができ、いつ終わるともわからない看病の日々に、二人は次第に疲弊してくる。

クラブ通いを再開したり、友達とバカ騒ぎしたり、二人は努めて日常を屈託なく過ごそうとする。
子供はずっと病院の中にいる。看病するといっても、家族にできることは限られてるのだ。その空白に何もしないでいると、「子供の病気」のことばかりが、心を侵食していってしまう。
そういう日々に抗うように、若い夫婦はハメをはずそうとする。

子供との闘病生活が始まる当初、無心論者の二人は神に祈ろうとする。だがジュリエットの祈り方を見て、ロメオは「そんな祈り方じゃ駄目だ」と言う。

闘病を見守る日々が長引き、二人の生活からも笑顔が消えてしまった時、ロメオはふと
「なんで僕らの子供がこんな目に?」
と呟く。ジュリエットは
「乗り越えられると(神様が)思うからよ」

おぼつかない祈りを捧げてた彼女の内面が変わったと、見る者に悟らせるセリフだった。
自分たちは試練に打ち克てるかわからない。でも、そう思ってくれてるはずだと。
この二つの場面が対となってるように思わせる、その脚本もいい。


この映画は音楽の挿入の仕方もユニークで、それはジェレミー・エルカイムの、音楽的知識の豊富さによるものと、監督のヴァレリー・は述べてた。
クラシックのほかにも、アダムが手術室に運ばれる場面は、多分なにかの映画音楽が使われてた。雰囲気としてはイタリアのマカロニか活劇系のものだと思うが、俺は何の映画の曲かはわからなかった。

なんといっても感心したのは、夫婦で観覧車に乗る場面で、ローリー・アンダーソンの『オー・スーパーマン』が使われてたことだ。
彼女はテクノの時代でも、その前衛的なアプローチで異彩を放ってたアーティストで、留守電のメッセージのような歌の調子がインパクト残した曲だった。
この曲が流行った当時は、曲のユニークさにしか関心向かなかったが、この映画で、歌詞が父親と母親の心情に、痛いほどフィットするもんだと、初めて知らされた。
ここは名場面だと思う。

劇中のジュリエットとロメオは結局は別居する道を選ぶことになるんだが、それは実際の、ヴァレリー・ドンゼッリとジェレミー・エルカイムの関係を反映してる。

それだけに別れた後も、こうして自分たちを振り返って、ふたりで脚本を練って、ふたりで演じて見せるというのは、勇気もあるし、こういうつながり方があってもいいと思わせる。

トークショーに二人で登壇したヴァレリーとジェレミーは、晴れ晴れとした表情をしていた。
彼らの表情の意味するところは、映画のエピローグで明かされる。

2012年6月28日

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フランス映画祭⑥『そして友よ、静かに死ね』 [フランス映画祭2012]

フランス映画祭2012

『そして友よ、静かに死ね』

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1970年代に「リヨンの仲間」と呼ばれ、その悪名をフランス中に轟かせたという、エドモン・ヴィダルと一味の、若き日と現在を描いた、実録犯罪映画。
エドモン・ヴィダルは仲間うちでは「モモン」と呼ばれていた。彼の出自はロマ族で、小学校でもイジメを受けるが、それを庇ったセルジュと友情の絆を結ぶことになる。

今は蔑称とされてるが、「ジプシー」のギャングを描いた映画に、
1975年のアラン・ドロン主演作『ル・ジタン』がある。
いわれなき差別への反逆として、銀行強盗などを繰り返していく、「ジタン」と呼ばれるならず者を、口ひげ蓄えたドロンが渋く演じてた。
時代的に、監督のジョゼ・ジョヴァンニは、エドモン・ヴィダルをモデルにして、脚本を書いたんじゃなかろうか?
『ル・ジタン』は全くのフィクションとして作られているが。

この『そして友よ、静かに死ね』のモデルであるエドモン・ヴィダル本人は存命で、映画の撮影現場にも足げく通い、出演者たちとも打ち解けた様子だったという。
映画の撮影時には、とっくに犯罪の世界からは「足を洗ってた」というが、本人がそばで見てる以上、美化して描かれてるだろうことは、想像にかたくない。


映画は南仏にある豪邸のテラスで、なにか思いつめた表情で、銃をなでるモモンを映して始まる。
大きなヤマを踏み、大金を得て「稼業」からリタイアしたモモンの元に、幼なじみの親友セルジュが逮捕されたとの報が入る。
モモンとセルジュは、18才の時に、露店から「さくらんぼ」を盗んだという罪で懲役刑を食らった。
罪状からすれば重過ぎる量刑だったが、それは彼らが「ロマ」だという偏見にも基づいていた。

刑期を終えた二人は、仲間を作り、社会への怒りをぶつけるように、大胆な手口で強盗を繰り返すようになる。
むろん警察は血眼で「リヨンの仲間」を追うが、人に怪我を負わせないという、その強盗ぶりから「反社会的ヒーロー」と祀り上げられもした。
その名が高まるにつれ、パリのギャング組織からも「仕事」を持ちかけられるが、殺しも辞さないような荒っぽいやり方にそぐわず、モモンたちは一線を画して活動した。

だがその「リヨンの仲間」にも、ついに手錠がかけられる日がやってくる。
モモンは10年の懲役を食らい、塀の中へ。
再び娑婆に出た時、親友のセルジュは「リヨンの仲間」から距離を置くようになった。
他のギャング組織に加わり、モモンたちが決して手を出さなかった麻薬取引にも関与した。そして代金を着服したとして、組織から狙われていた。


セルジュとはもう13年も会ってなかったが、裏社会の情報はいやでも耳に入る。
逮捕され、収監されることになると、刑務所内で組織の手の者に消される可能性が高い。

「リヨンの仲間」たちは、セルジュを脱獄させようと計画を練るが、モモンは逡巡する。
家族の絆を大切にする「ロマ族」の血を引くモモンには、命を張って手にした妻や子供たちとの、平穏な日々を捨て去ることはできないと思った。
かつての仲間であり、親友であるセルジュへの忠義があるにしてもだ。

結局モモン抜きで脱獄計画は実行に移される。拘置所内で秘かにセルジュに剃刀が渡される。それで手首を切って、病院に搬送された所で奪還する手筈だ。
計画は成功し、怪我の回復まで、仲間が匿うことに。
だがセルジュの命を狙うギャング組織は、彼の家族の誘拐を企てた。


セルジュには反目されたまま、和解できずにいる娘のリリューがいた。もう孫もいるのだ。
「リヨンの仲間」は、リリューの自宅をガードするが、不意打ちに遭い、殺し屋たちが家に押し入ってくる。リリューは逃げ場を失ったことを悟り、小さな息子を部屋に隠し、ショットガンを構えてドアに向けた。
最初の一人は撃ち殺したが、すぐにマシンガンで撃ちぬかれた。息子は難を逃れた。

セルジュの娘と、護衛した仲間も殺され、モモンは腰を上げた。平穏な日々もここまでだ。
過去に「稼業」で人の命を奪ったことはなかったが、モモンは徹底した報復を下すことに、もはや躊躇はなかった。
愛する家族を失った旧友と、無言で再会を交わしたモモン。あの若い日々が甦る。

だがそこにはモモンにも見えてなかった、もうひとつの過去が存在した。
それは口に含むのも苦すぎる過去だった。


『あるいは裏切りという名の犬』のオリヴィエ・マルシャル監督作なので、とにかく男の生き様を渋く描こうという、そのタッチは変わらない。
主演のジェラール・ランヴァンも、顔には深いシワも刻まれてるが、肉体は若々しく、「理想のおやじ」を体現してる感じだ。
だが「リヨンの仲間」の現在の部分は、特に「キメキメ」に渋さを強調するような演出や演技なんで、さすがに「もう渋いのはわかったから」という気分にもなる。

