大災害は必ず来る!という叫び [映画タ行]

『テイク・シェルター』

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カーティスはある日を境に、就寝中の悪夢に悩まされるようになった。おそろしくリアルな悪夢だ。
竜巻の被害も珍しくない中西部の一軒家に暮らしてるが、夢に出てくる竜巻は規模が桁違いだった。
オイルのような黄色い雨が降りかかる。
次の晩の悪夢には、その雨に打たれた飼い犬が、突然カーティスの腕に噛み付いてきた。夢の中の出来事なのに、腕の痛みが一日引かなかった。
その次の晩には、雨に打たれた人間たちが、カーティスの運転する車を襲い、助手席の娘ハンナをさらっていった。あまりの恐ろしさに、目覚めると失禁していた。

カーティスは自らの変調を「もしや」という思いで、長年施設に暮らす母親を訪ねる。
カーティスの母親は、まだ10才だった彼を、スーパーの駐車場の車に置き去りにして、行方をくらました。しばらくして、近くの町でゴミを漁ってる所を保護された。
妄想型統合失調症と診断され、それ以来施設での人生を送ってきたのだ。
「母親と同じ病気を発症したのか?」

カーティスはかかり付けの医者から、精神科のカウンセラーを紹介してもらい、薬を処方される。
その晩は熟睡できたが、今度は工事現場で働く昼間に、幻聴が起こる。
晴天なのに雷鳴が何度も聴こえるのだ。
妻のサマンサは夫が無口になり、表情も優れないことを心配していた。
娘のハンナは耳が不自由だったが、人口内耳手術を受けられる決定がなされ、夫への杞憂はかき消された。
だがカーティスの悪夢はリアルさを増し、明らかにカタストロフが訪れるという確信が生まれていた。


この辺りの家には「竜巻用」のシェルターがどの家にもある。だがその程度のものでは持ちこたえられない。
カーティスは町で見かけた中古のコンテナを購入することにした。
サマンサには相談もせず、家を担保にローンを組み、大規模なシェルター作りに動き出した。
休日に会社の重機を無断で持ち出し、同僚で親友のデュワードの手を借りて、庭を掘り起こす。
サマンサはひと言の相談もないことに怒りを露にする。
だがカーティスはシェルター作りに邁進するのみだ。

その間も悪夢は続き、デュワードに襲われる夢を見る。今やこれは予知夢だと思い込むカーティスは、親友を自分の現場から外すよう、社長に願い入れる。デュワードはその行いの真意がわからず、社長に重機の件を報告したことから、カーティスの奇異な行動が発覚。社長からクビを言い渡される。

サマンサは愕然とした。娘の手術は6週間後に決まっていた。
だが解雇された夫の保険は2週間の有効期限しかない。それは手術を諦めるということなのだ。
サマンサは夫の頬を打った。
「出て行くのか?」
だがサマンサは返事をしなかった。


エンディングの情景を含めて様々な解釈ができそうな映画だ。
映画の最初の方で、カーティスが親友のデュワードを車で送ってやる場面がある。
デュワードは「今度、女房と3Pやるんだ。太った女と知り合ってな」などとバカ言ってる。
「おまえんとこの夫婦はまともだもんな」
と言われて苦笑いを返すカーティス。

建設現場で真面目に働き、優しい妻と、耳は不自由だが可愛い娘との生活。
幼い頃、母親に置き去りにされて、父親の手で育てられたカーティスは、つつましくも、家庭を築き、平穏に暮らす夢を実現させたのだ。

だが妻のサマンサは娘とのコミニュケーションに不可欠な手話を身につけようとしてるが、カーティスはあまり積極的にはならない。カーティスは家族への関心が薄れつつあるのか。

だがもし大きな災害が起きるようなことがあれば、自分は身を挺してでも、妻と娘を守ってみせる。
カーティスはそんな風に考えてたんじゃないか?
家族への関心が薄れることへの不安は、自分が母親と同じ病気を発症し、家族を置き去りにしてしまうかもしれないという恐怖に根ざしてる。

だが実際に都合よく大災害など起こる気配もない。そういうカーティスの潜在意識が、あの悪夢のビジョンとなってるんじゃないか?
家族への愛を証明するためには、ちょっとやそっとの災害では駄目なのだ。
世界が滅びてしまうかもしれない、そんなクラスの災害が襲った時に、俺の作るシェルターが妻と娘を守るのだ。
そう思い込むうちに、悪夢は実際に起こるものとして、カーティスの脳内に定着する。

悪夢が進み、シェルター作りに邁進するほどに、カーティスは家族への思いを深めていってる。今までは関心のなかった手話も覚えるようになり、娘の相手をする時間も増えた。
だが会社をクビになったことで、娘の手術は困難な状況になる。
カーティスのすることは家族のためなのに、その実際の行為は家族にとって迷惑な状況を生んでしまってる。
サマンサが制御もきかない状態で、ひた走る夫を見捨てなかったのは、その芯の部分に
「家族を愛してるから」という夫の切実さを、どこかに嗅ぎ取ってたからだろう。

カーティスの中では、あの悪夢は、来たるべく恐ろしい光景ではなく、実は願望の産物なのだ。
そんな風に解釈してみた。


マイケル・シャノンは舞台となる場所が似てることもあるんだが、『サイン』の時のホアキン・フェニックスと印象がカブって見えた。
努めて静かに演じてるが、悪夢から覚める場面のリアクションなんかは、さすが「受信しました」系の筆頭に挙げられる役者ではある。

2007年のウィリアム・フリードキン監督作『BUG/バグ』は、俺はアシュレイ・ジャッド目当てで見に行ったんだが、「なにこいつスゲーな!」と、マイケル・シャノンの電波芸に目を奪われた。
翌年の『レボリューショナリー・ロード/燃え尽きるまで』では、夫婦ゲンカしまくってるレオとケイト・ウィンスレットを、霞ませるようなワンポイント・リリーフぶりだった。

今回は静かに演じてた彼がついにブチ切れる、教会が主催する食事会の場面がド迫力なんだが

「大災害は必ず来る!なのになんで備えをしようとしない!」

というカーティスのセリフは、今の日本人には他人事でなく響く。

サマンサを演じるジェシカ・チャスティンは『ツリー・オブ・ライフ』以降、新作目白押しの女優だが、妄執に落ちていく夫と懸命に向き合おうとする妻を演じて、とてもいい。

娘の手術の決定が下り、それを伝えた係りの女性に
「ハグしていい?」
「そんなことしなくていいのよ」
というやりとりや、カーティスが家を担保にローンを組む場面でも、
「これから景気は悪くなるかもしれない。私はこのローンは勧めたくはないんだがね」
と銀行の担当者が言ってたり、細かい描写にも気が行き届いてると思った。

2012年4月1日

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見てもうたコスプレ谷村美月 [映画サ行]

『サルベージ・マイス』

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いかんいかん、50過ぎの男が見るようなものじゃないと知りつつも、あのコスプレに敢えて挑んだ谷村美月の心中に去来するものは何なのか?その詳細を検証しなければ収まらないと、テキトーな言い訳を胸にバルト9へ。
パンフ売り切れって!そんなに人気なのか?谷村。
プロデューサーに西冬彦とあるので、空手ガールが大暴れするであろうことと、
「こんなホンで映画作っちゃうのかよ」という、ある種の度胸のよさは折込み済みで、こっちも臨んでるわけだが。
そういう意味では今回も度胸のよさは相変わらずだったわ。


谷村美月演じる真唯はアイマスクをつけたコスプレで、ヒットガールならぬ「サルベージ・マイス」と名乗り、奪われた「お宝」を持ち主に返すというボランティア活動に精を出してる。
鼠小僧のような義賊を気取ってるんで「マイス」なのだ。マウスの複数形なのは、相棒の男マリクがいるからだが、マリクは「お宝売った方が金になるじゃん」と映画開始数分で裏切り。
どうやって調べたのかしらんが、真唯がその在り処を詳細に綴った「お宝リスト」も奪われてしまう。
その上、「怪盗マイス」として、広島中に指名手配され、マリクが係わる強奪団の犯行は、真唯の仕業にされてしまう。

失意の真唯は街中で偶然、男たちを空手でなぎ倒す女子高生の美緒と出会う。
美緒は「広島をバカにする奴は許さない!」という性格の持ち主で、やがて真唯は美緒と新たな「サルベージ・マイス」を結成し、広島中の「お宝」を盗みまくってる強奪団との戦いに身を投じるのだった。


なんで広島かというと、これが広島の「ご当地映画」として企画されてるからだ。
いきなり広島の美術館にお宝を「奪還」しに入る場面があるが、美術館も悪者みたいに描かれて、ロケに使われてもあんまりいい気分ではないだろうな。

それに本来の持ち主がはっきりしてるんなら、その人と美術館との間で話し合いを持てばいいんじゃないか?
一般家屋にも盗みに入ってるが、設定そのものをもっと単純にできるだろ。
広島中のお宝を不法にかき集めて、人知れず保管してる組織なり、謎の大富豪なりがいて、「サルベージ・マイス」がその奪還に挑むってことでもいいと思うが。


今回監督は「平成仮面ライダー」シリーズを撮ってる田崎竜太という人だそうで、ファンは注目してるんだろう。
俺は平成版ライダーとか見てないから、その辺は関心がない。
だが門外漢というわけでもないぞ。
仮面ライダーの初代と2号に関しちゃ、リアルタイムで見てたからな。
もっとも俺の世代なら沢山いるだろうが、そんなの。

さらに言うと、藤岡弘と佐々木剛が、ウチの地元の集会所に来たのを見てたりもする。
「本郷猛です」「一文字隼人です」って挨拶してたぞ。
まあライダー号もなけりゃ、仮面ライダーのスーツでもなきゃ、あのベルトも締めてなかったけどな。
大体なんで来てたのか、ガキの俺にはそれすらわからなかった。
友達と一緒に遠巻きに眺めてただけだ。
俺はガキの頃から基本、遠巻きだな。
「遠巻きに眺め隊」だ。

こんな俺だが強い女の子を見るのは好きなんで、『ハイキック・ガール』も『KG カラテ・ガール』も、武田梨奈の初日舞台挨拶の回に、律儀に駆けつけてるのだ。
『KG』の時は上映後に、武田梨奈が自分のイメージDVDを手売りしてたんだが、さすがにそれは買わなかった。
サインと握手つきだったと思うが。
「買ってくれた人には、彼女が一発蹴りを入れてくれます」って言われてたら、俺買ってたな。
もちろんプロテクター着用でだけど。

コスプレ谷村とタッグを組んで暴れてるのが、600人のオーディションの中から選ばれた長野じゅりあという女の子。
15才にして空手暦10年という逸材で、型がビシッと決まっててカッコいいね。技も速い。
長野じゅりあは可愛い時と、へちゃむくれてる時があるんで、美人度では武田梨奈の後塵を拝するが、その分愛嬌を感じる。

『KG カラテ・ガール』で武田梨奈の妹役で、やはり抜群の身体能力を見せてた飛松陽菜が、強奪団の刺客ガールとして、全身白のトレーニングウェアで暴れてる。
長野じゅりあと飛松陽菜が、広島テレビのロビーで対決する場面は、この映画では一番の格闘的見せ場になってる。なのに飛松陽菜はチラシに名前も入れてもらえないなんて可哀相だよ。


長野じゅりあと谷村美月がタッグで立ち回りをする場面があるが、空手有段者と女優では動きが違いすぎて辛い。谷村美月はダンス踊ってる感じに見えてしまう。
彼女は特殊警棒みたいな物を武器にしてるが、もっと殺傷能力強い武器を携帯しててほしいよ。
「これはご当地映画で、子供も見れるように作られてるから」という遠慮が感じられるんだが、真唯が強奪団に捕まってリンチされる場面は、殴る蹴るとボコボコにされてるぞ。
なんかそこだけ妙にリアルな描写だ。腹を思い切り蹴られたり。
俺はたとえ映画の描写であれ、女性のオナカを蹴ったりしちゃいかんと思うぞ。
それこそ子供に見せちゃダメだろ。

ここまでやられるんなら、真唯も手加減抜きで行くべき。
「ヒットガール」もあれだけ殺しまくってたけど、すっきり痛快だっただろ?
殺していいんだよ。

強奪団のリーダー格は『KG カラテ・ガール』にも出てた大きな外人さん。
なぜかセリフはアテレコ。
今回も『KG』の時と一緒で、この外人さんと1対2の最終対決となるが、『KG』の時は、武田梨奈と飛松陽菜のタッグで、今回は長野じゅりあと谷村美月って、前よりスペックが下がってるのは如何なもんか。

広島が舞台なんだから、ここはラスボスには「ブンカッキー」に出てきてほしかったよ。
(知らない人は、みうらじゅんのゆるキャラ参照のこと)

2012年3月31日

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女子にすすめたい「走れメロス」的史劇 [映画タ行]

『第九軍団のワシ』

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昨年の9月にこのブログでコメントした、マイケル・ファスヴェンダー主演のアクション史劇『センチュリオン』は、西暦120年にイギリス北部に駐留した、ローマ軍最強の「第九軍団」約5000名の兵士が、北方への進軍の過程で、忽然と姿を消したという、歴史的事実を元にして生み出されたフィクションだった。
敵の手に落ちたとおぼしき軍団の指揮官と、その象徴である「黄金のワシ」の像を、クィンタス・ディアス率いる「百人隊」が奪還に向かうんだが、失敗に終わり、地獄の敗走を余儀なくされることとなり、結局「黄金のワシ」の像は、敵の手に奪われたままとなってた。
この映画はそれから20年後に設定されてる。


チャニング・テイタム演じるマーカス・アクイラは、「第九軍団」を率いていた父親の失踪の謎と、「黄金のワシ」の行方を探すため、辺境の地にある砦に、百人隊の隊長として赴任する。当初は父親の汚名とともに皮肉な目で見られるが、優れた統率力で、砦を奇襲してきた敵の先住民を打ち負かし、古参兵たちの信頼を得る。
だが武勲を立てた戦闘で足を負傷し、名誉除隊を言い渡され、父親の汚名を晴らす機会を奪われ、生きる意味を失う。

マーカスは療養先の叔父に誘われ、剣闘試合を見に行く。見世物としての無意味な殺し合いに、醒めた視線を送るマーカスだったが、一人の奴隷に目を釘付けにされる。

巨体の剣闘士を前に、剣を捨て一歩も動かない小柄な奴隷の青年。見世物にされるつもりはないと、その目は語っていた。剣闘士に殴りつけられ、血だらけになっても、表情は変わらない。
観客は「殺せ!」と指を立て、叫びだす。
マーカスは不意に立ち上がり「殺すな!」と声を上げた。
その迫力に観客の中からも同調する声が上がり、奴隷の青年は命拾いする。
叔父はその奴隷を買い取り、マーカスの世話係りにした。

青年の名はエスカといい、マーカスたちローマ人とは敵となるブリトン人だった。ローマ軍に村を襲われ、死を悟った父親は、母親が敵の手に落ちる前に、自らの手で殺した。少年だったエスカは奴隷として、過酷な日々を送ってきたのだ。
だからローマ人は憎むべき敵だが、命を救ってくれたマーカスには、忠誠を誓うと言った。
空虚な日々を送るマーカスには、年も近いエスカは、身分の違いはともかく、気を紛らわすことができる存在となっていた。

叔父の元を訪れたローマの役人の口から、ブリテン島の北の果てにある神殿に「黄金のワシ」が祭られてるという噂を耳にしたマーカスは、役人に掛け合い、自分が単独で探しに出ると志願する。
ブリテン島北方にはローマ軍が築いた「ハドリアヌスの長城」という、長大な石の壁があり、その先は文明果つる地で、ローマ人が生きて戻れる筈がないと、役人は言うが、マーカスの決意は固かった。
叔父はガイド役にエスカを伴うよう告げる。
エスカは土地勘とともに、先住民族の言葉も分かるからだ。
こうしてマーカスとエスカ、敵同士の背景を持つ若者ふたりは、荒涼として、厳しい地形が延々と続くカレドニア高地へと分け入って行く。


この物語の肝は、ローマ人であるマーカスが、敵の先住民の土地へ、先住民の奴隷の青年エスカとともに入って行くことによって、土地のアドバンテージが、そのまま二人の立場に影響を与えていく事になる所だ。
マーカスは言葉が分からない。エスカが聞き込みをするが、その相手と何を話してるのか、エスカが答えを濁せば疑いも生まれる。

エスカは自分に忠誠を誓うとは言った。あの剣闘場で見せた気高い精神も知ってる。だがローマ軍には憎しみを抱いてるし、その象徴たる「黄金のワシ」を、本気で探す気になるだろうか?
聞き込みを続けても、神殿は見当たらず、マーカスの疑心暗鬼は高まっていく。


エスカを演じるのは『リトル・ダンサー』で、14才にして一躍脚光浴びたジェイミー・ベル。あの映画から10年経った2010年作のこの映画でも、少年の面影をどこかに残している。
主役を演じることは少ないが、『ディファイアンス』でのダニエル・クレイグの弟の役など、葛藤を抱えたキャラクターを演じて精彩を放つ。

「黄金のワシ」を手中に収めてるらしい、先住民の種族「アザラシ族」のテリトリーに入った二人が、戦士たちに囲まれ、エスカは受け入れられるが、マーカスはその場で殺されそうになる。エスカは
「こいつは俺の奴隷だ!」
と嘘を言い、窮地を逃れる。だが「アザラシ族」の村ではマーカスを奴隷のままにしとかなければならない。
エスカの真意が掴みきれないマーカスは、裏切ったと思い込むように。

この辺りの「どっちなんだ?エスカ」という雰囲気をジェイミー・ベルは、絶妙に表現してるのだ。
主演はチャニング・テイタムだが、映画後半、そのエスカが葛藤の狭間で、友としてのマーカスのために体を張ろうとする、その姿の方が強い印象を残すようになるのは、ジェイミー・ベルの演技力に負う所が大きい。

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終盤は「走れ!メロス」のようでもあり、実は男臭い史劇と見えながら、女子が見て萌える要素が強いんではないかと思うのだ。

「もとは僕たち敵同士」
「だけど君は命の恩人」
「忠誠を誓うと言っておいて、俺を奴隷にさせるのか」
「黄金のワシなんか僕にはどうでもいいもの」
「なのになぜ彼のために僕は走るのか?」

旅の過程において、危険を共にくぐりぬけ、友情のような絆が芽生え始めてるマーカスとエスカだから、この立場の逆転シチュエーションが両者にもたらす葛藤が効いてくる。
ローズマリ・サトクリフの原作小説が、世界中で長く読み継がれているのもわかる。


「黄金のワシ」へと辿り着く前に、マーカスはもう一つの宿願につながる存在に出会う。消えた「第九軍団」の生き残りの兵士だ。グアーンと名乗るその男は、今は先住民と家庭を持ち、静かに暮らしているという。
マーカスの父親の最期は見てないと。マーカスは戦いの場を逃れた臆病者とグアーンを責めるが、
「あんたはあの戦場の光景を知らないからだ」
ゲリラ戦に遭い、ついには多勢に囲まれた「第九軍団」の兵士たちの末路は悲惨だったという。

グアーンを演じてるのがマーク・ストロングだとは、エンドクレジットで初めて知った。彼は敵役中心にとにかく最近売れてるが、出てくる度に、少しづつ印象がちがうという芸の細かさを持ってる。
そのグアーンのセリフで
「ローマ人たちは、こんな辺境の地まで侵略しに来て、何を得るつもりなんだ?」
というのがあったが、たしかにそうだよな。
もう当時のローマ帝国というのは「征服するは我にあり」状態だったのだろう。
凶暴で野蛮そうに描かれるアザラシ族や、先住民たちだが、彼らはそこに住んでるだけで「侵略者」ではない。
野蛮さとは何かということも考えさせられたりするね。

もう一人驚いたのが、アザラシ族の凶暴な王子シールを演じるタハール・ラヒムだ。
全身を灰色に塗ってるし、頭はモヒカンなんで、誰が演じてても気がつかないとは思うが、1月に公開された『預言者』で無名ながら鮮烈な主演デビューを果たした彼が、もう完全に役者の風格を見せてて、立派な敵役となってた。


映画冒頭は砦を巡る戦闘シーンの迫力で見せ、中盤はマーカスとエスカの心理の綾が織り成す旅で綴り、終盤は「アザラシ族」の村からの逃亡劇でハラハラさせる。
『センチュリオン』のニール・マーシャルと同じく、この映画の監督ケヴィン・マクドナルドも、土地勘では負けないスコットランド出身だ。
映画後半のハイランド地方のロケーションも見ものの一つで、『127時間』などダニー・ボイル作品を手掛ける撮影監督アンソニー・ドッド・マントルのカメラが美しい。

チャニング・テイタムって、なんか顔のパーツが真ん中に寄り過ぎてて、今まではピンと来るような役者じゃなかったんだが、この役は首の太さが、ローマ軍の甲冑を着けても様になるし、ブレない性格の主人公を体現してて、なかなか良かった。

作家映画中心のユーロスペースにそぐわない上映作に思えたが、シネコン並みに音響を鳴らしてくれてた。あそこは床がコンクリではないんで、逆に重低音が足元にビリビリくるんで楽しい。
観客は見事なくらいにお年を召した層だった。多分ユーロスペースとか来るの初めてなんじゃないか?
場所すぐにわかっただろうか。

2012年3月30日

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イタリア映画からスターは出るか? [映画ア行]

『あしたのパスタはアルデンテ』

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例年ゴールデンウィークに開催され、今年で12回目を迎えるという「イタリア映画祭2012」だが、今回初めて前売りチケットを買った。こんな俺でもGWは東京を離れてることが多く、今まで一度も参加したことがなかった。
今年は多分どっか行くような予定も入らなそうだと、とりあえず7本見てみることに。

『ローマ法王の休日』 監督ナンニ・モレッティ
ローマ法王の死去を受けて、ヴァチカンに集まった候補の中から、新法王に選ばれた枢機卿が、緊張のあまりローマ市内へと逃げ出してしまうという、モレッティ久々の新作。

『至宝』 監督アンドレア・モライヨーリ
グローバル化を迫られた同族経営の食品メーカーに起きたスキャンダルを描く。『湖のほとりで』が日本公開された監督の新作。

『七つの慈しみ』 監督ジャンルカ&マッシミリアーノ・デ・セリオ
赤ん坊泥棒を働こうとする、不法移民の女性と、末期ガンの老人の予期せぬ出会い。クストリッツァ監督が絶賛したという。

『大陸』 監督エマヌエーレ・クリアレーゼ
海上で漂白中のアフリカ移民を救った、シチリアの猟師の少年の日常が一変する。今年のアカデミー外国語映画賞のイタリア代表に選ばれた。

『錆び』 監督ダニエーレ・ガッリャノーレ
田舎町に赴任してきた優秀な若い医者には、おぞましい秘密があり、子供たちはそれを嗅ぎつけていた。キングの『IT』を思わせる筋書き。

『天空のからだ』 監督アリーチェ・ロルヴァケル
スイスから生まれ故郷の南イタリアに戻った13才の少女は、カトリックの信仰厚い土地に馴染めない。カンヌの監督週間で上映された女性監督のデビュー作。

『そこにとどまるもの』 監督ジャンルカ・マリア・タヴァレッリ
監督はジョルダーナではないが、あの6時間の大作『輝ける青春』のスタッフが、今度は6時間半に渡り、現代イタリアの肖像を描く。有楽町朝日ホールの椅子では若干しんどいが。


21世紀に入ってから、イタリア映画は質的に向上が続いていて、新しい才能も次々に生まれてきているという。
「イタリア映画祭」が毎年開催され続けているというのも、その好調が背景にあるのだろう。
劇場での一般公開に結びつく例も少しづつ増えてきてるんじゃないか?
だがその中心は「良質な作家映画」であって、ミニシアターでの公開がほとんどだ。
映画ファン以外でも知ってそうなイタリア映画は『ライフ・イズ・ビューティフル』以来出てない。

それと俺が映画を見始めた70年代には、いろんなジャンルのイタリア映画が日本に入ってきてた。ハリウッドで大当たりした映画があると、そのジャンルの便乗品をバンバン作って売りに来る。
ヤマ師的なバイタリティに溢れてた。

この「イタリア映画祭」というのは朝日新聞が主催に名を列ねてることもあり、あんまりお下品な作品は選定されてきてない。
例年ラインナップだけは眺めてみるんだが、どうも俺の思う「楽しいイタリア映画」とは色合いが違ってるんだね。ただ新しい才能を目にできる機会は貴重とは思う。


イタリア映画のイメージが地味になったのは、新しいスターが出なくなったということもある。
ここで言うのはディカプリオのような、ハリウッド映画に出てる「イタリア系アメリカ人」ではなく、イタリア語でセリフを言う、イタリア映画のスターのことだ。

これはイタリアに限ったことではなく、フランスも同じ状況だ。日本で雑誌の表紙を飾ったら、売り上げが伸びるとか、興行成績が上がるとか、そういうスターがもう長く出てこない。
ハリウッドにしてからが、前述のディカプリオやジョニー・デップ、ブラッド・ピットあたりの、次の若手がいない。
今、本屋の映画雑誌を眺めてみるとわかるが、グラビアとインタビュー記事中心の雑誌は、ほとんどが日本の男女優か、韓流スターのものだ。
「邦高洋低」という言い方があるが、日本とアジアを含めると「亜高洋低」という状況だろう。
こんなことは俺が映画を見始めてから、無かったことだ。

俺が最近のイタリアの女優で名前が浮かぶのは、『愛の勝利を ムッソリーニを愛した女』のジョヴァンナ・メッツォジョルノくらいで、男優は『家の鍵』のキム・ロッシ・スチュアートか。彼もイケメンだがなにか地味。
俺は顔で言ったら『野良犬たちの掟』でキム・ロッシを食ってたピエルフランチェスコ・ファヴィーノの、濃厚さが好きなんだが、日本の女子には許容範囲外だろうな。

そんな中で、先日相次いで見た『昼下がり、ローマの恋』『あしたのパスタはアルデンテ』の2本のイタリア映画どっちにも出てたリッカルド・スカマルチョは、日本受けしそうな最短距離にいるような気がするんだが。

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その『あしたのパスタはアルデンテ』なんだが、映画の「つかみ」となる冒頭の展開を見てて、
「なんか知ってるぞ、こういうの」と思ったら、日本映画の『祝辞』に似てたのだ。
上司の息子の結婚式で祝辞を頼まれた課長が、直前に読み上げた部長の祝辞と内容が全くカブってしまい、途方に暮れるというものだった。


リッカルド・スカマルチョ演じるのは、代々パスタを製造する会社を経営する名門一族の末っ子で、大学を出たばかりのトンマーゾ。
父親ヴィンチェンゾは、現在会社で働く長男、長女とともに、トンマーゾも交えて、ディナーで重要な提案をする予定だった。
それは息子たちに、今の共同経営者とともに、会社の後を継いでもらうというものだった。

トンマーゾはディナーの前に、工場に兄のアントニオを訪ねた。
トンマーゾは家族に秘密にしてる3つのことを、ディナーの席で告白するつもりだと言った。先に兄貴には知っておいてほしいと。
親には経営学部を受けたと言ってたが、実は文学部に学んでたこと。
会社を継ぐ気はなく、作家を目指すこと。
そして3つ目は、自分がゲイであること。
兄のアントニオは目を見開いたが、理解を示した様子だった。

ディナーの席で父親は上機嫌だった。冗談を言い、盛り上がる席を、グラスを鳴らして静めたのは、トンマーゾではなく、兄の方だった。
「30年間、言わずにいたことがある」アントニオは切り出すと
「僕はゲイだ」
父親ヴィンチェンゾは、最初ジョークと笑ったが、本気とわかると激怒し、即刻アントニオを勘当。
その場で卒倒してしまう。
トンマーゾは呆然とするしかなかった。

病院に担ぎこまれた父親を見て、もう今さら告白などできない。
トンマーゾは「おまえだけが頼りだ」と言われ、自分の気持ちを抑えて、工場に出勤することに。
そんな彼の前に、共同経営者の娘アルバが現れる。アルバは感情のまま動く所がある、掴みどころのない娘だったが、共に仕事をするうちに、心を開ける間柄になってく。
だがトンマーゾは、ローマに「彼氏」のマルコを残してきてる。なかなか戻ってこないと電話で責められる毎日。
そして業を煮やしたマルコが、ローマから「男友達」を引き連れて、トンマーゾの家にやってきた。


監督のフェルザン・オズペテクは自らゲイであると表明してるそうで、マルコが男友達とやってきてからは、もうなんだかパンツ一丁の男たちがはしゃいでる場面がやたら出てくるし
「しまった…俺の映画ではなかった」と思ったのも後の祭りだ。
せっかく映画の前半で、共同経営者の娘アルバが颯爽と現われ、長ーい足も露わにヒールを履きかえる場面とかあって、「これは俺の映画か!」と身を乗り出したんだが。
アルバを演じるニコール・グリマウドが、スタイルいいし、笑顔も可愛いのにねえ。

トンマーゾには姉もいるが、姉には長男アントニオだけじゃなく、自分もゲイなんだと告白してる。
姉のエレナが後になって、トンマーゾに
「兄弟ふたりともゲイってことは、私もレズなのかもって考えこんだけど、やっぱり女性はムリって思ったわ」
と話すのが可笑しかった。

この一族には祖母がいて、みなから「おばあちゃん」と呼ばれてるから、映画で名前はでてこないんだが、彼女は望まない結婚を強いられたことを、ずっと後悔して生きてきた。
「叶わない恋は終わらない。一生続くのよ」
イタリア映画には度々、こうした大家族の風景が描かれる。そして家族の素晴らしさが謳われるんだが、このおばあちゃんは、孫のトンマーゾに、家族のために自分を偽って生きる必要はないと、背中を押す。
映画はジェンダーの問題も含めて「居心地の悪いままで、人生をやり過ごすべきじゃない」という前向きなメッセージを塗りこめている。

