スパイダーマンは誰でもいいのか [映画ア行]

『アメイジング・スパイダーマン』

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にしても、あれだけ世界中で稼ぎまくったサム・ライミ版『スパイダーマン』3部作の、完結篇から僅か5年でリブート版を作らにゃならん理由はなんなのだ?
興行的また批評的に失敗したというならともかく、シリーズ物としちゃあ大成功を収めてるんだから、今回のマーベル及びソニー・ピクチャーズのやり方は、サム・ライミに対して失礼だと俺は思うが。

スタッフ・キャストを一新させてるということは、サム・ライミ版の臭みを払拭するのが狙いだったのか。
トビー・マグワイアはいかにも草食系かつオタクな印象があり、そんな主人公がめちゃ可愛い彼女をゲットするのも不自然ということで、キルステン・ダンストのMJとなるんだろう。
いやキルステンはとても奇麗に映る作品もあるんだから、『スパイダーマン』シリーズの「美人だかどうだか微妙なんだが、変にそそられる」キャラは、彼女の役作りの成果といえるのかも。

またピーターも毎回いろんなことで悩んでたしね。オタクっぽいし、けっこうウジウジ悩むし、ヒーローとしてそれはどうなんだと、映画会社の上層部も疑問を呈したのかもしれない。


でもって今回のキャスティングとなるわけだが、ピーター・パーカーを演じるのは、全方位的に無難な個性のアンドリュー・ガーフィールド。
MJに代わる彼女キャラのグウェン・ステイシーを演じるのが、髪をブロンドに可愛くまとめたエマ・ストーン。主役ふたりのとっつき易さは格段に上がっただろう。

そして僅か5年でのリブートにも関わらず、あまり反感も持たれず、興行も成功を収めたとなれば、要はピーター・パーカーを誰が演じるのかが重要ではなく、スパイダーマンのコスチューム着て、ビルの谷間を飛び回るような場面があれば、ファンは文句を言わないってことか。
ではスパイダーマンとしてどこまで許容されるのか、考えてみる。


ピーター・パーカーが黒人少年でもOKなのか?

例えばウィル・スミスの息子に主演させてみるとか。トビー・マグワイアもアンドリュー・ガーフィールドも、20代後半で高校生を演じてたわけだが、ジェイデン・スミスは今年まだ14才だからね。
歳をさば読む必要もない。
そういう話が持ち上がってもおかしくないと思うのは、ウィル・スミスは『ハンコック』でヒーローものを演じてる位にアメコミに憧れはあるだろうし、彼はソニー・ピクチャーズと専属契約を結んでる。
同じ会社でやってることだから、息子を推薦するってこともあり得る。


ピーター・パーカーが太ってたら?

『マネーボール』で好演したジョナ・ヒルに演じさせて、体重ありすぎて、たまに糸が切れて落下することもある、そんな『スパイダーデブ』も見てみたい気がするぞ。
「太っててもスパイダーマンになれる!」と勇気を与えることができるんじゃないか?俺とかに。


ピーター・パーカーが日本人だったら?

いろんなもん演じてるカメレオン俳優の松山ケンイチが主役になるのか。
いや日本でスパイダーマン大好きといえば中村獅童だから「俺に演らせろ」ってことになるだろう。
だが松ケンも獅童も高校生には見えんわな。『愛と誠』じゃないんだから。
キャラの性格に照らし合わせて、濱田岳とかいいんじゃないか?


スパイダーマンが女でも成立するのか?

蜘蛛っていうのは、そもそも女郎蜘蛛なんて名があるくらい、女性をイメージさせると思うんだよな。
『蜘蛛女』って映画もあったし。いやあれは比喩だよ比喩。
それに「スパイダーガール」のコスチュームとか想像するとちょっとエロい。
あのキメのポーズのM字開脚も勿論やってもらう。

ここはひとつ美少女アナソフィア・ロブに、ひと肌脱いでもらいましょう。
「サメに食われた後にクモになるのなんてイヤよ!」と拒否られるかもだが。


映画自体つまらないわけではなかったし、『スパイダーマン青春白書』みたいなノリで、これはこれでアリと思ったんだが、見せ場そのものは、CG主体でサム・ライミ版との差異も感じられない。

最近にない大役に抜擢されたリース・イーヴァンズ演じるコナーズ博士が、自らの失った片腕を再生させるために、爬虫類の細胞蘇生能力を使った血清を打った副作用で、ほぼトカゲになってしまうわけだが、その悪玉キャラ「リザード」とスパイダーマンの格闘は、どんなに派手に見せても「でもCGじゃん」と思ってしまうし、こういうのは俺にはもう退屈なのだ。

俺にとって唯一の胸熱シーンだったのは、あの何本ものクレーンのサポート場面だな。
そのクレーン車を率いてたのがC・トーマス・ハウエルってのがよかった。
この役者自身久々に目にしたんだが、彼のデビュー作はあの『E.T.』だった。
その時はBMXを駆る悪ガキの一団を率いるリーダー格を演じてて、最初はエリオット少年をイジメるような役回りだったが、あのクライマックスで、エリオットの逃亡をサポートする男気を見せてた。

まさにあのデビュー作の再現のような今回の役だったのだ。白髪まじりで随分と渋くなってたが。

2012年8月7日

三大映画祭週間①『俺の笛を聞け』 [三大映画祭週間2012]

三大映画祭週間2012

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『俺の笛を聞け』

昨年「ヒューマントラストシネマ渋谷」にて開催された好企画が、めでたく今年も同じ場所にて開催。
昨年はこのブログで『唇を閉ざせ』『ハッピー・ゴー・ラッキー』『キナタイ マニラ・アンダーグラウンド』の3作品のコメントを入れた。
今年は8月24日(金)まで、8作品が上映されてる。


