モット見たいよライヴフッテージを [音楽&ライヴ映画]

『すべての若き野郎ども モット・ザ・フープル』

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1996年にモット・ザ・フープルをリスペクトする日本のミュージシャンたちによる、トリビュート盤
『MOTH POET HOTEL~A TRIBUTE TO MOTT THE HOOPLE~』が出て、俺も当時聴いてた。
1974年のアルバム『ロックン・ロール黄金時代』録音時に、バンドメンバーに加入したモーガン・フィッシャーが監修してて、ライナーノーツで各楽曲にコメント入れてた。

ザ・ハイロウズによるストレートなカヴァー『ロックン・ロール黄金時代』や、ザ・イエロー・モンキーによる『ホナルーチー・ブギー』はカッコよかった。イエモンは最初彼らを見た時から「モット・ザ・フープル好きなんだろうな」と思ってたよ。
モーガンはTHE BOOMの宮沢和史による『母になりたい』だけは「解釈がわからない」とコメントしてたが。

トリビュート盤が作られる位に、プロの世界にはファンが多いモット・ザ・フープルの、日本における扱いの低さというか、顧みられなさ加減は、俺はずっと納得いかないでいる。

このドキュメンタリー『すべての若き野郎ども モット・ザ・フープル』は、現在「シアターN渋谷」での単館公開中で、俺は見た後、彼らのアルバムのリマスター盤が出てないかと、渋谷のツタヤを覗いたが、セルコーナーには「モット・ザ・フープル」の仕切りすらなく、アルバムは1枚も売ってなかった。タワレコに移動して、ようやく「デビュー40周年記念ベスト」というのが売ってたので、今それを聴いてるところ。

俺がモット・ザ・フープルを最初に聴いたのは、前述の『ロックン・ロール黄金時代』だ。当時買ってた「FMfan」の表紙がこのアルバムジャケで、インパクトがあったのだ。

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リードナンバーとなる同名のシングルが、ラジオから流れていて、そのカッコよさにやられた。今でもモットの曲でこれが一番気分が上がる。
俺はこのアルバムからモットにハマったんだが、モットとしては、これがスタジオ録音のラストアルバムとなってしまった。

1969年に1stを出して、4枚目までは売れず、バンドは解散を決めてたが、彼らを気に入ってたデヴィッド・ボウイが「そう言わないで続けろよ」と自作の曲を提供。
その『すべての若き野郎ども』が起死回生の大ヒットとなり、その後のロック・アンセムの1曲にもなるのだ。
イアン・ハンターはインタビューで、
「ボウイは本当に寛大な人だと思うよ。俺があんな名曲書いたら、人に贈ろうとは思わないもの」
と言ってて可笑しかった。
その曲を収録して、アイランドレコードからCBSに移籍した5枚目のアルバムで世界的にブレイク。
続く2枚も成功を収めるが、相次ぐメンバーの脱退や、バンド内の人間関係のストレスで、リーダー格のイアン・ハンターも疲れ切り、解散に踏み切ることとなった。5年という短い活動期間だった。


ツェッペリンは別格としても、同時期のディープ・パープルやブラック・サバスなどのハードロック・バンドほどの知名度が、特に日本では得られてないのは、彼らがいろんな意味で「不器用」だったからだというのが、このドキュメンタリーを見ると分かる。

メンバーや関係者へのインタビューがメインで、合間にライヴのフッテージが挟まる構成だが、このフッテージの質が悪い。つまり彼らが自分たちのパフォーマンスを、きちんと映像に残しておこうという意識がなかったということだ。ライヴ盤はレコードとしてはリリースしてるのにだ。
ジミー・ペイジのように、自分たちをどう売るかという、ビジネス感覚に長けたメンバーがいなかったのだろう。

その画質の悪いライヴの様子からは、モットがライヴバンドとして、聴衆を熱狂にかりたてる強靭なパワーを誇ってたのが垣間見える。
ロイヤル・アルバート・ホールでのライヴでは、あまりに器物損壊ぶりが激しく、以降このホールはロックバンドの使用を拒否してる。
モット・ザ・フープルはグラムロックにカテゴライズされることがあるが、アイランド時代の4枚は、アーシーなロックンロール・ナンバーが中心となっており、この頃はリフを紡ぎ出すミック・ラルフスの存在が大きかった。
モットが後のパンクバンドからリスペクトされてるのも、この初期のナンバーが、ライヴで生み出す暴力的な一体感からだろう。

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アイランドからCBSに移籍するとともに、デヴィッド・ボウイに感化されたこともあるのか、ステージ衣装なんかも「グラムっぽく」なってきてる。
他のハードロックバンドの音と異なるのは、ピアノやブラスが入っていて、ロックでありながら、映画の中の発言のように「ボードヴィルの猥雑さ」が混在してる。
カッコよくて、いかがわしいケバさも持ち合わせてるのだ。
それにイアン・ハンターが、ELOのジェフ・リンのようなポップセンスを兼ね備えていたという部分も大きい。
映画の中でカイザー・チーフスを引き合いに出してコメントしてたが、たしかに繋がるものは感じる。


このドキュメンタリーの原題は、彼らの名曲をそのまま冠した『モット・ザ・フープルのバラード』といい、ポテンシャルが高いにも係わらず、短命に終わったバンドの日々をメンバーが振り返る、ほろ苦い感触はたしかにある。

バンド初期にはイアン・ハンターとほぼ同等に楽曲を担当してたミック・ラルフスは、6枚目の『革命』発表後に脱退。楽曲がアルバムに採用される比重が、イアン・ハンターに傾いてきたのを不満としてた。
ミック・ラルフスはボツにされた『キャント・ゲット・イナフ』を、ポール・ロジャースらと新たに組んだバッド・カンパニーの1stに提供。これが大ヒットするわけだ。

元スプーキー・トゥースのルーサー・グロブナーに代わる、新たなギタリストとして、イアン・ハンターに呼ばれたミック・ロンソンが、他のメンバーと全く口を聞かなかったというエピソードも語られた。
個性の強いメンバーたちによる衝突も、日常茶飯事だったというバンド。
だがインタビューにこたえるメンバーたちの表情の中からは
「それでもモットは最高だったよな」という思いが汲み取れる。
だから2009年に「結成40周年記念」のオリジナルメンバー再結成ライヴも実現したんだろう。


それからこのドキュメンタリーにはモットのほかに、彼らの生みの親ともいえる、アイランドレコードのプロデューサー、ガイ・スティーヴンスのことが語られてる。
若くして辣腕を振るってたガイは、モット・ザ・フープルや、プロコル・ハルムといったバンドの名付け親でもあった。
だが不運な所があって、プロコル・ハルムも彼の手を離れてから『青い影』の大ヒットでメジャーになり、モットも『すべての若き野郎ども』が大当たりした時は、CBSに移籍が決まっていた。

「モノになる」バンドを見抜く目を持ってたんだろう。ザ・クラッシュの名盤『ロンドン・コーリング』もガイのプロデュースによるものだ。
インタビューに答える誰もが、ガイの強烈なキャラへの印象に言及してたが、ガイは麻薬常用者でもあり、40を待たずに世を去っている。

このドキュメンタリーの中で「おっ」と身を乗り出したのは、モットがヨーロッパ・ツアーを行った時のフッテージで、西ドイツのテレビ番組で、リンジー・ディ・ポールと一緒に出演してるもの。
1974年に『恋のウー・アイ・ドゥ』が日本でもヒットした女性ポップシンガーだ。色っぽいウィスパーボイスが、スペクター・サウンドに乗っかってるという、俺にとっては必殺のナンバーで、死ぬほど聴いてたな当時。
彼女はモットのアルバム『ロックン・ロール黄金時代』に収録されて、シングルにもなった『土曜日の誘惑』でちょこっと声を聞かせてるのだ。

上映中の「シアターN渋谷」では、5月25日(金)の21時10分の回上映前に、なんとモーガン・フィッシャーによるトークショーが開催される。
当日朝10時45分から、劇場窓口でチケットを販売するというので、俺も都合がつけば駆けつけたい。
しかし平日の朝にチケット買えそうもないなあ。

2012年5月19日

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洋楽好きには楽しめる合唱ドラマ [映画サ行]

『ジョイフル♪ノイズ』

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これも都内では現在「シネマート新宿」のみの単館公開だ。先週別の映画をここに見に行った時には、小さいキャパの「スクリーン2」で上映されてて、満席の回とか出てたようだ。今週になり「スクリーン1」に再び格上げになってたので、この機にと見に行った。

「合唱映画」というのは、どんな曲を歌うのかというのが、俺のとっての一番の関心事だ。
ストーリーよりもそっちが楽しみ。

昨年1月に公開された、韓国の「塀の中の女性合唱団」を描いた『ハーモニー』では、合唱曲の中に、驚くようなレアな洋楽が含まれてた。
スペインのポップスバンド、モセダデスの『エレス・トゥ』という曲だ。
これは日本ではラジオの「全米トップ40」を聴いてたような洋楽好き以外には知られてない。坂本九の『スキヤキ(上を向いて歩こう)』と同様に、アメリカの音楽チャートで、「英語じゃない歌詞」としてヒットを飛ばした、数少ない曲のひとつなのだ。
多分韓国では70年代に、日本よりもよく聴かれてたんだろう。実際美しいメロディで、サビ部分はコーラスだから、合唱曲にもうってつけだ。

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モセダデスのヒットはこれ1曲で、こういうアーティストのことを
「ワン・ヒット・ワンダラー(一発屋)」と向こうでは呼ぶ。
この『ジョイフル♪ノイズ』でクイーン・ラティファ演じるヴァイ・ローズの息子ウォルターが、ヒット曲マニアで、一発屋に異様に詳しいという設定になってる。
ウォルターは自閉症気味で、学校ではイジメにあったりするが、音楽の才能はある。

人前では歌えないというウォルターを、ドリー・パートン演じるG.G.の孫ランディが励まして、ピアノで連弾しながら歌うのが、1966年の一発ヒット『いとしのルネ』だ。ビートルズなどから影響を受けたアメリカのバンド、レフト・バンクの全米5位を記録した曲だ。
この曲が映画で使われたのは初めてじゃないかな。
家族に口を開くと、まず「一発屋」のウンチクが入る、ウォルターのキャラが面白いんで、彼を主役に「ワン・ヒット・ワンダラー」の楽曲だけを使ったスピンオフを作ってもらいたい位だ。


ジョージア州のパカショーという架空の町を舞台にしていて、日本の地方都市と同じく、シャッターの下りた店ばかりが目立つ不況の町で、その住民たちの期待を担って、全米聖歌隊コンクール「ジョイフル・ノイズ」での優勝を目指す、教会の聖歌隊が主人公だ。
聖歌隊といえばゴスペル・ソングと思いがちだが、「神への賛美や、人生を肯定する」曲ならジャンルは問わないようだ。

この聖歌隊も冒頭でMJの『マン・イン・ザ・ミラー』を歌い、ポール・マッカートニーのソロ後のヒット曲『メイビー・アイム・アメイズド』なんて渋い所も持ってくる。
スライ&ファミリー・ストーンの『アイ・ウォント・テイク・ユー・ハイヤー』から、アッシャーの『YEAH!』、クリス・ブラウンの『フォーエヴァー』とつなぎ、「サインド、シールド、デリヴァード、アイム、ユアーズ♪」と歌われるスティービー・ワンダーの『涙をとどけて』に至る「ハイヤー・メドレー」など、合唱シーンはさすがに聴かせる。

合唱以外の場面でも、現代が舞台になってるわりには、ボズ・スキャグスの『ロウダウン』、カチャ・グー・グーの『君はトゥー・シャイ』(彼らも一発屋)、ルー・ロウルズの『ユール・ネヴァー・ファインド・アナザー・ラヴ・ライク・マイン』など「懐メロ」が流れるのは監督の趣味なんだろう。
年季の入った洋楽好きなら、この選曲は気に入るだろうな。


だが映画の作り自体はいろいろ難点もある。こういう映画の場合、逆境におかれた登場人物たちが、一丸となって栄光を目指すというのがルーティンだと思う。
ベタだけどやっぱりその展開が胸熱になるからだ。
聖歌隊のメンバーの、生活に窮してる様子とか、シャッター商店街の店主たちが、聖歌隊のために後方支援に回るとか、うなだれた町が覇気を取り戻していくような、ストーリーが見たい所なんだが、まったくそういう気配はない。

クイーン・ラティファ演じるヴァイ・ローズと、ドリー・パートン演じるG.G.が何かにつけ、角突き合わす様を見させられる。

G.G.の夫のバーニーをクリス・クリストファーソンが演じてるんだが、聖歌隊をまとめてたバーニーが急死してしまい、妻のG.G.が後任に選ばれる。
ヴァイ・ローズはサブとして聖歌隊に貢献してきた自分を差し置いて、G.G.が選ばれたのが納得いかないのだ。
そこに持ってきて、ヴァイ・ローズの娘オリビアと、G.G.の孫のランディが接近したりで、いよいよ二人の間はこじれていく。
クイーン・ラティファとドリー・パートンは、どちらも芸達者だから、いがみ合いもそれなりに楽しく見れはするが、所詮「家庭の揉め事」を見させられてるだけであって、他の聖歌隊のメンバーはほぼ空気となってる。
合唱団映画につきものの「人間模様」ってやつが無視されてるのだ。

アメリカ映画にありがちな、ヘッポコなチームや集団が、最後にはすごい成果を示すという設定にはなってないのはいいと思う。
「ここまでうまけりゃ、最初からある程度はうまいはず」と見てて思うことが多いので。
この聖歌隊は実力はあるんだが、地区大会に立ちはだかる強豪の壁を突破できないでいるのだ。
これは『チアーズ』と同じ設定だね。


その地区大会で見せる「デトロイト教会」のパフォーマンスが見事だ。実際のゴスペル界のスター、カール・フランクリンがソロパートを担ってるが、聴衆を煽る煽る。もう会場ノリノリだ。
だがコーラスがあまりに上手すぎて「プロなんじゃないか?」と、クイーン・ラティファたちは疑うと、察する通りに、プロを使ってたということで、宿敵は失格となり、思いもかけず全国大会決勝へと駒を進めることになる。

そしてこの決勝の相手として出てきたのが、子供時代のマイケル・ジャクソンかと思うような、見事な歌唱の黒人少年がソロパートを担う合唱団だ。
俺は合唱というと全編コーラスと思ってたが、ソロパートの役割が大きいのだな。
この相手チームのパフォーマンスも圧巻で、その後に出るパカショーの聖歌隊のメンバーは「不公平だよ」と意気消沈してるのもわかる。

難点として対戦相手のクオリティが高すぎないか?ということなのだ。
いや見る側にとっては、見事なパフォーマンスがいくつも見れて、それはそれで満足ではあるんだが。
パカショーの聖歌隊が勝てると思えないんだよな。

ドリー・パートンの顔の整形をネタにした、レストランでの大ゲンカの場面は、笑っていいのかな。
続編作るなら、ドリー・パートンとシェールで
「自然に歳を重ねたとはとても思えない人工感あふれた美魔女」
共演を期待したい。

2012年5月18日

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なにがしたかったのかホアキン [映画ヤ行]

『容疑者、ホアキン・フェニックス』

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突然「俺は俳優辞めてラッパーになる!」と宣言し、映画の表舞台から消えたホアキン・フェニックスの2年間を、義弟のケイシー・アフレックがカメラに収め続けたもの。フェニックス家とアフレック家はつながりあったのかと驚いたら、ケイシーがホアキンの妹と数年前に結婚してたんだと。
義兄に「おまえ、俺を撮れ!」というノリで決まったのかね。

熊みたいに太ってヒゲもじゃのホアキンが、俳優仲間や音楽関係のセレブに「俺ラッパーになるんだよ!」と、言って回る姿と、リアクションに窮する人たちを眺めてると、サッシャ・バロン・コーエンの『ボラット』なんかを思わせる。ボラットは作りこんだキャラだが、ホアキンは本人だし。

この映画一番のショットは偶然飛行機に乗り合わせたラッパーのモス・デフが、ホアキンから
「ボヘミアン・ラプソディをラップでやろうと思ってんだよ!」と言われ、
「あー、あっそう…そりゃすごいね…」
と一瞬ポカンとなるところ。

基本手のこんだ「ドッキリ」をやろうとしてるんだが、わりと早い段階から「ヤラセ」疑惑がアメリカのメディアでは囁かれてたようだ。「ドッキリ」なら最後にプラカード掲げてチャンチャンで終わるんだろうが、ホアキンはそれをするつもりはなかったんだろう。

このドキュメンタリーだか、モニュメンタリーだが何でもいいんだが、作品の中で、ホアキンのラッパーぶりがサマになってないというのが重要だ。
ホアキンはラッパーのパロディをやろうとはしてない。彼が書いたリリックは、韻はあまり踏まれてないが、自分の内面を照射したシリアスなものだった。
だがそれを音に乗せる、パフォーマーとしてのスキルが稚拙なんで、オーディエンスが乗ってこない。シラッとしたムードが会場を包んでしまう。
オーディエンスにしてみりゃ「ギャグならギャグで笑かしてくれよ」って感じなんだろう。

だがホアキンは『ウォーク・ザ・ライン』でジョニー・キャッシュのパフォーマンスを、声質に至るまで「完コピ」した男だ。2年間も費やしてるんだから、ラッパーのパフォーマンスを完コピすること位できただろう。
だがハナからそんなことをするつもりはないのだ彼は。
それをやったら俳優の仕事とおんなじになる。

ホアキンのこの作品におけるテーマは「ぶざま」であることで、徹頭徹尾そうあろうとしてる。
自分があらゆる局面で放つ「いたたまれなさ」を楽しんでる風情すらある。


映画の中で「ぶざまな人生」を演じることは普通にあるだろう。だが「アメリカン・ニューシネマ」に代表されるように、そこには「ぶざま」に見える「カッコよさ」が内在してしまう。
それも一種のナルシズムであって、ホアキンのやろうとしてることは、「ぶざま」さをそのままに見せることだ。
当初「ヤラセ」を疑ってたメディアも、段々シャレにならない印象を持つようになる。
そしてヘタなラップを晒す、元映画スターを嘲笑し始める。
日本でいえば「ワイドショー」の格好のネタであり、トーク番組でも、その風体を
「ユナ・ボマーと知り合いなんだって?」
などと揶揄される。ホアキンは笑われるがままに座ってる。

「演技もうまいハリウッドスター」として、それなりの扱いをしてきたメディアも、今は「トチ狂った人」としてその舌鋒は容赦ない。だが誰もホアキンがなぜこんなことをしてるのか、その彼の内面に慮る者はいない。
だがこの作品を見てる者には、それがおぼろ気にではあるが、つかめたりもする。


どんなにリアルに実像のホアキンを追ってるように見えても、「演技」してることは隠せない。
例えば、部屋でコカイン吸って、すっかりハイになったホアキンが
「ケツの穴の匂い嗅ぎたいから女を呼べよ!」
と言って、コールガールふたりを家に呼ぶ。
さっそくホアキンや、すぐにフル●ンになる同居人(名前忘れた)の男も素っ裸になるが、ホアキンは女の胸の谷間の匂いを嗅いでる。
「そこ場所ちがうだろ!」と俺はツッコむ。言ったならちゃんとやって見せろと。

あとマネージャーの金髪の男に暴言を吐く場面。
「お前の顔にまたがってクソしてやる!」
と言ったホアキンが、その金髪に「寝起きドッキリ」をかまされるんだが、その場面もちゃんと見えるように撮ってない。直後にホアキンが、絶叫しながら洗面所で顔洗ってる場面に変わってしまう。
はっきり書くと「言ったことを自分がされた」という場面なんだが、実際にされてみろと。

そのあたりの描写が回避されてしまってるのは、映画俳優という職業の、最後の一線は越えられなかったんだろう。
この作品の中では、努めてぶざまで下品で性格がねじくれてていざとなると緊張で吐くほど小心なホアキンが映されるが、それも演技であることに違いはない。

だがそれでもこの企画が単なる酔狂とか、「俺を嗤うヤツらをこっちが嗤ってやる」という手の込んだ企みであるとか、それだけでは済まされない切実さが、漏れ出てきてる。
「引っかかったのはお前らなんだよ!」というカタルシスがあるわけでなく、「笑ってすませてよ」という茶目っ気があるわけでもない。


俺はスポットライトを浴びる側の人間じゃないから、そこにどのようなストレスや葛藤があるのか、実感はできないが、ホアキンがこれをアトラクションのように作ってるわけではない、その生真面目さには打たれるものがある。

日本のアイドルとか、メディアに追い回され、つねに好奇の目に晒されてるような人たちが見ると、なにか本質的な部分で反応できるんではないか?
映画スターという「虚像」を演じる人間が、自らの「実像」を演じようとするが、メディアはその人の「実像」など何の価値も見出さない。だがネガティブな部分が見つかると、そこにはよってたかって食いついてくる。

スターという「虚像」を利用して儲けていながら、その人間の「実像」に関しては、プライベートをほじくり返し「所詮は自分たちと同じ愚かな人間」に陥れることで満足を得る。
週刊誌の表紙を飾ってもらって、部数を伸ばした翌週に、そのスターのスキャンダル記事を大々的に煽って載せることに、なんの倫理観の躊躇もない。
その人間の真実がどうであろうが、どうだっていいのだ。

そのメディアの冷酷さや、それに踊らされる大衆の浅はかさを、まさに「肉を切らして骨を断つ」覚悟で、2年間を費やし暴いてみせたホアキンは「漢」だよなあ。

2012年5月17日

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じいちゃんと孫の自転車ふたり旅 [映画サ行]

『さあ帰ろう、ペダルをこいで』

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昨年から「シネマート新宿」によく通ってる。都内ではここでしかかからない「単館上映」の作品にいいものが目立つからだ。封切り1週間以内に見るのが望ましい。
ここはスクリーンが2つあり、封切り直後はキャパの大きい「スクリーン1」でかかるが、入りが芳しくないと、翌週には「スクリーン2」に格下げになる。こっちの画面はべらぼうに小さい。
同じ料金があり得ない位に鑑賞環境が違うのだ。
俺はHPで、どっちのスクリーンでかかってるかチェックしてから見に行くようにしてる。

先週もここでツイ・ハークの新作『王朝の陰謀 判事ディーと云々…』を「スクリーン1」で見たんだが、俺の体調が思わしくなかったのか、なんとツイ・ハークであるにも係わらず、途中何度か意識が飛んでしまい、ちゃんと筋を追えなかった。
見る前に食べたハンバーガーに、睡眠薬が仕込まれてたとも考えられる。いや考えられない。
なので悔しいからもう1度見ようと思ってるんだが、今は「スクリーン2」に格下げ中なんで保留としてる。
この劇場はわりと細かく上映の割り振りをしてるんで、日に1回だけ「スクリーン1」になることもあり、チェックは怠れないのだが。


この『さあ帰ろう、ペダルをこいで』もここでしか上映してない、ブルガリア映画だ。
ブルガリアは年に10本も映画が作られてないそうだ。
日本公開されたものとしては、2009年の『ソフィアの夜明け』以来か。
さらに遡ると、1988年の『略奪の大地』まで1本もないと思う。だがどちらの映画も、それぞれにブルガリアの現在と過去を描いて、見応えがあった。

題名にあるようにこれは自転車での旅を描く映画だ。俺も若い頃に自転車で旅したことあるんで、旅が主眼じゃなくても、『北京の自転車』とか『少年と自転車』とか、題名についてるだけで、見に行ってしまう。
旅を描いたものとしては、1992年の『ラテン・アメリカ/光と影の詩』を、やはり劇場で見た。
地図で見ると南米大陸の一番下、アルゼンチンのフエゴ島に住む少年が、父を探しに、南米を縦断しメキシコまで、5000キロを自転車で走破しようとする内容だった。
アストル・ピアソラのバンドネオンの音色が、少年の旅に寄り添ってて、俺はサントラ買いに走った。当時は外資系のCDショップ全盛で、サントラは「WAVE」で買うことが多かったな。
しかし南米を自転車でというのは厳しいだろうなあ。ほとんど悪路じゃないのかね。