ジェラール・ランヴァンも、チェッキー・カリョもほとんど「しかめ面」を崩さない。
だらしない部分とか、隙を見せる部分とか、そういう人間味がもう少し出てるとよかった。
映画のスタイルにこだわるあまり、キャラが硬直してる印象があるんだね。
昔かたぎの犯罪映画といえば、いえるんだが。

その点では、「リヨンの仲間」の70年代を演じた、ディミトリ・ストロージュほか若い役者たちの活きのよさに、俺なんかはむしろ惹かれたな。
俺の好きなジャンルではあるんだが、アヴェレージの出来を超えてるとは思わなかった。
ただ近年の展開が速くて、殺伐感の強い犯罪アクションに抵抗があるという人には、この古風さは気に入られるんではないか。

2012年6月27日

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フランス映画祭⑤『ミステリーズ 運命のリスボン』 [フランス映画祭2012]

フランス映画祭2012

『ミステリーズ 運命のリスボン』

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昨年2011年8月に死去した、南米の異才ラウル・ルイス監督の遺作。
4時間37分、間に休憩をはさんでの一挙上映だ。

前日4本見て深夜に帰宅という強行軍で、睡眠も充分にとれてないコンディションだったが、不思議なくらいに集中力が途切れなかった。
事前に読んだHPの作品解説からも、登場人物が多いだろうことを予想してたんで、固有名詞をメモとりながら見てたのだ。
それでもこのタペストリーのような因果関係を1回見ただけで呑み込むのは至難だった。

後で憶えてる限り書き出そうと思うが、その部分は、この秋に一般公開となる時に、この映画を見ようと思うなら、読まないでいてほしい。
なぜかというと、14才の少年の出生の秘密と、そこから派生する人間関係の糸をたぐるように描かれていて、少しづつ視界が開けていく感覚が、先にあらすじを知ってしまうと味わえないからだ。

俺が書いておこうと思うのは、記憶が混濁してくのを防ぐためで、これを踏まえて2度目に見た時には、ストーリーに引き摺られずに、画面そのものに集中できる、そういう考えもあるからだ。


大体以下のような流れだと思うが、
「ジョアンと、その母親アンジェラの秘密」に関しては記憶違いはないと思うんだが、
「ディノス神父の秘密」と「コメ・ファッカスの秘密」に関しては、細部が怪しい。

なにしろ固有名詞がどんどん出てくるんで、走り書きのメモを見直しても、不明瞭な部分が残る。

例えばアルヴァロ神父が駆け落ちした相手は、ヴィソ伯爵夫人だったか、その前のジョアンの話の時に出てきたモンテゼロス侯爵夫人だったか。
ブランジェが狩猟小屋で暮らすことになった経緯とか、アルトゥーロが本当にアルベルトと決闘したのかも、実は確たる記憶ではないのだ。

なので俺自身でストーリーを補足してしまった部分もある。
そんないい加減なものを書くなって所だろうが、4時間半の登場人物の多いドラマの内容を、どの位初見で把握できたかという、その検証みたいなもんです。
一般公開されたら、これを読み返して、記憶間違いを自ら指摘しつつ見るのも、楽しみとなるかなと思ってる。

まあとにかく「韓流ドラマ」なみに狭~い因果関係が、ごくごくシリアスな顔つきで語られてくのが、なんか可笑しくもなるのだ。

ワンシーン・ワンカットの端正な絵作りなんだが、時折不思議な位置にカメラを固定してみたり、決闘の後になんの関係もない付き添い人みたいな男が、銃を持って自殺して果てたり、メイドが大抵、人の話を盗み聞きしたり、覗き見したりしてる。


主人公のジョアンは、自分の「姓」がないことに苦悩してた。
「姓」は「家」であり、「家族」であり、「家系」である。
特に19世紀のヨーロッパ、それも貴族社会となれば、自分の出自はその人間を評価する、一番の決め手とされてしまう。

ディノス神父やアルベルトは、自分の名にこだわりなど持たず、時々に応じて取り替えてしまうことで、社会を泳いできた。自分の「名前」に縛られる人生を送る貴族とは対照的だ。
ジョアンも「姓」がないのなら、自らどうにでも名乗ることもできただろう。自分の生き方も決められる。
ディノス神父はそういう、したたかな生き方の術があることを、ジョアンに教えればよかったのに。
だが自分が何者か知ってしまったことで、途端に因果に翻弄されることになる。

14才のジョアンを起点に、登場人物が入れ替わり立ち代り、数珠つなぎのように、因果関係を構成していく、その過去に遡った流れが、ゆっくりと迂回して、少し先の、つまりはペドロとなったジョアンへと合流する。
刻々と変化する対岸の風景をゆったり眺めるような、そんな船旅をしてる気分になってくる。



「ジョアンと、母親アンジェラの秘密」

19世紀ポルトガル。修道院に暮らす14才の少年ジョアン。彼に姓はなく、ただ「ジョアン」と呼ばれている。
姓がないのはお前の父親が卑賤な者か罪人だったからだと、冷たい言葉を浴びせる年長の少年に掴みかかり、取っ組み合いの末に、ジョアンは昏倒する。
身寄りがないはずのジョアンを、なぜか伯爵夫人が見舞う。意識はおぼろげだったが、「私の息子…」という声が聞こえた気がして、ジョアンは彼女が母親なのだと確信した。

後日ジョアンはその事を、ディノス神父に問う。ディノス神父はジョアンを幼少の頃に預かり、この修道院で育ててきたのだ。神父はジョアンを散歩に連れ出した。
城の敷地内に置かれたベンチに腰掛けてると、城の部屋の窓に女性の姿が。だが直後に、この城の持ち主サンタ・バルバラ伯爵が、ふたりを不審者と思い、警告にやってきた。
ジョアンは、見舞いに訪れたのは、あの窓の女性だと思った。

あの城に働く従者ベルナルドが、伯爵夫人からの手紙を携えて、ディノス神父の元へやってきた。伯爵はポルトガル内戦で、ペドロ派を打倒すべく、国王軍に加わるため、城を不在にしてるという。
この期に城を訪れてほしいと。ジョアンを伴って。

城において、伯爵夫人アンジェラは、長く再会の叶わなかった我が子を胸に抱いた。
アンジェラはこの城で、夫のサンタ・バルバラ伯爵により、8年も幽閉されていたのだ。それには理由があったが、伯爵は使用人の娘であるエウジェニアを、妻の代わりに愛していた。
ディノス神父は、ベルナルドの手引きで、アンジェラをこの城から救い出した。
とりあえず自らの修道院で匿うこととし、母と子は水入らずで過ごす機会を得た。

ディノス神父は、口の重いアンジェラに代わり、ジョアンの出生に関わる経緯を語り始めた。
きっかけは、ディノス神父の修道院に、ひとりの青年が助けを求めに現れたことだった。銃による怪我を負っていた。神父が介抱すると、青年は自らの悲恋を語った。

ペドロ・ダ・シルヴァと名乗る青年は、貴族の出で、同じ貴族モンテゼロス侯爵の娘アンジェラと、互いに惹かれ合っていた。だがペドロが申し出た結婚の許しを、モンテゼロス侯爵はすげなく断った。家柄に問題はないが、財力の劣る相手に嫁がせるわけにはいかないと。

ふたりはその後も隠れるように愛を育んでいたが、それは侯爵の知るところとなり、侯爵はコメ・ファッカス(もの食うナイフ)と異名をとる山賊に、始末を任せる。
ペドロはアンジェラの部屋を訪れようとした際に、撃たれたのだ。