ブーツの形になぞらえたイタリアの、踵の先端あたりに位置する、南イタリアのレッチェという町が舞台で、濃厚で鮮やかな光線の具合とか、バロック建築の町並みとか、風景も目を楽しませてくれる。

2012年3月29日

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韓国テレビマン容赦ない謝らない [映画カ行]

『カエル少年失踪殺人事件』

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数日前に「3月後半公開の期待作」の中でも少し触れたが、韓国には『殺人の追憶』で題材となった「連続強姦殺人事件」、ソル・ギョング主演『あいつの声』で題材となった「ソウルの9才児誘拐事件」と共に「三大未解決事件」の残り一つ「カエル少年事件」というのがあるという。

1991年3月、テグの小さな村の国民学校に通う、5人の小学生が忽然と姿を消した。少年の一人は母親に「カエルをとりに行く」と言い残していた。
地元警察は当初「5人も一度に居なくなるわけない」
と事件性を否定するが、数日経っても行方はわからず、警察や軍隊、計30万人を動員しての大規模な捜索が展開されたが、発見には至らなかった。

そして事件から11年経った、2002年9月、少年たちのものと見られる遺体と遺留品が、村からさほど距離のない、山麓の森の中で発見される。台風による豪雨で、周辺の土砂が流されたことで、遺体の一部が地面に出てきたのだ。
検視の結果、遭難などの事故死ではなく、何者かの手による他殺であるとされたが、犯人逮捕に至らず、2006年3月に時効が成立してる。

この映画は『殺人の追憶」のように、事件に係わった刑事の捜査ぶりを再現しながら、犯人像を推察していくという作りとはちょっと異なってる。
事件自体は実際に起きたことだが、映画の中心人物で、真相を探って行動していくテレビ局の番組プロデューサーも、自説を唱える心理学の教授も架空の人物なのだ。
なので展開はフィクションということになる。映画は実際の事件を題材にしながら「別のテーマ」を描こうとしてるのだ。そこをまず押さえとく必要がある。


カン・ジスンはソウルのテレビ局「MBS放送」で、教養・ドキュメンタリー系の番組を制作するプロデューサー。
「野生の鹿と人間のふれあい」を描いた番組で賞を受賞するが、後にそれが「ヤラセ」と発覚。
上層部から叱責を受け、テグ支局に左遷となる。

以前の先輩だった部長が取材に出てると聞かされ、現場を訪ねてみると、ポンプ車が何台も繰り出され、沼の水を吸い上げて、水底を捜索してる。
数年前にこの地で起きた、5人の少年の失踪事件で、遺体が沼に沈んでるとの通報を受けていた。
「もう誰も興味を失ったあの事件をまだ追ってるのか」
ジスンは支局での歓迎会の席で口走る。
「家族は今も情報提供のビラを抱えて方々回ってるんですよ」
そう話す新米の社員にジスンは
「あの事件にはなんの進展もないじゃないか。証拠も上がらない」
「製作者の立場から言えば、ドラマティックな要素もないし、番組にならないんだよ」
それを聞いた部長は掴みかかり
「今の言葉を家族の前で言ってみろ」

ジスンは大した仕事もない支局に燻ってられない。ソウルに戻るために大きなネタが欲しいと思った。
支局の資料室には「カエル少年事件」に関する大量の取材テープが保管されていた。ヒマに明かせてジスンはテープをチェックし始めた。
その中にオンエアされてない取材テープがあった。
ファン・ウヒョクという、大学で心理学を教える教授が、事件の真相に関して独自の推測を行っているものだった。
局はその内容の際どさにオンエアを控えたようだった。

早速ジスンは、教授を大学に訪ね、単刀直入に切り出した。
「犯人は身内の中にいると言いたいんですね?」
最初は慎重な態度だったウヒョク教授も、自説を語りたくてしょうがなかったらしく、説明に熱を帯びてきた。
その根拠はいくつかあった。


まず事件の起きた日は、統一選挙の日だった。田舎の村では1票が勝敗を左右する。
選挙に係わる人間につながりのある、当事者の家族の誰かが、子供の失踪事件をデッチ上げ、興味を選挙から逸らそうとした。だがその過程でなにか不都合が生じて、子供たちを生かしておけなくなった。

教授は鍵を握るのは、ジョンホという少年の親ではないか?と見ていた。
教授はジソンに録音テープを聞かせた。
それは母親がジョンホからと思われる電話に出た時のものだった。
「ママー!」
「ジョンホなの?」
「うん…」
「今どこにいるの?」
その後、電話は切れたわけではなく、17秒の無音の部分の後、受話器が置かれてる。

「なぜ自分の子と分かってながら、あれこれ話しかけようとしないのか?」
それにジョンホの母親は、その当日の午前中には、ジョンホを探すような行動を起こしてる。子供なら夕方まで外で遊んでても、親は別に気にとめない筈だ。
子供が見当たらないというアピールが早過ぎると。
ジソンには教授の推測が理論立てて聞こえた。
「教授の自説の通りなら、事件の様相が一変して、大変なスキャンダルとなる。数字も取れるぞ!」

ジソンは教授とともに、ジョンホの両親の家を訪れた。父親は朴訥そうな人柄だが、母親は台所仕事をして、背を向けたままだ。祖母が不意に奥から現れ、夫婦に向かって指を2本立て、それを刃物で切るような仕草をする。口はきけないようだ。
教授はちらと覗いた物置の床のコンクリが真新しいことに気づいた。
帰り際に外にあるトイレを借りようと教授が向かうと、父親はなにか慌てるような素振りも見せた。
証拠はない。だが明らかにあの夫婦の家には何かある。

二人は地元の警察を訪ね、「今さら身内を犯人と疑えというのか?」と言う刑事を説き伏せ、ついにジョンホの両親の家に、大掛かりな家宅捜索が入ることになった。
新展開を聞きつけたMBS以外のテレビ局もこぞって取材に駆けつけていた。
だが何も発見されなかった。


主人公となるカン・ジスンの人物像が、まあとにかく「イケ好かない」のだ。映画に登場する場面からすでに世の中を舐めてる感じが漂ってる。1991年3月の少年失踪事件を、大々的に取材する局のスタジオに居て、事件を茶化すような物言いをしてる。
賞を取った番組のヤラセを追求されても、
「じゃあ、私以上に教養番組で数字を取れる人間がいますか?」
と悪びれたところもない。

単に自説を唱えていただけの教授を焚きつけて、被害者両親の家宅捜索にまで持っていくが、その場の仕切りは教授に負わせている。
何も出ずに、村の人間たちの怒号を浴びながら、警察に庇われ車で逃げ去る教授を、ジスンは群集に紛れて眺めてる。
責任の矢面に立たされるのは教授で、自分はこの失態の張本人にも係わらず、テグ支局から本社に呼び戻されてるのだ。クビじゃないのかよ!

犯人扱いされたジョンホの父親は、そのことよりも
「誰ひとりとして、息子が生きているって思ってない」
と悔し涙を流す。演じてるのはソン・ジルという人だが、いい役者だな。

ここまでが映画の前半で、後半は少年たちの遺体が発見された2002年に話が移る。
ジスンは心理学教授の「自説」に乗っかって失態をやらかしたわけだが、まだ局にいた。
そして今度は検視官による、遺体の骨の「科学的」な検分によるヒントを元に、再び犯人像に迫ろうとするという展開。


カン・ジスンを演じるパク・ヨンウという役者も俺は初めて顔を認識した。前半の時代は額を隠すような髪型で、どことなく劇団ひとりを思わすんだが、後半再びテグを訪れた時には、髪はぴったり七三に分けており、多少薄くなってる。今度は若い頃の矢追純一みたいだ。つまり経年化がくっきりと表情に出てる。
他の登場人物も後半の時代に再び出てくるんだが、それほどの変化を感じない。この人は役作りが相当巧みなんだろう。
例えで出した名前の方々には悪いが、顔と一緒に「うさん臭い」感じも似てるのよ。

このジスンの人物像が象徴するように、ここに描かれるのは、メディアのいい加減さと、不祥事を起こしたとしても、うやむやに終わらすような無責任な体質で、これは韓国も日本も変わらないことだ。
何か事件が起こると、メディアは「専門家」と称する人間たちにコメントを求める。
そのほとんどは推測にすぎない。だが推測であっても、一度口から語られた言葉は、思わぬ波紋を広げることがある。それで被害を被る人間が出ても、誰も責任を取らない。

メディアが謝罪しないというのは、この映画のジスンが、一切謝罪する場面が訪れないことに表れてる。ジスンがいつ謝罪の言葉を述べるのか、それが見所になってると言ってもいい程だ。

家宅捜索で何も出ず、職も家庭も失い、それでも「自説」をまげようとしないウヒョク教授には空寒くなってくるが、演じてるのはリュ・スンリョン。この人は見たことあるんだよな。
下條アトムに似てるなあと何かの映画で思ったのだ。

そんなことなので、事件の実録ものとしてではなく、「メディアのモラル」に焦点を当てたドラマと見るべき。
似たような内容で日本映画に『破線のマリス』があるが、あれよりは数段出来はいい。
共感を得られない人物を主役に置いて物語を進めるという姿勢には、描こうというテーマに対し、腹が据わってるなと感じるのだ。

2012年3月28日

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サッチャーはよしとしてるのか?これ [映画マ行]

『マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙』

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『燃えよ!ドラゴン』でのブルース・リーの有名なセリフに
「考えるな、感じろ」
というのがある。この映画の中にまるでそのセリフを受けたかのような、サッチャーの発言がある。

「…についてどう感じるか?」という質問の言葉尻を捉え、
「最近は、どう感じるとか、どういう気持ちとか、フィーリングが物を考える事より優先されてる」
と苦言を呈し、牧師だった父の言葉を引用する。
「考えが言葉となり」
「言葉が行動を生む」
「行動は習慣となり」
「習慣は人格を形づくる」
「そして人格が運命を決定する」
「だから考えることから始めなければならない」

サッチャーは言葉の持つ強さを意識してた政治家だったのだろう。
ただでさえ、日本の国会などとは比べ物にならないほどの野次が飛び交うイギリスの議会で、しかも声の細い女性が発言し、衆目を集めるためには、明解で相手を射抜くような言葉が必要なのだ。
映画の中のセリフにはなかったが
「言ってほしいと思うことは男に頼みなさい、やってほしいと思うことは
女に頼みなさい」
など、ウィットに富んだ発言もしてる。

日本の政治家には、言葉を使いこなせる人が少ない。語彙が足りないのだ。橋下知事のような言葉を武器にしてきた人が政治家になると、だから強い。
ディベートを行っても、相手をやりこめる術を持ってる。
言葉を持つ政治家が、いい政治を成すかというのは、また別の話ではあるが。
それは人を引き付ける言葉を持つサッチャーが、最終的には舵取りを誤るという事実に現れている。


1959年、34才で下院議員に初当選し、1979年、54才にして、イギリス初の女性首相にまで登りつめる。
その20年間に、男ばかりの政治の世界で、どのような苦闘があり、どのような戦略を立てて、存在感を増していったのか?
俺はこの部分をきっちり描いてくれてたら、見応えある伝記になってたと思う。
この映画ではエピソードの一部として、さらりと触れられるだけだ。

サッチャーの政治家としての功罪は、すでに語られていて、現在はネガティブな評価が多い。
この映画では、認知症を患う老女としての日常を描きつつ、サッチャーの政治家の日々を回想していく手法がとられてる。
国家で最も権力を持っていた人間が、いまはその記憶も失いつつある、孤独な老後を送ってる、その哀れを見せることで、意地悪な見方をすれば、強引な政治手法を推し進めたサッチャーの、政治家キャリアへの免罪符のように感じられもする。

それこそメリル・ストリープによる細密な演技によって、老いたサッチャーの日々に引き込まれて見てはしまうが、それなら、政治家としての回想部分などなしに、権力者の黄昏の日々のみに、カメラを据えればよかった。
マーガレット・サッチャーは政治家なのだ。しかも権力のトップにあった。
彼女の判断や行動が国民の生活や、もっと大げさに言うと生き死にを左右する、そういう存在だったのだ。その人間を描く時に
「いいこともあったし、悪いこともあった。でも今は呆けてしまった」
というようなアプローチでいいんだろうか?


視点として「サッチャーは批判を受けてるが私は断固支持する」とか
「彼女がイギリスという国の病状を悪化させた」とか
「首相だろうが何だろうが、今はひとりの認知症の老人」とか、
描く側がどこのポディションにも腰を据えてないと感じる。

映画として破綻があるわけではなく、製作者のアプローチの仕方もわからんでもないが、見終わって一人の人間に対して、何か感銘を受けるものがあったかというと、ない。
好きになったでも、嫌いになったでもないし、こういう人生を生きた女性がいました、という以上のものが迫ってこない。すべてをきれいに纏めようとしてるからだ。


この映画は母親が認知症を発症してることに気づいた娘のキャロルが、2008年にそのことを含めて記した回顧録を元にしてる。
政治家は公人という扱いではあるが、政治の世界から身を引いた後はどうなのか?
この映画化に関しては、娘キャロルの了承は得てるとしても、サッチャー自身は「認知症の自分が描かれる」なんていうことは、もちろん分かってなかったのだろう?
もう自分の伝記が作られるということすら、理解できる状態になさそうだし。

でも認知症を患ってはいても、本人は存命中だし、映画での描かれ方を本意じゃないと感じたとしたら、こういうのは悪趣味ではないかなと、俺は思うのだ。


夫のデニス・サッチャーを演じるジム・ブロードベントは、2001年の『アイリス』で、アカデミー賞の助演男優賞を獲得してるんだが、その時の役も、75才でアルツハイマーを発症した、イギリスの女流作家アイリス・マードックを献身的に支える夫を演じてた。

この映画では先立たれたことがわからなくなってる、老いたサッチャーの幻影として登場するが、生前も彼女を陰から支えてたのだなと思わせる、ユーモアと優しさを感じさせ、人となりを偲ばせる演技を見せている。
ジム・ブロードベントは先日見たマイク・リー監督の『家族の庭』でも、そんな演技を見せてた。

1984年10月に、保守党党大会で滞在中の、ブライトンのホテルで、IRAの爆弾テロに遭い、九死に一生を得るという場面がある。
サッチャーが夫に呼びかけると、デニスは革靴を両手に持って、パジャマ姿で粉塵の中から現れる。
この映画のラストで、去っていく夫の幻影に、サッチャーは
「あなた、靴を履いてないわよ!」
と呼びかける、その場面につながる描き方は上手いと思った。

2012年3月27日

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イップ・マンの息子も凄い人 [映画ア行]

『イップ・マン 誕生』

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ブルース・リーの師と言われる、伝説の詠春拳の使い手イップ・マンの生涯を、ドニー・イェンが演じた『イップ・マン 序章』と『イップ・マン 葉問』を見たのは一昨年の東京国際映画祭だった。
それに端を発して、昨年は次々に主演作が公開となり、日本は時ならぬ「ドニー・イェン祭」の様相を呈したわけだが、彼が演じたイップ・マンのさらに若い時代に焦点を当て、ドニー・イェンからその大役を引き継いだ、当時29才のデニス・トーが演じたのがこの映画。

面長な顔立ちで、歳重ねたらドニー・イェンになっても不自然じゃないね。よく見つけてきたと思うが、その上、デニス・トーは実際に詠春拳や洪家拳などをマスターしていて、18才の時には「世界武術選手権大会」で最年少優勝してるという。技も速いし、型も美しい。

まだ役者としての経験に乏しいデニスをサポートするためか、師匠にユン・ピョウ、そのまた師匠にサモ・ハン・キンポーという豪華そろい踏み。
ふたりが同じ画面に収まってるのだけでも感慨深いもんがあるのに、映画の冒頭には、その二人が目隠しをして、相手の気配を読む組手を披露してくれる。
『イップ・マン 葉問』ではドニー・イェンとの派手な立ち回りも見せ、重要な役を演じてたサモ・ハンだが、この映画ではゲスト扱いのような感じで、早々にお役御免に。
つまり病死してしまい、ユン・ピョウ演じる一番弟子ツォンソウが後を継ぐのだ。


映画は6才のイップ・マンが、詠春拳武官に預けられる場面に始まる。義兄イップ・ティンチーも一緒だった。
ティンチーは夜毎、悪夢にうなされた。家の門前に泥だらけでうずくまる自分の姿。ティンチーはイップ・マンの両親が養子にしてたのだ。少女ながらも詠春拳の修行を行うメイワイと3人で、1個のあげパンを分け合ったりしながら、10年の月日が流れた。

ある祭りの晩に、町に出たイップ・マンたち、詠春拳武官の弟子たちは、目の前で男たちから絡まれてる、美しい身なりの女性を助ける。目にも止まらぬ拳と蹴りで、男たちを一蹴したイップ・マンに熱い眼差しを向けたのは、市長の娘ウィンセンだった。
二人の様子を見てメイワイは心穏やかではなかった。
後日ウィンセンはイップ・マンに手紙をしたため、妹に頼んで、詠春拳武官に使いに行ってもらう。
メイワイは「イップ・マンに直接渡したい」と言われ
「今いないから私が預かる」
と半ば強引に手紙を預かり、それはイップ・マンに届くことはなかった。


そんな経緯も知らず、イップ・マンは中国・広東省の詠春拳武官を一時離れ、香港の英国人たちが多く学ぶ、カソリック系の学院に入学する。校内で中国人を「アジアの病人」と罵倒した英国人学生を叩きのめしたことで、イップ・マンは一躍町の中国人の間で有名となる。

薬局の年老いた店主も彼の噂を聞いていた。店を訪れたイップ・マンに
「ひとつお手合わせ願おう」と。
こんな狭い店で、しかも相手は小さな老人とあって、イップ・マンはやんわりと断りを入れるが、老人の所作を見て、ただ者ではないと感じる。
老人はイップ・マンの構えを見抜き
「詠春拳の使い手なら、戦う時は手加減なしと知ってるな?」

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老人は狭い空間をものともせず、矢継ぎ早に技を繰り出してくる。イップ・マンも本気になったが、いいようにあしらわれてしまう。イップ・マンはその老人が、実は詠春拳の達人と名を轟かせたリョン・ピックであることを知り、香港滞在の間、新たな師匠として教えを乞うことになる。
リョン・ピックは、詠春拳の技にはない、高い打点の蹴りなど、自らが長い期間を経てアレンジした様々な技を伝授した。
「詠春拳には本家も邪道もない」
それがリョン・ピックの教えだった。

4年後、勉学と技の鍛錬を積み、意気揚々と詠春拳武官に戻ったイップ・マンだったが、師匠のツォンソウは、伝統からはみ出したイップ・マンの詠春拳を認めなかった。イップ・マンは師匠に対し、
「伝統に縛られてばかりでは、錆び付いてしまう」
と意見し、二人は激しく対立。ついに師匠と弟子は勝負をつけることに。
だがイップ・マンは習得した技で師匠を打ち負かすチャンスがありながら躊躇してしまう。


時は1919年、日中戦争勃発の不穏な空気が、ここ広東省にも覆い始めていた。日本の貿易商人・北野は、金と軍部を背景とした圧力で、税関や警察にも影響力を行使してたが、「精武体育会」のリー会長は、その圧力に屈しなかった。

イップ・マンは久々に再会した市長の娘ウィンセンと、身分の違いを超えて恋におち、それを知ったメイワイは、傷心から彼女に好意を寄せてたティンチーとの結婚を決意する。
その結婚式の晩、リー会長が何者かに殺される。その直前に酔ったリー会長とイップ・マンが技を見せ合ってた所を目撃されており、イップ・マンは容疑者にされる。
だがイップ・マンは、「精武体育会」の副会長の座に就き、ビジネスも成功させている義兄ティンチーを疑っていた。
ともに詠春拳を磨き育ってきた二人の対決は避けられない運命となっていた。
そしてイップ・マンは、義兄の出生の秘密を知ることになる。


デニス・トーは実際に使い手だから、もちろん技も見事ではあるが、演技者として経験が浅いので、ドニー・イェンが技を繰り出すまでの間合いとか、見栄の切り方とか、「アクション・スター」としての風格と比べられると分が悪い。これは映画の場数を踏んでくしかないからだ。
ドニー・イェンは拳でも蹴りでも、実際以上のインパクトを観客に与える「見せ方」を熟知してる。

この映画でもデニス・トーは数々の格闘場面を演じてるが、「すげえ!」と感嘆するような「はったり」に欠ける。
演技自体も硬いんだが、心根の真っ直ぐな青年像は素直に伝わる。
だが劇中で市長の娘ウィンセンに、
「僕と一緒になってほしい。一生を賭けて君を守るから」
とまで言っときながら、華麗にスルーして最後はメイワンとくっついてる、その節操のなさは女性から問題視されると思うぞ。

義兄ティンチーを演じるルイス・ファンは、俺の世代でいうと『柔道一直線』の桜木健一を思わせるルックスではあるが、それにしてもなセリフが出てくるんで、そこは仰け反ったが。

薬局の店主の老人を演じてるのが、実際のイップ・マンの息子イップ・チュンというのも見もの。
90近いらしいのだが、ピシッと芯の通った所作はさすが。
技の使い手ではあっても、実際に若い達人のデニス・トーと普通に戦わせるのでは説得力に欠ける。
そこで薬局の狭い店内に場所を設定し、「狭さ」を巧みに利用して技を繰り出す「地の利」を与えてるのが上手いと思った。

市長の役でジョニー・トー映画の常連ラム・シューも出てるし、周囲を固める顔ぶれがいいのも、最後まで飽きずに見させてくれる要素になってる。

2012年3月26日

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やせたデニーロ、太ったベルッチ [映画ハ行]

『昼下がり、ローマの恋』

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原題は「愛のマニュアル3」となってて、2005年の『イタリア的、恋愛マニュアル』2007年の『モニカ・ベルッチの恋愛マニュアル』に続くシリーズ3作目なんだね。
俺は前の2本を見てないんだが。これを見ようと思ったのも、デニーロがイタリア語で演じてるというんで、どんなもんかと興味を持ったからだ。


「若者の恋」「中年の恋」「老いらくの恋」の3つのエピソードに分かれたオムニバス形式なんだが、イタリア映画というのは、このオムニバス物が多いんだよね。特に「恋愛映画」のジャンル。

デシーカ監督の『昨日・今日・明日』のような人情あふれる物語から、いわゆる「艶笑劇」と呼ばれるエロい内容のものまで。『ボッカチオ’70』や『華麗なる女女たち』など、有名な監督たちによる競作もある。ナンニ・モレッティの『親愛なる日記』はオムニバス形式の私小説という趣だった。

近年見たもので良かったのは『夜ごとの夢』で、その3話目を、大作『輝ける青春』のマルコ・トゥリオ・ジョルダーナが監督してたんだが、これがいかにもエロい設定で始まりながら、最後は感動で締めくくるという見事なものだった。

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オムニバス物の製作本数を数えてみたら、多分というか間違いなくイタリアが一番多いはず。
なんでだろうね、イタリア人って「小話」好きなのかもな。それも色っぽいヤツがね。
よく男たちが集まって食事の場で、笑い話を披露するって場面が、イタリア映画にはあるけど、大抵エロいネタだよな。
スケベなんだけどカラッとしてる。しんねりむっつり長々と語るもんじゃないって意識があるのかも。


ローマの賑やかな通りに面した、歴史を感じさせる外見も美しいアパートの住人たちが主人公。
若い弁護士ロベルトは、このアパートに住む恋人サラとの結婚を考えていた。どうしても土地の立ち退きに応じない、トスカーナ地方の農家への交渉に派遣されたロベルトは、この仕事をまとめれば、キャリアアップにつながると、勇んで村へと向かった。

都会から弁護士が来てるということは、すぐに村中に広まっていた。最初は村の住民たちにからかわれたりしてたが、ある晩、酒場にやってきた金髪の美女ミコルが、男たちに賭けを申し出ると、ロベルトは手を上げ、賭けにのった。村の男たちは、自分からこっちの世界に飛び込もうとしてきた、この若者が気に入った。

農家の頑固な持ち主との交渉は難航したが、滞在を伸ばすうちに、ロベルトはこのトスカーナの村の、朗らかであくせくしない住民たちとの触れ合いが心地よくなっていた。だがそれもミコルとの出会いが実のところ大きかったのだが。ふたりは夜の海辺で抱き合った。
毎晩「3つ星ホテル」という名の安ホテルの部屋で、サラからパソコンに「テレビ電話」が入るんだが、ロベルトはさすがに罪の意識で、まともに目を見て話せない。

ミコルは謎を秘めた女で、ロベルトは彼女の住まいを探して、大きな邸宅のプールで寛ぐミコルを見つける。彼女はこの家の持ち主の妻だった。年の離れた夫は、彼女が奔放な性格だと知ってるのだという。ふたりは寝室で愛し合うが、夫が出張から不意に戻ってきてしまう。

まあありがちなシチュエーションだね、この後もローマに居るはずのサラが、実はロベルトのホテルのドアの前からパソコンで電話してたという場面も出てくるが、4人が鉢合わせして修羅場になるという展開にはならない。
ロベルトを演じるのが、丁度この映画と前後して見たイタリア映画『あしたのパスタはアルデンテ』でも主演してたリッカルド・スカマルチョというイケメンで、それもあって、ドタバタな展開にはしなかったのかも。
しかし彼女がいるのに、他の土地で簡単に女と寝ちゃうのはどうなんだよ。
「それがイタリア人」てことなのか?
題名には「ローマの恋」となってるが、1話目はトスカーナが舞台だったしな。


デニーロとモニカ・ベルッチは3話目に出てくるんだが、俺が見てて面白かったのは、実は2話目の「中年の恋」だ。
温和なムードとピンクのネクタイがトレードマークで、視聴者の人気を博してるニュースキャスターのファビオ。
パーティでテレビ局の社長と談笑してると、若い女性がよろけてきて、社長もろともプールに落ちてしまう。
社長が帰った後、部屋でバスタオル姿のファビオに、エリアナという名の彼女は「ヒールがはさまっちゃって」と謝る。エリアナはファビオに熱い視線を送ってる。
「お詫びがしたいんで、明日食事でも」

ファビオは若い美女の誘いにまんざらでもなく、翌日彼女の住むアパート近くで待ち合わせ。食事が終わり、エリアナは「ウチに美味しいジェラートがあるから」とアパートに誘う。
彼女の部屋の中にはなぜか天使の像が沢山あった。部屋を見てエリアナのエキセントリックな人物像を推し量るべきなんだが、ファビオはベッドに誘われて、そんな余裕もない。

エリアナは相当情熱的で、ファビオは猫の鳴き真似させられたり、いろいろめんどくさいんだが、結局最後まで行ってしまう。
そしてエリアナは見抜いていたように、ファビオの頭をつかむと、カツラをベリッとはがしてしまう。
「バレたら大変なことになるんだよ!」とうろたえるファビオに
「この方がよっぽど素敵よ」「自分を偽ってはダメ」
などと言われ、ファビオもつい納得。
翌日からカツラをつけずにニュースに臨んだ。
社長は「視聴者が逃げる」と反対するが、ファビオは聞かなかった。

エリアナの要求は激しく車の中でも求められた。サイドブレーキが外れ、検問中のパトカーに衝突。
署で事情を訊かれたファビオだったが、その時巡査から
「あの女は有名なストーカーだ」と告げられる。

ファビオを演じるカルロ・ヴェルドーネは、このシリーズの常連だが、俺は前2作を見てないんで、彼のことは初めて見たが、面白いなこの人。
イタリアの役者で『Mr.レディ、Mr.マダム』なんかに出てたウーゴ・トニャッティを思わせる、スケベなユーモアが似合うキャラだ。
しかも最初は渋い感じで出てくるんで、ベッドで「ニャーゴ!」とか言わされながらセックスするところとか、感情が昂ぶると身振り手振りがものすごくスピーディになったり、もう笑いっ放しだった。

家にやってきたエリアナが別れ話にキレて、ファビオが収集した陶器なんかを割りまくり、帰宅した奥さんと娘に、事情を説明したファビオが
「浮気した私は悪いが、こんな時こそ家族の支えが必要なんだ」
と言うと、速攻荷物まとめて出ていかれたり、結局そのスキャンダルでキャスターを降ろされ、アフリカの特派員になるんだが、エリアナからは離れられたりしたものの、反政府ゲリラに捕まり、声明文読まされてる。
ひたすら気の毒な運命を辿るのは笑っていいのか何とも言えない所だ。

療養施設に入れられたエリアナと、ローマを離れる前にファビオが面会に行く場面はちょっとしみじみさせる。
大量の鎮静剤を投与され、すっかり大人しくなってるエリアナを見つめるファビオの表情がよかった。


3話目の「老いらくの恋」は、デニーロもそう言われる歳になったのかと、ちょっと淋しい気もするが。
ボストン大学を定年退職した考古学の教授で、2年前からローマに移り住んでるエイドリアン。
7年前に心臓移植手術を受け、その後に離婚、もう恋愛など心臓に負担のかかることはすまいと、静かに暮らしてたんだが、アパートの管理人アウグストの娘で、40になる独身のビオラの美しさを目にして、眠っていた恋心に火が灯った。
若く見せようとやったこともないジョギング姿をアピールしたり、酒場でビオラに絡んできた若い男に思わず殴りかかったり。

ビオラは父親にはパリでブランドショップに勤めてると言ってたが、実はパリではポール・ダンサーで生計を立て、開業したレストランに失敗して、借金に負われ、ローマに逃げてきたのだ。
彼女は自分の身の上話を静かに聞いてくれるエイドリアンの優しさに惹かれ、彼も心臓を庇って、自分を押し殺して生きるのは止めようと思うようになっていた。
父親に真実を知られ、行き場のなくなったビオラを、エイドリアンは自分の部屋に招いた。

