押し入れからビデオ⑱『メルビンとハワード』 [押し入れからビデオ]

『メルビンとハワード』

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このブログでは『アメリカン・グラフィティ』組から、リチャード・ドレイファス主演作『この生命(いのち)誰のもの』と『ボーイ・ワンダーの孤独』を、「押し入れ」でコメントし、数日前にはチャールズ・マーティン・スミスの監督作『イルカと少年』にもコメント入れた。

今回は『アメグラ』のイケメン担当だったポール・ル・マットの主演作について書こうと思う。

前に『レイチェルの結婚』のコメントの中でも少し触れたが、
この『メルビンとハワード』は、ジョナサン・デミ監督の1980年の日本未公開作。WOWOWで以前放映されたのを録画したものだ。


ポール・ル・マット演じるメルビンは、ネヴァダ州の砂漠の町で、マグネシウム工場に勤務してる、妻子持ち。ハワードとは、大富豪ハワード・ヒューズのことだ。
題名からイメージすると、この二人の係わり合いを軸に描いてくものと思うが、ハワード・ヒューズが出てくるのは最初だけだ。
演じてるのはジェイソン・ロバーツで、もうかなり年をとってる。

その老人ヒューズが、砂漠をひとりバイクで疾走してる。
だがハンドルを誤って転倒、通りかかったメルヴィンの車に助けられた。
砂まみれの汚い老人に、メルビンは「寒いから着とけよ」と自分のジャンパーをかけてやる。

助手席の老人は、医者に連れてくと言っても拒否。
「どこに行きたいんだ?」
「ラス・ヴェガスまで頼む」
またべらぼうに遠いぞ。メルビンの住む場所からは、カジノの町ならリノの方がよっぽど近い。
だがメルビンは人が善いのか、老人の頼み通りにヴェガスへ向かうことに。

無愛想な老人に、メルビンは勝手に話しかけた。
「いろいろ働いてるんだが、向いてる仕事がないんだ」
「ボーイングとか、ヒューズとかの航空会社も受けたんだけどな」
「どうだった?」
「不採用だよ」
「そりゃあ残念だ」
「あんたが残念がることじゃない」
「そうでもないぞ」
「わしはハワード・ヒューズだ」
だがメルビンは呆れた顔で
「誰でも大富豪を名乗るのは自由だよ」

道中は長かった。歌は得意なメルビンは、老人が聞きたくないと言ってるのに、かまわず自作のクリスマスソングを披露する。
「サンタの改造ソリ」という歌を
「ほら、あんたも」と無理矢理ハモらせる。
「あんたもなにか知ってる歌があるだろ?」
老人はしつこさに根負けして「バイバイ・ブラックバード」を歌い出す。

「悩みをカバンにつめて、低く歌いながら旅立つ」
「きっと優しい誰かが、どこかで俺を待ってる」
「誰も愛してくれない、わかってくれない」
「辛いことばかりが、降りかかってくる」
「だからベッドを整え、ライトを灯して」
「今夜は遅くまで帰らない」
「ブラックバードに別れを告げよう」

夜通し走って、ヴェガスに着くと、適当な場所で停めろという。
降り際に老人は「金あるか?」
善意でヴェガスまで乗っけて、金までせびるかと思うが、メルビンは人が善いのか、ポケットの中の有り金を渡す。
老人はもう無愛想ではなく、幾分笑顔で、車の外からメルビンを眺めてる。
「気をつけなよ」メルビンは言い残すと車を出した。
ハワード・ヒューズが出てくるのはこの場面までだ。

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メルビンが、自宅のモーターハウスに戻ると、妻のリンダは娘のダーシーを連れて出てくという。
男が車で待っていた。
「じゃあね!パパ」
あっけらかんとした娘の声とともに、妻と娘はリノへと立ち去った。

だがリノに着いた途端、リンダは男とケンカ別れする。
リノで職を見つけるというリンダに、娘のダーシーは
「パパのもとに帰りたい」と。
リンダは娘をバスに乗せて見送った。
リンダを演じるのは、この映画でアカデミー助演女優賞を受賞したメアリー・スティーンバーゲンだ。

娘が戻ってきてホッとするが、やはりリンダのことが気にかかる。
マイケル・J・ポラード演じる、マグネシウム工場の同僚リトル・レッドが、週末に妻に会いにサンフランシスコまで行くというので、メルビンは「リノまで乗せてってくれ」と頼む。
リンダの滞在してる宿は知ってたのだ。
勘が働いたのか、リノのストリップ・クラブを覗くと、案の定リンダが踊ってた。

メルビンの御人好しぶりは最初の方で描かれてたが、妻のリンダも屈託がないというのか、踊ってる最中に、自分の亭主が
「そこを降りろ!」って言ってるのに
「あと10分待って!」とか答えてるし。
メルビンが従業員と揉めはじめ、経営者に
「こういうの困るんだよ」
「そうよね、私辞めます」ってあっさり。
「みんな頑張ってね」とか言いながら店を出てく。

別の晩にまたリノを訪れると、ちがう店で際どい格好でウェイトレスをやってる。
リンダは離婚を求めていて、メルビンは離婚届けを持ってきたのだ。
だが娘のダーシーは手元に置くと言われ、リンダはカッとなる。夫婦喧嘩に経営者が
「こういうの困るんだよ」
「そうよね、私辞めます」

結局、半年後に離婚は成立、リンダはアナハイムにある母親の家に移っていた。
「娘の声が聞きたい」と電話してきたリンダに
「妊娠してるだろ」
言葉通り、リンダのお腹は大きい。
「ダーシーに会いたければヴェガスへ来いよ」
「なんで?」
「もう一度結婚しよう」
離婚成立から日も経ってないのに、二人はヴェガスで再婚。
ヴェガスはごく簡素な手続きで、結婚式が挙げられるのだ。
式には同僚のリトル・レッドも参列した。


一家はカリフォルニア州グレンデールに引っ越した。
メルビンは牛乳配達業者に勤め、その配達範囲でトップの成績を収めていた。
二人目の子供が産まれ、家も手狭になってきた。

メルビンには自分でも特殊な才能と思うものがあった。
テレビの懸賞番組を見てて、必ず一番高い賞品の番号を当てられるのだ。
収録に応募し、リンダに出てもらうことにした。
舞台で特技を披露し、観客の支持を集めれば、賞品の当たるクジを引ける。

リンダはリノで覚えたのか、タップダンスを披露し、観客の喝采を浴びる。
メルビンは客席からクジの番号を叫んだが、リンダはちがう番号を宣言。
それが1万3千ドル相当の賞品となった。

それを元手に念願の一軒家を手に入れる。
だが新居に越して早々に、メルビンはモーターボートを買ってくる。
「なんであるだけ使っちゃうの?」
リンダはまたも愛想を尽かして、子供二人を連れて出て行く。


残されたメルビンは、牛乳配達業者の同僚ボニーと懇意になる。
ボニーはモルモン教徒の独身女性で、ユタの油田を従兄が手放すといい、一緒に暮らさないかと持ち掛ける。

数年後ユタ州のグレート・ソルトレイクで、メルビンはボニーの兄弟たちとともに、ガソリンスタンドを営んでいた。

テレビでは大富豪ハワード・ヒューズの死を報じてる。
「そういや前に車で拾ってやった」
「ヒューズだって言ってたけど、似てないな」

ほどなくして、スタンドに黒いスーツを着た男が現れ、キャメルをくれと言った。
メルビンが「少々お待ちを」とカウンターを離れると、男は封筒を置いて立ち去った。

封筒の表には「遺言状 ハワード・ヒューズ」とあった。
中身を確かめると、なぜかそれを持って、モルモン教本部のビルへと向かった。
オフィスに人がいないのを確かめると、信者向けの郵送物の中に、遺言状の封筒を紛れこませた。
メルビンは何か不安に駆られて、そんなことをしてしまったのだ。

だが自宅にはすぐに連絡が入り、ボニーがその電話を受けた。
メルビンがハワード・ヒューズの遺産を受け取る16人に選ばれているというものだった。
金額にして1億5千6百万ドルという、途方もない額だった。


一躍時の人となり、マスコミがユタの地味な町に押しかけた。
メルビンは、ハワード・ヒューズを車に乗せた時のことを、ありのままに話した。
だが遺言状は偽造されたものだとか、やっかみとも非難ともつかない声が、国中に巻き起こっていた。

ボニーが嬉しかったのは、メルビンを知る人間たちは、取材に応じて、誰も悪く言わなかった。
その人柄は、つきあった者ならわかるのだ。

遺言状の真偽を巡る裁判の場でも、公正なはずの判事までもが、メルビンに疑いの目を向けていた。
そんなシンデレラ・ストーリーなど現実にあり得ない。
それはもはや嫉妬でしかなかった。
筆跡鑑定においては、それが唯一の遺言状であることが認められた。

だがヒューズの親族側は当然控訴してくるし、これから先、裁判費用など、いくらかかるかわからない。金を作っておかないとと言う、ボニーの従兄に、

「もういいんだよ」
「そんな遺産が転がりこむなんて、もともと思っちゃいない」
「ハワードは俺の歌を唄ってくれた」
「それだけでいいんだ」

1978年、上位栽は遺言状を無効と断定。
正式な遺言状は見つかってないという。


「アメリカン・ドリームをつかみそこねた男」の話と捉えもできるが、不思議と後味は苦くない。

それはメルビンとリンダという、夫婦のあり方がなんだか面白いからだ。
くっついたり、離れたりしながら、さすらってるように見える。
夫婦でさすらうんじゃなく、互いが相手の周りを衛星のように回ってるような感じなのだ。


実話を元にした脚本を書いたのは『カッコーの巣の上で』『ローズ』と、この時期秀作を連発させてたボー・ゴールドマン。

メアリー・スティーンバーゲン演じるリンダの人物造形がユニークだ。
リンダは、元夫が莫大な遺産を手にするかも知れないとわかっても、物欲しげにするでもない。
なにかに執着するということがないんだね。
そのさっぱりしてるのか、一風変わってるのか、その微妙な線をメアリーが表現してる。

ポール・ル・マットは『アメリカン・グラフィティ』ではリーゼントで、ジェームズ・ディーン風にキメてたが、地は垢抜けない部分があり、この映画では「田舎町の素朴な兄ちゃん」のキャラに合ってた。
ジェイソン・ロバーツはさすがの渋さだ。

2012年9月3日

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兄弟喧嘩は家でやれ、ソーとロキ [映画ア行]

『アベンジャーズ』

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今更ここで書くまでもないが、もしこれから見に行くという人がいれば、声を大にして言っとくが
「エンドロールの途中で席を立たないように!」

俺も今までいろんな映画で、エンドロール明けの「おまけショット」を見て来たが、こんな最高なのはなかった。もし『アベンジャーズ』をもう見たという人で、エンドロール途中で出てしまったとすれば、それは痛恨のミスである。

俺はアメコミ系のファンというわけじゃないが、こういう「チームもの」は好きなのだ。
『X-MEN:ファースト・ジェネレーション』は2回見に行った。
この映画も、巷では「前半がたるい」と言われてるが、俺はこの一人づつ、見栄を切って登場してくるって感じが『七人の侍』パターンでテンション上がるんで、むしろ前半から楽しめた。

ヒーローたちがなんだかんだ言いながら、結束して、地球侵略を目論む悪の軍団と、ニューヨークで一大バトルを繰り広げる、言ってみればそれだけの話だ。

俺は『マイティ・ソー』を見てたが、あのソーとロキの兄弟の確執が、こんな大騒動の発端となってるんで、『マイティ・ソー』は見ておくといいと思う。


地球防衛本部みたいな「シールド」の基地を急襲し、地球を破壊する力を持つ「四次元キューブ」を奪い去ったのがロキ。
そのロキをドイツで、アイアンマンとキャプテン・アメリカとブラック・ウィドーの3人が、拘束に成功し、「空飛ぶ空母」ヘリキャリア船内にある、「シールド本部」に連行するわけだ。

その輸送機の中で、雷鳴を聞いたロキの顔色が変わる。
「雷が怖いのか?」
「鳴った後が問題なんだよ」
次の瞬間、衝撃とともにソーが飛来し、「家族の問題なんで」って感じで、開いた輸送機を扉から、
ロキを抱えて連れ去ってしまう。
みんな「えっ?」
このソーの登場場面がウケた。

キャストとしては、このロキを演じたトム・ヒドルストンが儲け役だ。
なにしろ並みいるヒーローたち相手に、ひとりで悪玉をしょって立ってるんだから。
ジャンルは全然ちがうが、今年春に公開された『ヘルプ 心がつながるストーリー』で、鼻持ちならない白人女を演じたブライス・ダラス=ハワードの、孤軍奮闘ぶりを思わせた。

神々の国アスガルドで、義兄のソーに、王位継承を阻まれたロキは、いわばその私怨から、ソーが守る地球をぶっ壊してやると気負ってるわけだ。
理由がそんなんだから、「シールド」のエージェント、クラークから
「お前には信念がない」と喝破される。

ハルクには「俺はお前みたいな野獣とちがって、高貴な身なん…」
と言い終わる前に「ベッタン!ベッタン!」やられてるし。
いやーロキ、いいよ。

相手が神だろうが何だろうが、どつき倒す「ハルク無双」ということがはっきりしたね、この映画で。

超人たちに混じって、普通の人間ブラック・ウィドーを演じるスカーレット・ヨハンソンの頑張りも目立った。もう途中から超人もどきの活躍し始めるのは笑った。


『X-MEN:ファースト・ジェネレーション』では敵方もキャラが立っていて、それぞれが得意の能力で、X-MENたちと渡り合うのが見応えあったが、この『アベンジャーズ』の場合は、ロキに率いられた軍団が、ただ物量で攻めてくるだけで、「顔」がないんで、そのあたりは「雌雄を決してる」感じが希薄で物足りない。
シリーズ化するんだろうから、次回はキャラの立った強敵を出してほしい。

まあしかしやっつけてもやっつけても、後から湧いてくるロキ軍団と戦い尽くしての、あの「おまけショット」である。
「そりゃ超人だって疲れるよな」という。

あのショットは何と言ってもロバート・ダウニー・Jrの表情だ。セリフはひと言もない。
あそこにはチーム全員が揃ってたが、ダウニー・Jrでなければ、あの表情は作れなかっただろう。
俺はずっと笑ってた。

欽ちゃんの仮装大賞でいえば、合格ラインまであと1点という所までランプが灯り、一拍おいてもう1点入った。そのくらい重みのある「追加点」となってるのだ。


有名キャラを一同に集めて活躍させれば、映画は大ヒットするかといえば、そんな保証はないことは、ショーン・コネリー主演の『リーグ・オブ・レジェンド』の大失敗が過去に物語ってる。

ショーン・コネリーといえば、奇しくも同名のスパイアクション『アベンジャーズ』もコケていて、この大作2本の興行的失敗が、俳優引退を決意させたとも言われてる。

こっちの『アベンジャーズ』はいい塩梅で各キャラを描きわけており、グラフィック・ノベル・ヒーローものに描かれがちな、葛藤とか宿命とか、そういう重たい部分をとっぱらって、笑いとばして大暴れさせてるのが、成功の要因かな。
「元気があってよろしい」というに尽きる。

昨日『プロメテウス』で長々と書きすぎたんで、今日はこの位で勘弁してやるって感じだが、最後にトリビアめいたネタを。

映画の中で、地上に落下したハルクを、倉庫の瓦礫の中で発見する老人を演じてるのが、
『パリ、テキサス』などの名優ハリー・ディーン・スタントン。
ニューヨークへの核ミサイル攻撃を命令する「お偉いさん」を演じて、モニター画面の中だけで登場するのがパワーズ・ブース。
この二人は1984年のジョン・ミリアス監督作『若き勇者たち』で脇役として共演してる。

その『若き勇者たち』はリメイク版が完成しており、その主演が「ソー」を演じるクリス・ヘムズワースなのだ。

2012年9月2日

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『エイリアン』からこんな小難しいことに [映画ハ行]

『プロメテウス』

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「人類の起源の謎に迫る」という触れ込みで客を呼ぼうということなんだが。
「人間はどこから来て、どこへ行くのか?」
というのは人類最大の命題でもあり、たびたび映画のテーマに掲げられてきてる。

俺としては『トータル・リコール』の時に、「本当の自分とかどーでもいい」と書いたのと同様に、
「人類がどっから来たか?」なんてことも、どーでもいい。
享楽主義者だから、今日に満足できてればそれでいい。
どーでもいいんだけど、SFは好きだし、リドリー・スコットの映画も、何を見せてくれるかという期待があるから、見に行くわけだ。

そして冒頭で、山海塾系の人が、黒酢みたいなもの飲んで、体がバラバラになって滝つぼから落ちて、DNAが千切れるみたいな描写を見るにつけ、
「これはそう大それたことを描いたもんではないな」と気分も軽くなる。


映画はその後、2089年の時代設定で、スコットランドのスカイ島の洞窟で、女性考古学者エリザベスが、3万5千年前の洞窟壁画を発見する場面を描く。
星を表したような球体がいくつか描かれ、それを指し示す者の姿も描かれている。

『エイリアン』にも出てきた企業「ウェイランド」社は、未知の惑星を探査する「プロメテウス」号の乗組員を招集していた。探査の意図を説明するためだ。
エリザベスは恋人でもあるホロウェイ博士とともに、画像の解説をした。

スカイ島の壁画と同じ球体を描いた壁画が、メソポタミアほか、世界各地の古代遺跡からすでに見つかっている。
これは「サイン」であり、人類の創造主から送られた「招待状」ではないか。
エリザベスは創造主のことを「エンジニア」と呼んだ。
壁画に描かれた球体の配列から、該当しそうな惑星をはじき出していた。


『エイリアン』でも、貨物船ノストロモ号が、ある惑星からの信号を、「救難信号」と思い、その惑星に向かったことで災難に合うのだが、今回も似たようなとっかかりだ。

「好奇心が猫を殺す」ではないが、人間の好奇心や探究心というものが、自ら厄災を招くというのは、SFの分野ではよく見られる。
1995年の『スピーシーズ 種の起源』でも、20年前に宇宙に向けて発信した人類からのメッセージに、反応が返ってくる。
それはDNAの配列のようであり、そのDNAと人間のDNAを結合させる実験の末、生まれた子供が、人類侵略の先鋒となる内容だった。
そういえば『エイリアン』の船には猫も乗ってたな。


プロメテウス号は「LV223」と名づけられた惑星に接近する。
2年以上の眠りから覚めた17人のクルーは、土星のような輪のある、その惑星の、灰色で荒涼とした大地に降り立った。
滑走路のような直線がひかれた、その先には巨大なドーム状の遺跡が見える。
惑星の大地は宇宙服に身を包んでなければ、呼吸もできない環境だったが、遺跡の中は酸素が作られており、ヘルメットを脱いでも問題ないことがわかる。

探査隊の中に、ウェイランド総帥自らが「生みの親」である、人間型アンドロイド、デヴィッドがおり、遺跡の壁にあるスイッチに手を触れると、探査隊のメンバーたちの前に、ホログラムの映像が現れる。
この遺跡の住人たちが必死で逃げてる映像だ。その先を追うと、ミイラ化した遺体に遭遇した。
死後2000年ほど経ってると測定された。

デヴィッドがミイラが倒れてる扉を開けようとしてる。エリザベスの制止も遅く、なんで開け方がわかるのか知らないが、とにかくデヴィッドは扉を開けてしまう。
その空間には人間の顔そっくりな巨大な彫像があり、地面には無数の壺状の物体が並んでる。
扉で切断された遺体の頭部をエリザベスは持ち帰ることにする。
そしてデヴィッドは秘かに、その壺をバッグに忍ばせた。

猛烈な砂嵐の発生を警告され、探査隊はプロメテウス号に帰還。
だが生命体のミイラを見て、その先の探査は御免だと別れたはずの生物学者と地質学者のコンビは、まだ船に戻ってなかった。遺跡の中で迷子になってしまったのだ。


ここから先はほぼ『エイリアン』のような展開だった。
わからないのは、マイケル・ファスヴェンダー演じるアンドロイド、デヴィッドの行動だ。
初めて訪れる惑星の遺跡の、からくりめいた部分に対する知識がすでにあるような描かれ方だ。

デヴィッドは持ち帰った壺から採取した液体の一滴を指に採る。
「小さな事が大事に至る」
と呟いて、その一滴をホロウェイ博士の酒の中に落とす。その時に
「創造主を見つける旅の結果に待ち受ける答えを、受け止める覚悟はあるか?」
というような問いを投げかけてる。

ホロウェイはすぐに体に異変を感じる。
鏡で顔を凝視すると、眼球から尻尾が一瞬見える。


エリザベスはミイラの頭部を解剖していた。硬い表面はヘルメット状のもので、デヴィッドがそれを外すと、生命体は人間のような顔をしていた。
電気ショックを与えると頭部は爆発し、そのDNAを検査すると、驚くべき事実が判明した。
人間のDNAの型と完全に一致したのだ。

部屋を訪れたホロウェイに、エリザベスはその事実を告げる。
その生命体は人間のルーツなのか?
ではなぜそれが滅んでしまったのか?
謎に一歩踏み込んだ興奮が二人を包んでいた。二人はそのまま抱き合った。


明らかに何かに寄生されたホロウェイと、肉体的に結合したエリザベスの身に、何が起こるかは誰でも判る。このプロメテウス号には、「人工手術マシーン」というものが搭載されてる。
エリザベスは惑星に降りる前に、女性監督官ヴィッカーズに部屋に呼ばれ、その時に初めて目にしてるのだ。
カプセルに横たわると、あとは患者の指示に応じて、ロボットアームなどが、自在にオペしてくれる優れものだ。


ホロウェイの抱き合った、その10時間後に、早くも腹部に猛烈な違和感を感じたエリザベスは、
「人工手術マシーン」を必死に稼動させ、オペを要請する。
「帝王切開して!」
「手術は男性専用です」
「は?」みたいな。
「もう帝王切開じゃなくていいから、お腹痛いの何とかして!」
と半ギレ状態でカプセルに入って、腹部切開の指示を出す。
すでに腹が波打ってる。
局部麻酔で、真横にメスを入れ、丸い塊を取り出す。塊が弾けてイカみたいなものが暴れてる。
いまにもアームから外れそうだ。
エリザベス必死で縫合を指示。バチンバチンとホチキスみたいに止めてく。
「もうそれでいい!」って感じでカプセルを脱け出し、ヨロヨロと船内へ。誰か助けてやれよ。
腹かっさばいた直後にあれだけ動けるとか、もう根性でしかないな。

『ミレニアム ドラゴン・タトゥーの女』でリスベットを猛演したノオミ・ラパスを起用した意味がわかった。この場面がインパクトありすぎて、あとの場面が印象薄れてしまってる。


一応、創造主に関する見解めいたものは提示されてるが、「この世界を誰がどう作ったか?」というようなことは、ハリウッド映画においては、「キリスト教」的宗教観であり世界観がベースになっている。この映画の中でも、キーワードになるような聖書からの引用とか、そういう仄めかしがこめられてるのだろう。
そのキーワードを探り当てながら、映画のテーマを解釈するというのは、ミステリーの謎解きの、知的興奮があることはわかる。

この映画に限らず、ハリウッド映画にはしばしば聖書からの引用や、ギリシャ神話からのモチーフや、信仰をベースとした原罪を背景に持つ物語が作られる。
アメリカ映画を理解するには、聖書に関する知識は必須という意見もある。
たしかに聖書に書かれた記述を知っていれば、「ああなるほど」というSFやミステリーはあるだろう。

でもな、日本人にしてみたら、それを知った所で
「で、どうだというのだ?」という気分は否めない。

天地創造にしても、神の存在にしても、宇宙の創造主に関しても、キリスト教を信じる人たちがこしらえた話だろう。


ハリウッド映画でそういうことを描かれると、その捉え方こそがグローバル・スタンダードみたいになってるが、それはあんたたちが勝手に思ってることでしょ、と俺などは白けた気分になる。
そういうハリウッド映画に込められた暗喩であるとか、引用であるとか、それを解きほぐすことが、キリスト教に対する理解を深めることにつながる側面がある。

いや自分以外の背景を持つ人々に対して、理解を深めることは悪いことではない。
だけど相対的に、キリスト教への理解ばかりが深まるように仕向けられちゃってはないかな?
同じようにイスラム教への理解だって深まっていいはずだし、そもそも日本人にとっては一番身近といえる仏教の知識すら、実は満足に持ち合わせてないよね自分たち。

だから俺はこの映画が描く宗教的な背景などは放っぽっといて、勝手に解釈することにした。
映画自体がいろいろ謎を残しすぎてるというのか、どうにでも解釈してくれという風にも見えたんで。


俺は、この映画は「人類の起源」でも「エイリアンの起源」でもなく、あれは「核物質」のメタファーだと思った。「核」のメタファーなど、ありふれた解釈にすぎると普通なら自分でも思う。
だがこと、この『プロメテウス』の母体となる『エイリアン』というSFシリーズを顧みると、そう考えたくなってしまうのだ。

いま公開中の『ダークナイト・ライジング』にしても『アベンジャーズ』にしても、問題解決の手段に核物質(核兵器)が出てきてしまう。
『アルマゲドン』にしても『インディペンデンス・デイ』でもそうだった。

対して『エイリアン』シリーズでは核兵器の描写や言及がない。
つまり安易に使用すべきものではないという、SFクリエーターとしての「慎み」を感じるのだ。

アメリカ人は他所の国に核爆弾を投下しておきながら、そのおぞましい破壊力に関して、あまりにも想像力が欠けている。
『ダークナイト・ライジング』で、バットマンが核兵器をゴッサムシティ沖の海に投下して、事なきを得るような結末をつけてるが、事なきを得るはずないだろ。
町一つ滅ぼすような破壊力のある核兵器を海中で爆発させれば、海洋生物はほぼ死滅する。
ゴッサム市民は未来永劫、海産物は食えないぞ。

『プロメテウス』は一貫して灰色のトーンの映像で仕上げられてる。
惑星の不毛な大地も、その空も灰色だ。
核戦争後の死の灰に覆われたような世界だ。

惑星にある巨大なドーム状遺跡は、核施設にも見える。
あの無数に並べられた壺は、プルトニウムの燃料棒に見えるし、あの遺跡の中だけ酸素があり、天井から水が滴っている、その水は、燃料棒の冷却水に例えてみる。

エリザベスたち人間があの場所に足を踏み入れたことで、厄災がもたらされる。
触れてはならない「パンドラの箱」を開けてしまったのだ。
あのエイリアンの原型となるヌルヌル生命体は「放射能」ということだ。
夥しい量の放射能を浴びた人間が体に異変をきたす。

シャーリーズ・セロン演じる女性監督官ヴィッカーズが、生命体に寄生され変貌を遂げつつあるホロウェイを、船に乗せようとせず、火炎放射器を浴びせる場面は、放射能汚染された人間を見殺しにする「体制側」の姿勢を象徴してる。

エリザベスたちが、洞窟壁画から「メッセージ」を受け取って、惑星の遺跡に辿り着く過程は、人類が核エネルギーを発見する過程となる。

人間には好奇心や探究心というものが備わっており、最初に火を発見して、それを使いこなせるようになった人間が、核エネルギーを発見するのは必然だったのだ。

だが最初に発見した「火」の力に、依然として頼らなければ、文明を維持できないという人間が、「火力」に代わる革新的なエネルギーを発見し得てない人間が、「核」を扱う資格はまだないのだ。
使用済み核燃料の最終処分をどうするのか?
その問題も、例えばフィンランドでは10万年後まで見据えて、どう処分すべきかの議論がなされている。ゴミすらそれほど厄介なのだ。

あまりに安易に「核」を解決手段に使おうとする従来のハリウッド映画に対する、『プロメテウス』は一つの見識を示そうとしてる。
「核」はまだ人類が扱えるシロモノじゃないのだという。
日本人の俺はそんな風に解釈した。

2012年9月1日

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ドノヴァンの歌とテレンス・スタンプ [映画ヤ行]

『夜空に星のあるように』

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昭和の歌謡曲のような邦題がつけられてるが、ロマンティックな話とは言えない。
1967年のケン・ローチ監督のデビュー作。ケネス・ローチと表記されてる。

主人公で18才のジョイが赤ちゃんを産む場面で幕を開け、その子を腕に抱き、退院してまだ午前中の、淡い日差しのロンドンの街中を歩く。
そのバックにドノヴァンの歌が流れてる。