『さあ帰ろう、ペダルをこいで』の主人公アレックスは、両親と乗る自動車の横転事故で、ひとりだけ生き残る。
一家はドイツから、長く戻れなかった祖国ブルガリアに里帰りする途中だった。
アレックスは事故の衝撃で記憶を失っていた。
ブルガリアではアレックスの祖父と祖母が悲報を受け取っていた。祖父のバイ・ダンは、幼い頃以来、顔を見れずにいた孫を案じてドイツの病院へとやって来た。

バイ・ダンの娘夫婦の一家はなぜ、祖父たちと離れたのか。
映画は2007年のドイツと、1982年のブルガリアを行き来していく。

祖父のバイ・ダンは「サイコロによる詰め将棋」のようなバックギャモンの名人。カフェで仲間たちとゲームに興じるのが日課だった。だが共産党政権下で、経済が停滞する中、体制維持による市民への締め付けが厳しくなっていた。
バイ・ダンはカフェの隅に座る見慣れぬ顔の男を、秘密警察呼ばわりしたことで、恨みを買うことになる。男はバイ・ダンの娘婿ヴァスコが勤める工場の人事部長だったのだ。

ヴァスコが以前、共産党青年同盟を除名され、大学に入るために陸軍の在籍記録を偽造してたことを掴んでいた。その弱みにつけこみ、人事部長はヴァスコに、嫁の父親とその周辺をスパイするよう強要した。
バイ・ダンは学生時代「ハンガリー動乱」に参加し、スターリン像を爆破した罪で、ブルガリアに送還されてたのだ。バイ・ダンの反政府的言動をつかみ、投獄しようという腹だった。
ヴァスコはその話は告げず、養父とバックギャモンの盤を囲む。
「俺はもう手詰まりです」
「戦略を変えてみろ。強行突破で道が開けることもある」
ヴァスコは密告の命に背き、妻と子を伴い、西ドイツへの亡命を図った。

バイ・ダンは、「サシコ」の愛称でみなに愛された孫のアレックスに、幼い頃バックギャモンの技を伝授していた。
病室で孫と向かい合っても、アレックスは祖父を思い出せない。
バイ・ダンは孫が住んでたアパートの部屋を突き止め、アレックスがどんな暮らしを送ってたのか、見当つけた。
自分が幼い頃のアレックスに贈った、手製のバックギャモンの盤も部屋にあった。
両親の写真を見せても記憶は戻らない。だがバックギャモンのやり方は憶えていた。

アレックスと見知らぬ祖父は打ち解けてきたが、相変わらず孫は病室から出ようとしない。
このドイツで孫は、友達もなく、仕事は翻訳文をメールで送るだけで、ほとんど「引きこもり」のように生活してたようだ。祖父にはそれが歯痒かった。
「バックギャモンも人生も、サイコロを振るのはお前自身だ」

両親の死を知らされてないアレックスに、バイ・ダンは自らも認めたくはない、その真実を告げた。
「両親はもう戻らない。だがお前が記憶を取り戻せば、思い出の中でまた会うことができるんだ」

西ドイツに亡命した両親の遺体は、ドイツの墓地に埋葬されていた。
バイ・ダンはアレックスを伴って墓参りをし、二人乗り用の「タンデム自転車」を購入してきた。
「飛行機で2時間で帰れるのに?」
アレックスは呆れるが、バイ・ダンは、自分の足で故郷ブルガリアへ帰らせようと思っていた。
そして寄る場所があることも。


ブルガリアから西ドイツへと亡命を図った娘夫婦と幼いアレックスは、なんとかイタリアまで辿り着いた。
一家が連れて行かれたのは難民キャンプだった。イタリアは政治亡命者を受け入れておらず、このキャンプで第三国への亡命申請を出す。だが行く先がどこの国であっても、申請の費用は高額で、この劣悪な環境で足止めを食う者がほとんどだった。

ブルガリアで裕福ではないが、安定した生活を送れていた妻のヤナは、この現実が耐えられなかった。
幼いアレックスはそんな日々の中でも、同じ年かさの少女と仲良く過ごすようになった。
父親にせがんで買ってもらったミニカーを後生大事に抱え、盗まれるといけないからと、少女といつも隣りあって座ってた建物の、床下の隙間に隠した。

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祖父と孫のタンデム旅行のペダルは快調だった。旅の途中には出会いもあった。キャンプ場の祭りで踊る、美しいダンサーのマリアに目を奪われたアレックス。
だが見つめるだけの孫にバイ・ダンは
「声をかけないでどうする」とハッパをかける。

マリアは情熱的で、ふたりはすぐに恋におちた。
内にこもるアレックスが、旅を通して自分を変化させてく、その様子を見ながら、バイ・ダンは
「また一つ駒を進めたな」と言った。

そして険しいアルプスの山々を越え、自転車はイタリアへと入った。亡命したあの日と逆のルートを辿って。
二人が立ち寄った建物は、すでにひと気がなく、門も錆び付いていた。
娘夫婦の一家が過ごした難民キャンプの名残だった。


この映画は旅を進めて行くにしたがってドンドン良くなってく印象があった。
前半のブルガリア時代の、人事部長の陰険さとか、人物描写が定石的で、演出としてさほど優れてるとも感じないんだが、物語の前半の人物や、小道具などが、後半に伏線として機能してくるなど、脚本は練られてると思った。

映画でアレックスは1975年生まれとなってるから、2007年時点で32才。そこから推測するに、祖父バイ・ダンは70代半ばくらいか。
ペダルを漕ぐ足も力強く、旅とともに孫の人生を導く頼もしさに溢れている。
演じるミキ・マノイロニッチは、クストリッツァ監督作の常連として名が通ってる名優。
『パパは、出張中!』でも、反政府的言動で投獄されてしまう、一家の父親を演じてた。

この映画で物足りない点があるとすれば、祖父バイ・ダンの、亡くなった娘夫婦に対する、思いというか、ある種の贖罪の気持ちが、描写として足りなかったんではと思うところ。
娘婿のヴァスコが亡命せざるを得ない、その原因の一端はバイ・ダンにあったわけだし。

バイ・ダンは体制に対しても怯むことのない、精神的にも強靭な男だ。バックギャモンに興じる、悠々自適な日々を送ってたといってもいい。
だが娘夫婦は生活者としての苦労がある。子供はまだ小さい。働き口がそう簡単に見つかるような国の情勢でもない。
自分のように強くあることができないでいる、そういう者たちへの目配せが足りなかったのでは?

映画で昔の難民キャンプを訪れた時に、アレックスはそれが記憶を取り戻すきっかけにもなり、場面としてはいい場面なんだが、その場所で娘夫婦たちがどんな思いでいたのか、バイ・ダンが悔恨とともに、思いを巡らすような描写も欲しかったと思った。

起伏に富んだ旅の風景の美しさや、気持ちのいい結末へと導いてくれる語り口で、映画そのものは見た後に晴れ晴れとさせてくれる。
なじみ薄い国の映画だとか、単館上映だとか、そういうイメージを払拭させる、見る人を選ばない「いい話」だ。

2012年5月16日

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ロマポル②『(秘)女郎市場』『白昼の女狩り』 [生きつづけるロマンポルノ]

渋谷ユーロスペースで開催されてる『生きつづけるロマンポルノ』の初日に、トークゲストとして登壇した曾根中生監督の2作。
監督初期の1972年作『(秘)女郎市場』と、1984年に完成しながら、日活がオクラ入りを決め、今回の上映企画で初めて「蔵出し」された『白昼の女狩り』
どちらもアナーキーな作風ながら、伝わってくるものは全く対照的なものだった。


『(秘)女郎市場』

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東の吉原、西の島原と謳われた遊郭全盛の江戸時代が背景。
常に「採れたての女郎」が求められ、「女衒」と呼ばれた人買いが、日本全国津々浦々の村を回っていた。
村の方も心得たもので、生娘を集め、女衒たちに「セリ」を行わせてる。
吉原の女衒、吉藤次は娘の見立てには厳しく、余分な金は払わないという彼なりの「仕事への誇り」を持ってたが、他の女衒たちは、欲深い村長の言いなりで高い金を払って、娘を買い上げてくもんだから、吉藤次は仕事にならない。

村でクサってると、セリにかけられない娘がいる。器量は悪くない。
だが村長は「この娘は頭が弱いんで」と商品にならないと思ってる。お新という名の娘の汚い服を脱がせ、吉藤次はじっくり身体を観察。
体つきはよく、なによりすごい「名器」の持ち主と確信。買い上げてくことにした。

江戸への道すがら、遊郭で働くことを教えるが、お新はそこがどんな場所かも見当ついてなかった。
頭は弱いが愛嬌はある。吉原は無理でも、品川宿なら買い手もつくだろう。
吉藤次は訝しげにお新を眺める、品川の遊郭の女将と交渉成立。
最初は下働きをさせられてたお新も、床に入ることになり、奇麗な着物と化粧を施され、すっかり上機嫌に。
「殿方の言う通りに、したいようにさせとくんだよ」
と女将に念を押されるが、お新のあまりの天然ぶりは、常連客はおろか、遊郭全体を混乱に陥れてゆくのだった。

これはポルノというより、スラップスティック・コメディだろう。
相撲取りが客に来ると、お新は相撲の相手をして、あげく床が抜け、相撲取りが落下する。
お新を乗せて江戸まで来た黒毛和牛が、お新のピンチに暴れ出し、遊郭内を突進してく。
お新目当てに来た按摩の、座頭いち、座頭に、座頭さんの三人組が、お新を巡って仲間割れとなり、部屋の中で立ち回りとなる。
とにかくセットがどんどん壊れていくのは、ドリフの『8時だよ!全員集合』そのまんまだ。

トークショーで聞き手の山根貞男が、
「日活というメジャーな映画会社が、ポルノのためにちゃんとスタジオに遊郭のセットを組んで、それを片端からこわしてくのが凄い」
と感想述べると、曾根監督は
「あれは元々あったセットなんですよ」
曾根監督が当時テレビ時代劇『大江戸捜査網』の現場に絡んでたこともあり、その使用済みのセットを拝借したのだそうだ。
「どうせ壊すんだから、映画の中で壊しちゃえば一石二鳥」
神代辰巳監督が『赤線玉の井 ぬけられます』のために組んだセットも、後に曾根監督は自分の映画で拝借して、スクラップにしてる。
「神代君が作って、僕が壊すという役割みたいになってましたね」

黒毛和牛に、2階立てセットの階段まで昇らせてるのも凄いが、劇中で英語が飛び交ったり、電気ソケットが出てきたり、時代考証無視のアナーキーさが、遊郭に売られた女郎の哀切などという、予想しがちな展開を小気味よく裏切っていく。

反面、遊郭を逃げ出したお新と吉藤次が、川の土手で再会する場面などは情緒がある。
地理的に言えば、大井川あたりになるのか、何度かこの土手の場面が出てくるが、常に風が強く、生い茂った葦が揺れていて、カメラが美しい。
自分を買い上げた女衒が、一番優しくて好きという、お新の心情がせつないのだ。

お新を演じてるのは片桐夕子。曾根監督は「役のまんまな感じ」などと語ってたが
「他のどの女優でもなく、片桐夕子でなければ、お新は演じられなかった」とも。
豊かな曲線を描く肉体と、ちょっと「弱い」感じ。『道』のジェルソミーナが色っぽかったら、片桐夕子になってたんじゃないか。

曾根監督は「僕が演出するとセックスシーンぽくなくなるんですよ」と語ったが、まあたしかに。
ドタバタ劇の方に気をとられるし。お新が先輩の女郎に、テクの手ほどきを受ける「ちょいレズ」な場面だけ、それらしくはなったけど。



『白昼の女狩り』

白昼の女狩り.jpg

当初マンガ家の谷岡ヤスジが監督で進んでたが、スケジュールが合わなくなり降板して、曾根監督が引き継いだとのこと。
なぜオクラ入りとなったのかについて
「僕はよく憶えてないんだが、当時僕とプロデューサーが、日活の専務に呼ばれ、怒られたらしい」
「これはテロリズムを描いた映画だからだと」
日活のような企業がテロリストを主役にするとはけしからんと、上層部は思ったんじゃないかという、これは曾根監督の推測だ。

しかしテロリストのリーダーを、なぎら健壱が演じてる時点で、シリアスに見る人もいないだろ。本人はシリアスというか、気障っぽく演じてたけど。

冒頭、羽田空港近くの埋め立て地で、モデルの女の子とスーツ姿を男が、エロ本の撮影めいたことをしてる。
バックに離発着する飛行機。飛行機を狙ったテロでも描くのかと思うと、まったく関係なく、その撮影してた二人を、迷彩服の男たち3人が襲うのだ。
ちなみにスーツの男は南伸坊だった。なぎらラインで呼ばれたのか?
南伸坊はなぎらに撃ち殺され、女の子も、男たちに四つんばいにさせられ、股間にライフルを突っ込まれて、引き金引かれる。

なぎら健壱をリーダーとする迷彩服の軍団(といっても3人だが)は、多分だが、道徳に反するようなカップルを見つけると、勝手に制裁に及ぶことになってるらしい。
だがなぎらは向かいのアパートに住む、ヒロイン加来見由佳のことを勝手に見守ってもいる。

今日も町で見かけた親子ほど年の離れた女子高生と、中年男の「援交カップル」に照準を合わせて、ミッションを起す。迷彩服はともかく、M16みたいな自動小銃を標準装備してるし、自衛隊関係の人なのか?

見守ってた加来見由佳までもが、男と不純な関係に及んでると察知したなぎらは、二人が泊まる雪山の別荘に潜入。
男は制裁下され、加来見由佳は部下に風呂場で暴行されるが、ナイフで反撃。部下の自動小銃を奪って、なぎらと対峙。
「私たちの愛は終ったということですね」
と始まってもないことを言うなぎらを撃ち殺す。
そのまま車で新宿あたりを暴走すると、ヒロインは車を降りて自動小銃を乱射する。スローになっとるな。
俺はここで薬師丸ひろ子のセリフがでるのかとヒヤヒヤしたよ。

『白昼の女狩り』はアナーキーというより、なんかやけっぱちで作ってる感じがあった。
テロリストでもなんでもいいんだが、例えば黒沢清監督の『復讐 運命の訪問者』で描かれた、六平直政をリーダーとする「殺人一家」の「ただ殺す」という不気味さとかが、ほとんど感じられない。

変な描写だなと思ったのは、ヒロインが二度ほど抵抗しながら犯される場面があるが、さんざ叫んで抵抗してるのに、足の指を舐められると、途端に大人しくなって、されるがままになるという、これはどんな設定なのか?
曾根監督は「ゲーム感覚で殺人を行う登場人物への嫌悪感が、エロい気分を上回ってしまった」と感じてるようだが、テロ云々より、日活としては単に「商品にならない」という判断だったんじゃないか。
ツッコミ入れながら見る分には美味しい映画ではある。

2012年5月15日

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初日は曾根中生監督のトークショー [生きつづけるロマンポルノ]

『生きつづけるロマンポルノ』

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「曾根中生監督のトークショー抜粋」

1971年から1988年まで、約1100本も製作・公開された「日活ロマンポルノ」作品の中から、映画評論家の蓮實重彦、山田宏一、山根貞男が選んだ32本を上映する企画
『生きつづけるロマンポルノ』が、5月12日から6月1日まで、渋谷ユーロスペースで開催されてる。
日活創立100周年記念特別企画と銘打たれてる。うち22本はニュープリント版だ。

人にはなんの関係もない俺個人の話から入って恐縮だが、俺個人のブログなんで。
日活ロマンポルノをほとんど見てないということは、以前のこのブログ記事の中でちょっと触れた。キネ旬のベストテンにも選出されるような秀作が生まれた70年代の作品に関しては、当時俺は中学・高校あたりで、映画の題名は知ってても、見に行けなかった。高校生でも見てる奴はいたが、俺は老け顔じゃないんで、成人じゃないことがバレるんだよ。
その後、ビデオやDVDで見る機会はできても、スルーしてきた理由として
「セックスシーンが退屈でしょーがない」というのがある。
これはそういう絡みの場面は「レズシーン」以外には興奮しないという、俺の性癖的問題が横たわってるんで、如何ともしがたい。DVDで見ることにしても、多分男と女の絡みの場面は早送りしてしまうだろう。
「早送り」しては、映画を見たことにならない。

ただロマンポルノからは何人もの才能ある監督や脚本家が生まれてるし、映画館で見れば、早送りもできないから、我慢して見るしかないし、自分の映画歴の「ミッシング・リンク」を埋めるにはいい機会だと思った。
ロマンポルノを熱心に見てきた人には、今回の32本に対して、異議のある人もいるんだろうが、俺はなにせ全然見てないから「入門編」という意味合いで捉えてる。
「50のロマンポルノ手習い」の心持ちだ。


初日から気合入れて4本見た。ユーロスペースは昨年の「フレデリック・ワイズマン監督レトロスペクティブ」や、今年に入っての「トーキョーノーザンライツフェスティバル」(北欧映画の特集上映)に通ってきてるが、今回の企画も盛況だ。中央ブロックの座席後方2列を「女性専用」にしてることもあり、女性客もけっこう入ってる。

初日のメインは、『(秘)女郎市場』と『天使のはらわた 赤い教室』のそれぞれの上映後に登壇する曾根中生監督のトークショーだ。

曾根監督といえば、1988年の監督作『フライング 飛翔』が競艇関係者などから酷評され、監督を引退後は消息が知れなかった。経営破たんした映画学校のトラブルとか、噂ばかりが語られるのみで、監督に近い映画人にも生死すら分からなかったという。

それが昨年の「湯布院映画祭」で監督作が上映されるのを本人が聞きつけ、不意に会場に現われた。
「曾根監督は生きていた」とニュースにもなった。
引退後に大分の知人からヒラメの養殖事業の職を得て、その後は環境配慮型燃料製造装置の開発に携わり、特許を2件取得したという。映画と全く関係ない第2の人生を成功させてたわけだ。

その話に関してはすでにメディアで語られているので、聞き手の山根貞男は、「ロマンポルノ」製作の裏話を引き出すことにトークの主眼を置いて質問していた。
両作品の上映後20分づつというのは、短すぎると誰もが思っただろう。
訥々としたユーモアに溢れた監督の口ぶりに、楽しいトークとなった。
トークの内容は他の映画サイトやブログに掲載されてるので、ここでは細かく再現はしない。


面白いエピソードを幾つか紹介しとく。

曾根監督は1962年に日活に入社し、鈴木清順監督が、クビを言い渡される原因となった『殺しの烙印』の脚本を手掛けた。実はその『殺しの烙印』の続編の脚本も書いたのだという。

まだ鈴木清順監督がクビになる前で、曾根監督と大和屋竺、田中陽造の3人で、伊香保温泉に宿を取り、缶詰状態で書くはずが、3人で温泉入ったり、ストリップに通ったりして、滞在中に1ページも書けず、東京に戻って慌てて仕上げたが、清順監督にあっさり却下されたのだと。
曾根監督は『殺しの烙印』は大ヒットすると確信してたんで、封切りの映画館を覗いてショックを受けたそうだ。

「あいつに脚本を書かせるな」と現場に出された当時の曾根中生は「第4助監督」という立場。
カチンコを鳴らす役割で、現場では最もペーペーだった。
日活は撮影所でテレビ時代劇も撮っていて、曾根監督は『大江戸捜査網』の演出に借り出されてもいた。
そんな日活は1971年に社の存亡をかけて「ポルノ映画製作」に舵を切ることに。

「日活ロマンポルノ」の初期には「時代もの」が多かったそうで、テレビ時代劇の演出経験がある曾根監督に声がかかる。「第4助監督」からいきなり「監督」へ大抜擢だ。

曾根監督によると、当時自分の下についてる人間など現場にはいなかったので、監督に抜擢された自分が一番キャリアに乏しいという状態。周りのスタッフはベテランだし、しんどかったようだ。

だが映画作り自体は「10分に1度絡みを入れてあれば、あとは何を描いてもいい」という感じだったようで、曾根監督は役者に演技をつけるより、まずスタッフの人心を掌握する術を磨いたという。

それはなるだけ斬新な演出やアイデアを形にしてくことだと。
それによってスタッフも面白がるようになり、参加意識が高まってくのだそうだ。スタッフのアイデアもどんどん取り入れたそうだ。
若い監督や監督志望の人たちにも参考になるような話だと思った。

曾根監督は、セックスシーンの演技指導をすることはほとんどなかったと言う。
「誰でもしてることなんだから、指導しなくても役者はわかるでしょう」
「演技指導なんかしたら、普段自分がどんな風にやってるかバラすようなもの」
これと同じことは以前、北野武監督も言ってた。

山根貞男が「演技指導云々より、絡みのシーンでは役者同士の気の合う、合わないが出る、と聞いてる」と話すと、曾根監督も「それはあるでしょうね」と頷いてた。
「日活ロマンポルノ」には女優でも男優でも「いい顔」の役者がいるという話になり、曾根監督は
「人前で裸を晒すのは、女でも男でも恥ずかしい。裸になる覚悟が顔に出てるからでしょう」
と語ってた。

『(秘)女郎市場』と『天使のはらわた 赤い教室』の製作裏話的エピソードは、
個々の作品へのコメントの中で紹介していく。

2012年5月14日

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ジャスミン・トリンカのすきっ歯がよい [映画ア行]

『イタリア的、恋愛マニュアル』

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「イタリア映画祭」以降、なにやらイタリアづいてるが、『輝ける青春』のジャスミン・トリンカが出てるということと、2月に劇場で見てコメント入れた『昼下がり、ローマの恋』の「恋愛マニュアル」シリーズ第1作目と知って、見ようと思った。2005年作で、日本では2007年に公開されてる。
4話のオムニバス構成。1話ごとに登場人物の年齢が上がってくのも、シリーズの決まりのようだ。


1話目「めぐり逢って」

ジャスミン・トリンカは1話目に出てる。
スクーターで職探しに奔走するも、不採用続きで金もないトンマーゾ。おまけに黒猫に道を横切られる。縁起が悪いと文句言ってると、飼い主のジュリアが出てきて、途端にひと目惚れ。
だがジュリアは飼い猫を悪く言われ「なにこの人」な印象。

次の日、その黒猫をダシにジュリアの家を訪ねる。仕事先に送ってもらう女友達が来れないんで、トンマーゾは彼女をスクーターで送ることに。ジュリアは通訳兼ツアー・ガイドをしてた。
ケータイの番号を聞くが、ジュリアは嘘を教えた。ガイド中のジュリアにわけを聞くトンマーゾ。
「あなたのこと嫌いなの」
ふつうはこうはっきり言われれば諦めるんだろうが、イタリア男は押すねえ。めげずに正しい番号を聞き出した。

電話するけど居留守使われる。そこで友達のケータイから電話。つながったということは、明らかに敬遠されてるってことだが、イタリア男は押すねえ。
「友達と映画行くから」と会うのを断られると、ジュリアの自宅前で待機。男と帰宅しキスして別れる様子を見てる。改めて電話。すぐ後ろに居ると知ったジュリアはそりゃ怒るわ。
「あんたストーカーなの?」
ここまで言われたらねえ。だがイタリア男は押すねえ。
「あれは元カレなんじゃないか?」
「人は淋しいと未来へ進まずに、過去に戻ろうとする」
こいつ何テキトーなこと言ってんだと思ったら図星で、不意をつかれたジュリアそのままキスへ。

デートの約束とりつけ、映画に行こうと言うが、ジュリアは食事がいいと。
トンマーゾにそんな金はない。
だが海辺で姉がリストランテをやってる。どういう見栄の張り方か、姉には他人の振りを装えと言うが、ウェイターが簡単にバラす。
だが姉の子供をあやすトンマーゾを見て、ジュリアは優しいとこあるじゃないと、心が動く。
「嫌い」と言われようが、男は「押し」の一手というお話。

ジャスミントリンカイタリア.jpg

特典のインタビューで、トンマーゾ役のシルヴィオ・ムッチーニが「ジャスミンは悲劇的な役が多かったけど」と語ってる。
たしかに『輝ける青春』ではほとんど笑顔を見せなかったんで、彼女が「すきっ歯」だとは、この映画で初めて知った。歯並びがあんまり良くないんだが、俺が中学の時好きだった女の子も歯並び悪かったけど、可愛かったのを思い出した。


2話目「すれ違って」

倦怠期の夫婦マルコとバルバラの話。夫マルコの人物像がリアルに描かれてる。
妻のバルバラは夫婦の間に刺激が欲しいと思って、いろいろ提案をするが、マルコはすべて否定から入る。こういう人いるよね。
バルバラは夫の食べ方が下品になってることも耐えられない。昔はちがったと。
マルコは妻が外出してくれると、一人気兼ねなく過ごせると思ってる。子供も欲しいと思わない。
こんな夫婦、一緒に居る必要あるのかね?