モンテゼロス侯爵は、娘が子供を身篭ってることを知り、アンジェラを、リスボンから遠く、山岳地帯にある自分の領地に移した。そしてコメ・ファッカスに監視させ、産まれた赤ん坊はすぐに殺せと命じていた。
ディノス神父はそこまでの経緯を知ると一計を案じた。
神父の身分を隠し、放浪者サビロ・カブラとして、山へと向かった。

コメ・ファッカスと出会うと、酒を酌み交わし、それとなく話を聞きだした。
人と話す機会もなく、孤独をかこってたコメ・ファッカスは饒舌だった。
侯爵の娘と赤ん坊の話になった時、サビロ・カブラは提案をした。
コメ・ファッカスの前に金貨の詰まった袋を置く。
「これで赤ん坊を譲ってくれ」
なんでこの放浪者がそんなことをするのか、怪訝に思うが、目の前の金貨は魅力だった。
「侯爵からの報酬より多く出そうじゃないか」
コメ・ファッカスは了承した。

母親アンジェラは我が子に、愛した青年と同じペドロ・ダ・シルヴァと名づけた。サビロ・カブラは彼女に自分の正体を明かし、赤ん坊の身の安全を保証した。
その存在が明かされないよう、ペドロには「ジョアン」という名をつけて、修道院で育てたのだ。
修道院の周りでは、ジョアンは神父の子ではないかと噂されていた。

モンテゼロス侯爵は赤ん坊は始末したと信じて、娘を手元に戻した。侯爵が催す宴の席で、アンジェラに見惚れた青年がいた。それがサンタ・バルバラ伯爵だった。
モンテゼロス侯爵はこの青年の後見人となっていた。
サンタ・バルバラ伯爵の父親は獄死しており、死に追いやった男は、モンテゼロス侯爵の政敵でもあった。共通の敵を持つ二人は気が合っていたのだ。

モンテゼロス侯爵は、この青年に娘を嫁がせようと考えていた。
むろん娘が他の男の子供を身篭ったなどとは知らせるべくもない。

だがリスボンの貴族社会は狭い。噂はどこからともなく耳に入ってくる。
結婚後にその事実を知ったサンタ・バルバラ伯爵は、アンジェラが否定しないのを見て激怒し、その裏切りの代償として、城に幽閉してしまう。
そしてアンジェラの姦淫行為を世間に吹聴し、彼女の名誉まで貶める。

だがやがてサンタ・バルバラ伯爵は若くして病に倒れる。妻を8年も幽閉したという自責の念に、彼は死の床で懺悔し、遺産をアンジェラに遺すと言った。
だがそれを聞いたアンジェラは贈与を拒否し、修道女となる道を選んだ。
息子ペドロとはつかの間の母子の温もりに満ちた時間だった。ペドロはまた自分のもとから去ってしまう母親の気持ちを、推し量るべくもなかった。



「ディノス神父の秘密」

少年ジョアンに真の名ペドロ・ダ・シルヴァを告げた、命の恩人であるディノス神父自身にも、出生の秘密が隠されていた。
それはディノス神父が敬愛する、アルヴァロ神父に呼ばれて、彼の修道院を訪れた時のことだ。
年老いた神父は「話しておかなければならないこと」とし、この話を語り始めた。

50年以上時代を遡る。ポルトガルを統治してたジョゼ1世が崩御した、1777年あたりの頃だろう。
若いアルヴァロは貴族だった。ヴィソ伯爵とは、ジョゼ1世の後を受け、独裁を行うボンパル侯を打倒しようと共闘する間柄だった。
ヴィソ伯爵の妻シルヴィナは美しく、いつしかアルヴァロは、友人の妻と不倫関係を結んでいた。
二人は逃げるようにヨーロッパ各地を旅行して回った。フランス、スペイン、イタリアまで。

旅のさなかにシルヴィナは妊娠するが、彼女の身体は、出産に耐えられなかった。
アルヴァロはこれを「罰」と受け止めた。アルヴァロはローマに住む友人パウロに赤ん坊を託したが、そのパウロが死に、レイモン・ド・モンフェール侯爵が身元を引き受けた。
ディノス神父は、シルヴィナが赤ん坊を産み落としたのが54年前のことと聞かされ、すべてを悟った。
それは自分の今の歳だったからだ。
アルヴァロ神父こそ、自分の真の父親だったのだ。
ディノス神父も、ペドロと同じように、祝福され、認められて生を受けたわけではなかった。

ディノス神父は幼き頃はセバスチャンと名づけられ、ナポレオン軍のポルトガル遠征では、親仏派として、ナポレオン軍の軍服に袖を通し、戦地に赴いた。
セバスチャンは親友ブノワと行動を共にしたが、戦地で銃殺寸前の、フランス軍人ラクローズ連隊長の窮地を救う。
ラクローズはモンフェール家に招かれるが、そこで娘のブランジェを見初める。親友のブノワもブランジェを想っていた。やがてラクローズは命を落とし、ブノワはブランジェと結婚する。
セバスチャンは義妹のブランジェには、例え秘めた気持ちを抱いてたとしても、言葉に出すことは叶わなかった。

ブランジェはやがて双子の姉弟を出産。その双子はブノワとの間の子ではなく、ラクローズ連隊長との忘れ形見だった。ブランジェはボルドーの屋敷に住まわず、狩猟小屋で暮らした。
姉弟はエリーズとアルトゥールと名づけられた。



「コメ・ファッカスの秘密」

貴族たちが集うリスボンの社交の場で、ペドロの母アンジェラの醜聞をひけらかしていた夫人たちに、皮肉の刃を突きつけた男がいた。
ブラジルから渡ってきたという事業家の、アルベルト・デ・マガリャンエスがその男だった。
その激しい責めの口調に、夫人たちは言葉を失った。アルベルトは奴隷商ではないかなどと噂されてたが、正体は謎だった。

ディノス神父はそのアルベルトから、館に招待を受けた。
「あんたとは前に会ってるんだ」
ディノス神父はその言葉で初めて気づいた。ヒゲもじゃで、薄汚れた格好をしてた、あの頃の面影はどこにもない。いや野卑とも言える口の悪さは相変わらずだった。
アルベルトこそ、あのコメ・ファッカスだったのだ。
あの時神父から受け取った金貨を元手に事業を起こし、今は大成功して、貴族たちとも対等につきあえる立場となっていた。
アルベルトは昔の自分の行いを悔いてか、あの金を返したいと言う。
「ではその金はペドロの人生のために使うとしよう」

少年から成長を遂げたペドロは、フランス留学の機会を得た。そのフランス行きの船の中で、自分に視線を送ってる男がいた。アルベルトだった。
ペドロはパリで、初めてのオペラを観劇するが、その席で、アルベルトを凝視する女性が気になった。
彼女はエリーズといい、クリトン侯爵の夫人だった。
元の名をエリーズ・ド・モンフェール。ディノス神父の義妹ブランジェの娘だった。
エリーズは以前アルベルトと不倫関係にあったが、アルベルトが関係を清算しようと申し出てたのだ。
姉の名誉を傷つけたと、弟のアルトゥーロが決闘を申し込み、命を落としていた。

リスボンに戻ったアルベルトは意外な女性と結婚していた。ペドロの母アンジェラを幽閉してた、サンタ・バルバラ伯爵の愛人だったエウジェニアがその相手だった。
エウジェニアもまた伯爵の遺産分与に預からず、アンジェラに謝罪したいという気持ちを持っていた。
そのことをアンジェラは修道院で伝え聞いていた。そのペドロの母アンジェラは、コレラで命を落とした。

エリーズはリスボンにやってきて、アルベルトの知人の男を館に呼び、言葉巧みにアルベルトの住まいを聞き出した。
エリーズはアルベルトが不在の館で、妻のエウジェニアと会い、脅しをかけるような言葉を発して去って行った。
エウジェニアは恐ろしくなり、ベッドの下や、テーブルの下に隠れ、出てこようとしなくなった。