「責めないで、人生は短いのだから。」
「与えられるものなど何もない。」
「責めないで、金のために自分を売っても。」
「精一杯生きるしかないのだから。」
「責めないで、彼が嘘をついてたとしても。」
「時に心が石のようになっても。」
「責めないで、彼はじきに死ぬ。」
「何ひとつ学ぶこともなく。」
「責めないで、人生は短いのだから。」
「与えられるものなど何もない。」

この歌がこれから語られるジョイの生き方や、心情を先んじて表しているようだ。
ドノヴァンの歌声は寄り添うように優しいが、人生は苦いのだ。
ケン・ローチの視点はこのデビュー作から一貫してる。


ジョイはブロンドでゴージャスに見える美人だが、ワーキングクラスの生まれだ。
ロンドン下町の訛りがあり、上流階級にはコンプレックスを持ってる。
赤ちゃんの父親であるトムは、病院に迎えにも来ない。まともに働かず、泥棒で生計を立ててる。
またジョイもそのことを咎めるわけではない。

トムは「悪い仲間」を家に呼び、ジョイにも亭主風を吹かす。言い合いになると手も上げる。
そんな夫に嫌気が差してはいた。

トムは仲間とともに店を襲うが、その場で逮捕される。
一旦叔母の家に身を寄せることにしたジョイ。
叔母はもういい歳に見えるが、
「人生は楽しめるうちに」と、毎晩着飾って出かけていく。
初めての育児に追われるジョイだったが、トムの仲間で、唯一逃げおおせたデイヴと、つきあうようになってた。

デイヴはハンサムで、トムとちがって粗暴な所もなく、一緒にいると心が休まった。
だがデイヴも金はないので、二人はロンドンでも一番家賃が安い地区のアパートに部屋を借りる。

「オリヴァー・ツイスト」の時代から時が止まってるのかと思うような、貧民窟のような場所だ。
だが壁を塗り替えたり、柄物のカーテンをすればと、ジョイは前向きだ。


朝はデイヴが紅茶を入れてくれる。ギターをつまびいて、ジョイのために作った歌を聴かせる。
「僕の好きな色は、朝の黄色。君の髪が朝日に照らされる、美しい黄色」
素朴で他愛もない歌だが、ジョイには十分だった。

まだ小さなジョニーと3人でピクニックにも行った。
滝に打たれながら抱擁を交わした。
ジョイの人生で一番幸せな半年間は、あっという間に過ぎ去って行った。


デイヴが窃盗の際に、住人の老婆に怪我を負わせて、裁判で12年の禁固刑に処せられたのだ。
面会に行くと、4年で仮出所が認められるとデイヴは言った。
4年待てると約束し、手紙もマメに書いて出したが、ジョイ自身も子供を食べさせなければならない。
パブのウェイトレスの職は週給5ポンドだった。
ジョイはトムとの離婚申請のため、弁護士に会い、自分の境遇を話した。

同僚のウェイトレスから誘われ、撮影会のモデルでも稼いだ。
中年の男たちの舐めるような視線にポーズをつける。
パブの客とも、小遣いをもらってつきあうようになる。

ジョイは男がいないと駄目だった。
「人生は、男と子供と、住む家」
そんな風に思っていた。

パン屋の男は、早朝にパンを焼くと、余りを持ってジョイの家に来た。
金持ちの男もいた。
だが奥さんになれるとは思ってないし、上流階級の人間の中で、やっていける自信などない。

疲れ果ててベッドに倒れ込み、子供の面倒まで手が回らない。だが子供は日に日に成長してる。
ジョニーは同じアパートの女の子に手をひかれ、子供たちの遊びの輪に加わってる。


デイヴに面会に行くと、
「君が男と一緒に居るのを見た奴がいる」と言われる。
デイヴは塀で隔てられた場所で、猜疑心と嫉妬に苦しむ胸の内を率直にぶつけた。
「もし他に男がいるのなら、もう会いに来ないでほしい」

ジョイは息子のジョニーと二人で海水浴場に出かける。楽しそうな家族たち。
一方でボードウォークに並ぶ露店のそばには、老人たちがしどころなく、佇んでいる。

私とジョニーはふたりきり。
たまらない孤独感にジョイは見舞われてた。
面会の時デイヴが
「トムももうすぐ出所するはずだ」
という言葉も気になっていた。


その言葉通り、ジョイのアパートを出所したトムが訪れた。
離婚するつもりだとジョイは突き放すが、トムはヨリを戻したいと言った。
スーツを着て、身なりもきちんとしてた。
トムはきれいなアパートを見つけており、ジョイは再びトムと暮らすことになった。

トムの仲間の中でも高額の保釈金を払って、早くに釈放された者がいた。
「仲間に頼れなかったの?」ジョイの問いに
「人に金を貸す奴などいない。俺だって貸さない」
トムは友情などというものは信じてなかった。この世は金がすべてだと。

「警察官の制服を着てる奴で、賄賂を受け取らない奴は一人もいない」
「このアパートだって、金を包んだから借りれたんだ」

ジョイはデイヴとの暮らしの中で、「人生は愛だ」と感じてたが、トムにそんな思いはなかった。
ジョイに気がある管理人の元に、家賃を払いに行くが、
トムは「帰りが遅い」と責め立て、また手を上げる。
ジョイは家を飛び出し、あてどもなく町を彷徨う。
でも結局どうすることもできない。

家に戻るとジョニーの姿が見えない。
トムは「俺は子守りじゃないぞ」
もう7時を回ってる。ジョイは息子を探しに家を出た。

キャロルホワイト夜空に.jpg

ジョイを演じるキャロル・ホワイトは、それは男が放ってはおかんだろうという、あの当時の典型的なイギリスの美人女優の見た目だ。
『ダーリング』でブレイクしたジュリー・クリスティや、ジェーン・アッシャー、ヴァネッサ・レッドグレイブ、マリアンヌ・フェイスフルのように、ふわっとしたブロンドに、可愛らしい瞳をしてる。

男に頼って生きてくようなヒロイン像は、いまだと共感得られそうもない。
だが当時のしかも階級格差がはっきりしたイギリスでは、彼女のような生き方を強いられる若い女性は、少なくなかったのだろう。

デイヴを演じるテレンス・スタンプは、当時からスターではあったが、ロンドンに住む普通の青年をさらりと演じていて、これがいい。
いつものエキセントリックな影は見せない。


俺はケン・ローチの映画はずっと見続けてきてるが、肩の力を抜いたような近作『エリックを探して』は例外として、社会の歪みに向けられる透徹した視点に、居住まいを正されるような気持ちになる反面、その演出の頑迷さに肩が凝るという所もあるのだ。

今回DVDでこのデビュー作を見たんだが、まだ演出に隙があるというのか、いい意味で俗っぽさも感じられて、構えずに見れるのがよかった。
ジョイがウェイトレスの同僚と、町で道行く男たちを値踏みしながら、雑談に興じる、そういう呑気な場面が入ってるのがいい。

それでも作家としての視線はすでにはっきりと刻印されてる。
ケン・ローチの映画では、いつも子供たちの表情が活き活きと捉えられてるんだが、それは子供に余計な演技をさせないからだ。子供のありのままにカメラを向けてる。
この映画でも何箇所か、遊びに興じる子供たちをアップで追っている。

それと同時に海水浴場の場面などでは、老人たちの深い皺が刻まれた表情もアップになる。
自分の未来を疑うことのない、子供の無邪気な表情と、笑顔の消えた老人の表情。
その間にヒロイン、ジョイの暮らし向きを描くことで、イギリスという国の「希望のない人生」が身も蓋もなく提示される。

安アパートに暮らすジョイと息子の日常を、時折引きの画で眺めてるのも、なんともせつない気持ちにさせるのだ。
トムがジョイに話すセリフの中から、ケン・ローチ監督の警察嫌いがすでに表明されてたりする。


すでに名のあったテレンス・スタンプが出てるということも理由にあっただろうが、にしてもこの新人監督の小品といえる映画を買い付けてる、当時の日本ヘラルド映画の審美眼の高さはさすがだ。

だが完成度という点ではさらに高い1969年の第2作『ケス』の輸入は見合わされ、1996年にシネカノンによって、ようやく日本初公開の運びとなった。
『ケス』はその日本公開からだいぶ遡り、たしかNHKで『少年と鷹』の題名で放映されてて、俺はその時に見た。何年頃だったかは忘れたが。

2012年8月30日

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押し入れからビデオ⑰『監督ミケーレの黄金の夢』 [押し入れからビデオ]

『監督ミケーレの黄金の夢』

ナンニ・モレッティ イタリアが笑う.jpg

このブログでは「イタリア映画祭2012」の時にコメント入れた、ナンニ・モレッティ監督の新作
『ローマ法王の休日』が、一般公開されてるが、やはりあのエンディングで途方に暮れてる人は多いようだ。
「新しいローマ法王に選出された司教が、そのプレッシャーに耐え切れず、バチカンを脱け出して、ローマの町で過ごすうちに、自分を見つめなおすヒューマン・コメディ」
というような体裁の予告編をバンバン流した、ギャガによるミスリードが効いてるね。
あの予告からあの結末は想像つかんよ。

こういう状態のことを俺は「感動難民」と呼んでる。
感動できそうな予告編につられて見に行って、映画のエンディングで取り残されてしまうような観客を指す。『ツリー・オブ・ライフ』の時にも大量の難民が生まれてたようだが。

難民にならないためにはどうすればいいか?
映画を見に行く前に、その監督がどんな映画を作ってきたのか調べておけばいいのだ。
調べるだけでなく、できれば旧作を見ておく。

『ツリー・オブ・ライフ』だって、テレンス・マリック監督の映画を見ていれば、感動のエンディングなんてものを志向しない監督だと、納得できたはずだ。
ナンニ・モレッティ監督にしても同じこと。『ローマ法王の休日』のエンディングはまさしくモレッティの映画だとわかるのだ。
ただテレンス・マリックの旧作は全部DVDで見ることができるけど、モレッティの旧作は、例えばレンタル店で目にすることが難しい。


モレッティ監督作は新作『ローマ法王の休日』を除くと9本が日本公開されてるが、レンタル店の棚で手に取れるのは、2001年のカンヌ・パルムドール作『息子の部屋』くらいだろう。

1985年の『ジュリオの当惑(とまどい)』
1993年の『親愛なる日記』
1998年の『ナンニ・モレッティのエイプリル』は、
DVD化はされてるが、セル専用でレンタル店の棚には並ばないからだ。

それよりもまず、モレッティの作家性を知るのに格好な、「ミケーレ」シリーズ4部作が、1本もDVD化されてないのが痛い。
1978年の監督デビュー作『青春のくずや~おはらい』
1981年の『監督ミケーレの黄金の夢』
1984年の『僕のビアンカ』
1989年の『赤いシュート』だ。
その内、前の3本はTDKコアというメーカーから、昔ビデオで一挙に発売された。

今回紹介する『監督ミケーレの黄金の夢』も、そのビデオを中古で手に入れたものだ。
メーカー名からわかるようにTDKが洋画のライセンスを買って、ビデオを出してた。
ビデオメーカーバブルの時代で、音響機器関係の会社が、次々に映画ビデオビジネスに参入しては、撤退してった時期だった。
東芝は有名な方で、レコード針のナガオカや、カーステレオのクラリオン、ゲームメーカーのコナミも参入してたな。

監督ミケーレの黄金の夢.jpg

この『監督ミケーレの黄金の夢』で、ナンニ・モレッティ自身が演じる映画監督ミケーレは、過去に2本撮った映画がそこそこ成功を収めて、3作目の構想に入ってるんだが、一向に進んでない。
過去の自作の上映会の引き合いはあり、上映後にQ&Aを行うため、上映会場に出向いて行く。

小さな町の集会所であったり、大学の講堂であったり、時には修道院にまで出向くが、どこへ行っても必ずいる男が、必ず同じ発言をしてくる。
「あなたの映画は、家族と学校と若者と1968年と、こればかりだ」
「地方の労働者や、トレビーソ市の主婦や、羊飼いがこれを楽しめるのか?」

なんでその男が修道院の上映会にまで居るのか謎だが、ミケーレもうんざりしてる。
俺も映画祭に行くと、上映後のQ&Aを聞いてたりすることがあるが、大抵はありきたりな質問が飛び交っていて、「監督もこんな質問何十回も聞かされてるんだろうなあ」と眺めてる。

映画監督が主人公の映画というのは、それこそフェリーニの自画像的な
『8 1/2』をはじめ、けっこう数もあると思うが、この映画は、監督の屈折がちょっとシュールな笑いで表現されてるのが特徴的なのだ。


ミケーレが以前に自分の映画かけてくれた映画館を訪れる場面。支配人はもう憶えてない。
館内に案内されると、ミケーレの後継者と目されてる新人監督チミノの映画が上映されてて、本人も見に来てる。広い客席が埋まってるように見える。
だがよく見ると空いてる席には、客のかわりに胸像が置いてあるのだ。支配人曰く
「広い客席に客がまばらだと寂しいので」

テレビ出演の依頼があり、地方の小さな局だが、映画について意見を語らせてくれるというので、ミケーレはスタジオに入る。カメラが1台と、スタッフ1人しかいない。
カメラが回り始め、ミケーレが話し出すと、スタッフは何かの用で、スタジオから出て行く。
誰もいないカメラに向かって話し続けるが、ついには
「助けてぇ!」「助けてぇ!」
とスタジオ内で叫び出すミケーレ。

バーで静かに酒を飲んでても、なまじ顔を知られてるから、話しかけられる。
「アメリカ映画がいい。頭を使わないからね」という男に、
「そうかい、ではチャオ」
と場を離れようとすると、
「ちょっと待て、チャオは俺が言うんだ。これじゃ俺が君に見限られたみたいだろ」
そう言われて元の場所に戻されると
「ではチャオ」
と言って男は立ち去る。


ミケーレは30過ぎだが、独身で母親と一緒に暮らしてる。
母親はイタリアの国政にも意見を持ってるが、息子は新聞は一面読んだら、あとは映画欄しか見ないとくさす。ついには掴み合いのケンカになって
「もう家を出ていきなさい!」
「出てくもんか!」
「マザコンの何が悪いんだ!」と逆ギレ。
その自身の鬱屈は脚本に反映され、フロイトはマザコンだったという、新作の撮影にかかる。

ミケーレが脚本を書いてる場面と、撮影中の映画の場面をシンクロさせてるのも可笑しい。
フロイト役の役者がセリフを言ってるんだが、ミケーレのペンが止まってしまう。
役者もしゃべれないままだ。
ミケーレが「ここはなにか即興で…」とつぶやくと、撮影中の役者が
「フロイトが即興なんてできるはずないだろ!」
とキレてる。撮影もスムーズに進まない。

現場で役者の芝居をつけてると、ミケーレはなにか臭うと言う。
「タバコですか?」
そんな臭いじゃない。気になってしょーがないので、ミケーレは臭いの元を探って行く。
セットの壁をずらすと、スタッフの男と女が熱い抱擁を交わしてた。
そんな臭いがわかるのか?


ミケーレは高校で教師の職も持ってるんだが、映画監督としてのスランプは、教師としての授業っぷりにも反映され、ほとんど情熱も感じられない。
だから生徒もチェスをしたり、物を食べたり、まともに聞いてない。
そんな生徒を次々追い出し、無表情で授業を続ける。

女子学生のシルヴィアは、そんなミケーレに真っ向意見する。
「先生は年寄りとおんなじ。自分の部屋の外のことには何の関心も持ってない」
「そんな教師の授業を聞く価値はないわ」
シルヴィアの言葉と強い視線に射抜かれ、まともに目も見れない。
それにシルヴィアはちょっと美人だ。

ベッドで夢にうなされる。シルヴィアの後を校門から追っているミケーレ。
彼女はボーイフレンドと歩いてる。
そしてアパートの窓際でキスを交わしてる。
それを柵越しに見ながら「シルヴィア~!」と叫ぶ。
『望郷』のジャン・ギャバンのように。

別の晩には、またシルヴィアの夢。彼女はボーイフレンドと共に、南アフリカに旅立つという。
二人の前に立ちはだかったミケーレは、子供のように地面で「イヤイヤ」をしてる。


新作『フロイトの母』はなんとか完成のメドもついてきた。
ミケーレの後継者と呼ばれる新人監督チミノは、学生運動をミュージカル化した新作で評判を取っていた。
テレビのバラエティショウで、ミケーレとチミノは、どっちが監督として優れてるか、さまざまなゲームで競うことになった。

最初のディベートでは、ミケーレの「お前のかあさんデベソ」的な、ただの悪口攻めが効を奏し先制。
だがセックス観を語るコーナーでは、観客からまさかの総スカンを食う。
ならばと隠し芸コーナーでも、歌を披露するがまったくの音痴で勝負にならない。
ボクシングでは体格差を生かしてポイント稼いだが、最後にペンギンの着ぐるみで、どっちが先に巨大な卵を割れるでしょーゲームで負けを喫し、チミノは名実ともに(?)ミケーレを凌ぐ映画監督の座を勝ち取ったのだ。

町はずれの小さな映画館で封切りの日を迎えた『フロイトの母』。
その夜、ミケーレはまたシルヴィアと夢で再会する。

南アフリカから帰ってきたシルヴィアと、レストランの席で向かい合うミケーレ。
だが彼女が手を触れようとした時、ミケーレの手は毛深く変わり、顔は狼男に変貌していた。
叫び声を上げて逃げ出すシルヴィアを、ミケーレは追いかけていくのだった。


映画はここで終わりだ。つまりなんか解決するとかそういうことはないのだ。モレッティの映画では。
この1981年の『監督ミケーレの黄金の夢』と、新作の『ローマ法王の休日』には通じる部分がある。
それはどちらの主人公も、自らの境遇を「荷が重い」と感じてることだ。

監督ミケーレは観客から新作を期待されてるが、自分の中にはもう大したものがないことを悟ってる。
後輩の監督の前では尊大な態度を通すが、そのプライドも何の役にも立たないことを、あのバラエティショウの場面で思い切り戯画化してるのだ。

モレッティはその自意識過剰っぷりを、さらにデフォルメすることで笑いへ転化させている。
ウディ・アレンが似た作風でありながら、映画としてまとめ所には気を遣ってるのに対し、そんな自分にすんなり折り合いはつけられないという、悪あがきをそのまま提示して終わらせる。
そこにモレッティという人の生真面目さを見る思いがするのだ。

2012年8月29日

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押し入れからビデオ⑯『新ジキル博士とハイド氏』 [押し入れからビデオ]

『新ジキル博士とハイド氏』

新ジキル博士とハイド氏.jpg

1982年のコメディで、この題名はCICビクターからビデオ発売された時のもの。
なんでそんな但し書きをつけるかと言うと、これは劇場未公開作で、ビデオに先立って、テレビ放映されてたのだ。
その時の題名は『ジキルとハイド 爆笑大作戦』だった。

本来はそっちの題名で紹介したかったんだが、テレビ放映された時には録画してなかった。
深夜たまたまチャンネル合わせて見てたら、すげぇ笑えるじゃんか!と、すっかりのめり込んでしまったのだ。
その後にビデオを中古で手に入れたんだが、この映画の面白さは、ひとえにテレビ放映時の青野武の吹替えによるものだと痛感した。
市販されてた(今は廃版)ビデオは字幕版で、その字幕ではあまり笑えないのだ。

なので今回この映画を取り上げたのは、スティングレイでもキングレコードでもいいので、是非テレビ放映時の吹替え版を収録したDVDを出してもらいたいという願いからだ。

ここから先は映画のディテール紹介になるけど、マニアックな固有名詞がいつにも増して出てくることになろう。

まず主役の外科医ジキルと変身後のハイドの二役を演じる、マーク・ブランクフィールドという役者を、ほとんどの人は知らないだろう。
他の出演作をチェックしてみると『続・天国から落ちた男』とか『スプラッシュ2』とか、作ってたことすら知らない続編に主演してる。
ということはスティーヴ・マーティンやトム・ハンクスの代打として重宝されてたような存在か。

ルックス的には、素の外科医ジキルの時だけ見れば、ゲリット・グレアムに似てる。
『ユーズド・カー』でカート・ラッセルの相棒を演じてたり、デパルマの『ファントム・オブ・パラダイス』で、ロックスター「ビーフ」を演じてた役者だ。感電死してたが。

このマーク・ブランクフィールドが、ハイドに変身して以降は、もうやぶれかぶれと思えるような怪演を見せてる。

「ジキル博士とハイド氏」というのはロバート・ルイス・スティーブンソンの怪奇小説で、ジキル博士が自ら開発した薬品を飲んだことで、獣のような別人格のハイドが現れるという、解離性二重人格をテーマにしてるのだが、この映画はそのモチーフを、ドラッグねたに流用してるのだ。

丁度この時代に人気を博してた、チーチ&チョンの「マリファナ」コメディの変種といえる。


総合病院の天才外科医ジキルは、院長から大富豪のオペを命じられる。
大富豪の名前がヒューバート・ハウズという、モロにハワード・ヒューズをモデルにしてるんだが、ほとんど死にかけてて、『血の唇』のじいさんみたいになってる。
大富豪ハウズは、内臓の全器官移植を望んでいて、それができるのはジキルだけだと名指ししてきた。

だがジキルは外科医のメスを置き、研究に専念したいと考えていた。
高額な手術に頼らずとも、人間の本来持っている生命力を高め、獣性を呼び覚ますことで、病気やストレスにも打ち克つことがきっと可能だ。
そんな「ドラッグ」を開発しようとしてたのだ。

ジキルの勤める総合病院には「慈善病棟」というものがある。
小ぎれいで洗練された一般病棟から、扉ひとつ隔たれた部屋は「ここはレ・ミゼラブルの世界ですか?」と思うような薄暗く不潔なベッドに、貧乏な人たちが横たわってる。

ジキル医師はこういう人たちを助けたいと思ってたのだ。
ジキルは院長の娘メアリーとつきあってたが、院長は
「大富豪のオペを断れば結婚はご破算にする」と脅してくる。


とにかく自説を証明するため、ドラッグの開発に余念がないジキル。
だが野暮用が多くて研究に専念できない。

今日もナースが
「異物がはさまったまま抜けなくなってる患者がきてます!」
「異物がどこに?」
「V・A・G・I・N・Aに」
と単語を区切って言うので、ジキルはすぐには判らず黒板に書いてみる。
最後の単語を書き終わる前にやっと気づくんだが、字幕で「おまん…」て出てる。
ギャグに関してはスベッてる字幕なんだが、こういう所は攻めてるんだな。

診断に行ってみると、白人の美女と、ミスター・オクレみたいな風貌の日本人(たぶんそういう設定)が合体してる。オクレは日本語ともつかないような日本語で怒鳴ってる。
黒澤時代劇の口調だろうね。
で合体してた美女は、チャイナタウンの「マダム・ウー・ウー」という怪しげな店のコールガール兼歌手で、アイビーと言った。
「穴あいちゃったから」と言って脱いだ黒ストッキングを頭に被せられ、ジキルはその色気にやられた。

病室を出ると廊下を通りかかった重症患者から
「ぜひジキル先生にオペを」
と頼まれるが、黒スト被ったままのジキルを見て
「やっぱり女房に縫ってもらいます」


ようやく研究室に戻れたが、疲れてつい開発中のドラッグに顔をつっぷして眠ってしまう。
途端にジキル医師の体に変調が起きる。

ハードロックの華麗なギターソロをバックに、ジキルの白衣はいつの間にか襟の高いビロードのシャツに変わり、その開いた胸元からは、胸毛が生えだし、金のネックレスまで。
髪型はアフロに変わり、ケツは上に持ち上がり、軽やかにステップを踏む。
身悶えながら指を見ると、なんと指の皮膚を突き破ってデカい指輪が出現。
小指の爪だけがグーンと伸びる。
なんでかというと、その爪をスプーン代わりに、コカインを吸い込むためだ。

そして股間も大変なことになってるのだ。
このあたりの描写は『ハウリング』だねほとんど。


すっかりファンキーマンのハイドに変貌して、病院を脱け出すと、知らない人の車を奪って、
「マダム・ウー・ウー」へ直行する。
中華系のはずなんだが、日本人の板前がお出迎え。

「ハイ!ハイ!」と「バカヤロー!」しか言わないが。
この小太りな板前が俺のツボを突きまくってくる。

店内ではニューウェーブ系のツンツン頭の若者たちが踊ってるのか暴れてるのか、そんな中でアイビーがバンド引き連れてステージに登場。パット・ベネター風かな。
歌が終わるとハイドは、アイビーを引っ張って「個室」へと消える。

翌朝、素に戻ったジキル医師は、激しいセックスを物語る部屋の惨状に呆然とする。
「僕はどこまで野獣になったんだ?」
部屋のすみにはなぜか羊もいて
「お前とも?」
羊はウンウンと頷いてる。
こういうくだらないギャグが連発されるんで、覚悟が必要だ。

「メアリーを裏切ってしまった!」と自責の念にかられ、彼女の部屋に窓から忍び込む。
「僕には君しかいない」
メアリーとも一戦交えて、タバコを吸ってると、院長がライフル片手に押し入ってくる。
「娘が犯される声が聞こえたぞ」
ジキルがとっさに「大富豪のオペをやります!」と言うと
「そうか!」
「じゃあハメ倒せ」


ジキルは「フォーミュラ143」と名づけたドラッグを、トイレに流そうとしていた。
だが流れる瞬間に手を突っ込んで取り出してしまう。
いけないと思いつつ、誘惑に抗えない。

ドラッグを吸い込んで、またしてもハイドに変貌して、ファンキーに町へと飛び出して行く。
何度もドラッグに手を出すうちに、普段からハイド化が進むようになってしまうジキル医師。

大富豪ヒューバート・ハウズのオペの最中にもハイドに変貌し、用意された臓器を床にぶちまけて出て行ってしまう。
オペに立ち会ってた院長は、オペに失敗したら、病院一体を買い占めて爆破すると大富豪から脅されてたので、もうしょーがないと、上半身裸になって、
「俺のを使え」と部下に命じる。
腹のくくれる男じゃないか。

半ばハイド化したジキル医師は、整形外科医のラニヨンに
「なんとかしてくれ!」と泣きつく。
「俺の中にもうひとりの俺がいるんだよお!」
「もう一人の自分を隠すことはない」
ラニヨンはそう言うと白衣を脱ぐ。黒いブラとパンティをつけてる。
ラニヨンは女装趣味だった。ジキルは窓を破って逃げ出した。


ドラッグの開発費用も底をつき、困り果ててたジキルは、1枚の招待状を目にする。
実はメアリーがジキルの研究内容を、イギリスのパッツプラー賞委員会に送っていて、その受賞が決まったというのだ。賞金は50万ドル。

今やハイドと化したまま、旅客機の貨物室に潜り込んでイギリスを目指す。
メアリーも受賞式に参加するため、ロンドンへ。なぜかアイビーも向かっていた。

受賞式の壇上でジョージ・チャキリス本人から名前を呼ばれたジキル医師。
だが出てきたのはハイドだ。
モータウン風のサウンドで歌い始め、
「人間の獣性を呼び覚ませ!」と服を脱ぎ始めたんで会場は騒然。
「あいつを捕まえろ!」と大捕り物が展開される。

ハイドが会場を逃げ出すと、ロンドンの町はモノクロになってる。
『ジキル博士とハイド氏』の最初の映画化は、1930年代のモノクロ作品だったのだ。
昔の怪奇映画風の演出ってわけだ。

追い詰められたハイドは建物の屋上から落下。
駆けつけたメアリーとアイビーは火花を散らす。
「私とのセックスは凄いんだからこの人!」
「私には紳士でとっても優しいのよ!」
意識を取り戻したジキル医師は
「僕のために争わないでくれ」
「じゃあ、二人で共有しましょう」
となってめでたしめでたし。

最後にロバート・ルイス・スティーブンソンの墓が映り、その地面の下で、スティーブンソンの骸骨が
「俺の小説を台なしにしやがってえ!」
と暴れてるとこでジ・エンド。まあたしかにね。


この字幕版を見ると、テレビの吹替えでは、青野武がアドリブ入れてる部分があるのがわかる。
そこが笑えたりしてたのだ。
女装のラニヨンから逃げ出す時に「こわ~い!」って言ってたりね。
主演のマーク・ブランクフィールドの怪演に、青野武もノリノリで声をあててるのが伝わってきた。