バルバラは一人で出向いた妹の誕生パーティで酔いつぶれ、他の男と勢いでキスしてしまう。
連れ帰りにきたマルコにそのことを話し、
「ちょっと嫉妬したでしょ」と満更でもないが。


3話目「よそ見して」

2話目のバルバラのように、キス止まりじゃなくなる展開。
職務に熱心な婦人警官オルネッラは、夫が浮気するなどと夢にも思ってない。だが子供の学芸会の舞台裏で、ウサギの着ぐるみ脱いだ夫ガブリエーレが、女性教師と熱いキスを交わしてるのを目撃。
その怒りは交通違反の車へと向けられた。

町中でレッカー移動が始まる。
浮気相手の車を見つけると、こまかいイチャモンつけて違反切符切りまくり。
ガブリエーレが浮気を謝っても
「あんたは人間失格よ!」
「人間じゃないなら俺はなんなんだ?」
「あんたはカビよ!カビ!」
人間から一気に隔たったもんだな。

婦警を演じるルチャーナ・リッティツェットのまくしたて演技がオモロイが、多分イタリアでは有名なコメディ女優なんだろうな。
結局オルネッラも、同じアパートに住むイケメンのニュースキャスターと浮気かまして、夫とも丸く収まる。って収まるか!ふつう。


4話目「棄てられて」

9年間連れ添った妻に、いきなり家を出ていかれた小児科医ゴッフレードの話。
演じてるのが『昼下がり、ローマの恋』で、女ストーカーに散々な目に合わされるニュースキャスターを演じて、俺も爆笑させられたカルロ・ヴェルドーネだ。
シメに持ってくるだけあって、このエピソードが一番長い。

『昼下がり…』でベッドインする時にネコ真似をさせられてたが、この映画でも淋しさ募ってつい看護婦と一線越えちゃう場面で、彼女からイヌ真似してと言われてた。
あのギャグには伏線があったんだな。

1話目の「人は淋しいと未来へ進まずに、過去に戻ろうとする」という言葉通りに、ゴッフレードは昔の写真を慰めに眺めつつ、学生時代のマドンナと再会してみることに。
待ち合わせのリストランテで、それらしい女性が見当たらずケータイを鳴らしてみると、目の先のテーブルで丸々としたご婦人がケータイに応えてる。思わず身を隠して厨房から逃げ出すゴッフレード。

俺は『昼下がり、ローマの恋』のコメントでカルロ・ヴェルドーネは、ウーゴ・トニャッティを思わせると書いたんだが、このリストランテのくだりとそっくりなのが過去にあった。


1980年の伊・仏・英合作のオムニバス『サンデー・ラバーズ』で、4話目に昔プレイボーイだった男が、妻が帰省してる間に、ふと昔の彼女たちを訪ねようと思い立つエピソードがあり、それをウーゴ・トニャッティが演じてたのだ。
絶世の美人だった昔の彼女を訪ね、ドアを開けたその顔を見て、次の場面では階段を猛スピードで駆け下りてく音だけが響く。そこが一番笑った記憶がある。

ゴッフレードの妻は結局戻る気持ちがなく、失意の彼は海岸に車を飛ばし、服のまま海に浮かんで、ただ波に揺られてる。翌朝海岸で目覚めると小さな女の子が体をつついてる。
その女の子の家が、1話目のトンマーゾの姉のリストランテということで、姉とゴッフレードが知り合いとなる。

これという秀逸な描写があるわけじゃないが、誰にでも起こり得る人生の厄介事を、深刻にならずにスケッチしてくのは、ラテン系のなせる技かも。

2012年5月13日

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ドニー・イェン対ジミー・ウォング仰天対決 [映画サ行]

『捜査官Ⅹ』

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雲南省の山間に、肩を寄せ合うように家が立ち並ぶ、小さな村で事件は起きた。
流れの強盗ふたりが、両替商を襲い、居合わせた紙職人ジンシーが巻き添えを食う。ジンシーが強盗のひとりの腰に必死に食らいつく中、同士討ちで、強盗の片割れが死ぬ。
ジンシーは腰にしがみついたまま、強盗とともに裏手の川に転がり落ちる。
強盗は馬乗りの体勢で拳を振るっていたが、急にもんどり打って水の中へと沈んだ。
思わぬ強運でジンシーは難を逃れたと、目撃した村人の誰もが思った。

家では牛を飼い、毎日美しい妻のアユーと幼い息子ふたりに見送られ、製紙工場で汗して働く。
実直なジンシーは一躍村の英雄となったが、村を訪れ、検死を行った捜査官シュウは、疑念を抱いた。
屈強な強盗ふたりを、丸腰の紙職人が倒せるはずがない。
水中に沈んでいた強盗の両目は充血している。

シュウは現場の両替商をくまなく見て回り、床に残る足跡などから、格闘の様子をまざまざと、頭の中に再現していった。
そしてジンシーが攻撃受けてるように見せかけて、周到に強盗たちを同士討ちに持ち込み、川の中では、強盗のこめかみに、心臓を止めるツボに一撃を食らわしたと推理した。
紙職人ジンシーは只者ではない。これは確信に満ちた殺人行為だ。

だが実際ジンシーを尋問し、その生活ぶりを、つきまとうように眺めても、この男が殺人技を極めたようには見えなかった。
シュウの執拗な追求に、ジンシーは家族にも話してない素性を明かした。
故郷で父親から殺人をけしかけられ、10年の刑期の後、この村に流れ着いたのだと。

だがまだ疑いの晴れないシュウは、凄腕の殺し屋なら、反射神経も鋭いはずと、橋の上から背中を押すと、普通に落下してくし、背中から鎌を振り下ろせば、もろに肩に突き刺さるし。
シュウにそんな真似までされても、ジンシーは怒る素振りもなかった。
だが村人からは、捜査の度を越してると一斉に反発を食らい、シュウは山を降りざるを得なくなる。


ジンシーは実直で家族思いであることも重々わかった。だがシュウは以前ある少年に温情をかけ、釈放した後、家族から感謝の席を設けられ、その際少年が料理に仕込んだ毒により、家族は死に、シュウ自身もそれ以来、薬の手放せない身となっていた。

「情より法を」という彼の頑迷さは、その経験から来るものだった。
そしてシュウの推理を裏付ける事実が、同僚から告げられた。

ジンシーの過去を探るため、故郷の村で同僚が突き止めたのは、ジンシーが中国最凶の暗殺集団
「七十二地刹」のナンバー2だったのでは、というものだった。
80万人の同胞を殺された、西夏族の生き残りで構成されており、「同胞80万人分の復讐」を掲げて、女子供の命も容赦なく奪っていた。
マスターと呼ばれる首領の息子タン・ロンこそ、名を変えたジンシーだという。
ジンシーは過去の自分を捨てたということなのか?その理由は?

だがシュウが逮捕状を取り、雲南省の村に戻るより先に、女刺客に率いられた「七十二地刹」の一味が、村を襲撃に来た。


平穏に暮らす男が、殺し屋であった過去を、家族の前で暴かれるというのは、クロネンバーグ監督の『ヒストリー・オブ・バイオレンス』であり、金城武演じる捜査官シュウが、現場の状況から脳内再現を試みるのは『シャーロック・ホームズ』であり、『処刑人』の刑事デフォーのようでもあり。

俺が映画全体を通して、かくし味のように連想した映画は、1973年のマカロニ・ウェスタン『ミスター・ノーボディ』だった。

ミスターノーボディ.jpg

あの映画は銃を置いて引退を決めた、かつての名ガンマン、ヘンリー・フォンダを、テレンス・ヒルが執拗に追い回す。彼はフォンダをリスペクトしていて、名ガンマンには、ふさわしい伝説が必要と勝手に思い込み、群盗たち相手に銃を再び手に取らせようとする。
フォンダにはその気がないのにだ。
そして群盗たちを倒した後、まだ計画があった。フォンダが引退を表明しても、命を狙う者は後を絶たないだろう。
テレンス・ヒルは自分と決闘して死んだと思わせるため、ひと芝居打つのだ。
最初はストーカーのように付きまとうが、最後には両者に結束感が生まれてる。


『捜査官Ⅹ』もその展開で、ジンシーが女刺客と壮絶な戦いを演じたことを告げられた「七十二地刹」のマスターは、一族を裏切った息子タン・ロンの命を奪いにやってくる。
シュウは医学の知識があり、ジンシーを薬によって、一時的に仮死状態に置き、マスターに「死体」を見せて納得させようと図る。
「死んだと思わせる」という脚本の設定も『ミスター・ノーボディ』をヒントにしてるのではないか。
そんな風にいろいろ既視感は否めないんだが、それでもこれは面白かった。


邦題からは金城武の捜査官が主役に思われがちだが、ジンシーが紙職人の仮面を脱ぎ捨てる後半は、もうドニー・イェンの映画だ。前半の金城武の「思い込み」捜査っぷりはそれはそれで面白いし、ドニーがされるに任せてるというのも可笑しみがある。

だが村人に危害を加える女刺客と一味に対し、妻子が見守る前で、ついに本来の姿で戦闘モードに入る瞬間は、見てるこっちも全身が総毛立つような興奮が湧き上がる。
ドラマのタメが利いてるのだ。
車でいえば、新車を慣らし運転から、一気にエンジン吹き上げてく感じか。

こういう時代ものの格闘場面だと、ふつうはパーカッションというか、太鼓の「ドドドンドドドン」という劇伴がつくんだが、この映画ではなんとギターソロ!ゲイリー・ムーアかという感じで、これがけっこう合うのだ。


女刺客を演じるクララ・フェイは80年代を代表するアクション女優だそうだが、俺は彼女の映画を見たことなかったんで、その動きの切れとか、気合の入った表情とか、思わず見入ってしまった。
両手に剣を振るう彼女とドニーの戦いも技が速い速い。

それを牛小屋の中でやるから、牛も小屋の柵こわして暴走し、庭の先の崖から滝の中へと落下してく。
この滝も濁流のような水量で迫力あるし、起伏に富んだアクションのロケーションが素晴らしい。


終盤にはついに「七十二地刹」のマスターとの決着を迎えるんだが、マスターを演じるのはジミー・ウォング。
カンフー映画の伝説の一人であり「片腕ドラゴン」だが、この映画では片腕じゃない。
しかしいかに伝説とはいえ、68才にもなる人が、ドニー・イェンと拳まじえるのはチト酷ではないか。
誰もがそう思うので、映画は驚愕の展開を用意してた。
俺はその場面で「うわっ!」と声を出してしもた。このリスペクトの仕方は凄いなと。

ジンシーの妻アユーを演じるのはタン・ウェイ。『レイトオータム』を見て俺もすっかり気に入ってしまったんだが、この映画でも村の女なので、化粧っ気がなく、そこがよかった。
中国・香港あるいは韓国は、顔のパーツそれぞれが目立つというか、アピールの強い顔立ちの女優が多い。
タン・ウェイは顔のパーツが控えめで、その地味さ加減が逆に目に留まるのだ。
ちょっと昔の日本の女優とかアイドルとかを思わせる「なつかしさ」を感じたりもする。

金城武のファンには物足りなさがあるのかもしれないが、ドニー・イェンが出てるとなれば、ドニー・イェンが暴れないと話にならないわけで、原題もそのものズバリ『武侠』というしね。

2012年5月12日

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ギャグセンス抜群のクリステン・ウィグ [映画ハ行]

『ブライズメイズ 史上最悪のウェディングプラン』

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コメディを見る時、そのクリエイターの映画が初めてのものだった場合は、どういうギャグの発想があるのかを楽しみにしてる。
それで自分にとって「あたり」か「はずれ」かわかるからだ。

この映画の最初の方に、クリステン・ウィグ演じる主人公のアニーと幼なじみのリリアンが、公園でエクササイズに励んでる場面がある。なぜか太い木の陰で行ってる。
離れた芝生の上で、ブートキャンプ乗りの黒人インストラクターが、生徒たちに檄を飛ばしてる。
アニーとリリアンは、そのエクササイズの方法を盗み見ながら腹筋とかしてるのだ。
それをインストラクターに見つかり
「おい!タダで真似てるんじゃない!」
と怒鳴られると、ダンスの振りしてごまかす。
「公園でダンスするんじゃない!」
そのダンスの振りが人を舐めきったような感じで。

多分テレビの通販番組のエクササイズ商品とか見ながら発想したんだろう。
「なに高い金払って痩せようとしてんのよ」って。こういうギャグの発想は出そうで出ない。
この場面で大笑いしたんで「これは大丈夫、俺楽しめる」と映画に乗れた。


アニーの母親をこれが遺作となった、70年代女性映画のヒロイン、ジル・クレイバーグが演じてる。この母親は「アル中患者の会」に参加してる。アニーは
「なんでお母さんアル中でもないのに参加してるのよ」
「なるといけないと思うからよ」
このやりとりも可笑しい。

アニーは手作りケーキの店を出したが失敗、貯えも無くなり、母親の口利きで宝石店で働いてる。
恋人にも振られ、金持ちのセフレがいるだけ。
この先も共に独身と思ってたリリアンに婚約を決められ、真近で幸福の絶頂の顔を見させられる。気持ちもささくれ立つわ。

宝石店に婚約指輪を買いにきたアジア系のカップルに
「永遠の愛なんてないわよ」
「あなた彼氏になんの疑いも持たないわけ?」
「彼氏アジア系ですらないかもよ」
と言いたい放題だ。当然店長にたしなめられ
「永遠の笑顔をつくってみろ」
「それじゃあせいぜい4日分だ」
他の店員が見本をみせる。笑顔というより、恍惚とした表情だ。アニーもそれを真似てる。
ここもひたすら可笑しい。


アニーはリリアンからブライズメイド(花嫁介添人)のまとめ役である「メイド・オブ・オナー」の大任を仰せつかる。
婚約披露パーティは盛大なもので、金持ちの臭いがプンプン漂うのは主に、花婿側の人脈だった。

特に花婿の上司の妻ヘレンは、ひと目見た時から「いけ好かない」オーラを発してる。
美貌ではアニーは負けてる。
婚約披露の席での、友人代表スピーチで、アニーはごくシンプルに、花嫁へのエールを述べた。するとヘレンがマイクを奪い、妙に上手いスピーチでリリアンを涙ぐませる。

ちょっと待てと。最近知り合いになったばかりだろ?

こっちは子供の頃からのつきあいだと、またマイクを奪う。延々続くマイクパフォーマンス合戦。
ついに言うことがなくなり、アニーが出し抜けに歌い出したのは、結婚ソングの定番
『ザッツ・ホワット・フレンズ・アー・フォー♪』
なんとそこにもヘレンが割り込んでデュエット状態となるオチが。

ブライズメイドは、兄貴が大嫌いという、花婿の妹メーガンを含む計5名。
式に着るドレス選びに、ヘレンが顔が利く超高級ブティックへ。だが直前にアニーおすすめのブラジル料理店で出された肉に、ベジタリアンのヘレン以外全員が食あたり。
ブティックのトイレは阿鼻叫喚の場と変わる。

ウェディングドレスを着たままのリリアンはなぜか外に駆け出してしまい、道路の真ん中で力尽きる。
アニーの車の助手席で顔面蒼白のリリアン
「私、道路の真ん中でウンコ漏らしちゃったあああ」
「よくあることよ」
…犬ならな。


この映画に限らず最近「体内からいろんなものブチまけ」系の描写が目立つのは、アメリカ人のマイブームなのか?
ヘレンに「あなたは大丈夫なの?」と見据えられ「私はなんともないわよ」と便意を我慢するアニーの顔から、油汗が吹き出てる。そうだそうだ、これは辛いぞ。
ラッシュの電車の中で急な腹痛に見舞われた時とかな。そんな時に限って急行だから、中々駅に停まらない。
だから俺はカバンの中に「ストッパ」を常備してるのだ。

アニーはリリアンのために、なんとかメイド・オブ・オナーとして頑張るんだが、天中殺に入ってるのか、やることなすこと裏目に出る。独身最後の旅行も、自分の案は却下され、ヘレンがラスベガス行きを決めてしまう。

ミルウォーキーからベガスまで飛行機だ。アニーは飛行機がダメなのだ。
恐怖を酒で紛らわそうと、さらにヘレンがくれた薬との相乗効果か、機内でアニー大暴れ。
5人全員がワイオミングの空港で降ろされる。ベガスまで地図で見ると丁度中間あたりだな。
シカゴ行きのグレイハウンド(バス)の車内で、リリアンから「メイド・オブ・オナー」の解任を告げられた。

男たちの独身最後の旅行を描いた『ハングオーバー』と同じようにベガスでの大騒動が描かれるのかと思いきやだったが、この機内の場面はけっこう長い。しかしここもかなり笑える。
実際乗り合わせたら『フライトプラン』のジョディくらい迷惑千万ではあるが。


この映画で脚本も書いてる主演のクリステン・ウィグの表情芸が見事だ。ジム・キャリーのような極端な顔芸ではなく、微妙な感情のグラディエーションを表情に反映させてる。
だから見ていて、いたたまれなくなるんだが笑えるという。
しかし凄い才能の持ち主がいるもんだな。

アニーはとてつもなく豪勢なヘレンの自宅での「ブライダルシャワー」の席でついにブチ切れる。そのキレ方は『ヤング≒アダルト』のシャーリーズ・セロンを彷彿とさせるが、シャーリーズの場合は「思い込みの暴走」であり、自分が負け犬とは思ってない。
この映画のアニーは負け犬の自分にどっぷり浸かってしまってる。

リリアンだって、今までの人生と全然違った環境の人々の身内に突然ならなきゃいけない、そのプレッシャーを、アニーは思い遣れない。
壊れたテールランプがきっかけで知り合った、気のいい警察官ローズ(男です)とも素直な関係が築けない。
この映画を見て、アニーのダメっぷりに腹が立つという声が上がるとすれば、それこそ製作者側の目論見が当たったということだ。
「あなたは認めないかもしれないけど、こういう部分はきっとある」
というのが、アニーのキャラクターなのだ。


リリアンに絶交まで叫んで、その後に自己嫌悪に沈むアニーを、半ば力づくで叱咤する、花婿の妹メーガンを演じる、太めのメリッサ・マッカーシーは儲け役だが、「宿敵」ヘレンを演じるローズ・バーンが、今までにないような、アクの強さを見せて、インパクト絶大だ。
悪意はないのに、人をイラつかせずにおかないという、これは難しい按配の演技だったろう。


『ヤング≒アダルト』『ブライズメイズ…』そして公開待ちのキャメロン・ディアス主演『バッド・ティーチャー』と、いづれも「30過ぎて独身ですけどなにか?」なヒロインがこのとこ目立つね。
「開き直り」の気分の反映かもしれんが、裏を返せば「結婚」というステータスへの絶ちがたい価値観が、アメリカ人女性の中にあるんだろう。
そのわりにはバンバン離婚してるけどね。

こういう映画見てると「結婚生活」よりも「結婚式」を挙げるということが重要に見えてしまう。
「私にはこんなに友人がいて、友人にこんなに祝ってもらってる」
家族でも親戚でもなく「友人」というのが、この場合重要。
婚約披露パーティに始まり、いくつものイベントの過程で、自分の歩んできた人生を、肯定できる場なのかも知れない。

2012年5月11日

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チャン・ドンゴンと『燃えよ!カンフー』 [映画カ行]

『決闘の大地で』

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この映画でチャン・ドンゴン演じる主人公はただ「戦士」と呼ばれている。
中国で暗殺集団「悲しき笛」で幼少の頃から、殺しの技術を叩き込まれた戦士は、最強の刺客も打ち倒し、敵の一族を全滅させる。
だが最後に生き残りである、姫として生まれた赤ん坊を殺すことができず、掟を破ることを覚悟した戦士は、旧友の住むアメリカへ逃れる。

赤ん坊を背負って西部の町「ロード」に辿り着くが、住人から旧友の死を聞かされ、行く宛てを失う。
町はゴールドラッシュを当て込んで、遊園地を作ったものの、ブームは過ぎ去り、建設途中の観覧車が虚しくそびえていた。
住人はほとんどがサーカス団の団員で、ブームの後、この町に居ついてしまっていた。


子連れの東洋人に興味を示したのは、ナイフ投げの美女リンだった。戦士の旧友だった男は、この町でクリーニング店を営んでいて、
「行くあてもないなら、ここで店を共同経営しない?」と持ちかけた。
殺しの技術しか身についてない戦士は、慣れない仕事と詮索好きな住人に戸惑うが、今まで味わったことのない、人間の温もりを感じる生活に、心地よさを感じるようになっていた。

赤ん坊の面倒を見てくれるリンに、戦士は「ナイフ投げ」の極意を授ける。リンはナイフ投げの担当なのに、まともに的に当てられなかったのだ。

彼女は戦士が1本の刀を隠し持ってることを知る。表情をほとんど表に出さない「静かなる男」は、只者ではない。リンはそう感じていた。

同じような視線を戦士に注いでいたのは、常に酔いどれてる中年男のロンだった。かつて凄腕の強盗だったロンは、銃を捨てこの町に流れてきた。以来、無為な日々を送り続けてる。
ロンはこの東洋人に殺気を感じとっていた。


謎の東洋人が開拓時代のアメリカ西部に渡ってくるという設定で思い出すのは、
1970年代のテレビドラマ『燃えよ!カンフー』だ。
「燃えよ!」と邦題はつけてるが、そんなに威勢がよくはない。
原題は『KUNG-FU』であり、ドラマ性と、主人公のミステリアスな人物像を重視して描かれていた。

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少林寺でカンフー・マスターの称号を得た、アメリカ人を父に持つ混血の青年クワイ・チャン・ケイン。子供時代に彼のことを「コオロギ」と呼んで、厳しくも愛情をかけてくれた師匠のホー先生が、皇帝の甥の凶弾に倒れたのを目撃し、怒りのあまり、甥を殺してしまい、追われる身となる。
ケインは腹違いの兄が住むアメリカへと逃げるが、皇帝の刺客たちも後を追う。

ドラマはケインが立ち寄る西部の名も無き町での、住民たちとのエピソードを1話完結の形で描いていた。
ケインを演じてたのはデヴィッド・キャラダインで、東洋人には見えないが、無国籍の風情はあって、たしかにミステリアス。1972年に放映が開始されてる時代性か、無造作に伸ばした長髪と、埃まみれの出で立ちは、ヒッピーを思わせるものもあった。

ケインは行く先々で好奇と偏見の目にさらされるが、むやみに争そうことをしない、その人間性の深さに、出会った人々は感銘を受けるのだ。
しかし大概において、もうどうしても相手にならなきゃしょーがない状況が、毎回ドラマの後半に訪れるんで、その際には銃をも恐れない少林寺拳法が炸裂するわけだ。