この『俺の笛を聞け』は2010年のベルリン映画祭において「銀熊賞(審査員グランプリ)」と「アルフレッド・バウアー賞」の2冠に輝いてる、ルーマニア映画だ。

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18才のシルヴィウは、少年院の出所を16日後に控えていた。トラブルも起こさず、院長からも模範生と目されていた。
定期的に面会に来てた、歳のはなれた弟が、今回はやけに間を縮めて会いに来た。
弟は「かあさんが戻ってきた」と言う。
そんなはずないとシルヴィウは言った。
母親は昔、男を作ってシルヴィウを置き去りにしたのだ。
父親は体を壊し、入院生活を送ってる。シルヴィウは弟の面倒を見て暮らしてきた。
弟はなおも「母さんは僕をイタリアに連れて行くって」

自分たちを捨てて出て行って、今頃急に戻ってきて、弟を連れて行くなど許せない。
「俺が戻るまで絶対家に居ろよ」と弟に釘を刺した。

だが母親は1週間後にはイタリアに発つと言う。出所してからでは間に合わない。
模範生として、目立たず淡々と更正の日々をやり過ごしてきたシルヴィウの心に、時ならぬ波風が立ち始めた。

ルーマニアの少年院の殺風景な日常がつぶさに描き出される。
刑務所ほどガチガチに規則は厳しくなさそうだが、入所する少年たちの間には、隠然とした力関係が働いているようだ。
食事の間は流行歌らしき音楽がデカい音で鳴らされてるのは可笑しかった。
フォークはテーブルに置いたままにせず、食堂を出る際に、係官にわかるように容器に投げ入れている。
シルヴィウは少年の一人に、携帯電話を貸してほしいと掛け合う。そ
ういう物を調達できる係りがいるんだね。
シルヴィウは弟に電話をかけ、一緒に居る母親を電話口に出させた。
少年院に面会に来るように告げた。


出所が真近になると、出所後をサポートするソーシャルワーカーとの面談が行われる。
最初に作文を書かされ、それを元に後日面談となるのだ。

シルヴィウは作文を書くため、談話室に呼ばれ、ソーシャルワーカーのアナと顔を合わせる。
唇の形がかわいいとシルヴィウは思った。
彼女に私的な質問を投げかけるが、アナはとまどい
「仕事で来てるから答えられないわ」と言った。
この環境で女性と話をする機会などほとんどない。そ
れに威圧的な人間ばかりの中で、アナはそんな態度をとらない。
シルヴィウは彼女のことが気に入った。

だがそんな朗らかな気分もすぐに霧散した。母親が弟を連れて面会に来たのだ。
母親は「やっと会えた」というような素振りで、優しい言葉をシルヴィウにかけるが、イタリアの話になると、両者の雲行きは途端に怪しくなった。

シルヴィウは今までの母親の無責任な行いを激しくなじる。
母親は「売春婦」呼ばわりまでした自分の息子を頬を何度も張った。
だがシルヴィウの怒りはいよいよ収まりがつかない。
係官が割って入り、面会は修羅場となった。


このままでは弟はイタリアに連れ去られる。出所を控えたシルヴィウは、母親がイタリアへ発つという日に、特別に外出許可を貰いたいと、院長に懇願するが、叶うはずもなかった。
シルヴィウがたびたび院長に会ってることは、入所する少年たちにも気に障った。

「あいつは何かチクってるんじゃないか?」
出所の近いシルヴィウは挑発を受ける。何度も頬を張られ、唾まで吐かれる。
だが殴りかかれば、入所期間は延長されてしまう。
「お前は出所するまで、俺の奴隷となれ」
少年たちを牛耳るリーダー格に言い放たれる。
18才の少年の葛藤は、もう自らの手に余る大きさにまで膨らみつつあった。

ソーシャルワーカーとの面談の日、アナは再びやってきた。
シルヴィウは静かに腰かけていたが、思いつめたような表情で彼女を見つめた。


ロベール・ブレッソンの映画のように、音楽をつけず、主人公の少年の行動をカメラで追い続ける、
余計な装飾を取り払ったような演出だが、この面談の場面から急展開が起こる。
止むにやまれぬ思いと、結果がわかってても、もうそれしかないという、破れかぶれな気分と。
そこまで丹念に積み重ねられた描写があるから、ここはエモーショナルな迫力がじかに伝わってくるようだ。

それまでのもの静かな少年の面影はもはやない。だが心根の優しさは垣間見えたりもする。
映画の結末近くは、つかの間の穏やかな気分に包まれる、いい場面が用意されてる。


ルーマニアはチャウシェスク独裁の時代の負の遺産として、子供世代の貧困が深刻だと聞く。
この映画はその殺伐とした背景を感じさせながらも、現実を突きつけて気を滅入らせるような、社会派を気取った描き方はしてない。

少年たちの心に寄り添う、彼らの苦しい境遇に顧みる。
そういうことを大人たちが切実に感じなければ、この国に未来はない。
そんな怒りに似た祈りは込められてると思った。

2012年8月6日

なぜゴッサムを守るのか? [映画タ行]

『ダーク・ナイト ライジング』

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クリストファー・ノーラン監督は「007」映画のファンを公言してる。
この3部作の1作目『バットマン ビギンズ』において、バットマンは他のアメコミ・ヒーローと違い、超人ではないと規定した。
人間の身体能力を飛躍的にアップさせるガジェットや、武器を身につけることにより、超人的な活躍が担保されるというものだ。