エリーズとは姪と叔父の関係にあるディノス神父を通じて、ペドロはエリーズと顔を合わせるうち、年上の彼女に強く惹かれるようになる。
そしてエリーズがアルベルトから受けた仕打ちを聞かされるうち、義憤に燃えるようになる。
ペドロはアルベルトに決闘を申し入れた。
なぜエリーズのために、つながりもないペドロが命を張るのか、アルベルトは面食らった。
しかもペドロは、アルベルトが自分の出生に因縁深い人物だとも知らない。
だがアルベルトはそのことを話すこともせず、決闘を受け入れた。

2012年6月26日

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フランス映画祭④『リヴィッド』 [フランス映画祭2012]

フランス映画祭2012

『リヴィッド』

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ベアトリス・ダルが、妊婦の腹から胎児を奪い取ろうと、執拗に襲いかかってくるという、2007年の血みどろホラー『屋敷女』で、「フレンチホラーの容赦なさ」を強烈に植えつけた感のある、ジュリアン・モーリー&アレクサンドル・パスティロ監督の新作ホラー。
トークショーに登壇したジュリアン・モーリー監督は、「バレエ教室」とホラーという設定は『サスペリア』からインスパイアされたものだと語ってた。


フランス、ブルターニュの小さな港町に住むリュシーは、20才前後だと思うが、定職がなく、ようやく訪問介護のバイトにありつく。カトリーヌという名の中年女性が車で迎えに来た。
彼女はリュシーの瞳を覗き込んで
「左右の色がちがうのね」
「なんて言うんだっけ?」
リュシーは医学用語の「ヘテロクロミア(虹彩異色症)」と応えた。
「美しいわね」
「瞳の色がちがう人は、二つの魂を呼び寄せるって言われてる」
カトリーヌの言葉に、何となく相槌を打った。

独居老人の家を回り、最後に訪ねたのは、人里離れた深い森の中に佇む、一軒の屋敷だった。
「ここはあなたには難しい。車で待ってて」
カトリーヌはそう言い残すと、朽ち果てたような門をくぐって、敷地に姿を消した。

リュシーは好奇心に駆られ、後を付いて行った。
森をかき分けて進むと、目の前に「チューダー調」とも何とも取れないような、異様な外観の屋敷が姿を現した。とても誰か住んでるようには見えない寂れ方だ。
玄関とおぼしき場所を見つけ、リュシーは恐る恐る中に入った。

中も人の生活の気配はない。奥まった部屋に入ると、ベッドの上に、人口呼吸器をあてられた老婆が眠っていた。もうミイラ化してるんではないかと思えるような、その生気の抜け落ちた表情。
呼吸器を通じて聞こえる、規則正しい音だけが、かろうじて老婆が生存してることを告げていた。
「車で待っててと言ったでしょう」
カトリーヌが姿を現し
「好奇心が強いのは、この仕事に向いてるわね」
この老婆はもう動けないが、屋敷の中には「財産」が隠されているという。
親族から介護を依頼されてると。
「その財産とやらは、私も探してみたけど見当たらないわね」


リュシーはカトリーヌに港まで送ってもらい、明日も同じ時間にと告げられ、別れた。
カトリーヌはリュシーを降ろした後に、ひと気のない田舎道に車を走らせた。
前方に少女が自転車を漕いでいる。カトリーヌはゆっくりと少女の横に、車を寄せて行った。

カトリーヌの住むアパートの風呂場から物音がしてる。
バスタブは赤く血で染まり、さっきの少女の足が片方、バスタブからはみ出してる。
血まみれの少女の死体が、中に横たわり、タバコをくわえたカトリーヌは、無表情でなにか作業でもするように、手を動かしている。


リュシーは夕暮れになり、漁師をやってる恋人のウィリアムを、港で待っていた。
ふたりはいきつけのバーに立ち寄り、リュシーは今日の仕事のことを話した。

「あの屋敷に行ったのか?子供の頃、母さんに、あそこには行くなって言われてたぞ」
リュシーが屋敷にお金が隠されてるらしいと、何気なく言うと、ウィリアムは俄然興味を示した。
「盗みに行こうっていうの?」
リュシーはそんなことを考えるウィリアムに失望する。だが
「こんな所でくすぶってていいのか?」
「将来なんか描けやしないぞ、こんな町で」
ウィリアムはもう乗り気で、友達のベンにも話をした。

リュシーはうんざりとその場を去るが、家に帰ると父親は、どこかの女性らしき相手と電話してる。
「お母さんが死んでまだ8ヶ月なのよ!」
だが父親はそのまま外出してしまった。風呂場のバスタブに腰掛け、もの思いにふけるリュシー。
バスタブで首を括って死んだ母親の幻影が、リュシーの頬を撫でている。
リュシーは家を出たいと思い、ウィリアムに連絡した。
「なにも壊さないと約束して」


夜の闇にまぎれて3人が屋敷に忍び込むと、さっそく「宝探し」が始まった。リュシーは廊下にある盾を眺め、ここが以前バレエ学校だったことを知る。
屋敷の所所に錠がかけられたり、封印されたような扉があった。

その中のひとつの部屋で、3人はベールで覆われた一体の、等身大の人形を見つける。
バレエの衣装を着た少女の像で、肌は真っ白で生身のような質感だった。
それが不意に体を動かした。台座が回り、機械仕掛けのように、カクカクと手を上げたりする。
あまりの不気味さにウィリアムが思わず殴りつけた。
その瞬間、突き上げるような物音が響いた。

あの老婆が眠る部屋からのようだった。怖くなった3人は退散しようとするが、忍び込んだ半地下の部屋の窓には、いつの間にか格子がはまり、どのドアも開かなくなってる。
ウィリアムもベンも蒼白だ。リュシーは、昼間に老婆の部屋の窓を、換気のために開け放ちたことを思い出した。
「あの部屋だわ!」
だが部屋に行くと、ベッドの上に老婆の姿はなく、あったはずの窓すらない。

必死に出口を探す中、ウィリアムは全身を映す鏡に吸い寄せられていた。
鏡面のくもりを払うと、背後にはあの老婆が。
次の瞬間、ウィリアムの姿は消えた。

ウィリアムがいたのは、窓もドアもない作業場のような部屋だった。
手術器具のようなものが置かれている。
ホルマリン漬けの胎児の瓶が並んでる。

うろたえるウィリアムは太腿のあたりに激痛が走った。バレエの少女のように見える。
刃物で切り付けてくる。3人いる。笑いながらウィリアムの首を刃物で裂く。
絶命寸前のウィリアムの喉笛に、一人が噛み付いた。


出口がない。ウィリアムも見当たらない。恐怖にかられ、ひたすら錠前を壊そうとするベンを残し、リュシーは剥製がテーブルを囲む部屋に入った。
テーブルの向かいには黒いベールのあの老婆が現れ、リュシーは伸ばされた両手に、自分の手を合わせる。
その瞬間ヴィジョンがリュシーの前に広がった。

バレエ教室の光景だ。幼い少女たちにレッスンをつけてる黒衣のバレエ教師。険しい顔つきをしてる。
うまくできない一人の少女に「帰りなさい」と告げる。
少女が奥で帰り支度をしてると、ドアかげから別の少女が笑って見てる。
悲鳴がとどろき、教師はほかの少女たちを帰らせた。部屋に入り、言った
「知らない人間を襲っちゃ駄目だと言っただろ!」