デヴィッド・キャラダインは「拳法など知らないから、習ってたモダンダンスの動きを応用した」と昔語っていて、まあ正直格闘場面はヘッポコではある。
だが格闘にいたるまでのドラマで、ちゃんとタメが作られてるんで、「耐えたすえに炸裂させた」という痛快感が得られた。
日本では1976年に放映され、俺は当時毎週の楽しみとしていた。
子役時代のジョディ・フォスターが出てる回もあった。


さて映画に話を戻すと、貧しくも平穏に見えるこの「ロード」の町にも、恐怖の種はあった。自ら兵隊を率いる無法者の「大佐」の一団が、傍若無人に暴れ回ってるのだ。

リンがまだ少女の頃、大佐は町を襲い、リンを捕えて犯そうとした。その時リンは反撃して、大佐の顔に深い傷を負わせた。激怒した大佐によって、彼女の家族は目の前で殺され、リンも撃たれて瀕死の重傷を負った。
リンがサーカスでナイフ投げに志願したのは、いつか大佐に復讐するためでもあった。
リンはそんな生い立ちを戦士に話した。戦士はリンに剣の技術を教え、クリスマスで町の住人が賑わう中、ふたりは初めて口づけを交わした。

だがその聖なる夜に、再び大佐たちの一団が町を襲った。住人たちはその振る舞いに耐えるのみだ。
娼婦に扮して大佐に近づき、復讐の機会を狙ったリンだったが、正体を見破られ、絶対絶命に。
その時、疾風のような勢いでリンを救ったのは戦士だった。
大佐が差し向ける兵隊たちを次々に打ち倒していく。町の住人たちも呆然と見つめた。そして酔いどれのロンも。
思いもかけぬ反撃に混乱した一団は、大佐に率いられ撤退した。

東洋人の戦いぶりに、町の住人たちも勇気を奮い立たせた。
大佐たちは報復に戻ってくるだろう。だがもう泣き寝入りはしない。町は自分たちで守るのだ。
貧しさとともに、誇りも見失ってた住人たちは、迎え撃つ決意にまとまった。

だが戦士が封印してた必殺剣の、その空気を震わす音を、はるか彼方で聞き取った者がいた。
暗殺集団「悲しき笛」の首領は、追ってた裏切り者が、いまどこに居るのか確信した。


チャン・ドンゴンのハリウッド進出第1作となるんだが、監督も韓国人のイ・スンムなので、チャン・ドンゴンの韓国でのステータスに敬意が払われてる。
ハリウッド映画界が、東洋人スターに「場を貸してやる」という、軽く見た感じがないのがいい。

東洋人のミステリアスなキャラクターというのは、定石的ではあるが、名の通ったハリウッドの役者たちが、手を抜かずに脇を固めているので、むしろこの手の合作にありがちな「ツッコミ入れながら見る」という要素が乏しくて、そこは感心するやら、物足りないやら。
その位きっちり作られてるという印象なのだ。

なにより『ブルー・クラッシュ』や『スーパーマン・リターンズ』のロイス・レーン役など、主演級で活躍してる、ハリウッドの白人女優ケイト・ボズワースとのキスシーンがあるのは特筆もの。

過去にハリウッドの白人女優が、東洋人の男優とキスを交わす場面は、ほとんど描かれたことがない。
アメリカ映画における保守的なヒエラルキー構造は、今も根強くあるのが実情なのだ。
ケイト・ボズワース自身が『わらの犬』のリメイクで、男たちに暴行されるシーンを演じるなど、挑戦を厭わない女優であるということもあるだろう。
彼女はこの映画で、大佐との格闘場面も体当たりで演じており、その役者根性はすがすがしい。

酔いどれのロンを演じるのは名優ジェフリー・ラッシュ。ロンがライフルを再び手にして、観覧車の上から、大佐たちの一団を迎え撃つ場面は痛快だ。
それにも増して大佐を演じるダニー・ヒューストンが、ケレン味全開の悪玉演技を披露してて、場面をさらう。
作劇として問題があるとすれば、この大佐がキャラ立ちしすぎてるのだ。


ラスボスであるはずの「悲しき笛」の首領と、その刺客たちが、クライマックスで満を持して登場する作りのはずが、もう大佐たちとの戦闘場面で盛り上がってるんで
「あれ、なんかどさくさにまぎれて来ちゃいましたよ」という、パーティに遅刻して参加したタイミングの悪さは否めない。

その首領を演じるのは『男たちの晩歌』のティ・ロンという贅沢なキャスティングなのにね。
ティ・ロンは若い頃には「武侠映画」にも出ているんで、このラスボスの佇まいも堂に入ってる。

戦いを終えたチャン・ドンゴンが、住人が見送る中を、デッカい夕陽に向かって去ってくのは、ベタすぎる絵ヅラで「おいおい」と思うが、その後にももう一場面あったのだ。

俺としてはクワイ・チャン・ケインを思い出したり、楽しみ所のある映画だった。

2012年5月10日

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イメージフォーラムに巨乳降臨 [映画ナ行]

『女体拷問人グレタ』

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イタリア映画一色という感じで過ぎ去ったGWだったが、そんなさ中に、渋谷のイメージフォーラムでこんなものを上映してたのだ。しかしよく見つけたな俺も。

丁度時期を同じくして「イメージフォーラム・フェスティバル」が開催されており、そのプログラムの中の「ローザンヌ・アンダーグラウンド・フィルム・フェスティバル提携企画」の枠で上映された。
「クィアー・フィルム」の1本ということだろう。
「イメージフォーラム・フェスティバル」の本筋は実験映画なんだが、そっちは見ずに、これ1本だけ見に行った。


知ってる人にはいまさら説明不要だが、ダイアン・ソーンという、ドSキャラで売った巨乳女優が70年代に人気を博してたのだ。彼女を一躍有名にしたのが「イルザ」シリーズ。

1974年の『ナチ女収容所/悪魔の生体実験』に始まり、1976年の『アラブ女地獄/悪魔のハーレム』、翌77年の『シベリア女収容所/悪魔のリンチ集団』と、すべて日本公開されてる。

この『女体拷問人グレタ』は、アメリカなどでは「イルザ」シリーズとしてDVDとかになってるようだが実際は別物。
『アラブ女地獄/悪魔のハーレム』の製作時に、「イルザ」シリーズで一山当てたカナダの映画会社と、ダイアン・ソーンが待遇などを巡ってモメてた。新作企画も「イルザとドラゴン(カンフーの方ね)」とか「イルザとアミン大統領」とか色々上がるが、すべてポシャリ、彼女がしびれ切らして、西ドイツの映画会社に呼ばれて撮ったのがこれだった。

名前もグレタに変えてあるが、中身はほとんど一緒だ。
スピンオフともいえる『女体拷問人グレタ』は、しかしジェス・フランコという、本家よりネームバリューある監督が撮ってるのがオモロイ。

昔フジテレビで深夜に、新作映画のトレーラーをただ流すだけという『洋画の窓』という帯番組があり、「グレタ」のトレーラーを見て生唾飲み込んでた記憶がある。

「イルザ」シリーズの売りは、ダイアン・ソーンがナチの親衛隊になったり、アラブ国王のハーレムを仕切ったり、スターリン独裁下の政治犯収容所の所長になったり、時と場所を超えて、剣呑な環境で巨乳を躍動させるという、コスプレの楽しみもあるわけだ。

ポシャった企画も実現してればよかったのにねえ。
多分「イルザと北の国から(首領さまの方ね)」も企画に上がってたんじゃないの?


しかしもっと続きそうなものだと思うのに、意外と短命なシリーズに終ったのは、『シベリア女収容所/悪魔のリンチ集団』のせいだろう。
俺はたしか銀座の丸の内東映パラス(今の丸の内東映の地下)で封切りを見に行ったんだが、これには失望させられた。女収容所と題名つけてるのに、囚人は男なのだ。
イルザが女所長で看守は女、つまり裸で「責められる」のは男という、本末転倒ぶりだった。

別に映画を売るのに、多少の誇張やハッタリは構わないが、本質的な部分に嘘があるのはいかんだろ。
俺はダイアン・ソーンの巨乳自体より、イルザが女を責めるのが趣味という、その「レズッ気」に期待してたのだ。
だから『シベリア女収容所…』を見た後は、帰る足取りも鉛のように重かった。
いっそマイク水野に『イルザとシベ超』として映画化してもらえばよかったと思う。

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体たらくに終った本家シリーズ第3弾と同じ年に出た『女体拷問人グレタ』の方は、きっちり基本を踏まえていて、もう全編女体でカットを繋いでく感じは、さすが安心のジェス・フランコ印である。

今回は南米とおぼしき某国で、性的異常の(主に女性)患者を更正させるという表向きで、反政府活動を行う人間を拷問にかけたりしてる療養施設の女所長という役柄だ。
もちろん南米ロケではなく、ジャングルもどこかの大きめの公園で撮影してるんだろう。

冒頭から女性患者たちのシャワー・シーンだ。
そこから脱走しようとして、捕えられ、女所長グレタから手酷い拷問を受けた女性患者の、安否を気遣う姉が、自分も患者になりすまし、施設から妹を救い出そうとするというのがアウトライン。

しかし1973年の監督作『吸血処女イレーナ・鮮血のエクスタシー』で主演に起用して以来のお気に入りで、本作の頃には嫁にしてた、リナ・ローメイの方にカメラを向けがちなジェス・フランコだったので、肝心のダイアン・ソーンがいまいち目立たないのだ。

拷問シーンも意外と淡白で、電気ショックの描写などは、単に患者が身体を反らしてるだけ。
むしろ患者になりすましたヒロインを、患者のボス的なレズのリナ・ローメイが、いたぶる場面の方がエグかったりする。トイレ済ました後に「あたしのケツをお舐め!」とか。AVじゃないんで直接の描写はないが。
それとグレタの右腕として働く男が、拷問の様子を隠し撮りして、業者に売って、懐を肥やしてたり、悪キャラが分散しちゃってるね。

拷問され続けて廃人状態の妹を、ようやく施設内で発見したヒロインだったが、目の前で妹はグレタに顔からビニール被せられて窒息死。
ヒロインを施設に送り込んだ、反政府活動家の医者も、正体を見破られ殺害。
助けも来ないまま、ヒロインもロボトミー手術を施されるという救いのなさは、西ドイツならではのダーク感。

女性たちを好き放題に責め苛んだグレタは、患者たちの反乱にあう。
大勢に取り囲まれて、裸にひん剥かれ、一斉に噛み付かれる。
野生の虎が獲物を食いちぎる映像をカットバックさせながらの「最期の晩餐」場面は、グレタの肉が食いちぎられる様を執拗に描写する。ここだけゾンビ映画っぽい。

そしてグレタの凄惨な最期も、あの男が隠し撮りしてるのだった。
ブロンソンの隠し子みたいな顔した役者だった。

この日は「イタリア映画祭」で3本見た後に、夜これを見たわけで、さすがに疲れはしたが、間違っても「イタリア映画祭」でかかるような映画じゃないんで、いい箸休めにはなった。この例えも変だが。

2012年5月9日

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イタリア映画祭2012『気楽な人生』『楽園の中へ』 [イタリア映画祭2012]

『気楽な人生』

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これを観ようと思ったのは、ピエルフランチェスコ・ファヴィーノの濃ゆい顔を眺めるためだった。
ファヴィーノ演じるエリート外科医マリオは、大学時代からの親友ルカの父親が経営する、ローマ市内の病院に勤務してる。ルカも同じ医者だが、父親の儲け主義の病院経営に反発し、人道支援のため、ケニアで小さな診療所を開き、もう12年も国に帰ってなかった。
その診療所で医者が一人辞めてしまい、ルカだけになってしまったと話しに聞いたマリオは、不意に思い立ち、代わりに医者が見つかるまで、ルカを手助けしようと、ケニアに飛んだ。
妻のジネヴラには「悠々自適の医者の生活に後ろめたさがあったんでしょ?」と言われたが。

乏しい医療設備、部族によって異なる生活習慣。マリオには困惑することばかりで、親友ルカは手伝いにきた自分に対して高圧的な態度。ストレスが高じて二人はついに衝突するが、そこは長いつきあいだ。互いに矛の収め方はわかってる。

マリオは持ち前の陽気さで、周りとも打ち解け、しだいにルカとマリオは見事なチームプレイで、診療をこなしていくようになる。だが二人には互いに口に出せない秘密を抱えていた。

以前ルカはジネヴラに惚れていて、脈もあると思っていた。その彼女が結婚相手に選んだのは、親友のマリオだった。婚約披露パーティで泥酔したルカは、マリオの運転する車での帰り際に、助手席で絡み出し、マリオはハンドルを取られて、衝突事故を起す。後部座席にはジネヴラもいた。
ルカとジネヴラは軽傷だったが、マリオは一時、意識不明の重体に。
その時、ルカは彼の死を願ったのだ。

一方マリオは、ルカを手伝いにケニアに来たことになってたが、実はローマの病院で、業者から多額のリベートを受け取ったとの疑惑が公になり、しばらく姿をくらますことにしたのだった。

そしてそんな二人のもとに、ジネヴラまでもが、ケニアにやって来る。
ジネヴラは何より金に不自由しない「気楽な人生」を望む女だった。ルカとマリオを両天秤にかけ、青臭い理想家肌のルカを見切って、マリオを選んだが、今はそのマリオの立場も危うい。

マリオにはリベートで得た「隠し財産」が病院の彼の部屋に残されてる。だが本人が取りには行けない。
ルカは診療所への多額の寄付を条件に、マリオに代わって取りに行くことに同意。父親の病院なのだから、怪しまれることもない。
ジネヴラも同行するという。彼女の真意は何なのか?
腹に一物ある「三角関係」が導き出す結末とは?


イタリアの医療に対する皮肉な視点は、垣間見れるものの、社会的なメッセージを押し出す描き方ではない。気の利いた脚本で最後まで飽きさせないドラマだった。

ピエルフランチェスコ・ファヴィーノと、ルカを演じるステファノ・アッコルシの、丁々発止の会話のやりとりが快調で、映画のテンポを生み出してた。
ハリウッド・リメイクの話とか持ち上がってもよさそうな脚本だと思うが、もしそうなっても、まずはこのイタリアの役者二人の絶妙のコンビネーションを、一般公開で見てもらえるといいんだが。
配給は決まってないらしいので。



『楽園の中へ』

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これも「移民」がキーワードになってるが、コメディの題材としてのものだ。
舞台はナポリの、スリランカ移民たちが暮らす一角。3人の男が出てくる。

大学で細胞研究をこつこつと続ける傍ら、母親の介護に時間を費やし、母親が亡くなった時には、すっかりいい年となってしまってた、真面目男のアルフォンソ。
急に大学をリストラされ、困り果てた彼は、幼なじみのヴィンチェンツォに、再就職のあてがないか、訪ねてみる。
ヴィンチェンツォは裁縫工場を営み、議員にも立候補してるヤリ手だ。
昔から嫌な奴だが、背に腹は変えられない。

ヴィンチェンツォは就職口の代わりに、ある仕事をしてくれれば、報酬を払うと持ちかける。有力者に「キューバ産の葉巻」を賄賂に渡すんだが、相手の使いの者が受け取るという手筈だ。
だがその実、アルフォンソは拳銃の運び屋に仕立てあげられ、わけもわからずにマフィアに追われ、スリランカ移民が暮らす一角に逃げ込んだ。
迷路のようにアパートが立ち並び、屋上の小屋に飛び込む。

アルフォンソから連絡を受け、やってきたヴィンチェンツォは、依頼された組織にヘマを悟られるとマズいんで、アルフォンソには死んでもらうつもりだった。
行動に起そうとした時、その小屋の住人が、アルフォンソを殴り倒した。

住人はスリランカ人でガヤンという名だった。ここの住人というわけではなく、ガヤンはスリランカ国内では、クリケットのスター選手だったのだ。
従弟から「イタリアには楽園がある」と聞いて、国を出てきたが、「楽園」とは、このスリランカ移民の一角の呼び名だった。騙されたと頭にきたが、帰国する金もない。
従弟から裕福な老婦人の介護人の職を斡旋され、しぶしぶ働いてたのだ。


映画はヴィンチェンツォに関しては、屋上の小屋で拘束されてるままだが、アルフォンソとガヤンの、持ちつ持たれつの関係を軸に展開していく。
アルフォンソは大学で「細胞間のコミュニケーション」を研究してるんだが、それがイタリア人とスリランカ人という、異なった人種とのコミュニケーションと重なるような描写があるかというと、これがないので、アルフォンソの仕事の特異性が生かされない。

ガヤンも切羽詰ってイタリアに渡ってきたわけじゃなく、国へ帰れば有名人なのだから、ここでなにか必死に成さなければならない理由がない。
登場人物に思い入れる部分が希薄なので、スリリングに気持ちが盛り上がっていかないのだ。

ケタケタ笑うボスが率いる犯罪組織に狙われてるわけだが、組織はアルフォンソが「楽園」に逃げ込んだと踏んでて、アパートの入り口に見張りを置いてる。その見張りたちも何日も居るうちに、人懐こいスリランカ人たちのペースにはまっていく。
だが完全にはまっちゃう描写ならそれはそれで楽しくなるんだろうが、そこは中途半端で、そのうち、しびれ切らした組織の人間がゾロゾロやってきて、アパートのガサ入れを始める。
いや最初からそうすりゃいいじゃんと思うが。

アルフォンソが指圧を受けて、次第に心を通わすようになる、スリランカ人女性ジャチンタとのエピソードは、ドイツのトルコ系住民のドラマ『ソウル・キッチン』の設定と似てて、既視感。
コメディにしたいのか、ちょいシリアスなアクション仕立てでいきたいのか、どっちもやろうとしたのが裏目に出てるかな。
屋上の小屋の内部の場面の色彩が、軽いタッチで見せたい演出に反して、陰惨な雰囲気になってしまってる。
映画全体を通して、狙いはわかるけど、狙い通りに運ばなかったという印象だ。

2012年5月8日


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イタリア映画祭2012『ジョルダーニ家の人々』 [イタリア映画祭2012]

『ジョルダーニ家の人々』

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登場人物
ピエトロ………………………ジョルダーニ家の父親
アニタ…………………………ジョルダーニ家の母親
アンドレア……………………ジョルダーニ家の長男
ニーノ…………………………ジョルダーニ家の次男
ロレンツォ……………………ジョルダーニ家の三男
ノラ……………………………ジョルダーニ家の長女
アルベルト……………………ノラの夫
ミシェル………………………アンドレアの恋人となるフランス人男性
リラ……………………………ミシェルの娘
ヴァレンティーナ……………ニーノの幼なじみ
ニコライ教授…………………ニーノの担当教授
フランチェスカ………………ニコライ教授の妻
シャーバ………………………ニーノが助けるイラク移民
アリナ…………………………シャーバの娘
カタルド………………………アリナを守る刑事
シルヴィア……………………ピエトロの不倫相手
ブラージ大尉…………………ノラの患者で帰還兵


チケット売り出し時には『そこにとどまるもの』という仮題がつけられてたが、
『ジョルダーニ家の人々』という公開題名に決まった。
イタリアのテレビ局「ライ」によるテレビミニシリーズを、6時間39分に再編集したもの。
同じ製作・脚本・撮影スタッフによる2003年の『輝ける青春』と同様、「岩波ホール」での一挙上映が7月に控えている。

俺は「イタリア映画祭」の直前に『輝ける青春』を初めてDVDで見て、すっかりハマってしまったので、かなり期待値のハードルは上がってた。
不安要素はスタッフの中で、監督がマルコ・トゥリオ・ジョルダーナではないという点だった。
そして俺にとってはその不安が的中した。
なのでこのコメントは、あくまで『輝ける青春』で期待値上げすぎた人間のものと捉えてほしい。
波乱万丈家族ドラマとしては、十分楽しめる人も多いと思うので。

ジョルダーニ家の人々.jpg

尺が長いだけに登場人物も多い。ジョルダーニ家はローマに住む中産階級の一家。
長女ノラは一人目の子を妊娠していて、母親アニタは、外務省勤務の長男アンドレアの久々の帰宅を待ちわびてる。何も波風の立ってなさそうな、家族の満ち足りた夕食の風景だが、次男ニーノは、父親ピエトロが、書店を営む年下のシルヴィアと不倫してるのを目撃していて、内心憤っている。
家族の間の小さな亀裂は、三男ロレンツォの突然の交通事故死で、決定的なものに。

ロレンツォを寵愛してた母親アニタは、すっかり心を閉ざしてしまい、キッチンで衝動的にガス自殺を図ろうとまでした。心理カウンセラーとして市内の病院に勤めるノラの紹介で、アニタは自ら家族から離れ、郊外の療養所に移ってしまう。

父親ピエトロは不倫してるという後ろめたさもあり、家族のために自分は無力だと感じていた。シルヴィアとの関係を清算すると、技術者としてイラクのプラント建設に向かうことを決める。
ニーノは父親の不倫を責め、自分でアパートを借りると、家を出て行ってしまってた。

仕事でローマにいることの少ないアンドレア。夫との暮らしがあるノラ。この広い家に、家族は一人も居なくなってしまった。


このあとのストーリーを引っ張っていくのが、アンドレアとニーノの兄弟であるところは、『輝ける青春』と同じだ。
アンドレアは用事があって病院にノラを訪ねた時、ノラから心理カウンセリングを受けてる、ミシェルというフランス人男性と知り合う。アンドレアは帰りがけにミシェルの車で送ってもらい、二人は親しくなる。
建築家志望の弟ニーノは、大学の学部を最優秀の成績で卒業、即建築デザイナーの道も約束されたが、「現場を知りたい」と、建物の基礎工事の労働者として働くようになる。

現場が休みの日に、シチリアにいるという兄のアンドレアの元をふらりと訪ねたニーノは、兄が男と同棲してることに驚く。アンドレアがゲイだとは知らなかったのだ。ニーノに限らず、家族の誰も知らなかった。
ミシェルは大柄だが、優しい目をしていて、兄は幸せそうだった。
「兄さんのあんな笑顔、家では見たことない」
アンドレアはここで不法入国者の身柄の調整にあたってたが、港に移民たちを乗せた船が着くという報を受け、ニーノも同行させてもらう。


夜、浜辺に着いたボートから降ろされた、大勢の疲弊し切った移民たちの様子を真近で見たニーノは、イタリアの抱える現状の一端にショックを覚えた。興味本位で覗きにきた自分を恥じた。
業務を行う兄を遠目に見つつ、ニーノはその場を去ろうと、車に乗り込んだ。すると後部座席に移民の女性がうずくまってる。
「ここはダメだ!」と動揺するニーノだが、女性は海水に浸かり身体が冷え切ってるようで、しばらくここにと懇願された。ニーノは意を決し、彼女に自分の上着を被せると、港の検問を通過し、アンドレアたちの家へ戻った。

ミシェルは仕事で数日家を空けてるようだ。不法入国者たちの対応を終え、疲れた顔で家に戻ったアンドレアは、居間のソファーに、移民とおぼしき中年の女性が寝てるのを見て驚愕する。
「国家公務員の僕が不法行為に手を貸せるわけないだろ!」
アンドレアは弟の軽率な行動を責めたが、一晩だけでも置いてやってというニーノの言葉に折れる。

翌朝ニーノは移民の女性と話しをした。彼女の名はシャーバ。イラクでは看護士をしていて、難民キャンプでイタリア人医師の下で働いてたんで、イタリア語もなんとか話せた。
彼女は生活苦から海を渡ったのではなく、数年前に家を出たまま、消息の知れない娘を探しにイタリアに来たと言う。人からの聞き伝えでは、ヨーロッパを転々とした後、娘はローマの難民キャンプ地にいるらしい。
「ここからローマへどうやっていけばいい?」
シチリアから地理も知らない外国人がローマまでは容易ではない。もちろん飛行機も使えない。
ニーノは「僕が一緒に行こう」と言った。

住所も聞いていたが「ローマに難民キャンプなんてあったか?」という疑問をニーノは持った。
彼の疑念通り、その住所には昔キャンプがあったらしい痕跡はあるが、ただの空き地となっていた。
シャーバをここまで連れてきたが、彼女が身を寄せるような場所はない。
ニーノは家族の居なくなった実家にシャーバを招いた。


アンドレアとミシェルの同棲生活は思わぬ終わりを迎えた。ミシェルには小さな娘リラがいたのだ。
勢いで寝て妊娠させた相手の女性は麻薬に溺れていて、もう娘を育てられないと、ミシェルの下に娘を置いて行ったのだ。
娘を寝かしつける「父親ミシェル」を見ながら、アンドレアは、嫉妬にも似た感情に苛まれ、家を出た。

だがミシェルにも小さな娘を育てられない事情があった。
彼はアンドレアにも話してなかったが、不治の病に冒されており、自分の最期の時への心構えのために、ノラにカウンセリングを受けてたのだ。
ミシェルに、娘との経緯と、恋人との係わり合いを相談されたノラは
「交際相手とよく話し合うべきよ」
と言うが、その相手が自分の兄アンドレアと初めて聞かされ、呆然となる。


ニーノからシャーバの事情を詳しく聞かされたアンドレアは、警察にツテがあり、シャーバの娘の居所を捜すよう依頼する。潜入捜査を専門とする敏腕のカタルド刑事が請け負い、シャーバがペンダントに入れた娘の写真から、間もなく、娘がストリップを見せるクラブで、娼婦として働いていることを掴む。アンドレアとニーノはクラブを訪ね、娘と会う。
娘の名はアリナと言い、母親がローマに来てることにショックを受けるが、今の自分を母親には見せられないと、会うことを拒絶した。

ニーノは相変わらず建築現場で汗を流してたが、その現場は、大学でニーノの才能を見込んでるニコライ教授の紹介を受けていた。現場には度々、内装デザインを仕事にする、教授の美しい妻フランチェスカが顔を見せた。
夫妻には小さな娘がいたが、夫婦の間には冷やかな感触があった。
ニーノには、幼なじみで、同じく建築家を目指し、彼を秘かに想ってるヴァレンティーナがいるが、ニーノは次第に、教授の妻に心を動かされていく。そしてフランチェスカも同様だった。

一方、家族から離れ、ひとり療養施設にこもる日々の母親アニタは、未だに三男の死を受け入れられない。
アニタはロレンツォはまだ生きていると信じている。
なぜなら彼女のもとに、ロレンツォの名で、定期的に手紙が届いてるからだった。
一体手紙を出してるのは誰なのか?