モーガン・フリーマン演じるフォックスは、「007」映画における「Q」の存在であり、
大富豪ブルース・ウェインは「任務ではなく自分で勝手にミッションをこなすジェームズ・ボンド」という風に見える。


今回の「ライジング」において、ノーラン監督は明確に「007」的活劇を志向してる。
アバンタイトルに描かれる、あの飛行機2機を使った、ベインの空中脱走劇は、「007」映画の導入部そのままに、スリリングな見せ場になってる。

前作『ダーク・ナイト』はヒース・レジャーによるジョーカーの禍々しさが映画を塗りこめていたため、アクションシーンがあったはずなのに、ほとんど印象に残ってなかった。

「すべての人間は悪に堕ちる素地を備えている」と煽動していくジョーカーから、目を離せなかったことは事実だが、映画のテーマを登場人物に語らせすぎるという「講釈テイスト」がちょっと腹にもたれる感じもあった。
押井守監督の『機動警察パトレイバー2』を見た時の印象に近かった。

ノーラン監督は、今回の完結篇で、悪役も含めて、映画全体をフィジカルな方向に軌道修正しようと試みたのだろう。
証券マンを人質にとり、バイクに後ろ向きに括りつけて逃走するベインの一味を、バットポッドで追う、中盤のチェイスシーンも見事だった。
ラストの趣向は『ブラック・サンデー』入ってて、新味はなかったが。


ただどうもすっきりしないのが、バットマン(ブルース・ウェイン)は、なぜゴッサム・シティを守りきろうと命を張るのかということ。

2作目までの設定なら、ゴッサム・シティというのが、架空の町である前に、物語の中ではシンボルであるということはわかってた。ゴッサム・シティという「宇宙」の中で描かれる物語が、現代の社会であり、世界の縮図であること。

ゴッサム・シティを守るという行為自体が、映画用語でいうところの「マクガフィン」であり、バットマンが治安を守るという展開の中で、
「バットマンの自警団的正義は認められるのか?」
「悪を制する者も悪と捉えられる皮肉」
「純粋な悪を目の前に、抗う手立てはあるのか?」
など、現代社会に通低する問題提起こそが、映画が描くことの本質であったこと。

だが今回、ベインの大規模テロによって、ニューヨークそのものに見えるゴッサム・シティが内戦状態となるに及び、合衆国大統領が映画に登場し、声明を読み上げる。
その前のスタジアムでのアメフトの試合前に、少年が「アメリカ国歌」を独唱もしてる。

つまりゴッサム・シティは、ロスアンゼルスやアトランタといった都市と同様に、アメリカの一都市と明確に描かれたのだ。
ゴッサム・シティはもう「比喩」ではなくなる。
となるとバットマンは、アメリカの一都市を限定的に自警する「ローカルヒーロー」と見えなくもない。
ゴッサム・シティが具体的な都市であるということになると、このシリーズには決定的に、その都市と都市に暮らす住民たちの描写が欠けている。

バットマンの周りには、執事のアルフレッドはじめ、ウェイン産業の関係者と、ゴードン市警本部長はじめ、警察及び司法の人間、ウェインの女性関係、それに悪玉と、それしか出てこない印象なのだ。
ブルース・ウェインが命がけで守ろうとするゴッサム・シティとはどんな場所なのか?
その顔が見えない。


今回の敵ベインは、まずバットマンより、フィジカルが圧倒的に強いという特徴を備えて登場したが、インパクトにおいてはジョーカーの後塵を拝する。
あれだけのテロを起こしておいて、ゴッサムの住民に「町を民衆の手に取り戻すのだ!」などとアジ演説かましてるが、そんな危ない奴についてかないだろ、ふつう。
そのあと、金持ちの家に暴徒が押しかけるって場面があるが、この辺も記号的な描写で面白くない。

ベインに簡単になびいてしまう位に人心が荒廃してるというのなら、前もってそこを描いといてくれよ。というより、3部作の内の1作だけでも『シチズン・オブ・ゴッサム』として、ゴッサムの住人を主人公に、バットマンとの係わりを描いてほしかった。


ブルース・ウェインは自分の過去の境遇もあり、ゴッサム・シティの孤児院の運営を、ウェイン産業として援助し続けてきてるが、今回出てきた孤児院の少年も、存在をフォーカスされるにまで至らない。
例えば孤児院を出た少年たちが、ゴッサムに蔓延する悪に染まり、町の存亡を脅かすような一大勢力になる。彼らはベインに共鳴して、町の破壊へと突き進むが、満身創痍のバットマンと対峙することにより、自らの中の「バットマン」に目覚めていく。

それが今回の映画で、バットマンが若い警官ジョン・ブレイクに告げる
「誰もがバットマンになれる」
というセリフに、より意味を持たせることになるんじゃないか?

ベインに煽動された囚人たちや市民が、警官隊と衝突する、市街での大乱闘場面があるが、あそこは明らかに警官隊に思い入れた演出となってる。

ノーラン監督という人は元来、警察官に悪印象を持ってないようで、しかし警察というのは国家権力の側にある組織なのだから、市民と衝突する場面で、警官をヒロイックに描くという事には、違和感がある。市民の側はただの暴徒にしか見えず、そうなるとこんな町や住民たちを、ブルース・ウェインはなんで守ろうと思うのか?そこらあたりの説得力が感じられないのだ。


こんな屁理屈こねててもしょーがないかも知れないが、映画自体が理屈っぽいんだから、こっちも細かいことが気になってくる。

一度はベインに破れ、ブルース・ウェインが絶望監獄のような場所に幽閉されるシークェンスがある。
巨大な井戸の底にあり、その壁面を登って脱出できたのは、過去に子供が一人だけという場所だ。
ブルースは何度か挑戦するが登り切ることができない。