エイドリアンがワインを飲みながら、ビオラに
「ポールダンサーって、服の脱ぎ方は決まってのかい?」と訊ねると
「自分で試してみるとわかるわよ」と言われ、ビオラの指示通りに服を脱いでくはめに。
デニーロもこの歳でストリップとはご苦労なことだが、『ミート・ザ・ペアレンツ』シリーズで、すでに「名優」の称号を自らひっぺがすような、あられもない格好をしてるから、免疫できたのかも。

ただ首周りとか「痩せたなあ」と感じる。数年前に見たアル・パチーノとの共演作『ボーダー』ではかなり肥えてた印象だったのに。ジョギングする場面での足のほっそい事!スーパーモデルなみだぞ。
今さらこの歳になって、若い頃のような、メソッド演技で体重を減らして映画に臨むなんてこともしないだろう。
彼も今年72才で、高齢になってからの体重の上下はいいことではないから、なんか心配にはなるね。
対照的にモニカ・ベルッチは肥えてきてる。実は彼女も48になるんだね。長い髪をソバージュにして、頬を隠してるが、体全体として丸みを帯びてる。
でもイタリアのお母さんとかみんな丸いし、そうなるのは自然なことなんだろう。

スターが出てるから、あからさまにエロい感じに作られてはいないが、「艶笑もの」の範疇だとは思う。
イタリアらしく愛の言葉はロマンティックで、デニーロ演じるエイドリアンが、ビオラに
「僕の新しいハートは、君を愛することに決めたんだ」
と言うセリフもよかった。

2012年3月25日

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ソン・ガンホにもハズレはある [映画ア行]

『青い塩』

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ソン・ガンホが出てる映画は『シュリ』以降、ほぼ公開時に見てきてる。映画そのものの強度が物足りなくても、そこを補う「役者の説得力」を、多分韓国映画界の誰よりも持ってる。かなり変則技を繰り出してきた吸血鬼映画『渇き』も、ソン・ガンホが演じてなければ、妙なテイストのコメディ・ホラーに終わってただろう。

2010年の『義兄弟 SECRET REUNION』も面白かったが、これに関してはこの場を借りて書いときたいことがある。
「シネマート新宿」で見たんだが、俺は基本見た映画のパンフを買うので、その時もカウンターのショーケースの値札をチラと見て「500円」と思い、「安いのはプレスシートだからかな?」などと思いつつ、買い求めると、「1500円です」と言われ、一瞬固まったが、引っ込みもつかず買ってしまった。

「メンズデー」で1000円で映画自体は見れてるのに、何でパンフに1500円払わにゃならんのか。
一応全ページカラーではあるが、内容的にもボリュームとしても、時々ハリウッド・メジャーの大作で気合入れて作られてる800円のパンフ位のモノだ。
カン・ドンウォン目当ての韓流ファンの足元を見た商売だよな。
だったらパンフとは別に「義兄弟 カン・ドンウォン写真集」みたいな物を出して、そっちで商売してくれよ。こっちはいいトバッチリだぞ。

これを配給した「エスピーオー」は、韓国映画が主だが、『愛の勝利を ムッソリーニを愛した女』も配給しており、これもパンフは1000円もした。
普通ならパンフに1000円は払わないが、あの映画の場合は背景も知りたかったし、悩んだ末に買ったよ。だが昔のシネセゾン系や、シネマスクエアとうきゅうの小判パンフや岩波ホールの物と内容はさほど変わらず、これもせいぜい800円だろう。
「エスピーオー」にははっきり言っとくが

「パンフ高いよ!」

もう少し映画ファンのことを考えてくれ。

いつもの如く脇道にそれたが、俺にとって「出てる」というだけで信用につながるソン・ガンホなんだが、この『青い塩』はちょっとキビしかったな。
題名が何か含みがあるようで、フィルム・ノワールっぽい渋さを期待したんだが、渋いというより、しょっぱい出来だった。「塩」だけに。


ソン・ガンホ演じるドゥホンは、元はソウルの有力なヤクザ組織「ハンガン組」の組長だったが、今は足を洗い、死んだ母親の故郷プサンで、食堂を開くために、地元の料理教室に通ってる。
「ハンガン組」が属するヤクザ連合の「チルガク会」の会長が交通事故に遭い、その死の間際に、そのドゥホンを後継者に指名した。幹部たちは「なぜ引退した男を?」と反発を隠せない。
ドゥホンに代わって「ハンガン組」の組長の座に就いていたギョンミンは、そのことをドゥホンには伝えまいと思ってたが、組時代からドゥホンに心酔していた若い組員エックは、プサンを訪れ、その事実をドゥホンに告げる。

そんなドゥホンは、プサンでの行動の一部始終を監視されていた。ソウルの有名な元組長がプサンで何をするつもりなのかと、地元の組織「ヘウンデ組」が神経を尖らしてたのだ。
その監視役は、同じ料理教室に通う若い女・セビンだった。彼女は目立たないよう、帽子を目深にかぶり、ドゥホンを覗ってたが、不器用に包丁を扱うこの中年男が、ヤクザの元組長だとは、とても思えなかった。料理教室を出た後も、ドゥホンは埠頭に佇んで、じっと海を眺めてるだけだった。

セビンは韓国の女子射撃選手として、将来を嘱望されながら、射撃コーチの飲酒運転がもとで、選手生命が絶たれた。7000万ウォンという莫大な借金も抱え、今は「ヘウンデ組」の便利屋として使われてたのだ。
料理教室で顔を合わせるうち、ドゥホンから声をかけられるようになり、その屈託ない口調に、セビンもつい気を許してしまう。「監視対象」の人間といつしか普通に話しをするような間柄になっていく。

だがセビンと同居する女友達ウンジョンが、借金生活から逃れるため、「ヘウンデ組」が隠していたスーツケースを盗み出したことが発覚。セビンとウンジョンは殺される寸前となるが、組の幹部から
「ドゥホンを殺害すればこの件は見逃してやる」
と言われる。「ヘウンデ組」は「ハンガン組」の組長ギョンミンから、要請を受けてたのだ。
セビンは命令を飲むしか無かったが、気兼ねなく話しができて、思い遣りも感じる「おじさん」のドゥホンにどうしても引き金を引けない。
セビンは彼の前から姿を消すことにし、料理教室を辞めると告げる。

ドゥホンは「送別会をやろう」と、海沿いの小さな食堂に行く。そこは海女が獲ってきた海の幸を、客が自分たちで調理して食べる。セビンとドゥホンは、料理教室のように、二人並んで調理を楽しんだ。

食事も終わり、その別れ際に、ドゥホンは店の前の道路で、突っ込んできた車に跳ねられる。フロントガラスに叩きつけられ、路上に倒れこむドゥホンだったが、すぐに起き上がり、運転席で気を失ってる人間の顔を見る。
それはセビンの女友達ウンジョンだった。それを目撃したセビンも口には出せない。ウンジョンは気がつくと、ドゥホンを振り切り、車で走り去った。
ドゥホンは自分の命が狙われたことで、「チルガク会」の会長の事故死も、仕組まれたものだと確信。「チルガク会」の幹部たちの表情をじかに見るために、ソウルへ向かうことにした。


監視役ってのは、相手に気づかれないように見張るのが基本なのに、何やってんだよという、まあそこは目をつぶるにしても、登場人物の関係性が整理し切れてないというか、すんなり把握しにくい。

「ハンガン組」があって、その上部組織の「チルガク会」があって、さらにプサンの地元組織「ヘウンデ組」がある。見ててどの人間がどこの所属なのか、そこ見極めるのがまず大変。
これは韓国の人だとか、韓流をよく見てて、俳優の顔にも詳しい人なら区別つくのかもしれないが、俺の場合は顔の区別がつきづらかった。
この3つの組織に加えて、プサンで殺人請負をしてる、年輩女史が率いる組織も出てくるが、またそこにも何人かいるわけだよ。もうちょっと登場人物絞ってくれんかな。
撃ち合い、殺し合いの場面もあるんだが、誰が誰と殺し合ってるのかよくわからん。


ソウルに出向いたドゥホンは、高層マンションの一室に身を隠しながら、エックと連絡を取り、組織を動向を探らせていた。一方、ウンジョンの運転してた車が港の海中から引き揚げられた。ウンジョンの死体は無かったが、セビンはドゥホンが殺したと思い込み、ついにドゥホンに対し、引き金を引くことを決意する。
そこからセビンは殺人請負女史の所に行って、ドゥホン殺害を請け負うんだが、その後でやっぱりドゥホンはウンジュを殺してないことがわかり、また引き金引けなくなる。
だが女史から見張りをつけられて退路もない。
セビンは思い余ってドゥホンをケータイで呼び出すが、まあ心労もあったんだろう、高熱で倒れてしまい、ドゥホンの隠れ家で介抱される。おかゆを作ってもらったり、ドゥホンの優しさが身に染みる。

このあたりのほのぼのした描写は、狙いなのはわかるんだが、互いに追い詰められてる緊迫感がない。
それにドゥホンもマンションを組織の刺客たちに突き止められちゃうんだが、チャイムが鳴ってドアを無造作に開けちゃうし、そこ隠れ家なんだろ?
元ヤクザの組長ともあろう者が油断しすぎ!

あとエックが、セビンとの関係を訝り「援交はよくない」と言うと、
「そんなんじゃない。彼女とは級友だよ」
とドゥホンは応える。ピンとこない顔をしてるエックに
「今の若いもんに、級友って言葉は通じないのか」
同じ料理教室の生徒だと言ってるわけだが、この言葉が後にもう一度出てくる。
ドゥホンとセビンとの会話のなかでセビンの口から「級友」という言葉が発せられ、ドゥホンは一瞬「おっ?」という顔をしてる。セビンと同い年くらいのエックには通じなかった言葉を、彼女は使ってたからだ。

俺はこの場面でこれを伏線と推測したのだ。セビンはこの「級友」という言い回しを、エックから聞いたんじゃないか?つまりセビンとエックには繋がりがある。
ドゥホンに忠実なエックが実はドゥホン殺害の指令に関与してるのでは?

しかーし、この「級友」という言葉はなんの伏線にもなってなかった。
「言っただけかよー!」とエンディングで脱力した。
いろんな細かい部分のアラが気になってしまうんで、物語に集中できない。


ソン・ガンホは、若い女性と一緒に過ごしてても、下心がない「気のいいおじさん」に違和感なく見えるんで、そのあたりはさすがなんだが。
セビンを演じるシン・セギョンは俺は初めて見る女優。剛力彩芽とほしのあきが入ってる風だったが、なんというか、ルックスに「狙ってる感」が出てるのが、俺としてはいまいち惹きつけられるものがなかった。
まあこれは好みの問題。

終盤にはカーチェスなんかもあるが、韓国映画にしてはアクションに迫力がない。
『イルマーレ』を撮ってる監督なんで、ドゥホンとセビンの、年の差を超えた「淡い愛情」の物語に焦点当ててた方がすっきりしたんではないか?
いろんな要素を入れようとして散漫になってしまったという印象だ。

2012年3月24日

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悪人より困る「厄介な人」 [映画カ行]

『家族の庭』

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パンフレットのアートワークが素晴らしい。表紙と裏表紙は開くと1枚の場面写真になってる。
それは夫婦が親しい人間を呼んで開いた、ガーデンパーティの1シーンをスチルにしてるんだが、この1枚で登場人物の明暗がわかるようになってる。
この場面には6人が写ってる。赤ん坊含めれば7人だが。

ドラマの中心にいる、地質学者のトムと、医学カウンセラーのジェリーは、60を過ぎてるが、時間を見つけては家庭菜園に精を出す、仲睦まじい夫婦。ジェリーの同僚カウンセラーのタニアの、産まれたばかりの赤ん坊のお披露目も兼ねてる集まりだ。長く隣人同士のつきあいのジャックは、妻に先立たれ、自らも健康に不安は抱えてるが、身なりもきちんとした紳士だ。
一方このパーティに大きく遅刻して現れたのは、やはりジェリーの同僚で事務をやってるメアリー。見た目は50手前くらいだと思うが、常に若作りしてて、常に「男運がない」と嘆いてる。
そのメアリーが席につくなり「タバコ吸ってもいい?」と言うものだから、4人はテーブルを離れる。
テーブルの向かいには赤ん坊もいるし、4人もタバコを吸わないことはメアリーも知ってるはず。
自分から離れた場所に行って吸おうという発想がないのだ。

誰も居なくなったテーブルで、メアリーの隣に座ったのは、夫婦の共通の友人のケンだ。彼も60過ぎで、もう40年近くも職安に勤務してる。独身で、この歳になってもスナック菓子が手放せず、不摂生を重ねる体はウィスキーの樽のようだ。そして最近友達を病気で亡くしてることもあり、孤独感を募らせている。
「俺も吸おう」と言うケンは、メアリーを気に入ってる様子だが、メアリーは彼が嫌いなのだ。
ジェリーに「あの人、なんか変よねえ」などと言ってる。
メアリーは常に男との出会いを求めてるのに、ケンだけは御免だという。彼女にはケンを嫌う理由が、潜在意識の中ではわかってるのだ。

ケンは自分と同類だからだ。ケンを見ていて感じる嫌悪感はつまりは自分に跳ね返ってくるものだ。
そんな二人が会話もなく画面の左端のテーブルで黙々とタバコを吸っている。芝生をはさんで画面の右端には、タバコの煙を逃れた4人(と小さな1人)が、穏やかな表情を浮かべて談笑してる。
緑に包まれた残酷な人生のワンシーンなのだ。


このパンフはその他にも、マイク・リー監督がどういう風に映画を作っていくのか、そのユニークな方法を、出演者へのロングインタビューで解き明かしているのも読み応えがある。
パンフの中央部分が見開きで、「キネ旬」で長く、映画人のイラストを描いてる宮崎祐治が、この映画の登場人物を描いていて、これが実に特徴を捉えた見事な絵になってる。プロの仕事だなあと思う。なのでもしこれから映画館で見る機会があれば、このパンフは買った方がいい。


この映画は家庭菜園の風景を映しながら、この夫婦の「ある1年」を描いてる。夫婦の間にはこれという問題もなく、生活に波風も立たないが、そこに波風を起こすのが、ジェリーの同僚のメアリーだ。
彼女とのつきあいももう長いので、その性格は夫婦も把握はしてる。妻の同僚ではあるが、夫のトムも、彼女のとりとめもない話の聞き役をイヤな顔せずに続けてる。
メアリーは一度若い頃に離婚を経験しており、それ以来男運がないと思ってる。若作りしても歳は隠せない。人生への焦りや孤独を紛らわせるのが、この夫婦の家なのだ。なので週に一度は顔を出す。

トムとジェリーの夫婦には30になる息子のジョーがいる。アパートで一人暮らしで、役所勤めをする温厚な性格の息子だが、恋人の気配がない。
「私生活に変化はないの?」と母親にきかれても
「西部戦線異状なし、だよ」などと言ってる。

実はパンフのあの写真には写ってないが、ガーデンパーティには息子のジョーも参加してた。
そしてメアリーはあろうことか、久々に会ったジョーに秋波を送るような仕草をしてる。ジョーにとっては、メアリーは自分の子供の頃からの知り合いで「叔母さん」でしかないのに。
メアリーはパーティでの別れ際に「今度ふたりで呑まない?」とジョーを誘ってる。


そのメアリーが、次に夫婦の家でのお茶に呼ばれた時、思わぬ形でジョーと再会する。
ジョーは両親に恋人を紹介しに帰って来たのだ。作業療法師として病院で働くケイティは、ジョーよりも年下で、ジョーの両親とも会ってすぐに打ち解けるような明るさを持っていた。ジェリーも彼女のことを気に入った。
独身のままの息子を心配してたので、なおさら嬉しいサプライズとなった。
別の意味でのサプライズを食らったメアリーは、ジョーの若い恋人を目の前に、あからさまなほどに動揺していた。メアリーの態度の急変に、その意味する所を察したジェリーは愕然となった。

お茶のテーブルで向かい合わせに座るケイティに、メアリーは突っかかるような口調で応対する。
ケイティは、なんでこの人だけフレンドリーじゃないのか、訝しく思うが、しだいに女の勘が働いてきたようだ。
常に場を和ませようと気を遣うトムも、さすがに困り顔だ。
ジョーとケイティは先に立ち去り、残されたメアリーも
「私もそろそろ帰ろうかな」と言うと、
ジェリーは「どうぞ」
そのあまりに素っ気ない口調に表情が固まる。


この映画ではメアリーを演じたレスリー・マンヴィルが、数々の映画賞を受賞している。
その「痛い」感じは、『ヤング≒アダルト』のシャーリーズ・セロンの場合の、痛かろうが、突っ走る「攻撃的演技」の、ある種の爽快さとは異質の、ひたすらドつぼに嵌ってく感じで、いたたまれない。
だから勿論彼女の演技は見応えあるんだが、ここでは、ルース・シーンが演じるジェリーの心情を考えてみたい。

この夫婦の良好な関係性というのは、もちろん人間としての相性が良かったこともあるだろうが、馴れ合ってる感じではない。料理も夫のトムが作ることもあるし、どちらかが依存しっ放しじゃないのだ。
つまりこの夫婦は、一番距離の近い人間同士として、相手に対して自分を律してるような部分がある。
映画の中で夫のトムの仕事先の同僚を家に招く場面はなかった筈だ。
しょっちゅう顔を出すのは、妻のジェリーの同僚のメアリーなのだ。ほとんど自分の話しかしないメアリーに、トムは変わらず接している。だからそういう夫に対して、ジェリーは感謝してる気持ちがあるだろうし、不愉快にさせたくないとも思ってるだろう。
だがあろうことか、自分の同僚のこの女は
「息子に色目を使ってきた」

病気や悩みを抱える人に、アドバイスを送る医学カウンセラーを長く勤め、冷静に人と接してきたジェリー。
家を人の集まる場として、オープンマインドに受け入れてきたジェリーも、さすがに母親としては冷静ではいられなくなる。そして当たり前だが、自分がジョーの母親であるように、トムはジョーの父親なのだ。トムに対しての面目も立たない。
だからメアリーはピシャリと跳ねつけられた。


人間のつきあいというのは難しい。よく「家族のようなつきあい」と言ったりするが、「家族」と「家族でない者」は当然違うし、だがその温度差に気づかない人もいる。
職場であれ、学校であれ、友人関係がスタートするような時に、
「でも家族とあなたとの関係は別のものだから」
などと、予め宣言するような人はいないだろう。
だが友人関係というのは長くなると、家族の関係との違いが曖昧になってくることはある。
特にこの映画の夫婦のように、いつも家に迎え入れてくれるような存在だと、その家族にどこまで係われるのか、判断もできないというより、判断する必要すら感じなくなってしまう、メアリーのような人がいても不思議ではない。

メアリーはもちろん悪人ではないが、夫婦にとって「厄介な人」になってしまった。
だが一線を踏み越えようとしてきた「他人」に、「もう来るな」と言うだけで、関係を終わらせることができるだろうか?
特にそれまで「家族のように」受け入れてきた相手を、拒絶する時に、そこにいくばくかの罪の意識は生まれないだろうか?

この映画は、あの「お茶」の場面の後にもエピソードは続き、ラストシーンも、なにか答えが明示されるような演出は施されてない。マイク・リーの映画はいつもそうなのだ。
だから見た後こうして、ああだこうだ考えて書くこともできる。

マイク・リー監督の映画には、人と人が会話してる場面以外はほとんど何も映ってない。アクションシーンなんてあるわけもない。
よく大掛かりな見せ場や、サスペンス演出などで「息を呑む」と言う表現があるが、マイク・リーの映画には、会話の場面で「息を呑む」ような瞬間が何度も訪れる。
今回でいうなら、メアリーとジョーの恋人との緊迫した空気とかまさにそれで、レスリー・マンヴィルの表情などは「スペクタクル」と言っていい。


引き合いに出すのは何だが、たまたま先日NHKで夜ドラマをやってて、飯食いながら見てたんだが、『大地のファンファーレ』という、ばんえい競馬の騎手たちを巡る物語だった。わりといい顔ぶれの役者たちだったが、演出がことごとく「ありきたり」で、目を見張るような場面がひとつもなかった。
日本映画にしても未だに、主人公が感極まると「わあーっ!」とか叫んで夜の道を全力疾走するなんて演出をしてる。
感情表現に対して、演出が怠慢なんだよ。
映画でもドラマでも演出を手掛けてる、あるいは目指してる人間は、マイク・リーの映画を1本でも見るべきだ。
そのレベルの差にまず打ちひしがれて、そっからスタートしてもらいたい。

2012年3月23日

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3月残り2週末の公開作が熱い [映画雑感]

3月の24日(土)とその翌週末31日(土)に公開される新作のラインナップが充実してて、貰った給料が速攻目減りするのは避けられない。期待値の高い映画を以下に挙げてく。

24日(土)公開分

『第九軍団のワシ』
以前ファスベンダー主演の『センチュリオン』のコメントを入れた時に、その後日談を描いてる『THE EAGLE』の公開を期待してると書いたが、ようやく原作小説と同名の邦題がついての日本公開が実現。
チャニング・テイタム主演の歴史アクションに見えるんで、シネコンでやるのかと思ったら、
「渋谷ユーロスペース」での単館公開とはね。意外と地味な中身なのかも知れんが。


『トロール・ハンター』
「ファンタ」系としてはその筋の間で早くから話題となってた、北欧ノルウェー発の怪獣映画。
伝説のモンスター「トロール」を追う、トロール・ハンターの行動を、心霊系でよく使われる手法の、フェイク・ドキュメンタリーとして描いてる。北欧らしい低温なギャグもまぶしてあるようだ。
東京では「TOHOシネマズ日劇」でのレイトと、お台場の「シネマメディアージュ」のみでの公開。
シネコンなんだけど単館みたいな扱いだね。


『テイク・シェルター』
大竜巻の襲来とともに世界が滅びるというビジョンを見てしまい、自宅の庭に一心不乱にシェルターを作り始める、そんな男を演じさせたら、マイケル・シャノン以上の役者はいないじゃないか!
「電波系」演技の集大成を見せてもらおう。映画自体もカンヌやサンダンスで受賞してるしな。
東京では新宿の「バルト9」と横浜・桜木町の「ブルク13」の東映系シネコンに、「銀座テアトルシネマ」に、
「シアターN渋谷」という変則的な公開だね。
マイケル・シャノンの電波出世作『BUG』も「シアターN渋谷」で見たんだっけ。


『マリリン 7日間の恋』
マリリン・モンローを演じたミシェル・ウィリアムズが、今年のアカデミー賞でメリル・ストリープと賞を競った伝記映画。ローレンス・オリヴィエのフォロワーとしてキャリアを築いてきたケネス・ブラナーが、ついにオリヴィエ本人を演じる他、最近とんと名前を聞かなくなったジュリア・オーモンドが、なんとヴィヴィアン・リーに扮してるという。
そっくりさん大会になってなきゃいいが。
東京では、「TOHOシネマズ」「Tジョイ・バルト9」(東映系)「MOVIX」(松竹系)「ワーナーマイカル」「ユナイテッドシネマズ」「立川シネマシティ」という、東急系の「109シネマズ」以外のシネコンに、「角川シネマ有楽町」「ヒューマントラストシネマ渋谷」などミニシアターと、ほぼ網羅するような規模の公開となってる。
ちなみに「109シネマズ」においては、横浜のみなとみらい地区の「109シネマズMM横浜」のみで公開。
小品ぽい印象があるんだが、予想以上に興行が期待持たれてるのかな。


『カエル少年失踪殺人事件』
韓国には「3大迷宮入り事件」というのがあり、
1986年からの5年間に起きた「華城連続強姦殺人事件」は『殺人の追憶』で、
1991年ソウルで起きた「イ・ヒョンホ君誘拐殺人事件」は、ソル・ギョング主演『あいつの声』で
それぞれ映画化されてる。
『カエル少年失踪殺人事件』は1991年にテグ市の小学生5人が、「カエルを取りに行く」と言ったまま戻らず、2002年9月に少年たちのものと思われる白骨死体が発見された事件を映画化したもの。題名からは一瞬コメディかと思ってしまうが、韓国人には「カエル少年事件」と呼ばれ誰もが知ってるのだという。
キャストが渋めなのも期待を持たせる。
東京では韓国映画といえば此処という「シネマート六本木」での単館公開だ。


31日(土)公開分

この日はすでにファンの間では盛り上がってるようだが、「ライアン・ゴズリング・ウィークエンド」とも言える、彼の期待の新作2本が公開されるのだ。

『ドライヴ』
ライアンは犯罪組織の逃走請負に手を染める、映画のスタント・ドライバーを演じてる。先輩「ライアン」のライアン・オニールが1978年に主演した『ザ・ドライバー』と同じ稼業だ。
この映画でのライアン・ゴズリングの演技が、今年のアカデミー賞の候補から漏れたことが、ハリウッドでも騒ぎとなってたが、新世紀のフィルム・ノワールとしてもすでに評価が高い。
もう予告編がね、カッコよさを煽りまくってるからね。こっちも「期待通りじゃなきゃ許さないよ」という位のテンションになってるのだ。
東京では「TOHOシネマズ」「バルト9」「MOVIX」「ワーナーマイカル」「ユナイテッドシネマズ」「立川シネマシティ」というシネコン系に、「ヒューマントラストシネマ渋谷・有楽町」「シネリーブル池袋」のテアトル系ミニシアターとこちらも規模の大きい興行展開だ。
しかしこれも「109シネマズ」ではやんないのか東急。
この『ドライヴ』で一躍世界的な注目を集めることとなった、デンマーク出身のニコラス・ウィンディング・レフンの2009年の監督作『ヴァルハラ・ライジング』も、この翌週4月7日に公開が決定したのは嬉しい。
なんたって主演がマッツ・ミケルセンという北欧伝説アドベンチャーなのだ。


『スーパー・チューズデー 正義を売った日』
こちらの方は、民主党の大統領候補者を選ぶ「予備選」を題材にした、まさに時期としてはドンピシャな内容。
ライアンは、選挙の裏の政治的かけ引きに翻弄される、若き選挙参謀を演じてる。
監督・主演は政治ネタにこだわるジョージ・クルーニーだが、彼の監督作は「クール」を気取りすぎるというか、いい意味でのはったりに欠ける所がある。今回のはどうだろうか。
ライアン・ゴズリングは若手きっての演技派だが、この2作は外見をあまり作ってないから、女性には特にアピールできるだろう。これで人気がブレイクしなかったら、もうこの先日本でのブレイクはない。
東京では「新宿ピカデリー」「MOVIX」(松竹系)「ワーナーマイカル」に、「シネマメディアージュ」「品川プリンスシネマ」「立川シネマシティ」の独立系シネコンと、銀座の「丸の内ピカデリー」、「渋谷シネパレス」での公開。
ちなみに神奈川では「ブルク13」や辻堂の「109シネマズ湘南」のほか独立系シネコンの「チネチッタ川崎」でも公開される。
ところで、お台場の「シネマメディアージュ」は一応「TOHOシネマズ」の傘下に入ってるにも係らず、TOHOシネマズのサービスが適応外となってる。なんでそういう中途半端なことになってるのか、ずっと気になってる。


『ヘルプ 心がつなぐストーリー』
これも今年のアカデミー賞を賑わせた作品の1本。
先日DVDで見た『小悪魔はなぜモテる?!』が抜群だったエマ・ストーンが、南部の白人家庭で働く、黒人のメイドたちの心情を取材する、記者志望のヒロインを演じる。
アカデミー賞助演女優賞を獲得したオクタヴィア・スペンサーなど、演技の見せ場は黒人女優たちが負ってるようだが、涙あり笑いありのヒューマン・ドラマに仕上がってるんだろう。
東京では現在わかってる範囲では「TOHOシネマズ」「ワーナーマイカル」「109シネマズ」「MOVIX」のシネコンに、「ヒューマントラストシネマ渋谷」「新宿武蔵野館」のミニシアター系、横浜・桜木町の「ブルク13」などでの公開が決まっている。


『ルート・アイリッシュ』
『大地と自由』『カルラの歌』『麦の穂をゆらす風』など度々戦争下のドラマを描いてきた名匠ケン・ローチが、イラク戦争に従軍していたイギリスの民間兵の存在を初めて題材としたドラマ。イラクの空港から米軍管理区域「グリーン・ゾーン」までの12キロに及ぶ道路の俗称が題名となってる。
最もテロの標的にされやすい「世界で一番危険な道路」なんだと。
心臓に悪そうなサスペンスフルな描写がありそう。
東京は「銀座テアトルシネマ」での単館公開。


『少年と自転車』
カンヌに出品した監督作が5作連続で何らかの賞を受賞してる、ジャン=ピエールとリュックのダルデンヌ兄弟の新作。
『息子のまなざし』の公開時に来日した折、企画されたシンポジウムで「育児放棄され、赤ん坊の頃から施設に預けられた少年が、親が迎えに来るのを屋根にのぼって待ち続けていた」という実例が紹介され、それに胸を打たれた監督が、インスパイアされて作ったのがこの映画だそうだ。
監督デビュー作『イゴールの約束』に、15才で主役に抜擢されたジェレミー・レニエが、この映画では31になり、父親役を演じてる。セシル・ドゥ・フランスというスター女優を起用してるのも珍しい。
東京では渋谷の「文化村ル・シネマ」、神奈川は「109シネマズ川崎」で公開される。
なお「ル・シネマ」では公開記念として、今月24日(土)から30日(金)まで、ダルデンヌ監督の旧作5本『イゴールの約束』『ロゼッタ』『息子のまなざし』『ある子供』『ロルナの祈り』を上映する。

とそんな所なんだが、日本映画は1本もなかったな。
24日には森田芳光監督の遺作となってしまった『僕達急行 A列車で行こう』があるんだが、こう今ひとつ食指が動かない。むしろ同日公開で、谷村美月が「ヒットガール」みたいなコスプレで怪盗を演じるという『サルベージ・マイス』が、危険な香りはプンプン漂わせてるものの、逆に気になったりしてるが。