この先、アンドレアとミシェルの行方、シャーバと娘アリナの行方、ニーノの恋愛は二股となるのか?などが描かれていく。
長女ノラの患者で、イラク戦争で地雷を踏み、以来記憶を失ったブラージ大尉とのエピソードも語られるが、これは本筋とあまりリンクしてない。いや最後にはリンクするともいえるんだが、ちょっとそれが出し抜け感が強く、ノラの夫アルベルトが気の毒になる。
アルベルトは中日の和田みたいな見た目で、俺はノラに「それは毛髪のせいなのか?」と言ってやりたくなったぞ。

イタリア映画というと大家族で、その結束の固さが描かれるのが常套なんだが、このドラマは一見絆の強そうな家族が、脆くも空中分解を起し、それが赤の他人だった人たちを媒介にして、もとの形より、密度が濃く、修復されていくというのが見所だ。
「家族」というのを、単に血のつながりということだけで、閉鎖的に捉えるのではなく、もっと広義の「家族」的なるものの実現は可能かと、移民問題に揺れるイタリアの現在に問いかけているように思える。

このドラマに思い入れられるかどうかは、次男ニーノの人物像を肯定できるかどうかで異なってくるだろう。
俺は正直この兄弟は、『輝ける青春』のニコラとマッテオの兄弟ほどには共感得られなかった。
ニーノはそもそも家族たちの場でも皮肉な物言いをする、「ちょっとひねくれたヤツ」だが、自分の進む道に対する才能があることは周囲も認めるところだ。まあ優等生的でないのはかまわない。
だが父親の不倫をあれだけ責めておきながら、自分も他人の女房と同じ行為に及んでるのは「言行不一致」と言われても仕方ないな。

そのニーノの法に触れる「移民を匿う」行為に対して、法を執行する側にいる兄アンドレアが手を貸すのもな。
兄弟が「人道上」そうしたと言っても、じゃあ他の不法入国者にだって、人道上助けなきゃならない理由があるんじゃないか?ニーノだけでなく、アンドレアも軽率なんだよ。

『輝ける青春』では兄弟と、心を病んだ少女ジョルジアとのエピソードにすっかり掴まれてしまった俺だったが、この『ジョルダーニ家の人々』の登場人物に、それだけの魅力を感じることができなかった。
あのジョルジアのキャラクターも、いかにもと言えばいかにもで、「ああ、守ってやりたい」と男に思わせるような描かれ方だった。
それに乗せられたということなんだが、映画というのは「乗せられてなんぼ」だと思うから、それと比べると「他人行儀」な印象を今回の登場人物には感じてしまう。

元々がテレビドラマとして撮られてるからなのかどうか、演出がセリフを読ませて終わりという、その先のエモーションにまで達してない。
『輝ける青春』もテレビドラマなんだが、マルコ・トゥリオ・ジョルダーナの演出は、セリフよりも眼差しで語らせることに重きを置いていて、見てる側に、登場人物の気持ちを推し量る余地を常に与えてくれてた気がするのだ。
この『ジョルダーニ家の人々』に対する俺の物足りなさの一番の理由は「眼差し」の不足という点に尽きる。

家族の前から「逃亡」を図った父親ピエトロが、終盤に劇を締める役割を担って戻ってくるが、演じるエンニオ・ファンタスティキーニは、『明日のパスタはアルデンテ』では、ゲイの長男に怒って勘当を告げてたが、今回は同じく長男に理解を示す父親となってた。


ニーノと幼なじみのヴァレンティーナが、夜のデートめいて、バスに乗り込む場面がある。「93番線」という、ローマの現代的な一角から、古い歴史建築物が立ち並ぶ地区を結ぶバスだ。
その場面は『フェリーニのローマ』のラストで、バイクの若者たちが夜のローマを爆音響かせて駆け抜ける、あの場面を思い起させる。
バスの中でヴァレンティーナが、エミリー・ディキンソンの詩を暗誦するんだが、その詩がこの映画の題名の元となってる。

「飛び去るものがある、鳥たち、時間、マルハナバチ、
それらに挽歌は似合わない。」

「そこにとどまるものがある、悲しみ、丘陵、永遠、
それらも私にはそぐわない。」

2012年5月7日

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イタリア映画祭2012『七つの慈しみ』 [イタリア映画祭2012]

『七つの慈しみ』

七つの慈しみ.jpg

この映画は細かい説明を省いたような演出がなされている。だから見てるこっちも、自分なりに解釈してかなきゃならない部分が多い。二度見るとより明確になるように思う。
俺は一度見ただけでこの文章を書くので、解釈が違ってるかもしれない。もし後に間違ってたと気づいたら、読解力の浅さを形ばかりだが、恥じておくとする。
カラヴァッジオが「マタイによる福音書」を元に描いた宗教絵画『慈悲の七つのおこない』を、ストーリー展開にあてはめた映画となってる。


『旅人の歓待』

トリノ郊外に不法入国してるモルドバ移民の少女ルミニツァ。おそらく家族と、それを束ねるグループのもと、トレーラーハウスで暮らしてる。暮らすといっても、日中はトリノ市内に出て、スリや置き引きで得た稼ぎを、夜に戻って渡す。どういうことなのか、寝るのはトレーラーハウスではなく、バンの冷たい車内に入れられ、鍵をかけられる。
朝目覚めると、そのバンから出され、別の少女がバンに乗せられ出て行く。悲しげな表情だ。
その少女は町に売春に行かされてるのではないか?ルミニツァが同じようにされないのは、彼女が可愛げのない顔をしてるからか。
まずこの「キャンプ」の風景が暴力的というのか、犬のような生活ぶりだ。

同じトリノ郊外の幹線道路脇の、荒れ果てた空き地で、犬に餌をやる老人がいる。アルベルトという名で、一人で暮らしてる。喉には穴が開いている。自宅で痰の吸引をするため、吸引器が洗面所に置いてある。
いくつもの積まれたタイヤのホイールを業者が回収に来る。業者が帰った後、アルベルトは空き地で古タイヤを燃やし始める。日本だと違法行為にあたるが、そういう仕事を請け負ってるのだろう。肺が悪く見えるのは、その煙のせいか。アルベルトは体調が悪化し、病院に担ぎこまれた。


『病人の見舞い』

ルミニツァはどう当りをつけたのか、トリノの病院で、霊安室の職員の男とつながってる。駅の「3分間写真」で撮った自分の顔写真を持ち込む。
職員の男は、霊安室に運び込まれた女性の遺体と、ルミニツァの顔写真を見比べ「これがいいだろう」と言う。死者の身分証を取得し、イタリア人に成り代わろうというのだ。
だが職員の男は条件をつけた。
「赤ん坊をさらってこい」
誘拐した赤ちゃんの密売組織とつながりのある男なのだ。
金品を掠めるのは難しくはないが、赤ん坊は簡単にはいかない。

ルミニツァは霊安室を訪れたついでに、病室で置き引きを働くために、見舞い客を装う。病室から診察室に移される老人の留守になったベッドを漁り、金目のものを盗んでいく。
その老人とはアルベルトだった。
ルミニツァはアルベルトが退院する日に、後を尾けた。弱弱しい足取りの老人と、同じエレベーターに乗り込み、部屋の鍵を開けたのを見計らい、後ろから襲いかかった。
非力な老人に成すすべはない。ルミニツァは容赦なかった。頭を床に打ちつけ、老人が抵抗示さなくなると、縛り上げ部屋を見回す。
物置のような鉄の扉のある部屋にアルベルトを放りこみ、外からロックした。


『食物の施与』 

台所で適当に炒め物を作り、物置のアルベルトには手で食わせた。腹が減ってたのか、怒りからか、老人はガツガツとかきこみ、皿を放って返した。
当面の住まいも出来たし、あのトレーラーハウスから抜け出せるかもしれない。あとは赤ん坊だけだ。
ルミニツァは覚悟を決めた。モルドバ移民のグループの中に赤ん坊を抱えた少女がいる。
その赤ん坊を盗み出したのだ。


『飲物の施与』

アルベルトはいきなり赤ん坊を連れて戻ってきたルミニツァに驚く。だがアルベルトは肺を病んでいて、言葉を話しづらい。モルドバ移民のルミニツァも、イタリア語はよく解さない。
ルミニツァの子なのかすら老人にはわからない。
赤ん坊は泣き始め、ルミニツァにはあやし方がわからない。
「のどが渇いてるんだろう」
そう感じたアルベルトは、水を自分の小指につけ、それを赤ん坊の口にもってく。
赤ん坊はおとなしくなった。
強盗に家を占拠され、監禁までされてるが、アルベルトは赤ん坊のおかげか、少し心が和んだ。

ルミニツァは、霊安室の男に話をつけるため、アルベルトに赤ん坊を預けて外出する。
病院へ行くと、トレーラーハウスの移民の少年が、彼女を待ってた。ルミニツァのそばによくいた少年は、ルミニツァが赤ん坊を盗んで行ったことで、トバッチリを受け、顔に殴られた痕があった。
「見つかったら殺される」と。
ルミニツァは少年と別れ、アパートに戻ると、物置の扉が開いたままで、老人も赤ん坊もいない。
ルミニツァはパニックとなる。ほどなく帰宅したアルベルトに掴みかかる。
だが赤ん坊をどうしたのか、アルベルトは頑として口にしない。すべて水泡に帰した。


『衣服の施与』

なんの気力も起きずベットに横たわるルミニツァ。アルベルトは何を思ったか、彼女の靴を脱がせ、次にジーパンに手をかけた。だがルミニツァは反応しない。おぼつかない手つきでジーパンを脱がせると、今度は彼女の上体を起すよう、手振りで示し、彼女もその通りにする。
上着を脱がせ、シャツと下着だけになったルミニツァに、アルベルトは洋服タンスの中に畳まれた服を渡す。
「これを着なさい」
それは老人の妻が着てたものなのか、娘のものなのか、女らしい服に着替え、ルミニツァの表情も和らいでる。


『囚人の看護』

台所のテーブルに二人は向かい合わせに座った。ルミニツァは料理を作り、アルベルトが食べるのを眺めた。アルベルトは彼女の手をとり、フォークを持たせ、自分に食べさせるよう促した。ルミニツァは黙って従った。
風呂に湯を張り、アルベルトを入れてやると、身体を洗ってやった。
病院で看護士に身体を拭かれる時には、苦痛の表情を見せてたアルベルトは穏やかに目を閉じていた。
ルミニツァは痰の吸引を手助けし、アルベルトの喉に開いた穴に指を触れてみた。


『死者の埋葬』

部屋の中にもはや敵意は流れてなかったが、やがてアルベルトはまた具合を悪くし、入院することに。
ルミニツァは看護士に「身内のもの」と言って、アルベルトの病床に付き添った。
症状が治まったアルベルトは、ルミニツァに「ここから出してくれ」と言い、彼女は病院から連れ出す。アルベルトはそのまま彼女をある場所に案内する。


キリスト教の福音書をあてはめながら、この二人はどちらも宗教による癒しから遠ざかった人生を送ってる。
モルドバという貧しい国から移民してきたルミニツァは、生きるために他所の国で、なりふり構わぬ振る舞いをしてる。とても「歓待されるべき旅人」ではない。

俺がこの少女より目を奪われるのは、老人アルベルトの方だ。
彼は神の慈悲から遠ざかる生き方を、自ら選んできたように見える。もう随分と長いこと、家族の温もりなどに触れることもなくきたのだろう。

ロベルト・ヘルリツカという、両親はチェコ人で、イタリア国籍を持つ俳優が演じてるんだが、もうその顔に刻まれた皺の深さも凄いし、希望とかいったものを自ら拒絶するような光のない目も凄い。
この映画の撮影時は74才だから、今にすればそれほど歳でもないんだが、
「人生の末期」という佇まいそのものだ。

俺の父親も入院してるが、おんなじような身体つきしてた。肉がなくなると、身体を拭かれるだけで、神経にダイレクトにくるから、痛みが走る。
監督・脚本のジャンルカ&マッシミリアーノ・デ・セリオ兄弟は、実際に自分の父親を看護した経験をベースに、この物語を作ったということで、そういう細かい描写はリアルだ。

ただ痰の吸引が必要ということは、呼吸器の働きが悪くなってるわけで、そうなると食べたり飲んだりして時に誤嚥(ごえん)といって、気管にものが入ってしまい、それが肺炎を引き起こすようになる。
なので映画に描かれてた、炒め物をガツガツ食べるようなことは無理なはずなんだけどね。
アルベルトはかなり症状も重そうだったし。

『七つの慈しみ』の中の最後の『死者の埋葬』だが、死者とは誰のことを指してるのか?普通に考えれば、余命いくばくもなさそうなアルベルトなんだが、映画の中で彼が死ぬ描写はない。
ルミニツァとモルドバ移民の少年がバスに乗ってるラストシーンに、その暗示がある。

敵同士のような存在として出会ったルミニツァとアルベルトが、最後に辿り着いたのは何なのか。
それは「赦し」ではないか。
互いに神も信じないような人生を歩んできた者同士が、互いに対して、何かを施すような行いをするに至り、自分の人生への「赦し」をそこに見出したように俺には思えた。


イタリア映画でありながら、ルミニツァを演じたオリンピア・メリンテなど、ルーマニア人キャストのせいでもないだろうが、どこかしら東ヨーロッパの映画の感触がある。
ルーマニア映画の『4ヶ月、3週と2日』や、監督がインタビューでも言及してる、ポーランドのクシュシュトフ・キエシロフスキ監督の作品、あるいはベルギーのダルデンヌ兄弟の映画を思わせもする。

ヨーロッパというのは日本人がイメージする以上に、国境でくっきりと国民性や文化や風土が色分けできるものでもなく、「地続き」という感覚があるんじゃないか?

にしても他所の国に「無断」で入って、傍若無人な振る舞いを見せるルミニツァのような存在に、共感を持つことは困難だ。
自分の生まれた国が生き難いといって、他所の国に逃れることは止むを得ないことかもしれない。
だがその他所の国も、願いを叶えられる国である保障などない。冷たい扱いを受けることも当然ある。
だがどんな状況が待ってようが、「人の家に上がる」際のマナーってもんがあるだろう。

しかし実際イタリアでは、ルーマニアからの移民の女性が、病院で介護士として働いているという。
介護士のなり手が足りず、インドネシアから試験を受けて来て貰ってる最近の日本と、同じ状況が生まれてるんだな。
それは自国民より安い賃金で、きつい仕事をこなしてくれるという事があるからだ。
移民の問題は難しい。今回のイタリア映画祭ではそのことを随分と考えさせられた。

2012年5月6日

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イタリア映画祭2012『バッグにはクリプトナイト』 [イタリア映画祭2012]

『バッグにはクリプトナイト』

バックにはクリプトナイト.jpg

1973年という時代のナポリを背景にした、ある大家族の姿を、ペッピーノという9才の内気な少年を軸にして描いた、ちょっとコミカルなドラマという見かけだが、ある暗示を含んでもいるんじゃないかと、見ながら思った。


ペッピーノは見事なほどのカーリーヘアで、近視なので、クラスでも唯一の眼鏡男子。見てくれが女の子っぽいので、クラスの男子からはイジメにあう。体育でサッカーをやる時にも、
「お前はゴールをやれ」
「えっ、キーパーってこと?」
「ちがう、ゴールポストの役だ」
直立不動で立たされ、わざと狙ってボールを蹴られて、眼鏡を壊される。
そんなだから、学校をひけても、遊ぶ友達もいない。

ペッピーノには従兄のジェンナーロがいた。彼は自分のことを「スーパーマン」だと信じていて、いつもそんな衣装を着てる。スーパーマンの唯一の弱点とされる、故郷クリプトン星の鉱石「クリプトンナイト」を恐れていて、自分に近づく者には、カバンの中身をチェックする。
家族からすれば「残念な子」なのだが、ペッピーノは従兄が好きだった。

だがそのジェンナーロは車に轢かれて死に、その悲劇もさめぬ内に、父親の浮気を、母親のロザリアが目撃してしまう。明るく優しかったペッピーノの母親は、以来ふさぎこんでしまい、賑やかだった大家族の暮らしは翳り始める。


ペッピーノは物語の狂言回しの役も担ってるんだが、注目すべきは、この9才の男の子が、ほとんど「家族」や「家族に縁のある」女性と行動を共にしてるという点だ。

まず母親は、夫の浮気を知ったショックを癒すため、当時はまだ珍しかったであろう、精神分析医のカウンセリングに通うようになる。そこで自分の少女時代の話をするうち、バカンスで訪れた海をもう一度見たいと思い、ペッピーノを連れて行く。
ロザリアは内気な息子のペッピーノを、とても愛してる。風呂にも一緒に入ってる。

同じ家に同居するロザリアの弟と妹、ペッピーノにとっては叔父と叔母だが、彼らはまだ20そこそこで、ロンドンで暮らしたいと思ってる。
当時のヒッピーやサイケ文化に完全にかぶれてて、やはりペッピーノを連れ出して、クラブに繰り出す。
当時は「ウーマンリヴ」が高まりを見せてた頃で、ペッピーノは叔母のティティーナに手を引かれ「女性限定」の集まりの部屋へ。叔母も含めて女の子たちはみんな裸になって、キスをしたり、自分のアソコを鏡に映してみたりと、ペッピーノにはいささか刺激が強かった。
ティティーナには「ママに言っちゃダメよ」と釘を刺された。


別の日には、母親の仕事場の同僚で、独身の女性アッスンタと共に、ペッピーノは海岸にいた。
アッスンタは結婚相手を探そうと、海岸に「逆ナン」に来てたのだ。
家が貧しくて、自分の稼ぎで流行りの服を買う余裕がないアッスンタは、
「水着なら新しいも古いも関係ないわよね」
と、わざわざ海岸で水着になって、男の視線を待ってるのだ。
ペッピーノを連れて行ったおかげかどうか、彼女は逆ナンした男性と気があった。地元の海岸近くの住人だった。

だがつきあいを始めても、アッスンタはその男性に家を教えなかった。
彼女は古びたアパートに両親と同居していて、男性の突然の訪問に気が動転した。
応対した母親は、男性から「住む町は聞いてたから、同じ苗字の家を一軒一軒訪ね歩いた」と聞いた。
彼女は玄関に行き、「人違いですから!」とドアを閉めてしまう。
彼女の態度を察した男性は、階段に座ってメモになにか書き、ドアの隙間から差し入れた。

「君が海岸によく来てるのは知っていた。君のことが気になってたからだ。」
「お金がなさそうなこともね。多分バス代を使わず、歩いて来てたんだろう。唇がかさかさに乾いてたから」
「だからいまさら君の住まいを見て驚くようなこともない」
「僕は君を愛してるから、ずっとこの階段に座ってるよ」
と書かれていた。


母親ロザリアはカウンセリングを何度か受ける内に、「自分のしたいと思うことをまずしてみることです」などとアドバイスされ、少しづつ心が軽くなっていく。
それとともに、妻子ある若い精神分析医に、ちょっと心が動いてもいた。「浮気されたんだから自分も」という気持ちもあっただろう。
何度目かの受診の帰り際、ついに二人は口づけを交わしてしまう。

この家にはペッピーノの祖父と祖母も同居していて、祖母は診察から帰った娘の表情が妙に晴れ晴れしてるのに気づく。
「診断が効いてるんだわ」と答えるロザリアに、なにか感じとったのか、祖母は持ってた皿を床に叩き付けた。
同じ家に暮らしてるんだし、口にしなくても、娘が急にふさぎ込んだ原因は、夫婦の間にあるとわかってる。おおかた亭主の浮気であろうことも。
だから「お前が同じことをして、なんになるんだい!」という気持ちが込められてる。
娘夫婦のことに口は挟まないが、ちゃんと話しあえと祖母は言いたいのだ。


そんな悲喜こもごもを近くで見つめる9才のペッピーノには、事故死した従兄のジェンナーロが度々現われるようになる。そしていろんなアドバイスをしてくのだ。

ペッピーノは叔父のサルヴァトーレから不思議な話を聞いていた。事故死する前の晩、ジェンナーロが叔父の部屋に来て、服を脱いで裸になったという。叔父にも同じようにしてくれと。
叔父は最初ジェンナーロはゲイなのかと思い、部屋を追い出したが、後になり
「あれは、自分が人と同じだということを確認したかったんじゃないか?」と思ったと。

ある晩、ペッピーノの前に現われたジェンナーロは、生前にも増して衣装がスーパーマンぽくなってた。胸の「S」の字がないだけだ。
ジェンナーロは「背中に乗れ」というと、ペッピーノを乗せて夜空を滑空した。

ナポリの町の灯がまばゆい。ジェンナーロはナポリの海岸が一望できる、軍の基地の屋上に降り立った。
「宿舎の若い兵隊たちの裸が見えてドキドキしちゃうよ」なんて言ってる。
ジェンナーロはペッピーノに、
「お前は人とはちがう、特別な存在だ」
「えっ、僕もスーパーマンになれるってこと?」
「そういう意味じゃない。人とちがうってことを恐れるなってことだ」