瀕死で監獄に連れてこられたブルースを介抱し、その面倒を見た同房の老囚人のアドバイスで、ブルースは壁面をクリアできるんだが、それもいわゆる「フォースとともにあれ」みたいな、ヨーダの精神論から進んでないもので、その「根性でクリア」ってのもどうかと。

「007」風で行こうとしてるんだから、あっさりフォックスが助け船出したってよかったと思うが。

しかしブルースを介抱する囚人を演じてるのがトム・コンティとは。
『戦場のメリー・クリスマス』でも監獄にいたけど、こういうちょっとした役を名優に演らせてるのは贅沢。

贅沢といえば、テレビ画面越しだったが、声明を読み上げる合衆国大統領を、ウィリアム・ディヴェインが演じてた。そう『ローリング・サンダー』のアニキだ。
彼が大統領を演じたのは、1974年のテレビムービー『十月のミサイル』でJFKを演じて以来のことだろう。

主要なキャストでは、ジョン・ブレイクを演じるジョセフ・ゴードン=レヴィットが抜群によかった。
『ダーク・ナイト ライジング』とは、ジョン・ブレイクのことでもあったんだな。

2012年8月5日

アルジェリアから来た代理教師 [映画ハ行]

『ぼくたちのムッシュ・ラザール』

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モントリオールの小学校。その朝、牛乳当番として、ほかの生徒より早く校内に入ったシモンは、牛乳カゴを持ち、教室のドアに手をかけるが、なぜか鍵がかけられてる。
中を覗きこんだシモンは後ずさりして、牛乳カゴを落としてしまう。

教室の中では、担任の女性教師マルティーヌが首を吊っていた。
シモンは職員室に駆け込む。その間に生徒たちが校内に入ってくる。
教師たちは必死に生徒たちを外へと促す。
シモンの同級生のアリスは、廊下に牛乳が散乱してるのを怪訝に思い、教室に近づいて、何気なく中を覗いてしまう。

マルティーヌ先生の死から1週間。生徒たちへのカウンセリングなど、対応に追われる校長以下、教師たち。自殺した教師の代理を引き受ける人間が見つからない。

そんな中、新聞で事件のことを知り、子供たちの力になりたいという、アルジェリア人の男が校長の元を訪れる。19年間、母国で教師を勤めてたという。
ラザールという、その中年男の物腰や口調に、誠実さを感じとった校長は、新しい担任として迎え入れることを決めた。


昨年日本で公開された『灼熱の魂』は、中東からカナダへ移住してきた家族を巡る物語だったが、この映画の主人公ラザールの母国アルジェリアからは、過去にフランス領であったこともあり、カナダの特にフランス語圏であるケベック州に、移民として大勢がやってくるという。

カナダの教員採用の条件についての知識がないんだが、この映画を見てると、外国人であっても、小学校の担任になることに問題はないようだ。
日本では英語を教えるために、外国人が英語教師として赴任するということはあるだろうが、小学校の担任を外国人に任せるというのは認められてないんじゃないか?

カナダは歴史的に、移民を積極的に受け入れてきた国で、この映画の教室の生徒たちも、白人がほとんどではあるが、東洋人や、イヌイットの血が入ってるような子や、アフリカ系の子もいる。

鷹揚な気風の国民性を感じるところではあるが、いざラザールが教壇に立ってみると、カナダの学校教育の現場の、センシティブな部分が浮き彫りとなってくる。

ラザールを演じるのはアルジェリア人俳優のフェラグ。本名を縮めて、苗字だけを芸名にしてる所と、温和で人好きのする表情を持ってる所から、イスラエル出身の名優トポルを思わせる。
主演俳優の、人間味を感じさせる演技が、この映画の大きな推進力となってる。

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フェラグ演じる教師ラザールは、さっそく自分」のやり方で授業を進めるが、生徒たちは前任のマルティーヌ先生との、教え方の違いに戸惑い、なかには反発する生徒も出てくる。

やんちゃな所のあるシモンは、授業中に同級生をからかって、ラザールに頭をはたかれる。
ラザールとしては「こら、なにやってんだ」程度のもんだっただろう。
シモンに「謝りなさい」と言うと、
他の生徒から「先生がシモンに謝って」という声が。

カナダの学校ではどんな理由であれ体罰は禁じられてた。体罰はおろか、教師が生徒の体に触れることすら控えるように言われてるのだ。
体育教師は「体に触れないと教えようがないことだってある」とボヤく。

マルティーヌ先生が自殺した経緯にも、「生徒の体に触れる行為」があったと、思われてるフシがあった。シモンはその当事者と見られてもいたのだ。
複雑な家庭環境にあるシモンのことを慮って、マルティーヌ先生は補習授業の最中に、ついシモンを抱き寄せた。
だがシモンはそのハグを拒否し、そのことを「先生にキスされた」と周りに吹聴したため、学校内で問題となってしまった。

シモンは悪びれもせず振舞っているようだが、マルティーヌ先生の死は深い爪痕を心に残しているようだった。
「先生はあの日僕が最初に教室に来ることを知ってたんだ」

アリスはマルティーヌ先生が死を選んだのはシモンのせいだと、面と向かって責めた。
だが感受性の強い彼女は、同時に教え子たちにショックを与えるような、マルティーヌ先生の行為にも強い違和感を感じていた。
「死んだ人は、残された人に対して何の罪もないの?」

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ラザールは、生徒の中でアルジェリアに関心を示して、思慮深くもあるアリスと打ち解けるようになる。
だがアルジェリアのことを聞かせてほしいとせがまれても、ラザールは応えることはなかった。