俺は昔から日本映画もわりと見てきてはいるんだが、そうね40過ぎたあたりからか、特にここ数年が顕著だが、見たいと思う日本映画が少ないんだよ。
テレビドラマの劇場版がさかんに作られてるけど、俺はテレビドラマをほぼ見ないから、劇場版を見に行く筈もない。マンガも読まないから、マンガ原作の映画にも関心湧かない。
気に入った女優が出てると見たりはするが、内容にハマるってことはあまりないな。
作られてる映画がユース向けか、でなければエルダー向けか、両極端な気がするね。30代から50代くらいまでの年代が「これは見たい」って内容のものが滅多にない。

話はちょっと違うけど、今年の夏に公開されるアニメで、『サマー・ウォーズ』の細田守監督の新作『おおかみこどもの雨と雪』のティーザーがシネコンで流れてるけど、俺このアニメはそれこそジブリなみに大ヒットすると見てる。興収50億は軽く超えてくんじゃないか。
ジブリがもう作るのを止めてしまった「観客が求めてるジブリアニメ」を、細田監督が再生させようとしてる感じがビンビン伝わってくるんだが。
ポスターのビジュアルだけでも、子供もお母さんも「これ見たい!」って思うよきっと。

2012年3月22日

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ジョナサン・デミは新作撮らないのか? [映画ラ行]

『レイチェルの結婚』

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おととい『メランコリア』をくさして書いたのは、惑星衝突とは別に、披露宴を台無しにする花嫁というプロットが、二番煎じに思えて白けたからだ。
何の二番煎じかというと、この『レイチェルの結婚』のだ。これは2008年のジョナサン・デミ監督作だが、類似点が散見する。

アン・ハサウェイ演じるヒロインのキムは、姉のレイチェルの結婚式に参加するため、麻薬中毒者の更正施設から一時的に退院して、コネティカットの自宅に向かう。父親が車で施設に迎えに来てるんだが、自宅への車中も、家族の問題児に対して、父親が距離を測ろうとしてる様子が伺える。
自宅に着いたキムはドレスを選ぶ姉と、その親友のエマと顔を合わせる。姉と再会のハグはするが、彼女たちの間に、微妙な緊張も漂ってる。

キムは更正施設からのいいつけで、毎日地元で尿検査をして、麻薬中毒者たちが互いに苦悩を語り合って、更正の道を歩む「12 STEPS」という集まりに通わなければならない。
父親に車を貸してと頼むが「運転だけは遠慮してくれ」と言われ、自転車でかなりな距離を行くことに。
集まりに遅れて参加したキムの隣にはジャージを羽織ったキーランという男が、麻薬に溺れてた頃の虚しさを語っていた。
自宅に戻ったキムは花婿で黒人のシドニーを紹介される。その付添人として顔を見せたのは、あのキーランだった。キムは偶然を面白がり、キーランを屋根裏部屋に誘ってセックス。
「付添人同士がヤルのが流行るわよ」
と言うキムに、キーランは
「花嫁の付添人はエマだと聞いてるが」と。

キムは姉のレイチェルに気色ばんで問い質した。
「だってあなたは来れるかどうかわからなかったもの」
結局レイチェルはエマに謝って、キムを付添人にするが、エマは当然面白くない。
早くも不穏な空気が充満してきた。

両家の身内と親しい友人だけを集めたリハーサル・ディナーは、音楽業界で働く新郎の人脈によって、音楽が溢れる楽しいものだったが、祝いのスピーチのマイクを渡されたキムは、緊張からか、自分が麻薬中毒者の施設に入ってることや、家族にとって厄介者であることなど、場にそぐわない話を繰り出し、場を真っ白な空気に変える。
ディナーが終わり、家族だけのリビングで、レイチェルがキムのスピーチに怒りをぶつけたことから、この家族の抱える感情の軋みが露になる。


家族にはキムの下に、歳のはなれた弟イーサンがいた。
キムが16才の時、母親から留守中の弟の面倒を任された。その時もクスリでラリっていたキムは、チャイルドシートに弟を乗せ、車を運転中にハンドルを誤り、橋から転落。イーサンは死亡した。

父親と母親は離婚し、母親は今夜のディナーには顔を出したが、この家には寄り付かなくなっていた。
父親はキムの心の傷を慮るあまり、キムのことばかり気にかけ、姉のレイチェルは疎外感を募らせて暮らしてきた。キムはそんな父親の干渉を疎ましく感じてたし、レイチェルはキムに対し
「中毒から回復できないなら、死ねばいいと思った」とまで言った。
「運転だけは遠慮してくれ」と父親が言ったのはそんな訳があったのだ。
互いの腹の中にあったことを吐き出して、その場は落ち着いたが、翌日さらに状況は悪化した。

姉妹で町の美容室に髪を整えに行くと、店内で若い男がキムに話しかけてきた。以前「12 STEPS」でキムの告白を聞いて、勇気をもらえたという。キムはその時、少女時代に姉と自分が叔父から性的虐待を受けてたという話をしていた。
キムと若い男の会話を聞いていたレイチェルは激怒して店を出た。そんな事実などないのだ。
更正するなどと言って、家族をダシにして平気で嘘をついてるなんて!
キムは自宅には戻れないと思い、母親の家を訪ねる。だがそこでもイーサンの話になってしまう。
「なんで私なんかにイーサンの面倒を頼んだのよ!」
「あなたが、イーサンの前でだけは穏やかにいられたからよ」
そのうち母親も感情が昂ぶり
「なんであの子を死なせたの!」
と母娘で殴り合いの喧嘩となる。
母親の車を奪って走り始めたキムだが、ほどなく藪に突っ込んでしまう。

翌朝、顔を腫らし、憔悴したキムを、レイチェルは黙って迎えた。
妹を風呂に入れ、体を洗ってやってると、肩のタトゥーが目に入った。
服を着てる時はわからなかったが、そのタトゥーには「イーサン」と彫られていた。


『メランコリア』では花嫁キルステン・ダンストの不安定な精神状態が、披露宴にカタストロフをもたらすんだが、この映画では花嫁の妹が、披露宴を脅かす存在になってる。
姉妹の間に葛藤があるのも同じだ。
『メランコリア』の中で、姉のシャルロットが妹に
「時々あなたのことがたまらなく憎らしくなる」と言ってる。
姉が妹を風呂に入れてやろうとする場面もある。
キムがいきなりキーランと屋根裏部屋でヤル場面の唐突さも、キルステンが若い招待客の男と青姦する場面につながる。
そしてどちらの映画も母親がエキセントリックな人物に描かれている。

だが『メランコリア』の場合は、この映画のような背景がまるで描かれないので、キルステンの不安定さが、惑星接近によるものなのか、マリッジブルーなのか、はたまた母親との関係性の中で育まれた性格的なものなのか、よくわからんままだ。


この『レイチェルの結婚』は、ジョナサン・デミ監督の演出スタイルが、終始手持ちカメラでの撮影や、即興のような場面もあるし、極力人工的な照明をたかないで撮ってる感じは、ラース・フォン・トリアー監督はじめデンマークの監督たちの間で提唱された「ドグマ95」の演出法に則ってるようでもある。回想シーンとかもなかったしな。
なのでトリアー監督が、この映画を見て気に入ることは十分考えられる。

で、そのジョナサン・デミ監督がもし「ドグマ95」の演出を意識していたとすれば、多分ドグマ第1作の1998年作でトマス・ヴィンターベア監督の『セレブレーション』を見てたんではないか?

セレブレーション.jpg

『セレブレーション』はデンマークの鉄鋼王と呼ばれる人物の還暦を祝うパーティで、一同に会した一族の口から次々に家族の恥部が明かされていくという話。
なので『メランコリア』は『レイチェルの結婚』を元にして、『レイチェルの結婚』は『セレブレーション』を元にしてると推測してみる。


ジョナサン・デミはシネフィルとしても年季の入った人で、2002年の、パリを舞台に撮った『シャレード』のリメイク版などは、微笑ましい位に、ヌーヴェルヴァーグへの憧れが塗りこめられていた。

さらに遡って1979年の日本未公開作『LAST ENBRACE』は、もう全編ヒッチコックからの引用かというマニアックなスリラーだった。主演はロイ・シャイダーだが、日本ではビデオにもDVDにもなってない。

ラストエンブレス.jpg

1990年『羊たちの沈黙』が大成功収めたことで、大きな予算の映画を撮るようになったジョナサン・デミ監督だが、実は80年代末までのキャリアの方に、個性的な作品が並んでるのだ。

元々はロジャー・コーマン門下生で、低予算アクションでキャリアをスタートさせてるが、1977年に『アメグラ』のポール・ルマットとキャンディ・クラークのコンビを起用した
『HANDLE WITH CARE』で、演出を評価される。

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これは小さな町の市民無線を通じて描いた人間ドラマで、脚本をトム・クルーズの名作『卒業白書』を撮ったポール・ブリックマンが書いてる。日本未公開で、全く見る手立てもない。

監督としての評価を決定的にしたのは1980年の『メルビンとハワード』だ。
これも日本未公開だがWOWOWで過去に放映されてる。
アリゾナに住むごく平凡な牛乳配達人メルビンが、砂漠で倒れてた晩年のハワード・ヒューズをそれと知らず助ける。その出来事も忘れかけてた時、いきなり一通の通知とともに、メルビンが大富豪ヒューズの遺産相続人の一人に選ばれたと知る。その遺言状の真偽を巡って裁判が開かれるという、実話に基づいた物語。
『HANDLE WITH CARE』に続いてポール・ルマットが起用され、気のいいメルビンを好演してた。
この映画はNY批評家協会の監督賞をはじめ、アカデミー賞でも脚本賞と、メリー・スティーンバーゲンが助演女優賞を得るなど、数々の賞に輝いてる。

『レイチェルの結婚』は、監督キャリアの初期の時代に撮ってたこうした人間ドラマに立ち返ったような所があるのが、俺としては嬉しかった。
だがこれを撮ってからもう4年目になるが、海外の映画データベースで調べてみても、劇映画を撮るような予定が入ってないね。ジョナサン・デミという人は、ミュージックビデオやドキュメンタリーなど、いろんな分野を手がけてきてるから、また気が向いたらということなのかも知れない。

2012年3月21日

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こんな題名じゃ気がつかないっての! [映画カ行]

『小悪魔はなぜモテる!?』

小悪魔はなぜモテる.jpg

原題は『EASY-A』だ。エマ・ストーンが主演して、この手の青春映画では異例といえるほどの大ヒットを、全米では記録してる。それが日本では劇場公開ならず。こんな邦題つけられてDVDスルーとなってた。
しかしこれは面白かった。2回続けて見てしまったほどだ。

まず『EASY-A』の意味をわかっとく必要がある。
この「A」はエマ・ストーン演じる女子高生オリーブが、胸に縫い付けるイニシャルだ。
「A」はADULTERY(姦通)を意味していて、17世紀のピューリタン社会で、姦通の罪を犯し、生涯胸に「A」の文字を縫った服を着ることを強要された、ナサニエル・ホーソーンの小説『緋文字』のヒロインになぞらえている。


オリーブはカリフォルニア州オーハイにある、クリスチャンたちが通う公立高校の生徒。彼女はまともにデートした経験もないし、男子に声をかけられることもない。青春映画で見たような場面とは無縁の日常に
「私の人生は、ジョン・ヒューズの映画じゃない」
とぼやいてる。
オリーブは胸の大きい友達のリンから、週末の予定を訊かれ、つい見栄を張って
「大学生とデートする」と嘘をつく。
金曜の夕方から、日曜の夜にかけて、オリーブがずっと自宅で過ごしてる描写が可笑しい。

週明けにリンからデートの成果を問われ、あんまりしつこく
「ねえ、したでしょ?したんでしょ?」と言われ
「したわよ!」
と嘘を上塗り。クリスチャンたちの校内で噂が広まるのはADSLなみに速かった。
同級生には父親が牧師という、ガチガチのクリスチャンのマリアンヌがおり、さっそくオリーブを目の敵にした。
かくして地味で目立たなかったオリーブは、校内一の「アバズレ」として、一躍時の人となる。

そんなオリーブに、ゲイのブランドンが声をかける。オリーブの噂は嘘だと聞かされるが、嘘でいいんで、自分と「した」ことにしてほしいと。
ゲイと思われてると、この学校では露骨な偏見にさらされる。もう耐えられないんだ。
最初は取り合わなかったオリーブだが、つい情にほだされて、さらなる嘘の上塗りを。
生徒たちが集まってるホームパーティに、二人して出向き、部屋を借りて、声だけ熱演して、ドアの向こうで聞き耳たててる生徒たちにアピール。
作戦は成功し、ブランドンは男子生徒の仲間に迎えられた。

その顛末をブラントンから聞いた「非モテ」の男子たちが、こぞってオリーブに声をかけてきた。オリーブは「人助け」と思いつつも、報酬は受け取り「エアセックス」の相手となった。
オリーブが金を取って男と寝てるという噂が、校内で広まるのは光回線なみに速かった。
ついに敬虔なクリスチャンの生徒たちは、プラカードを持って、オリーブの排斥運動まで始めた。

事情を聞くために、英文学のグリフィス先生はオリーブを教員室に呼んだ。
このグリフィス先生が授業で教材に使ってるのが小説『緋文字』だ。オリーブは元はと言えば自分が火種を撒いたとはいえ、今やあの小説のヘスターと自分を重ね合わせていたのだ。
グリフィス先生は生徒たちに受けがよく、その授業は「A」評価をもらい易かった。
つまり『EASY-A』だ。
なおかつオリーブは簡単に姦通させる女と言う意味の『EASY-A』というわけ。


この後オリーブは、自分のついた嘘とレッテルを払拭するために奮闘することになるんだが、この映画の良さは、結構シリアスなテーマを扱っていながら、ごく軽い青春コメディのテイストでさらりとまとめてること。
これって出来そうで出来ない高度な技だと思うぞ。
ここに出てくる高校生たちはすごく周りの目を意識してる。周りから浮かないように、はじかれないようにって事に腐心してる。
俺はそういうのは日本の学校生活に見られることだと思ってた。個人のパーソナリティの尊重を掲げてるアメリカの建前と違うなと。クリスチャンが通う学校だからという、特殊な事情なのかその辺りはわからない。

非常にダイアログの量が多いのも青春モノとしては珍しい。思わず吹き出すような会話も多い。
オリーブが自分を攻撃してくるクリスチャン強硬派に対し、敵を知ろうと聖書を読んだりするんだが、教会の牧師にも相談しようと、マリアンヌの父親と知らず、会いに行く場面。

「ウソと不貞をどう思われますか?」
「よくないね」
「ではもし地獄があって…」
「地獄はあると考えます」
「ではその地獄があるとして…」
「いや、あるんです」
「仮に…」
「仮にじゃない。地面の下にある。アジアの方にね」

オリーブの父親をスタンリー・トゥッチ、母親をパトリシア・クラークソンという二人の芸達者が演じてる。
オリーブが自分が撒いた種の回収に苦慮してると母親に吐露する場面。
「私もあなたみたいに、尻軽呼ばわりされたことはあったわ」
「お母さんも?」
「私は実際何人もとつきあったりしてたし、ほとんど男だったけど」
ほとんどってどういう事だよ、しかも娘にカミングアウトしてるし。
「体が柔らかくてよかったのよ、足をこう上げてね…」
「お母さん、もういいから!」

「私の人生は、ジョン・ヒューズの映画じゃない」とヒロインに言わせておきながら、実はジョン・ヒューズに代表される80年代の青春映画への愛情が感じられるのもいい。
ギャグのネタにするとか、そういう扱い方じゃないのだ。
エマ・ストーンがカメラに向かって語りかける演出は、『フェリスはある朝突然に』でのマシュー・ブロデリックを踏襲してる。だがこの映画の場合は、観客に対して直接語りかけてるんじゃなくて、映画の終盤で、オリーブが一連の騒動の真相を、自らネット配信で明らかにしてるという設定とわかる。

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あと劇中に『フェリスはある朝突然に』の他にも、『キャント・バイ・ミー・ラブ』『すてきな片思い』『セイ・エニシング』『ブレックファスト・クラブ』の一場面が出てくるが、映画のラストシーンはそれらの80年代青春映画の名場面をアレンジした洒落た趣向になってる。バックに流れてるのは『ブレックファスト・クラブ』の主題歌だった、シンプル・マインズの『ドント・ユー』ってのも懐かしい。
挿入歌でいうと、ジョン・カーペンター監督の『スターマン』のメインテーマをサンプリングした楽曲が流れてたが、あれは何て曲なんだろ。

エマ・ストーンは目が大きすぎて、好みのルックスではないんだが、この映画の彼女はいいね。人気出るのもわかる。あのハスキーな声とか、表情の柔軟さとか、デブラ・ウィンガーの若い頃を思わせる。

『ミーン・ガールズ』とか、アレクサンダー・ペイン監督のデビュー作『ハイスクール白書』、ウェス・アンダーソン監督の『天才マックスの世界』など、下ネタに堕さない「ひとヒネリある学園映画」が好きなら楽しめると思う。

2012年3月20日

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さっさと医者に診せろという話 [映画マ行]

『メランコリア』

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最初のカットの「どウツ」な表情のキルステン・ダンストのアップが、もうウィリアム・フォーサイスにしか見えないわけだよ。以前から似てるとは思ってたけどね。
キルステンはとても奇麗に見える時と、ブサイクな時と両方ある、俺にとっちゃ「面白い女優」の一人なんだが、ちょっと気を抜くとウィリアム・フォーサイスになっちゃうんだよな。
「そりゃ一体誰だ?」ってことだよねえ。
一番目立ってたのはセガール映画『アウト・フォー・ジャスティス』で、セガールの幼なじみにして、キレたら止まらない町の悪党かな。あとは『サンタモニカ・ダンディ』の堅物FBI捜査官とか、『デビルズ・リジェクト』の、殺人鬼一家より狂ってる保安官とか。
まあそれでもピンと来る人も少ないだろうね。
言っとくけど男優だから。

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その彼女のアップから10分弱くらいは、イメージ映像的な画面が続く。
これはラース・フォン・トリアー監督の前作『アンチクライスト』の冒頭部分や、森の中の描写などに見られた撮り方だ。地球の終末を思わせるような不吉な美しさに満ちていて、この映像だけで全編やり切ってくれてもよかったのに。『ツリー・オブ・ライフ』の冒頭部分に通じるものがあるね。

その映像が明けると、あとはウエディングドレスの花嫁キルステンが、リムジンが森の狭い道に阻まれ、披露宴に2時間遅刻した上に、花嫁自身がどんどん気分が不安定になっていき、姉夫婦の邸宅で催された披露宴を台無しにしてく過程が、正直グダグダと綴られてくのだ。
グダグダだがキャストは豪勢だな。
姉がシャルロット・ゲンズブールで、その夫がキーファー・サザーランド。
披露宴の顔ぶれには、ステラン・スカースガードにウド・キア、ジョン・ハートにシャーロット・ランプリングまで。
ちなみにキルステンの夫には、ステラン・スカースガードの長男アレクサンダーが。あんまり似てないな親子。
ヴィゴ・モーテンセンに似た感じだよ、むしろ。

キルステンは邸宅に着いた時にふと夕暮れの空を見上げ、サソリ座の赤い星アンタレスに目を止める。
なにか気になるのだ。夜になりダンスに興じる招待客たちと離れ、邸宅の正面に広がるゴルフコースにしゃがみ込む花嫁は、そこで放尿。
またアンタレスを見上げてる。

姉のシャルロットは、時間刻みで披露宴のアトラクションを決めてたんだが、ケーキ入刀の段になっても、キルステンは風呂に入って出て来ない。
ここまで押しに押してるんだが、招待客もウド・キアを除けば、みんなキレずにその場に居るのは偉いねえ。
というか、こういう披露宴のアトラクション形式というのは、日本特有のものと思ってたんで、意外な気もした。
ちょっと目を離すと、姉の子供のベッドで一緒に寝たりしてるし、キルステン明らかに具合悪いよな。
多分姉のシャルロットは、それも妹の我がままな行動くらいにしか思ってないようだが、本人が足元おぼつかないとか言ってるんだから、医者に連れてけよ。

体調悪いだけじゃなく、キルステンは広告代理店でコピーライターの職にあるんだが、招待した上司を罵倒する言葉を吐いて、披露宴の場でクビ確定、上司のステラン激怒して退場というひと幕も。
その間にも、夫を差し置いて、披露宴の客の若い男と青姦かましてます。もう無茶苦茶だよ。


『アンチクライスト』もこの『メランコリア』も、監督のラース・フォン・トリアーが「ウツ」を患ってる状態の中で撮った映画という。
「ウツ」な自分をキルステンに投影してるんだろうが、「ウツ」は病気だから、なってみないとわからないし。
身体に痛みがある病気なら、言われれば、その痛みの見当くらいはつくだろうが、痛みがあるわけじゃないからね。よく「ウツ」になると、体がだるくて、気力もなくなるとか、楽観的に物事が考えられなくなるとか、症状は聞くけど。
それでいうと俺なんか、普段のテンションがごく低めだし、だるくて気力が湧かないなんてことはしょっちゅうだし、映画以外のことは基本面倒くさいと思ってるし、明日できることは今日やらないって性分だし、でもそれは「ウツ」ではなくて「ズボラ」なだけなんで、そこの違いが実感としてわからない。

乱暴に言ってしまえば、この映画は
「もう自分ウツだし、世の中どーでもいいし、惑星にドカンとぶつかってもらって、
地球終わってもいいんだけど」
という心情の映画なんでしょ?
俺は困るんだよ、そんな簡単に終末来てもらっちゃあ。まだ見たい映画は沢山あるんだし。

映画の中ではキルステンの不調を、惑星メランコリアの地球接近のせいと見えるような描き方もされていて、披露宴の夜に気になってたアンタレスは、空から消えてしまってる。
披露宴をブチ壊したキルステンは、その7週間後に、また姉夫婦の邸宅にやってくる。
「なんでお前がくるかな」という感じだろうが、しかも前より体調悪くなってるっぽい。
支えてもらわないとまともに歩けないんだが、その割には乗馬はできるのだ。馬に乗って森へ入って、ふと空を見上げると、今や月よりも大きくなった、惑星メランコリアを目にする。
そのまますっ裸になり、メランコリアの光を浴びて陶然となるキルステン。
シャルロットが彼女を風呂に入れようとする場面でも、キルステンは裸を晒している。

意外とたわわなおっぱいについて、そこここで「おっぱい、おっぱい」と語られてるようだが、おっぱいはどうでもいいんだよ。俺は足フェチなんだからさ。
『プリンセス・トヨトミ』のコメントでも、走る綾瀬はるかの揺れるおっぱいのことばかり語られてたが、おっぱいはどうでもいいんだよ。俺は足フェチなんだからさ。

まったくとりとめもない内容もないことをグダグダと書き綴ってしまったが、映画がグダグダしてるんだからしょーがない。監督には「早く病気治せよ」と言っとく。

2012年3月19日

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ジャネット・マクティア容赦ない [映画ラ行]

『レッド・バレッツ』

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ツタヤの会員カードの更新期限が近づいてるんで、久々に店に行って、何枚か借りてきた。これは新作の未公開アクションの棚に置かれてたが、ジャケのアートワークは『RED』の丸パクだ。他にもそういうのがあったな。
何年か前の『ソウ』も同じだったが、便乗したくなるアートワークが、たまに出てくるんだね。
これも内容もパチモンのように思えるが、俺は以前にこの映画のトレーラーを見て知ってた。
原題は『CAT RUN』という、けっこうバジェットのかかってるアクション映画だ。

借りた理由は一点のみ、『アルバート・ノッブス』を見て以来、ひいきにしてるジャネット・マクティアが出てるからだ。しかも凄腕の女殺し屋という役だ。それこそ『RED』のヘレン・ミレンに喧嘩売るような気合の入り方だが、あの映画ではヘレン・ミレンもさすがにご高齢で、それほど活躍したわけじゃなかったが、こちらのジャネット・マクティアの、血も涙もない暴れっぷりは半端ない。見せ場のほとんどを彼女が持ってってる。


モンテネグロのとある豪邸で開かれた秘密パーティに呼ばれた高級娼婦のカタリーナ。そこのオーナーは武器商人のヤコヴィッチで、メインの招待客は、米国国防長官のクレブだった。さっそくクレブは二人の娼婦を伴って部屋に行った。だがクレブには女の首を絞めながら挿入するという性癖があり、本気で絞めすぎて一人を殺してしまう。もう一人の娼婦はパニックを起こす。騒ぎが邸内に広まりかけた時、すべての部屋の様子を監視してたボディガードが動いた。口封じのため、邸内にいた娼婦たちを射殺して回る。
カタリーナはそのどさくさに紛れて、監視モニターの映像を記録したディスクを盗み出して逃げた。

カタリーナは海沿いの小さな食堂に電話を借りに入った。そこは若いアメリカ人の料理研究家アンドリューの店で、まるで流行ってなかった。親友のジュリアンも同席してたが、カタリーナは電話を借りた後、テーブルにあった車の鍵と、ジュリアンのケータイを失敬して行った。二人は気づいて後を追ったが、車は走り去ってしまった。
同じ頃、ディスクを盗んで逃げたのがカタリーナだと目星をつけた、ボディガードのカーヴァーは、その道のプロに連絡を取った。
やってきたのはヘレン・ビンガムという名の、中年の英国女だった。
彼女の仕事は表向き「失踪人捜査」だが、その実、元英国諜報部のスパイで殺し屋だった。

ヘレンは仕事を始めてほどなく、カタリーナの「商売」の仲介人である男が、ルクセンブルグにいることを突き止める。男はライダーといい、麻薬売買も行っており、その事務所には屈強なボディガードがいたが、ヘレンはたちどころに射殺し、ライダーを拷問にかける。
ライダーに口を割らせ、聞き出した情報から、カタリーナには赤ん坊がいて、その面倒を見てる彼女の友達がいることを知る。

一方、ジュリアンは経営がさっぱりなアンドリューに、探偵事務所を開いてひと儲けしようと持ちかける。二人はポルノ映画館の2階に格安で事務所の物件を借り、手始めに、車を盗んでったあの美人を探すことにした。
カタリーナの残した手がかりを元に、モンテネグロからイタリアの古都フェラーラへと向かう二人。
だが二人がカタリーナの友達の家に辿り着いた時、すでにヘレンによって拷問を受けた後の友達はこと切れていた。そして傍らには赤ん坊が。
アンドリューとジュリアンは赤ん坊を抱えて、モンテネグロのホテル・スプレンディドに居ることがわかったカタリーナと会うことに。だがその場にはヘレンも向かっていた。


この前半のジャネット・マクティアの殺しっぷりがね。
仲介人への拷問というのが、椅子に縛りつけて、まず手の指を1本1本切り落としていく。さらに下半身をむき出しにさせてイチモツも切り落とす。タマも切り落とす。
最後には「殺してください」と丁寧に言わせて、首の骨を折る。
カタリーナの女友達の場合は、歯にドリルを当てるという、『マラソン・マン』のオリヴィエの技を踏襲。だが同じ女性ということで、それ以上エグいことはせず、「これで静かに死ねる」と、大量のモルヒネを注射する。
カタリーナと長く音信も途絶えてる父親がスペインで養豚業を営んでるんだが、必要な情報を取ると、その場で頭を撃ち抜く。
ホテル・スプレンディドで、ついにカタリーナたちと顔を合わせることになるんだが、丁度ホテルでマジック大会が開かれるんで、大勢のマジシャンが居合わせてる。
ヘレンはそんなことおかまいなしに撃つんで、マジシャン二人巻き添え死。
逃げる3人を追ってさらに撃つんで、顔を出したホテルの清掃係の女の子、頭に銃弾受けて巻き添え死。
いや殺すねしかし。

結局3人には逃げられてしまい、カーヴァーはヘレンを見限る決断を下す。死人が多く出て騒ぎが広まり、ヘレンも色々知りすぎた。
カーヴァーは、ヘレンの車に爆弾をしかけるが、ヘレンはそれを察知していた。
ここからジャネット・マクティアの後半戦の殺しが始まるよ。

レッドバレッツジャネット.jpg

まず爆弾を仕掛けたカーヴァーの手下を殺す。カーヴァーはヘレンに代わる殺し屋を雇っていた。スコットランド訛りがきついショーンという名の殺し屋は、3人と赤ん坊が逃げ込んだホテルを急襲。カタリーナたち3人に銃を向け、殺す前にカタリーナにフェラを強要する。
だが向かいの建物の窓から、ショーンのうしろ頭に照準を合わせてるヘレン。亜音速弾という特殊な弾丸を撃ち込まれたショーンの頭は、スイカのように破裂する。

それまで3人の命を執拗に狙ってたヘレンが、なぜ自分たちを助けたのか?だが真意はともかく、今はヘレンの言う通りに動くしかない。
ヘレンは3人を一番安全そうな場所に匿うことにした。イギリスの田舎町にある彼女の母親の家だ。
ヘレンは家の戸を叩く前に、カタリーナたちに念を押した。

「私がタバコを吸うことと、殺し屋であることは内緒だからね」


ジャネット・マクティアが悪役から一転、ヒロインを助けに回る役どころになって、それでも撃ちまくり、殺しまくりは変わらないんで、もうとにかく彼女のための映画といってもいいね。

男装で演じた『アルバート・ノッブス』で、アカデミー助演女優賞の候補に上がった彼女は、なにか自分の役者としての方向性を見つけたのかもしれない。それまでは180センチを超えるという、女性としては目立って大柄であることが、コンプレックスになってた部分があったんじゃないか。
今回の役でも、何か吹っ切ったような感じを受ける。

ヒロインのカタリーナを演じるのは、スペインのフェロモン女優パス・ベガなんだが、やはり食われちゃってるね。
映画全体としても、アンドリューとジュリアンという若い二人の場面はコミカルな演出が施されてるんだが、マクティアが殺しまくるもんで、どういうテイストにしたいのか、ちぐはぐ感が拭えない。
この若い二人の役者がキャラが弱すぎるということもある。

監督のジョン・ストックウェル自身も、俳優時代は、今いちキャラの弱い青春スターだったしな。
監督になってからは『ブルー・クラッシュ』『イン・トゥ・ザ・ブルー』『ブラッド・パラダイス』といった、「オーシャンかつリゾート」なロケーションを好んで撮ってる。

この映画もアドリア海を中心に、ヨーロッパ各地をそれほど意味もなく転々とロケして回ってるんだが、やっぱり観光気分もあるのかな。
俺のようなマクティア・ウォッチャーでもない限り、あまり印象には残らん映画だろう。

2012年3月18日

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はくじんのけんか [映画ア行]

『おとなのけんか』

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「子供のけんかに親が出る」とはよく言われるが、このケースは親が出て当然だろう。加害者の少年は木の枝で、被害者の少年の顔をはたき、歯を2本折り、口まわりを腫れ上がらせる怪我を負わせてる。
映画は加害者の両親アランとナンシーが、被害者の両親マイケルとペネロペの自宅に謝罪に訪れてる場面から始まる。和解の手続きのための供述書をペネロペが作成してるが、「木の枝で武装した…」という表現を、アランが「大げさだ」と言い、訂正させる。

ニューヨーク、ブルックリンのアパートに住むマイケルとペネロペ夫婦。夫のマイケルは金物商を営み、ペネロペは主婦だが、ダルフール紛争の本を執筆するなど、リベラリストとして活動をしてる。
一方のアランは弁護士で、係争中の裁判のことでケータイが手放せず、妻のナンシーは投資ブローカーとして、互いに忙しい身だ。アランは子供のケンカのことなど早いとこ終わらせて、仕事に戻りたい。
ケンカの当人たちを交えての次の話し合いの日程を決めて、そそくさと玄関を出ようとするが、ペネロペの
「お宅のお子さんは本当に謝罪する気はあるかしら?」
との、余計なひと言が、際限のない「大人のケンカ」への呼び水となる。


これは元は舞台劇だというが、余計なひと言がなければ、物語が進まないから、劇としては「余計」ではなく「必然」のひと言だろう。
こっからは俺の推測というか妄想だが、劇を離れて考えてみても、この二組の夫婦は、何もこじれることのないまま、あそこで話しが終わるとは思ってなかったんじゃないか?