これを製作したのが、ローレンス・ゴードンとジョエル・シルバーの黄金コンビというのも凄い。
時期としては、ウォルター・ヒルの『ウォリアーズ』から『ストリート・オブ・ファイヤー』という最盛期の作品を製作してる頃で、その合間になぜかこんな映画を作ってるのだ。

撮影も『殺しの分け前/ポイント・ブランク』や『ロリ・マドンナ戦争』などカルトな名作を手がけてるベテラン、フィリップ・ラスロップだ。
この映画と同じ年には、ヴェンダースがコッポラと、大揉めに揉めながらながら作った『ハメット』のカメラをやってる。

ハイドが歌い踊るモータウン風ナンバーなど、音楽担当はバリー・デ・ヴォーゾンだ。
彼の名は、ペリー・ボトキン・Jrと共同で書いた『妖精コマネチのテーマ』のヒットで知られてる。

これは元々はデ・ヴォーゾンが音楽を担当した、1971年の映画『動物と子供たちの詩』に使われてた曲を流用したものだった。
女子体操のナディア・コマネチが、当時どれだけスターだったかを物語ってる。

2012年8月28日

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三大映画祭週間『ムースの隠遁』 [三大映画祭週間2012]

三大映画祭週間2012

『ムースの隠遁』

ムースの隠遁.jpg

映画自体は見てていつも面白いとは感じるものの、根本の部分で、自分の中に吸収できないでいる。
俺にとってそういう監督が二人いる。

ペドロ・アルモドヴァルと、この『ムースの隠遁』のフランソワ・オゾンだ。
彼らの作る映画には、ゲイとしての美意識とか、物事の捉え方とかいった視点があり、そこを踏まえずに、わかった振りはできないのだ。

アルモドヴァル監督でいえば、名作と名高い『オール・アバウト・マイ・マザー』にしても、『ボルベール 帰郷』にしても、いい映画であることはわかるんだが、芯から理解できたという感覚はなかった。女を描く視線が独特というか、鋭いのか、それは母性と言い換えが利くかもしれないが、男には本来描けないような領域にまで踏み込んで描ける、そういう能力があるのだろうと、漠然とながら感じている。

二人の監督とも、ゲイである自分の欲望や妄想を隠さないで映画に塗り込めるから、アルモドヴァルの新作『私の、生きる肌』も、「そうまでしちゃう?」と、ちょっと唖然とさせられたのは事実。
これに関してはどう書いていいやら、まとまらなかったんで、もう1度どこかで見る機会があったら、見に行こうとは思ってる。

『ムースの隠遁』は妊娠した女性が主役ということだったんで、見てみたが
「やっぱりそういう展開か」と。
俺はいろんなものを見尽くしてきてるから、別に男同士がディープキスしてようが、体をまさぐり合ってようが、見ていて嫌悪感を抱くなんてこともない。

というよりも見てて、気持ちも体もなんの反応も示さないので、逆に言うと、映画から弾かれてしまったように感じてしまうのだ。
だから今回も映画に描かれてることが、ストンと腑におちる感じではなかったが、部分部分の、登場人物の関わり方が面白かった。


ヒロインのムースは、パリの高級アパートに恋人のルイと一緒にいる。
そのアパートはルイの一家の持ち物で、母親が借り手を募ってる。
アパートのチャイムが鳴り、ルイの顔見知りの青年が、ヘロインを持ってやって来る。
ルイは金を渡して、ムースと早速あぶって注射する。
翌朝目を覚ましたルイは、まだ眠ってるムースを横目に、自ら頚動脈に注射する。

昼になり、母親が部屋を借りたいというカップルとともに、アパートにやって来る。
息子がここに居ることは知っている。
ルイとムースが眠る部屋を覗くと、ルイはうつぶせになり、口から泡を吹いて果てていた。
ムースはやっと目を覚ました。

ルイの葬儀に、ムースは後から参列した。家族とは距離を置き、黒い服も着ていない。
葬儀の後、ルイの弟ポールが声をかけた。
「母親が君に話があるといってる」

ルイの自宅は邸宅といってもいい建物だった。母親は
「息子が打ったヘロインにはバリウムが混ぜてあった」
という医者からの説明を、ムースに聞かせた。
「もうひとつ医者から言われたことがあるの」

ムースもルイと共に、あの日病院に搬送されてita.
その治療の過程で、彼女の妊娠が判明してたのだ。
「父親はルイなの?」
疑うような口調の母親。ムースは毅然と
「そうです」
母親はきっぱりと言った。
「私たちは出産を望みません」
「母親が麻薬中毒であれば、母体が胎児に与える影響も考慮すべき」と。
ムースは中絶しますとは言わなかった。

この母親とのやりとりの描写にまず興味をひかれる。
ムースはルイと麻薬をやっていて、ルイだけ死に至った。
だが彼女にはルイの母親に対して、負い目があるような態度は見せない。

詳しくは語られないが、ルイの家と同じように、ムースも裕福な家の娘らしい。
どこかに「私は金持ちの彼氏にぶら下がってるわけじゃない」
というプライドを滲ませてる。
だいたい葬式に豹柄のコートを着て現われてるんだから。


だがいろいろ鬱陶しくなったムースは、すっぱりとパリの生活に見切りをつけて、海沿いの小さな町に移り住む。ムース曰く「少女の頃、私を弄んでたじいさんの持ち物」
という別荘で、隠遁生活に入ったのだ。

パリから新しい生活に移るくだりは、あっさりと省略されて、次の場面では、ルイの弟ポールが、スペインへ旅行する前の数日を利用して、ムースの家を訪れる。

兄のルイは死んでしまったが、ポールは恋人だったムースには恨めしい感情などはないようだ。
ムースも快く彼を迎え入れた。

ポールを泊めた晩に、ベッドに入ると、いきなりピアノの音が聞こえ、ムースは「こんな夜に!」とイラッとくるが、ポールのピアノが上手くて、つい聞き惚れてしまう。
ムースは妊娠8ヶ月目となり、おなかは、かなり膨らんできた。

地元の食料品店の青年セルジュが、配達に来て
「いまご主人に会いましたよ」と言う。
ポールが海岸に泳ぎに行く所だったのだ。
「ちがうわよ、彼は女には興味ないみたい」
ムースは応えた。
ぶっちゃけ、そのセルジュとポールがいつの間にか恋人同士になってるわけだが。


ムースは身篭ったからといって、母親らしい愛情が湧いてくるという実感はなく、妊娠期間特有の、不安定な感情にもさらされてる。
ポールに誘われて海岸へと出ていくんだが、そこで地元の女性に声をかけられる。

女性はムースを見て「妊娠中の女性が、水着を着て、膨らんだおなかを隠さずにいる」ことに勝手に感動を覚えたらしい。
「おなかの中の赤ちゃんに沢山声をかけてる?」
とか、おなかをさすりながら、母親となる心構えなんかを説いてくる。
ムースは「いい加減にしてよ!」とキレて立ち去る。

面白いね、こういう女同士のピリピリした感覚は、オゾン監督には初期の『海を見る』あたりから、すでにあった。『スイミング・プール』とかね。


ポールが町のクラブにセルジュと遊びに行くというと、ムースは「私も連れてって」と。
大きなおなかでダンスに興じてると、ポールとセルジュは店の暗がりで、熱いキスを交わしてた。

ムースはポールと一緒に過ごす内に、なんとなく「悪くないな」という感情を抱いてたんで、ポールが「男」になびいてしまったことが面白くない。


だったら自分もと、昼間に一人で町のカフェに行く。別のテーブルの中年男が声をかけてくる。
男はナンパしてるとあっさり認める。家から海が一望できるとも。
その言葉にムースは、男の車に乗り込んだ。
この映画で一番印象に残ったのは、この中年男とのくだりだ。

男の家に上がると、部屋から本当に海岸線が一望できる。
情事に及ぶつもりだったが、ムースは寸前で
「やっぱりできない」
そしてベッドに座り、男に
「私の背中から、おなかを揺すってくれる?」と注文。
中年男は言われるままに、背後に回り、ムースのおなかに手を回して、軽く揺する。

その時の男の表情がいいのだ。
「ああ、もうこれでセックスはできんなあ」という感じと、おなかに手を触れることで、生命の鼓動が伝わってるようで、なんともせつないような表情になってる。


ポールがセルジュと喧嘩別れしたと、酔いつぶれて家に戻った晩、二人は初めて、「立ち入った話」を交わした。
ポールは、ルイとは異母兄弟で、あの家には養子として迎え入れられたと。
ポールは身近にいるルイのことを愛していたようだ。
ムースとポール、ふたりの間は「ルイ」という共通の喪失感で、この時はじめて気持ちがつながった。

ポールがスペインへと旅立つ前の晩、ムースは彼と結ばれる。
ポールはゲイではなくバイだったんだな。


ムースはパリに戻り、病院で出産を終えていた。
スペインから戻ったポールが、病室を訪れた。
赤ちゃんの顔を覗き込む。ムースに「抱いてみて」と言われ、ポールはぎこちない手つきで赤ちゃんを抱く。
女の子で、名前は愛した人の名から「ルイーズ」とつけた。
ムースは赤ちゃんを抱くポールの表情を見つめてた。

「タバコ吸ってくるからちょっと見てて」
そう言うとムースはコートを羽織って、病室を出た。
職員たちの溜まり場で火を借りると、一服し終わって、病院の敷地から外に向かった。
そしてそのまま電車に乗った。


人気俳優のメルヴィル・プポーがルイを演じていて、物語早々に退場する。
弟のポールを演じるルイ=ロナン・ショワジーもかなりなイケメンで、これはオゾンの好みなんだろう。目の下のあたりがベニチオ・デル・トロを彷彿とさせて、色気がある。
彼は本職はミュージシャンだそうで、劇中にピアノ伴奏で歌うのは、彼の自作曲だ。

映画のエンディングでは、ムースを演じるイザベル・カレとのデュエット・バージョンが流れる。
なんか日本で昔作られてた「歌謡映画」みたいな感じもあるな。

そのムースのヒロイン像は、あまり共感持たれないかもしれないが、そういう女性をしれっと描いてしまえる所が、オゾン監督たる所以かもな。

2012年8月27日

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インディーズ系日本映画の興行ハードル [映画雑感]

インディーズ系日本映画の興行ハードルを下げられないか?

昨日は、映画の当日料金¥1800が高いとはいえ、割引サービスを活用すれば、かなり財布の負担も減るだろうということを書いてみた。
¥1800が高いということより、封切られる映画が一律に¥1800であることの方に、俺などは違和感がある。
これを書くと「何十億もかけたハリウッド映画と、日本のインディーズのビデオ撮りの映画が同じ値段というのはおかしいという理屈だろう?」と思われがち。

そのことへの反論として、映画は制作費で価値が決まるもんじゃない、と当然意見が出るだろう。
それはもちろんそうだ。その反論が出るのを承知の上で言ってる。

だがその反論というのは、どこか作り手側の理屈にも聞こえる。
作り手が予算は少なくても、絶対の自信を持った映画を撮り上げたとする。
試写を見たプロやメディアの受けもいい。
その映画をなんでハリウッド映画と同じ¥1800で商売しちゃいかんのだ?ということだろう。
いや全然いかんことはないよ。

ただね、例えば同じ時期に、宣伝費もかけて認知度も高い、話題のハリウッド大作が映画館でかかってるとする。何を見るかはまだ決めてない客がいる。
デートだし、¥1800で確実に楽しめる映画を選びたい。
それは泣けるでも笑えるでも感動できるでも、なんでもいいんだが、いずれにせよ選択に失敗したくはないわけだ。

映画を料理に置き換えてみて、二つ皿が並んでいて、一つには、いろんな料理が山盛りで乗っかってる。見るからに豪華そう。
もう一つの皿には、地味に一品盛られてる。ただ素材は良さそうで、絶品な味かもしれない。
どっちを選ぶかということだよね。

大抵は同じ値段だったら、見た目で元が取れそうな方を選んでしまうだろう。
条件が同じ土俵で勝負すると、作り手の思い入れとは関係なく、身も蓋もない選択の場に晒されるということになる。

プライドがあるから、「金だけかけて中身スカスカの大作より、自分の映画が安く売られるのは我慢ならん」と作り手なら思う。
だがそこは逆転の発想があってもいいんじゃないかと思うんだよ。


HDビデオカメラが普及して以来、ビデオ撮りでもクォリティの高い画質の映画が作れるようになった。映画館のスクリーンにかけても、フィルム撮り作品と同等とまではいかないが、それほど見劣りしないレベルにまで来てると思う。
なのでここ数年は、日本映画の劇場公開本数が、夥しい数に上ってるのだ。

映画を撮りたいというクリエイターが、フィルムの場合よりも、ポストプロダクションの経費など、格段に安くできるようになったのはいいとして、完成した映画は受け手に十分に届いてると言えるだろうか?

今そういったインディーズ系の日本映画をかけるのは、ほとんどがミニシアターの役割となってる。
渋谷のユーロスペースをはじめ、オーディトリアム渋谷、アップリンクX、シアター・イメージフォーラム、テアトル・ヒューマントラスト系シアター、新宿のK'sシネマ、新宿武蔵野館。

こういった所で、全日というよりはレイト上映が多い。
配給会社側も劇場側も、宣伝費はかけられないから、一般の認知度は高まらない。

こういう映画を目ざとく探して見に行くというのは、コアな映画好きなのだ。
コアな映画好きはいつの時代も一定数はいる。
だがその数が右肩上がりに増えていくことはない。

映画に興味を持ってなかった若い人が、あるきっかけで映画にハマって、コアな映画好きになることは、もちろん継続的にあることだ。
反面、今まで浴びるように映画を見てた人が、結婚とか、仕事とか環境の変化で、ぱったり見なくなるということも、一定数はあるのだ。

もしインディーズ系の日本映画上映への入場を記名制にしてみたら、けっこう同じ名前が並んだりするんじゃないか?
ミニシアターでのこうした興行が、ブレイクスルーを起こすという例は、だから稀だといえる。


その2~3週間の上映が済むと、あとはDVDという「パッケージ」化に向かう。
ツタヤのような大きなレンタル店の棚に並ぶんだから、そこで認知度が上がるんじゃないか?
と考えそうな所だが、そうは甘くない。

レンタル店というのはさらにシビアな商売の場だ。
新作DVDはほぼ毎週のように入荷してくる。店の棚数は限られてる。
客の目線に入る位置には、話題作が大量に並べられる。

いま映画興行の場では「邦高洋低」の状態だが、DVDレンタル店の売り場は、洋画のスペースがまだまだ広く取られてる。
その限られた「新作邦画」の棚で、表紙を見せて並べられる話題作と一緒に入荷しても、もはや「インディーズ系」の邦画に十分なスペースなどない。

ツタヤでも都内の大型店には、映画マニアなスタッフがいるので、場合によっては、表紙を見せる分のスペースを確保されて、おすすめコメントもつけてもらえるかも知れない。
だがそれはもう店側の裁量にかかってるわけで、スタッフが一瞥もくれなければ、すぐに「背並べ」にさせられる。
DVDの背表紙はおよそ15mm程度のもので、縦に題名が書かれてるだけだから、よほど関心を持った客でなければ、手に取ることもない。
月に数回貸し出されただけで、すぐにトコロテンのように、新作棚から押し出され、もっと地味な旧作棚へ追いやられる。
こうなるともう棚の模様と化してしまい、こうして1本の映画は忘れ去られる。


日本映画は話題作でもないと、ほんとに短い賞味期限の中で、次々に消費されていってしまうというのが現状だろう。
話題作であれば、DVDになった時も商売の機会は十分にあるが、ほとんどのインディーズ系日本映画は、むしろDVDにパッケージ化される前までが勝負なのだ。
劇場にかかってる期間に、どれだけ認知度を高めることができるのか。そこに命運がかかってる。


現在、散発的に公開されてる、こういったインディーズ系映画を、もっとまとめて人目に触れられる、そういう機会が作れないものか。
「日本映画の未来を占うショウケース」というような形態で。

若い映画作家たちに発表の場を与えてるのは、PFFをはじめ、「映画美学校」や「バンタン」などの、映像専門学校ライン、あるいはシネコンの「ユナイテッドシネマズ」でも、定期的に上映の場を設けたりしてはいる。
TOHOシネマズにおいても、お台場シネマメディアージュにて、「第2回 日本学生映画祭」が、丁度本日開催されてた。

そういった取り組みがあるにはあるが、期間も開催場所もそれぞれ違うので、前述した「コアな映画好き」でないと、その情報が手にできない。
映画好きが鼻をひくつかせて、ようやく辿り着くレベルだと、一般的な認知度には程遠いのだ。

「在野」の映画作家たちの作品を、それぞれ支援してる組織などが、横のつながりをつけて、ひとつの
「ショウケース」にまとめてみる。
1回の開催につき10本ほどの作品を目安にして、それをできればシネコンでかけられるようにする。
どこの系列のシネコンであれ、できれば1箇所ではなく、全国数箇所レベルの規模で。
その際に入場料を¥800位に設定する。
無名の映画作家の作品なんだから、とにかく見てもらわないと始まらない。

シネコンで全日スクリーンを確保するのは難しいだろうから、レイトの時間枠を空けてもらう。
俺は都内近郊のシネコンを利用するけど、正直レイトショーになると客はいつもまばらだ。

1回の開催期間を3週ほどとして、年4回行えるようなローテーションを確立できれば、企画の認知度も上がってくだろう。こういうのは継続させないと意味がない。
単発的に行っても、すぐ忘れられてしまうのだ。

「ショウケース」の運営組織を設立して、HPを立ち上げて、上映作品の情報や映画作家へのインタビューなど、上映時期までマメに更新させていく。
宣伝も打ちやすくなるだろうし、メディアへのアピールもし易い。


思うんだが、第1作を世に出した監督にとって、なによりも重要なのは、次の映画が撮れるという状況を作れるかということじゃないか。
映画はそれ自体を完成させるよりも、むしろその後の道のりが険しいのだ。

「お蔵出し映画祭実行委員会」という組織がある。広島県尾道市と福山市の会場を使って、完成後に公開のメドが立たないでいる映画作品を公募して、上映するという試みを昨年から行っている。
今年の第2回は10月に決定してる。
つまりそういう催しが企画される位に、インディーズ系日本映画の、劇場公開へのハードルは高いということだ。

だが志のある映画作家たちの活動が停滞してしまうようだと、この先日本映画は本当に、テレビ局主導の、テレビドラマの映画化作品か、漫画の原作映画化作品しか残らなくなってしまいかねない。

インディーズ系日本映画が、映画マニアだけの発見の楽しみの対象としてではなく、もっと観客の裾野が広がっていくように、なにか大胆な試みをしてみる時期なのではないか?

2012年8月26日

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映画館料金割引サービスの一覧 [映画雑感]

映画館料金割引サービスの一覧を作ってみた。

日本の映画館の当日料金¥1800は高すぎるんではないか?とよく言われる所だが、シネコンのビジネスモデルが定着して以来、割引サービスなどに劇的な変化が訪れたのも事実だ。

以下に割引サービスを行ってるシネコン及びミニシアターを列挙してみたが、俺は会員になれる所はほとんどなってるし、俺も含めて、映画館で年間100本は見るという映画好きなら、誰しもこういうサービスを最大限に活用してるんではないかと思う。

表もまともに作れないパソコン音痴なんで、箇条書きで勘弁願いたいが、まあざっと都内周辺だとこんな感じではないか。漏れがあれば追記していくが。


(シネコン系)

TOHOシネマズ

毎月14日「TOHOシネマズデイ」¥1000
毎週火曜日「シネマイレージ会員割引」¥1300
レイトショー¥1200
ららぽーと横浜など一部で平日午前中の回¥1300
シネマイレージ会員6回鑑賞で1本無料
シネマイレージポイント6000マイル(映画上映時間1分で1マイル計算)で、
TOHOシネマズ1ヶ月間フリーパス(六本木除く)


109シネマズ

毎月10日「109シネマズデイ」¥1000
毎月19日「ブルーカード会員デイ」¥1000
毎週火曜日「ブルーカード会員割引」¥1300
レイトショー¥1200
ブルーカード6000ポイントで1本無料(1本鑑賞で1000ポイント)
2000ポイントで1本¥1000鑑賞可能
ブルーカード入会料¥1000(更新なし、但しポイントの有効期限は6ヶ月)
入会時2000ポイント付与


ユナイテッドシネマズ

毎週金曜日「CLUB-SPICEカード会員割引」¥1000
レイトショー¥1300 
CLUB-SPICEカード入会料¥500(1年更新)
6000ポイントで1本無料(1本鑑賞で1000ポイント)
2000ポイントで1本¥1000鑑賞可能


ワーナーマイカルシネマズ

劇場により、毎月20日か25日「ワーナーマイカルお客様感謝デイ」¥1000
レイトショー¥1200
「ポイントカード」発行料¥100 6本スタンプ貯めると1本無料(発行から6ヶ月以内の期限つき)


MOVIX・新宿ピカデリー

毎月20日「MOVIXデイ」¥1000
平日の午前中の1回目¥1300
毎週木曜日「メンズデイ」男性¥1000
レイトショー¥1200
MOVIX系のシネコンでは「MOVIX Club CARD」を発行しており、入会料¥500(更新なし)
入会時10ポイント付与
60ポイントで1本無料 20ポイントで1本¥1000鑑賞可

MOVIXと経営は同じ「松竹系シネコン」だが新宿ピカデリーは別サービスとなってる。
通常の割引デイはなし(毎月1日のファーストデイはほぼ全部の映画館が¥1000なので、ピカデリー固有の割引ではない)
「新宿ピカデリーメンバーズカード」発行料は無料(更新なし)
8ポイントで1本無料 12ポイントで3D映画1本無料 ポイントの有効期限6ヶ月


チネチッタ川崎

毎月23日「チネチッタデイ」¥1000
レイトショー¥1200 オールナイト¥1200
「チネカード」5ポイントで1本無料(1本1ポイント)
1個目のスタンプから1年以内有効


T-JOY・バルト9・ブルク13

レイトショー¥1200 ナイトショー¥1200
新宿バルト9のみ、平日16時~18時に上映の回はシネマチネ¥1200
会員割引・ポイントカードはなし


ヒューマックスシネマズ

レイトショー¥1200 オールナイト¥1200
平日の午前スタートの回ファーストショー¥1500
会員割引・ポイントカードはなし


(ミニシアター系)

テアトルシネマ・ヒューマントラストシネマ

毎週水曜日サービスデイ¥1000
「TCGメンバーズカード」テアトルシネマ・ヒューマントラストシネマ系列で使えるカード
年会費¥1000 入会時に¥1000鑑賞できる割引券付与
カード提示でいつでも¥1300
毎週火曜日と金曜日は会員割引デイ¥1000


シネマート新宿・六本木

毎月25日「シネマートデイ」¥1000
毎週月曜日「メンズデイ」男性¥1000
「ポイントカード」入会料¥300(更新なし)入会時3ポイント付与(1本1ポイント)
10ポイントで1本無料
毎週火曜日カード提示で¥1000
毎週木曜日はポイント2倍


角川シネマ新宿・有楽町

毎週水曜日「サービスデイ」¥1000


東急文化村ルシネマ

毎週火曜日「サービスデイ」¥1000
毎週日曜の最終回¥1000


シネマライズ

毎週火曜日「サービスデイ」¥1000
毎週日曜の最終回¥1000
PC&モバイルでの座席予約¥1600
「シネクイント」の座席指定券提示で¥1300


シネクイント

「チケットリターンシステム」前回シネクイントで鑑賞した座席指定券を提示すると¥1000
「シネマライズ」の座席指定券提示で¥1300


シアターN渋谷

毎週水曜日「サービスデイ」¥1000
毎週月曜日「メンズデイ」男性¥1000


ユーロスペース・シネマヴェーラ渋谷

「ユーロスペース・シネマヴェーラ共通会員券」年会費¥1200
カード提示でユーロスペース¥1200 シネマヴェーラ¥1000に
割引ポイント8回で1本無料


シアターイメージフォーラム

「イメージフォーラム・メンバーズカード」年会費¥2000 更新時¥1000
カード提示でいつでも¥1000
同伴者1名まで¥300割引


渋谷シネパレス

毎週木曜日「メンズデイ」男性¥1000


新宿武蔵野館

レイトショー¥1300
劇場HPの「クーポン」画面クリックしてプリントアウト、窓口に持参で¥300割引



以上のような具合で、このくらいは入場料金の割引サービスが行われてるわけだ。
なので、かなりの割合の映画を、通常料金より安く鑑賞することができる。

一応断っておくと、書き出したサービスは、男の俺が恩恵に預かることができるということに限られてるので、「レディースデイ」だとか「夫婦デイ」とか「カップルなんたら」とか、俺に関係のない部分は割愛してる。
ここに上がってない映画館でかかってる映画は、なるだけ毎月1日「映画の日」にハシゴするのだ。

そうなると¥1800払って見るのは、封切り初日にとにかく見たいという期待作を、ネットで座席予約する場合が主になる。
あとはデジタルIMAX上映は、すべての割引対象外なので、これは致し方ない。


こうして眺めると、「TOHOシネマズ」が、割引サービスにおいて、リードしてるのがわかる。
続いて「109シネマズ」か。
ミニシアター系の「TCGメンバーズカード」は、テアトルシネマとヒューマントラストシネマのスクリーン数を合わせると、けっこうな数の映画がひと月に上映されるので、お得感がある。

俺の要望としては、東映が運営する「T-JOY・バルト9・ブルク13」も、せめてポイントカードを導入してくれんかな。特に桜木町の「ブルク13」は俺の好きなシネコンなんで、割引サービスが増えれば、ますます通う頻度が高まるんだが。


普通に暮らしてる人はいちいち映画館のポイントカードとか作らないだろうし、そういう人たちにとって、¥1800は高いという話なんだろう。
だがせいぜい年に数回、映画館に行くというような人たちなら、¥1800というのも、そんなに負担には思ってないんじゃないか?
それに映画の当日料金というのは、年々値上がりしてるというわけではないのだ。
俺の記憶では¥1600という時期がけっこう長く続いてた。


シネコンが日本上陸する前の映画興行というのが、ほんとに殿様商売だったのだ。
ロードショー館で割引サービスなんてものはなかった。
それは映画が娯楽の王様だった時代の「客は黙ってても入る」という、その感覚がずっと引き継がれてきてたのだ。

だが俺が見始めた1970年代~80年代なんてのは、もう都内の映画館も閑古鳥は当たり前の風景で、従業員も暇だからだらけてるし、入場しても「ありがとうございます」のひと言もないなんてのはザラだった。

俺は学生時代には試写会にせっせと応募して、ロハで見ることが多かったが、社会人になって、試写会通いはぴったり止めた。
時間的に上映に間に合わないということもあったが、なにか自分で稼げるようになったら、身銭を切ろうという気持ちにもなったのだ。

シネコンができるまでの20年あまりは、多分現在の年間支出額より多くを、入場料金に費やしてたはずだ。もちろん当日料金ではなく、特別鑑賞券を買えるものは片っ端から買って見に行った。
¥400~¥500は安くなるからだ。
その当時の半券が、どっかに山のように積まれてるだろう。
今は特別鑑賞券よりも、シネコンのサービスデイの方が割安になったりするから、すっかり買わなくなってしまったが。

2012年8月25日

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三大映画祭週間『時の重なる女』 [三大映画祭週間2012]

三大映画祭週間2012

『時の重なる女』

時の重なる女2.jpg

この映画は「イタリア映画祭2010」で既に上映されてる。俺はイタリア映画祭に今年初めて通ったので、今回の上映の機会はありがたかった。

見たいと思ったのは、フィリッポ・ティーミが出てるからだ。
彼はマルコ・ベロッキオ監督の『愛の勝利を ムッソリーニを愛した女』で、ムッソリーニと、彼の隠し子の二役を演じてた。
その他にも、今年の「イタリア映画祭2012」で上映された『錆び』でも、子供たちの敵を演じてて、そのテンション高い役作りは、俺をして「イタリアのマイケル・シャノン」と勝手に言わしめてる。

この映画はミステリーで、それも現実と妄想が混在し、しかも主人公の設定にひとヒネリ利かせてあるという、リンチやブニュエルを彷彿とさせる魅力を感じた。
ハリウッドが手を伸ばしそうな脚本なのだ。


トリノのホテルで、客室清掃係として働くソーニャ。
彼女はスロベニアからイタリアに移民してきた。
とりあえずの会話はできるが、自宅ではイタリア語講座のテープを毎日聞いている。
同じ清掃係のイタリア人マルゲリータとも仲良くなった。

その日も客室をノックして入ると、若い女性がベッドでテレビを見ていた。
改めようとすると「かまわないわ」と言われたので、浴室から行うことに。
洗面所で髪を束ねてると、その様子を見てた客室の女性から
「下ろしてる方が似合うわよ」

女性は部屋に消え、掃除を始めようとした時、ガシャンという物音がした。
部屋を覗くと女性の姿はない。ハイヒールは床にある。
ソーニャは開いている窓に近づき、下を見下ろすと、客室の若い女性が飛び降り自殺して果てていた。
あおむけの死体の目が、ソーニャを見つめていた。


ショックで仕事が手につかないソーニャは、ミスをして副支配人に責められる。
気分も変えたくて、ソーニャは「スピードデート」に参加した。

合コンのようなもので、大勢の男と女が、テーブルにつき、一対一で話をする。
制限時間は数分しかなく、ブザーが鳴ると、次の相手が席に着く。
そうして何人もと話しをする中で、気に入った相手をチェックし、後で連絡先を交換するのだ。

ソーニャの席にも、何人もの男が入れ替わり立ち替わりやってくるが、これという相手がいない。
そんな中グイドに出会った。やたらと質問攻めしてこない彼の寡黙さが気に入ったのだ。


二人は連絡先を交換し、デートを重ねた。
デートの最中に偶然会った刑事との会話から、グイドが元警察官だということがわかった。
今は郊外にある富豪の別荘の警備を任されてる。
二人は体の関係も交わし、何度目かのデートで、グイドはソーニャを、その別荘に連れて行った。
グイドの車のラジオから、イギリスのポップソングが流れてる。

持ち主の富豪は年に数回しか訪れないという。グイドはこの町の喧騒から遠く離れた環境で、野鳥の鳴き声を録音して楽しんでいた。高性能の集音マイクも備えてあった。
グイドは広大な敷地内をソーニャと散歩するため、いつもはかけてあるセキュリティを解除した。
だが誰もいないはずの敷地内の森で、ふたりは突然マスクを被った男に銃で脅された。

男はグイドを警備室に案内させ、すべてのセキュリティをオフにし、別荘のゲートを開けるよう命じた。

モニターの一つには、外で頭に銃を突きつけられてるソーニャが。
男は何人もの仲間を引き連れていた。

「引越しサービス」と書かれたトラックが2台、ゲートから入ってくる。
男たちはグイドとソーニャを柱に縛りつけ、手馴れた様子で、邸宅内の調度品から絵画から、おおよそ値打ちのありそうな物は根こそぎ運び出した。

最後にリーダー格の男が残り、グイドの目の前で、ソーニャの体に触ろうとしてる。
隙を見て縄を解いたグイドは、マスクの男に飛び掛った。揉み合いとなり銃声が響いた。


ソーニャは今日もホテルに出て働いてる。
洗面所の鏡を見ると、額に痣のようなものがある。
あの日別荘でグイドが死んだことは、グイドの元同僚だったリッカルド刑事から聞いた。

リッカルド刑事は、グイドの死に不審な点があると感じていた。
なぜ賊が入りこむその日に限って、セキュリティが切られていたのか?
刑事は、ソーニャがなにか知ってるのではないかと疑っている素振りだった。

リッカルド刑事は別れ際に、ソーニャに写真を手渡した。グイドが持ってたものだと。
グイドとソーニャが仲陸まじく写ってる。場所に見覚えがない。

そして次第にソーニャの周りにも異変が起こってくる。ホテルの警備室のモニターを何気なく眺めていると、階段に死んだはずのグイドが映っている。
ソーニャは血相変えて、その場所に向かうが、誰の姿もない。

自宅に戻って、風呂に浸かってると、どこからともなくメロディが聞こえてくる。
隣の部屋だろうかと、壁に耳をつけるが聞こえない。

ソーニャは湯船に耳まで浸してみる。
すると、あの日グイドの車で流れてたポップソングが聞こえた。
水から顔を上げると聞こえなくなる。また耳を浸すと聞こえる。これはなんなのだ?