教師の名はジェセルといい、彼女の前で、口の周りを血まみれにして笑ってるのは、娘のアンナだった。生徒の少女は首から血を流し絶命していた。

アンナはそのまま屋敷の外に出た。薄日が差す庭に出ると、アンナの体は宙に浮き始め、肌にひび割れが生じてきた。アンナはヴァンパイアだった。
気を失った娘を、ジェセルは抱えて部屋に戻った。その一部始終を見ていた生徒がいた。
「なぜ帰らなかった?」
その生徒こそがカトリーヌだった。

ヴィジョンがそこで潰えて、リュシーが気がつくと、老婆の姿はなかった。
「みんな殺される」
リュシーはベンを呼んだ。だがもうすべては遅かったのだ。


バレエ教室の恐ろしい秘密、少女たち、鋭利な刃物と、たしかにダリオ・アルジェントの
『サスペリア』的世界を彷彿とさせる。虫が出てくるあたりは『フェノミナ』も入ってるかな。

それとともに、その蛾のサナギを体内に埋め込まれる場面や、機械仕掛けの人形や、緑に覆われた森の風景など、ギレルモ・デル・トロのホラー映画を模してるようなテイストも感じる。

前作の大血みどろ劇に比べると、絵的な美しさが際立ってる。
リュシーはその後、アンナと「交感」することになるんだが、少女ふたりが海岸へと向かう光景に、もうおどろおどろしさはなく、清々しさすら漂って、ただ美しい。


ジュリアン・モーリー&アレクサンドル・パスティロ監督の作品は、まだ『屋敷女』とこの『リヴィッド』だけだが、共通するのは、「歪んで、暴走する母性」というモチーフにある。
そしてその「母性」に対抗しうるのも女性であり、とにかく男の役に立たない感が際立ってるね。

今回の映画も、ヒロインのリュシーは、母親を自殺で失ってるという「欠損感」を抱いてる。
「母を求める気持ち」を抱きながらも、ジェセルの歪んだ母性を、決然と突き放さなければならない。
そのことはラストの見せ場に表れるんだが。

トークショーで、ジェセルを演じたマリー・クロード=ピエトラガラについて質問してた女性がいたが、バレエの世界では有名なエトワールだそう。
痩せぎすの険しい表情が怖い。かなりなインパクトだね。


だがなんと言ってもリュシーを演じるクロエ・クールーだ。可愛いというか美しいというか、最初の場面から見惚れてしまった。フランスの美人ていうのはホントに美人だよね。
彼女がヒロインとなったことで、俺にとっては「入り込み度」がてきめんに増したのだ。

片目はコンタクトで、ヘテロクロミアを表現してたと思うが、ブルーの瞳と、ダークグレーの瞳。それが美しく調和してる。彼女を起用した監督お手柄!


9月公開で例によって「シアターN渋谷」なんだが、おぞましい場面はあるにせよ、少女ヴァンパイアとか、謎のバレエの館とか、ヒロインの美しさとか、耽美なイメージを前面に押し出して宣伝行えば、女性にアピールできると思うな。
銀座テアトルシネマや、シャンテとか、そういうミニシアター系でもかければいいのに。
一時期少女系ホラー漫画誌がけっこう出てたけど、もう下火なんだろうか。
そういう所とタイアップするのに絶好の内容だよ。

2012年6月25日

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フランス映画祭③『スリープレス・ナイト』 [フランス映画祭2012]

フランス映画祭2012

『スリープレス・ナイト』

スリープレスナイト.jpg

この日は1日のプログラム4作品全部を見て、レイト上映が終わった時には23時半近くになるというヘビーな1日だったんで、勢いで書き飛ばせそうなアクションのコメントから入れてこうと思ったんだが、これも結構人間関係が入り組んでましてね。

映画の冒頭、車載カメラで道路を映す、そこにオープニング・クレジットが、画面上から下に流れていく。俺が過去に見た中で、クレジットが「下りてくる」映画は、
ジョージ・ルーカスのデビュー作『THX-1138』と、
ラモント・ジョンソン監督の1972年作『爆破作戦/基地に消えた男』などがあるが、
ロバート・アルドリッチ監督が、探偵マイク・ハマーを扱った
1955年作『キッスで殺せ!』も、たしかオープニングで、疾走する夜の路面に、クレジットが下りてきたように記憶してる。

この『スリープレス・ナイト』は、コカインを横領した刑事と、刑事の息子を誘拐したマフィアと、刑事の行動を不審に思い、後を尾けてきた別の刑事の、三つ巴の戦いの一夜を描いて、まさに50年代のアメリカの犯罪映画へのリスペクトを、『キッスで殺せ!』のクレジットを模するオープニングによって表明してるんじゃないか?

などと思いながら見てたが、上映後のトークショーで、監督はむしろ『チェイサー』など、近年の韓国の犯罪アクションの、ボルテージの高さに惹かれているのだと言う。
マフィアの根城でもある、巨大なナイトクラブを舞台に、追いつ追われつ、攻守逆転のノンストップ・アクションが展開され、ハリウッド・リメイクも決定してるそうだ。


潜入捜査によって、大規模なコカインの取引があることを掴んでた刑事二人は、取引場所に向かうマフィアの車を、市街地の路上で白昼に襲う。目だし帽を被ってはいたが、トランクを開けさせた所で反撃にあい、一人は撃ち殺すが、もう一人は取り逃がしてしまう。
コカインの詰まったバッグは奪ったが、逃げた男は、襲ったのがヴァンサンだと気づいて、ボスに告げた。ボスのジョゼ・マルシアーノは、ヴァンサンのケータイを鳴らした。
「お前の息子を預かってるぞ」

同僚刑事のマニエルは、奪ったコカインで借金を片付けようとしてたが、ヴァンサンは凄い剣幕で、強引にバッグを出させ、マフィアの待つ、巨大なナイトクラブに急いだ。
一袋だけポケットに入れ、バッグは男性トイレの天井裏に隠した。
だがバッグを持ってクラブへと入って行くヴァンサンを、女性刑事ビネリが尾行してた。
ヴァンサンとマニエルの行動に不審を抱いていたビネリは、上司のラコムに連絡を入れ、自分もクラブへと向かった。

ダンスフロアは客たちでごった返していた。ヴァンサンは奥まった鉄製の扉で隔てられた部屋に通された。
ジョゼとコカインの取引相手のトルコ人たちが居合わせた。
ヴァンサンはしたたか殴られるが、ポケットのコカインは本物と認められた。
「息子をここに連れてくれば残りを持ってくる」
ジョゼは別の部屋に軟禁した息子のトマを引き合わせる。

ヴァンサンは「3分で戻る」と部屋を出る。男性トイレに戻り、天板を開けるが、置いたはずのバッグがない!
実はヴァンサンの後を尾けてたビネリが、そのバッグを女性トイレの天井裏に移しておいたのだ。

パニックを起こしたヴァンサンは、クロークに、黒いバッグが届いてないか?などと尋ねるが、天井裏に隠した物が、遺失物として届いてるはずないだろ。
ヴァンサンは何を思ったか、厨房に乗り込んだ。
警察手帳を見せ、下働きのインド人を目につけると、引っ張っていき
「小麦粉はどこだ?」
「不法入国でしょっぴくぞ」
と脅され、言われるがままに、小麦粉をビニール袋に詰めてく。ヴァンサンはそれをガムテープで包む。インド人の私物のバッグに詰めてくと、バッグのジッパーをすぐに開かないように細工する。

何食わぬ顔で、ジョゼたちの部屋に戻ったヴァンサン。トルコ人は物を確かめるため、バッグを開けようとする。
ヴァンサンは出し抜けに
「俺は潜入警官だ」
「この店に警官が集まってきてるぞ」
ジョゼたちは半信半疑だ。扉を叩く音。
ヴァンサンが「5分後に部屋に酒を持って来い」と言っておいた新米のボーイだ。
だが焦ってるジョゼたちは、監視カメラで「知らない顔だ」と。
ヴァンサンに「早く逃げろ!」と急き立てられ、トルコ人たちは外で待つ車に乗り込んだ。