同じ白人で、見たところ身なりも大体自分たちと大差ない。そこである種の前提というか、安心感のようなものが生まれてると思うのだ。
例えばこれが息子のケンカの相手が黒人だったら?ヒスパニック系だったら?アジア人だったらどうだろうか。
互いに顔を合わせた時に、相当に探り合いのような間合いが生まれると思う。
相手が違う人種だった場合、売り言葉に買い言葉でエスカレートしてしまったら、何をしてくるかわからないだろう。刃物や銃を持ってたら?そうでなくても、掴みかかってくるかもしれない。剣呑な空気になった時の行動が見当つかない訳だ。
だがこの場合、相手も同じ白人だ。話しがこじれることになっても、流血沙汰にはならないだろう、と思うのではないか?

もちろん最初から話しをこじらせようとは、お互いに思ってはいなかっただろう。
だが今度は逆に同じ白人がゆえに、互いを値踏みするという心理が働く。アメリカのそれもニューヨークのような大都会で暮らしてる白人は、自分たちより優れた人種がいるとは思ってないだろう。
となるとあとは、白人の中でどちらがより優れてるのかという問題になる。
そこで尺度となるのが「職種」だ。
ここに集った4人が、それぞれの職業について、訊ね合っている。

金物商のマイケルが、ケータイで話してばかりいるアランの会話を聞いて
「製薬会社なんて、汚い商売だな」
と、アランの弁護対象に毒づいたことから、アランは慇懃な口調で、金物商を揶揄してくる。挑発にはのるまいと、マイケルは努めて冷静に受け答えてる。
アランはさらにペネロペのリベラル活動にも皮肉を浴びせる。ペネロペは冷静さを欠いた反応を見せる。
やがてそれは加害者と被害者の夫婦間ではなく、それぞれの夫婦の間での諍いへと風向きを変える。
ペネロペは「平凡な人生が一番と決め込んでる」と、金物商の夫を侮蔑する。

ナンシーは当初は静観の構えだった。彼女は投資ブローカーという、高給取りでもあり、職種でいえば余裕かませる立場だ。だがナンシーは仕事にかまけて、子育ての時間が十分に取れてないとの負い目がある。
加害者の少年への教育に話しが及び、ついにナンシーも平静を失う。
妻の場合、それが子供を持っている場合には、「職種」より「母親」としての立場が一番センシティブな要素となる。子供のことを言われたら、母親としては引き下がれないのだ。


この段階で4人は「夫婦対夫婦」ではなく、この4人の中での優劣を競い始めてる。
子供のケンカの加害者側で、本来低い目線に立ってるはずの夫婦が、弁護士と投資ブローカーという、経済的には被害者側の夫婦より上にいるという、そこが、互いに素直にはなれない核心となってるんじゃないか?

やがて諍いのあったマイケルとアランの「夫同士」は、マイケルが
「酒でも飲まなきゃやってられん」
と出してきた、年代物のスコッチによって、なんとなく休戦となる。
「おい、このスコッチ旨いじゃないか!」
「だろ?」
みたいな感じで。男親というのはそういうものだろう。
元々子供が原因の諍いで、正直それほどのことと思ってないのだ。

まあとにかく各自が言い合うだけ言い合って、さんざ泣いて泣きつかれた赤ん坊が眠るように、最後はくたびれ果ててしまうんだが、ここまで言い合っても、怪我させあう所までは行かなかった。
それに誰もが自分の鼻っ柱を、それぞれ異なった手続きではあったが、へし折られた事で、「職種」だとか、相手より優位に立つ気持ちの虚しさも味わった。

だからひょっとすると、この先この夫婦同士が、意外とつきあいを続けるようになるかもしれない。当事者の子供同士が仲直りしてしまえば、親同士がいがみ合ってるのも滑稽だと思うだろう。
それも白人同士だから可能なことなんだと。


芸達者な4人が揃ってるが、ケイト・ウィンスレットが「汚れ役」というのか、一番「おいしい」役回りだったね。
会話の応酬という劇において、口から言葉以外のモノを吐き出すとは、さすがに予想外だった。
さらに争いをぶつ切りにする大技を再度繰り出してくるし。

なによりも、アランとナンシー夫婦がすんなりアパートを後にすることができないのは、これがロマン・ポランスキーの監督作だからだけど。
ポランスキーの映画はいつも「ここから抜け出せない」というのがテーマになってるからね。
79分という上映時間もいっさいの無駄がなく素晴らしい。

2012年3月17日

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スピルバーグの馬への詫び状 [映画サ行]

『戦火の馬』

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メジャー中のメジャーであるスピルバーグ監督作なんで、あらすじをくどくど書く必要もないだろう。
イギリスの貧しい農家に引き取られた一頭のサラブレット。農耕馬ではなかったが、農家の息子アルバートは、その馬にジョーイと名づけ、弟のように可愛がった。農耕馬として立派に家族の力となるジョーイだったが、大雨により作物は全滅。父親は第一次大戦の開戦を知ると、軍馬としてジョーイを売り渡してしまう。

戦場に送られたジョーイは、イギリス陸軍で放火をくぐり、ドイツ軍に引き渡され、フランス人の娘と祖父のもとで、しばしの安息を得て、再びドイツ軍で砲台を引く。やがてアルバートも、年齢を重ね、イギリス陸軍の歩兵として戦場へと赴く。アルバートと愛馬ジョーイの再会は叶うのか?というストーリーだ。


1950年の西部劇に『ウィンチェスター銃’73』という作品がある。1丁のライフルが人から人の手に渡っていく中で、それを手にした人間の運命が描かれていくという物語だったが、この映画はそのライフルを馬に置き換えたような感じだね。

今回スピルバーグは「ディズニー」でこれを撮っている。家族そろって見ることができるように描いてるのだ。
なので戦争映画でも『プライベート・ライアン』のようなリアルすぎるような描写は避けてる。
登場人物も、戦争下でありながら「性善説」に基づいたような人たちばかりだ。
それは人間のドラマが主眼ではなく、これはあくまで「馬」に思いを馳せる映画だからだ。

俺は見てて思ったんだが、馬という生き物は
「なんで自分は馬に生まれてきたんだろう?」
と思うことはないのだろうか?
馬の一生というものは、生まれた瞬間から人間の手中にある。人間たちはこっちの了承も得ず、背中にまたがって当然のように思ってる。

産業革命前までは、馬は移動の手段に使われてきた。農家であれば、畑を耕す力に、狩猟民族の場合は、獲物を追いつめる力に。人間の賭け事の興奮のために、ひたすら速く走ることを強要され、サーカスでは曲芸を習わされ、だがそれならまだましな方だろう。

つらいのは戦場に駆り出される「軍馬」だ。大きな音や銃弾に驚かないよう訓練するというが、人間だって戦場にいるのは怖いんだから、馬だって怖いに決まってる。生来が臆病な動物なんだし。
弾丸が降り注ぐ中を、猛スピードで突っ込んで行かされる、重い砲台や、大量な物資を引かされて何十キロも歩かされる、人間に馬の限界が感じ取れることはないから、力尽きて足を折り、体を横たえた時は最期なのだ。
もう二度と立ち上がることはできない。
この映画では描かれないが、死んだ馬は食料にされてしまう。

人類が繁栄する過程で、馬の果たした役割は、どの動物よりも上だろう。だが人間はその恩を、馬に返してきただろうか?スピルバーグ自身、もう15年も馬を飼い続けてるという。
映画の中で、数奇な運命に翻弄される馬のジョーイを、死なせてはならない。

これは馬への一種の「詫び状」として綴られた一作と思う。


そうは言っても俺も映画の中で馬を見るのは好きで、疾走する馬の体のラインの美しさとか、ヒズメが土を噛む音とか、気持ちを高揚させるものがある。ギャンブルの才は全くないと思ってるんで、競馬に縁はないが、真近でターフを駆け抜ける様を見れば、きっと魅了されるだろうな。

人間が馬を戦地に連れていったのは、もちろん道具として役に立つという他に、駆け抜ける馬の雄姿が、人に高揚感を与えるからではないか?
馬の背に乗り、共に敵陣へ突っ込む時に、馬の存在が勇気となる。馬はそんな風に人間に思われてしまうことで、それが仇となってしまった、皮肉な生き物なのだと思う。


この映画を銀座で見たんだが、土地柄ということもあるんだろうが、観客の年齢層がべらぼうに高かったぞ。
俺もいい歳だが、俺より下に見える人があんまり居なかった。最初は『一枚のハガキ』と間違えて入ったかと思ったほどだ。つまりそういう年齢層の人たちが見たいと思うような雰囲気の映画なのだ。
デヴィッド・リーンの『ライアンの娘』や、キューブリックの『突撃』を思わせる描写もあるし、撮影監督のヤヌス・カミンスキーが、いつもの色を抑えた感じではなく、昔の映画のテクニカラーを再現するような色調を狙って出している。スピルバーグも今年66才だし、「ブロックバスター映画の巨匠」のイメージから変容遂げつつあるのかもしれない。


今回も第一次世界大戦の時代という「過去」を舞台にしてるが、スピルバーグは劇場映画初監督作の『続・激突!カージャック』以降29本の監督作の内、現代劇と呼べるものは、デビュー作と『ターミナル』の2作しかない。
名匠と呼ばれる存在でこれは珍しい。
俺は次にいつ現代劇を手がけるのか、そんなとこに注目してる。

イギリスで書かれた原作の通りに、イギリスでロケーションして、イギリス人のキャストが揃う。
『ハリー・ポッター』シリーズは、イギリスの名のある役者たちがぞろぞろ出てくる「イギリスのオールスター映画」の趣だったが、この映画は、渋いけど映画ファンなら顔を知ってるという、イギリスの役者たちが出ていて、B-サイドの『ハリポタ』のようだ。

まずアルバートの両親だが、父親には昨年のTIFF出品作『ティラノサウルス』での演技も記憶に新しい、スコットランドの名優ピーター・ミュラン。この映画ではアゴひげをたくわえ、往年のジョン・フォードの映画に出てきそうな風貌になってた。
母親のエミリー・ワトソンは、『アンジェラの灰』やこの映画などで「イギリスのお母さん」のイメージが出来つつあるかな。
冷徹な地主を演じるデヴィッド・シューリスは、マイク・リー監督の『ネイキッド』で俺のヒーローとなった役者だが、『ハリポタ』にもレギュラーで出てるんだよね。
最近のイギリス映画で欠かせない顔になってるリーアム・カニンガムとエディ・マーサンが、終盤に軍医と軍曹として、一緒に出てくるのも嬉しい。

イギリス人ではないが、ジョーイと交流するフランス人の祖父を演じるのは、この1月に待望の公開となった傑作『預言者』で貫禄を示してたニエル・アルストリュプ。
同じく戦争下のドラマ『サラの鍵』でも似たような役回りを演じてた。
孫娘を演じてるのはエル・ファニングかと思ってたら、セリーヌ・バッケンズという、ベルギー人の女の子だった。
これが映画デビューで可愛い子だったね。


さてそんな中で、俺は『アメイジング・グレイス』以来注目してる、ベネディクト・カンバーバッチの登場場面を楽しみにしてたんだが、イギリス陸軍の騎兵隊を率いる大尉を演じてて、ジョーイのよきライバルとなる黒馬に騎乗していてカッコよかったね。
今回は口ひげを生やしてるんだが、遠めから見ても、顔が一際目立つ。
今回特に感じたのは、顔が馬に似てるってこと。
よく面長の顔の人を「馬面(うまづら)」と表現するが、カンバーバッチの場合は単に顔が長いだけじゃなく、顔そのものが馬に似てるのだ。だから映画の中では「馬が馬に乗ってる」みたいに見える。
背の高い草村に潜んだ騎兵隊が、馬を起こし敵陣に突撃をかける場面は、絵的にも美しいが、カンバーバッチの出番がそこで終わってしまうのが残念。
あの声のしゃべりをもう少し聞かせてほしかったんだが。

2012年3月16日

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押し入れからビデオ⑬『ラリー 驚異の人間記録』 [押し入れからビデオ]

『ラリー 驚異の人間記録』

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まず今日はすごい本が出たということを、ここに紹介しておきたい。
映画評論家・石上三登志の『私の映画史』
全588ページの大著で、3800円(税別)なり。いや全然高くないぞ、俺にとっちゃ。

俺が中1の時に初めて「キネマ旬報」を買った当時からすでに同誌に連載を持ってた人で、特にSF、ミステリー、スパイ映画に関する造詣の深さと、キネ旬ベストテンの選出作品のユニークさは、他の追随を許さないという感じだったのだ。
3部構成の第1部は70年代のキネ旬に連載していた、氏の自分史的な作品評論集。年代ごとのベストテンも掲載されてて、「こんな映画選んでる」と楽しい。
第2部はスパイ映画、ペキンパー、ロジャー・コーマンなど、偏愛ジャンルや映画人に関する博識的考察。
そして圧巻は第3部の「TVムービー作品事典」だ。
こういうのが欲しかったんだよお。

TVムービーというのは読んで字の如し「テレビ用の映画」の事だ。アメリカのテレビ局が製作するもので、ごくまれに『激突!』のように出来がいいと、海外では劇場公開されたりするが、基本は日本でもテレビ放映されて、そのほとんどはビデオ化すらされてない。
映画であれば、年鑑や公開リストなど、記録に残されてるものだが、TVムービーは今まで、まとまった形の評論などなかったのだ。
この本に掲載されてるのは、1970年代に放映されたTVムービーで、氏が当時評論してた作品を集めている。評論してた人自体がほとんど居なかったのだ。
製作規模としては映画のように金をかけられる訳じゃないんで、アイデア勝負な作品が結構あった。

例えば1972年の『ザ・マン 大統領の椅子』は、アメリカ初の黒人大統領の誕生を、近未来のアメリカの出来事として描いていて、今となれば「バラク・オバマ」を予見してたかのような内容。大統領役にはジェームズ・アール・ジョーンズだから、説得力も十分だった。

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或いは大統領つながりで言うと、同じ1972年の『暗殺 サンディエゴの熱い日』は、マイケル・クライトンが原作じゃなく監督を務めたサスペンス。

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サンディエゴに遊説に来る大統領を、軍が開発した毒ガスを使って、市民もろとも殺害しようと企てた政治家が、毒ガスをセットした直後に事故死する。
犯人亡き後、毒ガスの在り処を推測する国防省捜査官にベン・ギャザラ。しかも政治家は自分を追うであろう捜査官の人事記録を入手しており、その捜査パターンを読んで、毒ガスをセッティングしてるという筋書き。
未曾有の災害をセッティングした犯人が死んでいるというのは『機動警察パトレイバー 劇場版』の第1作を思わせる。
その他にも、もう1回見たくても見る手立てがない作品が沢山あるのだ。ホント貴重な資料だと思う。
この本を毎日少しづつ読み進めてくのが目下の楽しみだ。

そんなわけで、この本には掲載されてなかった、70年代のTVムービーを選んでみた。



『ラリー 驚異の人間記録』という題名だが、なにか超人的な能力を持った男の話でも、ギネスに認定されるような記録を作った男の話でもない。『アルジャーノンに花束を』のような話だ。
これも実話に基づいている1974年製作のTVムービーで、ビデオ・DVD化はされてない。1984年にテレ東で放映されたのを録画してあった。


カリフォルニアの州立精神病院に移送されてきた、26才のラリー・ハーマン。応対した看護人のナンシーは、その様子から重度の精神薄弱であると思った。呼びかけには応じず、デスクに置いてある輪ゴムの束を口に放りこんだりする。ラリーの資料には生まれてすぐにネバタの精神薄弱児の施設に預けられ、そのまま今日まで過ごしてたとある。

ラリーは入所してほどなく、ほかの精神薄弱の患者と異なった行動を示した。色の好みがあり、赤よりも黄色いパジャマを選んで着た。テレビもアニメよりも、ショウ番組を見た。消灯後にひそかに絵本をめくったりもしていた。
「文字が読めるのだろうか?」

ナンシーは院長のマケイブに、ネバタで撮影されたラリーの診断ビデオを見てもらった。その中でラリーは医師の言葉を反芻し「M」という単語を発音しようとしてるように見えた。
ナンシーは、ラリーが精神薄弱ではない証明をさせてほしいと掛け合うが、マケイブ院長は
「君はヘレン・ケラーになるつもりか?」
と取り合おうとしない。だがナンシーには確信があった。

何日か経って、ナンシーは院長を同席させ、ラリーに形合わせパズルをさせた。ラリーはすんなりとクリアし、さらに簡単なジグソーパズルも完成させた。
「物事を理解し、記憶する」実践として、ナンシーは、4つの動作を順番にこなすことを要求し、ラリーは間違えずに行った。まだ半信半疑な院長の前で、ナンシーはラリーに質問する。
「想像するって、どういうことかしら?」
するとラリーは目の前に置かれたコップを床の上に下ろし、腕をコップがあった場所に持っていき、コップを握るフリをして、それをナンシーに手渡す動作をした。
院長もラリーが物の概念を理解してることを、納得せざるを得なかった。

ラリーは学習能力は高かったが、動作はぎこちないままだった。専門医が診ても、脳に異常は見られなかった。
だが筋肉が萎縮してしまってる。マケイブ院長は推測した。
ラリーは何かの間違いで、生まれながらに精神薄弱児の施設に入れられた。周りの子供たちの動作が自分にも身についてしまったのではないかと。
そしてなにか他の子と違う行動を取ったら、罰を受けたのかも。
罰への恐れから、周りとの同一化が進んだのだろうと。

IQは人並みであっても、生活習慣や人前でのマナーなど、ラリーはなにも教えられずに育ってきた。髪をとかすことすら最初はストレスだった。だがナンシーの献身的なサポートで、筋肉も普通に動かせるようになったラリーは、院長やナンシーとともに、外出できるまでになった。
初めて見る外の世界は、ラリーにとって刺激に満ち溢れてたが、一人で行動させると、すぐに手持ちの金を失ってしまう。他人に言われるままに払ってしまうからだ。
ラリーに、人を疑うことは教えてなかった。ラリーは
「外の世界に優しい人はいない」
と、引きこもるようになっていた。

その頃、膨大な資料から、ラリーの出生の秘密の糸口が見つかった。ラリーに毎月のように送金してくる人物がいたのだ。モーリン・ホイットンという名の女性の自宅を、ナンシーと院長は訪ねた。もう年配のモーリンは重い口を開いた。

彼女は昔、精神病院の院長と付き合っていて、妊娠し、出産もその病院内で行った。院長は産まれてくる子を自分の養子にすると言ったが、約束はなされなかった。
そして院長から赤ん坊が精神薄弱であると告げられたと。彼女は事実を確かめることもなく、院長の言葉を信じて、そのまま施設に預けてしまったと言う。
そして今さら何を言われても、自分の子とは思ってないと言った。

マケイブ院長は、ラリーの状態が思わしくないことを理由に、ナンシーを担当から外し、臨床医のトムに任せた。
トムは車の運転を教えてやったり、就職面接を受けるためのスーツを買いに、町に連れ出したりした。
ナンシーはラリーをこの病院で働かせればいいと考えてたが、院長は
「彼はここにいるべき人間じゃないんだ。外で暮らすべきなんだよ」
と言った。
だがラリーは試着したスーツを着たまま、逃げ出してしまった。

値札をぶら下げたまま町を歩き回る。夜になり、公衆電話をかけようとすると、若い女性に小銭をせがまれ、渡してしまう。彼女は電話したあと、ラリーが最後の小銭を自分に渡したことを知り驚いた。
「あなたどこに住んでるの?」
「州立精神病院さ」
「お医者さん?」
「いや患者だよ」
「あなた、話し方も普通だし、患者に見えないわ」
「ねえ、ヤブ医者ってわかる?へんな医者にかかると、
病気でもないのに、病気にさせられちゃうのよ」
その若い女性は礼を言って去って行ったが、彼女の言葉はラリーの心に引っかかった。

ラリーの行方を探していたナンシーは警察から連絡を受けた。ラリーはあの後、性質の悪い商売女に声をかけられ、有り金を奪われた上に、暴行を受けていた。
ナンシーは、ラリーが州立精神病院で引き続き暮らしていけるよう、役所からの承認を得た。
すでに傷の癒えていたラリーは、そんなナンシーに言った。
「ここを出ていきたい」
「外ではイヤな思いもするけど、生きてるって感じがした」
「ここではただ毎日を送ってるだけだ」
「ナンシー、僕は君のことが好きだ。本当だよ、君は僕の恩人なんだもの」
ラリーは泣いていた。
ナンシーはその言葉に頷くしかなかった。


このドラマのエピローグはとてもさりげなくていいのだ。
ラリーはトムの手配でアパートを借り、図書館での仕事を得て、自立への道を踏み出す。当初は週1回、ナンシーたちは顔を見に行ってたが、ラリーはその面会を疎ましく思うようになった。もう自分は病院生活とは無縁になったのだからと。
そして久しぶりにみんなで食事でもしようと、ラリーのアパートをナンシーたちが訪ねると、すでに部屋は空っぽだった。大家が言うには、ラリーは友達を頼って、サンフランシスコへ移ったらしい。
その後の消息はわからないという結び方だった。


ラリーを演じたのはフレデリック・フォレスト。前年1973年に『ザ・ファミリー』で映画初主演を果たした直後に出たTVムービーだ。重度の障害を思わせる導入部から、少しづつ回復していく過程を、きめ細やかな演技で見せる。

ナンシーを演じるタイン・デイリーは、この2年後の『ダーティ・ハリー3』で、ハリー・キャラハンの相棒に大抜擢されるが、このドラマでも意志の強さを感じさせる人物像を嫌味なく演じてた。

監督のウィリアム・A・グラハムは、このドラマと同じ1974年に『愛の花咲く家』という、詩情を感じさせる家族の物語を撮っている。これは劇場未公開で、地上波とWOWOWで放映されてるが、ビデオ・DVD化はされてない。

2012年3月15日

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レイフ・ファインズの罵倒セリフを存分に [映画ア行]

『英雄の証明』

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シェイクスピアの古典を現代に移し変えた、政治と軍事の闘争劇として、まず連想するのは、1995年にイアン・マッケランが脚本・主演した『リチャード三世』だ。
あの映画は舞台を1930年代イギリスに設定し、ファシズムとともに英国王室を内乱に導く主人公リチャードを、マッケランが軍服からクラシカルなスーツ姿まで、七変化で熱演してた。
今回、主演にして映画初監督に挑んだレイフ・ファインズは、『リチャード三世』のアプローチを念頭に置いてたことが窺える。

舞台は現代の架空の国「ローマ」。隣国のヴォルサイとは幾度となく武力衝突を繰り返してる。旧ユーゴの内戦を思わせるような舞台設定で、実際セルビアの首都ベオグラードを中心にロケーションが行われている。
そのローマで、敵軍ヴォルサイの脅威から、軍神のごとき活躍で国の防衛線に立つのが、ケイアス・マーシアスだ。その働きぶりは万人が認める所だったが、国民に対して見下したような態度を取る、その傲慢さでも知られていた。


食料難から民衆の怒りが高まっている、そんな不穏な空気の中、ヴォルサイ軍が国境付近に進軍。
マーシアスはただちに最前線に向かい、熾烈な戦闘を経て、ヴォルサイの都市コリオライを制圧した。
その武勲により、将軍から「コリオレイナス」の称号を受け、軍事と政治の最高権力者である「執政官」に推挙される。16才の時から息子を戦場に出してきた母親ヴォルムニアにとって、それは宿願ともいえる地位だった。
だが、民衆だけでなく、政治屋にも侮蔑の視線を送る、この傲慢な男が執政官の地位につけば、自分たちの立場も危うい。そう警戒した政治家ブルータスは、護民官と謀り、コリオレイナスの追い落としに動く。

執政官になるには、市民から賛成の票を得なければならない。プライドの高いコリオレイナスが、市民に頭を下げて、票をもらうことなど、できるはずがない。あの激しい気性を刺激するような、挑発的な発言をぶつけて、市民の前で本音を引き出してしまえばいい。
コリオレイナスは、彼の精神的な後ろ盾でもあるメニーニアスや、母親から、努めて平静を装うようにと言われてたが、まんまとブルータスたちの思惑にはまり、市民たちを冒涜するようなセリフを吐いてしまったため、「ローマ追放」の憂き目に遭う。

あてどもなく放浪を続け、軍神の猛々しさがすっかり影を潜めた、別人のような風貌となったコリオレイナスが、最後に足を向けたのは、宿敵オーフィディアスの暮らすヴォルサイだった。
自分を裏切ったローマに復讐を果たすため、お前の部下として戦闘に加わると宣言すると、オーフィディアスは、長年の敵を快く迎え入れた。

ただちにヴォルサイ軍はローマへ向けて進軍を開始。LIVEで中継されるテレビのニュースで、ヴォルサイ軍にコリオレイナスが加わってることを知ったローマ政府はパニックに陥る。オーフィディアスとコリオレイナスに組まれたら、まず勝ち目はない。

ローマ側は将軍に続きメニーニアスを、交渉に立てるが、コリオレイナスは和平を拒否しにべもない。
コリオレイナスはすでにヴォルサイの兵士たちからも尊敬を受けており、オーフィディアスは、側近からこのままでは立場が危うくなると進言されていた。
そんな折、母親ヴォルムニアが、コリオレイナスの妻と子を伴い、慈悲を示すようにと、説得に現れた。


シェイクスピアが「コリオレイナス」を書いたのが1607年、つまり17世紀初頭だ。しかしその中に描かれていることは、ほとんど四世紀を経た現在にアダプトしても違和感がないというのが凄い。
民衆心理の不安定さ、世論を誘導する政治家の手口、敵味方など当事者の立ち位置によって、いかようにも変容してしまうこと。
レイフ・ファインズが、これを現代を舞台に置き換えられると考えたのは、ごく自然なことだったかも知れない。

コリオレイナスが英雄から、その地位を追われ、国家への復讐者として凱旋する、そのプロセスは一種の風刺劇ととれば、すんなり見れるが、現代と合致させるには、細部の描き込みが物足りない。

まずインターネットの存在が全く出てこない。
これは架空の国家が舞台だから、パラレルな現代と捉えればいいという見方があるかもしれないが、それだったら、別に現代に舞台を持ってくることはない。
映画の中で、コリオレイナスは、一部の政治家と、一部の市民たちによって、その地位を追われることになるが、現実的に考えれば、彼のような傲慢な態度が見られる「タカ派」の実力者が、そう簡単に足をすくわれる事はない。必ず根強い支持者というものがいるからだ。

それにネットでその人物像がポピュラリティを得ることも十分に考えられる。ネット上で市民を動かす「扇動者」と、コリオレイナスの係わり合いといったものが描かれていれば、今日的な視点をより意識できるような内容にできたのではと思う。

レイフ・ファインズ演じるコリオレイナスは、その口から出る言葉のほとんどが、相手を罵倒するような内容なんだが、カッとなったら自らの抑えがきかない性分なんで、演技のテンションも高くなる。
俳優が自ら監督も兼ねると、自分ばかり目立って撮りそうに思えるが、逆にそうならないように気を遣ってるのではないか?そのために、共演者たちにも、目立つような演技の見せ場を作ろうとする。
つまり自分のテンションとバランスが取れるように配慮するのだ。
その結果、全体の演技の質が均一化されてしまうというのか、ちょっと見ててもたれてくる感じがある。ほとんどの人間が吼えてる印象がある。