ジェンナーロは叔父が最初に感じたように、自分がゲイであることを自覚してたのかもしれない。
ナポリの夜空の飛行の後にもそんなこと匂わせてるし。
ペッピーノが人とちがうと、彼が感じてるのは、ペッピーノがやがてゲイとして生きていくことを予言というか暗示してるんではないか。

ペッピーノは常に年上の女性たちとともにいる。女性たちの感性の中で育ってるともいえる。
劇中に母親が、ペッピーノの眼鏡を外して「こんなにハンサムなのに」と言うが、たしかに顔立ちはイケメンで、男子からイジメに遭ってるにしても、女子にはモテそうなんだが。

この年頃の子供を主人公にすれば、女の子との、ほんのり初恋めいたエピソードが挟まれてもよさそうなのに、全くない。ペッピーノが女の子に興味を示してないからだ。

なので死後にペッピーノの前に現われるジェンナーロは、ペッピーノ自身の「内なる声」なのかも。
スーパーマンの弱点「クリプトンナイト」は、故郷の鉱石。つまり家族だけで過ごすことは、ペッピーノには居心地がいいだろうが、そのことが彼の弱点にもなってる。

外の世界に友達もできず、興味を持たないままでは、大人になって家を離れることもできないだろう。
「人とちがう」ことへの迫害を恐れて、閉じこもっていてはいけないのではないか?
ペッピーノが少年ながらに、無意識に感じてるその思いが、ジェンナーロという形になって現われるのだと俺は解釈した。


監督・脚本のイヴァン・コトロネオにとって、この物語は自作の小説の映画化で、自伝的要素も含んでそうだ。
この人は『あしたのパスタはアルデンテ』のフェルザン・オズベテク監督と組んでの仕事で有名だそうだが、オズベテク監督は自らゲイであることを表明してる。
イヴァン・コトロネオ本人がどうかは知らないが、70年代前半という時代は、まだ性的マイノリティに対して、冷たい視線が注がれる時代だったろうし、その暗喩を登場人物に込めているのだと感じた。

映画の最初の方で、ペッピーノの叔父と叔母が、部屋の中でイギー・ポップの『ラスト・フォー・ライフ』にピタリと振りを合わせて踊るの場面。
ジェンナーロがペッピーノと、デヴィッド・ボウイの『ライフ・オン・マーズ』に乗せて、夜のナポリを滑空する場面。
このアーティストの選び方も、見る人によってはピンとくるはず。

母親を演じるヴァレリア・ゴリーノは、俺は久々に見たんだが、この映画の撮影時は45才。
『レイン・マン』とか、彼女の出てる映画がよく日本に入ってきてた時期はまだ20代前半だったが、印象が変わってないね。すごいアップで撮ると、目のまわりに小皺は目立つが、可愛らしさが残ってるし、体形も「お母さん」て感じでもない。
『あしたのパスタはアルデンテ』に主演したリッカルド・スカマルチョと私生活でパートナーだというが、13才の年の差も、彼女なら違和感ないよ。

2012年5月5日

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イタリア映画祭2012『錆び』 [イタリア映画祭2012]

『錆び』

錆び.jpg

前にこのブログで「イタリア映画祭」の鑑賞予定作を挙げた時に、チラシに書かれてたこの映画のあらすじから、内容を推測するに、幼年期に遭遇した恐怖体験のトラウマと、30年後に再び対峙することになる登場人物たちが、スティーヴン・キングの『IT/イット』を連想させると書いたんだが、実際見てみると、幼年期の共通体験のトラウマを、払拭できないまま大人になった幼なじみたちの、心のきしみを描いていて、むしろ『ミスティック・リバー』のテイストに近かった。
映画は1970年代の過去と、大人となった主人公たちの現在を交互に描いていく。


1970年代、北イタリアの小さな町。殺風景なアパートが立ち並び、荒涼とした空き地には、廃棄されたサイロと、鉄の廃材が積み上げられてる。それは鉄の洞窟のように、内部には空洞が広がり、通路が不安なほどに長く、奥まで延びている。
親から「あそこでは遊ぶな」と言われる子もいるが、アパートの子供たちにとって、そこは「秘密基地」そのものだった。

イタリアの子供たちの遊びは、驚くほど日本の当時の子供たちと似ている。
オニが壁を背にする「ダルマさんが転んだ」のイタリア版とか、メンコのような遊びにも興じてる。トカゲをつかまえて何匹もビンに入れ「生きた宝物」としてる。

そしてここの子供たちの中にも「大人社会」を写したような力学が働いてる。
ガキ大将のカルミネが、地元北部の子供たちを統率していて、南部イタリアから越してきたような子供たちはイジメの対象にされる。南部イタリアの人間は自分たちより貧しい者という、親の世代の偏見が、子供に伝えられてるのだ。

カルミネは、勝手に自分たちの秘密基地に入りこんだ、南部の子供たちを取り囲んで脅す。
「服を脱いで裸になれ」
少年ふたりは言われるまま、裸になり、嘲笑を浴びる。裸のまま外に出された少年たちは、空き地を走って帰って行った。すれちがった少女たちは、カルミネがなにか悪さしてると察して、鉄の洞窟へ。
残された南部の少女が裸にされる寸前で、止めに入った。

南部の子供たちには、彼らよりずっと年上の兄がいて、報復に来るだろうとカルミネは予想してた。
その兄が凄い剣幕で現われた時も、カルミネたちは、洞窟の内部を縦横に逃げ通し、相手の悔しがる顔を眺めて笑った。

『蠅の王』という、子供たちが残酷さを露にする闘争劇があるが、この映画の子供たちも、無邪気で汚れがないなどという描かれ方ではない。
カルミネが南部の子供たちを裸にさせるのは、性的な意味合いはない。屈辱を与えようという気持ちはあっただろう。
だが遊びの中で時として残酷な表情を見せる子供たちが、彼らの想像を絶する「悪」を目の前にすることになろうとは。


このアパートが立ち並ぶ、閉ざされたコミュニティのような土地に、ベンツを走らせてくる男がいる。ポルドリーニという名の若い医者だった。診療所が一つしかないこの土地に赴任してきたのだ。
町へ向かう道路脇を女の子が自転車を押して歩いている。ポルドリーニは声をかけ、町まで乗せていき、女の子を自宅まで送り届ける。親に挨拶を済ましておく。
「優しいお医者さんが赴任してきた」小さな町ではすぐに住人の耳に行き渡る。
赴任してからというもの、ポルドリーニに対して、子供の親たちからの評判は上々だった。

ベンツに乗るような住人はいないため、外で遊ぶ子供たちには、ポルドリーニのベンツはすぐ目につく。
それも空き地の真ん中とか、およそ用事もなさそうな場所で見かけるのだ。遠くから身を潜めて様子を眺めてると、車から降りてズボンを履き直したりしてる。
「あんなトコでウンコしてんのか?」子供たちは笑った。
「あいつ何かおかしいよな」
親たちからは、善良な医者と思われてるポルドリーニへの違和感が、子供たちの間には芽生えていた。


女の子の死体が空き地で発見された。どんな風に殺されたのか、子供たちには想像つかないし、その殺害が意味するところも察しようもなかった。
だがポルドリーニへの疑いは、子供たちの直感の中にあった。
親たちに話してもまともに取り合ってもらえない。子供たちはポルドリーニを注意深く監視するほかなかった。

ポルドリーニ自身の言動もおかしくなり始めていた。
カルミネのグループの一員で、内気なサンドロは、咳が出るため、母親に連れられ、診察を受ける。
ポルドリーニは「薬を飲めば、すぐに女の子と“ヤレる”ようになる」
と言い、母親は耳を疑った。
「遊べるようになる」と言う所を、ポルドリーニは無意識に言い間違えたのだ。
その場は取り繕ったが、サンドロは早速グループの子供たちに、その発言を報告した。

そしてまた犠牲者が出た。カルミネとサンドロたちは、自分たちの身は自分たちで守らなければならないと覚悟した。そんな矢先に、今度はカルミネの妹が姿を消した。


事件から30年後の現在、あの時の子供たちの中で、サンドロの描写に時間が割かれている。
サンドロは父親となり、当時の自分くらいの歳の息子と二人で暮らしている。

あんな事件を体験してるから、人一倍、子供には愛情を注ごうと思ってるようだ。父親に甘えたい子供に、思い切りスキンシップで応える。サンドロは自分の父親から愛情を受けなかった。
「早く大人になれ」が父親の口癖だった。息子とじゃれ合っていて、ついその口癖が出てしまう。
「早く大人になれ」
そしてスキンシップの延長で、息子を驚かせてやろうと、暗がりから吼えかかる時、脳裡にあのポルドリーニの姿が掠める。
「自分はポルドリーニじゃない、あんな怪物では…」

遊び仲間の女の子たちが殺されたあの時、どんな理由でポルドリーニが彼女たちを毒牙にかけたのか、その意味を知るのは、もう少し成長してからだったはずだ。
そして戦慄しただろう。世の中には子供を性欲の対象にする大人がいるということに。
その毒牙に自分がっかってたかも知れないということに。
そしてまさかと思うが、人の親となった今、自分の中にポルドリーニが潜んでいやしまいかということに。

直接に性的虐待を受けた人間でなくても、自分がごく身近で体験した、そのおぞましさのトラウマが、こういう形でべっとりと張り付いている。
作劇としては、過去と現在が何かのきっかけでリンクするという描き方にはなってないが、それだけに苦悩の深さが感じられる。


ただ演出としては、過去を描く場面で、弱いと感じる部分があった。
ポルドリーニ医師が、登場するそのノッケから「明らかにペドフィリアだね」と分かるような演出になってしまってる。
子供たちも住民も誰も見てない場面での妙な振る舞いとか、それは映す必要ないんでは?
その辺の思わせぶりな演出が、映画のテンポを悪くしてて、ちょっとタルい。

これは子供たちが、医者の裏の顔を少しづつ感じ取ってく展開なのだから、あくまでポルドリーニの姿は「子供視線」から描いていくべきと思うのだ。映画を見る側にも、段々と化けの皮が剥がれてく過程を見せてくようにね。

それと同時に、殺人など起こったこともないような小さな町で、いきなり女の子が殺害されるわけだから、普通は他所から来たばかりのポルドリーニを、住民は疑うだろう。
子供たちの警告に親が耳を貸さないのは、それだけ新任の医者を信頼してるってことだから、その部分をきっちり描いてないと説得力に欠ける。


なんで映画が「ひとりサイコ風」な描写に尺を割いたのか、その理由はポルドリーニを演じてるのが、フィリッポ・ティーミだからかも。
彼は『愛の勝利を ムッソリーニを愛した女』で、ムッソリーニと、その隠し子とされる若者の二役を演じてたが、敢えてアクの強さを前面に出してる感じのテンションの高さは、「イタリアのマイケル・シャノン」と呼びたい程だった。
そのフィリッポの、振り切れ演技を見せたいという意図があって、そういう場面を用意したんじゃないか?

でも映画の内容からしたら、昨年の東京国際映画祭で上映された、少年を何年も地下室に監禁してる保険外交員を描いた『ミヒャエル』の主演俳優みたいな、いかにも地味な見た目の方がよかったように思うのだ。

2012年5月4日

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イタリア映画祭2012『ジャンニと彼をめぐる女たち』 [イタリア映画祭2012]

『ジャンニと彼をめぐる女たち』

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今年初めて足を運ぶこととなった「イタリア映画祭」なんだが、まず「公式カタログ」の中身が充実してるね。
1500円だけど、出品作品の詳細の他、映画を通して浮き上がるイタリアの現状とか、イタリアという国や国民性に関するコメント、何人かの監督へのロングインタビューなど、読み応えがある。
東京国際映画祭や、東京フィルメックスの公式カタログも同じ位の値段だったと思うが、それより中身が濃い。
「フランス映画祭」などは、昨年はついに公式カタログすら作られなくなってしまった。映画祭には公式カタログは絶対必要と思うんだがな。まあホームページで事足りるという、フランス的合理主義かもしらんが。


この『ジャンニと彼をめぐる女たち』で、監督・脚本・主演の3役をこなしているジャンニ・ディ・グレゴリオのインタビューも、大きな顔写真とともに、公式カタログに掲載されてるが、この人、面白い顔してるよねえ。
面長で楕円形の、生き物でいうと「ショウリョウバッタ」のような。

映画の中で眺めてると、「無責任男」を引退した後の植木等を思わせる表情をしてる。植木等はC調なキャラが売りだったが、佇まいには品があった。ジャンニにも同じように品がある。
伊達男な感じもあって、そこは池部良が入ってるかな。
例えが古いんだが、なにかそういう古風な良さがあるんだよ。

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2008年の『8月のランチ』はその年の東京国際映画祭のコンペ作として出品されてるが、俺は見てない。この映画はその前作のスタイルを引き継いだもので、主人公の名前も監督自身のものだ。
「私小説」的な色合いもある所は、ウディ・アレンを連想させるが、むしろ映画の作り自体はちがうものの、そのとぼけたユーモアは、ジャック・タチを思わせもする。
イタリアの「ユロ氏」か。
だがタチの場合はキャラも何か超然とした風情があるのに対し、このジャンニはもっと人間臭い。


映画の主人公ジャンニはローマに住む60才。50代の内から早々とリタイアして、年金生活を送っている。
気楽そうに見えるんだが、実際はいろいろと忙しい。まだ仕事を続けてる妻を起して、朝食を作り、同居してる娘の彼氏も家に転がり込んできてる。
黒い小型犬でジャンニ自身も犬種をしらない飼い犬を、朝の散歩に連れ出すついでに、ジャンニのことを「恋人」と呼ぶ、下の階の若い独身女性の大型犬を一緒に連れてく。

なにかと手がかかるのは、95才となった今でも、豪勢な庭に囲まれた自宅に暮らす母親だ。
母親はクリスティーナという、若くて美しいヘルパーを雇っていて、彼女には気前良く給料を払ってる。

ブランド物の服なんかも買い与えてるようで、
「あんな優しい方はいませんわ」とクリスティーナはジャンニに話す。
だがその金は母親の財布から出てるわけじゃなく、ジャンニの年金の貯えから出てるのだ。

急用だと駆けつけると、テレビの映りが悪いというだけだったり、隣近所のお友達を誘ってポーカーに興じ、ジャンニに昼食を作りにきてほしいなど、小間使い状態だ。
「この家を売ればもっと優雅に暮らせるんだよ」と、母親を説得し、友人の弁護士アルフォンソに頼んで、彼を母親の不動産管財人に立てるが、いざ手続きに臨むと、母親はすっとぼけて、話はご破算に。
「あの母親は一枚上手だよ」とアルフォンソ。
それより母親を家まで送った時に見かけたクリスティーナに、アルフォンソは目を奪われる。
「お前、あんな美人いつ雇ってたんだよ」
デートに誘ってみろくらいの勢いで言われる。


そうなのだ。リタイア後の気楽な毎日は、それは望んだ通りではあるんだが、犬の散歩に出れば、すれちがう美人を振り返ってしまうし、自分はまだ60なのだ。
軽くショックだったのは、近所のいつもジャージの上下でいる、どう見ても風采あがらない男が、実はタバコ屋の女店主と不倫してると目撃してしまったことだ。娘の彼氏でジャンニが「ミキ」と呼んでるミケランジェロも、その事実を知っていた。
ジャンニは家族を愛してるが、妻とはとっくにセックスレスだ(多分)。

アルフォンソは、クライアントで双子のゴージャスな姉妹との昼食の席にジャンニを呼んだ。
さんざジャンニを持ち上げて、デートの約束を取り付けさせようと図るが、彼女たちは笑顔で高いランチをゴチになって、去って行った。

ジャンニは悟るしかなかった。まだ枯れるには早いと、一時は慣れない筋トレやプールに通って体形を整える努力をし、仕立てのいいスーツを着て女性たちの前に立ってみたりしたが、60才の年齢は隠しようもない。
若い女の子とのアバンチュールなど非現実的に思えた。
ならばと昔の恋人と再会したりもするが、家に行ってみると、彼女には年下の彼氏がいるようだった。


ジャンニは犬の散歩で毎日見かける光景を思った。
おぼつかない足取りで犬を連れてる老紳士。
なぜか道で立ち止まって、木々の木漏れ日を仰ぎ見る年輩の男。
いつも同じ面子でバールの表のテーブルで、サッカーの話に興じてるオヤジたち。

それらは自分とは無縁の人間と思ってた。
だが今は、その老紳士とベンチで語らい、木漏れ日を仰ぎ見て、バールのテーブルの末席に座ってる。
あくせく働く人生を早めに切り上げ、リタイア後を満喫するつもりだったジャンニに、人より早く、老いへの不安がまとわりつき始めていた。


後半はちょっとビターな展開になってもくるんだが、俺はこういうリタイア後って、男の理想のひとつにも思えたんだよね。
周りの女性たちのために奉仕するように見えるけど、これから老いに向かっていくという時期に、女性たちに囲まれてるような環境に身をおけるのは、恵まれてるといえるし、甲斐性も必要だしね。
この先自分に何かあった時には、きっと逆に、甲斐甲斐しく面倒を見てもらえるだろう。

ジャンニの身の御し方というのは、例えば向田邦子のドラマにおける小林薫や、谷崎の『細雪』の、市川崑監督版における、石坂浩二のポジションを思わせる。

こういう自分の年齢を感じ始めた男の「回春」のドラマというと、イタリア映画にはよく見られるし、直球でスケベな描写が入ったりするもんだが、この映画はそういう生臭いエロには手を触れないで、洒脱さを失わない所がいい。女性にも見やすい仕上がりになってると思う。
ジャンニ・ディ・グレゴリオの人柄によるものなんだろうな。

2012年5月3日

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イタリア映画祭2012『海と大陸』 [イタリア映画祭2012]

『海と大陸』

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エマヌエーレ・クリアーゼという監督の過去の作品はこれまでに「イタリア映画祭」で上映されてるそうだが、俺は初めて見る。88分というタイトな上映時間の中で、語りたいこと、撮りたい画が明確に構築されてる、とてもクレバーな監督という印象を持った。
撮影監督ファビオ・チャンケッティによる、シチリアの離島の、鋭角的な景観を切り取るカメラにも目を奪われる。

リノーザという小さな島が舞台となってて、地図で確認してみると、シチリア島と、北アフリカ・チュニジアとの、ちょうど中間くらいの地中海上にある。ここに描かれる物語は、この地理的要因による所が大きい。


フィリッポはこの島で、母親ジュリエッタと、漁師の祖父エルネストと暮らしている。父親は漁で死んだ。フィリッポは祖父エルネストの船に乗り、漁師を継ごうと思ってるが、20才にしてはどこか幼さが残ってる。
叔父のニーノは自分に預けろと言うが、ジュリエッタは聞かない。夫を亡くしたこともあり、息子のフィリッポが支えになってる。ジュリエッタが「子離れ」できないことが、フィリッポを一人前の男にすることを阻んでるようでもある。

暮らし向きも厳しい。昔のように魚は網にかからない。祖父の船は老朽化して、修繕費が高くつく。
ジュリエッタは決断する。夏の間はこの家を民宿として観光客に貸し出し、閑散とする冬場は、島を出て「出稼ぎ」をしようと。フィリッポにとっても、この島では将来がない。
祖父エルネストには船を降りてほしいと話す。漁船を廃船にすると、イタリア政府から補助金が出るのだ。
祖父も同意せざるを得なかった。冬前には廃業すると言った。


数日後、いつものように、叔父の漁船で海に出たフィリッポ。漁の最中、洋上に難民船のような船が見えた。
その手前には船から海に飛び降りたとおぼしき大勢の人間が、海上を漂っている。近づいた漁船に気づき、必死で泳いで向かってくる。フィリッポは祖父に知らせ、祖父はその姿を確認すると、保安部に連絡を入れた。
イタリアの法律では、難民を目撃しても、救助はせず、警察に通報せよとなってる。難民船は海上警察が抑えるだろう。だが目の前で船に助けを求めてるアフリカ人たちを見殺しにはできない。

祖父は「海で漂流する者を助けるのは漁師の掟だ」と、ためらうことなく、彼らを船に上げる。

船が港に着くやいなや、アフリカ人たちは散り散りに走り去った。離島で行き場もないんだが。
船には身重の女性と、寄り添う息子が残された。祖父とフィリッポは人目を避けながら、彼らを家に入れた。
母屋は観光客の男女3人に貸している。フィリッポと母親は、わきのガレージを生活の場に整えていた。
ジュリエッタは「匿ってるのが知れたら、私たちも罪に問われるのよ!」
と祖父をなじったが、もう女性のお腹の子は今にも生まれそうだった。
ほどなくガレージの中で、お産をした。

観光シーズンの間、漁船をクルーズに使って稼ぐつもりの、祖父とフィリッポだったが、宿泊客の3人を船に乗せる直前、警察官が港にやってくる。港から逃げた難民たちは捕えられ、祖父は幇助したとされ、漁船を差し押さえられてしまう。

漁師たちの抗議の集まりに顔を出した叔父のニーノは
「難民のやつらは、観光で食おうという島のイメージダウンになる」
と祖父の行為を責める。
「イメージなんかのために、人命を見殺しにするのか?」
祖父の漁師の誇りがそれを許さなかったのだ。


出産を終えた難民の女性はサラと言った。彼女の夫はトリノに出稼ぎに出ていて、そのせいもあるのか、片言のイタリア語を話した。感謝の言葉を口にするサラに
「あなたは、休んで、食べて、そして出て行く。いいわね?」
とピシャリと言い放つジュリエッタ。暮らしもきついのに、何でこんなトラブルまで背負いこむのか。

赤ん坊が泣き出す。ジュリエッタはふと抱き上げ、あやすとすぐに泣き止んだ。サラは
「手の匂いを憶えてるのよ。あなたに取り上げてもらったから」

サラはここまで、どういう旅を辿ってきたのか、その過酷な体験を、静かに語った。
憐れみを乞う表情はそこにはなかった。
ジュリエッタは自分と同じ母となった、この難民の女性に、気持ちを通わせるようになっていった。
だがずっとここに置けるわけではない。彼女たちをどうすればいいのか?