トマは監視役の男とプールバーにいる。ヴァンサンはクラブの巨大な空間を、人の波をかき分けながら移動する。ヴァンサンがトマの手を引いてクラブの入り口を目指してる、丁度その時、トルコ人たちが血相変えてジョゼの前に戻ってきた。

「こりゃなんの冗談だ?」
小麦粉のビニールをジョゼの顔にぶつけ、撃ち合いとなり、トルコ人は死ぬ。
「あいつが独り占めしようとしてる」
「息子を返すな!」

手を引いていたトマは、フロアの人混みの中で、再びマフィアに奪い去られる。
ヴァンサンはコカインを強奪した時に、脇腹を刺されていて、傷口から血が滲み始めていた。
厨房にとって戻り、救急箱を漁って、非常階段で傷口を塞いだ。
コカインのバッグはない。息子は奪い去られた。
手を尽くせない絶望に、ヴァンサンは嗚咽した。


どこをどう歩いたか、辿り着いたのは、ホステスたちが男と絡み合う「会員制バー」のような空間だった。なにも働かない頭で、酒をあおるヴァンサン。
カウンターの女性が電話でなにやら注文をとってる。
ミルクとピーナッツ。それが妙に引っかかった。

彼女はカウンター奥の部屋を暗号のようにノックしてる。
「ひょっとしてあの部屋に?」
だが同時にヴァンサンがバーに居ることは、ジョゼに伝わっていた。

女性刑事ビネリから報告を受けた上司のラコムも、クラブにやってきた。
ビネリから、バッグを女性トイレに隠してあることを訊く。
ビネリには引き続きヴァンサンを追跡させた。
そしてラコムは警察手帳を手に、女性トイレに入り、天井裏からバッグを運び出した。


とにかくこのクラブが巨大だということは分かるんだが、構造がどうなってるのか、俯瞰できないから、前半はヴァンサンがクラブ内の空間を右往左往する場面が繰り返され、見てる方もストレス溜まる感じがある。

マフィア側も、自分たちの根城なわけで、監視カメラが至る所に設置されてるってことは、ヴァンサンがバッグを持ってトイレに入るような所も映ってなかったのか?

それとダンスフロア内で、しかも薄暗く視認が困難な状況が、ヴァンサンを捕らえ切れないんだとすれば、消防とかの理由をつけて、一旦フロア全体の照明を点けてしまえばいいのにねえ。
マフィアにとっては一大事なはずなのに、律儀に営業続けてる場合じゃないような気がするが。

後半、息子を取り返すため、形振りかまわなくなったヴァンサンと、ジョゼたちマフィアの争いに、ビネリの上司ラコムが参戦する。ラコムこそ、今回のコカイン横領の黒幕なのだ。

ヴァンサンとラコムがクラブの厨房内で格闘する場面は、厨房内においては、過去に見られない位の凄まじいアクション描写に仕上がってる。スタントマンが入っているだろうが、生傷、打ち身とは半端ないだろうな。
この後ふたりは非常階段でも格闘を続け、もう満身創痍の度を越してる。
このラコムのキャラは、韓国映画『哀しき獣』のキム・ユンソクを思わせると書けば、想像つくだろう。

後半の一気呵成にたたみ掛けていく演出に、それまでの細かいこともどうでもよくなってくんだが、終盤はちょっと胸熱な描写もあったりして、昨年の『フランス映画祭2011」で見た
『この愛のために撃て』と同じように、フランスのアクション映画が、様変わりしてるのを、まざまざと見せ付けられる思いだ。
日本映画はこのジャンルでは、それこそ「ガラパゴス」なみに取り残されていってるね。


主人公ヴァンサンを演じるトメル・シスレーは、演じてて一番難しかったのは、女性刑事ビネリに、バッグの隠し場所を履かせるために、痛めつける場面だったと、トークショーで語っていた。

この映画の登場人物の中では、息子のトマを除いて、善人と呼べるのは、この女性刑事くらいなので、俺もこの場面は演技とはいえ、何度も冷蔵室の棚に体を打ち付けられたり、見ていて痛々しかった。
彼女はさらに災難に見舞われることになるんだが、他の男たちの誰が死んでも構わないが、ビネリだけは死なんでほしいなと思ったよ。

なにか教訓とか、テーマが込められたようなドラマじゃあない。
追い詰められた主人公の一挙手一投足に固唾を呑んでればいいのだ。

2012年6月24日

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フランス映画祭②『愛について、ある土曜日の面会室』 [フランス映画祭2012]

フランス映画祭2021

『愛について、ある土曜日の面会室』

愛について、ある土曜日の.jpg

監督は31才の女性レア・フェネール。これが長編1作目で、すでに数々の映画賞を受賞してる。
それも頷ける出来栄えだ。
上映後のトークショーで、監督はカサヴェテスやキエシロフスキに影響を受けたと語ってたが、この題名も、キエシロフスキ監督の『愛に関する短いフィルム』を思わせる。
人物に肉迫しようという、強い眼差しは感じるが、突き放したり、酷薄さを追い求めるような方向ではなく、どこかに女性監督の「母性」の柔らかさも流れている、そんな感触がある。

3組の登場人物それぞれのエピソードが、土曜日の刑務所の面会室へと収斂されていく、その脚本は、レア・フェネール監督自身が、身内を刑務所に収監された家族をフォローするという、ソーシャルワークの経験などから紡ぎ出したものだという。


『ローラとアレキサンドルとアントワーヌの場合』

女子サッカーチームに所属する16才のローラは、帰りのバスの中で、アレキサンドルと名乗る青年に声をかけられる。
「この名前は俺自身がつけたんだ」
額に怪我を負い、ヤンチャそうだったが、ローラはこの青年に惹かれるものがあり、同じ停留所で降りる。
二人は夜の町を歩き続け、空き家となってるアパートに忍び込んで一夜を明かす。
二人がつきあい始めてほどなく、アレキサンドルが警官に暴行を働き、逮捕されたと連絡が入る。
刑務所に面会に行きたいが、未成年のローラには、成人の同伴が義務づけられてる。
彼氏が刑務所にいるなどと親には言えない。

ローラは偶然雨宿りした献血車にいた、病院スタッフのアントワーヌに、付き添いを頼み込む。
見知らぬ男と面会に来たローラを、アレキサンドルは訝しい目で見た。だが塀の中の寂しさを紛らわすように、アントワーヌの見てる前で、ローラの唇を欲した。

だがローラが妊娠してることがわかり、アレキサンドルも過酷な環境で毎日を過ごすストレスから、ローラへの優しさは失われていた。
最初は面白半分に若いカップルを見ていたアントワーヌの心の中も、ローラへの思いでざわめきつつあった。


『ステファンとエルサとピーターの場合』

ステファンはスクーターで、病院へ血液を運ぶ仕事をしてるが、配送時間を守れないなど、仕事ぶりは芳しくなく、母親に金を無心することさえある。
恋人エルサはそれがふがいなく、またステファンの母親とも、角突き合わす関係だ。
なにもかもうまくいかない。

ある日エルサは町で暴漢たちに絡まれ、怪我を負うが、ポールという男に追い払ってもらったという。
ステファンはエルサを見舞った病院で、ポールに礼を言うと、相手はステファンの顔を「信じられない」という表情で眺めてる。友達に瓜二つの奴がいると。
ステファンは飲みに誘われ、それ以来、頻繁にポールと会うようになる。

エルサは警戒感を滲ませてた。ポールはうさん臭いと。
身なりは整ってるが、どこか凄みを漂わせている。
エルサの予感通り、ある晩ポールはステファンに、奇妙な依頼を持ちかけた。