母親役のヴァネッサ・レッドグレイヴは、ベテランらしい貫禄の演技だとは思うが、彼女はもともとあの面相が迫力あるんで、その上にセリフを畳み掛けてこられると、「塗りたくり過ぎ」な感じになる。
母親が息子コリオレイナスに、ローマへの慈悲を乞う重要な場面も、膝をついたり、起き上がったり、セリフもくどく感じられてしまう。これは俺だけの印象論にすぎないが。

登場人物がみな肩をいからせてセリフを言う中で、穏健派メニーニアスを演じるブライアン・コックスは静かな演技に徹していて、ホッと息を抜ける。

レイフ・ファインズ自身にしてからが、元々無慈悲に吐き捨てるようなセリフが似合う役者ではあるんだが、それは吼えかかるようにではなく、無表情に静かに繰り出されるのがよかったのだ。それに声を張ってない時の、淀みなく流れるようなエロキューションこそが、魅力であり持ち味ではないか。ケビン・スペイシーのように。

この映画の中で、宿敵オーフィディアス率いるヴォルサイ軍の側についたコリオレイナスが、ほどなくヴォルサイの兵士たちの人心を掌握して、みなコリオレイナスに倣ってスキンヘッズになるんだが、なんか「ネオナチ」の集団のようでもあり、「ナチ」といえばレイフ当たり役のアーモン・ゲートを即座に連想させ
「きたよ、きましたよ!」とワクワクさせもするんだが。


なのでこの映画の中で、レイフ・ファインズの持ち味に適った芝居は、実は登場場面にある。
市民を煽動して穀物倉庫になだれ込んできたリーダーのカシアスに対して、警備にあたっていたマーシアス(後のコリオレイナス)が顔を近づけて威嚇する。

「何が欲しい?野良犬ども。戦争も平和もいやなんだろう?戦争だと震え上がり、平和だとのさばり返る」
「貴様らはライオンであるべき時にウサギになっちまう。まったくアテにならん」
「貴様らは1分ごとに気が変わる。いま憎んでた者を立派だと持ち上げ、英雄にまつり上げた者をこきおろす。どういうことだ?」
「穀物が十分にあるはずだと?貴族たちが憐れみの情を捨て、この剣を振るうことを許されれば、こんな奴隷どもなど何千人いようが滅多斬りにして、投げ槍の届く限り、高々と死人の山を築いてやる」
そして「とっとと帰れ、屑ども!」と一蹴。

流れるような罵倒の言葉に惚れ惚れしたよ。


ヴォルサイ軍との戦闘の際にも、一時は単独で敵軍と渡り合ったマーシアスが、死んだと諦めていた友軍の前に血まみれで現れ、なおも戦闘を続けるよう鼓舞する場面。疲れ果てた兵士たちに

「自分について来るか?」
と尋ね、兵士たちは一呼吸置いてから手を上げる。
「お前たちの熱意が上辺だけでないなら、お前たち一人一人がヴォルサイ人四人に匹敵する。
一人一人がオーフィディアス相手に互角に戦える」
「だが選べる人数には限りがある。後の者はいずれ別の戦いで力を示してくれ」
「さあ、進軍だ。俺を剣にして戦え!」
この辺のセリフは熱くていいねえ。

だがローマへの復讐に燃え、自ら宿敵の懐に飛び込んだコリオレイナスを、
「俺の心臓は、新婚の妻が初めて我が家に足を踏み入れるのを見た時よりも、有頂天になって踊っている」と、オーフィディアスがガシッと抱擁する辺りのセリフは、俺にはちょっと熱すぎる。
言ってる方もよく照れませんなと思うが。

オーフィディアスを演じるジェラルド・バトラーは、前半は主人公の宿敵として見せ場もあるが、後半に行くに従い、影が薄くなってくる。
だがこれはシェイクスピアの原作自体がそうなってるのだ。

2012年3月14日

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インディーズだけどエンタメの変異ホラー [映画ハ行]

『へんげ』

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門田吉明とその妻恵子は、周囲より少し値が張りそうな一軒家に暮らす、ごく普通の見たところ30代後半の夫婦だ。恵子は過去に二度妊娠したが、二度とも流産していた。だがそれが夫婦仲に影響することもなく、今も仲睦まじく見える。
だがその発作が起きてから、もうどのくらいになるのか、夫の吉明に体の変調が続いている。
吉明は、つい病院での検査を記録したDVDを繰り返し見てしまう。そこには激しい痙攣とともに、体を弓なりに反らせ、咆哮する自分が映っている。
恵子は「もう見ないでと言ったでしょ?」と、吉明にそのDVDを割らせる。

発作は3日に一度の頻度で起こる。検査でも原因はわからなかった。吉明は
「無数の虫に意識を支配されてしまうんだ」
と苦悶の表情を浮かべる。二人が今頼れるのは、吉明の医大時代の後輩の医師・坂下だけだった。
坂下は外出もままならない吉明のために、医学関係の翻訳の仕事を回してくれたり、恵子を気遣ったりしてる。

そんな中、またしても発作が襲い、ついに吉明の体が変異し始めた。片腕が触手か植物のような異様な形になっている。恵子は激しいショックに見舞われながらも、その姿をケータイで撮影した。
自分の腕を見た吉明も愕然となったが、発作が治まると、その時の記憶も無くなっていた。物静かないつもの夫がそこにいるだけだ。
だが吉明の時を選ばない激しい咆哮は、近所でも噂になりつつあり、恵子は坂下の説得に応じて、吉明を研究施設に入れることに同意する。吉明は抵抗するが、数人の職員に連れて行かれる。

だが何日か過ぎる内、都内で殺人事件が頻発するようになる。被害者には説明のつかないような傷跡が残されてるという。恵子は夫の仕業ではないかと直感した。
果たして、吉明は施設を逃げ出していて、自宅へと戻ってきた。恵子がドアを開けると、吉明は倒れこみ、その胸から腹にかけて、開口手術を受けたような痕があった。
「ごめんね、吉明。こんな思いさせて」
恵子は夫を全力で守ることを決意した。

恵子は祈祷師に家に来てもらった。若い女性だったが、彼女はさっそく経を読み、吉明の中に入り込む者を呼び出そうとした。吉明はまた発作のように症状を見せ始める。だが不意に正気に戻り
「ごめん、演技してたんだ」と恵子に言う。
吉明の様子を見ていた祈祷師は急に動揺し、
「あなたは何者なの?」と叫ぶと、家を飛び出して行った。
吉明は「どういうことか聞いてくるよ」と後を追った。

恵子は胸騒ぎがし、二人の後を追う。ひと気のない駐車場の片隅に二人はいた。
必死に祈祷する女性を、吉明は殴りつけ、その喉にかぶり付いた。腕を引きちぎり、一心不乱にむさぼり食う吉明に声をかける。正気に戻った吉明は自分のした事にパニックを起こす。
だが恵子は気丈に吉明を抱きしめた。
今や夫は腕だけでなく、全身を変異させつつある。
咆哮とともに、古代語のような言葉を発するようにもなっていた。
「変身した夫には食料が必要なんだ」

恵子は家を訪ねてくる坂下の問いにもシラを切りつつ、吉明を2階奥の寝室に匿った。
そして自分は夜の町に出て、獲物を確保する。出会い系で男と連絡をとり、酒を飲みに行き、そのまま自宅へと誘いこむのだ。寝室の中は、次第に獲物の手足が散乱する修羅場の様相を呈してきた。
そして警察がなにかを嗅ぎつけて、自宅へとやってきた。


大畑創監督は「映画美学校」出身というが、最近評判を得ている若い監督にここの出身が多いらしい。日本のインディーズ作品をそんなに熱心に見てる方じゃないんで、その辺りに詳しくはないんだが。

この監督の作風は、「作家主義」的なものでなく、最初からエンターティンメントを志向してるようだ。肉体が変異してくというプロットからも、初期の塚本晋也監督を思わせる所がある。
全身に変異をきたした吉明は、なんかガイバーみたいになっちゃうんだが、断じて夫を見捨てない恵子を演じる森田亜紀の芝居がいいので、かなりブラックな展開にも引き込まれていく。

それと知らず寝室を覗き込む獲物の男に、金属バットを見舞い、男が痙攣し動かなくなると、部屋に引き入れる、この一連の描写は、カメラの位置など、『悪魔のいけにえ』の再現だったね。

実はこの後にも急展開があるんだが、見終わった時には「このジャンルで、こういうアプローチは初めてかもな」と感心した。1回限りの大ネタといってもいい。
この映画は54分の中篇だけど、大畑監督はそう遠くない内に、メジャーで大きな予算の映画を任されるようになるかもな。


これと同時上映で、大畑監督が映画美学校在校時に撮った短編『大拳銃』も見たが、こちらは「よくできた学生映画」という感じだった。
不況で廃業に追いこまれる寸前の金属加工工場に、仕事の依頼が入る。拳銃を10丁作ってほしいと。急場をしのぐ金を積まれた上での依頼で、工場主は弟とともに自作の拳銃製作に臨む。依頼主がその筋の人間であることはわかっていた。
暴発の失敗を繰り返しながらも、ようやく期日までに10丁を仕上げた。だが受け渡しの時点で報酬は支払われず、数日後には、10丁とも不具合で返品されたと連絡がある。おとしまえの意味も含めて新たに50丁作れと。
妻までもが、早く作って金を受け取れと言う。工場長は寝る間も惜しんで仕事を続けた。
だが工場長には、妻にも秘密にしてることがあった。暇を見つけては、ある拳銃を作り続けてたのだ。
それはバズーカ砲のような銃身を持つ「巨大な拳銃」だった。
だがそれを実際に使うことになろうとは、本人もまだ予期していなかった。

この短編でも、ドラマとして人物をどう出し入れするのかということを考えて撮っている。自作の拳銃が何丁かに1丁は暴発するという設定も、展開に上手く活かしてると思った。演技とか、アクション場面の予算のなさとか、安い感じは致し方ない。
『大拳銃』から『へんげ』へのステップアップぶりはかなりなモンだと思う。

2012年3月13日

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暴走台風シャーリーズ・セロン [映画ヤ行]

『ヤング≒アダルト』

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こんなに痛快な映画とは思わなかったよ。シャーリーズ・セロンの一挙手一投足から目が離せない。
多分もう1回、いや2回見に行ってしまうかもしれない。映画全編をもう1回というより、1場面1場面をすべてもう1回味わいたいという感じだ。

ミネアポリスの高層マンションに住む自称人気「ヤングアダルト」小説作家の、37才バツイチのヒロインが、高校時代の元カレの夫婦から、赤ん坊の写真の添付とともに、誕生パーティへの誘いのメールを受け取り、故郷の田舎町に戻るというストーリー。

シャーリーズ演じるメイビスは、毎朝二日酔いで目を覚ますような生活。同居するのはポメラニアン。美人だからバーに行けば男が声をかけてくる。そのまま寝る。
作家というが、実のところゴーストライターで、唯一の執筆作も不人気であと1回で打ち切り。ベランダからミシシッピ川を眺める顔も虚ろだ。

あのメールは高校時代に彼女を戻す。
学校一の美人で、誰もが憧れる存在だった私。田舎町の人間が「ミニアップル(小ニューヨーク)」と呼ぶ、大都会ミネアポリスで、キャリアも人生も輝いてるはずだったのに。
いきなりメールを寄こしてきた元カレのバデイ・スレイドは、こちらも学校一のイケメンで、メイビスとはまさに似合いのカップルだった。

メイビスはそのメールを「サイン」だと思ったのだろう。
これは歓びの報告なんかではない。バディはあんな田舎町でくすぶってて、幸せなはずはない。本当は私とヨリを戻したがってるのだ。だから私が行って、バディを奪還しなければ。


ここから閑静な田舎町を舞台に、恐ろしいカン違いとともに暴走していくメイビスと、誕生パーティでのカタストロフまでが、まさに次第に近づく巨大台風を中継するように、ハラハラ感を増して描かれていく。
昔の栄光のまんま時間が止まってるようなメイビスの激痛ヒロインぶりを、笑って見ることになるんだが、そもそもあのメールの意図は何なのだ?

まずメイビスはミネアポリスに出て来て以来、あの田舎町には戻ってないようだ。20年音信を絶ってたことになる。町の住人との会話から、作家として成功してると噂にはなってる。だが誰もメイビスの書いた本を知らない。そりゃゴーストライターだからね、名前がわかる訳ない。
20年前の元カレが何で彼女のメルアドを知ってたのかはともかく、元カノに結婚した自分の赤ん坊の写真送って「誕生パーティに来ない?」なんてことしないだろ普通。
ではあれはバディの意志ではなく、夫婦合意のもと送ったものなのか?

俺は見てて、解釈に困ったセリフがあった。あの誕生パーティでメイビスが場を震撼させた後、ガレージから間の抜けた登場の仕方をしたバディに向かって、
「なんで私をパーティに呼んだりしたの?」
とメイビスが食ってかかる
「あれは僕が呼んだんじゃない。妻がそうしろって」
「なぜなら、妻は君があまりに孤独で、惨めそうだったから」
と言われる。これは田舎町にメイビスが戻ってからの、彼女の行状を指してるのか。

たしかにその前にバディからホテルに滞在するメイビスに電話が来る場面がある。そこで
「週末までこっちに居るなら誕生パーティに来ないか?」
とバディが言ってた。だがそもそもメールでその誘いは送ってるわけだろ。ということはメールの時点で、バディの妻はメイビスの現況を知ってたのか?そんなことはないよな。
そこんとこが、もう一度見て確認したいとこだ。

で、そのメールに戻るが、夫婦して元カノの彼女に赤ん坊の写真を送る意図は?
そこに悪意はなかったのか?
バンドを組んでるバディの妻の仲間は、メイビスの高校時代の同級らしく
「いけ好かないビッチ」とメイビスを呼んでた。
女王のように上から目線で高校に君臨してたメイビスが想像できる。
都会に行って成功してると皆が憧れる存在と言われる一方で、その女が20年経って、どんだけ色褪せてるのか、みんなで見てやろうという、そんな投網にまんま引っかかったんじゃないか?

アメリカの高校というのは、日本では想像できないような「階級制度」が敷かれてるようで、メイビスのような美人は卒業式のパーティで「プロム・クイーン」に選ばれるような、いわば「最上級」に属してる。
メイビスが故郷の田舎町のバーで最初に再会する、小太りのマットは、オタク気質で「階級」の最下位に属してた存在。高校時代にゲイと疑われ、ジョックス(体育会系)の生徒たちから暴行を受け、足や局部に重症を負い、20年経った今も後遺症が残ってる。
だがメイビスは、ロッカーが隣同士だったという、このマットに当時から全く意識が向かず、この晩も呑んでて彼の杖を見て、ようやくこの小太りが誰か気づくという位だ。

マットにとって憧れの存在だったメイビスだが、彼女がこの町に戻ってきた真意を聞かされ、「相変わらず美人だが、イカレてるかもしれない」と思い始めるあたりはホント可笑しい。

呑んだ勢いで、マットにバディの自宅前まで案内させ
「たしかここだよ、彼の車はリバティだったから」
「リバティですって?自由のない結婚生活を送ってるのに?ウハハハハハ」
このシャーリーズ・セロンのバカ笑いはすごかった。

すごいといえば、誕生パーティでバディを「ふたりきりで話しがあるの」と空き部屋に誘って、キスを迫るところで、バディから思いっきり拒否られるんだが、その拒否の仕方がね。
「キスの拒否」にこんなやり方がと、なんか子供が思わずイヤなものを遠ざけるような感じだった。


この映画はヒロインの成長が描かれてない、なにも解決していないという見方もあって、そこに物足りなさを感じる向きもあるようだ。
俺はそうだろうか?と思う。
誕生パーティをカタストロフの場に変えたメイビスは、マットの自宅で、さすがに「私はイカれてる」と消沈するんだが、ここにマットの妹サンドラが大きな役割を担って登場する。

すっかり自分に嫌気がさしてるメイビスを鼓舞するのだ。
「こんな田舎町の人間なんか無よ」
「いいとこなんか何もない」
「あなたは変わる必要なんかないわ」
「あなたが正しいんだから」
思いもかけない言葉に、メイビスは今まで多分一度も心をこめて言ったことがなかった
「サンキュー」
と言う一言を漏らした。

田舎町の人間の前であれだけの醜態を晒したんだから、それこそもうこの先の人生で戻ることもない。
つまり過去は強制的に吹っ切ったことになる。
それにドン詰まりと思ってた37才の現在の自分も肯定される言葉をもらった。
メイビスは成長はしてないかもしらんが、これで確実にダンジョンは1コ上がった。
彼女の無意識の中にあった「輝いていた高校時代の私」というコンプレックスの呪縛から解き放たれたからだ。
つまり今の自分のまんまで無双になってやるってことだ。すがしがしいまでのラストシーンだな。


(追記)あれから2回目を見てきて、あの会話の意味がわかった。
バディからメイビスの元にメールで送られてきたのは、赤ん坊の「誕生パーティ」への誘い。
場違いな格好や行状を、町に戻ってから繰り返してるメイビスに、バディが電話で誘いを入れたのは、赤ん坊の「命名パーティ」のことで、二つのパーティは違うものだった。何かにつけパーティだな、あっちの人間は。

メイビスはバディとベスの夫婦の自宅に夕食に呼ばれた際に、ウィッグをつけてデビー・ハリーみたいな髪型でやってくる。その後、ベスが一員となってるママさんバンドのライブをバーに見に行くんだが、そこでバディが昔メイビスに贈った「フェイバリット・ソング」を演奏されてショックを受ける。
その辺りの様子をベスは眺めていて、「あまりに孤独で、惨めそうだったから」とメイビスを「命名パーティ」に誘うようにバディに言ったという訳だ。
昔の元カノに、赤ん坊の「誕生パーティ」の誘いを出す男もどうかとは思うが、バディに悪気はないのだろう。
田舎に暮らす「善い人」なのだ。だが善い人であるがゆえの鈍さも感じさせる。

バディの妻のベスは、自閉症の子供のカウンセリングをする仕事に就いてる。部屋にはいろんな表情の子供の絵が貼ってあり、「この絵を見せながら、泣くとか笑うとかの表情を教えていく」のだと。
メイビスが
「無表情ってのがないわね」と言うと
「自閉症児はみんな無表情なのよ」
だがそういうベスがなんか無表情で、メイビスはその顔も「イケ好かない」と思ってる。
またベス役の女優がそう見られるのもわかるような、絶妙なルックスをしてるのだ。
バディと一緒でまったく悪い人間ではないのに、イラつかせる感じがある。

しかしそれは「ひねくれ者」の見方であって、脚本のディアブロ・コディが、自分がひねくれてることを前提に書いてるから、ここまで絶妙な感じが出せるのだ。
そしてそれに反応するというか、共感持てるというのは、俺もひねくれてるってことか。
この映画を見て痛快に思えた人間はひねくれてるってことだ。
でもそれでいいじゃないかって結論なんだよな。

2012年3月12日

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牧口雄二・東映カルト3連打③ [牧口雄二監督]

『徳川女刑罰絵巻・牛裂きの刑』

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寛永5年、長崎。長崎奉行・高坂主膳は、禁教令にそむく邪宗徒として、隠れキリシタンへの熾烈な弾圧を行っていた。奉行所の「お仕置き場」では、奉行の前で、捕らえられた者たちの顔や体に、十字の焼印が押された。
だがサディスティックな奉行は、それでは満足しなかった。
奉行所の若い与力の佐々木伊織は、狩りの最中にヘビに噛まれ、その毒液を吸い出し、介抱してくれた、隠れキリシタンの娘・登世と恋仲となる。だが登世の家族はすでに奉行所に連行され、登世もお仕置き場で、与力として奉行の脇に控える伊織と再会する。
二人の仲を知った奉行の主膳は、登世を自分の女にし、伊織にその行為を見せ付けた。

主膳は登世の、歳の離れた幼い妹を伊織の前に連れてこさせ、刺し殺すよう命じる。伊織にはそれができず、激怒した主膳は、登世の目の前で、妹の目に焼きゴテをあてさせ、失明させてしまう。
登世の家族は、隠れキリシタンの村人とともに皆殺しにされる。主膳と登世の行為に我慢がならなくなった伊織は、ついに主膳に逆らい、手痛い仕打ちの後、奉行所を追われる。

一年後、登世を乗せた籠を、浪人となった伊織が襲い、登世をさらって逃げる。だが二人はやがて追いつめられ、伊織は主膳の槍によって留めを刺される。
そして登世には姦通の罪として、「牛裂きの刑」が待っていた。


筋を書けばこうなるんだが、実際は、拷問場面の数々をかろうじて筋書きらしきものが繋いでくという風情なのだ。
初っ端が女が煮えたぎる釜の中に、吊るされながら入れられ、フタをされる「釜炊きの刑」
男が首を吊るされた後に、胴体を刀で真っ二つにされる「試し斬りの刑」
ガラスの巨大な水槽に女を落とし、その上から無数のヘビを投入する「ヘビ地獄の刑」
丸い切り株のような台の上に、男の片足を縛りつけて、デカい杵つきを振り下ろす
「餅のかわりに足つき刑」
豚の丸焼きを作る時のように、左右の台に渡した数本の棒に女を括りつけて、
油を塗って、回転させる「女体丸焼きの刑」
『インモータルズ』でも出てきた「ファラリスの雄牛」という拷問具があるが、
あれを信楽焼のたぬきで応用した「ファラリスのたぬきの刑」
など、映画というより「拷問のアトラクション」を見る感じだ。

とにかく、優れた拷問には「ザッツ・パーフェクト!」と声を上げる、長崎奉行・主膳を演じる汐路章の独演会のような様相で、イモリを本当に口の中に頬張ったりしてるし、『冷たい熱帯魚』のでんでんじゃないが、ここまで演れれば気持ちいいだろう。

その拷問の総仕上げに「牛裂きの刑」が出てくる。登世が板の上に両手両足を縛られてる。両足はそれぞれ、気の荒そうな黒毛和牛2頭の首に、縄で繋がっており、奉行の合図とともに、牛に引かせる。
絶叫とともに両足が根元から裂かれるんだが、肌襦袢で股の部分は見えない。ワンカットだけ、内臓のアップらしきものを映してる。
高坂主膳はその後も弾圧拷問に明け暮れ、奉行から一石の領主に位も上がりました、めでたしめでたし、というその時点でまだ40分しか経ってないのだ。


さすがにこの話だけで終わらせたら、殺伐感が半端ないと東映も思ったのか、舞台は一転、女郎屋へと変わる。川谷拓三がいつもの軽妙な演技で空気を和ませる。

大阪・船場のぼんぼんだと嘘をつき、女郎屋でしこたま遊んで逃げようとした捨造は、宿の男たちに、頭を坊主にされ、顔を白塗りされ、1年間タダ働きを強いられる。
捨造はすぐに女郎屋の残酷な掟を目の当たりにする。
人の上客を奪った女郎には折檻が加えられた。縛りつけられ、体中に何かを塗りたくられる。すると何匹もの小型犬が女郎の体を舐め回す。折檻にしては痛いというより、気持ちよさそうなんだが、みんなの見てる前で、犬にイカされてしまうという、一種の羞恥プレイのようなものか。

商売以外で男と通じ妊娠してしまった女郎は、宿の男たちから、流産するように執拗に腹を蹴られる。
それでも不十分と思うと、専門の腕を持つ婆さんが呼ばれ、股の間から、まだ形を成してない胎児をかき出す。
女郎は消耗しきってるが、宿の主人は、休ませずに客を取らせる。
行為の最中に血を吐くと、客の男は
「梅毒持ちか?じゃあ後ろからだ」
となおも責め立てる。
その女郎は宿の若い使用人と足抜きを図るが、捕まり、男の方は縄で吊るされて、片耳を削がれる。
そして捨造は男のイチモツを切り取るよう命じられる。逆らえば自分が切り取られる。捨造は男に謝りながら、震える手で刃物をあてた。
若い男は正気を失ったまま、宿から放り出され、すでに息のなかった女郎は、捨造が埋めに行くよう言われた。

捨造はここで知り合った女郎のおさとに、一緒に逃げようと誘い、死体を入れる桶におさとを入れて、まんまと女郎屋を抜け出した。
ふたりは江戸を目指すが、旅の途中でおさとが、洞穴に暮らす「非人」と呼ばれる男たちに輪姦され、駆けつけた捨造は、男たちを殺してしまう。
江戸に出た二人は「美人局」をして稼いでたが、十手持ちと知らずに罠をかけ、ついに御用となる。

非人殺しの罪状で、口を割らない二人は拷問にかけられる。おさとは乳首を切りとられ、正座した膝の上に重い石を乗せられた。捨造は足の親指を切断された後、水車に括られ、水責めを受ける。
ついに罪を認めた二人は、北町奉行所門前に、首から上を台にさらし、道行く人間に鋸で首を引かせる
「鋸引きの刑」に処せられる。
だが実際はされることはなく、型通りの見せしめ刑だった。
おさとは「こいつはまだ稼げますんで」と、女郎屋の主人が、役人に賄賂をつかませ、連れ帰った。

ひとり、台の上に首をさらすことになった捨造の前に、男が奇声を上げながらやってきた。その男は、女郎屋で捨造がイチモツを切り取った、あの使用人だった。
男は捨造のそばに形ばかりに置かれたノコギリに目を止めた。

前半40分の「長崎奉行」の話が、即物的な残酷描写で、アトラクションぽい印象だったが、後半は川谷拓三の熱演もあり、ドラマの濃度が深まってた。こっちの残酷描写の方が「痛み」が伝わる感じだ。
その川谷拓三だが、この映画の2年後の1978年にも、再び「鋸引きの刑」に処せられてる。


大河ドラマ『黄金の日日』がそれだ。納屋助左衛門の幼なじみの善住坊(ぜんじぼう)を演じてた。
善住坊は火縄銃で信長を撃とうとするが失敗、助左衛門の船に隠れるが、その船は航海で嵐に見舞われ、ルソン島に漂着する。二人はルソン島で商売をし、逞しく生き延びて、日本に戻るが、善住坊は逆賊の罪で捕らえられる。
助左衛門は、善住坊の面倒を見てやってたお仙から、「鋸引きの刑」の噂を聞き、ふたりでその街道へ向かう。
役人は「ここを通る者は1回ノコを引いていけ、さもなくば自分が同じ目にあうぞ」とせせら笑う。

役人の後ろには首から下を土に埋められた善住坊が。竹のノコギリはすでに何度か引かれており、すでに虫の息となってる。

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助左衛門が駆け寄ると、善住坊は
「アリーナカヨ、アリーナカヨ」と呟いてる。
助左衛門は泣きながら、お仙に
「いらっしゃいませ、って。ルソンの言葉なんだ。善住坊は俺とルソンで商売してるんだよ、
気持ちはルソンに行ってるんだよ」
お仙も涙を流しながら覚悟を決めた。
善住坊に微笑みかけ
「楽におなり」
そう言うと、渾身の力で竹ノコを引いた。

『黄金の日日』のこの場面は当時、家族で見てたが、俺はボロ泣きした。川谷拓三は膨大な数の映画に出てるが、知名度を一躍上げたのは、この善住坊の役だった。助左衛門を演じてたのは、市川染五郎。お仙を演じた李礼仙も素晴らしかった。

そんなわけで、この『徳川女刑罰絵巻・牛裂きの刑』を見終わったら、途端に『黄金の日日』を見直したくなってしまったのだ。

2012年3月11日

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牧口雄二・東映カルト3連打② [牧口雄二監督]

『戦後猟奇犯罪史』

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「テレビ3面記事ウィークエンダー」を見てた人は多いだろう。10年近くも続いた番組だったから。
今はワイドショーや「アンビリバボー」などの番組で、ポピュラーな手法となってる「再現フィルム」というヤツを、最初に本格的に導入したのがこの番組ではないか。

リポーター(に扮するタレント)が、スキャンダラスな事件の経緯をフリップを使って、テンション高めに解説していくもので、桂ざこば(当時は朝丸)の
「こいつや!こいつでんがな悪いのは!」
の名調子を生んだりした。

リポーターの中でもキャラが立ってたのが泉ピン子だった。とにかく早口で結構えげつない表現もバンバン口にするんで、「今日は何を言い出すか」というのが、この生放送の番組を見る楽しみの一つになってた。

この『戦後猟奇犯罪史』は「ウィークエンダー」風のセットを組んで、泉ピン子がリポーターとなり、3つの有名な猟奇事件を紹介していくという構成になってる。
「ウィークエンダー」は1975年に始まった番組だが、この映画はその1年後に公開されてる。つまり番組人気が出ると、すぐに便乗して、泉ピン子を引っ張ってくるという、当時の東映の「ウケるならすぐにやれ」なフットワークの軽さが知れる。

フットワークが軽いといえば、この映画は1976年の6月に公開されてるんだが、そのひと月前に、歌手・克美茂の「愛人殺害死体遺棄事件」が報じられると、「これも映画に入れろ」と号令がかかり、撮影して公開に間に合わせたというのだから凄い。
凄いんだが、映画を見ると、3つのエピソードの内、真ん中に挟まれたこれだけ、あきらかな「やっつけ感」がダダ漏れしてる。尺も短い。

題名には「犯罪史」とうたわれてるが、この放り込みエピソードがなければ「西口彰」の事件と「大久保清」の事件の二つだけなんで、俺の予想してた内容とは違ってた。もっと猟奇事件の数々が、畳み掛けるように描かれてくもんだと思ってたのだ。
つまり「えっ、そんな事件もあったの?」という驚きが得られるかと。
西口彰といえば、『復讐するは我にあり』で緒形拳が演じた、あの連続殺人犯であり、大久保清もテレビドラマでビートたけしが演じて評判を得ている、「猟奇犯罪界のビッグネーム」だ。
ただそれは今だから言えることで、どちらもこの映画の方が取り上げたのは早いのだ。