彼はカナダの市民権は得ておらず、難民申請中の身だったのだ。
教師をしていたというのも嘘で、アルジェリアではレストランを経営してた。
教師をしてたのは妻の方で、その妻は著書で政治的発言をしたために、テロリストの標的となり、自宅は放火された。
妻と子を失い、ラザールはひとりカナダへと逃げてきたのだ。

ラザールの人となりに惹かれた女性教師のクレールとデートもするが、やはり恋をするという境遇にはないという気持ちが、ラザールを押し留めてしまう。

教育の場で味わう様々な制約や、割り切れなさ、身分を偽り感情を偽り、やり過ごしていかなければならない、鬱屈に耐える日々が続く。


校長から「波風は立てないで」と言われていたが、ラザールは授業中に
「マルティーヌ先生の死について、話したい人はいるかい?」
と生徒たちに尋ねる。

このことに向き合わなければ、生徒たちの心も晴れることがないだろうと、ラザールは感じていた。
アリスはシモンを名指しする。
アリスはシモンのことを嫌いではないのだが、彼女自身にも胸のつかえが取れないままなのだ。

シモンは今まで閉まっていた思いのたけをぶつけるように話しだした。
「僕のせいで先生は死んだの?」
ラザールはシモンの背中に触れた。
「マルティーヌ先生は病気だったんだよ。なぜ死を選んだのか誰にもわからない」
「だが教室というのは、成長する場であり、勉強する場であり、人を思い遣る場なんだ」
「教室は絶望をぶつけ合う場ではない」

その日、子供たちの心は少しだけ救われたのだ。

ラザールは裁判所での審査の結果、難民申請を認められることとなった。
だが皮肉にもそのことが校長の知る所となった。
カナダの市民権も、教員資格も持ってないという事実も。


この映画はアメリカ映画のような、教師と生徒のつながりを謳い上げるような、感動のフィナーレが用意されているわけでもないし、逆に最近の日本映画に見られる、殺伐とした教師と生徒たちとの関係を描くわけでもない。
演出には抑制が利いていて、エンディングなどは素っ気ないほどだ。

だがそのエンディングがじんわりと後で染みてくる。
素っ気ないけどじんわりくるという感じは、フランス映画の『コーラス』を思わせるね。

生徒役ではシモンを演じたエミリアン・ネロンという少年の演技が見事だった。
難しい演技を要求される役だからね。

アリスを演じたソフィー・ネリッセという少女は、子役時代のドリュー・バリモアのような印象で、
ラザール先生は「アリスは僕のお気に入りの生徒なんだよ」なんて発言してるけど、これもロリコンと誤解されかねないので、慎重な対応が求められる部分だろう。

しかし教師にとって「お気に入り」の生徒というのはいるものだ。
大人と子供であっても、「人間の相性」がある。教師に好かれる生徒と、そうでない生徒っていうのはいるもんだ。問題児だから嫌われるということでもない。

それが悪いかどうかってのは微妙な問題で、教師としては、話しをしやすい生徒がいると、その生徒を通して、クラスが見通せるということもあるし、単純に「ひいき」として糾弾されるべきものでもないと思う。

まあこの映画で描かれる学校の現状を見ると、そんな生徒を、腫れ物にでも触るように扱わなければならない教師たちも、ストレス溜まるだろうなあとは思うよ。
多分日本の教育現場もそんなに違わないんだろう。

映画の中で子供たちの悩みと向き合おうとするラザールに、通ってきている心理カウンセラーは
「それは我々の仕事だ」と釘を刺す。
両親との面談では、生徒の受け答えを指摘すると、親からは
「しつけのことはいいから、勉強を教えてくれ」と返される。
ただ勉強を教えるためだけに、生徒と接するのであれば、それは学習塾の先生でいいんではないか?


俺は小学校というのは非常に重要な場だと思う。この映画の教育現場の考え方でいくと、しつけは各家庭において、きちんと成されてることが前提になる。でもそんなことあり得ないんだよ。
クラスメイトを見てりゃ、子供だってわかる。
「していいことと悪いこと」
「社会で生きていくための最低限のルールを知ること」
「他人と係わっていくために身につけておくべきこと」
それを教えるのが「担任の先生」の仕事なはずだ。

子供はまだ半分は「動物」なのだ。
子供は日々の生活の中から「人間らしさとは何か」を少しづつ学んでいく。
それは本人だけで自然に学べるというものではないだろう。

親の役割は一番大きいことはたしかだが、この時期、子供は親と過ごすよりも、他人と共有する時間の方が長くなってる。
悪い行いをした時に誰にもきつく叱られることがないとすれば、子供はその行為をさほど「悪い」とも感じなくなるだろう。

もちろん俺の世代の時から、もう学校教育の歪みめいたものはあった。ひとクラスに40名以上の生徒がいて、それをひとりの担任が抱えるのは、どう考えても行き届かない部分が出る。
それでも教師は怖い存在であり、頭をはたかれることも珍しくなかったが、それで反省することは多かった。
手足を自ら縛ってるような教師と相対すれば、子供だって舐めてかかるようになる。

この映画は主人公を一方の方向に駆り立てるような描き方はしてない。模索する様子を見つめてるからこそ、見る側にも、映画の外側に関心を持たせるきっかけが作られてるのだと思った。

2012年8月4日

ホセ・ルイス・ゲリン『影の列車』 [映画カ行]

『影の列車』

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先月渋谷の「シアター・イメージフォーラム」で開催されてた「ホセ・ルイス・ゲリン映画祭」にて上映された1997年作。
会期前に、上映作品を何度でも見れる「フリーパス券」を8000円で販売していたが、納得できた。
2度見たくなる映画ばかりなのだ。俺はこの『影の列車』を2度見に行った。