刑務所に君に瓜二つと言った男が入ってる。実はこの男は大金を持ってるんだが、本人が塀の中では金を動かすこともできない。
報酬ははずむから、面会に行って、すり替わってほしいと言うものだった。

ステファンは耳を疑った。自分はダメな男かもしれないが、犯罪に手を染めたことはない。
ポールは食い下がった。その男の身柄を安全な場所に移した時点で、弁護士を寄こす。
身代わりになったと言えば、指紋などですぐに分かる。罪は罪だが大した刑期にはならないと。
ポールの「カタギではない」雰囲気にも気圧されて、ステファンはその依頼を呑むことに。

だが決行の日が近づくほどに決意は揺らぐ。腹を括りきれないステファンに、ポールは恫喝し、なおも萎縮させることに。
そして仕事に必要なスクーターが何者かに盗まれたことで、いよいよステファンは窮地に陥る。


『ゾラとセリーヌの場合』

アルジェリアに住むゾラのもとに、息子の悲報が届く。フランスから遺体が空輸され、ゾラは遺体安置所で、変わり果てた息子の体を拭いた。その胸には深い刺し傷が残っていた。
息子はなぜ殺されたのか?ゾラはフランスへと渡った。

ニュースや新聞に、その殺人事件は取り上げられていた。息子を殺害した加害者は逮捕されたという。
加害者の告白を聞いた姉が、警察に通報したらしい。
胸を何度も突いていることから、愛情のもつれが原因ではないかと憶測していた。
加害者は男だった。

ゾラは、加害者の姉の居所を探し、その職場を突き止めた。
事務所の外から眺めてると、中で女性が泣き崩れている。
ゾラは中に入り、彼女に声をかけた。
「泣いてる理由はわからないけど」と慰めの言葉をかける。
女性はいきなり声をかけられ、拒絶するような仕草をした。
ゾラは謝罪して表に出た。すると女性は後を追ってくる。
それがゾラと、息子を殺した加害者の姉セリーヌとの出会いだった。

ふたりは公園でしばし話し込んだ。見ず知らずの人間に、優しい声をかけてくれるなんて。
セリーヌはゾラの人間性を見込んで、思いもよらぬことを口にした。
「私の子供たちの面倒を、昼間見てもらえませんか?」
セリーヌは出し抜けな依頼を断られると思ったが、ゾラは快諾してくれた。

ゾラが家に通うようになり、すっかり打ち解けた二人だったが、セリーヌのショックは癒えてなかった。どうしても刑務所に、弟の面会に行くことができない。ゾラは言った。
「私がかわりに行きましょうか?」
セリーヌは一瞬面食らった。なんの関係もない弟に、なぜ会いに行く必要が?
「身内であれ、誰であれ、面会に来てくれることが、刑務所で孤独に過ごす人にとって、どれだけ嬉しいことか」
と、弟の心情を代弁するようにゾラは言った。
ゾラは、姉の代わりに、弟の面会に行くこととなった。


ステファンのエピソードと、ゾラのエピソードには、ミステリー的な要素が仕込まれており、面会当日に何が起こるのか、目を逸らせない展開が見事だ。
これが長編1作目とは思えない、腰の据わった語りっぷりだ。

刑務所の中の世界は、甘えなど許されないシビアな世界だろう。自分のことを無条件で肯定してくれるような、肉親も恋人もそこにはいない。
だからといって、外の世界にも、安息があるわけでなく、生き難さを感じる人々の吐息が、ガスのように充満している。

刑務所の「面会室」という所は、離れ離れになって初めて、互いの存在の大切に気づかされ、抱擁を交わすほかない場所であり、塀の中も、外にも厳しい現実がある、この世界において、唯一の「人生の緩衝地帯」といえるのかもしれない。

面会室での「成り代わり」というのは、監督によると、フランスの刑務所では結構あることなんだそうだ。このエピソードに関しては、黒澤明監督の『影武者』を参考にしてる部分もあると語っていた。

俺が思い出したのは、リチャード・ギア主演の1992年のサスペンス『愛という名の疑惑』だ。
あの映画の中で、姉妹を演じるキム・ベイシンガーと、ユマ・サーマンが、やはり面会室で入れ替わる場面があった。
「どう見ても似てねえだろ」と、当時はツッコミ入れて見てたんだが。

ゾラのエピソードに関しても、1本思い当たる映画がある。
1998年の『HEART/ハート』だ。
交通事故で脳死判定を受けた、17才の少年の心臓を移植された男を突き止めた少年の母親。
彼女は男と愛し合うようになるが、最後には男を殺して、心臓を抜き取ってしまう。

それは狂気に陥った行為と思われたが、その少年の母親には、真の目的があった。
その殺人行為によって、刑務所に入れられた母親。
その同じ刑務所に、ハンドルを誤って、息子の命を奪うことになった女性が収監されてたのだ。
その目的が果たされようとするラストは底冷えするような怖さだった。

俺にはその映画の記憶があったんで、ゾラが面会室でどうするのか、固唾を呑んでしまったよ。

ゾラを演じてたのは、この同じ有楽町朝日ホールで先月見た『ジョルダーナ家の人々』に出ていたファリダ・ラウアッジ。
あの映画でも、ヨーロッパに渡ったまま消息のない娘を探しに、イタリアに密航して渡ってくる、イラク人の母親を演じていた。ベビーシッターをすることになる流れも同じだね。
『ジョルダーナ家の人々』での演技が、このゾラ役への起用につながったんだろうか?

それからびっくりしたのが、ゾラと出会うセリーヌを演じてるデルフィーヌ・シュイヨーだ。
彼女が出てくる最初のカットで
「えっ、シャーロット・ランプリング?」
と思わず目を疑った。もう髪の短さに至るまで、若い頃の彼女そのまま。

デルフィーヌシュイヨー.jpg

というより最初はシャーロット本人かと思い
「アンチエイジングってやつか?」とまで考えてしまったぞ。
『パンドラム』に出てるっていうけど憶えてないんだよな。

ひょっとしてシャーロットの娘なのか?いやここまで似てると俺もさすがに落ち着かない。
伊藤歩と木村文乃くらい似てる。
最後にどーでもいいことで締めることになってしまったのは忸怩たるところである。

2012年6月23日

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フランス映画祭2012①『短編6作品』 [フランス映画祭2012]

フランス映画祭2012

フランス映画祭2012.jpg

『短編6作品』

GWの「イタリア映画祭」に続き、有楽町朝日ホールをメイン会場に、6月21日(木)から24日(日)まで開催される、「フランス映画祭」も今年で20回を数えるという節目の年。
それでも公式カタログは昨年に引き続き、販売はされなかった。
昨日のオープニング作『最強のふたり』は、昨年の東京国際映画祭で見てるんでパスし、今日からがスタートだ。

俺はあんまり短編映画を積極的に見たりはしないんだが、今回のプログラムはなかなかアイデアに富んだラインナップではないかと思い、見ることにした。
悪天候もあるが、ゲストが気の毒になるくらい、客席が埋まってない。


6作品を上映順にコメントしてく。
1本目は鉛筆で濃淡まで出したかのようなタッチの、モノクロのアニメ


『ビンぞこメガネ』

少年アルノーは極度の近視で、度の思いっきり強いメガネをかけてる。学校ではそのメガネは格好のネタとなり、「ビンぞこメガネ~!」とあだ名されるようになる。
「こんなメガネ要らない」
メガネを外すと、世界はぼんやりと見えて、ただの置物や道端の影が、モンスターや一角獣なんかに見えてくる。
このアニメはナレーションを、怪優ドミニク・ピノンが行ってるが、ユニークなのは、その声の主は、少年が見てる幻影のモンスターなのだ。
「少年がメガネを外して世界を眺めることをしなくなれば、もう自分たちも存在できなくなる」
子供から大人に成長してく過程で、失われていくイマジネーションに遊ぶ力を、このアニメは独特のモノクロ世界に塗りこめていた。