フィリッポは、男友達2人と宿泊してるマウラという女の子が好きになった。
ある晩彼女を誘い、港に出ると、フィリッポは係留してるボートを無断で拝借する。マウラに夜の海の美しさを見せようというのだ。
だが沖に出たボートは、大変な事態に巻き込まれることとなる。


イタリアはカソリックの国で、今回の映画祭でも、キリスト教に係わる主題の映画が見られるが、この『海と大陸』においては、教会とか神父とかいうものが出てこない。
生活にあえぐ島の状況や、海を渡って押し寄せる難民の問題に、アジャストできない教会の無力を、この映画は語らないことで、浮かび上がらせているのか。
ジュリエッタも、フィリッポも、祖父のエルネストも、個人の倫理観を拠り所に決断するしかないのだ。

映画はフィリッポたち家族が、難民の母子のために、ある行動を起す過程を描いていくが、ふつうなら、これで胸を熱くさせるようなエンディングを迎えることになるんだが、口の中には苦いものが絡みついたままだ。

マウラを連れてボートで沖へ出た時に、フィリッポは突然の事態に動揺したとはいえ、
「許されざる行い」をしてしまった。
あの場の彼の恐怖を思えば、彼と同じようにしない自信はたしかにない。
あのボートの場面には、イタリアにおける不法難民の問題が、とてもキレイごとで解決つくようなものじゃないことを、胸に突きつけられる。
あんな怖い場面は最近でもないくらいだった。怖くて悲しい。


フィリッポを演じたフィリッポ・プチッロは、このリノーザ島より、さらにアフリカ寄りのランペドゥーザ島で、少年の時に監督にスカウトされたそうだ。ランペドゥーザ島でロケした監督の過去作でも主演をし、監督の新作で成長した姿を見せてる。
トリュフォー監督とジャン・ピエール=レオのような間柄になってくんだろうか。

母親ジュリエッタを演じてるドナテッラ・フィノッキャーロをどこかで見たと思ってたら、3月にコメント入れたオムニバス映画『昼下がり、ローマの恋』の、一番楽しかった第2話の「ストーカー美女」の彼女だった。
この『海と大陸』での彼女は母親というには色っぽすぎる。この映画の時には41才だが、30代前半くらいに見える。
マリサ・トメイを思わすようなフェロモンが溢れてる感じだ。

冒頭、亡き夫の命日に集った親戚たちが帰ったあと、黒い服の彼女が、玄関わきの椅子にヒールを脱いで、気だるそうに腰掛けてる場面があるんだが、母親がこんな色っぽくちゃ、そりゃフィリッポもイカんと思うぞ。乳離れさせてくれないだろ。
ジュリエッタは息子に「彼女はできたの?」なんて聞いてるが、
「私だって、このまま島でくすぶってるのは悲しいわ」などと、けっこう生々しい話をしてるのだ。

こんな未亡人なら島の男たちも放ってはおかないだろう、イタリア人なんだからと思うんだが、そういう描写は割愛されてたね。
それはともかくジュリエッタが、難民の母親を前に、相反する気持ちの狭間で揺れ動く心理を、確かな演技で表現していて、ホントいいよ彼女いろんな意味で。

2012年5月2日


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イタリア映画祭2012『ローマ法王の休日』 [イタリア映画祭2012]

『ローマ法王の休日』

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法王の崩御に伴い、思いもかけず新ローマ法王に選ばれてしまった枢機卿が、その重圧に耐え切れず、民衆へのお披露目を前に、ローマ市内へ逃亡してしまうという、ナンニ・モレッティ監督最新作。


ローマ法王を題材にした映画は過去に何本かある。

1968年の『栄光の座』は、大飢饉で周辺国に侵攻も辞さないという中国に対し、法王の崩御で新たにその座に就いた、ウクライナ人の元大司教が、バチカンが蓄えたすべての財産を、世界の飢餓への寄金として差し出す決定をし、戦争を回避するという、一種の近未来SFだった。
ローマ法王を演じたのはアンソニー・クイン。

1990年の『法王さまご用心!』は、やはり法王が崩御し、バチカン教会の財務係が私腹を肥やすため、都合のいい人間を新法王に立てようと画策するが、手違いから孤児院の司祭が選ばれてしまう。
教会の腐敗を暴こうと奮闘する司祭に、ブルドッグみたいな面相のロビー・コルトレーンが扮するコメディ。

1985年の『法王の旅』は劇場未公開で、ビデオリリースのみ。新法王に選ばれたばかりのレオ司祭が、これも手違いで、バチカン法王庁から閉め出されてしまう。

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彼は身分を隠して庶民の生活を体験しながら旅を続け、貧しい暮らしにあえぐ寒村で、土地の教会の再建に力を尽くす。
『戦場のメリー・クリスマス』など、実直な人柄が滲みでる演技が持ち味のトム・コンティが法王を演じていて、現実離れしてそうな話にも説得力を与えてた。


この『ローマ法王の休日』で、新法王に選ばれる枢機卿メルヴィルを演じるのは、フランスの名優ミシェル・ピコリ。バチカンのシスティーナ礼拝堂に集められた各国の枢機卿たちによる、コンクラーヴェ(根比べと読めるのが可笑しい)という選挙の様子がまず描かれる。
8人に絞られた候補たちに、枢機卿全員が投票していくわけだが、実は法王になりたい人間などいないのだ。投票用紙に名前を書きながら
「主よ、どうか私が選ばれませんように…」と心で手を合わせてる。

メルヴィルは最初の内は1票も読み上げられず、気楽に構えていたが、後半どんどん票が入り、気づいたら新法王に。すでに聖ペドロ広場は、新法王の演説を待つ民衆で溢れ返ってる。
メルヴィルは「無理だあー!」と叫んで、奥の部屋に逃げ去ってしまう。
事務局広報のシュトールは、とりあえず演説の場は引き伸ばし、メルヴィルの気分を楽にさせようと、心理カウンセラーを呼ぶ。だがカウンセラーは大勢の枢機卿が見守る前でカウンセリングなどできないという。
「だいたい聖書にはウツの所見ばかり見られる」と言って顰蹙を買う。

シュトールは、メルヴィルに気分転換を兼ねて、やはりローマで精神分析医として開業してる、心理カウンセラーの妻の下で診てもらうことにする。
護衛を伴ってバチカンの法王庁から、ローマ市内に出たメルヴィル。
精神分析医には身分を偽り「私は役者だ」と言った。
車で待つシュトールのもとに戻ってきたメルヴィルは「保育障害だといわれたよ」と。
そして再びバチカンに戻ろうとした時、メルヴィルはシュトールや護衛たちの隙を見て、その場から逃げ去ってしまう。

「外に連れ出した私の判断が間違いだった」
事務局広報は頭を抱えたが、この事態はバチカンに集まった枢機卿たちもまだ知らない。奥の部屋で塞ぎこんでるという事にしておいた。

心理カウンセラーは何を思ったか、各国から集まってる枢機卿たちに、バレーボールをさせようと、ワールドカップよろしく、国別に分けたりしてる。中庭に土を入れ、コートを突貫で作った。
「法王が部屋から中庭の試合の様子を目にすれば、きっと元気も湧いてくる」
シュトールは新法王に体形が似てる護衛を呼び、部屋にいるようにシルエットを見せるよう指示した。
「元気だよ」とカーテンを振ってみせろと。
枢機卿たちはすっかり乗せられ、バレーボールに興じていく。


メルヴィルはローマの町で、路面電車に乗り、あてどもなく歩き、一人でホテルに部屋を取った。
部屋の外が騒がしくドアを開けてみると、男が喚き立てている。だがその内容はメルヴィルはすぐにわかった。
男はチェーホフの戯曲『かもめ』のセリフを諳んじてたのだ。
メルヴィルは思わず男の後を追い、セリフの先を言った。
「なんで俺のセリフを言う!」男は怒ってたが、やがて外に待っていた病院の車で運ばれて行った。

メルヴィルの妹はチェーホフの『かもめ』を舞台で演じてたのだ。そしてメルヴィル自身も、若い頃には役者を目指していた。精神分析医に「役者だ」と言ったのは、当てずっぽうという訳でもなかった。

「大切なのは名誉でもなければ成功でもなく、また私がかつて夢見ていたようなものでもなくて、ただ一つ、耐え忍ぶ力なのよ。私は信じているからつらいこともないし、自分の使命を思えば人生もこわくないわ。」
「僕には信じるものもなく、何が自分の使命なのかもわからずにいるんだ。」

『かもめ』の登場人物たちのセリフは、今のメルヴィルの心情に痛いほど響いてきた。
どうしても聖ペドロ広場の前の、あのバルコニーに立つ決心がつかない。メルヴィルは事務局広報のシュトールに電話をかけた。


思えばナンニ・モレッティの日本での最初の劇場公開作で、1985年作『ジュリオの当惑』では、主人公は離島からローマ郊外の教会に赴任した若い神父だった。
キリスト教徒の信仰の最前線にいる、町の教会の神父から、ついに世界数億の信者の敬愛を一身に集める法王を描くに至ったわけだ。

この映画の結末のつけ方はちょっと衝撃的と言っていいもので、「もう、どうすりゃいいんだよ…」と途方に暮れるような、現在のイタリア社会を映してるといえるのかもしれない。


俺も以前から、ローマ法王はどんな人がなれるもんなのか、興味はあった。
「法王になるべく生まれるわけではなく、法王に選ばれるのだ」ということだろうが、やはり日本でいう「徳を積む」ということをしてきた人が、教会の世界で名を高めていって、この映画のような8人の候補の一人となるのか。
政治的な手腕も必要な気もするが、どうなんだ?
主人公のメルヴィルにしても、8人の候補に上がってるということは、法王なんて想像もしえなかった、ということでもないんじゃないか?
それとも辞退するということは可能なのか?実際そういう人が過去にいたんだろうか?
そのへんの裏話を知ってると、なお面白く見れるのかも知れないな。

ミシェル・ピコリが、ずっと信仰の世界に生きてきたがゆえのナイーヴさというか、ちょっとダダをこねてるように見える壮年の男を演じて、さすがにうまいとは思う。
モレッティも心理カウンセラー役で出てるが、彼の映画は彼が主役で、私小説的に展開されるものの方が俺の好みなんで、今回はその面白さは味わえなかった。

バレーボールのくだりに時間を結構割いていて、もう少しローマ市内に出た新法王が、市民にバチカンがどう思われてるか、とかいろんな体験を通して、自らの決断に繋げて行く展開が見たかった。
まあそっちの展開はモレッティ的には「ありきたり」ってことになるんだろうが。

2012年5月1日

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イタリア映画祭2012『天空のからだ』 [イタリア映画祭2012]

『天空のからだ』

今年初めて通うことになるこの映画祭。もう12回目になるそうだ。過去の公式カタログも売られていて、それと共に、今まで映画祭で上映された作品のDVDも販売されていた。
俺はついこの間コメント入れたが、DVDレンタルで見た『輝ける青春』が素晴らしかったんで、ネットで探したんだが、どのサイトでも取り扱ってない。メーカーで製造終了となってるらしい。それがこの会場では売られてたんで、その場で購入。初日から幸先いいぞ。

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1本目となるこの『天空のからだ』の舞台は、南イタリアのレッジョ・カラビリアという町。
主人公は13才の少女マルタ。彼女は母親と姉とともに、10年暮らしたスイスから、この母親の故郷に戻ってきた。多分母親が離婚したんだろう。寒々とした灰色の風景が広がる町。
そこはカソリックの信仰が色濃い土地で、学校の授業も、キリスト教の教義を学ぶことばかりだ。

教会の宣教助手でもある、独身の女性教師サンタは、授業をクイズ形式にしたり、神を称える詞をポップソング風にして生徒たちに歌わせたり、飽きさせない努力は払ってるが、シャレの通じない頑迷さは、マルタを閉口させる。信仰を押し付けるような校風になじめず、友達もできない。

夜勤のために眠らなければならない母親に、つい甘えたくなる。
だが姉には「母親を疲れさせるな」と怒鳴られる。姉はなにかにつけマルタにきつくあたる。
まだ胸も膨らんでないのに、自分のブラを勝手に使うなと。姉も父親と別れ、環境が変えられてしまった苛立ちを、ぶつける先がなく、マルタに向かってしまうのだろう。

マルタは部屋を出て、屋上でひとりで過ごす。先に海を臨む町が一望できるが、いつ眺めていても目に入るのが、学校にも通わず、何かを拾い集めてる少年たちだ。マルタはしばしその姿を追って過ごす。

マリオ神父が、マルタたち家族の住まいを世話してくれたようで、月の家賃を徴収に訪れる。マリオ神父はそこで、近々選挙があり、特定の候補者に票を投じてほしいと、マルタの母親に話す。マリオ神父がアパート各階を回り、投票を呼びかける様子を、階段の上からマルタは見ている。

マリオ神父はこの地を離れ、いわゆる宗教の世界でいう「出世」を目指していた。神父が去るかもしれないことを嗅ぎつけた、宣教助手のサンタにはショックだ。彼女は神父のことが、神父としてではなく、好きなようだった。


教会での授業の時に、マルタは倉庫で何匹もの子猫を見つける。まだ目も開いてない。それはすぐに教師のサンタに見つかり、用務員の男がビニールに入れて、バイクで運び去る。
マルタは学校を抜け出して、走って後を追う。用務員の男は用水路の橋の上で、一度ビニールを地面に叩きつけた後、それを投げ捨てた。
マルタは用水路に下りていくが、道路の下の暗いトンネルで、誰かに声をかけられ、怖くなって立ち去った。

とぼとぼと道端を歩く姿を、車からマリオ神父が見かける。マルタを車に乗せ、授業をサボったことを叱責するが「丁度いいから手伝ってもらおう」と、車を山の方角へと走らせる。
町ではマルタたちが受ける「堅信式」が近づいていた。最近教会への、住民の集まりが芳しくないと感じていたマリオ神父は、キリストの磔の像を掲げれば、信者がより多く教会に通うだろうと、自分の故郷の教会にその像を取りに行くところだった。故郷の村はすでに廃村となってるらしい。

途中で昼飯に立ち寄った食堂で、マルタは「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」の意味を神父に尋ねた。マルタにはその暗号のような言葉の響きが気に入ってたようだ。だが神父は答えなかった。

マルタは急にお腹の下あたりに違和感を覚え、トイレに駆け込んだ。食堂の女性店員はそれを察して、
「初めてなのね?怖いかもしれないけど、素敵なことなのよ」
とドアの向こうから話しかけ、「これを使いなさい」とマルタに手渡す。
マルタはどう使えばいいのか、手にしてしばらく眺めていた。


神父とマルタの車は、険しい山道を登って行く。山に張り付くように民家が立ち並ぶ村に人影はない。
寂れた教会に入り、マリオ神父が磔の像を持ち去ろうとすると、男が掴みかかった。髪も伸び、ヒゲも手入れしてないような、その男の襟元には白いカラーが見えた。
男はマリオ神父に「お前だったか」と呟いた。

マリオ神父が場を離れた間、マルタは男から「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」は、神への怒りの言葉なのだと教えられる。イエスの「神よ、私を見捨てるのですか?」と問いかけた、その言葉が、マルタの心にはストンと落ちたような気がした。

磔の像を車の屋根に括り、高い海岸線を走ってる時、マルタは「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」の言葉の意味をマリオ神父に問いかける。その言葉に我を忘れたのか、一瞬ハンドルを切りそこね、車が横揺れした拍子に、磔の像は屋根からはずれ、はるか下の海に落ちた。


マルタを演じるのはイーレ・ヴィアネッロという少女。この映画で監督に見出されたようだ。いかにも可愛いという子ではない。だが「世界のすべてに違和感があってムカつく」という、この年頃の女の子が持つ、不安定さを体現してる。ごく薄い皮膜で覆われてるような心を扱いかねてる感じ。

その姿は、それゆえに美しく輝いている。
『ユリイカ』から『害虫』あたりの宮崎あおいがまとってた空気と同じものだ。


マルタが堅信式をやはり抜け出して、「友達の姉さんから借りた物だから、絶対に汚さないでよね!」と姉から借りた堅信式用の白いドレスを着たまま、あの子猫たちが捨てられた用水路を再び訪れる。
道路の下の暗いトンネル。マルタは水の中に入っていく。両手を広げながら。
膝までつかり、腰までつかり、水かさは胸の近くまで来てる。
マルタは教会などではなく、自分自身でもう一度「洗礼」を行ったのだろう。

用水路を抜けると海岸に出た。いつも物を拾い集めてた少年たちは、海岸に家を建ててたのだ。
マルタは声をかけられ、振り向くと少年がトカゲの尻尾を持ってた。
「まだ生きてるんだ。奇蹟だろ?」
その尻尾を手のひらにのせ、マルタは微笑んでた。


イタリア映画には海がよく出てくる。ラストの風景とかにも。この映画の海岸の場面は、フェリーニの『甘い生活』のラストを思わせる。夜通しバカ騒ぎを繰り返したマストロヤンニが、明け方の海岸で、視線の先に白いドレスの少女を見つける、あの場面だ。
出世や見栄えのことに気をとられてるマリオ神父、生徒に神の慈しみを説きながら、子猫の命には一瞥もくれない女性教師サンタ。その欺瞞を見つめるマルタの視線は、『甘い生活』の海岸の少女に重なるようだ。


アリーチェ・ロルバケルという女性監督が、似たような自分の体験を基に映画にしていて、女性ならではのヒリヒリするような感覚がある。
マルタが姉の誕生日に手製のケーキを焼いて、叔父の家族たちとの食事の場に並べるんだが、お世辞にもうまく焼けてるようには見えない。
姉も手をつけないし、誰も手をつけない。マルタの母親が思いあまって
「じゃあ、食べてみようかな」と手を伸ばす。
口に頬張って「とっても美味しいわよ」
マルタはその言葉に笑顔になるが、どこかバツの悪いというか、淋しげな笑顔だ。
イタリア人の気質で「まずそうなモンは食わない」ってことなんだろうが、食べてやれあの場面では、と日本人の俺は思う。

それからマルタが風呂場で、姉のブラを拝借してつける場面で、裸の胸が映される。
1993年の『かぼちゃ大王』というイタリア映画にこれと同じ場面があった。主人公も同じ13才の少女という設定。
2年後に岩波ホールで公開され、俺もその時見てるんだが、この映画はビデオリリース時には『私が愛した少女』というロリコン物みたいな題名に変えられてた。
小児精神科医の若い医者と、患者の少女の交流を描いたシリアスな内容で、この題名は噴飯ものと思ったが、その後DVD化はされてない。
少女の胸が映る場面がコードにかかるらしい。
それでいくと、この『天空のからだ』も一般公開は難しいかも。

しかしどちらの映画も監督は女性なのだ。その場面も日常のひとつの動作として撮ってるにすぎない。
この『天空のからだ』には性的な描写は一切ないし。
その場面を見て性的刺激を受ける人間もいるだろう。だがそれを言ったら、どんな描写でも、たとえば少女の首筋を映しただけの場面にでも、劣情を催す人間もいるだろうし、きりがないぞ。
それを指摘されることを恐れて、作品を封印してしまうとか、描写を控えてしまうとか、表現を自ら狭めてしまうことはバカバカしいことだ。

マルタが劇中で自ら長い髪をバッサリ切った後、彼女の表情が前より強くなる。そのあたりの少女の変化なども、鋭く捉えられていて、今現在は配給会社も決まってないようだが、一般公開が実現するといい。

2012年4月30日

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肝心な所を描いてないマイケル・マンの娘の監督作 [映画カ行]

『キリング・フィールズ 失踪地帯』

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ヒューマントラストシネマ渋谷で継続中の「未体験ゾーンの映画たち2012」の上映作で、俺としては 『タッカーとデイル 史上最悪にツイてないヤツら』に次ぐ2本目。
監督はマイケル・マンの娘で、父親が製作を買って出てるのは、先日コメントした『汚れなき情事』と同じパターン。
まず画面が暗い。夜の場面が多いからだ。父親のマイケル・マンも夜の場面を好んで撮ってるが、父親の映画の場合はほとんど都会が舞台なので、夜といっても様々な灯りが映るし、それが画面に色気を与えもする。
だがこの映画はテキサスの田舎が舞台なんで、夜の灯り自体が乏しく、ただ暗い画面が続くだけだ。
そこですでにかったるくなってくる。


3人の刑事が登場する。サム・ワーシントン演じるマイクはテキサスシティの殺人課刑事。父親も同じ職にあった。コンビを組むのは彼より年上で、ニューヨーク市警から転属されたブライアン。
ジェフリー・ディーン・モーガンという役者は知らなかったが、TVドラマ『グレイズ・アナトミー』で脚光浴びた人だそう。ヒゲをたくわえたハビエル・バルデムのような印象。
もう一人同僚の女性刑事パムを演じるのが、もう今年3本目の公開作となるジェシカ・チャスティン。
マイクとパムは離婚した間柄で、職務上もなにかにつけ、反目しあってる。

マイクと相棒のブライアンは、売春をしていた少女が殺害され、無残な遺体となって発見されたとの報を受け、捜査を始める。その過程で母親が男を連れこんで売春をしてる家に聞き込みに入る。
その家の娘アンを演じてるのが、クロエ・グレース・モレッツだ。彼女はいかにも怪しそうな風貌の兄と、その家に入り浸る兄の友達と同居していた。
同じ頃パムは別の少女の失踪事件を追っていて、マイクたちに救援を頼むが、マイクは忙しいと断る。
その少女はテキサスシティから少し離れた湿地帯で遺体となって発見される。

連続殺人事件として、容疑者の目星をつけたマイクは、地元のポン引きの黒人男と、マスタングに乗り、道行く少女に声をかけてるという白人の男を追う。
だがニューヨーク市警から来たブライアンは、このテキサスの湿地帯で、何十年にも渡って女性被害者の死体が上がり続けてることにショックを受ける。マイクと捜査を行ってる殺人事件は管轄内で起きたものだが、湿地帯で発見された死体は、彼らの管轄外だ。
だがブライアンは、地元で「キリング・フィールズ」と呼ばれる、湿地帯で死体で発見された被害者の女性たちのことが、頭から離れなくなってしまう。

ブライアンは聞き込みで訪れた家の娘アンのことを気にかけていた。思春期の少女が暮らすには、あの家は過酷すぎる。ブライアンは非番の日にアンに声をかけ、自分の家へ。妻や子供との食事の場に招き、アンに家族の温もりを味わってもらおうと。
だがそのアンも失踪してしまう。ブライアンは単独でアンの行方を追い、あてどもなく広大な「キリング・フィールズ」の中へと分け入っていく。


この脚本も問題だな。どこに焦点を合わせたいのか、まずわからない。
マイクとブライアン、同僚のパムが一丸となって連続殺人事件を追うという展開にならない。
ブライアンは悩み始めちゃうし、マイクとパムは夫婦喧嘩の延長戦みたいなことを繰り返してるし。
夫婦のいざこざほど、どーでもいいことはないんだよ。
テレビでせっかく盛り上がる場面なのに、「どこそこ県知事当選しました」の速報テロップ、
あれくらいどーでもいいのよ。

ほんと「キリング・フィールズ」はどうなっとるのかと。


映画は実話ではないが、実際に1960年代以降、このテキサスの湿地帯では断続的に、殺害されてとおぼしき死体が上がり続けてるという。
犯人は単独でも一世代でもなく、綿綿とそこに死体を捨てる、あるいはその場所で殺害に及ぶという行為が繰り返されてきてる場所ということだ。

見る側の興味としては、それがどんな場所なのか、それが俯瞰できるような描写がまず欲しい。
「ああ、ここなら死体も捨てたくなるだろうなあ」という絶望感が感じられるような。
そこで犯人がどんなプロセスで、殺害に及び、また遺体を捨てに来るのか、そこが描かれてないと、「キリング・フィールズ」という地帯のおぞましさが感じとれない。
死体が上がった後の描写しかないのだ。

主演はサム・ワーシントンだから、マイクが話の中心にいるのかと思うと、相棒の中年刑事ブライアンの人物描写に重きが置かれてくるし。正直女性刑事パムはいらんし。
なんか見てるこっちが映画の方向を見定められなくて、失踪した気分になってしまうのだ。

「犯人は近くにいたんだね」という結末にしても、ミスリードしてるつもりの描写がたっぷりあるんだが、単に無駄な感じに思えてしまう。
父親のマイケル・マンは娘の演出にアドバイス送ったりしただろうが、まず脚本の不備に意見すべきだったんじゃないか?