ストーリーを追う映画ではない。途中からの、エディターで映画のフィルムを何度も何度も巻き戻して「検証」してく場面の「シャアーシャコシャコシャコシャコ」っていう機械音がクセになってしまい、
「あれもう1回聴きたい」と思ったのだ。

『影の列車』は2回とも、他の作品の時より客が入ってた印象だ。半ば実験映画のような手つきの作品なので、イメージフォーラムに通うような客の嗜好に合うということなのか。


ジェラール・フルーリという名の弁護士が撮影した、プライベート・フィルムが発見されたという設定で映画は始まる。それは1928年から30年にかけて撮影されたもので、フルーリは当時高価な撮影カメラを所持した映画撮影愛好家だった。

そのフィルムが撮影された数ヶ月後に、オート=ノルマンディ地方の湖で行方不明になったとされる。
フィルムは湖近くにあった、フルーリの広大な屋敷での、家族や兄やメイドたちの、たわいない光景を映している。川辺でのピクニックの様子も撮影されている。
全体に痛みがひどく、夥しいフィルム傷が見られる。

本当に1930年当時に撮られたように見えるが、これはゲリン監督が、いかにもそういう風に加工したフィルムなのだ。タランティーノとロドリゲスが『グラインドハウス』で試みた「退色してノイズの乗った古いフィルム」の質感の、さらに手の込んだバージョンと思えばいい。

そのプライベート・フィルムを一通り見せた後に、現在のフルーリの屋敷や、周辺の町の様子を捉えたカラーフィルムが挿入される。このカラーの映像が瑞々しく美しい。
フルーリ家は無人となってるが、廃墟という寂れた佇まいではない。誰かが定期的にメンテナンスしてるようでもある。

この土地には昔鉄道が敷かれていたが、とうに廃線となってる。
森の中の廃線跡が映される。この風情がいい。
レールは鉄だから土には戻らないが、他の部分はすべて土に還った。雑草や落葉が敷き詰められて、森の風景の一部となってる。

フルーリの亡霊のようなものが映る、湖の湖畔。
夜になり誰もいない屋敷に、月明かりに照射された様々な影が躍る。
雷鳴とともにざわめく木々であったり、通りを行きかう車の航跡であったり。屋敷の中に霊のようなものは映らないが、その気配を感じさせるような描写だ。フルーリ家の亡霊が囁いているような。


その気配を漂わす思わせぶりなカラー画面から、再びプライベート・フィルムへと戻る。
ここでは、ゲリン監督が、古いフィルムをエディターにかけて、微に入り細に入り、そのコマに隠されたメッセージを解き明かそうとしてく。
フィルムを何度も巻き戻し、あるいはフィルムを複製して、2本を並列にヴューアーにかけて(という見てくれで)、被写体となる家族の人間の視線の交わり方から、秘められた感情を暴き出そうとする。


ポイントとなる人物は、撮影者のフルーリ自身のほかに、フルーリの長女オルタンス、彼女の叔父にあたるエティエンヌ、そして若いメイドだ。
フィルムは特に長女オルタンスを好んで撮影してるようだ。
オルタンスは20才前後だろうか。もう少し若いのか。

彼女はカメラに向け、しばしば意味深な視線を投げかけてる。艶かしいといってもいい。
撮られて無邪気に笑ってるというのではないのだ。
ゲリン監督はフィルムをコマ単位で解剖しつつ、オルタンスの視線の行く先に注意を払う。

もう1本のフィルムには叔父のエティエンヌの表情が捉えられていて、2本のフィルムのオルタンスと叔父エティエンヌの視線が交わる。この二人の間にはなにかあるのか?

さらにフィルムを検証していく。撮影者フルーリの手前に背中を向け立っているエティエンヌ。その前を自転車に乗ったオルタンスが通り過ぎようとしてる。
オルタンスは叔父に向かって手を上げて、叔父も応えてるように見える。

だが何度も巻き戻すうちに、画面にはもう一人映ってることがわかる。自転車で通り過ぎるオルタンスの後ろの木陰に、若いメイドが佇んでいるのだ。
叔父の視線はそのメイドの方に注がれているんではないか?

影の列車2.jpg

映画はこの後、再現フィルムのように、オルタンスと叔父エティエンヌと、若いメイドと、撮影者フルーリを登場させる。ここはカラーとなってる。

俺は見てて判然としなかったが、この再現フィルムの場面に出てくる登場人物たちは、プライベート・フィルムの中の被写体と微妙に顔がちがうように思えた。同じ俳優だったかもしれないが、似た俳優を使ったかもしれない。
その「ちょっとちがう」感をわざわざ出そうという意図ならば、ゲリンあんた凝りすぎだよ。

その再現フィルムの中ではっきりするのは、エティエンヌが若いメイドに言い寄ってるという事だ。
長女のオルタンスは、叔父と禁じられた関係にあったのか?
もっと邪推すれば、父親フルーリとオルタンスはどうだったのか?