突然ケータイが鳴る。
「ソーニャ」
明らかにグイドの声だ!グイドは生きてるの?
でもグイドの葬儀にも立ち会ったのだ。
なぜか神父は私を睨みつけるように見ていたが。


自宅で洗濯物を干していたソーニャは、またあのポップソングのメロディを耳にした。
窓から外の通りを見下ろすと、そのメロディは、「引越しサービス」のトラックから聞こえた。

ソーニャは部屋を飛び出し、自分の車でそのトラックの後を追った。
パーキングに停まったトラックに後ろから忍び寄る。
ソーニャは助手席のドアを勢いよく開けて、乗り込んだ。

そして運転席の男に平手打ちした。
「私まで死ぬとこよ!」
運転席の男は、あの強盗団のリーダーだったのだ。
二人はイタリアからの高飛びを企てていた。行く先はブエノスアイレス。
新聞の死亡欄から同じ年かさの女性を探し出し、偽造旅券を作る手筈だった。


ソーニャは清掃係の同僚マルゲリータに、刑事から手渡された写真を見せた。
「後ろの橋にブエノスアイレスって書いてあるでしょ?」
「でもそんな所、行ったことないのよ」
「合成したんじゃないの?」マルゲリータは言った。

そのマルゲリータが急に仕事先に来なくなった。
副支配人は従業員を集めて言った。
「マルゲリータが自殺した」
ソーニャは尋ねた。
「自殺ってどんな?」
「飛び降りだそうだ」

ソーニャは葬儀に参列した。だが神父は墓の前でマルゲリータではなく、ソーニャの名を口にした。
「なぜ私の名を?」
動揺するソーニャをその場から連れ出したのは、ホテルの常連客の男だった。
マルゲリータから「女性従業員にやたら声をかける」と言われてた男だ。

ソーニャは男の車に乗るよう促される。男は運転しながら、ソーニャに
「コーヒーだよ、ブランデー入りの」と容器を渡す。
それを飲んだソーニャは意識を失くす。

男は車を雑木林に乗り入れ、ソーニャをビニールシートにくるんで、掘ってあった穴に引き下ろした。
意識は戻ったが、体が動かず、声も出せない。
男は上から土を被せていく。真っ暗で呼吸の音しか聞こえない。


次の瞬間、視界が開け、目の前にグイドがいた。そこは病室だった。
グイドは生きていたのだ。
というより、あの事件のあとのことは、夢の中のできごとだったのだ。
グイドとマスクの男が揉み合いになった時、男が撃った銃弾が、グイドの胴体を貫通して、ソーニャの頭部に当たったのだ。だが奇跡的に致命傷には至らなかった。

グイドが献身的に看病してくれたこともあり、ソーニャは退院できることになった。
グイドには実は妻がいたが、心の中では、ソーニャと新しい人生を歩んでいこうと決めていた。

だがソーニャが夢で見たと思われていたことは、すべてが夢というわけではなかった。
ソーニャはある日時を正確に覚えていたのだ。


細かい伏線が生かされていて、終盤にはグイドの持ってた集音マイクまでが、鍵を握るアイテムとなってる。2回見るともっと気がつく場面があると思う。

ソーニャを演じてるクセニア・ラパポルトは、ロシア出身の女優。
ジュゼッペ・トルナトーレ監督の『題名のない子守唄』で、謎めいたメイドを演じてた女優といえば、思い出す人もいるだろう。
今回ももしアメリカ映画だったらミア・ファローが得意としそうな、エキセントリックな役柄を、絶妙に演じて目が離せない。

フィリッポ・ティーミはグイドを演じてるんだが、こちらはいつものエキセントリックな演技を封印して、その静けさをまとった人物像の表現がまたいいのだ。

夢の中で、いきなり大きな音でソーニャが衝撃を受ける場面がある。
これはこけおどしのショック演出というのではなく、よくうつらうつらしてる時に、なにか物音がすると、普通より倍化して聞こえて、驚いて飛び起きるなんてことあるよね。それを表現してるんだな。

その音も伏線となってるのが、後の描写でわかる。
なかなか芸の細かいミステリーなのだ。

2012年8月24日

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押し入れからビデオ⑮『荒野に生きる』 [押し入れからビデオ]

『荒野に生きる』

荒野に生きる.jpg

前回の「押し入れ」でコメント入れた『ふたりだけの微笑み』と同じく、アンリ菅野がナビゲーターを務めてた、テレビ朝日の洋画枠「ウィークエンドシアター」で、1983年に放映されたのを録画したものだ。吹替版でリチャード・ハリスを内海賢二が、ジョン・ヒューストンを早野寿郎が声をあててる。

『荒野に生きる』は、1971年作、翌1972年に日本公開されてる。
俺が映画を本格的に見始めた頃には、すでに名画座にしろ何にしろ、スクリーンで見るような機会は無くなってた。最初に見たのは、たしか同じテレ朝の「日曜洋画劇場」での放映だった。

リチャード・C・サラフィアンは、監督5作目までに見るべきものがあった人だ。
だが1971年の『バニシング・ポイント』以外は、日本ではビデオ・DVD化されないという、不遇をかこってた。
つい最近になって、1973年のバート・レイノルズ主演の西部劇『キャット・ダンシング』がDVD化されたが、
1969年のデビュー作『野にかける白い馬のように』も、この『荒野に生きる』も、
1973年の『ロリ・マドンナ戦争』も、まだパッケージ化の動きはない。
『荒野に生きる』に関しては、アメリカでは、俺がこのブログを始めて間もない時期にコメント入れた、同じリチャード・ハリス主演の『死の追跡』と2作パッケージされたDVDが発売されてる。

ちなみにこのテレ朝の「ウィークエンドシアター」では、『荒野に生きる』の翌週に、カーク・ダグラスが監督・主演した異色西部劇『明日なき追撃』を放映していて、編成担当の好みの渋さが偲ばれる。
『明日なき追撃』もビデオ・DVD化されてないね。

ちょうど『THE GREY 凍える太陽』を見たあとで、なにやら「サバイバル」ネタが続く感じだが、
『荒野に生きる』はリチャード・ハリスの「被虐演技」の最高峰と呼べるものだ。


西部開拓の時期より少し前の1820年。アメリカ北西部も荒野を、異様な一団が通過してる。
いくつもの車輪のついた台車の上に、ノアの箱舟のような帆船が乗っかってる。
船首には大砲が一門据え付けられ、船長のキャプテン・ヘンリーが仁王立ちしてる。

陸の上ではその台車を18頭のラバに曳かせ、大きな川に出れば、帆を張ってリバーボートとして進むのだ。ラバとともに歩むのは猟師たち。
キャプテン・ヘンリーはこの船でビーバーなど、野生動物たちを狩猟し、その毛皮を金に替えるつもりだった。

土地を知るザック・バスは、一団を先導して進んでいた。
だが若い猟師が撃ちそこなった鹿を追って、茂みに分け入った所を、巨大なクマに襲われた。
猟銃を向けたが遅かった。

クマはザックの体をおもちゃのように引き摺り回し、キャプテン・ヘンリーたちが異変に気づいて駆けつけた時には、ザックは全身に深い傷を負い、虫の息だった。
ドクターは「樽一杯分くらいは出血してる」と言い、生きてるのが不思議なほどだと。


ヘンリーはドクターに、傷口を縫うだけの応急処置をさせ、ザックをこの場に置き去りにする事に。
この一帯は先住民族リッカー族の土地であり、先を急がないと、船を襲撃される。

ヘンリーは若い猟師と、年配の猟師フォガティを二人残し
「埋葬する穴を掘っておけ。明日の朝まだ生きてたら殺せ」と命ずる。
フォガティは「ザックの猟銃は値打ちものでして」と言うと、ヘンリーはその銃を取り上げた。

一団は出発し、二人は瀕死のザックとともに一晩を明かした。朝になり、まだ息のあるザックに、フォガティは銃口を向けるが、その時リッカー族の姿が見えた。
銃声で気づかれてしまう。
二人はザックをそのままにして立ち去ることに。
若い猟師はザックの脇に聖書を置いて
「すみません、ザックさん」と謝って去った。


リッカー族の酋長ロングホーは、瀕死のザックを見つける。
白人とわかるが、殺すわけでもないし、助ける素振りもない。
ただこれだけの怪我を負って、まだ生きてるという、その生命力には感服していた。
リッカー族は、岩の壁面に車のついた舟の絵を描いて、ヘンリーの一団の後を追った。


ザックはかすかに体を動かすことができた。
地面から這い出し、水辺に転がり込む。
水の感触が記憶も甦らせた。
ぼんやりとした視界の中に、ヘンリーがいて、自分を置き去りにしろと言ってる。

復讐心がザックの生命力に火を灯した。
まだ満足に動くことはできず、体温を奪われないために、体を落ち葉の中に埋めて、ただ眠った。


母親と二人きりだったザックは、その少年時代に、母親もコレラで失う。
牧師は「これも神の思し召しだ」と語りかけたが、天涯孤独の身となったザックは、
神など信じなかった。
密航を企て、ヘンリーの船に乗り込んだザックは、以来ヘンリーの下で成長してくことになる。

長じてザックは、グレイスという美しい女性と結婚し、妊娠を知らされる。
グレイスもまた神の愛をを唱えるが、ザックの心には響かない。
「お腹の子に話かけて」と言われ、ザックは生まれてくる子に話しかける。

「父親のことは忘れろ」
「お前の母親は心の優しい人だ。ふたりして生きていくのだ」
「いつかザック・バスだと、その名を聞く日が来るかもしれない」


動かない体の近くにいる虫など、生きてるものを手当たり次第、口にして命をつなぐザック。
物音に身を潜めてると、先住民族の女性を連れた白人の男が、リッカー族の襲撃を受けてる。
何人もが殺され、死体が転がる中を、ザックは這い出して、使えそうな物を物色する。
右足は完全に駄目だったが、這って移動するまでにはなっていた。

別の日には、バッファローの肉をあさる山犬たちを追い払い、そのレバーにかぶり付いた。
体力も次第に戻りつつあった。
罠をしかけて野ウサギを捕らえ、毛皮は杖の脇あての部分にし、やじりをこしらえて漁もできるようになる。

季節は秋から冬に入っていた。雪が舞う山肌を、杖をついてひたすら進むザック。
その視線の先に、いつヘンリーの船が見えるのか?

荒野に生きる2.jpg

一方ザックの先導を失い、ヘンリーの一団は迷走していた。
リッカー族と遭遇する場面があり、大砲で追い払ったものの、ヘンリーは進路を変えるよう指示。
南のミズーリ川を目指してた一団は、北に進路を変えていた。

船長の様子がおかしいということは、猟師の間でも囁かれていた。
ヘンリーはフォガティから、ザックを殺さずに置き去りにしたと報告を受けて以来、ザックの影に怯えているようだった。

ヘンリーは息子同然に面倒を見てきたザックには複雑な感情を抱いていた。
「あいつは自分の周りに垣根をつくり、決して歩みよろうとはしなかった」
だがザックの能力は認めていて
「俺が尊敬できる唯一の人間だ」とも言った。
ザックを置き去りにすると決めた時
「我々はただ狩猟をしてるんではない。もっと大きな仕事をやり遂げようとしてるのだ」
「そのためには、父親が息子を犠牲に差し出すのも厭わない」
と猟師たちに言った。


ザックは森の中で、リッカー族の姿を見かけ、木陰に身を隠した。
お腹の大きな女性が、ひとりで歩いてくる。倒木を見つけ、その前にしゃがみ込んだ。

両側に伸びた根の部分を両手で掴んでいる。ここで出産しようというのだ。
夫らしき男が馬の上からあたりを覗ってる。
先住民族の女性は一心にいきんでいる。
ザックはその様子を木陰から息を殺して見つめていた。
いいようのない感動が、ザックの胸に込み上げてきた。

女性が赤ちゃんを無事産み落とした時、ザックの頬には涙がつたっていた。
子供の頃から流したことなどなかったのに。

ザックは妻のグレイスの葬儀の日を思い返していた。
妻は息子を産んで、何年もしないうちに先立った。
墓のそばで、まだおぼつかない足取りで歩く息子をザックは眺めていた。
グレイスの母親に、息子のことはお願いしますと、その馬を立ち去ったのだ。


神も人の情愛も受け入れず、孤独の中に身を置くザックの心が、変わり始めていた。
後ろ足を骨折して動けないでいるウサギを見つけて、足に添え木をつけてやる。
食料としか思ってなかったウサギを、いまは胸に抱いている。
火種としてページを破くのみだった聖書を、いまは読む余裕も生まれていた。


ヘンリーの一団は大きな川に出た。だがまだ雪解け前で、船を浮かべるような水量ではなかった。
猟師たちは、船を捨てて、物資をラバに積み分けようと進言するが、ヘンリーは聞き入れない。
だが進退窮まってる所へ、ロングホーが率いる、リッカー族が大群を率いて、襲いかかってきた。

銃声や砲音が鳴り響く、その戦闘の場に、ザックは杖をつきながら近づいていく。
途中でリッカー族に捕まり、留めを刺されそうになるが、酋長のロングホーが止める。
ロングホーはザックの頬の傷跡を見て、あの瀕死の白人だと気づく。

「お前はこの大地で一度死んだ。もう死ぬことはないだろう」
「復讐をさせてやる」
ロングホーは自らの部隊に襲撃を止めさせ、ザックを船へと促す。


対岸からゆっくりと近づいてくるザックの姿を、猟師たちは身動きもせず、見つめている。
その目には畏敬の念すら浮かんでいた。

キャプテン・ヘンリーは船から降りて、ザックの前に立った。
無言で睨み合うふたり。先に口を開いたのはザックだった。
「その銃は俺のだ」
ヘンリーは手にしていたザックの猟銃を返した。

ザックはこわばった表情を少しだけ和らげ
「帰るよ。息子のもとに帰るんだ」
そう言うと、ヘンリーに背を向けて歩き始めた。

猟師たちは、ザックの後を追うように船から離れて行った。


上映時間99分の映画で、「ウィークエンドシアター」の2時間枠で放映されてるから、そんなにカットはされてないんだろうとは思う。

レッドフォードの『大いなる勇者』を思わせるプロットだけど、レッドフォードが、山に入っても美男子ぶりを失わないのに比べて、リチャード・ハリスのボロボロ感は徹底してる。
なにしろ映画の最初と最後と、あとは回想場面にしかセリフがないから、まさに全身と、表情の演技だけで、ザックという男を作り上げていくわけだ。

クマに襲われる冒頭の場面は、着ぐるみとかではなく、調教されたクマにやらせてる。
まあクマにしたらジャレてるようなもんだろうが、けっこうな迫力で、これはなまじのサバイバルものではないなと、早くも感じさせるに十分なのだ。

『THE GREY 凍える太陽』では、リーアム・ニーソンがサバイバルのはてに、神の不在を呪うように叫んでいたが、この『荒野に生きる』では、野生と一体化してくような中で、男が人間性を芽生えさせていくのが対照的だ。

音楽を担当してるジョニー・ハリスは聞いたことのない名前だが、キャプテン・ヘンリーの船が移動する場面で、必ず流れる勇壮なテーマ曲は、いかにも西部劇の気分を出してるし、エンディングの曲もきれいだった。

2012年8月23日

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ロン・ハワードの背中を追う「アメグラ」同窓生 [映画ア行]

『イルカと少年』

イルカと少年2.jpg

その同窓生とはチャールズ・マーティン・スミスだ。
1974年の『アメリカン・グラフィティ』を封切りの時に見て、「アメリカ人にもこんなのがいるんだな」と親近感湧いてしまった。

彼が演じたテリーは、高校生なのに中年おやじみたいな髪の分け方で、度の強い黒縁メガネ。
ベスパで登場して、いきなり駐車に失敗してる。
自分ではカッコつけたいんだけど、やることなすこと笑いのネタになる。
今の役者でいえば、『バス男』のジョン・ヘダーや『スーパーバッド 童貞ウォーズ』のマイケル・セラなんかに通じる「ナード系」の元祖かも。

いやそれまでにも『ジェレミー』のロビー・ベンソンとか、『少年は虹を渡る』のバット・コートとか、童貞キャラは居ないわけじゃなかったが、彼らの場合はどこか女性にアピールする「可愛げ」も持ち合わせてた。
だが『アメグラ』のチャールズ・マーティン・スミスの風貌は、「非モテ」のかすかな希望すら打ち砕くような冴えなさだった。
だが映画で最もインパクト残したのは、このテリーだった。

『アメリカン・グラフィティ』で共演したロン・ハワードは、青春スターとしての自分には早々に見切りをつけ、早い時期から監督業に乗り出し、いまやアメリカ映画を代表する監督のひとりにまで登りつめた。

チャールズ・マーティン・スミスも役者業の傍ら、1986年に『ハロウィン1988・地獄のロック&ローラー』で監督デビューを果たした。これはちゃんと日本でも公開されてる。


『アンタッチャブル』の会計士役など、歳を重ねて脇役としていい味出してきてるが、彼の役者としての代表作は、唯一の主演映画でもある、
1983年の『ネバー・クライ・ウルフ』だ。

ネバー・クライ・ウルフ.jpg

北極圏のトナカイの激減が、オオカミの仕業によるものなのか、その調査に、カナダ政府から派遣される、生物学者タイラーを演じてた。

これも封切りの時に見てるが、映画のようであり、ネイチャー・ドキュメンタリーのようでもあるという、その演出のスタンスが面白かった。
ロケはアラスカやカナダのブリティッシュ・コロンビア州で行われてるが、その大自然の景観や、野生動物たちを捉えたカメラが美しかった。
撮影監督は日系のヒロ・ナリタで、ちなみに昨日コメント入れた『THE GREY 凍える太陽』の撮影監督は、日本からアメリカに渡ってキャリアを積んでいるマサノブ・タカヤナギだ。

先日コメント入れた『THE GREY 凍える太陽』ではオオカミの獰猛さが強調されてたが、
『ネバー・クライ・ウルフ』では、タイラーが一匹の白いオオカミをずっと観察する様子が描かれ、オオカミへの理解の深さを感じさせた。


チャールズ・マーティン・スミスはこの映画に出たことで、原作者で博物学者でもあるファーレイ・モアットに傾倒したようで、
2003年の『ホワイト・クラッシュ』ではモアットの原作を自ら監督してるのだ。

バリー・ペッパー演じるアラスカの空輸パイロットが、結核に冒されたイヌイットの少女を、町の病院まで運ぶ仕事を引き受けるが、機体のトラブルで、アラスカの大湿原の真っ只中に墜落。一命は取り留めたものの、過酷なサバイバルを余儀なくされるというストーリー。

屈強にそうなパイロットより、病弱なイヌイットの少女が、大自然で生き抜く知恵を持っているのだ。
ここでは『THE GREY 凍える太陽』と同様に、絶望的に広大なアラスカの、人を寄せ付けない厳しさが描かれていた。

そんなわけで、「オオカミ」と「アラスカ」というキーワードで、昨日の『THE GREY 凍える太陽』から、チャールズ・マーティン・スミスに繋いだんだが、本来なら『ネバー・クライ・ウルフ』か『ホワイト・クラッシュ』にコメント入れる所だけど、『イルカと少年』だ。

これは同窓のロン・ハワードの背中を追うように、監督キャリアを重ねてきたチャールズ・マーティン・スミスにとって、初めての「全米興収第1位」を獲得した映画になったのだ。
俺の好きなアシュレイ・ジャッドも出てるというのに、日本では劇場公開に至らず、DVDスルーとなってしまった。


フロリダ沖で漁の網にからまってしまい、浜に打ち上げられたイルカを保護した実話を元にしてる。
イルカは地元のNPOが運営する、海洋生物保護施設「クリアウォーター」で、ウィンターと名づけられ、ケアされるが、深い傷を負っていて、尾ヒレが壊死すると見られたため、やむなく切断される。

だが泳げないイルカは生きてはいけない。
「クリアウォーター」の飼育員たちは、人工の尾ヒレを、ウィンターに装着させようと試みる。

この骨格の部分は事実の通りで、そこに文字通り、話にも「尾ヒレをつけて」ファミリー向けの感動作に仕立て上げてるわけだ。
まず浜に打ち上げられたウィンターと出会うのが、地元に住む11才の少年になってる。


少年ソーヤーは、父親が数年前に突然失踪して以来、ふさぎこむようになり、友達と遊ぶこともなく、家では部屋に閉じこもって、ラジコンヘリの組み立てに没頭してる。
高校の競泳記録を持つ従兄のカイルが、唯一の話相手だ。
そのカイルはオリンピックの資金稼ぎにと軍隊に入り、しばらくは会えない。

浜に打ち上げられたイルカに近づいたソーヤーは、体に巻きついた網を解いてやる。
イルカはレスキューに運ばれて行ったが、NPO施設「クリアウォーター」で、再会することになる。

まだ子供のイルカはウィンターと名づけられてたが、怪我の具合も悪く、何も食べようとせず、衰弱してる。だが網を解いてくれたソーヤーのことを憶えていて、ソーヤーが手にした哺乳瓶から、ミルクを飲むようになる。
ソーヤーは「クリアウォーター」の獣医クレイ先生から認められ、ウィンターの世話を手伝うことに。


クレイ先生には、ソーヤーと同い年くらいのヘイゼルという娘がいる。ヘイゼルは親の教育方針もあり、学校には通ってない。なのでソーヤーは、初めてできた友達なのだった。
ふさぎこんでたソーヤーは、ウィンターや、クレイ先生親子との触れ合いで、明るさを取り戻していく。

夏休みの補修授業にも出ずに、「クリアウォーター」に入り浸る息子を母親ロレインは叱るが、ソーヤーに手を引かれてウィンターのもとを訪れると、息子が普段とまったくちがう、快活な表情を見せることに驚き、その「夏の課外授業」を見守ることにする。

一方笑顔を取り戻したソーヤーと対象的に、明るかった従兄のカイルから笑顔が消えた。
カイルは軍の赴任先で爆弾により、脊髄を損傷し、片足が利かなくなり帰国したのだ。

ソーヤーたちにも会わず、町の病院で車椅子で過ごしていた。もう水泳選手の夢は絶たれた。
面会に来たソーヤーと母親にも背を向ける。
ソーヤーはカイルに「僕たちがどんな気持ちでいるのか、わからないの?」となじった。
その言葉はカイルの胸を突いた。


そのカイルの傍らにいたのが、義足の専門家マッカーシー博士だった。博士は
「人生はひと通りしかないなどと思い込むな」
「夢が消えたのなら、別の夢を追えばいい」とカイルを諭す。
カイルを通してマッカーシー博士と知り合ったソーヤーは、相談を持ちかける。
「ウィンターに会ってやって」

「クリアウォーター」を訪れた博士は、尾ヒレのないイルカと対面する。
ウィンターは尾ヒレを失った後、飼育プールの中で、体をくねらせる独特の泳ぎ方をしていた。
だがその無理な動きは、脊髄にダメージを与える危険性がある。
クレイ先生の説明を聞き、マッカーシー博士は、挑んだことのない、イルカ用の人工尾ヒレの製作を承諾した。


アシュレイ・ジャッドは、ソーヤーの母親ロレインを演じてるが、そうだねもう母親役が板についてきたというか、ほぼ同時期デビューのシャーリーズ・セロンとかキャメロン・ディアスのようには、いかなくなってきてるのはちと淋しくはある。

マッカーシー博士を演じるのはモーガン・フリーマン。安定の役柄だ。
クレイ先生の父親で、係留されたクルーザーで暮らしてるのがクリス・クリストファーソンという、何気に豪華キャストなのだ。

そしてクレイ先生を演じて、キャストの図柄でも真ん中にいるのが、ハリー・コニック・Jrだ。
昨日の『THE GREY 凍える太陽』に出てたダーモット・マローニーも、出るたび印象がちがって、すぐに本人と判らない役者と書いたが、ハリー・コニック・Jrも俺にとっては同じような印象がある。

もとはジャズピアニストだから、役者は本職じゃないはずだが、『メンフィス・ベル』『インディペンデンス・デイ』『閉ざされた森』と、軍人を好んで演じてるような所があり、意外とマッチョ志向なのかと。
この『イルカと少年』でも、首が太いし、上体が逞しいんで、最初は本人とわからず。
役柄もあって爽やかな印象だ。