アミ・カナーン・マン監督は女優の撮り方が、父親と似てるかなと思った。
女優が笑顔をほとんど見せないのは、父親の映画の女性像を思わせる。
アンの母親をシェリル・リーが演じてるんだが、「美人が荒むとこうなる」という表情で、
あの「世界一美しい死体」と呼ばれた『ツイン・ピークス』から隔世の感だ。
クロエもジェシカ・チャスティンもほぼ笑わない。
ブライアンの妻を演じてるのが、若い頃『ミスティック・ピザ』でジュリア・ロバーツと主演を分け合ってたアナベス・ギッシュだが、彼女も昔の柔らかい表情ではない。

この映画に出てくる女性たちは、一様に表情が暗いのだ。
そのことは映画を見てて一番印象に残るところだ。
サム・ワーシントンは可も無く不可も無くな感じだが、ラストカットの表情はよかった。

2012年4月29日

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バトルシップと基地のこと② [映画タ行]

『誰も知らない基地のこと』

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インタビューの中の言葉にあったが
「アメリカは世界中に自国の軍隊を派遣し、基地を作ってるが、アメリカ国内に他国の軍の基地などない」と。
アメリカ人に「なんでアメリカ国内には他国の軍隊の基地がないのか?」と訊ねれば、
たちどころに「そりゃ、必要ないからだろ」と答えるだろう。
ではそう答えた相手に
「ならば、自国で軍隊を持ってる国に、アメリカ軍がわざわざ行って、基地を作るのはどうしてだ?」
と訊いたら、どう答えるのだろう。
「そりゃ、必要だからだろ」
「なんのために必要なんだ?」
「その国だけでなく、周辺地域に睨みをきかすためだろ?」
「へんな気起して、紛争につながるのを抑えるためだ」
「アメリカは世界の警察だからな」
その言葉の裏には「自分の国を守りきれる軍隊など、アメリカ軍の他にはない」という認識があるはずだ。
基本的に、その国だけでは守れない所を、アメリカが手助けして守ってやると言ってるんだから、文句言われる筋合いはない、という考え方か。


アメリカ国内にはもちろん自国の軍隊の基地は数多くある。基地問題が国内的に全くないわけではないだろう。
基地の問題の一つが「騒音」だが、アメリカは国土が広いし、民家の密集するような場所の上空を、軍用機が離発着することはない。アメリカ人をツアーで沖縄の普天間基地に連れて行ったら、びっくりするんじゃないか?
あんな状態で軍用機に頭の上をブンブン飛ばれたら、即訴訟を起すだろうな。

俺も友達が座間に住んでたから、何度か遊びに行ったことがあるが、あの音は半端ないよな。
戦闘機や輸送機もだが、意外にきついのが軍用ヘリのホバリング音。高度が低いと、その重低音で家の壁からなにからビリビリ振動するからな。
アメリカ人に限らず、日本人も沖縄行ったら「美ら海水族館」ばかりじゃなく、普天間のホテルや民宿に泊まるツアーを企画してみればいい。
「騒音」という字で表現されてるが、「騒音」なんて生易しいもんじゃないよアレは。


もう一つ深刻なのは「人種偏見」だ。映画のパンフの中に、世界地図が書かれており、アメリカ軍がどの国に、どの位の規模で駐留してるか、わかり易く見れるようになってるが、駐留兵士の人数で上位5つの国が
「イラン」「アフガニスタン」「ドイツ」「日本」「韓国」だ。
つまりアメリカが戦争し、または戦争に介入して、勝利を収めた国が、その他の国の人数より一桁多くなっている。ちなみに敗戦を喫した「ベトナム」にはアメリカ軍の駐留基地はない。

その中でドイツは同じ「白人国家」だから、周辺住民への偏見もほとんどないだろうが、その他の国は「白人国家」ではない。
マイケル・ムーア監督の『華氏911』で、アメリカ軍が、プアホワイト層の高校生たちをリクルートに来る場面が撮影されてたが、普天間に展開する海兵隊は特に、士官以外の、一般兵力となる人材には、白人でも貧しい暮らしを送る若者や、黒人やヒスパニック系の若者が多い。
彼らは本国では差別や蔑視を受ける立場にいた者だ。
彼らは駐留先の国の人間は、自分たちよりさらに下の「階層」と見ている。
沖縄の基地だけでなく、韓国やイランなどでも、周辺住民に対する暴行や強姦事件は、無くなることがない。
それは他所の国の人間に敬意を払うという意識が、彼らの中にないからだ。

また軍隊という所は「上官」以外に敬意を払うような教育は施さない所だ。どんな相手にでも敬意を払っていては、人を殺す気構えなどできないだろう。
兵士は人を殺すために訓練を受けるのだから。


このドキュメンタリーとは別の、在日米軍基地に取材した番組で見たことがあるが、基地に配属された兵士たちは、ほとんど日常を基地の中で過ごすという。娯楽を含め、生活に必要なものはすべてひと揃えある、「ひとつの町」が出来てるからだと。
休日に飲んで騒ぎたい時に、周辺の町の歓楽街に繰り出す程度で、ほとんど地域住民との係わりも薄い。たまに軍主催で住民との交流イベントをやる程度という。
若い兵士たちは、長く駐留するわけではなく、基本的にその土地、その国への関心が生まれない。
日本語もほとんど覚えないという。
「敬意を持たない」ことと「関心を持たない」ことが、地域住民への振る舞いの源となってると思う。

この映画の中で「なぜアメリカは他国に基地を作り続けるのか?」という疑問に、
「それが利益を生むからだ」という答えを提示してる。
映画の原題は『スタンディング・アーミー』といい、意味は有事・平時に係わらず、常に駐留している軍隊のこと。
基地を作れば、兵器・兵員をはじめ、莫大なコストがかる。ということは兵器を製造する側に立てば、それだけ兵器が売れるわけだから、莫大な利益にもなる。

他国に基地を作るには理由がなければならない。だから戦争という「有事」が起こることは好都合だ。
基地の規模自体も拡大できる。しかしそういつも戦争が起きるわけじゃないし、あからさまに戦争の大儀をひねり出すのも限界がある。
なので「戦争が起こるかもしれない」という恐怖を植えつける。
「あの国が核ミサイルを打ちこんで来るかもしれない」
というような、根拠もない不安を煽って、駐留基地の重要性をアピールする。
「基地を残すことが戦争の究極の目的だ」とインタビューに答える学者もいる。


日本からアメリカ軍に出て行ってもらうことは可能だろうか?
仮にそれが実現できたとすれば、それは自衛隊が「国を守る軍隊」と位置づけが変えられる時だろう。
だがそれには国内より、周辺国がナーバスになることは目に見えてる。

日本は日本人が考える以上に、「無茶なことやりかねない国」と思われてるからだ。
この(たかだか)百年の間に、現在超大国といわれる「アメリカ」「ロシア」「中国」の3つの国と戦争した、世界で唯一の国なのだ。しかも比べようもない位の小さな国土にも係わらず。

公共マナーに関して、日本を訪れる外国人からも、日本人を受け入れる諸外国の人からも、日本人は最高にマナーがいいと思われてる。それは道徳的な面ではあるが、ひとつの通念が国民に行き届いてるということだ。
裏を返せば、あるきっかけで、国民がすべて同じ方向に突き進む危険性を孕んでると、捉えられてるという事でもある。
もちろん日本が起した戦争は、軍人の暴走を止められなかった所にはあるが、
「日本人はいざとなったら、とことん戦う民族だ」という恐れに似た感情は、日本を知る他国の人々の中に、消えずにあるだろう。

俺個人は「自衛隊は国を守る軍隊であるべき」という立場だ。それは先の大震災において示された、救助・復興を担う力を含む意味でだ。国が自国の軍隊を持つことは特異なことでも何でもない。
自衛隊は軍隊ではないという事になってるが、軍隊としての機能は持ってるじゃないか、そもそも。
俺は「自衛隊」というのはいい名前だと思うんだよ。
「自らの国を守る(ためだけに力を行使する)兵力」という意味だろう。それは他国を攻撃・侵略したり、他所の国の揉め事に介入しないという事だ。
アメリカがもし今後イランと一戦交えようなんて状態になっても、サポートは一切行わない。それは政治家がきっぱり告げればいい。
だが周辺国に、「日本の軍隊の残像」を払拭させることは、容易なことではなく、どういった努力が必要なのかは、これから先も、常に議論されなければならない。

いくぶんシリアスに考えてしまったんだが、このドキュメンタリーを見たからといって、『バトルシップ』の面白さにケチがつくということでもない。あれはあれだ。

しかしアメリカ人自身も、もうちょっと他国に自分たちの基地があって、いろんな問題が起きてることに、関心持ってくれよとは思う。またこの作品とは真逆の視点で「アメリカ軍の駐留基地の意義深さ」を語るようなドキュメンタリーも、もしあるなら見てみたい。

2012年4月28日

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バトルシップと基地のこと① [映画ハ行]

『バトルシップ』

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このコメント題にしたのは、海軍イケイケの戦争アクション『バトルシップ』と、偶然にも同じ時期に公開されてるドキュメンタリーがあるからだ。
『誰も知らない基地のこと』という題名で、渋谷のイメージフォーラムで上映中だ。
イタリアのドキュメンタリー作家が、なぜ米軍は世界40カ国以上に、計700箇所を超える駐留基地を展開してるのか?という疑問の答えを求めて、ピチェンツァ(イタリア)、ディエゴ・ガルシア(インド洋上の珊瑚礁の島)そして普天間(沖縄)に取材してる。
わざわざこの2作をセットでコメントしようというのは、ある種の予防線を張るということでもある。

俺は『バトルシップ』にすっかり興奮させられてしまって、もう2度見てしまったのだ。
最初は「ユナイテッドシネマズ豊洲」の最大キャパである「オーシャンスクリーン」で、初日に見た。海上の戦いを「オーシャンスクリーン」と名のつく劇場で見るのも洒落てると思った。
駆逐艦がこれだけ満身創痍で戦う映画も初めてのことで、熱気冷めやらず、次に「ワーナーマイカルシネマズ港北」の最大キャパの「ウルティラ」で再び堪能。もう一度見るとすれば「新宿ミラノ座」だな。

映画はアメリカ海軍が全面協力してるわけだし、米軍のPR映画の性格もある。海上での戦いを、陸から援護するような存在となる、義足の黒人退役兵が出てくるが、アメリカでは、戦争で手や足を失った元兵士のための、義手や義足の開発も非常に進んでる。脳から指令を送るだけで、指が動かせるような物まである。そういう側面のPRもなされてるわけだ。

まんまとPR映画に乗せられてしまったとも言え、そのままではいい大人としてバランスを欠くだろうと、勝手に配慮して、米軍のネガティブな部分も押さえてますよ、ってことなのだ。誰に対して配慮してるんだって話だが。


太平洋のハワイ沖で行われる、「リムパック(太平洋海軍合同演習)」の最中に飛来した、エイリアンの戦艦が、ハワイ真珠湾基地を含む一帯にバリアを張ったため、米軍2隻、自衛隊1隻の駆逐艦が、その中に取り残されてしまう。バリアの外側とは通信もできない。
しょーがないから俺たちだけで戦うぞという展開。
エイリアンの戦艦には装備で劣り、しかも海中を移動して、レーダーにも補足されない。ただ向こうも、なぜか相手に戦意があると分かるまで攻撃はしてこないという、紳士的な一面を持ってる。

ならばと、浅野忠信演じる、海上自衛隊駆逐艦「みょうこう」の艦長ナガタはひらめいた。
「津波ブイを計測するんだ」と。
津波を計測するために、ハワイ沖には無数のブイが設置されてる。潮位の変化を見ることで、津波を予測するためだ。
エイリアンの戦艦が海中を移動するとすれば、通過する地点のブイに潮位の変化が出る。バリア内だから、データも拾える。
ブイをディスプレイにマス目状に表示させ、潮位から敵戦艦の動きを予測して、ミサイルを発射する。

この時すでに「みょうこう」は撃沈されていて、ナガタはテイラー・キッチュ演じる、アレックスが指揮を執る、米海軍駆逐艦「JPJ」の司令室にいるんだが、アレックスはその作戦を認め、ナガタに艦長の椅子を譲るのだ。
その予測通り、エイリアンの戦艦の位置が赤く示され、ナガタはミサイル発射命令のタイミングを測る。
この場面の浅野忠信の緊張感に満ち溢れた表情がいい。
ハリウッドの役者たちに囲まれ、まったく遜色なかった。


「津波ブイ」をレーダーに見立てる作戦が、この映画の肝になってるのは、映画を製作してる玩具メーカー「ハスブロ」社の、対戦型ボードゲームを元にしてるから。アメリカ本国ではそのオリジンとなった紙のゲームは1931年に考案されてるそうだ。
対戦型ボードゲームとして日本に入って来たのは1967年。タカラが「レーダー作戦ゲーム」として売り出した。

レーダー作戦ゲーム.jpg

今のノートパソコンのように、蓋面と床面を使う赤と青のボードがセットになってて、2人で向かい合わせに座って対戦する。ボードを背中合わせに置いて、相手から見えないようにする。
蓋面がディスプレイ面、床面はキーボード面というのはパソコンと同じ。
その両面は透明プラスチックが張られていて、たしか10×10位のマス目が区切られてた。
マス目の座標部分は丸くくり貫かれている。
床面のマス目に開けられた穴に、戦艦や空母や駆逐艦などのミニチュアを無作為に差し込んでいく。
これが自陣の隊列のようなことだ。
ディスプレイ面の穴にはピンを刺すようになってる。

どう配置してるかわからない相手の隊列を予想しながら、「ビンゴゲーム」の要領でタテにABC、ヨコに数字が振り当てられた座標を、相手に申告して、ピンを刺してく。
その位置に船が置かれてたら、相手は「命中!」と答えなければいけない。
相手の船を先に全部沈めた方が勝ちというゲームだ。


俺もガキの頃買ってもらい、近所の子とよく遊んでた。
あの「レーダー作戦ゲーム」を、こんなスケールのデカい映画にしてしまったというのがたまらん。
あのゲームをやってる最中は頭ん中では、戦艦同士で撃ち合ってる場面が浮かんでたんだからね。

特に感激したのは、エイリアンの戦艦から放たれたデカい砲弾が、まず船体に突き刺さるように着弾する所。それから起動して爆発するんだが、「レーダー作戦ゲーム」でボードの上部にピンを突き立てて着弾とする、あれをわざわざ再現してるんだから。いや細かいのよ、こだわりが。


駆逐艦は英語では「デストロイヤー」と言うんだそうで、じゃあ何で「バトルシップ」という題名なのかという謎は終盤に解ける。
「それでかあ!」とここでテンション上がんなかったら、もう帰った方がいいと言う位なもんだ。
こっからは海の『スペース・カウボーイ』だもの。

エイリアンが飛来する時点でツッコむのも野暮な話なんだが、前提がまずね。
NASAが行った「ビーコン・プロジェクト」という、地球に似た条件の惑星へ信号を送って、反応を待つのが発端になってるが、そこは『スピーシーズ』と同じだ。
その信号を受けて「先遣隊」が来ちゃうわけだが、他の惑星に来れるような文明を持ってるなら、信号受ける前に、向こうから探して来てるんじゃないか?
それこそ『AVP』みたいに「マヤ文明はプレデターが作った」というように。
「どうぞお入りください」と招かれないと、家に入れない吸血鬼設定でもないだろう。

それよりこれだけ熱くなってしまうのは、この映画が「鉄最強!」で貫かれてるからだな。
こっちの海軍の武器がミサイル含めて「鉄」で出来てのは当然として、地球よりかなり高度な文明持ってるはずのエイリアン側も、ほとんど装備とか「鉄」だよね。「鉄」じゃなくてもいいと思うんだが。
カッキンカッキン、チャリンチャリン、ドッコンドッコン、ガシャコンガシャコンと、もう全編に渡って「鉄」の音が響いてるような映画なのだ。
映像もさることながら、「鉄」の音に身を浸す快感があるんだね。

男はどうも鉄とかメタリックなものに惹かれてしまう。女が宝石が好きなのと一緒だと思う。宝石をなぜ好きなのかとか、一々考えないよね。ただ美しい、キラキラしてる、まあ希少価値っていうのもあるけど。
男もなぜ鉄に惹かれるのか?一つには、「鉄」には大人の男の持ち物という感覚がある。
鉄でできてる物を、乗り物であれ、道具であれ、それを操れたり、身につけたりできるようになるのが、大人になるこという漠然とした憧れが、幼い頃から、心の中に備わってるんじゃないかと思うのだ。

テイラー・キッチュは、短絡的だがやる時はやるという、いかにもアメリカ映画のヒーロー像を体現してるが、彼はカナダ人なんだよね。
兄のストーンを演じるアレクサンダー・スカルスガルドは、『メランコリア』の時は線の細い印象だったが、海軍中佐を凛々しく演じてて、テイラー・キッチュより、女性の人気は高まるんじゃないか?
アレックスの部下の下士官を気合たっぷりに演じてたのはリアーナ。彼女の健闘はかなり大きいと思った。
面白いのは、海上の戦いの中心にいるのが、カナダ人、日本人、スウェーデン人、黒人女性と、アメリカの白人俳優が入ってないこと。
ハリウッドの娯楽映画も、少しづつ革新を遂げてきてるのか。

2012年4月27日

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死亡フラグが読めないワニワニパニック [映画マ行]

『マンイーター』

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TOHOシネマズ日劇の「秘宝系レイトシリーズ」とでも呼ぶべきプログラムが定着してるようで、俺もこれまで『ピラニア3D』『ドライブ・アングリー3D』『トロール・ハンター』と見てきた。この『マンイーター』もその番線の新作だが、ららぽ横浜でも上映されてたので、そっちで見た。淋しい入りだったが。

ひと言で表せば「巨大ワニ・パニック映画」だ。この手の物なら3Dでやりそうなもんだが、実はこの映画2007年作なのだ。「なんでいまさら?」と思うが、これはオーストラリア映画で、当時はまだ無名だったオーストラリア出身のサム・ワーシントンとミア・ワシコウスカが出ていて、「キャストがそこそこ売りになる」と配給会社も読んだんだろう。

今じゃハリウッドのスターとなった二人が、無名時代に出たパニック映画を、今見るというのがポイントになってる。つまり無名の彼らだから、映画の中で生き残るとは限らないわけだ。誰が犠牲になって、誰が生き残るのか、予想つきにくい。

もう一つの重要なポイントは、ワニが棲息する川を行く、「リバー・クルーズ」の観光船の舵を取るのがラダ・ミッチェルであること。
どんな乗り物であれ、彼女に操縦させたり、運転させたりしたら、ロクなことにならないよという、法則が発動されるのだ。

2000年のSF『ピッチ・ブラック』では、一般乗客と共に、囚人も護送する宇宙船を彼女が操縦してるが、アクシデントにより未知の惑星に不時着。闇の中から襲いくる謎のモンスターに乗客たちが次々と餌食になっていった。
この映画の前年2006年の『サイレント・ヒル』では、幼い娘のうわ言の謎を探ろうと、亭主が止めるのも聞かずに、車に娘を乗せて、ゴーストタウンに迷い込み、二度と戻れなくなってしまう。
『ピッチ・ブラック』の結末を知っていれば、この映画で主役級であるラダ・ミッチェルとて、生き残れるのかということには懐疑的になるだろう。

もう一人メインを張るのが、ドラマ『エイリアス』で、ヒロインにとって頼りになるんだか、ならないんだか微妙な立場にあった優男を演じてたマイケル・ヴァルタンなので、これも不安だよねえ。
その他のクルーズ客に関しちゃあ、全員に死亡フラグが立ってるようなもんだから、さあどうなるどうなる?という感じだ。


映画はアメリカ人の旅行ライターのピートが、オーストラリアのノーザン・テリトリーと呼ばれる地域にある、「カカドゥ国立公園」という、巨大な岩山とジャングルが並立する、目を奪われるような景観を楽しめる「リバー・クルーズ」の体験取材を書きにやってくる所から始まる。

小型の観光船の舵を取るのは、女性ガイドのケイトだ。10人前後の乗客を乗せ、船は巨大な岩山の裂け目を流れる川を上り、折り返してくるコース。イリエワニの餌付けの様子を見る乗客は、この川にはワニが棲息してることを実感する。小型船から手を伸ばすと水面に触れられる、その「高さ」にもスリルを感じる。
ケイトに気がある地元の若者ニールが、モーターボートでからかいに来るが、軽くいなして、折り返し地点へ。

だがビデオカメラを覗いてた乗客の一人が「救難信号のようなものが見えた」と。たしかに上流の方に、空に何か打ち上がるのが見える。
クルーズの途中だったが、ケイトは「救難信号を見たら現場へ向かう」というルールを、乗客に説明し、理解を求める。定期的に薬を飲まなくてはならない年輩の女性は、不安を見せるが、1時間くらいで往復できるとケイトに言われ納得する。
船は速度を落としながら、現場に近づく。前方に小島のような中州が見えたが、水面に何か浮いている。
確認しようとした時、突然船は水底から突き上げられるような衝撃を受け、たちまち船床が浸水する。
ケイトは舵を切り、中洲へと船を突っ込ませた。乗客全員を降ろすと、船は沈没してしまった。


無線も水につかり、使い物にならない。ケータイの電波も届かない。ケイトは船が戻らなければ父親が探しに来ると言ったが、それも気休めのようだった。しかも夜には満潮となるため、この中州は水に没してしまう。
対岸には泳がなければ、辿り着けない。動揺する乗客は、さらなる悪夢を目の前にする。

夫婦で来ていた乗客の夫が、水辺に立っていたのだが、その背後から7メートルはあろうかという巨大なワニが、一瞬にして咥えて水中に引きずりこんだのだ。妻は半狂乱となり、乗客は恐怖に硬直する。

その時、ニールとその友達が乗るボートが通りかかった。ケイトたちは必死に助けを叫んだ。ニールは気がついて中州へと近づけたが、そのボートもワニの突進を食らい、瞬く間に沈没。ニールの友達の姿も見えなくなった。
ニールは中州まで必死に泳ぎ、難を逃れる。巨大なワニがここにいる。
なぜワニは襲ってくるのか?
ニールは「ここが縄張りの中なんだろう」と。
自分たちはそこに侵入してしまったのだ。ワニは食いついた獲物を、一旦餌場に持っていき、貯めておく習性がある。餌場に行ってるだろう今の内に対岸の岸辺に渡るしかない。
ニールの提案を乗客たちは聞こうとしなかった。
「泳いで渡るなんて無理だ」

ニールはボートに積んであったロープを使うことを思い立った。中州の小島には太い木が生えており、ロープを対岸の木に結びつければ、泳がなくても、ロープにぶら下がって進めば対岸に着ける。まず対岸までは自分が泳いで渡ると言った。ワニは捕食するためジャンプすることもある。ロープで渡る途中で襲われる危険性もある。だがこの方法しかなかった。
ニールの勇敢な行動で、ロープは無事に対岸の木に結びつけられた。
乗客たちの決死の脱出が始まった。


ワニが潜む上をロープで渡るのって、どうしても『ジャッカス』のネタを思い出しちゃうね。あの時はパンツ一丁で、そのケツに鳥の生肉挟んでたけど。

この場面の後にも、ピートがワニの餌場に迷いこんでしまう場面があり、心臓バクバクもんである。
巨大ワニはCGとともに、実物大の模型(アニマトロニクス)で製作されており、その全身を現す餌場の場面は、迫力の造形に息を呑む。
眠りに戻ってきたワニを起こさないように脱出を試みるんだが、韓国のモンスター映画『グエムル』で、少女が怪物の巣から脱出しようとする、あの場面の緊迫感に匹敵する見せ場となってる。

映画の前半はほとんどワニが気配だけで、姿を表さないあたりは、スピルバーグの『ジョーズ』の演出を踏襲してるかな。
それとこの映画の監督グレッグ・マクリーンは、2005年に『ウルフクリーク/猟奇殺人谷』というホラーで注目浴びたんだが、その時の演出も、前半は淡々とした展開に留めてあった。それだけに後半の「絶望じかけのオレンジ」みたいな、たたみ掛け方が、インパクト残したのだった。

本当にワニがいるかしらんが、この映画でロケされる「カカドゥ国立公園」のダイナミックな景観は、一度行ってみたいと思わせるものだ。スクリーンで見といてよかった。

ところで映画で共演してるラダ・ミッチェルとミア・ワシコウスカには繋がりがある。二人とも「レズビアン」を表明してるリサ・チョロデンコ監督の映画に、それぞれ出てるのだ。ラダ・ミッチェルは1998年の『ハイ・アート』で主役を張っていて、ヌードにもなってる。「ビアン映画」としても名作だと思う一作。
一方のミアは2010年の『キッズ・オールライト』で、ビアン夫婦の娘を演じてた。あの映画はラストのマーク・ラファロへの仕打ちが納得いかなかったね。

2012年4月26日

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