この映画で西口彰を演じるのは室田日出男、大久保清を演じるのは川谷拓三という、「ピラニア軍団」の主演作2本立ての趣だ。間に「番外編」1本みたいな。

「西口彰」事件で描かれるのは、それまで詐欺や窃盗などの前科を持ってた西口が、初めて人を殺める38才の時からだ。運送会社のトラック運転手の職にあった西口が、当時専売公社が、たばこの配送と代金の集金を運送会社に委託してることを知り、その強奪を企てた。
集金人をひと気のない橋の上で襲い、川に転落させ、岸まで這いずってきた集金人をさらに足蹴にして集金袋を奪う。さらにその足で同僚の輸送車ドライバーを刃物で執拗に刺して殺す。
冒頭の場面から室田日出男の演技には迫力があり、血まみれのシャツのまま、列車の脇を歩いてるショットもいい。
西口はその凶暴さを普段は表に出すことがなく、大学教授の名を騙って、日本全国の旅館などを泊まり歩いている。
「真珠を4つ埋めているってんだから!」(ピン子解説)と言われ、女にはモテた。

顔を特徴づけていた頬のホクロを取るために、50円玉の真ん中の穴にホクロを合わせて、頬に貼り付け、火であぶった針金のような物で、ホクロを焼き切るという場面もある。
浜松の旅館では長居したようで、その間に旅館のおかみと、その娘の両方と情を通じるという「親子どんぶり」状態となり、母娘で取っ組み合いの争いとなったりする。
結局そのふたりとも絞殺してしまうんだが。
おかみが娘が見当たらないんで
「あんた、娘に何かしたのかい?」
と尋ねられた西口が、たばこをふかしながら笑う場面は怖い。
緒形拳のギラギラとしたオスの生命力のような個性とは違い、室田日出男は「ヌメッと」した捉えどころのない雰囲気の中から、不意に凶暴さが現れる。


一方、8人の女性を殺害した大久保清の事件は、犯行から逮捕、そして取り調べをのらりくらりとかわす様子に尺を割いてる。
大久保清は母方のロシアの血を引いていて、きれいな顔立ちをしてたので、女性に悪印象を与えなかったと言われてるが、ビートたけしはもとより、その点では川谷拓三もないだろうとは思うね。
「どこがロシア人とのハーフやねん!」って感じで。

そんなこともあるのか、映画の中で、この大久保はやみくもに女性に声をかけまくってる。
ベレー帽とルパシカを着て、画家を装い、モデルになってほしいと、言葉巧みに車に乗せて、人里離れた山林でレイプする。「青姦用に」とビニールシートまで車に積んでたらしい。
車の中で女性にキスする最中に付け髭が取れるとか、川谷拓三の演技はコメディ調で、レイプしようと追っかけてる場面に、軽快な音楽が流れるなど、題材との乖離が激しい。

ただ後半、取調べに抵抗を続けてた大久保が、独房での孤独に絶えられず、自白を始めてからの場面は、同じ犯行場面でも印象がグッとシリアスになる。

つまり前半で描かれたレイプから殺害に至る、あの妙にメルヘンな感覚は、大久保の内面から描かれたもので、後半で描き直される、大久保が女性を絞め殺す時の、川谷拓三の鬼気迫る表情は、実際はこういう光景だったのだという、事件の悲惨さを突きつけてるのだ。
にしても、大久保が独房のトイレで大便をしていて、便器の底を見ると、無数の目玉が盛り重なって見ているという描写などは、悪趣味も度を越してるぞ。
まあ悪趣味前提で作られてるんだろうが。

2012年3月10日

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牧口雄二・東映カルト3連打① [牧口雄二監督]

『女獄門帖 引き裂かれた尼僧』

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東映ビデオがここ最近、レアなアーカイブのDVD化に積極的になっており、まことに喜ばしい限りで、その中でも「最終兵器」とも呼びたい、牧口雄二監督のカルト映画3作を早速購入。
『女獄門帖 引き裂かれた尼僧』と『徳川女刑罰絵巻・牛裂きの刑』は「ラピュタ阿佐ヶ谷」で見てるが、『戦後猟奇犯罪史』は初見だ。

この『女獄門帖 引き裂かれた尼僧』は上映時間69分!というのも素晴らしいが、その中に一分の隙もなくエログロが詰まってる。

「牛裂きの刑」での拷問長崎奉行が凄かった汐路章演じる女衒の弥多八に騙され、年期が明けてるのに、別の宿場に売られそうになった女郎のおみのは、隙を見て逃亡。現世の縁が断ち切れると噂の尼寺・愁月院を目指すが、途中の山道で二人の猟師に犯されてしまう。
ほうほうの体で寺の門前に倒れこむおみのを、庵主の桂秀尼は温かく迎え入れる。
愁月院には庵主のほかに3人の尼僧と、無表情で口をきかない少女お小夜がいた。
屏風には地獄絵図が描かれており、尼僧たちも一癖ありそうだった。

おみのが迎えられた翌日の晩、一組の男女が寺の門を叩いた。駆け落ちしてきたという。
庵主は手厚くもてなし、部屋を与えた。二人はその晩愛し合って眠ったが、女が目を覚ますと、男の姿はない。
庵主から、男は出て行ったと聞かされるが、信じられない女は、おみのと一緒に男を探す。
だが彼女たちの前には、大きな鍋に切断した肉を放り込む、遺体処理人の作造が。
「けさ、大きな猪が獲れたでな」
と言うが、女は絶叫したまま走り去り、後に寺の中庭で首を吊っていた。
おみのは、この寺の人間の仕業にちがいないと庵主を責めるが、皆シラを切るばかりだ。

そんな中、おみのを追って、弥多八と手下の亀が寺にやってくる。
「おみのを出せ!」とずかずかと境内に入りこみ、たちまち尼僧たちに捕まり、縛り上げられる。
おみのは、今までの恨みを、尼僧たちの手を借りて、存分に弥多八にぶつけた。

愁月院の奥の庭には、ケシが栽培されており、尼僧たちは毎夜アヘンを吸っては享楽に身を委ねていた。
おみのは庵主・桂秀尼からアヘンを手ほどきされ、同時に庵主の指がおみのの体を這い回り、快感の淵に落とされていった。
庵主はこの寺に入る前に、男に手酷い仕打ちを受けており、
「呼び寄せた男たちはすべて生贄に捧げるのです」
などと言ってる。
弥多八と同じようにおみのを追ってきた、あの猟師たちも、尼僧たちの餌食となり、喉笛を食いちぎられた。
作造も仕事が忙しかった。

おみのがすっかり尼僧たちの世界に染まりそうになってる時、ひとりの男が門前に現れた。
おみのが逃亡中に握り飯を恵んでくれた町人だった。
「ここにきちゃ駄目!」
だがおみのが男を追いかえそうとした時、庵主が男に声をかけた。
町人の男は寺に招き入れられた。おみのは
「ここは殺人尼寺だから、隙を見て逃げ出して」
と言うと、男は自分は実は代官所の隠密で、この寺を調べに来たのだと言う。
その言葉にホッとしたおみのは、いつしか男と抱き合っていた。

目を覚ましたおみのは、隠密の男を探すが、そこには首のない全裸死体が転がっていた。
叫びながら土間へと駆けていき、桶の水を飲む。だが桶の底には隠密の生首が。おみのは失神する。


ここから先は、おみのが尼僧たちに復讐を仕掛ける展開だが、
尼僧たちのアヘン踊りのサイケな味付けとか、
寺の本堂でのキャットファイトとか、
弥多八の手下の亀を演じる佐藤蛾次郎が、年増の尼僧おとくの、母乳窒息攻撃に没したりとか、
本堂の観音開きがバーンと開いて、ラスボス登場かと思いきや、
ミイラの仏が仁王立ちして、そのまま炎上しちゃうとか、
もう見せ場しかないのだ。

男嫌いの庵主が仕切る尼寺だから、レズシーンがあるのは必然だが、年増のおとくはそれには絡まず、ひたすらテンション高い祈祷を繰り返してるのが可笑しい。

おみのを演じる田島はるかは俺は初めて見るが、たぬき顔で可愛らしいが、脱ぎっぷりはいい。表情も豊かに熱演してた。
川谷拓三とともに「ピラニア軍団」の一角を担った志賀勝が、遺体処理人・作造を演じてるが、もうスレスレの役作りでコメントしずらい。DVDのジャケに顔が出てるが、あんな悪党顔じゃない。第一「白塗り」だし。

この映画の中で一番印象的なのは、口をきかない少女お小夜を演じた佐藤美鈴という子役だ。
この尼寺の狂態ぶりをつぶさに見つめてるという役柄だが、撮影中もつぶさに見つめてたんだろうか?
映画では最後にお小夜が炎上する本堂の中で初潮を迎えるんだが、本人は出来上がった映画を見せてもらえなかっただろうね、その当時は。
最初の方で、おみのの足抜けを手伝おうとして、捕まって嬲り殺される男を小林稔待が演じてた。

2012年3月9日

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追補版・『午後十時の映画祭』② [「午後十時の映画祭」]

この映画が観たい『午後十時の映画祭』追補版②

1月23日のこのブログで、最初にラインナップした「70年代編」の50本のうち、4本がDVDで見られるようになったので、リストへの入れ替えタイトルとコメントを入れたんだが、その後も新たに

「70年代編」から、
『栄光への賭け』『コンラック先生』『デリンジャー』の3本が、
「80年代編」から、
『ザ・クラッカー 真夜中のアウトロー』『タイムズ・スクエア』の2本が、

DVD販売決定とのニュースが入った。今回のはツタヤのオンデマンドDVD及び「発掘良品」でのリリースではなく、4本は「20世紀フォックス」からのリリースだ。

そんなわけで今回も、その5本に替わるタイトルとコメントは以下の通り。



『あんなに愛しあったのに』(1974)イタリア 
監督エットーレ・スコラ 主演ステファニア・サンドレッリ、ヴィットリオ・ガスマン

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1974年の映画ながら、日本公開が実現したのは1990年。ミニシアター・ブームの恩恵といえる。
『スプレンドール』では映画館主という主人公の役柄を通じて映画愛を語ったスコラ監督だったが、この作品でも、『自転車泥棒』『甘い生活』『太陽はひとりぼっち』『戦艦ポチョムキン』『人間の絆』といった名作を引用しながら、3人の親友たちの、終戦から74年までの約30年間を描いてた。
3人の男たちはレジスタンスで共に戦ってるから、日本だと「団塊の世代」のひとつ上の年代だろう。

その3人に愛されるのがステファニア・サンドレッリだ。彼女のいる前でケンカになり
「もう、いい人なんて言われたくないんだよーっ!」
と走り去ってく場面とか、セリフでかなり笑った記憶がある。
セリフの量も多いし、映画全体の情報量が多いんで、一度見ただけじゃ咀嚼しきれない感じはあった。
今見直したらもっといろんな部分に反応できるんじゃないかと思う。
フェリーニ監督とマストロヤンニが、トレビの泉で『甘い生活』を撮影してるという場面があり、実際に本人たちが出演してたり、映画好きなら必見だろう。

3人の男たちの行状はカッコいいとはいえないが、スコラ監督の
「イタリア人は堕落してるかもしれないが、愚かではない」
という言葉が、この映画の人物描写を言い当ててると思う。
一度ビデオになってたと思うが、DVDにはなってない。



『らせん階段』(1974)イギリス 
監督ピーター・コリンソン 主演ジャクリーン・ビセット、クリストファー・プラマー

らせん階段.jpg

うーむ、我ながらもう何本目だ?という位に、またジャクリーン・ビセットを選んでしまった。
今回はクリストファー・プラマーのオスカー受賞記念ということで。
これは1946年のロバート・シオドマク監督作のリメイク版。火事で最愛の夫と娘を目の前で失ったショックで、以来声が出せなくなったビセットは、叔父の家に身を寄せてるんだが、叔父の家の周辺では、この1年で5人が殺害されるという事件が続いていた。
共通するのは、被害者たちは皆、身体になんらかの障害を持ってたということ。ビセットも、口がきけない自分も狙われるんではと怯えていた。

クリストファー・プラマー演じる叔父は心理学の教授だが、もうおわかりのように殺人鬼である。
彼は完全主義者で、「健常者」ではない存在を許さなかったのだ。ひどい話だね。
このストーリーはオリジナルが1946年ということからも、ナチスの思想を思わせる。実際ナチス・ドイツの時代には「健常者」でないと迫害されたというからね。

クリストファー・プラマーは教授というアカデミックな役柄にはぴったりで、弟役でジョン・フィリップ・ローが出てくるが、二人とも瞳が青すぎてゾッとさせるもんがある。
そこに挟まれてビセットの草色の瞳が恐怖に揺らいでるのが、また色っぽくもあり。
ネタ的にちょっとまずいということなのか、今までビデオにもDVDにもなってない。



『ロンドン大捜査線』(1971)イギリス 
監督マイケル・タクナー 主演リチャード・バートン、イアン・マクシェーン

ロンドン大捜査線.jpg

原題『VILLAIN(悪党)』の方が潔くカッコいいと思うのだが、リチャード・バートンの主演作の中でも異色といえる、主人公のニューロティックな人物像が特徴の犯罪ドラマ。
バートン演じる強盗ヴィクは、残忍な手口で金品を奪うサディストなんだが、母親思いで、休日には海辺のレストランで一緒に食事するのを楽しみにするような男。強盗を企てる若い腹心のウルフとはゲイの関係も匂わせてる。同じ時期にイギリスで作られた『狙撃者』に通じるような、一筋縄でいかない雰囲気が漂ってた。
これは昔、深夜のテレビで見た憶えがあるが、細かいストーリーの運びなどは忘れてしまった。

ヴィクを追う警部には『最後の脱出』のナイジェル・ダヴェンポート。
バートンと妖しい関係のウルフを演じるイアン・マクシェーンは当時まだ30手前。『電撃脱走・地獄のターゲット』『オスロ国際空港』など、強い個性を持った主役と絡む準主演の位置づけをこなしてたね、この頃は。谷隼人に似てるなんて言われてた。
この人は今年70になるんだが、ここ数年ハリウッドでラスボス的な起用が目立つ。『パイレーツ・オブ・カリビアン/生命の泉』とか『デス・レース』とか。
70年代の馴染みの顔が頑張ってるのを見るのは嬉しいね。
監督のマイケル・タクナーはこの後に、アリステア・マクリーン原作の『爆走!』を撮ってる。
この映画も『爆走!』も、ビデオ・DVDにはなってない。



『ザ・アマチュア』(1981)アメリカ 
監督チャールズ・ジャロット 主演ジョン・サヴェージ、クリストファー・プラマー

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これも20世紀フォックス作品なんで、次のリリース予定の中に既に入ってるかも知れないんだが。
レッドフォード主演の『コンドル』と対を成してるというか、類似点のあるスパイ・サスペンスだ。
『コンドル』では主人公はCIAの下部組織で、出版物の文面からテロなどに繋がる暗号を探し出す部署の職員。そのオフィスが襲われ、仲間の職員が皆殺しに遭う。
この映画のジョン・サヴェージ演じるチャールズも、CIAの暗号解読部門の職員だ。

冒頭、ミュンヘンでテロリストによる人質篭城事件が発生。その様子がLIVEで中継されてる。
チャールズは画面を見て愕然とする。ジャーナリストで恋人のセーラが、テロリストに銃を突きつけられてる。
テロリストは「我々の本気を示す」と、セーラの頭を撃ち抜く。
チャールズはCIA上層部にテロリストの処刑を申し入れるが、聞き入れられない。
そこで自らの暗号解読技術で掴んだ、CIAの極秘情報をネタに交渉し、「対テロ」の暗殺技術を身につける訓練を受けさせることを了承させる。

ジョン・サヴェージという「線の細い青年」が似合う役者が、殺しの技術を仕込まれ、テロリストと渡り合うという、そのプロットを題名が表している。
クリストファー・プラマーはここでも、チェコの諜報活動部長の任にある「教授」役だ。
チャールズに訓練をつける大佐を演じるのはエド・ローター。70年代脇役スターの筆頭に上げたい役者だが、ここでは主人公を手助けするのか、敵となるのかという微妙な位置にある人物を渋く演じてる。
ビデオは前に出てた。



『天国への300マイル』(1989)ポーランド・デンマーク・フランス 
監督マーチェイ・ディチェル

天国への300マイル.jpg

この映画を見てる人は少ないかもしれないな。ミニシアターで見てるんだが、それがどこだったか思い出せない。
TYO という名の配給会社も耳馴染みがない。
ビデオは昔ひょっとしたら出てたかも知れないが、DVD化はされてない。

偶然にもこの当時、子供たちの過酷な旅を描いた映画が、相次いでミニシアターで上映されてたのだ。
1988年にはアンゲロプロス監督の『霧の中の風景』、
1990年にはアカデミー外国語映画賞のトルコ映画『ジャーニー・オブ・ホープ』、
1992年にはイタリアの『小さな旅人』と、どれもいい映画なのだが、この『天国への300マイル』も、ポーランドから西側デンマークへ亡命を企てようとする、14才と11才の兄弟の旅を甘さを排して見つめてた。
この兄弟の仲の良くない感じは、ロシア映画『父、帰る』の兄弟を連想させる。
弟が肌身離さず持ってたアコーディオンを、兄に車から捨てられる場面は可哀相だったな。

この兄弟は母国で父親が思想的な問題から、学校の職を解かれ、ならば自分たちが西側で働いて仕送りしようと考えたのだ。だが難民施設に収容された様子がニュースとなり、ポーランドの両親の立場も厳しくなってしまうという筋立て。
この兄弟は希望を求めてデンマークへ渡ったが、そのデンマークで熾烈なイジメにあう少年を描いたのが、スサンネ・ビア監督の2010年作『未来を生きる君たちへ』だ。
子供たちにも安住の地はないのだ。

2012年3月8日

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先見の明あったな東京国際映画祭 [映画ア行]

『OSS117 私を愛したカフェオーレ』

OSS117私を愛したカフェオーレ.jpg

今年のアカデミー賞は史上初という、フランス映画が作品賞を受賞したわけだが、
その『アーティスト』は、1927年という、トーキー第1作の『ジャズ・シンガー』が誕生した年のハリウッドを舞台に、サイレント映画のスターの凋落と、新しい時代を告げる若い女優のキャリアがクロスしてく様を、「サイレント映画」の手法で描いてるという。
ストーリーから連想するのは、ビリー・ワイルダー監督の『サンセット大通り』だろう。
『アーティスト』の監督ミシェル・アザナヴィシウスが、受賞スピーチで、ワイルダーの名を三度も連呼してたし。
ただワイルダーの映画の、サイレント時代の大女優を演じたグロリア・スワンソンが、正気を失ってく、底冷えするような感覚とは多分違って、これだけアメリカでも支持されたというのは、『アーティスト』がいい気分で見終えることができる映画だったからじゃないか?俺はまだ見てないけど。

サイレント時代のスターの悲哀ということでは『エド・ウッド』で、マーティン・ランドーが絶妙に演じてた、ドラキュラ役者ベラ・ルゴシのことも思い起こさせるね。
多分、『アーティスト』という映画に対して、ハリウッドで最も嫉妬してそうなのは、ティム・バートンなんじゃないか?「僕が作ってても良さそうな話だった」ってね。

世界的な名声を得ることになったミシェル・アザナヴィシウス監督だが、彼の監督賞と共に、主演男優賞を獲ったジャン・デュジャルダンと、惜しくも受賞は逃したが、助演女優賞候補になってたベレニス・ベジョという同じ顔ぶれで、2006年に製作した、この『OSS117 私を愛したカフェオーレ』が、この機会に晴れてスクリーンでの一般公開が実現になればいいのだが。

この映画はその年の東京国際映画祭の「コンペティション」部門に出品されてて、なんと最高賞の
「さくらグランプリ」を獲得してたのだ。
ちなみにこの時の題名は『OSS117 カイロ、スパイの巣窟』だった。
にも係らず、結局劇場公開には至らず、DVDスルーとなってしまった。


『OSS117』というのは、フランスで1950年代から60年代に7本製作されたスパイ・アクション・シリーズ、その主役ユベール・ボニスール・ド・ラ・バス大佐のコードネームだ。

オリジナル版OSS117.jpg

この映画はそのシリーズの何十年かぶりの最新作という作りではなく、60年代に作られてたスパイ・アクションのテイストを細部まで再現しようという「パステューシュ」を意図してる。
しかもそのフランスの『OSS117』ではなく、ジャン・デュジャルダンが演じる主人公ユベールは、初代007のショーン・コネリーを元にしてるというから、ややこしい。片方の眉をあげて、ニカァーと笑う感じとか。
『アーティスト』も徹底してサイレント映画を「再現」してると言うし、その凝り性ぶりが、すでに発揮されてたわけだ。知らずに見てると、本当に60年代のスパイ映画を見てると錯覚してしまう。

東京国際映画祭では、「芸術性が高い」とか「作家性が高い」とか言うわけじゃないこの映画がグランプリに選ばれた事で、当時は失笑すらされてたもんだが、今となれば、この監督の才能を認めてた、その「先見の明」は語り直されていいだろう。プログラミング・ディレクターは「してやったり」の気分だろうね。
だって本国のその年の「セザール賞」でも、美術賞しか獲ってないんだよ。


冒頭『アーティスト』みたいなモノクロで始まる。第2次大戦中のミッションだ。軍用機の中で、ドイツ軍将校から、ロケット兵器の設計図を奪取した、ユベールと相棒のスパイ、ジャック。
舞台は1955年のエジプト・カイロに飛ぶ。ユベール全然歳くってないが。スエズ運河の利権を巡り、イギリス、ドイツ・ソ連のスパイたちが暗躍する中、先に諜報活動を行ってた相棒のジャックが殺されたらしい。
ユベールの脳裏にはジャックとの楽しい光景が。砂浜で戯れる二人。
「ああ、ジャック…」思わず声を漏らしてるが。
ショーン・コネリーのボンドを模してるから、もちろん女には手が早いユベールなんだが、「隠れゲイ」かも知れないという描写が可笑しい。この砂浜の回想は何度も出てくる。

ユベールはカイロでエジプト人の女スパイ、ラルミナと接触する。ラルミナを演じてるのはベレニス・ベジョ。
この二人の絡みの中で、フランス人ユベールの、イスラム文化に対する無知というか無礼の数々が披露されるんだが、これも、あくまで1960年代当時の白人から見たアラブ人への偏見という体裁をとっている。
夜明けに行われてるコーランの祈祷が町中に鳴り渡ってるという、よく映画で見られる情景があるが、ユベールは塔の上でマイクで祈祷してる人物に
「うるさい!寝られないぞ!」
と、マイクをふんだくりに行ったりするのだ。
ラルミナが酒を勧められて「宗教で禁じられてる」と応えると
「つまらん宗教だな、すぐに廃れる」だって。大丈夫かなと思うような描写の連続だぞ。
ラルミナに「あなたって…典型的なフランス人ね」と呆れられ、
ニカァーと笑って「メルシー!」

先任のジャックが成りすましていた養鶏場の経営者に、後任として入るユベール。ニワトリたちが電気を消すと一斉に鳴き止み、また点けると鳴き出すというのが気に入って、そればかり繰り返してる。それを見て使用人のエジプト人は「こいつはバカかもしれない」という顔をしてる。
そうかと思えば、アラブ人に変装したつもりで、エジプト人の過激派組織に捕まって、重しつけられて海に沈められたりする。だがなぜかいつまでも水中で息が続くらしく、ゆっくりと縄を解いて、ネクタイを締め直して、水面に浮き上がってくる。

そうかと思えば、ドイツ人実業家の案内でピラミッド見学に行くんだが、ピラミッド内部にナチスの第三帝国準備室みたいなもんが出来てて、その実業家は、ユベールがロケット兵器の設計図を奪って、軍用機から突き落としたドイツ将校の友達だったりする。
ユベールと同じように、ドイツ人も友達と砂浜で戯れた回想に耽ってる。
その隙にユベールは扉を閉めて、準備室の連中をピラミッドに永遠に閉じ込めちゃうんだけど。

ソ連のスパイとは、サウナで話し合いを持つことになるが、手下の大男の殺人マッサージで窮地に陥りそうになり、ユベールは得意の空手でなんとかスパイと大男を殺して難を逃れる。
だがサウナで男と会ってたことが、性癖にかかわる誤解を生み、ユベールは言い訳に追われる。
一方ではラルミナとエジプト国王の姪の美女によるキャット・ファイトも展開され、武器を満載した貨物船が大爆破を起こして任務は完了する。
読んでもさっぱりわからんだろうが、俺も見てて何がどうなのか、よくわかんなかったのよ。


オープニングタイトルのグラフィカルな感じとか、60年代のフィルムの発色ぐあいとか、流線型の車や建物、小道具に至るまで、ほとんどCGとか使わずに再現してるから、手間も金もかかってるんじゃないかとは思うね。

俺が一番ウケたのは、ユベールがショーン・コネリーよろしく、国王の姪とベッドインする場面のカメラワーク。ベッドに押し倒すと、そこからカメラはベッド脇の花瓶を写して、さらにパンすると鏡に二人の様子が写ってる。
だがズボンが脱げずにモタモタしてるんで、カメラがサッと花瓶に戻るってとこ。


ジャン・デュジャルダンは、007のバッタモン的な安いキャラを意図して演じてるんだが、愛嬌があるんで嫌味に感じない。それとダンスが上手いね。しかしこんなスパイを演じた役者が、次の主演作でアカデミー賞を受賞するなんて、本人も含めて世界中で誰も思いもしなかっただろう。
俺だって見た時は「ちょっと面白い役者がいるな」程度にしか思わなかったもの。

それでなくても、この映画を本当に楽しめるのは、年配で60年代の「007」だけじゃなく、亜流のスパイ映画やTVシリーズなんかを見てた人たちだろうね。
石上三登志とか森卓也といった映画評論家に、こと細かにネタを解説してもらいたい。

2012年3月7日

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ニーナ・ドブレフは可愛いが [映画タ行]

『タンネンベルク1939 独ソ侵略戦争』

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DVDスルーの戦争ドラマ。この手のものはほとんどパッケージの絵柄は、本編には出て来ない。邦題も「戦争アクション」を想起させるが、戦車も装甲車も戦闘機も出て来ない。まあそれはビデオ屋に並ぶ商品のセオリーだから気にもならない。
だがパッケ裏の表記に、イスラエル・フランス・ベルギー・スペイン合作と記されてるが、1コも合ってないぞ。
これは2007年製作のカナダ映画だ。カナダのプロダクションが、オンタリオ周辺でロケして、カナダ人俳優を中心にキャスティングしたものだ。舞台に設定してる、ポーランドからロシアに至る道筋も、カナダの森林地帯でロケしてる。
こういう事は海外の映画データベースにあたれば、すぐに分かるのだから、DVDのメーカーも、おざなりな仕事をしちゃいけない。


原題はシンプルに『詩』という。
3人の主要な登場人物がいて、そのひとりが、ドイツ国防軍の少将を父に持つ、オスカー中尉だ。彼はポーランド山岳部を中心に、レジスタンスの動きを探る諜報任務に就いてるが、父親が語る、侵略戦争の大儀には納得してなかった。オスカーは自作の詩を詠む、文学青年で、戦争の場に似つかわしくない事は、母親も承知していた。

オスカーは吹雪の夜、偵察中に雪の中に倒れる若い女を発見し、任務に使っている小屋に運び入れ、介抱する。彼女は美しい顔をしていたが、ペンダントを開けると、ダビデの星が掘られていた。
二人は体を重ね、その後でお互いを名乗った。彼女はレイチェルという名で、ユダヤ人のラビの娘だった。彼女はオスカーがドイツの軍人であることに動揺した。

そんな時、オスカーの仲間が小屋に戻ってきた。彼らはレイチェルがユダヤ人とわかると、自分たちにも抱かせろと言う。オスカーは咄嗟に
「その女は父親の使用人だ」
と嘘をつき、彼女を外に逃がす。
レイチェルは村へと急いだが、すでに村はドイツ軍の砲火に覆われていた。
村にはレイチェルの許婚のベルナルドがいた。彼は善人だが、レイチェルは愛を感じてはなかった。
二人はすぐにドイツ兵に囲まれるが、そこにオスカーが馬を飛ばして割って入った。
「この二人は協力者だ」
兵士たちを立ち去らせ、オスカーは二人に金を持たせ、ロシアを目指して逃げろと言う。
オスカーはベルナルドのことを聞いてはいたが、ベルナルドはなぜドイツの将校が情けをかけるのか、その時は分からなかった。オスカーはレイチェルに
「何がなんでも生き延びるんだ」
と言って、二人を逃がす。

どの位の日数が経ったのか、森の中を逃げ延びるうち、ベルナルドはなぜあのドイツ将校が、自分たちを逃がしたのか知ることになる。
レイチェルが妊娠したのだ。自分とはまだ関係を持ってない。
「彼が父親なのか?」
レイチェルは頷いた。ベルナルドは激しいショックに身を裂かれる思いだったが、彼女は産みたいという。
「僕がその子の父親になろう」
レイチェルはベルナルドに抱きついて泣いた。


ロシアとの国境付近で、ユダヤ人を匿ってる村があると知り、二人はそこへ向かう。ベルナルドは、ラビに合い、結婚を認めてもらうため、複雑な事情を隠さず話した。ラビはその心情を理解して、二人を夫婦と認めた。
だがその村もほどなくドイツ軍に襲われ、二人は再び森の中へ隠れる。
「子供を抱えて森では暮らせないわ」
レイチェルは産気づき、森のテントの中で出産する。
赤ん坊を取り上げた産婆から、ロシア領内のドイツ軍野営地で仕事があるかもと言われる。ドイツはその頃、ソ連との不可侵条約を破棄して、進攻する準備を進めていた。