クレイ博士はシングルファーザーで、ソーヤーの母親ロレインはシングルマザーなんで、二人のロマンスもあるのかと思いきや、そこはファミリー向けなんで、スルーだった。

イルカのウィンターは「本人」が出ていて、その表情やしぐさなどは、子供たちの心を掴むだろう。
悪人は一人も出てこないという「おとぎ話」みたいな内容だが、映画のエンディングには、実際の映像が映し出されてる。
ウィンターは今も、人工尾ヒレをつけ、「クリアウォーター」の水族館のプールで、手や足を失った子供たちの訪問を受けているのだ。
ウィンターの体に触れて歓声を上げてる子供たちの映像にはグッとくるものがある。

夏に涼しいシネコンで、親子連れで見るには最適じゃないかと思うんだがなあ。

2012年8月22日

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このリーアム・ニーソンに頼ってはいけない [映画サ行]

『THE GREY 凍える太陽』

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数日前に、アラスカで新しい人生を切り開こうとするヒロインを描いた『ウェンディ&ルーシー』にコメント入れたが、この映画で描かれるアラスカは絶望の地だ。

リーダーシップを執る人間の判断が正しいとは限らない、ということを描いてる点でいえば、同じサバイバル・パニックものの範疇にある『パーフェクト・ストーム』を連想させる。
あの映画も漁船の船長だったジョージ・クルーニーに「その判断でよかったの?」と思える部分が目立った。最期も救われないし。

この映画の場合、リーダー格となるのがリーアム・ニーソンだから、そりゃ「Aチーム」も率いてきたし、『96時間』でも霊長類最強みたいな親父ぶりを示してたから、この男についてきゃ大丈夫だろうと思うのが人情だ。
だが幕開けで、リーアム演じる主人公オットウェイのモノローグを聞いてると、どうも様子がちがう。


アラスカの石油採掘現場で、野生動物の襲撃から作業員を守る、ハンターの仕事に就いてるオットウェイは、バーで酒を煽った後に、外に出て、手にしたライフルを自分の口に入れるような真似をしてる。

オットウェイは手紙をしたためる。届く宛てのない手紙だ。
それは亡き妻への手紙。妻は病死した。
もうあの満たされた穏やかな時間は戻ってこない。

この石油採掘現場は、過酷な場所で働くしかない男たちの巣窟だ。
オットウェイにとって、人生は意味などないに等しかった。


休暇で家族のもとに帰る作業員たちと、飛行機に乗り込んだ。
機体はしばしば揺れた。嵐に遭遇してたのだ。

妻とベッドで過ごす夢を見てたオットウェイは、激しい衝撃に飛び起きた。
機体は急降下してる。
オットウェイは冷静に、一番効果的なシートベルトの締め方で体を固定し、酸素マスクを装着した。
体は逆さになり、機体の天井は吹き飛び、目の上に森林が見える。


そこで意識は途切れ、気がつくと氷原の只中に放り出されていた。
少し歩くと、バラバラになった飛行機の残骸が目に入った。
助けを呼ぶ声がする。
自分以外にも生存者がいたのだ。男ばかり全部で8人。

墜落場面の描写も恐ろしいが、墜落地点に吹雪が吹きすさんでるのも凄まじい。
生き残ってホッとしてというような風情ではないのだ。

8人のうち、ルウェンデンという男は、墜落の衝撃で腹部を損傷し、
「こんなに血って出るもんなのか?」と自らうろたえるほどの重傷だ。
血を止める術はない。

オットウェイはパニックを起こすルウェンデンの目を見て言う
「いいか、お前はもう死ぬ」
「愛する者はいるか?」
6才の娘がいると言う。
「娘と過ごしていると思うんだ」
「死ぬ時は暖かくなる」
ルウェンデンの気は静まり、やがて最後の息を吐いた。

この場面はさすがリーアム・ニーソンという、語りかけと表情で、見る者の胸を締め付ける。
こういう役者が主役を張ってることで、同じストーリーを描いても、厚みが変わってくるものだ。


仲間のひとりを穏やかに旅立たせたオットウェイを、6人の男たちは囲んでいた。
「まず焚き火を炊くこと、食料を探すこと」
オットウェイの指示で、6人の男たちは動き始めた。
死体が散乱してたが、手をつける余裕もない。

夜になると、酷寒と飢えの問題よりも、深刻な事態が眼前に迫りつつあることを、男たちは痛感した。
闇夜に無数の目が光ってる。その墜落地点は、オオカミの縄張りの中だったのだ。
オットウェイはオオカミの習性を熟知していた。
縄張りに入った者には攻撃をしかけてくる。
夜は2時間おきに見張りを立てることにした。

だが見張りに立ったヘルナンデスは、小便の最中にオオカミ数頭に襲われて、最初の犠牲者となった。
翌朝オットウェイが死体を発見するまで、誰も気がつかなかった。

男たちの間に激しい動揺が走る。オットウェイは決断を下す。
「この縄張りの中にいては、この先も執拗に攻撃を受ける」
氷原の向こうにかすかに見える森を目指して移動すると言う。
だがディアスは異を唱える。
「ここに留まれば救助が来るはずだ」

ディアスは、そもそもリーダー風を吹かすオットウェイが気に食わない。
だが他の5人はオットウェイの判断に従うかまえだ。ディアスも追従するしかなかった。

氷原は激しい風が行く手をはばみ、深い雪にも足を取られる。
足に怪我を負っていた最年少のフラナリーが、最後尾であっという間に、オオカミたちの餌食となった。残るは5人。
一刻も早くこの氷原を抜けて森へ逃げ込まねばならない。


しかし素人の俺でも、なんで墜落地点に留まるより、森の中に逃げ込んだ方が安全と思うのか、よくわからない。そもそもオオカミは森にいるんじゃないのか?
たしかに氷原の真っ只中では、逃げ隠れもできないとはいうが、残骸ではあっても、機体という鉄製の人口物が残ってるんだから、シェルターに組み上げるような形で、オオカミの攻撃を防ぐ手立てはできたのではと思ってしまう。

だが長期戦になれば、燃やす物も無くなるし、食料の確保という問題もあるな。
『アンデスの聖餐』みたいなことはしたくないだろうし。

この後、森に逃げ込んだものの、事態は一向に好転しないという、アメリカ映画には珍しい位に、絶望的なサバイバルが描かれていく。
カタルシスを与えてくれるようなことはない。
ほとんどまともな武器もないから、オオカミに立ち向かう術がないのだ。

脅威なのはオオカミだけではない。5人のうち黒人のバークは、墜落時の低酸素症で、次第に衰弱していく。高所恐怖症のタルゲットは、断崖絶壁から対岸へのアプローチに足がひるむ。
生存者のうち、常に冷静に行動してきたヘンリックは、オットウェイの判断と行動に微かな疑念を抱いていた。
彼はバーから外に出て行ったオットウェイを、たまたま目で追っていたのだ。


リーアム・ニーソンの他に顔を知られた役者が出てない。
なので誰が犠牲になるかという、映画好きにとっての見当つけもできない。

高所恐怖症のタルゲットを演じてるのはダーモット・マローニーなんだが、俺はラストにキャストの名前が出た時にも、彼がどの役だったのかわからなかった。
ダーモット・マローニーは『ベストフレンズ・ウェディング』など90年代にはイケメンとして売ってたが、2002年の『アバウト・シュミット』で全く面影もない位に印象を変えた役を怪演してて、俺はその時に「この役者はけっこう曲者なんだな」と認識した。
しかし今回の役もメガネをかけてたとはいえ、全然わからなかったのだから、大したもんだ。


5人の男たちが森の中で、焚き火を囲んで、互いに大切な人間のことを話す場面がある。
タルゲットは小さな娘がいて、娘の髪は父親の自分が切ることになってると話す。
娘の髪が頬を撫でてこそばゆい。
その感触こそがタルゲットが、生き延びて帰らねばならない、幸福の源となってる。

この場面でオットウェイは口を閉ざしていた自分のことを語り出す。
父親に愛情を注いでもらえなかったこと。
「父親は酒呑みで、典型的なくそったれのアイリッシュだ」
だが父親は詩を好んで書いたという。
その詩の一節がオットウェイにとって、呪文のように心に刻まれてる。

「もう一度闘って、最強の敵を倒せたら」
「その日に死んで悔いはない」
「その日に死んで悔いはない」

オットウェイは生き延びるつもりなのか?死に場所を求めてるのか?

リーダーシップを執る人間が、まさに「グレイ」な存在なのであって、しかしだからといって、この男を無視して、自分だけでサバイバルできる胆力があるだろうか?
極限状態に陥った時、人間は強い意志を持った者に自らの運命を託そうとしてしまうのではないか?

この映画はラストに至っては、ブラックユーモアの気配すら漂わせているんだが、生存者の男たちに、やはり選択肢は他にはなかったんだろうなと、その不条理にも納得せざるを得ない。
そのくらいアラスカという地の、容赦ない厳しさかげんが描かれてたということだ。


監督のジョー・カーナハンは『スモーキン・エース』『特攻野郎Aチーム』と、漫画チックなアクションが続いたが、今回はジョークは一切抜きという、『NARC』で見せた、ゴリゴリとした男たちのドラマに回帰してる。

この映画は兄のリドリーと共に、トニー・スコットがプロデューサーとして名を連ねている。映画は全米では興収第1位を獲得してる。これが彼の最後の仕事になったのだろうか…

2012年8月21日

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ストックカーレース映画の最高峰 [映画タ行]

『デイズ・オブ・サンダー』

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「トニー・スコット監督自殺」の報にはさすがに目を疑った。
遺書があったということは、衝動的ではなかったということだ。理由はなんなのだ?
クリエイターとしての行き詰まりということでもないだろう。

昨年は『アンストッパブル』で、「相変わらずお盛んだなあ」と、その衰えない演出パワーに乗せられて、俺はシネコンに2度見に行ったくらいだったのに。
68才か、リドリーもショックだろうねえ。

『トップガン2』を準備してたというが、俺はこの監督のものでは『トップガン』より
『デイズ・オブ・サンダー』の方が好きなのだ。
いや他にも面白い映画を何本も撮ってる人だけど、一番回数多く見てるのがこれなんだな。

1990年の、たしか7月の暑い最中に封切りを見に行った。もうヒネリもなんにもない、レース一直線って映画で、夏の暑さも忘れさせる爽快な気分で映画館を出たのを憶えてる。

その当時は、日本もバブル真っ只中で調子こいてたんで、ソニーに続いて、松下もハリウッドで映画会社を買収、ジャパンマネーがふんだんに流れこんでたわけだ。
この映画のプロデューサー、ドン・シンプソンとジェリー・ブラッカイマーのコンビも、いいようにジャパンマネーを使いまくったなんて言われてた。

だが興収としては『トップガン』の足元にも及ばず、「失敗作」の烙印を押された。
だがあのバブルの資金力がなければ、これだけのスケールでは撮れてないだろう。

NASCARのストックカー・レースを描いた映画としてのみならず、臨場感からいったらカーレース映画でも群を抜いてると思う。
60年代の『グラン・プリ』や、ポール・ニューマンの『レーサー』、マックィーンの『栄光のル・マン』以降、カーレースの映画自体がほとんど作られなくなった。
あるにはあるが、製作規模の小さなものばかり。
なのでオーバルコースを、猛烈にチューンナップさせたレースカーが爆走するド迫力にはしびれた。


トニー・スコットらしく、車のフロントの車載カメラや、地面すれすれのローアングルなど、カメラを置ける位置には全部置けみたいな、至れり尽くせりの映像で、レースのスピードを体感させてくれる。

トム・クルーズ演じる主人公コール・トリクルが、レース中に、前方を行く数台がクラッシュし、炎上する、その黒煙の中に突っ込んでいく場面のおっかなさ。映画館で身がすくんだよ。

ストックカーの獰猛なエンジン音もテンションを上げてくれる。
DVDになってからも、時折取り出しては、サラウンド・ヘッドフォン装着、ほぼフルボリュームで浸ってるのだが、この映画デジタル・リマスターを施して、今のシネコンでかけてほしいなあ。
デジタルIMAXとかで見れたら最高なんだが。


ストーリーはまったくもって単純。

サーキットにふらりと現れた名もない若者コールが、いきなりチームのトップレーサーの車に乗り込んで、凄いラップを叩き出す。
当然車を使われたローディは面白くないが、ベテランのカー・ビルダー、ハリーは、無名の若者の荒削りな走りに、天分を見出し、チームに迎え入れる。

コールとローディは常に角突き合わすライバルとなるが、二人の切磋琢磨でチームは得点を上げていく。だがあるレースでコールとローディがクラッシュし、ローディは再起不能の怪我を負う。

天性の走り屋だったコールの中に、走ることへの恐怖が芽生える。
チームオーナーはコールに見切りをつけ、新進レーサーのラスをチームの柱にする。

コールは苦渋を味わうが、レースへの闘志は完全には失ってなかった。
コールはハリーや女医のクレアの支えもあり、恐怖を克服するため、最大の舞台
「デイトナ500」に挑む。
とこんな感じだ。


『俺たちに明日はない』や『チャイナタウン』など名作を書いた脚本家ロバート・タウンにしたら、もう書き飛ばしたような内容なんだが、そこが逆に面倒くさくなくていいのだ。
トム・クルーズも「走りバカ一代」という感じで、清々しいほど内面になにもない。

ニコール・キッドマンはカーリーヘア時代の最後の頃で、まだ野暮ったさが抜けてない。
ギャラのほとんどはトムに行ってるんだろうが、脇を固めてるメンツが渋くていい。

カー・ビルダーのハリーには、こういう役はお手のもののロバート・デュヴァル。
チーム内のライバル、ローディを演じるのは、マイケル・ルーカー。
敵役を演じることが多い役者だが、この映画ではユーモラスな面も見せてる。
チームオーナーにはランディ・クエイド。
ロバート・タウンが脚本書いた1973年の『さらば冬のかもめ』が彼の出世作だった。

それからまだキャリア駆け出しの時期のジョン・C・ライリーが、コールの才能を認めるピットクルーの役で出てる。
その後2006年に、この『デイズ・オブ・サンダー』のまんまパロディといえるようなレース映画
『タラデガ・ナイト オーバルの狼』では準主役で出てる。

この映画は全米で1億ドルを超えるヒットを記録しながら、日本では劇場未公開に終わった。
理由は主演がウィル・フェレルで、売りようがないということだったんだろう。
レースシーンはけっこう迫力もあったのにねえ。

ジョン・C・ライリーは怪我で出れなくなったトップレーサー、ウィル・フェレルを蹴落として、チームのトップの座はおろか、ウィルの女房まで寝取ってしまうという美味しい役だった。


『デイズ・オブ・サンダー』の音楽は、ほぼハードロックの楽曲が並ぶベタなもので、それはそれでいいのだ。
しかしこの映画でもスペンサー・デイビス・グループの『ギミ・サム・ラヴィン』が使われてる。
俺思うけど、アメリカ映画で多分一番使われてるロックナンバーだと思うんだよな。

「こっからテンション上げましょーっ!」みたいな場面に必ずかかるもの。
アメリカ人どんだけ好きなんだよこの曲ってね。

そんなわけで今夜はこの映画をまた引っ張り出して、監督を偲ぼう。

2012年8月20日

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女優が美しさを競う古典怪談 [映画カ行]

『画皮 あやかしの恋』

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レスリー・チャンとジョイ・ウォンの『チャイニーズ・ゴースト・ストーリー』を見たのも随分昔のことになるが、なんか久々にそんな感じのファンタジーに思えた。

それもそのはずで、原作となる、清の時代に書かれた「聊斎志異(りょうさいしい)」という短編怪談集には、この『画皮 あやかしの恋』と共に『チャイニーズ・ゴースト・ストーリー』の元になる短編も収められてるのだという。


若き将軍・王生(ワン・シェン)は、西域での合戦に臨み、砂漠の盗賊に捕らえられていた美女・小唯(シャオウェイ)を救い出す。盗賊はその時すでに絶命していた。
王生は小唯を片腕で脇に抱え、連れ出した。

小唯は盗賊に襲われたわけではなかった。
むしろ色香で床に誘い出し、抱かせると見せかけて、その心臓を一突きしてたのだ。
知る由もない王生は、小唯から身よりがないことを聞かされると、故郷の町に連れ帰る。

王生には美しい妻・佩蓉(ペイロン)がいたが、妻に事情を話し、家に住まわせることにした。
小唯は狐の妖魔で、絵に描いた人間の顔に化けられる術を持っていた。
そんな小唯は、妖魔でありながら、自分を救い出した王生に、恋をしてしまった。
小唯が時折、夫に送る艶かしい視線を、妻の佩蓉も気づいていた。
佩蓉は自分より年若い、薄幸の美女を、優しく受け入れはしたが、次第に猜疑心も芽生えてきた。


小唯が家にきて数ヶ月後、町では心臓を抉り取られる殺人事件が頻発するようになる。
犯人はトカゲの妖魔・小易(シャオイー)だった。
人間に化け、姿を消すこともできる小易は、愛する小唯の下僕となって、心臓を集めていた。
小唯の美貌は、心臓を食らうことで維持されてたのだ。

佩蓉はただならぬ気配を覗かせる小唯を、人間ではなく魔物ではないかと疑い始めた。
だが夫の王生はまともに取り合わない。
王生はいまや小唯を、実の妹のように思っていたのだ。

佩蓉は、かつて王生が属していた軍の主将だった龐勇(パン・ヨン)に手紙を送った。
龐勇は無数の敵を相手に、ひとり薙刀で向かい、打ち負かしてしまうほどの戦士だったが、佩蓉が王生と結ばれることを知り、軍を去った。
龐勇は佩蓉への想いを口に出すことはできなかったのだ。


龐勇と時同じくして町にやってきた夏冰(シア・ピン)は、妖魔によって命を奪われた祖父の仇を討ちに来た降魔師だった
。女なのに色気もない夏冰を、龐勇はなぜか気に入り、行動を共にすることに。
王生の家に出向き、小唯と対面する二人。夏冰はやはりなにか邪気を感じる。

「妖魔なら体にあざがあるはず」
小唯は拒むこともせず、疑いをかける佩蓉と夏冰の前で、その肌をさらす。
どこにもあざは見当たらない。
小唯に辱めを受けさせてしまった。佩蓉は自己嫌悪に沈んだ。

だが謝罪の部屋を訪れた佩蓉に、小唯は思いがけない素顔をさらした。
美しい顔の皮膚を自らはがすと、無数の虫がうごめく、おぞましい顔が佩蓉の前に。
小唯は正体を明かし、自分は王生の妻になるつもりだと言った。
王生には妾でもいいから、と懇願したが、首を縦に振ってはもらえなかった。
思いが遂げられなければ、このまま町の人間たちの心臓を抉り続ける。


龐勇と夏冰は、トカゲの妖魔・小易を追い詰めたが、とり逃がしてしまっていた。
佩蓉は決心せざるを得なかった。妖魔に太刀打ちすることはできない。
私が身を引けば、人々の命も守られる。
佩蓉は小唯との取引に応じた。

小唯の差し出した酒を口にする。すると佩蓉の髪も肌も真っ白に変貌した。
その姿を見た王生も、町の者たちも、佩蓉が妖魔だったと思い込んでしまう。

武器を手にした町民たちに囲まれた佩蓉を救い出したのは龐勇だった。
毒を盛られたということは察しがついていた。
狐とトカゲの妖魔をいまこそ打ち負かさねばならない。
その鍵を握ってるのは、降魔師の夏冰だった。


龐勇を演じるドニー・イェンが、冒頭では立ち回りを披露するが、実は決定的な役割は担ってないのが、意外な展開だ。
いつもの無双な感じを控えて、脇に回ってる。
映画としては3人の女優のそれぞれの個性を楽しむような作りになってる。

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肌の白さと伴って、皮膚の薄い感じが、どこかこの世のものでない幽気を漂わせて、妖魔の小唯にはぴったりだと思うジョウ・シュン。
王生の妻・佩蓉を演じるヴィッキー・チャオとは、同じ1976年生まれというが、ジョウ・シュンの方が、顔に幼さが残るんで、年下に見える。
小唯と佩蓉がひとりの男を巡って、視線を戦わせてくあたりから、映画としても見応えが出てくる。

ヴィッキー・チャオが毒を飲まされ、変貌してく場面は、二人の女優の演技も、もっとも火花を散らす所で、これは「女たちの物語」だとわかるのだ。
俺は好みとしてはヴィッキー・チャオだなあ。

もうひとり、降魔師の血を受け継ぐ娘・夏冰を演じるスン・リーは、男みたいな出で立ちで、化粧っ気もないが、こういう勝気な少女キャラも好きな向きはいるだろう。
実際は他の二人に劣らず、奇麗な顔立ちをしてるが、クライマックスの戦いで、覆い被さるように倒れた龐勇を抱きかかえて泣く場面は、もう少しアングルを考えてやれと思った。

彼女の顔を下の方からあおり気味で撮ってるから、泣き顔がブサイク。
きっと本人も納得してないぞ。

王生を演じたチェン・クンは伊勢谷友介に似たイケメンだが、この王生の優柔不断さが、騒ぎを大きくしてるとも思えるね。

この手の中国・香港ファンタジーにしては、前半などは非常に静かな場面が続くのがちょっと意外。
もっとコテコテにいろんな見せ場を放り込んでくるかと思ってたので。

トカゲの妖魔・小易は、狐の妖魔・小唯に想いが届かず。
小唯は人間の男・王生に焦がれるが、やはり想いたがわず。
龐勇は佩蓉への想いを拭いさることはまだできてない。
佩蓉もそれは知っているが、二人が結ばれることはない。

おどろおどろしいホラー風味に見えて、その実、成就しない想いに繋がれた者たちの、因果な恋物語になってる所が、古典として読み継がれてる所以かも知れない。

2012年8月19日

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ノルウェー基地からの物体X [映画ヤ行]

『遊星からの物体Ⅹ ファースト・コンタクト』

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シネコンで見たが、意外に客は入ってた。年齢層は高かったね。ほとんどの人が、1982年のジョン・カーペンター監督版を見てるということなんだろう。

このプリクエル(前日譚)の企画には必然性がある。
1982年版では、冒頭に南極のノルウェー基地が壊滅状態にあることが描かれてた。
そのノルウェー基地で何があったのかを描こうというのだから。
この映画のエンディングで、まさに1982年版の冒頭場面につながるのを見て「おおっ」と感嘆してしまった。

これは『スター・ウォーズ』6部作のように、あとからルーク・スカイウォーカーの子供時代に遡っての「新3部作」を作ったのと違い、まさにその前日までを描いてるので、特殊メイクに至るまで、ロブ・ボッディンの造形を踏襲して作られてるように見える。


コロンビア大学の女性古生物学者ケイトは、研究室を訪れたノルウェー人のハルバソン博士から、南極で興味深い発見があった事を告げられる。太古の氷層に、未知の物体らしき物が埋まってるという。
古生物の知識がある人間が必要と、声をかけられたのだ。

アメリカ人パイロットのカーターが操縦する、物資輸送用のヘリで、南極ノルウェー基地に降り立ったケイトたち一行。
物体が埋まる部分の氷塊を切り出し、基地へと運び入れる。

ハルバソン博士は、体液サンプルを取り出すため、ドリルで氷塊に穴を開けさせる。
ケイトは不用意と感じたが、ここでは博士がリーダーだった。
調べた結果、地球上のどの生物にも合致しないとわかり、ノルウェー基地の隊員たちは、世紀の発見に沸いた。
だが祝杯を上げる最中、保管庫におかれた氷塊を突如突き破り、その物体は屋外へと逃げた。


非常事態に、ノルウェーの隊員たちや、アメリカ人のカーターたちも加わって、敷地内の捜索が開始される。
だが隊員の一人が、物体につかまり、呑み込まれてしまう。それはおぞましい光景だった。
かけつけた隊員は、火炎放射器で物体を、呑み込まれた仲間もろとも焼き尽くした。

犠牲者が出たことで基地内には動揺が広がった。だがハルバソン博士は冷静だった。
焼け焦げたその物体を、施設内に運び込んで、解剖することにした。
ケイトも手伝うことになった。

甲殻類ともなんとも形容のしがたい、その物体の胴体部分を裂いてみると、呑み込まれた隊員の死体が、皮膜に覆われた部分の下から、そのままの姿で現れた。
ケイトは皮膜の外側に金属を発見した。
仲間の隊員にきくと、犠牲となった隊員は、骨にボルトを埋め込んでいたという。
ケイトは「なんでボルトは、犠牲者の内側から見つからなかったのかしら?」
と疑問を呈した。ハルバソン博士も
「いい質問だ」とつぶやくのみだ。


捜索中に怪我を負った別の隊員を病院へ運ぶため、カーターたちはヘリを出すことにした。
カーターと相棒のジェイムソン、怪我人に付き添うノルウェー隊員の4人。
ヘリは基地を飛び立つが、その頃、ケイトは洗面所で妙な物を見つける。
床に散乱するのは金歯だった。

そしてシャワー室のカーテンをめくると、血まみれの肉の塊が。
ケイトの中で、金歯とボルトの意味する所がはっきりした。だがそんなことがありうるのか?