撮影者フルーリは、オルタンスが叔父とただならぬ関係になっていて、その叔父は自分とこの若いメイドに手を出してるらしい。そう思っていたのか?
フィルムを解剖していくなかから、メロドラマを紡ぎ出しているような。

映画は最後に、フルーリが行方不明になった朝の光景を映し出す。
ひと気のない屋敷にフルーリの亡霊が立ち現れる。亡霊だと思うのは、背景の木々などに、彼の姿が透けて見えるショットがあるから。
彼はカメラと三脚を携え、湖へと向かう。ボートで漕ぎ出し、霧の水面へと消えていく。


前に『ヒューゴの不思議な発明』のコメントで、「失われた映画が発見されることがある」というようなことを書いたんだが、この世の中には、商売として作られた映画のフィルムのほかに、個人が自分の家族や身の周りのものを記録した「プライベート・フィルム」も膨大な数存在するだろう。
この映画を見てて感じたのは、撮影者や被写体となった家族たちは、とうにこの世に存在しなくなっても、フィルムはどこかに眠っているのだろうということ。

死んだ家族は供養されるが、当たり前の如く、家族の姿を遺したフィルムは供養などされない。
だがなにかのきっかけで掘り起こされたり、発見されたりして、それをリールにかけられ、映写されれば、そこに映された家族の生きてきた時間が甦る。

この映画の中で映されたプライベート・フィルムのように、その細部に目を凝らしていくと、家族たちが生前は口にすることのなかった秘密が、浮かび上がってくる。
それはこの世にはもういない魂が、フィルムを通して語りかけてくるということで、
つまりこれはゴーストストーリーなのだ。

誰に看取られることもなく、放置されたままのフィルムの中に、成就されることのない想いが封印されている。そういうことがあるのではないか?

ゲリン監督にとって、死者との邂逅というのは、おどろおどろしいものでも、おぞましいものでもなく、むしろ耳をすませば、その語りかけを聞き取れる、そう感じているのかもと、『ベルタのモチーフ』とこの映画とを見ると思うのだ。

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この映画で俺が一番好きなショットがあるんだが、それは大きな川を見下ろせる丘へ、フルーリの家族がピクニックに行くという、プライベート・フィルムの中の場面。
丘の稜線を家族が一列になって下ってくのを、ロングで捉えていて、高い木の間を行く家族が影絵のようなシルエットで映される。

ここは美しいショットなんだが、これを見て即座に思い出したのは、オランダのアニメ作家が作った8分間の短編『岸辺のふたり』の絵のタッチだ。

線画のように黒と余白の白だけで描かれたアニメで、有名な「ドナウ川のさざ波」の旋律に乗って、ナレーションもセリフもなく、絵だけで語られるストーリー。
自転車で高い木のそびえる一本道を走る横移動の画面が、ピクニックの画面と重なるのだ。

奇しくもこの『影の列車』と同じく、登場人物は娘と父親で、その父親は岸辺からボートにひとり乗ったまま帰らないのだ。
父親とその岸辺に自転車で遊びに来てた娘は、その後何年も何年も、自転車で岸辺に立っては父親の帰りを待つ。そのうち娘には恋人ができ、家族ができ、そして孫もできて、彼女のシルエットも前屈みになってくる。
それでも彼女は父親が忘れられず、その岸辺に立ち寄るが、もう水がなく、葦が生い茂ってる。
年老いてしまった娘がその葦に分け入ると、幼い日に父親が乗っていったボートが打ち捨てられていた。娘は涙にくれて、そのボートで眠りこけてしまう。
そして娘が物音に気づいて目覚めると、葦の向こうから、あの日の父親が現れた。

このストーリーを8分間で描いてるのだ。しかも娘の顔も父親の顔も描かれてはいない。それでも動作だけで、その心情が手に取るように伝わってくる。
娘が最後に出会うのはゴーストなのだろうという所あたりも、『影の列車』のフルーリの亡霊につながって見える。

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このアニメを俺はDVDで買って見て、感激したんで、その翌年2004年に、今はない新宿の「テアトルタイムズスクエア」で上映された時に、職場の同僚たちを引っ張って行った覚えがある。
なにせ8分しかないから、ほかに短編が何本かついてたと思う。
『岸辺のふたり』はほかの短編を挟んで、1回の上映で2度繰り返し見せるという、そんな異例の上映の仕方だった。
ゲリン監督は『岸辺のふたり』を見てたんじゃないかな?

2012年8月3日

ベルギーのホルモン男ライジング [映画ヤ行]

『闇を生きる男』

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現在、「銀座テアトルシネマ」にてレイト公開されてるベルギー映画。昨年のアカデミー賞の「外国語映画部門」にノミネートされた1本だ。昨年の「大阪ヨーロッパ映画祭」で上映されてる。

この「銀座テアトルシネマ」もビル自体の建て替えにより、閉館が決まってるし、先頃「銀座シネパトス」と「シアターN渋谷」も1年以内の閉館が発表された。
この映画のような、ぎりぎりDVDスルーではない劇場公開作を掬い上げしてく環境は、いよいよ少なくなってくだろう。

映画の日で1000円だったこともあるが、予想より客は入ってた。
『闇を生きる男』なんて映画を公開してること自体、知ってる人はほとんど居ないんじゃないかと思ってたが。映画好きは目ざといね。

俺は何がなんでもスクリーン派というわけじゃない。この映画がレイト公開もされず、DVDスルーになったとしても、日本語字幕入りで見れるんだから、別にそれでいい。
今回の上映も素材はブルーレイだから、まあ時を置かずしてレンタル店に並ぶことになるんだろう。
わざわざ見に行くのは、ちょっと物珍しいタイトルを、こうしてブログに取り上げられるという気持ちからだ。

実際スクリーンで見てみると、ブルーレイ素材ということによるものか、画面に彩度が足りなくて、全体に薄ぼけた感じに見える。
映画そのものが、晴天の場面などが少ないこともあるだろうが、最初のうちはその地味さ加減と、どういう話になってくのか見えてこないんで、ちょっとタルい。
だが主人公の少年時代に話が巻き戻されると、物語の視界も開けてくる。