『宇宙からの巨大生物の襲来』

1950年代はアメリカ人がパリに憧れを抱いていた時代。その時代のテクニカラー・ミュージカル風に、明日からパリ旅行と浮かれるカップル。
だが彼らの家の庭先に、巨大なタコの形をした宇宙人が襲来。人々はその触手を頭に突き刺され、ゾンビへと変えられてしまう。
カップルは町で出会った科学者とともに、宇宙人撃退に立ち上がる。
『宇宙水爆戦』のような宇宙人が襲来する部分はモノクロになってて、1950年代のハリウッドSFのテイストを再現してる。
ふたつの「アメリカン・レトロ」の世界をミックスして、フランス人に演じさせた19分のファンタジー・コメディ。
秘策を講じたつもりが、あっさり宇宙人に殺される彼氏を目の当たりにして、即座におじいさん博士に乗りかえるヒロインが可笑しい。


『ラスト・ワゴン』

唯一ゲストとして、トークショーに登壇した監督フェッド・マンスールによると、このモノクロの短編は、西部劇の決闘場面をモチーフに、搾取される労働者たちの、誇りと連帯の精神を描こうとしたものだという。
題名はデルマー・デイビス監督の西部劇『襲われた幌馬車』から取られてる。
建設現場の3人の男のもとに、社長からの使いがやってくる。経費削減で、ひとりをリストラすると。
年寄りのリーダー格の男は、まず標的にされた仮採用の若者を、労働規約を盾にかばう。
すると社長の使いは今度は移民の男に照準を向ける。
ここでもリーダーの男は、移民の男には重機を操るスキルがあり、いなくなれば工期は延びると使いを脅す。
最後にそのリーダーが標的になると、今度は若者と移民の男が
「リーダーが図面を引かなければ、仕事は進まない」
と主張。両者の白昼の工事現場の睨み合いの行方は?
横並びの3人が、『リオ・ブラボー!』の、ジョン・ウェイン、ディーン・マーティン、リッキー・ネルソンを思わせる。
ウェスタン調の音楽も気分を盛り上げてた。


『踏切警手』

線路脇にポツンと佇む一軒の家。住人のおばあさんは、電車が近づくと、遮断機を下ろす役目をもう長いこと行っていた。寂しさを紛らわすのは、一頭の牛とバイオリンだけ。
ひと気もない荒野だが、パソコンはあるんで、おばあさんもググったりしてはいる。
電車が通過する時に、線路の前でバイオリンを弾くんだが、もちろん聴いてはもらえない。
ならば電車を停めてやろう。おばあさんのあの手この手の奮闘が始まった。
極端に歪んだフォルムと、パッチワークのような色使いの独特な味わいを見せるアニメーション。
セリフはなく、サイレントのドタバタ喜劇のような趣もある。


『人間運送』

これは6作品の中で、俺が一番気に入った短編。これを見れただけで収穫だと思えた。上映作品の中で最長の30分の作品。

運送業を営む一家の長男フランク。体格は大きく「気は優しくて力持ち」ではあるが、物静かで、弟からは「変わり者」と見られてる。父親は稼業に誇りを持ってたが、フランクは
「寝る時までダンボールに囲まれてるのはもう嫌だ」と言い出す。

通りがかりに、産気づいた妊婦がおり、フランクが抱え上げて病院まで連れて行ったことがきっかけだった。無事出産に間に合い、妊婦の夫は感激して、フランクの名を息子につけると言ってくれた。
「もっと人の役に立ちたい」
人を抱えて運んでこんなに喜ばれたのだ。

フランクは「人間運送」を開業しようと、資金援助に事務所を訪れる。手製の腰掛けを背中にセットし、担当者を乗せると、一遍で気に入られる。フランクは町でチラシを配り、客を待った。
最初に連絡してきたのは、足が弱り外出できなくなった老婆だった。フランクは彼女をおぶって町を巡った。
人をおぶって町を歩くフランクの姿は、町の住民たちに知られるようになり、フランクを気に入った顧客の女性が、マネージャー役を買って出て、「人間運送」は軌道に乗り始める。

その頃父親は仕事の最中に首を痛め、家計はピンチに。
「息子は勝手なことをしてる」と思われるが、母親は気の優しいフランクの考え方に理解を示していた。
フランクがその背におぶる客はいろいろだった。
おぶられることで、人の温もりを感じて癒される者、スーパーで高い棚の品物ばかり手を伸ばすために、背中に乗る者、みなそれぞれに感謝されたが、中には夜中ひとりで淋しいからという理由だけで、夜通しフランクの背中に張り付く男もいて、フランクはさすがに疲労がたまり、寝込んでしまう。

その間にも予約を取った客たちが、一家のアパートに押し寄せる。一家はフランクの母親お手製のスープでもてなし、フランクの回復を待ってもらう。
いつしか一家のアパートはサロンのようになり、父親や弟も、フランクがいかに人々に頼りにされてるのかを悟る。ようやく目を覚まして人々の前に姿を現したフランクに、弟は言った
「俺も手伝うよ」

人が人をおんぶする、その光景がこんなに胸を打つもんだとは。
しかもそれは肉親ではなく、見ず知らずの人間同士なのだ。
たくさんの「人間運送」が往来をすれちがうラストシーンの美しいこと。
そしてこの物語を成立させてるのは、フランクを演じるヴィクトール・カタラという役者の個性だろう。
ゴツい体つきなのに、くまのプーさんみたいな優しい表情をしてる。映画の最後のカットは彼の笑顔のアップだが、監督がそうしたくなる気持ちもわかる、すばらしい笑顔だった。


『近日公開』

この短編のタイトルの意味は、映画の予告編の最後に出る「近日公開!乞うご期待」から来てる。
ある一組のカップルの出会いと、その後の展開を、4つの異なったジャンルの映画の予告編に見立てて描くという、アイデア賞ものの作品。

全然女にモテない男と、男にモテモテの女。交わるはずのない二人が運命の出会いをするという、ラブコメ風の「出会い編」、
結婚した二人が新居に勧められた屋敷は、怪奇現象が続出するという「悪魔の棲む家編」、
倦怠期を迎えた夫婦のもとに、夫の旧友が訪ねてきて、次第に妻と距離を縮めていくという、ロメールっぽい「妻の選択編」、
不倫の様子を目撃した夫が、蚊に刺され、なぜか特殊能力を備える。一方、旧友の男は最初から妻となる彼女を狙っていて、二人の出会いから、幽霊屋敷で消耗させ、別れさせようとしたり、すべて仕組まれたものとわかる。しかし時すでに遅し、旧友の男は筋肉モンスターに変身し、二人の男は決戦へとなだれ込むという「モスキートマン編」の4本。
タランティーノとロドリゲスが『グラインドハウス』でやった「フェイク予告編」みたいな味で楽しめる。


最後にひとつ苦言なんだが、昨年の映画祭でもかなりイラつかされたのが、作品によって、字幕が非常に読みづらいということ。
昨年でいえば、ジェラール・ドパルデュー主演の『マムート』は、バックが白い場面など、ほとんど字幕が白に潰されてしまい、読み取れなかった。

相当苦情は出てたはずで、今年はその部分は改善されてるのだろうと思ってたが、いきなり短編一発目の『ビンぞこメガネ』で、もう所々字幕が見えない。
もう1本やはりモノクロの『ラスト・ワゴン』も、周りが白い風景なんで、字幕がかかるともう駄目だ。

当然試写の段階で「字幕読めないねえ」って話は上がってるだろう。
なんで改善されんかな。主催者、怠慢なんじゃないか?

2012年6月22日

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