ケイトはヘリを呼び戻そうと手を振るが、ヘリの機内は凄惨な事態となっていた。
ヘリはコントロールを失いつつ、山の尾根の向こう側で黒煙を上げた。


ケイトはハルバソン博士の助手のアダムと、顕微鏡を覗き、恐ろしい仮説を導き出す。
採取された物体の細胞と、人間の細胞を一緒にすると、物体の細胞が瞬く間に、人間の細胞を侵食していき、ついには、人間の細胞そのものに変化してしまうのだ。
ということは、その物体は人間の姿に化けることができる。
そして物体がこの南極大陸を出るようなことになれば、人類はたちどころに、侵略を許してしまうことになる。

まさにその仮説通りに、基地内の隊員の一人がすでに乗っ取られ、物体はその体を破って、凄まじい形態となり、ケイトたちに襲いかかってきた。
パニックとなる基地の隊員たち。頼みの綱は火炎放射器。
なんとか退治した後、ケイトは博士を含む全員を前に、仮説を唱える。

物体は人間をコピーできる。残された基地内の人間の中に、物体が紛れ込んでる可能性がある。
そして全員の血液を検査するよう提案する。
時を同じくして、墜落して絶望と思われてたヘリから、カーターとジェイムソンが生きて戻ってきた。
だがあの事故から生還できるとはにわかに信じ難い。
二人は検査が済むまで、倉庫で拘束されることに。

血液が集められ、検査を行おうとした矢先、何者かが研究室に火を放った。
明らかに都合が悪いと感じてる人物がいる。
ノルウェー人の隊員たちと、言葉がわからないアメリカ人。功名心に駆られる博士。
ただですら一つにまとまるのが難しい基地内の人間たち。
そして墜落から生還したアメリカ人二人。
その中に偽者が潜んでいるかもしれないのだ。

ケイトは偽者を見分ける術をもう一つ思いついた。
物体は生命体はコピーできるが、人工物はできない。
だからボルトや金歯は、はじかれていたのだ。
ケイトは基地に残された人間たちの、口の中を調べることを提案する。


CMディレクターから映画監督へ転身して一作目という、マティス・ヴァン・ヘイニンゲンJrの演出は、もう気前いい位に、ロブ・ボッディン・テイストの物体の襲撃描写を入れ込んでくる。

テンポも悪くないんだが、ノルウェー基地内で起こった事態というのが、その後アメリカ基地で起こった事と同じなわけで、前日譚でありながら、常にジョン・カーペンター監督版の残像を、見る側もトレースしてるような気分になる。
リメイク版を見てる気分なのだ。

そうなると、カーペンター版にあった、ブラックユーモアとも思えるショック描写が、今回の映画には欠けている。
例えばハスキー犬の顔が「パカァ」だったり、
リチャード・ダイサート演じるドクターが、心臓マッサージを施そうとして、死体の胴体が「パカァ」と割れて、中に巨大な歯が生えてて、その歯に両腕を噛み千切られて「ギャーッ」だったり、

ドナルド・モファット演じるアメリカ基地のリーダーが、物体に乗っ取られた隊員に、頬っぺたに指をズブズブ入れられて殺されたり、そういうインパクトある描写がない。

ドナルド・モファットは『ライトスタッフ』でジョンソン大統領を演じた役者だが、本当に指をズブズブ入れたくなるような頬っぺたをしてるのだ。なんかゴムでできたような顔面でね。

キャスティングからして、カーペンター版に比べて、地味でどうにもならん感じはある。
主役を女性にした新味はあるが、カーターを演じたジョエル・エドガートンは、ヘリのパイロットという役柄からも、1982年版のカート・ラッセルのポジションに置かれてるのだろう。


もうひとつ新味といえば、1982年版では最初に機体を映すのみだった、物体が乗ってきた宇宙船が、今回は見せ場としてフィーチャーされてる。

映画の終わり近くに、1982年版のエンニオ・モリコーネによる、スコアが流れるのはたまらない。
やはり「物体Ⅹ」というと、あの心臓の脈打つような「ボボン、ボボン」というメインテーマなんだよな。

2012年8月18日

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ジョディ・フォスターが監督作にこめるもの [映画サ行]

『それでも、愛してる』

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ジョディ・フォスターが監督し、メル・ギブソンが主演するこの映画は、その顔合わせゆえに、いろんな含みを感じさせる内容となっており、いろんな要素を取り込もうとする結果、収斂しきれなかった、そんな風にも思える。
妙な味わいの映画なのだ。なのでいろんな解釈の余地もある。


メル・ギブソンが演じるウォルターは、父親が一代で築いたおもちゃ会社を、ほぼ自動的に継いだような二代目CEO。ジョディ・フォスター演じる、エンジニアの仕事も今も続ける妻メレディスとは、結婚20年目。
高校生の長男ポーターと、まだ小さな次男ヘンリーと、一家4人、プール付きの一戸建てで、何不自由ない暮らしを送ってた。
自分が突然「ウツ」の症状に見舞われるまでは。

出社もせず、家で寝てばかり。長男のポーターは、自分も父親のようになってしまうのかという不安もあり、ウォルターを毛嫌いするように。
様々な治療も効果がなく、妻のメレディスも途方に暮れる。
ウォルターは酒を大量に買い込み、家を出ることにした。
車のトランクを空けるため、荷物を外に放っぽり出すと、腕にはめて遊ぶビーバーのぬいぐるみが目に入った。なぜかそれだけは持って出た。

モーテルの一室で酒を煽りながら、テレビを見てる。坊さんが弟子に説教してる場面だ。
これはテレビドラマ『燃えよ!カンフー』だな。俺も昔夢中になって見てた。
その説教に感心してるウォルター。
監督のジョディ・フォスターは、子役時代にこのドラマにゲスト出演してた。

左手にビーバーをはめたまま、ウォルターは浴室で首を吊ろうとするも失敗。
ベランダに出て飛び降りようとした時、突然ビーバーが呼びかけた。
「お前の人生を俺が救ってやる」
しゃべってるのはウォルター自身だが、ウォルターはビーバーに話しかけられてると思ってる。
だがウォルターはその腹話術状態でいると、「ウツ」から脱し、心が軽くなったと感じた。


妻のメレディスは自宅に戻ったウォルターからカードを手渡される。
「会話は左腕の人形を介して行うこと」
とまどう妻と、人形に喜ぶヘンリー。
だが長男ポーターは、なにも解決したとは思えず、ますます父親に反発していく。

ウォルターはビーバーを左手にはめたまま会社に復帰。
従業員は面食らうが、なにか人が違ったように職務にまい進する姿に、社内の雰囲気も活気を帯びる。


ウォルターは新商品「ビーバーの木工セット」を発案。クリスマスの子供向けおもちゃとして大ヒットし、テレビ出演もしたウォルターは一躍時の人となる。
人形のおかげで「ウツ」から立ち直った。
ウォルターの姿はテレビを通して、多くの人々に希望を与えたのだ。

しばらくベッドを共にしてなかったメレディスとも、久々に愛しあった。
だがメレディスは、行為の最中もビーバーを外すことがないウォルターに、さすがに閉口した。


結婚20周年をふたりで祝おうと、高級レストランでディナーを予約。
メレディスは今夜だけはビーバーを外してと懇願し、ウォルターも従うが、その様子は急変する。
思い出の写真を見せられた途端、ウォルターは呼吸できなくなり、すぐにビーバーを腕にはめる。
ビーバーは「こいつがこうなったのは過去のせいだ!」と言い放つ。

それ以来ウォルターの症状は悪化の一途を辿った。ビーバーは
「お前の妻は愛してるフリをしてるだけだ。息子もお前を嫌ってる」
「そんな奴らとは離れるべきだ」
とテレビ出演の最中に発言。ウォルターの印象は急落し、木工セットも全く売れなくなった。

内なる声だったはずのビーバーは、もはやウォルターの左手に居座り、ウォルター自身を支配し始めていた。家族との絆を断ち切らないでいるためには、断ち切るべきはビーバーしかない。
ウォルターは決断し、行動に移した。


ウォルターのエピソードと併行して、アントン・イェルチン演じる長男ポーターのエピソードが描かれていく。ポーターは自分が父親のようになるのを怖れ、父親との共通のクセなどを書き出しては、それを正そうとしてる。
そのポーターには特技がある。
さも本人が書いたように見せかけて、同級生のレポートの代筆ができるのだ。
つまりその人間の性格や物の考え方を捉えることができる、鋭い観察力を持ってる。

だがその能力こそが、父親ウォルターが、ビーバーのぬいぐるみを自分の別人格として、立ち上がらせるに至る、いわば「解離性人格障害」と同義のもののように映る。

ポーターは自分自身に向き合うことへの怖れから、「自分はこの家の子供ではない」と思い込みたくて、他人に「成りすます」ような文章が書けるようになった。
だから父親の変化を見て、ポーターの苛立ちは募っていく。

ポーターは、ジェニファー・ローレンス演じるチアリーダーのノラから、卒業スピーチの代筆を頼まれる。
ノラに秘かに惹かれていたポーターは、彼女の気持ちをつかむスピーチ文をと張り切るあまり、踏み込んではならない部分にまで立ち入ってしまう。

ドラッグ中毒で死んだ、ノラの兄のことに触れてしまったのだ。
ノラの怒りにポーターは動揺する。その人間を理解したと思い込んでるだけで、それが傲慢さと紙一重であることにポーターは気づかなかった。

この場面は、ウォルターとメレディスの結婚記念ディナーの場面にシンクロする。
妻のメレディスは夫の「ウツ」を理解したつもりで、過去を思い出させるような写真を持ち出し、ウォルターをパニックに陥らせる。

監督ジョディ・フォスターがこの映画で語りたいのは、「ウツ」に関することよりも、人は他人のことを簡単に理解はできない、ということではないか?


ジョディ・フォスターの初監督作『リトルマン・テイト』は、天才少年と、彼の母親が、周囲の無理解や偏見に苦しめられるという内容だった。

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ジョディ自身、天才子役と謳われ、だが演技だけでなく、明晰であった彼女は、女優の仕事を中断して、名門イェール大学に進学してる。

彼女自身の中に、明晰さを欠く者への苛立ちがあるように思う。
それはメディアであったり、映画業界であったり。
勝手に「君のためにやった」と、レーガン大統領を狙撃に及んだジョン・ヒンクリーであったり。
ジョディ・フォスターという一個人の本質を理解されないことへの、諦念めいたものが、彼女の監督作の底流にある気がする。


ポーターのエピソードは「ウツ」とは関連性がないので、映画の視点がばらけてくる印象が否めない。

終盤ウォルターは、左腕のビーバーに自分が乗っ取られそうになるに及び、ビーバーを「殺す」しかないと思うわけだが、ここに至って、息子のポーターとノラの、チクチクするような青春エピソードがかき消される事態が起こる。

もはやホラーな展開で、1978年作で、アンソニー・ホプキンスが、腹話術の人形と一心同体のようになる『マジック』とか、1999年作で、自堕落な生活を送る若者の右腕が、本人の知らぬ間に殺人を犯してたという『アイドル・ハンズ』なんかを思い起こさせる。


しかしそこまでやってしまう主人公をメル・ギブソンに演じさせてるのが、妙に納得なキャスティングではある。
メル・ギブソンといえば「とりつかれる」役柄で売ってきたような所があるからだ。

例えば『リーサル・ウェポン』は妻を事故で失い、自殺することに「とりつかれて」無謀な捜査にまい進する刑事。この世のすべての出来事は仕組まれたものだという思いに「とりつかれてる」男を演じた『陰謀のセオリー』。
ある日突然、女の本音が聞こえるようになってしまった、そんな能力に「とりつかれた」エグゼクティブを演じた『ハート・オブ・ウーマン』。
ミステリー・サークルの出現に、神の啓示かと「とりつかれた」ら、宇宙人がやってきてしまい困惑する農夫を演じた『サイン』とか。

この映画でも徐々にビーバーに主導権を握られてくあたりの、腹話術的演技のニュアンスの変化を上手く表現してる。

俺は「ウツ」になったことがないし、専門的な知識もないんだが、この映画のような「ウツ」へのアプローチというのは、実際に有効なんだろうか?
今の自分と違う別人格を作って「ウツ」から脱するというのは、結局「解離性人格障害」を発症するってことにはならないのか?

毒をもって毒を制すではなく、病をもって病を制すみたいに見えるんだが。
この映画のラストも決して楽観的なものではないしね。

2012年8月17日

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タルコフスキーを久々にスクリーンで [映画カ行]

『鏡』

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渋谷の「ユーロスペース」で、「タルコフスキー 生誕80周年映画祭」を開催していて、この監督の中で一番好きな『鏡』をもう一度スクリーンで見たいと思い、行ってきた。
『鏡』は1975年作で、日本では1980年に「岩波ホール」で初公開となってる。俺もその時に見たのが最初だ。

今回の上映素材は作品によってデジタルリマスターと、そうでないのとがあり、この『鏡』はデジタルリマスター版でないのが残念だった。
昔、岩波で見た時に、とにかく映像の質感がすばらしく、目の覚めるような、というより目に染みるようなロシアの森や草原の色に見入ってしまった。
出だしのショットから心をつかまれる。


映画の語り手である監督自身の、母親マリアが、庭の柵木に腰掛けて、煙草をくゆらしながら、目の前に広がる草原と森を眺めてる。
それを背中側から撮ってるんだが、マリアが腰掛けてる柵木のしなり具合が絶妙で、額縁に入れれば、そのまま絵画になる感じだ。

語り手が子供時代に育った家は、鬱蒼とした木立の中にあり、まわりに人家もない。
道を訊きに男がやってきて、マリアにちょっかいを出す素振りを見せ、一緒に柵木に座ると、柵木が折れて、二人は転倒する。
男は笑って、草原の中へと立ち去ると、周囲からザァーっと草を撫でるように風が吹き渡る。

最初に見た時にもこの風にやられたのだ。
あれは巨大なファンかなにかを使って吹かせたのか?
それとも偶然にあのタイミングで、風が一陣吹き渡ったのか?
まるで生き物にように草木が、大きく呼吸し、波打ってるように見える。

その木立の中の家の敷地内にあった、干草を積む小屋が火事で全焼する場面も、深い緑の中に燃えさかるオレンジが、艶かしいほどに美しく見える。

タルコフスキーの『鏡』は全編このような映像が、心象風景のように脈略なく映し出される。
語り手は幼い頃を過ごした祖父の家を夢に見、母親マリアを、妻ナタリアの表情の中に見出し、妻や息子とうまく心を通わすことができない苦悩を滲ませる。


幼い日に、たらいで髪を洗う母親を見つめるイメージは、どことなく恐れを含んでいる。
たらいの水はオイルのようにぬめり、母親の顔は長い髪で覆われてる。
髪を前にたらしたまま、ゆっくりと上体を起こしていく母親マリア。
髪をかきあげると、光線の具合もあって、母親の顔に幾重もの影が差している。

この場面を改めて見て「これは貞子だな」と思った。
井戸の底から濡れた髪のまま這い出てくる貞子そのものだ。
中田秀夫監督は、『鏡』からイメージを移植したのかも。

子供の頃、母親と一緒に風呂に入ると、髪を洗う母親の、黒く長い髪に顔が隠れて怖かった憶えがある。『鏡』のこの場面は美しいモノクロで描かれてはいるが、言い知れぬ戦慄も同時に抱かせる。


タルコフスキーというと、とことんシリアスな印象があるが、この映画では妙なユーモアを感じる場面もある。
母親マリアの回想場面で、マリアはスターリン政権下の印刷所で、校正係をしている。
ある時、急に自分が校正し終わった原稿に、誤植があったかもと思いこみ、印刷所に駆け込んでくる。
その時代、特にスターリンに関する誤植は大ごとになりかねなかった。
同僚のエリザヴェータを伴って、輪転機へと走る。もうすでに印刷は始まってしまってたが、原稿をチェックし直しても、誤植はなかった。

ほっと胸を撫で下ろし、同僚と煙草をつけてると、エリザヴェータがやおらマリアを非難し始める。
「あんたはなんでも自分勝手にすすめる。結婚生活でも、そんなわがままを通すから、夫が逃げ出してしまったのよ」と。
親友と思ってたエリザヴェータから、そんなことを言われ、マリアは憤ってシャワー室に駆けて行き、ドアの鍵をかける。後を追ってきたエリザヴェータは
「どうしたって言うのよ、怒ったの?」
ってそりゃ怒るだろう。どうしたの?もないもんだ、変な女と見てて思った。
ユーモアというより、リアクションの理不尽さに笑ってしまう感じだ。


少年時代の語り手が、軍事教練を受ける場面。
一緒に教練を受けてるアサーフィエフという少年が可笑しい。
教官の「回れ右!」の号令に一回転する。みんなに背中を向けてる。

教官が「回れ右だぞ、命令がわからんか!」
「回れというから回りました。ロシア語で回るとは、360度回転することだと思います」
「屁理屈言うな、回れ右!」
アサーフィエフはまたしても一回転して、みなに背を向ける。
「親を呼ぶぞ!」
「誰の親ですか?」
「お前の親に決まっとる!」
だがアサーフィエフの親はレニングラード攻防戦で死んでるのだ。

漫才みたいなやりとりの後、アサーフィエフは別の組が教練を受ける射的場に向かって、手榴弾を転がす。教官はそれを見て、とっさに手榴弾の上に身をかがめて「伏せろ!」と叫ぶ。
だがなにも起こらない。アサーフィエフは「模擬弾です」と言う。

違いを見分けられなかった教官は、「歴戦の勇士が、情けない…」と肩を落とす。
この終始無表情の少年アサーフィエフが、いい味だしてる。


今回見直して面白かった場面は、語り手の自宅の空き部屋の場面。
息子のイグナートが廊下で祖母が来るのを待ってる。
すると誰も居ないはずの空き部屋のテーブルの前に、緑色の服を着た女性が座ってる。
促されて部屋に入るイグナート。
廊下にあるノートを取ってきてと言われ、さらにその中に書かれてる文章を読むように言われる。
緑色の服の女性は紅茶を飲んで、聞いている。

玄関のチャイムがなり、イグナートが開けると、祖母が立ってたが、祖母はイグナートだとわからずに
「部屋を間違えたわ」と立ち去る。
ドアを閉めて部屋に戻ると、緑色の服の女性の姿はない。
テーブルの上に残されたカップの痕の蒸気が、スウッと薄れてゆく。
女性がゴーストであったかのように。

こうだという説明はどの場面にもない。
浮かんでは消えていく、人生のイメージの断片のようだ。

深い森と、したたる水のイメージは、ラース・フォン・トリアー監督が『アンチクライスト』のラストで「この映画をタルコフスキーに捧げる」と献辞を出してるが、あんな映画でオマージュ捧げられても、タルコフスキーも天国で苦笑するしかないだろう。

2012年8月16日

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地球串刺しエレベーターふつうに乗ってるが [映画タ行]

『トータル・リコール』

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しかし多いなここんとこ。「俺は俺なのか?ほんとの俺は誰なんだあ!」的テーマのアメリカ映画が。
「ボーン」シリーズ以降顕著というか、
『アイランド』『月に囚われた男』『ミッション8:ミニッツ』『ミッシングID』。
それ以前にも『マトリックス』シリーズ、エイドリアン・ブロディの『ジャケット』、そんな中で、「実はエージェントだった」という今回の映画に一番近そうなのは、ジーナ・デイビスの
『ロング・キス・グッドナイト』かも知れんが。

なんでこういうテーマの映画が好んで作られるのかわからないが、不安定な社会情勢で、自分の仕事とか身分とかが、足元から崩れ去る不安を反映してるのか。
逆に一向に良くならない暮らし向きに、こんな人生は間違ってるという思いが、別の人生を希求する心情へとつながってるのか。

何れにせよ、俺としてはもういいんじゃないか?このネタはという思いだ。
今ある自分が本当の自分じゃなくても、記憶が埋め込まれたものであっても、クローン人間であったとしても、別にいいじゃないか、生活に支障がないんなら。

そんなわけで、このリメイク版『トータル・リコール』の、主題をすっ飛ばしてくような、
「とにかく逃げろ!」アクションに徹した作りは、それはそれで楽しめた。


21世紀末に起きた戦争によって、化学兵器が使われ、地球上の大部分は居住不可能な土地になる。
いま人類が住めるのは島国イギリスとオーストラリアだけという設定だ。

イギリスは富裕層のみが暮らすことを許される「ブリテン連合(UFB)」と呼ばれ、オーストラリアは、その富裕層の豊かな生活を支えるための労働力となる、ブルーカラーたちが貧しい生活を営む「コロニー」と呼ばれてる。

シュワちゃんのオリジナル版では、地球と火星を行き来することになってたが、この映画でコリン・ファレルが演じる主人公ダグは、毎日旧オーストラリアから、旧イギリスまで「通勤」させられる。

地球を縦に貫く「フォール」という、大陸間エレベーターというもんが開発されてるのだ。
地球の中心をダンゴの串刺しみたいに貫いてるわけだ。
『ザ・コア』のデルロイ・リンドに作らせたんだろうか?

中心部分を越えると、重力の逆転が起こるという描写があるが、その前に「圧」の問題はどう解決してるのかね?


ダグは毎日工場でロボット警官「シンセティック」の組み立て作業にあたってる。
そのロボットはやがてダグたち人間に代わる労働力に転用される。
連日UFBではテロが起きており、UFB代表のコーヘイゲンは、治安を強固にするという名目で、コロニーの生活改善に充てる予算を、シンセティック増産に回すと宣言。

その先にはUFBの人口増加に伴う土地不足を解消するため、コロニーの土地を武力で奪い取るという青写真が描かれていた。
だがそのためには、「レジスタンス」と呼ばれる、コロニーの反体制勢力を率いるマサイアスの暗殺は不可欠だった。


コロニーでローリーという美しい妻と、豊かではないが幸せな暮らしを営んでるはずのダグだが、毎晩同じ夢にうなされて目が覚める。

病院にいる自分を助け出しにきた美女と、銃を手に何者かに追われてる。
ダグはいつも最後にその美女を逃がして、自分は捕まってしまうのだ。
妻のローリーは「自分のせい?」と尋ねる。
今の生活への不満が潜在意識の中にあり、夢に出てきてる。ローリーはそんな風に感じてるようだ。

コロニーの猥雑な街中で、いつもダグの目を引くのは、「リコール社」の電光板だ。
実体験の代わりに、脳に架空の記憶を書き込める娯楽を提供してる。

同僚のハリーは「ヤバいから止めとけ」と言うが、毎日同じことを繰り返す今の生活に疑問を強くしたダグは、ひとり「リコール社」の扉を叩いた。


自分の好きな職業を体験できると訊き、その中で「スパイ」という言葉にダグは反応した。
「UFBに潜入する二重スパイってのはどうです?」
アジア系のオペレーターからそう説明されたダグは、マシーンに座り、セッティングを待つ。

だが記憶を注入され始めた時、オペレーターは急に動揺を示し、中止を指示する。
「あんたは一体誰だ?騙そうとしたな!」
ダグは何を言われてるのか見当つかない。
次の瞬間、警官隊が突入してきて、ダグ以外は撃ち殺される。

ダグは両手を掲げろと言われるが、反射的に、10人はいた警官たちを、その銃を奪って撃ち殺してしまった。ダグ本人もわけがわからない。


必死で逃げ切って自宅へ帰ると、もうニュースになってる。
UFBの保安業務に就いてる妻のローリーは、警官を倒したのは自分だとダグから聞かされる。
そんなダグをローリーは抱擁し、その腕に力を込める。

愛する妻と突然格闘することになり、ダグはますます混乱する。
ダグは自らの身体能力にも驚いてたが、妻のローリーが半端なく強いのにも面食らう。
「私はコーヘイゲンから監視役を頼まれたのよ」
妻などではないと言う。さらにダグが覚えてる「記憶」は埋め込まれたものだと。
「じゃあ、俺は誰なんだ?」

ローリーもそれは知らず、重要人物なのだろうとしか認識してなかった。
だが警官たちを殺すような危険人物とわかれば、ただでは済まさない。
なおも襲いかかってくる妻を振り切り、ダグはコロニーの町中へと逃亡を開始した。


UFBの都市内に整備された、リニアシステムのハイウェイで展開されるカーチェイスのスピード感は爽快だ。ほぼCGなんだろうが、こういう使い方なら歓迎だよ。
ダグはここで夢の中に出てくる美女メリーナと出会う。彼女は「レジスタンス」の一員だった。

ダグは逃亡中に手に入れた様々なヒントから、一軒の高級アパートに辿り着く。
ピアノの前に座ると、弾けるはずもないベートーヴェンの、ピアノソナタ『テンペスト』の一節を難なく弾きこなしてしまう。
さらに指を動かすと、鍵盤が暗号となっており、自分そっくりの男がホログラムで現れる。

ダグの正体はコーヘイゲンから送りこまれたカール・ハウザーという名のスパイで、活動中にUFBの陰謀を知り、「レジスタンス」側に寝返ったことを知らされる。
「リコール社」に行くまでもなく、自分はスパイだったのだ。


脚本にカート・ウィマーが絡んでるから、支配者と被支配者に分かれる未来の警察国家とか、支配者側にいた主人公が意趣返しする展開とか、『リベリオン』の世界観を連想させる。

コロニーのアジア的猥雑さの風景は『ブレードランナー』だし、
車線を垂直に変更するハイウェイは、同じくディック原作を映画化した『マイノリティ・リポート』だし、ロボットのデザインは『アイ、ロボット』を思わせるしで、
全編「パッチワーク」的に、いろんな所から拝借した要素で出来上がってる。
でもいいんだよ、息もつかせず、多彩なアクション場面が繰り出されていくからね。

俺としてはコスプレ超人が暴れるものより、こういう生身の人間が主人公のSFの方が好きなのだ。
オリジナル版はシュワルツェネッガーだから、いざとなりゃ強いのはわかってるが、今度のはコリン・ファレルだからね。
戦うより、コマネズミみたいに逃げまくるのが、巻き込まれ型のストーリーに合ってる。


フィリップ・K・ディック原作の映画化作では、さまざまなガジェットも目を楽しませる。
警官隊が突入前に、内部の様子を覗うための「アイボール」という銃弾。
壁に着弾させると、その球体から無数のボールが四方に飛び散る。
これがすべて超小型カメラとなっており、部屋の内部をあらゆる角度から見ることができるのだ。

電気のムチ状の捕獲ネットは『マイノリティ・リポート』に出てきた嘔吐棒に匹敵する警官のツール。
ダグが知らぬ間に手の平に埋め込まれてたケータイも面白い。
平らな基盤状のもので、その手の平を、ガラス面につけると、通話相手の画像が映し出される。


アクションで特徴的なのは、コロニーでの逃亡でも、ハイウェイでパトカーを振り切る手段でも、UFBビル内の縦横に移動するエレベーターでも、そしてクライマックスの「フォール」においても、
主人公が「落下」してくのだ。
落下するというのは、夢に出てくるモチーフであり、ダグの冒険自体が夢なのだと解釈もできる。

現実にはローリーは美しい嫁ではあるんだが、もの凄い束縛心が強くて、なにかというと浮気を疑ってダグを責め苛む。
そのストレスが、こんな夢となって具現化してるんじゃないか?
とにかくどこまでも追っかけてくる妻ローリーが鬼嫁すぎる。

ローリーを演じるケイト・ベッキンセールは、格闘場面でも体の切れがいいし、悪役に徹した演技も堂に入ってるし、もう売りだした当初のお姫様役なんか、二度とやらんだろうなと感慨に耽ってしまう。

メリーナを演じるジェシカ・ビールも、むくつけき男たちに混じってアクションをこなしてきた実績があるし、この女優ふたりによるキャットファイトは見応えある。

せっかくビル・ナイが出てるのに、出番が少ないのは、ファンの俺には物足りなかった。

2012年8月15日

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モンテカルロつながりで [映画カ行]

『恋するモンテカルロ』

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昨日コメント入れた『マダガスカル3』で最初に舞台となったモンテカルロつながりで、DVDレンタルしてみた。
ティーン・アイドル映画の範疇なんだろうな。
セレーナ・ゴメスが主演で、レイトン・ミースターとケイティ・キャシディがサポートしてるが、俺は3人ともよく知らない。
共通してるのは、アメリカのテレビドラマで人気を得た女優ということ。
テレビドラマは洋邦どちらも見ないから、役者にも疎い。

憧れのパリへの卒業旅行が、現地でのアクシデントで、モンテカルロへのセレブ旅行へとグレードアップという展開は、まあ全編他愛ないもんではある。
だがこういうヒロインが憧れの外国へ行くという話は、「おのぼりさん映画」なわけだから、他愛なくてもいいのだ。

俺は見てないけど、綾瀬はるかの『ホタルノヒカリ 劇場版』も、
「ローマの休日してきました!」っていうノリで、内容的には酷評が並んでたが、アメリカ映画も大して変わらんよと、これ見れば思うだろう。
異国のバカンス気分が味わえれば、それ以上のものを求める必要もない。

やはり俺は見てないけど、同じく酷評されてたジョニー・デップ&アンジーの『ツーリスト』も、ヴェネチア観光映画以上でも以下でもないんだろう。


この『恋するモンテカルロ』は他愛ないなりに、設定はちょっと面白い。
セレーナ演じる女子高生グレースは、地元テキサスのファミレスでバイトしてる。
パリへの卒業旅行の費用をこつこつ貯めてるのだ。

グレースと一緒に行くのが、バイト仲間のウェイトレスで、年上のエマ。地元の高校を中退して、モデルを目指してたが、挫折して町に舞い戻ってた。
けっこう長いつきあいになる、オーウェンという彼氏がいるが、オーウェンは、エマがパリの空気にのぼせて浮気するんじゃないかと気が気じゃない。

グレースの父親は、妻を亡くして、グレースの母親と再婚した。
前妻の間にはグレースより年上の娘メグがいる。
メグは母親の死を乗り越えられておらず、再婚した父親にもどこか苛立ちがある。
なので新しい母親の連れ子であるグレースとも折り合いはよくない。

そのメグは父親から、グレースの卒業旅行に同行するように言われて驚く。
両親としてはグレースの付き添いがエマでは心もとないのだ。
父親からのたっての願いを聞き入れたものの、気持ちは重い。
グレースだけが理由ではなく、エマはメグの同級生だったのだ。

真面目に大学に通ってるメグにとって、高校中退して、チャラチャラしてたあげくに、町に出戻ってウェイトレスやってるエマとはそもそも反りが合わない。
そんな二人と1週間も顔つきあわせるのか。ぎくしゃくムードで旅は始まるのだ。


仲良し3人組がキャピキャピはしゃぎ回るという設定じゃない。
3人の中では年上感がバリバリに出てる、エマを演じるケイティ・キャシディ。
一番堅物なメグを演じるのがレイトン・ミースターだ。

グレースは費用を安く上げようと、自分で選んだのが「魂の5日間ツアー」という、パリの名所という名所をバスで分刻みに巡るもの。移動は駆け足、ホテルも高級とは程遠い。

グレースは「どうせ寝るだけ」と自分は簡易ベッドに。
「どうなのよこのツアー」と思ってたメグだが、行く先々で偶然顔を合わせるオーストラリア人のイケメン、ライリーとエッフェル塔でも一緒となり、いい雰囲気に。
アバンチュールに一番縁のなさそうなメグが、最初に恋に落ちるとは。
だがその間に、ツアーバスは3人を残して出発。

取り残されて途方に暮れる3人の中で、急にグレースが
「どうせ私の計画が悪かったってことなんでしょ!」
と誰も言ってないのに逆ギレ。
おまけに雨に降られて、ズブ濡れで高級ホテルのトイレに駆け込んだ。
2人がなだめても納まらないグレースは、泣いてトイレに閉じこもる。