野営地でベルナルドは雑用係に、そしてレイチェルは美貌と得意の歌声を生かして、兵士向けのショウのスターになっていた。ショウが退けると、士官のベッドの相手もする。生きるために形振りは構ってられなかった。


実はここからの展開が、もっと盛り上がりそうなお膳立てをしてるのに、自ら鞘を収めちゃってる所があって物足りんのだ。

レイチェルが唄うショウを、オスカーの父親のコーニッグ少将が見に来るんだが、彼女を気に入って、部屋に連れ込むのだ。客席で自己紹介されて、オスカーの父親とわかってるから、レイチェルも困るわけだよ。だけど
「あなたの息子の赤ん坊がいます」
とも言えないし。いよいよベッドにという段で、父親が酒に酔ったかで、そのまま寝てしまう。
もう少しでインディとインディパパみたいな、『最後の聖戦』パターンの親子ドンブリ完成したのに。

じゃあそのパターンを回避して、どう話を転がすのか見てたら、ベルナルドがドイツの若い兵士と、雑用係の部屋でチェスをしてる。ゆりかごには赤ん坊が。
中年のドイツ兵に「便所を掃除しろ」と言われ出て行く。赤ん坊の泣き声が煩わしく、中年のドイツ兵はつい首を揺すりすぎて、殺してしまう。

同じ頃、今度はオスカーが野営地のショウでレイチェルと再開してた。
ベルナルドと結婚したと告げられたが、
「僕のことをまだ愛してるなら、子供を連れて一緒に逃げよう」
と言う。オスカーは母親から、彼女とともにカナダに移住できるよう、手引きしてもらってたのだ。
レイチェルは頷き、ベルナルドに別れを告げるため、少し待ってほしいと立ち去った。

便所掃除から戻ったベルナルドは、赤ん坊に気づいた。
「俺じゃない」
若いドイツ兵と揉み合いとなり、直後に入ってきたレイチェルが、ドイツ兵を刺し殺してしまう。
二人は野営地を逃れる。オスカーは様子を見に行き、自分の子供が死んでいることに気づく。

俺の予想では、オスカーはあの時点で、赤ん坊を誰が殺したのかは知らないわけだし、レイチェルたちが、自分を裏切って、子供に手をかけて逃げたと思っても不思議じゃないんで、戦うことを嫌ってたオスカーが、憎しみを抱いて二人を追うという展開になるかなと思ってたのだ。
実際、オスカーは父親に自ら、ロシアゲリラ掃討の任務にあたりたいと、願い出てる。
だが終盤に3人が同じ場に居合わせる場面では、別の結末が用意されてた。
なんだろうな、きれいに終わらせすぎだろ。ベルナルドが本当に善人すぎて気の毒だ。


ニーナ・ドブレフ演じるレイチェルは、可愛い顔してるんだけど、意外と尻が軽い。だがそのわりにはベルナルドとは寝てあげないんだろ?結局オスカーになびくしな。
まあこれは勝手な男目線の見方で、
「男が戦争なんてくだらないこと始めるから、女が苦労するんでしょ!」
と言われれば、男に返す言葉はないね。

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ニーナ・ドブレフは初めて見たけど、レイチェル・リー・クックとか、アリッサ・ミラノとか、そんな感じの日本人ウケしそうなルックスだね。彼女はブルガリアのソフィア生まれで、家族とともにカナダに渡って、女優として活動始めた23才。

コーニッグ少将を演じるのは、カナダの個性派キム・コーツ。一度見たら忘れられない面相で、俺的に印象が強いのは、『ワイルド・レンジ 最後の銃撃』で、ラスボス風にドヤ顔で出てきた途端に、ケビン・コスナーに撃ち殺されてた役。
その少将の妻をダリル・ハンナが演じてるんだが、彼女のドイツ訛り英語の発音がわざとらし過ぎる。
キム・コーツも、オスカー役のジョナサン・スカーフも普通のアクセントで喋ってるのに、演技プランが統一されてない。
2004年から「多発性骨髄腫」で闘病を続けてたロイ・シャイダーが、レイチェルたちの結婚を認めるラビの役で、数場面出ている。翌年2008年に世を去っている。

2012年3月6日

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押し入れからビデオ⑫『ナイトライダーズ』 [押し入れからビデオ]

『ナイトライダーズ』

ナイトライダーズ.jpg

ジョージ・A・ロメロ監督の「非ゾンビ」かつ「非ホラー」な内容の1981年作。日本では劇場未公開、ビデオ・DVDもリリースされておらず、昔WOWOWで放映されたのを録画してあった。
昨日コメントした『恋人たちのパレード』と繋がるんだが、これも「旅する一座」の物語なのだ。


冒頭、森の中で目覚めたエド・ハリスが、川で水浴をしている。木の枝でさかんに自分の背中を打っている。
中世の騎士の鎧のような衣装を身につけ、馬ではなくバイクに跨る。
エド・ハリス演じるビリーは、ペンシルベニア一帯を巡業して回る「一座」の座長だ。彼らの出し物は、中世の騎士が行ってた「ジュースティング」という馬上槍試合を、バイクで再現するというもの。もちろん本物の槍ではなく、長い竿を使う。
題名は「夜の」ではなく「騎士」のKNIGHTの方だ。
一座はアーサー王伝説に準えて、ビリーはウィリアム卿であり、マーリンと呼ばれる医者もいる。バイクに跨る騎士たち以外にも、楽隊やグッズを売る者や、なかなかの大所帯で、巡業先の設営地にテントを張ったり、トレーラーハウスで寝起きしたり、ヒッピーのコミューンのようでもある。

試合はモトクロス・バイクによるジュースティング以外にも、サイドカーを使った「戦車」レースなどもあり、観客を楽しませる。ビリーの強力なリーダーシップのもと、一座は結束していたが、ビリーは自分たちのやってるのは、ただの見世物ではないという意識が強かった。
試合には騎士道精神を謳い、自分たちは見る者に、名誉や礼節といった、今の世の中に失われてしまった価値観を伝える役目を負ってると考えていた。

設営地の使用料以外にも賄賂を要求してくる警官にも一切応じない。
ビリーの融通の利かなさは、一座の人間を戸惑わせることもあり、収入も十分とは言えなかった。それにビリーは、黒い鳥に襲われるという予知夢を見たと、マーリンに話していた。

賄賂を拒否された警官から、その晩ガサ入れを受け、団員の一人が大麻所持で連行されていく。
ビリーは一緒に行くといい、留置場で団員が殴りつけられるのを、激しい怒りとともに見つめていた。
ビリーに「戻るまで次の巡業地には行くな」と言われてた一座だったが、期日を守らないと違約金を取られるため、出発を決める。ビリーはそれを知り憤慨する。
先に次の巡業の町に着いた一座には、地元のTV局と、ワシントンD.C.の芸能プロダクションの人間が接触してきてた。
ビリー一座の公演の経費や契約を任されてる弁護士は、ビリーに名を売れば収入も増えると進言する。
殴られた団員は言った。
「俺は昔、揉め事を起こし、同じように死ぬほど殴られた。その時は味方もなく、自殺も考えた。
だが今回は殴られても笑ってたろ?それは仲間がいるってわかってるからだ。」
「この一座はバラバラになっちゃいけない」
今や、一座を離れて名を売ろうと思い始めてる団員と、ビリーとの間の齟齬は埋めようもない所まできていた。
だがビリーは言った
「この一座に大切なのは精神だ。俺がもし居なくなっても、それは引き継がれるべきものだ」と。

一座で黒騎士を演じてたモーガンは、ビリーに代わり王の座を欲したが、人望がなかった。モーガンは一座を去り、芸能プロダクションと契約する。ビリーとは親友の間柄でもあったアランも袂も分かっていった。
ビリーは新しい巡業の地に設営の許可を取り、しばらくそこに留まることにした。仲間たちが戻ってくることを信じたのだ。
モーガンは芸能の世界の不毛ぶりをすぐに目の当たりにして、失望していた。アランたちも、一座を出たものの、言い知れない物足りなさに包まれていた。

ある朝、公演の準備をしてると、バイクの轟音が響いてきた。出て行った仲間たちが戻ってきたのだ。
ショウはいつも以上の昂奮に包まれた。そして、ショウが終わりに近づいたその時、黒い鳥を模った鎧を身につけたバイカーが、ビリーの前に現れた。
ビリーは一騎打ちに臨む。激しい攻防に一座が息を呑む中、ビリーは黒い鳥をバイクから打ち落とす。
仮面を剥がすと、町で一座のパレードをじっと見つめていたネイティブ・アメリカンの若者だった。
その勇気ある戦いぶりを認めたビリーは、川面でひざまずく若者の肩に剣を掲げ、一座の騎士として認めた。
そしてモーガンに王冠を譲って、一座を去ることにした。

鉄兜を被り、バイクで平原の道を行くビリーの後ろには、騎士になったばかりの若者が、バイクで付き従っていた。

町のダイナーに立ち寄ると、あの賄賂の警官が食事をとっていた。ビリーはおもむろに殴りかかり、ピストルを奪うと、から揚げの油の中に落とす。ボッコボコに殴りつけてると、周りの客からも歓声が上がった。
ダイナーを出て、なおもバイクを走らせる。着いた先は小学校だった。巡業先でサインをねだった子供が通ってる教室を訪ねる。あの時、子供が手にしてたバイク雑誌の記事が、自分の意図に反すると、サインを拒否したのだ。

騎士の格好のビリーは、子供に黙って剣を手渡した。
これでやるべきことはやった。
ビリーは若者を付き従えて、また走り始めた。
一直線の道を走るうちに、草原を馬で駆ける騎士の姿が、ビリーの脳裡に浮かんでいた。
次の瞬間、トラックがビリーのバイクを粉々に破壊して、後ろを走る若者のバイクのそばで停まった。


この映画の前年1980年には、クリント・イーストウッドが監督・主演で
『ブロンコ・ビリー』を撮ってる。
ルイジアナ州をやはり巡業して回る「ワイルド・ウエスト・ショー」の一座の物語だった。
この映画のエド・ハリスが、中世の騎士道に取り憑かれ気味なのと、ちょっと似た意味で、『ブロンコ・ビリー』の座長イーストウッドも、自分が西部の時代に生きてるとカン違いしてるような面があった。ヤケを起こして列車強盗を企てる場面があるんだが、線路を来るのは、ゆったり走る蒸気機関車などじゃなく、猛スピードのアムトラックが、あっという間に通過してくというオチがあった。

もう1本「ジュースティング」を行う騎士の話といえば、2001年にヒース・レジャーが主演した『ロック・ユー!』がある。この『ナイトライダーズ』は、中世の騎士道を現代に再現するような話だが、『ロック・ユー!』は舞台は中世で、劇中に流れるクイーンやデヴィッド・ボウイの楽曲に「中世」の住人たちが踊ったりするという、現代を放り込むという遊びを試みた快作だった。


この映画はエド・ハリスの初主演作となるんだが、その他のキャストはほぼ無名。というより『ゾンビ』など、ロメロ映画で馴染みの顔ぶれが並んでる。トム・サビーニは黒騎士モーガンを演じていて、彼の出演キャリアの中じゃ、一番カッコいいと思う。
ロメロ映画の諸作に倣って、この映画もホームグラウンドのピッツバーグを拠点にロケされてる。緑豊かなロケーションが、中世の装いにもマッチしてるし、ホラーのホの字も見当たらない人間ドラマに仕上がってる。
結末にはアメリカン・ニュー・シネマの残り香を嗅ぐ感じもあった。


字幕の翻訳間違いがあった。ビリーがサインを拒否した子供の持ってた雑誌が「バイカー」雑誌で、イーヴェル・ニーヴェルが出てるものだった。

イーブル・ニーヴェル.jpg

翻訳では「こんな悪魔崇拝とは関係ない」とビリーは言うんだが、イーヴェル・ニーヴェルとは、1970年代に派手なバイク・スタントのショウで全米を湧かせたスタントマンの名だ。
映画『ビバ・ニーベル』に本人が主演してる。
翻訳者が彼のことを知らずに「イーヴェル」を「イーブル」と思い「悪魔崇拝」と訳してしまったんだろう。
ビリーとしては「ニーヴェルみたいな見世物スタントとは違うんだ」と言うのが本来の訳だ。

2012年3月5日

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ロバート・パティンソン、サーカスへ [映画カ行]

『恋人たちのパレード』

恋人たちのパレード.jpg

数日前の『人生はビギナーズ』のコメントで、最近の邦題に関して、ひとくさりしたんだが、この邦題もなあ。別に日本語としておかしくはないが、どういう映画なのか、全然ピンとこないよな。

1930年代、大恐慌下のアメリカを巡業する、移動サーカスを舞台にしたドラマで、小説および映画の原題は『サーカス象に水を』だ。
象に乗って街中をパレードする場面は確かにあるが、重要な場面ではない。
配給会社としちゃロバート・パティンソン主演のラブストーリーを強調して、主人公がサーカスの一団に入るなんて要素は、むしろマイナスと思ってるんだろ。だけどな、そうやって宣伝打って、シネマート新宿の1000円鑑賞デーにも係らず、客はパラパラとしか居なかったぞ。その後に見た『ゾンビアス』の方が、3割増し位は入ってた。

「物語」として、オーソドクスだけど、きちんと作られていて、むしろそういう映画の内容を、はっきり伝えられるような邦題なり、宣伝方針で臨むべきなんじゃないか。
じゃあ、どんな題名がいいんだよ?と言われても困るんだが。『僕と彼女と旅するサーカス』とか、そんな凡庸なモンしか浮かばない。いっそパティンソンだったら、便乗して『トワイライト・サーカス』ってのはどうだ?

冒頭、現代のサーカス小屋の前に一人の老人が現れる。振り向いたその顔を見て
「おお、ハル・ホルブルックだあ」
と、もうそこから映画に引き込まれた。この人は今年で87才になる。2007年の『イントゥ・ザ・ワイルド』で助演男優賞を受賞してれば、その時点でオスカー最年長記録を更新できてたんだが。
俺のような「70年代組」にとっては、『ダーティ・ハリー2』『カプリコン1』『密殺集団』などの、一筋縄でいかない権力側キャラで馴染みの役者なのだ。
この老人がサーカス小屋の事務所に招かれ、若い団員が持ってた昔の写真、象に乗った美女を目にして、感極まり、訥々と昔語りを始めるいう導入部。
ハル・ホルブルックの老人が、若き日のロバート・パティンソンなわけだが、「歳とったら、こういう顔になるかもな」と違和感ないね。


1930年代、ポーランド移民の両親を持つジェイコブは、親に学費を工面してもらい、コーネル大学で獣医を目指し、勉強していた。だが卒業間近で、両親が事故死。銀行の人間から家が抵当に入ってたことを告げられる。
父親も医者だっだが、治療費を払えない患者も診察を拒まなかった。家を抵当に入れたのは、ジェイコブの学費を捻出するためだった。銀行の人間は
「この恐慌の時代に、君の父親の行為は無責任だ」と言い放つ。

家を明け渡し、卒業もできず、ジェイコブは町へと職探しに出るが、仕事にありつけるご時勢ではない。線路脇の川に、歩き疲れた足をつけてると、汽車がやってくる。ジェイコブは衝動的に貨物車輌に飛び乗ったが、すぐに数人の男たちに捕まってしまう。
その汽車は「ベンジーニ・ブラザース」という移動サーカスが所有する汽車だったのだ。
年配のキャメルは、ジェイコブの「訛り」から、同じポーランド系と見抜き、相好を崩す。次にサーカスを催す場所で1日働いて、へこたれなければ雇ってやると。

夜明けに汽車は、広大な平原に停車した。手馴れた様子で、サーカスの巨大テントを設営してく男たち。猛獣たちの檻も下ろされる。
ジェイコブは白い馬に連れ添う、金髪の美女に目を奪われる。キャメルから
「彼女には話しかけるな」と釘を刺される。
サーカスは無事終わり、次の巡業地へ。その車中でジェイコブは、団長への挨拶に特別車輌に連れてこられる。団長はオーガストという、小柄で慇懃な感じの男だった。
ジェイコブはつい口数が多くなり、オーガストは
「次の場所で追い出せ」と背を向ける。ジェイコブは
「あの白い馬はあと4日もすれば歩けなくなるぞ!」
と、つい口走る。獣医を目指してたジェイコブの見立てだった。
このサーカスにおいて独裁者のように振舞うオーガストは、若者の臆することない態度が気に入った。
「いいものを見せてやる」
オーガストはジェイコブを走る汽車の屋根に連れて行く。月光に照らされた大地と山々の美しさに、ジェイコブは魅了される。
「あの馬は一番の出し物だ。脚を治せたらここに置いてやる」

その白い馬に乗り曲芸をするマーリーンは、団長オーガストの妻だった。
ジェイコブは馬の脚を見て顔を曇らせた。ヒズメからばい菌が入り、痛みを取り除く術はない。ジェイコブはマーリーンを説得し、銃で安楽死させてしまう。それはすぐに団長の耳に入り、走る汽車から突き落とされる寸前となる。だがそうはされず、オーガストは恐怖で顔を歪ませるジェイコブに言う。

「ここでは俺が掟だ。お前を突き落とさなかったのは、あの馬の死体が、
ライオンたちの餌として何日か都合できるからだ」

大恐慌時代、移動サーカスの経営も楽ではなかった。他所で廃業したサーカスがあると聞けば、その団員たちを安い給料で雇い入れる。餌代が捻出できないと、ライオンにも腐った魚などを与えて凌ぐ。
大学に通い、世間を知らないジェイコブには、初めて知る厳しい現実がそこにあった。

オーガストは白い馬にかわるメインの出し物として、年老いた巨象ロージーを大金で買い入れた。そしてその調教をジェイコブにやらせるという。象には舐められないように、鋭いフックのついた棒で調教を行えと。
だがロージーは人間に慣れており、ジェイコブやマーリーンにも、すぐに心を許してるようだった。水よりも酒を好んだ。
象とマーリーンの曲芸デビューの日、団長のオーガストは演技の最中に、コントロールするため、フックを何度もロージーの皮膚に突き立てた。象は背中に乗ったマーリーンを振り落とし、満員の観客の前から脱走してしまう。

町の八百屋で野菜を失敬してる所を、ジェイコブとキャメルが見つけ、連れ帰るが、激高したオーガストは、ロージーが倒れ込むほどの折檻を加える。
ジェイコブとマーリーンはその晩、ずっとロージーに付き添っていた。サーカスに不意に現れた若者と、団長の若く美しい妻は、互いに惹かれあうようになっていく。

団長の部屋では、オーガストが頭を抱えていた。マーリーンが口を聞いてくれない。だが自分もこのサーカスを運営してくプレッシャーがきついのだと。ショーが流行らなければ、団員を食わせることもできない。
独裁者然と振舞うオーガストの複雑な人間性に、ジェイコブは翻弄されるばかりだった。

ジェイコブは傷が癒えつつある象のロージーに、何気なくポーランド語で話しかけると、ロージーはすぐさま反応を示した。ロージーは元々ポーランド人に調教を受けてたらしい。ジェイコブはそのことをオーガストに伝え、ポーランド語の命令通りに動くことがわかると、オーガストは歓喜した。これでショーは成功すると。
ジェイコブは晴れて「ベンジーニ・ブラザース」の家族に迎え入れられることとなった。
だが猜疑心の強いオーガストは、自分の妻とジェイコブの間に何かあるのではないか?と思い始めていた。


ロバート・パティンソンは、サーカス一座に紛れ込んだ「大学出のぼっちゃん」という、異分子の風情に合ってて、父親の血を継いだ優しい性分の若者をストレートに演じてていい。
彼が恋するマーリーンを演じるのはリース・ウィザースプーンなんだが、サーカスの花形ということで、体をスリムに保たなきゃならなかったんだろうが、ちょっと痩せすぎだね。顔とか、骨に皮が張り付いた感じで、柔らか味がない。

映画の終盤は、団長と妻とジェイコブの三角関係のもつれみたいな話になっちゃって、そこはありきたりで残念だったが、演技の見せ場を作ってるのは団長を演じるクリストフ・ヴァルツだろう。
『イングロリアス・バスターズ』でブレイクして以降の作品では、今回のが一番いいと思う。
仇役のようなポジションではあるが、悪い人間とは言い切れない。職もないような恐慌下で、多くの団員を抱えて巡業を続ける経営者なのだから、綺麗ごとだけではやっていけないだろう。だが用なしとなった人間を走る汽車から突き落とすってのは酷いけどな。
ジェイコブを翻弄する多面性を表情の端々に滲ませて、その演技には見応えがある。

出番は多くないが、ジェイコブを引き立てる老団員キャメルを演じるジム・ノートンもよかった。アイルランドの役者で、今年74才になる。声が低くていいんだよね。
それから『アーティスト』で、「金の首輪賞」を受賞した名犬アギーが、この映画でもサーカス一座の団員に飼われてる犬として出てる。
『人生はビギナーズ』もそうだったが、ジャックラッセルテリアというのは、特に頭がいいのかね。今後ペットとしてブームになりそうだが。

恋人たちのロケーション.jpg

緑の平原にサーカスを設営する場面とか、美しい絵柄が楽しめるのは、ジャック・フィスクがロケーションを含めた「絵作り」に貢献してるからだろう。
この人は『地獄の逃避行』以降、ほとんどのテレンス・マリック作品でプロダクション・デザインを担当してきてる。
アメリカの中西部から北西部の風景の、ノスタルジックな美しさを知り尽くしてる人だ。

考えて見ると、昔は『地上最大のショウ』とか『空中ブランコ』とか、サーカスを題材にしたアメリカ映画があったけど、近年は思い浮かばない。
移動サーカスというと、どうもヨーロッパの文化という感じがあって、例えばフランスなら『ロザリンとライオン』とか、『橋の上の娘』とか、イギリスでも2005年の東京国際映画祭のコンペに出品された『バイ・バイ・ブラックバード』があったし、スペインでは昨年の「ラテンビート映画祭」で上映された「THE LAST CIRCUS」が、この映画と同じように、団長の女房に惚れてまう主人公の話だった。まああっちはアレックス・デ・ラ・イグレシア監督の毒素充満な世界だったが。

でもって邦題の話に戻るが、内容が団長の女房と駆け落ちしようって話だから、「恋人たちの…」と大手を振って言うのもどうかと思うが。
今までSF・ホラー分野の作品を作り続けてたフランシス・ローレンス監督が、こういうケレン味を抑えた「物語」映画を撮ったのは意外だったが、ハル・ホルブルックに最初と最後を託す演出も、しみじみといいんだよな。
都内1館の上映は淋しいね。

2012年3月4日

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「ウンデッド」ってなんなのだ? [映画サ行]

『ゾンビアス』

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ゾンビも今や本家ロメロから「暖簾分け」するように、いろんなバリエーションが登場し、世界に蔓延してるわけだが、「スカゾンビ」(ウンデッドとも呼ぶらしいが)というのは誰もやってないね、さすがに。
スカと言ってもスペシャルズとかの方じゃないよ、「スカッ」として「トロッ」としてる方だよ。

女子高生の恵は、同じ高校に通う妹が女子トイレでいじめに遭ってるのを目撃する。いじめっ子たちは、なぜか瓶に入った巨大なゴキブリを持っており、妹に食わせようとしてる。止めに入ると、
「あんた、いつもお高くとまっててウザいんだよ。
止めてほしけりゃ、みんなの前でオナラしてみろよ」
と言われるが、恥ずかしくて出来ない。そんな姉を見て妹は
「お姉ちゃんはオナラなんかしちゃダメ!」
と、かわりに思いっきりオナラをすると、そのままトイレを駆け出し、体育館の2階から飛び降りて死ぬ。
「私が恥ずかしがったばかりに、プライドを捨てられなかったばかりに…」
恵には妹の死がトラウマとなった。

そんな恵を、先輩の亜矢が気分転換にとキャンプに誘った。亜矢の恋人のタケが運転するワンボックスには、他にモデル志望の乳だけはデカい真希と、虫に詳しい直井が乗ってた。真希は余分な肉を落とすために、寄生虫ダイエットを試みようとしていて、天然の鱒に寄生してるというサナダムシを探しにきたのだ。
そして川で鱒が跳ねるのを見つけると、真希は自分を差し置いて、恵が見事な網さばきで捕らえてしまうのにムカつく。恵は妹の死後、自分が強くならねばと、日夜空手の鍛錬に勤しんでたのだ。
虫に詳しい直井が鱒をさばくと、中から巨大なサナダムシが。
「えっ、こんなにデカかったっけ?」
と思う暇もなく
「貸しなさいよ!」と真希はそれを丸呑みしてしまう。

そんな一行の耳に「コラあ!」と言う声が。森の中からヨロヨロと出てきた男に
「やばい!鱒の漁の解禁日を守らなかったと通報されるかも」
と直井。運転中から薬をキメてたタケは男に「文句あんのか!」と詰め寄ると、いきなり指を噛みちぎられる。
さらに襲いかかる男に、恵はハイキックを一閃。直井は
「クビが変な感じに折れてるぅー!」
と絶叫する。男はなんだったのか?
そんな騒ぎの間に、何者かがワンボックスを奪って逃走。

5人はタケの怪我の治療のために、地図を頼りに近くの村を探す。だが先程ムシを呑み込んだ真希は強烈な腹痛に見舞われ始めた。オナラが止まらない。
すると目の前に小さな集落が。真希はオナラしながら、前屈みで「便所」と書かれた扉を開ける。
そこは今やほとんど見かけなくなった「汲み取り式」だった。
「こんな所でしたくねえ!」
と言いつつも、腹痛に耐え切れず、パンツを下ろしてしゃがみ込む真希。

出るはずのものが中々でないで呻いてる真希の、まさに真下から何かが浮かび上がってきた!
糞尿の中から男の顔が突き出し、その伸ばされた両腕が、真希の尻の肉を鷲掴みにする。
絶叫とともに、便所から逃げ出てくる真希。それを目撃した恵たちの前に、さらなる驚愕の光景が。
依然腹痛が治まらず、危うい足取りで逃げてくる真希の背後から、ゾンビの群れが這い出てきた。
先頭切ってるのは便所にいた糞尿まみれのヤツだった。
真希が捕まりそうだ。だが恵には勇気が出せなかった。糞尿まみれが何か投げてくる。
直井が叫んだ。
「ウンコ投げつけてくるうー!」

とまあ、いつものように淡々とあらずじを打ち込んでますがね、こんな調子ですよ全編。

実はその集落にはマッドサイエンティストがいて、白血病の娘の治療に、謎の寄生虫が劇的な効果を上げることを発見する。その寄生虫は人間を宿主にすると、最後には脳を支配してしまうが、なぜかその娘の脳は侵されなかった。父親は
「これは寄生虫との契約関係なのだ」
と、娘の代わりに、宿主となる人間たちを、提供してきたのだ。
優しい医者だと思い、助けを求めた恵たちは、振舞われたパスタを食べてしまうが、その中には寄生虫のエキスがふんだんに振りかけられており、全員はやがて腹痛とオナラと寄生虫とゾンビの地獄絵図に放り込まれていくのであった。

振り返ってみると「スカゾンビ」はあの便所の1体だけだったな。もっとわさわさ出てきて、ヒロインたちが糞尿まみれにさせられるのかと思ったが。
ウンコねたはそこそこで、あとはひたすらオナラだった。美女がプウプウとオナラしながら身悶えるっていうのを撮りたかったんだね。
寄生されたゾンビたちが、尻から寄生虫突き出して、後ろ向きに襲ってくるとか、宿主となった真希が、長い触手を伸ばして亜矢を縛り上げるとか、このへんはゾンビというより『うろつき童子』入ってる。
あの妹のゴキブリの一件以来、ムシがトラウマで、寄生虫にも腰が引けてた恵が、それを克服するための戦いに身を投じるのが後半の展開。


この映画に出てくる女優たちは一人も知らなかったが、けっこう見せちゃってるね。
ヒロインの恵を演じる中村有沙は子供番組『天才てれびくん』の子役出身だそうだが、俺は「ピンポンパン」世代だから、その番組は見たことない。
だが満島ひかりばりの「パンモロ」ハイキックはもとより、おっぱいも見せちゃってるのは、彼女を知ってる人には衝撃なのか。その微乳ぶりも「見ていいのかな」という妙な背徳感に苛まれるな。

真希を演じた護あさなはグラビア出身だそうだが、熱演ぶりは随一だね。汲み取り便所で、お尻丸出しでしゃがんでイキむという、こんな場面演じた女優もいないだろ。

恋人タケが寄生された末に頭爆発して死んでしまい、シャワー浴びながら泣いてる亜矢を、恵が慰めに行く場面。なぜか恵も全裸になって、ふたりで抱き合って泣くんだが、必然性がない。
井口昇監督がレズっぽい場面を入れたいというそれだけの理由だろう。
井口監督は元々AVをやってて、俺も昔はこの人のSODとかシネマジックから出てたレズ物を何本か見てる。
「スカ」要素の入ったものは敬遠した。

映画を撮り始めてからのものは、「女ふたり」ジャンルのインディーズ作品『クルシメさん』が面白かったね。矢崎仁司監督の、伝説のレズ映画『風たちの午後』のような肌合いだった。
2006年にはレズの聖典ともいえる谷崎の『卍(まんじ)』の映画化に挑んでるが、これは期待はずれだった。
井口監督にしてはキレイすぎる。
『卍(まんじ)』は4回映像化されてるが、1997年の坂上香織が出たVシネ版にも、エロさの面で負けてたと思う。

昨年の「ラテンビート映画祭」で見た、スペインのコメディ『トレンテ4』もたいがい
「オナラとキン●マとオッパイ」
だけで構成されたような映画だったが、日本も負けてない。
とにかく井口昇という監督は、自分の妄想に忠実な映画を作ろうとしてる、その部分において、フェリーニとかと同じ枠に入る人だと思う。

まあしかし「ひなまつり」の日にこんなもんの投稿するのも、申し訳ないというか…。

2012年3月3日

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