すると直後に入ってきたのがグレースそっくりの少女。なにやら高飛車に電話の相手に話してる。
少女が出ていった後、グレースの顔を見直して、髪型を変えさせてみる。
「ほんとそっくりだわ」
その少女はイギリスの大富豪の娘で、セレブとして有名なコーデリアだった。

ここパリからチャリティ・オークションに出席するため、モンテカルロに行く予定だったが、コーデリアはそれをすっぽかして島にバカンスに行くつもりだった。
ホテルに自分の荷物が着いてないとカンカンで、そのままホテルから出て行ってしまった。

ホテルの支配人は、トイレから出てきたグレースたちを見て、グレースをコーデリアと思い込む。
エマは機転を利かせて、2人は付き添いだと話し、支配人は、3人をスイートへと案内する。
セレブに成りすまして、突然の豪遊旅行に。

届いてなかった荷物が部屋に届く。大量のドレスや靴やアクセサリー。
「ちょっと拝借」と3人は思い思いに着飾って、セレブの社交界へ。
チャリティ財団のフランス人親子がお出迎え。
グレースはその息子テオにちょっと惹かれるが、テオはコーデリアの悪評を耳にしてるから、あまりフレンドリーではない。

パーティでコーデリアの叔母が、グレースに声をかける。なんかいつもと雰囲気がちがうと感じつつも、モンテカルロのチャリティは頼んだわよと。
初めて体験するお金持ちたちの世界からホテルに戻り、メグは堅物なんで、罪の意識が抜けないが、3人とも疲れてたんで、そのまま豪華なベッドで寝込んでしまう。


翌朝すっかり日は高くなり、おまけに本物のコーデリアがホテルに戻ってきた。3人は大あわてで部屋を元通りにし、ロビーを抜けると、用意されてた高級車に乗り込んだ。
空港からプライベートジェットで一路モンテカルロへ。

一方、部屋に入ったコーデリアは、荷物をチェック。ブルガリの超高級ネックレスがないことに気づく。それは前の晩、グレースがつけてたのだ。


この映画は女の子3人を常に一緒に行動させず、それぞれに出会いを設けて、エピソードを繋いでいく。その「つかずはなれず」の距離感がいいと思った。
ぎくしゃくしてた関係が、旅を通じて変化してく展開とか、それぞれのアバンチュールの描写とか、まあ収まる所に収まるんで、意外性はない。

セレーナ・ゴメスはグレースと、高飛車なコーデリアと二役を演じてるが、そんなに難しい演技でもない。ただ1箇所、グレースがコーデリアの口を手で塞ぐ場面を、ワンショットで収めてるのは、あれはどういう処理をしてるんだろ。

セレーナ・ゴメスは、女優としてより歌手として人気が高いらしいが、ヒスパニック系としては、ジェニファー・ロペス以来のスターとなるんだろうか。
調べてみたら、歌手としてはシングルで、パイロットの『マジック』をカバーしてるんだな。
パイロットは70年代の一時期、ヒット曲を連発したイギリスのポップロック・バンドで、メロディの良さと、ハイトーンのヴォーカルがインパクトあった。
俺も好きなバンドだったんで、このカバーは聴いてみたいな。
セレーナは小柄で、可愛らしい顔はしてるが、ちんくしゃな感じもあって、なんか不思議な持ち味は感じる。

それよりレイトン・ミースターのことを調べてて驚いた。家庭環境が凄すぎるな。
両親や祖父や叔母まで、一族そろって麻薬密売で財をなしてたってんだから。

それが家族が一網打尽となり、その時妊娠してた母親が、獄中で生んだのがレイトンだったと。
彼女の兄の一人も婦女暴行で逮捕されてる。
どんだけワイルドなファミリーなんだよ。

でも彼女は印象としてはヴァネッサ・パラディっぽい色白で、細やかな演技も見せるし、とてもそんな背景を持ってるように感じない。
家族がしてきたことと、彼女とは関係がないんだろうから、スポイルされずに、女優としてキャリアを伸ばしていけるといい。
陰ながら応援したくなったよ。

2012年8月14日

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とり急ぎマダガスカルの3Dは凄いよ [映画マ行]

『マダガスカル3』

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昨日コメント入れた『ウェンディ&ルーシー』から、どうぶつ繋がりということで。
映画好きだと、このあたりのアニメはスルーしがちで、俺も当初は見るつもりなかった。
これの1作目は見てるけど、2作目は見てなかったし。
今回のは前評判が高く、3D効果もかなりなものと聞いてたので、見ることにした。

オリジナル版のボイスキャストが錚々たるメンツなので、数少ない「3D字幕版」の上映劇場「ユナイテッドシネマ豊洲」まで行ってきた。


冒頭いきなりアフリカに居るな。2作目のラストはニューヨークの動物園じゃなくて、アフリカで終わってたのか。
ライオンのアレックス(ベン・スティラー)は、檻も柵もないサバンナにいるのに、なんか元気がない。仲間が誕生日プレゼントにと、マンハッタン島のジオラマを土で作ってくれたんだが、還ってホームシックを加速させてしまう。
「動物園に帰りたい」
シマウマのマーティ(クリス・ロック)、カバのグロリア(ジェイダ・ピンケット=スミス)、キリンのメルマン(デヴィッド・シュワイマー)も、実は思いは同じだった。

ペンギンズは自作の飛行機でモンテカルロへと旅立ったまま戻らない。
「だったらオレたちもモンテカルロへ行こう!」

というわけで地中海沿岸に4頭が現る。ペンギンズは手下のチンプスに、妙な公爵のコスプレをさせて、カジノのルーレットで大儲け中だった。
天井から突然のアレックスたち4頭の挨拶に、カジノは大パニック。
その一報は動物公安局の、鬼の捕獲人シャンタル・デュボア警部の耳に入った。
彼女はライオンの首を壁に飾る機会を待ち望んでたのだ。


ここからモンテカルロ市内のチェイスシーンのスピード感が半端ない。
ナンバープレートに「朝飯前」って書かれてる、ペンギンズ運転のハイテクジープを、デュボア警部率いる警官隊のスクーターが追う。
モンテカルロ市内から、F1のコースで有名な、海沿いのトンネルまで、ローアングルのカメラがカッコいいし、これでもかというくらい、いろんなアクションを放りこんでくる。

あれもこれも、飛び出せるもんは、みんな飛び出させてまえ!という勢いで、作り手がノッてるのが伝わってくる。

ジープで逃げ切ったと思ったら、なおも追ってくるデュボア警部、ビルの屋上に追いつめられて、4頭ピンチと思ったら、ペンギンズの飛行機が飛来して、デュボア警部に向かってバナナマシンガン連射。
バナナの果肉の部分だけ弾がわりとなり、バナナの皮は薬莢のように、飛び散ってく。

それが3Dで頭の上から降ってくる。字幕版なので、親子連れはあまり見かけなかったが、外国人の家族が何組か見に来てて、子供はバナナで大ウケしてた。

飛行機にもぶら下がってくるデュボア警部を、なんとか振り落として、逃げ切ったと思いきや、飛行機はトラブルで墜落。
迫り来る警官隊。アレックスたちは、走り出した貨物列車に飛び乗った。
それはサーカスの動物たちを乗せて、ヨーロッパを巡業する列車だった。


サーカスの動物たちを仕切ってたのは、陰険なトラのビターリ、ロシア出身だ。
乗せてやったが、俺の命令は聞けと言うんで、アレックスは
「オレたちがオーナーになったら?」と返す。
ペンギンズがカジノでくすねてきた宝石類を、人間のオーナーに手渡すと、大喜びで列車から去って行った。

その理由は次の巡業地ローマでわかった。
この「ザラゴザ・サーカス」は芸が古臭くて、もうちっともウケなくなってたのだ。
アシカのステファノから、サーカスのロンドン巡業で、プロモーターに気に入られれば、ニューヨークに公演に行けると聞いてたアレックスたちは、このままじゃ駄目だと、サーカスを生まれ変わらせる提案をする。

人間にムチで脅かされない、動物の動物によるサーカスだ。
人間だけでやって大成功してるシルク・ド・ソレイユに対抗するんだ。

以前得意の輪くぐりの芸に失敗して大ヤケドを追い、それ以来世をすねてしまったトラのビターリも、しぶしぶ同意する。
アレックスはザラゴザ・サーカスの花形で、美しいジャガーのジアから、空中ブランコの新しい技を教えてとせがまれてた。
適当に言っただけなのに、ジアはアレックスたちをサーカスのプロだと思いこんでた。

アルプスを越えてロンドンを目指すアレックスたちサーカスの一行。
だがデュボア警部も執念深く、彼らの後を追い続けていた。


舞台をサーカスとすることで、飛んだり跳ねたりと、3Dに打ってつけの見せ方ができるし、モンテカルロから、ローマへ向かい、アルプスの草原を経由してロンドンへという、背景も変化に富んで飽きさせない。

モンテカルロでのチェイス場面ではジャーニーの『エニウェイ・ユー・ウォント』がかかり、
デュボア警部はエディット・ピアフを歌い、ローマではアンドレア・ボッチェリの美声が響き、
サーカス場面にはケイティ・ペリーの『ファイヤーワーク』と、音楽もあれこれと楽しい。

シマウマのマーティ(クリス・ロック)が、アフロヘアーで歌う
「ラッターサーカス、ラッターサーカス、アフロ、アフロ、アフロサーカス♪」
っていうメロディは、チェコの作曲家ユリウス・フチークの『剣士の入場』だ。

レオ・セイヤーが道化師の悲哀を歌った『ショウ・マスト・ゴー・オン』という名曲に、巧みにそのメロディを組み込んでる。
ディズニーランドのエレクトリカル・パレードで耳にした人も多いだろう。


サーカス組ではトラのビターリを、『トータル・リコール』で悪役を演じてるブライアン・クランストンが、アシカのステファノを、イタリア訛りの英語でマーティン・ショートが、そしてジャガーのジアを、ジェシカ・チャスティンが、それぞれ声をあててる。

その他にも、マダガスカル島からついてきたキツネザルのキング・ジュリアンを、もうじきお騒がせ第3弾の『ディクテター 身元不明でニューヨーク?』が公開のサッシャ・バロン・コーエンが、
そして強烈な悪役ぶりを見せるシャンタル・デュボア警部を、演技派フランシス・マクドーマンドがあててるという豪華な布陣だ。
ジェシカ・チャスティンはあれだけ映画出まくってて、声優までやるかという、しかも上手いし。

2012年8月13日

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犬好きじゃなくてもこれは切ない [映画ア行]

『ウェンディ&ルーシー』

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ミシェル・ウィリアムズが主演した、2008年の日本未公開作。
女性ふたりの話ではなく、ルーシーは犬の名だ。

ウェンディは古いアコードにルーシーを乗せて、アラスカを目指してる。ルーシーの散歩中に、森で出会った若者たちからも、アラスカなら仕事もあるぜと聞かされた。
これは現代の話だが、大恐慌時代に、貨物列車で移動して、仕事のあてを探したホーボーのような若者たちがいる。


ウェンディはオレゴンの小さな町で立ち往生する。アコードのエンジンがかからなくなったのだ。
駐車場の警備員は、ウェンディの車を路上に出すように言うが、この犬を連れた若い女性のことを案じる様子でもある。
ウェンディはその年配の警備員から、整備工場とスーパーの場所を訊く。
ルーシーのエサも乏しくなってきた。旅の手持ちも心もとなくなってる。

ウェンディはスーパーでついドッグフードを万引きし、従業員につかまる。
警察に引き渡され、拘留されている間に、スーパーの入り口につないでいたルーシーの姿がない。
方々を探し回るが見つからない。

公衆電話から姉のデボラに電話をする。
ウェンディはインディアナにある姉夫婦の家に同居してたようだ。
なにか訳があって居づらくなったのか、人生を変えようと思ったのか。
受話器の向こうでは、妹に用立てるお金はないと言ってる。


疲れ果てて、とぼとぼと駐車場に戻ってくる。
犬がいなくなったと警備員に話すと、犬の収容センターが6キロほど先にあると教えられる。
ルーシーはレトリバーとの雑種だ。

その晩は動かないアコードの中で眠り、翌朝センターを訪ねるが、ルーシーはいなかった。
飼い主として自分の名前は記入できるが、住所もないし、ケータイも持ってない。

また駐車場に戻り、公衆電話の小銭の両替を警備員に頼むと、ケータイを貸してくれた。
「わしは一日ここにいるし、連絡係を引き受けよう」
ウェンディはその善意に一瞬言葉を詰まらせた。


アコードを整備工場に出すことにするが、距離が近くてもレッカー代は貰うと言われる。
旅の費用はどんどん目減りする。
ウェンディはセンターからの連絡を待ちながら、ルーシーの写真をコピーして、迷い犬のビラを町中に貼っていく。
シャッターを下ろした店が多く、不景気が町を覆ってる。

車を工場に預けたため、ついに町はずれの雑木林の中で、ウェンディは野宿するはめに。
夜、物音に目を開けると、ホームレスの男が立っている。
「こっちを見るな」
男は町の住民に対する恨みつらみを吐き出してる。
「俺は素手で700人殺してるんだ」
嘘であろうが、生きた心地はしない。
男は「負け犬が」と言い残して立ち去った。

ウェンディは荷物をまとめて、いつも体を洗ってる町中の公衆トイレに駆け込んで泣いた。
行き場もなく、駐車場の片隅にうずくまって過ごした。


翌朝、年配の警備員はいつもより遅く現れた。その日は非番だったのだ。
センターから連絡が入ったからと、ウェンディのもとにやってきたのだ。
車には警備員の娘が乗っていた。
ケータイを借りると、ルーシーがある住民の家で保護されてると教えられた。
警備員は「娘に見られるから、言い訳しないで受け取ってくれ」
と、数枚の紙幣をそっと渡して、車で立ち去った。

ほんのささやかな金額だった。
決して楽ではない生活の中から、他人に施せる精一杯なのだろう。

ウェンディは整備工場に出向くが、オーナーから、あの車はエンジンがやられてると告げられる。
修理代は高くつくし、廃車にするのなら、費用は貰わないと。
ウェンディは車を失ってしまった。

タクシーで、ルーシーを保護してる家を訪ねる。家人は丁度外出するところだった。
柵に囲まれた広い庭に、ルーシーの背中が見えた。


ウェンディはこのオレゴンの町で、犬を見失い、車を失い、手持ちの金も失っていく。
ルーシーは孤独を紛らわす心の拠り所であり、ルーシーの世話をするという気持ちが、自分を繋ぎとめる事にもなってた。
頼れる相手もなく、頼られる存在も失くしたら、自分は本当に根無し草になってしまう。
ウェンディが必死でルーシーを探すのは、見失うのが自分になってしまうからだろう。

ウェンディが下した決断は切なくはあるが、旅を続けるために不可欠だった。
ひとりでは生きていけない。ルーシーとふたりきりでは、いつもそこに閉じてしまう。
ウェンディには否応なしに、新しい人間関係が必要なのだ。
愛想笑いを覚えて、人とうまくやってくしかない。

ルーシーは犬だから、境遇に文句も言わず、寄り添ってるが、できればお腹いっぱいご飯を食べさせてやりたい。
ウェンディはそれが「飼い主」の責任と気づいたのだろう。


アラスカへの旅を描いた映画には、いい映画が多いのだ。
最近で一番知られてる所では、ショーン・ペン監督作の『イン・トゥ・ザ・ワイルド』がある。

『バグダッド・カフェ』で一躍名の知られたパーシー・アドロン監督の
1991年作『サーモンベリーズ』は、東ベルリンからアラスカの地へと逃れてきた女性が、自らの出生の秘密を調べる女性と出会う物語。
私生活でレズビアンをカミングアウトしてる歌手のk.d.ラングが、映画の中でも女性に好意を抱く役どころを演じてた。
映画の中盤に流れる彼女による主題歌『裸足』は名曲。
心の襞にまで染み渡るような歌声だった。

サーモンベリーズ裸足.jpg


1992年の『フォーエバー・ロード』は、人生を変えようと思った二人の女性が、偶然出会い、ともにアラスカを目指す。このブログでクリスティーン・ラーチのことを書いた時に、ちょっと触れた映画。
メグ・ティリーが可愛かったな。

先の読めない展開に引き込まれたのは、
1999年のジョン・セイルズ監督作『最果ての地』だ。

アラスカに流れてきた、子持ちの女性フォーク歌手が、地元の港町の便利屋と親しくなる。
3人はいい関係を築きつつあったが、便利屋の腹違いの弟が麻薬密売に絡んでたことから、トラブルに巻き込まれ、無人島に身を潜めざるを得なくなる。
廃屋に乏しい食料。ぎりぎりのサバイバルを余儀なくされるが、一機のセスナが3人を見つける。

操縦士は酒場の常連だった。燃料が不足し、無線も壊れてるから、もう一度燃料を積んで、戻ってくると言った。その操縦士が麻薬取引に絡んでることは、3人は知らない。
救助を待つ3人のもとに再び機影が見える。
なんと映画はそこで終わるのだ。
俺が心底おっかないと思ったエンディングの10本に入る。

最果ての地.jpg


この『ウェンディ&ルーシー』の撮影時、ミシェル・ウィリアムズは28才になってたが、青いパーカーをはおい、化粧っ気もないし、十代の家出少女のようにも見える。
反面、彼女は時折、老成した表情を見せることもあって、『シザーハンズ』なんかに出てたダイアン・ウィーストという熟女女優と印象が被ったりもする。
おまけにこの映画では、髪を栗色で短くまとめていて、ふと山崎邦正に見えたりもするから困る。

だが「私の顔はこう!」というハリウッド女優のくっきりした打ち出し方と違って、なんか隙があるというか、顔に関して無頓着な感じがするのが、ミシェル・ウィリアムズの面白さではある。


俺んちはペットというと鳥しか飼ったことなかったから、犬も別段飼いたいとも思わなかった。
なので犬がメインの映画にも興味はなく、ほとんどをスルーしてる。

しかしこの映画は良かった。
ルーシーが可愛いわけでもなく、冴えない感じの犬なのがいい。
チャップリンの『犬の生活』の昔から、言い方は悪いが、貧乏な人間の傍らに、なぜか犬は似合う。

2012年8月12日

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ジェシカ・チャスティンの足技 [映画ハ行]

『ペイド・バック』

ペイドバック2.jpg

ナチスの残党狩りというテーマは、過去何度か映画に取り上げられている。
本数もかなりあるとは思うが、まず終戦間もない1946年に、早くもオーソン・ウェルズが監督し、自らアメリカの田舎町に潜伏するナチス残党を演じた『ストレンジャー』が作られてる。
あとは俺的にリアルタイムということで思いつくんだが、1970年代の映画が目立つ。

1974年の『オデッサ・ファイル』はフレデリック・フォーサイス原作の映画化。
1963年ケネディ暗殺の報が流れる西ドイツ、ハンブルグのルポライターが、偶然から元ナチSS隊員が結束する組織「オデッサ」の存在を知り、追求していく。

1976年の『マラソン・マン』は、メンゲレ博士がモデルと思われる、ユダヤ人強制収容所で「白い天使」と呼ばれ、恐れられたナチス残党の老人が、ニューヨークに現れる。
その白い天使を演じるオリヴィエが、ダスティン・ホフマンの歯を痛めつける拷問シーンは、二度と見たくない怖さ。

1978年には、そのローレンス・オリヴィエが、今度はナチスハンターを演じた
『ブラジルから来た少年』

ブラジルから来た少年.jpg

ヒトラーのクローン少年を生み出し、第三帝国の再興を目論むメンゲレ博士を、グレゴリー・ペックが演じる意外性が話題になった。
この映画はキャストや物語のスケールにも関わらず、日本では劇場未公開に終わり、後にビデオ・LD・DVDとあらゆるパッケージ・メディアでリリースされた。
たしかテレビの「ゴールデン洋画劇場」で放映されたバージョンは、幻のラストシーンが加えられてた記憶がある。

ヨーゼフ・メンゲレはナチス残党の中でも大物中の大物と目され、モサドはじめ、ユダヤ人組織が血眼で追いかけた。南米に逃れてたと言われるメンゲレと、父親がナチスの非道な大物と知り、苦悩する息子の関わりを描いたのが、2003年の『マイ・ファーザー』だ。
メンゲレを演じたチャールトン・ヘストンの、最後の日本公開作となった。

この『ペイド・バック』で、モサドの3人が身柄を拘束する、ドイツの産婦人科医ディーター・フォーゲルは、「収容所の外科医」と呼ばれていたという設定から、ヨーゼフ・メンゲレをモデルにしてるのだろう。

イスラエル諜報機関「モサド」によるナチス残党狩りを描いたものには
1979年の日本未公開作『ナチ・ハンター/アイヒマンを追え』がある。

ナチハンターアイヒマンを追え.jpg

ここではメンゲレに匹敵する大物で、強制収容所でのユダヤ人絶滅計画の指揮を執った、ナチス親衛隊中佐アドルフ・アイヒマンを、1960年に潜伏先のアルゼンチンで、モサドが拘束する経緯が描かれた。アイヒマンは1962年5月に、イスラエルで絞首刑に処せられてる。
追跡するモサドのリーダーを演じてたのは、イスラエルの名優トポルだった。



『ペイド・バック』は、イスラエル映画のハリウッド版リメイクとなる2011年作。

映画は1997年のテルアビブに始まる。レイチェル・シンガーは元モサドの諜報員で、ある任務に成功したことで、イスラエル国内では、賞賛の対象となってた。
作家である娘サラが、母親の回顧録を執筆し、その出版記念パーティが華々しく執り行われていた。

ナチス残党の大物を東ドイツで拘束し、イスラエルに連行する任務だったが、途中で逃亡を図られたため、レイチェルが射殺した、その経緯が詳細に綴られていた。
だがレイチェルの顔色は冴えない。

その席にモサド長官のステファン・ゴールドが車椅子で現れる。
以前テロの標的となり、車を爆破されたのだ。
サラはステファンとレイチェルの間の一人娘だった。二人はすでに離婚していた。
ステファンがこの場に現れたのは、サラの本に書かれた、ナチスの大物を拘束した作戦に、レイチェルの上司として参加してたからだ。

作戦にはもう一人参加していた。デヴィッド・ペレツは二人と長く音信を絶っていた。
ステファンはデヴィッドを探し出し、パーティに呼ぶために車を向けた。
だがデヴィッドは車に乗り込む寸前に、急に身を翻し、車道に出てトラックに轢かれ即死した。
ステファンの見てる前で。


1965年、東ベルリン。若きモサドの諜報員レイチェル、ステファン、デヴィッドの3人は、ユダヤ人強制収容所で、残忍な生体実験を繰り返し「収容所の外科医」と呼ばれた、ナチス残党の大物ディーター・フォーゲルが、産婦人科医に身分を偽り、市内で開業してるという情報を掴んだ。

近づけるのはレイチェルしかいない。彼女は妊娠の検査を装って、フォーゲルの診断を受ける。
それは任務とはいえ、激しい葛藤を伴うものだった。

レイチェルは両親を戦争で失っている。彼女はユダヤ人だ。その死に関わりが深いであろうナチスの戦犯を前に、下着もつけず足を開かなければならないのだ。

フォーゲルは特に不審がる様子もない。
触診の最中の何気ない質問に、レイチェルは淀みなく応える。
拘束作戦決行の日が下されるまで、レイチェルは患者を装い、フォーゲルの元に通う。

だがその緊張と、屈辱感を誰かに包み込んでもらいたい。
レイチェルは作戦の隊長であるステファンよりも、いつも通院に付き添う、寡黙なデヴィッドに惹かれていた。デヴィッドもレイチェルを好きになってたが、彼女が部屋でキスを求めてきた時、応じることができなかった。
任務の遂行が優先だと、気持ちを振り払ったのだ。

レイチェルは傷ついた。
ひとりで部屋にあったピアノを弾いてるとステファンが現れ、隣に座って鍵盤に触れた。
別の部屋にいたデヴィッドは、鍵盤のキーが変わったのを耳にして、その意味を悟った。
作戦決行は明日と決まった。


レイチェルはその日、診察台に上がり、フォーゲルから
「昨日、性交をしましたね?」と訊かれる。頷くと
「タイミングがよかった」
「子宝に恵まれるようにと、すべての患者さんに言ってます」
「収容所でも?」
レイチェルはそう言った瞬間、足をフォーゲルの首に絡め、締め付けると、用意してた麻酔液を、その首に射ち込んだ。

ペイドバック.jpg

フォーゲルが倒れたと、妻の看護婦を呼んで、救急車を手配させる。
その通話を探知してたステファンとデヴィッドは、用意しておいた救急車に白衣で乗り込み、本物より先に病院に到着し、フォーゲルの拉致に成功する。

そこまでは良かったが、東側が監視する、鉄道の駅のフェンスを破り、列車が通過する時間内に、西側にフォーゲルを運び出すという作戦は、僅かなほころびから、監視兵との銃撃戦となり、3人はフォーゲルを東ベルリンのアジトに拘束したまま、待機を余儀なくされる。


後ろ手に縛り、口はテープで塞ぐが、食事は与えなければならない。ステファンは二人に
「フォーゲルと口を聞くな」
と釘を刺すが、フォーゲルはその狡猾さで、揺さぶりをかけてくる。
拘束している相手に、次第に主導権を握られ、3人の間にも苛立ちの色が濃い。

頼りにしたアメリカは、この件から手を引くと通告。
ステファンは打つ手がないなら、殺してしまおうと、フォーゲルに銃を向ける。
それを止めたのはデヴィッドだった。

食事を与えるデヴィッドに、フォーゲルは礼を言う。
だがその目は、冷酷になり切れない、ユダヤ人の若者の弱点を見据えていた。
フォーゲルは「なぜナチスはあれほど多くのユダヤ人を、殺し続けることができたのか?」
と、滔々と自説を述べ始めた。
デヴィッドはついに激昂し、フォーゲルを殴りつけた。
二人が止めに入った、そのどさくさに、フォーゲルは割れた食器の破片を手で隠した。

見張りはレイチェルに交代した。大晦日の花火が窓から見える。
レイチェルが部屋に目を戻すと、縛りつけてたフォーゲルの姿がない。
その瞬間、物陰からガラス片で頬を深く切りつけられ、殴り倒されたレイチェルは昏倒した。


射殺したという回顧録の内容は嘘で、真相は、フォーゲルにアジトから逃げられてしまったのだった。
3人はその事態に呆然となるが、ステファンは解決策を告げた。

それはフォーゲルを射殺したと報告するというものだった。
このことを知るのは我々3人だけだ。
フォーゲルは身分を明かすことはできないから、この件を公にするはずはない。


3人は「嘘」を抱えたまま、イスラエルに英雄として帰国した。
ステファンは割り切っていたが、レイチェルとデヴィッドは、自らに課した心の
「負債」に葛藤し続けた。
ステファンはモサドで昇格し、レイチェルと結婚、娘のサラが生まれた。

心が晴れないままのレイチェルの元を訪れたデヴィッドは
「モサドを辞める」と言った。
「僕と一緒に来てほしい」
でもあなたはあのキスを拒んだ。
「もういまさら遅いのよ」
そしてそれ以来、デヴィッドはレイチェルの前から姿を消した。


それから25年が経っていた。ある講演会の会場にデヴィッドの姿があった。
講演を終えたレイチェルは、デヴィッドがあの後、一人でフォーゲルを追って、世界中を巡ってたことを知った。
「見つけてどうするの?」
「マスコミに告げるんだ。この男がフォーゲルだとね」
「それで我々も苦しみから解放される」
だがレイチェルは、回顧録を出版した娘も巻き込む決断など、選択できるわけはなかった。
「昔には戻れないわ」
二人はこれが最後となった。

回顧録の出版パーティで、レイチェルは、元夫のステファンから思いもよらぬ話を聞かされる。
フォーゲルは生きている。ウクライナはキエフの病院に、名を偽って入院中だという。

その事実を地元のジャーナリストが嗅ぎつけ、本人に真偽を確かめるため、接触しようとしてる。
表沙汰になる前に手を打たなければならない。
車椅子のステファンは言う。
「レイチェル、君しかいないんだよ」


『THE DEBT(負債)』という原題が、『ペイド・バック』という邦題となり、DVDスルーで世に出たわけだが、この邦題も掴みどころがないね。
はっきりと内容がわかるような『ナチスハンター/モサド偽りの真実』
みたいな邦題でいいんじゃないか?
この題材に興味を示すのは、年齢も高めのユーザーだと思うしね。

全米では興行チャートのトップ10にも入ってたし、派手な見せ場はないが、予算をかけてかっちり作りこまれてる。
1960年代の東ベルリンの渋い色彩設計がいいし、テルアビブにウクライナと、ロケーションにもスケールが感じられる。
監督は『恋におちたシェイクスピア』のジョン・マッデン。
2008年の『キルショット』に続いて、日本ではDVDスルーとなってしまったが、俺としては今回のが、この監督の中では一番楽しめた。

役者も揃ってる。主役の3人の現在と、若い時代をそれぞれ別の役者が演じてる。
レイチェルの現在をヘレン・ミレン、若い時代をジェシカ・チャスティン。
ステファンの現在をトム・ウィルキンソン、若い時代をマートン・ソーカス。
そしてデヴィッドの現在をキアラン・ハインズ、若い時代をサム・ワーシントン。

東ベルリンでのミッションを描く部分が中心なので、若い時代を演じる役者にフォーカスが当たる。

特にレイチェルを演じるジェシカ・チャスティン。この映画のキャストでいうとサム・ワーシントンと並んで、昨年から売れまくってる新進スターだが、彼女がやはり見応えがある。

フォーゲルを足で締める場面が特に。俺も同じ目に遭ってもいい。

若い彼らの「負債」を振り払うことになるのが、年取ってからのレイチェル自身で、そこはヘレン・ミレンが貫禄を見せる。
なので、これは女優の映画であり、男たちはいささか影が薄い。
むしろ拘束されるナチス戦犯フォーゲルを演じる、イェスパー・クリステンセンが、その底知れない表情の妙味で場面をさらう。
ダニエル・クレイグ版「007」で、ミスター・ホワイトを演じてるデンマーク人俳優だが、マッツ・ミケルセンといい、最近は「北ヨーロッパ」の役者が注目だな。

日本版DVDで見れたからまあいいんだけど、この映画は撮影もいいし、この内容ならスクリーンで見たかったとは思うね。

2012年8月11日

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韓国の法廷劇2作②『依頼人』 [映画ア行]

『依頼人』

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映画撮影現場で、特殊メイクの職人としてして働くハンは、その夜、妻に贈る「結婚記念日」の花束を助手席に置き、マンションに戻った。
入り口付近には複数のパトカーと人だかりができ、騒然としている。
ハンは住人たちの視線を感じながら、エレベータで自宅のある階へ。
警察官が出入りしてるのは自分の部屋だ。妻に何かあったのか?

現場検証に気をとられる警官たちは、ハンが戻ったことに気づかない。
そのまま寝室を覗くと、ベッドには血だまりができ、床にまで流れ落ちていた。
だが妻の姿はない。
ハンに気づいた警官は、その場で容疑者として、ハンに手錠をかけた。
だが死体はなく、寝室内にハンの指紋もない。状況証拠だけで逮捕されたのだ。


裁判ブローカーのチャンは、この事件をフリーの若手弁護士カンに持ち込んだ。
抜群の勝訴率を誇るカン弁護士は、はじめは気乗りがせず、固辞する。
だがブローカーのチャンが、裁判に勝った場合の取り分を譲歩してくる熱の入れように、しぶしぶ弁護を引き受ける。
だが事件を調べ始めると、検察及び警察の動きが不自然に早いことを感じ、これはただの殺人事件ではないという確信を抱く。

殺害現場を訪れると、警察がほとんどさらって行った後だった。照明器具の電灯まで持ち去られてる。
管理人に尋ねると、防犯カメラの記録も押収済みだと言う。
犯行現場に物的証拠はひとつもなかった。

裁判が始まると、カン弁護士は、担当検事が、司法研修所時代の同期のアン検事であることを知る。
二人の間にはライバル意識のようなものが漂っていた。
アン検事は決定的な証拠になるはずの、防犯ビデオの映像を、証拠として提出してこない。

証拠となるから押収したのではなく、ハンが犯人ではないとわかってしまうから押収した。
つまり防犯ビデオに、ハンが妻の遺体を運び出す映像は映ってないのでは?

アン検事は証人として医師を呼び、医師は
「犯行現場に流された血の量から、致死量を上回ってるのは明らか」
と証言するが、肝心の死体は見つかってない。

犯行現場にハンの指紋が一切残されてなかったのは、ハン自身の指に指紋がなかったからだった。
検察側は、削り取ったものと考え、犯行の隠蔽の根拠にしていた。
だが検察側の立証には無理を感じるカン弁護士は、これは切り崩す余地があると、チャンには容疑者の事件当夜のアリバイが成立するか、その立証に当たらせた。


事件当夜、ハンは自宅から遠く離れた撮影現場から、車で移動してる。
血の凝固具合から導き出された犯行時間近くに、ハンの帰宅ルートの中で、目撃者は見つかるのか?
チャンは鍵を握る人物を探し当てた。
山間部のダムのそばにある食堂の店主だった。
耳のきこえない息子が、自転車で車と接触事故を起こしてた。特徴からハンの車らしかった。

一方、アン検事は有力な証人を用意していた。それは職を辞した元刑事だった。
数年前に起きた女子高生の惨殺事件。
実はハンはその時も、容疑者として一時は拘束されながら、証拠不十分で釈放されてたのだ。
その元刑事はハンが犯人だと確信してたため、無罪放免の処置にショックを受け、辞職した。

その後も個人的にハンを追い続けてきたという。
だが今回の事件に関して、ハンの関与を覗わせる証拠は掴めなかったと、悔しさを滲ませた。


別の事件の容疑者に挙げられたことがあるという事実は、陪審員の心証を左右するに十分と思われた。
カン弁護士は、元刑事が証人に呼ばれた背景を探るうちに、女子高生惨殺事件の裁判を担当したのが、当のアン検事だったことを知る。
アン検事は完全にハンを今回の「死体なき殺人事件」の犯人に見立ててるのだ。

となればあの防犯ビデオは、弁護側の決定的な証拠になりうる。
弁護士事務所のスタッフとチャンは、カン弁護士に釘を刺されてたにも関わらず、防犯ビデオを手に入れる算段を整えた。
地元警察の刑事を丸めこんで、証拠保管室からディスクを持ち出したのだ。

だが映像を映してみると、それは防犯ビデオの画像ではなく、動物が映っていた。
アン検事は、弁護士側が防犯ビデオを盗み出すと読んで、罠を仕掛けてたのだ。

裁判は弁護側に不利に傾いていった。
有力な証人である食堂の店主も、証言台で、弁護側から金品の受け渡しをされたと、つい口をすべらして、証言そのものが認められなくなった。


すべてが検察のシナリオ通りに進む中、迎えた最終弁論。
カン弁護士は芝居がかった勝負に出た。
ハンを証言台に立たせ、弁護するはずが、逆に追い込んでいくような質問を投げかけた。

それまで裁判を通して、ほぼ無表情だったハンは、カン弁護士の
「殺したのはあなただろう?」という強い口調に、自分がやったと口にする。

涙ながらに、弁護士にすら信じてもらえない辛さを嘆き、
「本当に自分が殺ったのかもしれない」
「そう思いこむようになってしまった」と。
自分の指に指紋がないのは、特殊メイクの仕事で使う溶剤に、手を浸し続けてたからだと。

ハンの憔悴しきった表情と、その捨てばちとも取れる告白は、逆に陪審員に
「無実かもしれない」と思わせる迫真に満ちていた。
そしてカン弁護士は思いがけない証人の名を口にする。

「今から私が3つ数えると、この法廷のドアを開けて、ハンさんの奥さんが現れます」


『トガニ 幼き瞳の告発』の法廷場面で明らかにされる事件の衝撃的内容に、法廷劇として軍配を上げるいう向きもあるだろうが、そういう見方で、この『依頼人』がスポイルされてしまうのは、惜しいと思うし、目指してる方向性も違う。

こちらの場合は弁護側、検察側の法廷における一進一退の攻防に主眼を置いたリーガル・サスペンスを志向してるのだ。

ただこの展開の前提となるのは、韓国警察の初動捜査があまりにずさんであると仮定してのことだ。
謎解きの部分では、いくらなんでもそんな方法では、現場検証で痕跡が残るはずだし、証拠はおろか、死体すらないのでは、逮捕そのものが成立しないんじゃないか?
俺はまったく司法手続きとかには明るくないから、専門家が見れば、もっとあり得ない点が出てくるんだろうな。


でも俺は映画のテイストとして気に入ったのだ。
『トガニ 幼き瞳の告発』とは対照的と思えるくらいに、過剰な演出が控えられ、少しづつ事件の核心に近づいていく、その緊張感を保って描かれている。

『チェイサー』『哀しき獣』と役柄は違えど、逃げまくりっぷりが強烈な印象を残したハ・ジョンウが、やり手弁護士として、スーツもバリっと決めてる。
振る舞いも堂々としてるし、見事なホワイトカラーに変貌してるが、なぜか髪もなでつけて、小ざっぱりした顔になると、大鶴義丹に見えてしまうという。

ライバルのアン検事を演じるパク・ヒスンも、なんか悔い改めた遠藤憲一みたいだし。
チャン・ヒョクは、同じ法廷劇で、森田芳光監督の『39 刑法三十九条』の被告を演じてた堤真一を思わせる。

その3人が中心ではあるが、映画のポイントゲッターは、ブローカーのチャンを演じたソン・ドンイルだろう。
今年の春に公開され、このブログでコメント入れた『カエル少年失踪殺人事件』で刑事を演じてた。
この『依頼人』では、ちょっといかがわしい稼業ながら、裁判が始まると、弁護士をサポートして動き回る。いかにも海千山千の雰囲気が面白く、カン弁護士とは「ホームズとワトソン」のような関係性に見えたりもする。

2012年8月10日

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韓国の法廷劇2作①『トガニ 幼き瞳の告発』 [映画タ行]

『トガニ 幼き瞳の告発』

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現在、都内では韓国映画の法廷劇が2本公開されている。
1本は『哀しき獣』のハ・ジョンウが弁護士を演じる『依頼人』で、これは純然たるリーガル・サスペンスだ。
もう1本の、この『トガニ 幼き瞳の告発』は、後半は法廷場面がメインとなってはいるが、副題にあるように「告発劇」と呼ぶ方が似つかわしい。


恩師からの紹介で、霧深い地方の町の聴覚障害児たちの集う、全寮制の学校「慈愛学園」の美術教師として赴任してきたイノ。画家としては食えず、妻に先立たれて、幼い娘を抱える身。
母親に娘ソリの面倒を任せて、ソウルからやってきたのだ。
町で車をぶつけられるが、相手は地元の人権センターの女性幹事でユジンといった。
彼女はお詫びにと、イノを「慈愛学園」まで送り、弁償の件で何かあればと、名刺を置いていく。

イノは早速校長に迎えられた。校長室は天井がスモークガラスのようになってる。
行政室長を紹介されたイノは面食らった。校長と瓜二つの男が立っていたからだ。
校長と行政室長は双子だった。
だが朗らかに振舞う校長と比べ、行政室長はニコリともしない。
校長室から出ると、行政室長は廊下でなぜか手の平を掲げて見せた。
イノは意味がわからず、ハイタッチして応じると
「ふざけてるのか?」と睨む。「察しの悪い奴だな」

それは賄賂の金額を示していた。ただで職が得られるとでも思ってたのか?
行政室長は世間知らずとでもいうように一瞥した。
そんな金は手元になかったが、母親が工面してくれた。

教室で生徒たちと顔を合わせるが、子供たちの表情は一様に暗い。
イノはひとり遅くまで残った夜に、トイレから悲鳴のような声を耳にする。
だがトイレの戸を開けようとすると、警備員に止められた。
「ここの子は退屈すると奇声を上げたりする」
そして学校内の異常な状況は、次々とイノの面前に明らかになっていく。


職員室では男性教師のパクが、ミンスという男子生徒を袋叩きにしてる。
他の教師たちは止めようともしない。
イノが声をかけると
「寮を黙って脱け出した罰だ」と言う。

知的傷害のある女子生徒ユリは、イノの手を引いて、廊下から階段の下のドアを指差す。
そこはクリーニング室だった。イノが中に入ると、洗濯機の前に女性の背中が見える。
さらに近づくと、その女性は、女子生徒のヨンドゥの顔を、回る洗濯槽の中に押し込んでた。

体罰を加えてたのは寮長のジャエだった。
体罰の度を超してると非難しても、「しつけだ」と開き直る。
新米の教師がという寮長の態度に
「僕の知り合いには弁護士もいる。それ以上やるなら黙ってないぞ!」
イノはさすがに激昂した。

ヨンドゥを入院させたイノは、あの名刺のことを思い出した。
人権センターのユジンに電話で、「慈愛学園」において生徒たちへの虐待が日常化してると告げた。


ユジンはイノから教えられた病院へ向かい、病室のヨンドゥと筆談を交わした。
ユジンは電話でイノを近くの食堂に呼び出した。
ユジンが切り出した話は、イノの耳を疑うような内容だった。
ユジンは筆談したメモをイノに見せた。
それはヨンドゥやユリ、そして男子生徒までもが、校長やパク教師から、恒常的に性的虐待を受けている、というものだった。

ユジンは早速この事実を地元の教育庁に通報するが、
「学校の就業時間外に行われた事案に関しては管轄外」
と木で鼻を括ったような対応をされる。
区役所に行ってくれと。ユジンは
「区役所に行ったら教育庁に行けと言われたのよ!」

それならばと警察を訪れるが、担当の刑事も腰を上げる素振りはない。
その刑事は「慈愛学園」の校長室に頻繁に出入りしてた。
校長は地元で教会を建てたり、表向きは名士で通ってる。
その実、警察や役所までまで買収して、悪事を隠蔽していたのだ。


ユジンは体罰どころか、子供たちが性的虐待を受けてると知り、怒りに煮えたぎった。
イノもそれは同じだったが、彼の場合は「慈愛学園」の当事者であり、へたに行動を起こせば、教師の職を失う。
幼いソリを路頭に迷わすことになるのが恐ろしかった。

ユジンは人権センターを通じ、地元テレビ局に連絡した。
マスコミを使って、許されざる行為を告発するのだ。

生徒たちはカメラの前に立つことを了承してくれた。
手話と身振りで、自分が校長たちに何をされたのか、ヨンドゥやミンスは、涙を溜めながら、
その屈辱を語った。
そのテレビ番組は大きな反響を呼び、警察も動かざるを得なくなった。
校長たちは逮捕され、司法の場で裁かれることになった。

だがこの告発にイノが関与してることは、当然「慈愛学園」側の知るところとなり、
イノは即刻解雇される。
ユジンは「関わったことを後悔してる?」とイノの瞳を覗う。
「君は気楽でいいよな」
イノはユジンが人権センターで、少ない報酬で働き、家では内職をして補ってることなど知る由もなかった。


この後、事件は法廷の場でその全容を暴かれていくのだが、被告の学園側は、さまざまに策を弄して罪を逃れようとしてくる。

校長たちは予め、虐待する生徒に目星をつけていた。孤児であったり、親が知的障害を負っていたり。
そういう生徒を選ぶことで、もし事が表沙汰になりそうな時には、示談で収めてしまえると踏んでたのだ。

イノがあの夜、校内のトイレで聞いた悲鳴は、校長に襲われるユリのものだった。
イノは、あの時自分が踏み込んでいれば、と悔恨に顔が歪んだ。

そして校長室の天井にも秘密があった。あのスモークガラスの奥にはビデオカメラが仕掛けてあり、校長がヨンドゥを机の上でレイプする様子を撮影してたのだ。
撮影されたディスクを見つけ出したイノとユジンは、これが決定的な証拠になると、検事に預けた。

だが裁判の判決は愕然となるものだった。


この映画は日本では「R-18」指定となってる。たしかに未成年に対する性的虐待の場面は、少女の裸などは勿論見せないが、かなり生々しく描写されてはいる。
トイレに逃げ込んだユリが、顔を上げると、隣の仕切りの上から校長がニヤついて見てる場面など、女性の観客は、根源的な嫌悪感に身震いするんじゃないか?

パク教師は男子生徒のミンスと、その弟にも手を出していた。弟が風呂場で裸の背中を撫で回されてる場面は、日本に限らず、どこの国でも描写としてアウトだろう。
そこまで踏み込むのはさすが韓国映画とは思うが。

「R-18」指定の根拠はそういう描写によるものだろうが、これは被害者が未成年であり、彼らがどれだけ熾烈な思いをさせられたのかということは、同じ未成年の日本人に知らしめていいはずだ。
聴覚障害という、ハンデを負った子供たちへの虐待という題材にも配慮してるのかもしれないが、そこにも違和感はある。


これは韓国の聴覚障害児童の学校で、実際に起きた事件を元にした映画だが、日本でも同様の事件は起きている。だがそれを題材にした映画やドラマは作られない。

日本ではハンデを負った人間を題材にすると、大抵見る者に感動を与えるような、前向きな登場人物や、ストーリーに限定されて、ネガティブな要素は取り上げられない。
腫れ物にでも触るようなスタンスなのだ。

なので重度の知的障害を負ったヒロインが、男にレイプされてしまうという、驚愕の展開で始まる『オアシス』のような映画は、まず作られることもないだろう。
韓国映画は「タブー視することがむしろ不自然」という、そこに明らかなスタンスの違いがある。

この『トガニ 幼き瞳の告発』は、被害者を演じる少年少女たちの演技が真に迫っており、見る者に相当なインパクトを与えてはいるだろう。
映画自体の評価も高まるところだろうが、冷静に捉えてみれば、衝撃的なのは、この映画の元になった事件であって、映画が作り出しているものではない。

原作は事件のルポルタージュという形ではなく、事件を元にした小説という形で世に出されている。
映画の中でパク教師から虐待を受けてたミンスが、ある行動に出る場面があるが、その結末も、映画パンフに掲載されてる事件の記録の中には出てこない。
つまりフィクションが付け足されているわけだ。

韓国映画らしいというか、描写は非常に扇情的であり、被告たちの悪辣ぶりを、これでもかと描き出そうとしてる。温和な表情の裏に卑劣な素顔を潜ませる校長をはじめ、みんないかにも「ワル」という表情を作ってる。

中でも女性寮長のジャエの人相が強烈。パンフには演じた女優の名前がないので、わからないのだが、女性でこんな悪相も珍しいなと、むしろこの女優のことが気になってしまったぞ。
もちろん校長やパク教師が鬼畜なんだが、ほかの見て見ぬふりの教師たちはどうなんだ。
映画では全く空気扱いで、そういう人間たちの、罪とか葛藤とかが抜けてるのも物足りない。


コン・ユが演じるイノは、義憤と保身の間を揺れ動く、その強くなり切れない人物像が、リアルである反面、映画の観客としては「ピリっとしてくれよ」と無責任に思ってしまったりもするので、人権センターのユジンの存在は、映画を進める起爆剤として、上手く配置されてたと思う。

ユジンを演じるチョン・ユミは、日本でいうと深津絵里のようなタイプか。
可愛いけど「女」を押し出してこない。
少女の頑なさを持ち続けたまま大人になったような印象だ。
子供たちの災厄を我がことのように受け止めて、怒りをぶつける、そういう人物像にあっている。

2012年8月9日

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三大映画祭週間『フィッシュ・タンク』 [三大映画祭週間2012]

三大映画祭週間2012

『フィッシュ・タンク』

フィッシュタンク3.jpg

「俺はいま最高の映画を見てる」っていうものすごい高揚感に、久々に包まれた。
この映画祭1発目に見た『俺の笛を聞け』もよかったんだが、こっちはもう惚れてしまったという位にいい。

2009年のイギリス映画で、すでにシネフィル・イマジカで『フィッシュタンク~ミア、15歳の物語』として放映もされてるんで、今更という人もいるだろうが、俺イマジカ契約してないし、大体なんでこんな傑作を日本の配給会社は放っぽらかしにしてるんだ?

これが長編2作目のアンドレア・アーノルドという女性監督、もう天才だよ。
シネスコでもビスタでもなく、スタンダードで撮られてるのにまず驚く。


イギリスはエセックス州の、集合住宅が立ち並ぶ、殺伐とした風景の中に、15才のミアは暮らしてる。シングルマザーのジョアンヌは、ほぼ育児放棄で、遊び仲間をアパートに呼んではパーティ。
ミアと5才くらい歳が離れてそうな妹タイラーは、ミアより口が悪い。
家族の基本姿勢は喧嘩腰だ。

ミアは女友達と仲たがいしたらしい。その子がいけ好かない女子グループに入ってダンスしてるのを、冷ややかに眺めてる。
「文句あんの?」と睨んできたグループのリーダー格に、ミアはいきなり「パッチギ」かまして去ってく。
学校も追い出されたミアを、母親は家から出して、特別学校に放り込もうと考えてる。
ミアは別の棟の空き部屋に入りこむと、なにもない床の上でステップを踏む。
ミアはストリートダンスだけには情熱を注げるのだ。

アパートの通りをはさんだ向かいの空き地には、バラックが建ち、ミアより年上に見える少年たちが住み着いてる。そこに鎖でつながれた白い馬がいる。
ミアは忍び込んで、鎖を切ってやろうとするが、少年たちに見つかって追い立てられる。
なんにも変わらない、クソ面白くもない日常に、小さな変化が起きた。

朝キッチンで湯を沸かそうとするミアの前に、男が上半身裸で入ってきた。
「母さんの友達だよ」別に悪びれる様子もない。
テレビを眺めながら体を揺らしてたのを見られた。
「ダンス上手いな」
男はミアが紅茶を入れようとしてたのを知ると、3つカップを並べ、冷蔵庫からミルクを出して、ミルクティを手際よく作ると、カップを一つ置いて
「じゃあまた」と上の部屋に消えた。
母親が夜のうちに連れ込んだ男だ。
だが不思議とミアは不愉快にはならなかった。


展開としては、よくある話なのだ。だが特に前半の場面がことごとく鮮やかに切り取られてる。

母親のはっきりセフレでもあるコナーという男をマイケル・ファスヴェンダーが演じてる。
昨年来ずっと顔を見てるんじゃないかと思うくらい、売れまくってるが、この3年前に出た映画は、もし最近ファンになったという女性なら、絶対見とくべきだ。
「誘惑者」として完璧なカッコよさを見せてる。

「ヒューマントラストシネマ渋谷」にて、24日までの会期中に、あと6回上映があるからね。
見に行くつもりがあれば、ここから先は読まない方がいい。

フィッシュタンクマイケル.jpg

ミアがコナーに惹かれたのは、まず言葉遣いが汚くないのと、物腰の柔らかさだ。
ミアの周りにはいないのだ。
年上の男ということと、父親のいないミアには、父親のように構ってくれる相手にも見えただろう。
妹はすぐに懐いてるし。

コナーがミアたち家族をドライブに連れてくシークェンスは、まるごとカメラが素晴らしい。
コナーは郊外に車を走らせ、車中でミアに
「いい音楽を聴かせてやる」
と、ボビー・ウーマックのカバーによる『夢のカリフォルニア』をかける。
ヒップホップしか聴かないミアには耳に新鮮だった。
妹は車窓から飛行船を追いかけてる。普段はぎすぎすしっ放しの母娘3人がおだやかだ。

川辺に誘ったコナーは、川に入り、魚を手掴みして見せる。
ミアもおそるおそる水に入る。多分生まれてこのかた川遊びすらしたことがないのだろう。
大きな魚を母娘は気持ち悪がる。
水底で足を切って血を流すミアに、コナーは応急処置を施して、背中をかがめる。
「乗れ」おんぶされたミアはコナーの肩に頬をつける。

駐車場にスタンドがあり、母親のジョアンヌはビールと酒の追加を買いに行く。
コナーとミアはその間、ふたりでおどけるようにダンスする。

だが母親が戻ってきて、ミアはいきなり不機嫌になる。
こういう女の子の心理状態の揺れ具合を絶妙に捉えてる。
駐車のライン上に立って、前のめりにコナーに悪態をつく。
母親というより「女」が割ってきたという不快さなのだろう。

『フィッシュ・タンク』という題名は意味深だ。
水槽の中から出られない魚のように、鬱屈する少女の心情を表してもいるし、母親と娘というより、女3人で、狭いアパートに暮らしてるという、
「女の生臭さ」にイラついてると捉えることもできる。
魚とは女の臭いのことだ。

ジョアンヌは娘たちの前で母親であろうとするより、女であることになんの引け目も感じてない。
ミアは深夜に母親の部屋から聞こえる喘ぎ声に、ドアの隙間から覗くと、コナーとセックスの真っ最中だ。
ドライブの車中でもこんな会話が。

「生まれ変われるならどんな動物がいい?」
とコナーが尋ねると、
妹のタイラーは「サル!」と言い、ミアは「白い虎」と答える。
母親が「虎なんかより、あたしは犬がいいよ」
するとすかさず妹が
「今だってメス犬じゃん!」
口が悪い上に核心を突いてくる、この妹恐るべし。

川辺のドライブはおだやかな光景だったが、映画ではもう一度、川辺の風景を映す場面がある。
だがそれは対照的に、心を冷やすような、おそろしい光景となってる。


ミアはある晩、酒に酔ったコナーと一線を越え、コナーは、この家族と関わりを絶つ。
コナーの財布の中身を盗み見てたミアは、彼の住む町を知っていた。
コナーは母親とふたり暮らしだと言ってた。

家はミアたちの住む集合住宅の一帯などと違い、閑静な住宅街にあった。
コナーはミアの突然の訪問に動揺し、車で駅まで連れて行き、電車賃を渡して
「明日話そう」と言って車から降ろした。

だがミアは電車には乗らず、コナーの家にとって帰した。
外出してるようで、ミアは開いてる窓を見つけ、家の中に侵入した。
ミアの住まいとは似ても似つかない、きれいに片付いた室内。
小さめの部屋に、コナーが、ダンスのオーディション用に撮影しろと、貸してくれたビデオカメラが置かれてた。

何気なくスイッチを入れる。女の子と母親が映ってる。それを撮影してるのはコナーだ。
妻子持ちだったのだ。
部屋を見まわしてその時気づいた。子供服や家族の写真。
ミアはその部屋に放尿した。

車の音が聞こえる。裏口から逃げ出して、遠目に様子を覗う。家族で買い物に出てたようだ。
小さな娘がキックボードで、ミアの前を通り過ぎる。
放尿くらいじゃ済まされないと、ミアはその娘を目で追った。


「それはやっちゃいかんだろう」という所までいっちゃうので、さすがにこの15才に共感は難しいだろう。しかし「あの場面」は、あの見たままに撮影されたんだろうか?
一歩間違えばという危険さだと思うが。
映画としては強烈なインパクトを残すことは確かだが、俺はやり過ぎに感じた。
あの後のつなげ方も上手いんだけどね。


なんにしても、ミアを演じるケイティ・ジャーヴィスに目を奪われることには違いない。
駅でスカウトされたというんだが、とても女優経験がないとは思えない、堂々たる居ずまいなのだ。

ダルデンヌ兄弟の『ロゼッタ』
ロシアの若い女優オクサナ・アキンシナが鮮烈だった『リリア4-ever』
レア・セドゥーの『美しい棘』
ジェニファー・ローレンスの『ウィンターズ・ボーン』
あるいは、エミリー・ブラントが、主人公の少女にとっての「誘惑者」となる
『マイ・サマー・オブ・ラブ』など、
「クソみたいな世界」に対峙する少女を描いた映画の系譜がある。

この『フィッシュ・タンク』もそれらに加わる新たな一作だと思うが、ケイティ・ジャーヴィスのストリートダンスが見栄えもよくて、映画にも弾みをつけてるんで、活きのよさでは抜きん出てるね。

ミアが逃がそうとした白い馬を巡って、ビリーという少年と出会うエピソードもいい。
その馬は年老いていて、ビリーが面倒見てたが、病気になり撃ち殺したと言われ、ミアは映画の中で初めて泣く。

「もう16才だった。寿命なんだよ」
その言葉は15才の少女の心をヒリヒリと灼いただろう。
ここにいたら、自分だって16才が寿命かもしれないと。

ケイティ・ジャーヴィスはこれだけ忘れ難いヒロインを体現したのに、その後女優のキャリアを積んでる様子がない。

2012年8月8日

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