ジャッキーという男がいる。父親の後を継いで、ベルギー、フランドル地方で畜産業を営んでる。
ジャッキーはレスラーのような筋肉隆々の体をしてる。だがそういう仕事とは縁がない。彼はこういう体になりたかったわけではなく、ならざるを得なかったのだ。

この地方の農家は、ほとんど畜産で食べていたが、その一帯を牛耳るようなシェパーズ家のような存在もあった。
少年時代にジャッキーは、友達のディーデリックと一緒に、そのシェパーズの敷地内に居た。
親が取引で訪ねていたのだ。
シェパーズにはジャッキーと同じ年かさのルシアという少女がいて、ジャッキーとディーデリックは、彼女を見かけるとヒソヒソ言いあって笑ってた。
それを聞いて激怒したのが、ルシアの兄ブルーノだった。

ブルーノは狂犬のような性格で、その制裁は容赦ないものだった。
ジャッキーとディーデリックは、ブルーノと仲間たちに追いかけられ、ジャッキーだけが捕まった。
ズボンとパンツを下ろされると、「潰してやる」と両手にゴロンとした石を握って振り上げた。
「ほんとにやると思わなかった…」
ブルーノの仲間たちもドン引きした。あまりの激痛にジャッキーは気を失った。
ブルーノたちが立ち去った後、茂みから出てきたディーデリックは、横たわるジャッキーを見て、おそろしくなって逃げた。

自宅に診察に来た医者は両親に言った。
「ジャッキーはこれから第一次性徴期を迎えるが、睾丸が潰されてるから、
ホルモンが分泌できず、このままでは体の成長も止まってしまう」と告げた。
「男として生きていけるのか?」父親の問いに
「射精は可能だろうが、勃起はできないかも」と。
方法としてはこの先ずっとホルモン剤を注射かつ服用してくしかない。

両親は医者の意見を受け入れ、その後20年間に渡り、ジャッキーはホルモンの投与を続けた結果、常人ばなれした肉体を得たのだ。
だが同時に過剰なホルモン摂取は、精神にも影響を与え、ジャッキーは感情のコントロールが上手くできなくなっていた。少しのきっかけで激しやすくなるので、普段はなるべく感情に波を作らず過ごそうとする内、無表情になっていった。


ジャッキーと友達のディーデリックは、その悲惨な一件以来、疎遠になってしまった。
ブルーノの暴力に怒ったジャッキーの父親が、傷害の罪を立件させるため、ディーデリックに証言させようとしたが、ディーデリックの親は
「シェパーズ一家に楯突いたら、こっちの命が危ない」
と息子に証言させることを拒んだのだ。

ディーデリックと顔も合わさず、視線を送ったルシアの消息も知れないまま、ジャッキーは20年間、人とのつきあいもせずに、孤独に牛を育ててきたのだ。

そのジャッキーの前に、不意にディーデリックが現れた。生肉業者とのおいしい儲け話があるという。
1990年代当時、ベルギーの畜産業では「ホルモン・マフィア」と呼ばれる闇の勢力が暗躍していた。禁じられてるホルモン剤を牛に不正に投与して、急激な成長を促し、莫大な利益を得ていた。
ディーデリックが持ってきた話も「ホルモン・マフィア」絡みのものだった。

だがジャッキーが商売相手と顔を会わせたと時を同じくして、ホルモンの不正投与を追っていた捜査官が殺害される事件が起こる。
警察はジャッキーもその容疑者の一人としてマーク。
彼の農場の入り口に監視カメラを設置して動向を探った。
そしてディーデリックはその警察とつながりがあったのだ。
警察はディーデリックがゲイであることをつかみ、捜査官のひとりにディーデリックを惚れさせるように仕組んだ。


ジャッキーは20年ぶりに再会したディーデリックにも、簡単に気を許すことはなかったが、ルシアが町の化粧品店で働いていることも知り、そっちには心が動いた。
ジャッキーは店を訪れ、買ったこともないオーデコロンを、ルシアにあれこれと薦められた。
ルシアは目の前の筋肉マンが、あのジャッキーだとは知る由もなかった。まったく面影もないからだ。
店を出て、ジャッキーは心が浮き立つような思いだった。自然に口元がほころんだ。

ジャッキーはある晩、仕事を終えて店を出るルシアの後を尾けた。彼女は同僚とクラブに入って行った。ジャッキーは入った事もないクラブへ、足を踏み入れた。
カウンターでルシアはジャッキーと目が合った。
だが「オーデコロンを売った客だ」という認識で、彼をジャッキーと気づいてる風ではない。
ルシアは男となにやら談笑し、フロアに踊りに下りて行った。ジャッキーは無性に苛立ち、酒をあおった。

ルシアにクラブでちょっかいを出してた男は、そのままルシアとホテルに行くこともなく、ひとりでクラブを後にした。
ジャッキーはひと気のない通りで、いきなり男に殴りかかった。昏倒する男に拳を叩き込む。
ディーデリックとルシアに再会してしまったことで、20年間封印してきた恋心も憎悪の念も、一緒くたとなりジャッキーの中から噴出してきた。もう押し留める術はない。


ジャッキーは自分をこんな体にした、ブルーノの消息もつかんだ。
ブルーノは精神を病み、病院で暮らしていた。
ジャッキーはひとり病室を訪れたが、目の前のジャッキーにも、ブルーノは何の反応も示さない。
片手は痙攣し、視線は虚空をさまよう。
ジャッキーはその頬をつかみ、拳を思い切り握りしめるが、振り下ろすことはなかった。

ジャッキーが帰った後に病室を訪れたルシアは、ブルーノの顔面が妙に歪んでるのを怪訝に感じた。
テーブルのルシアと一緒に写る写真が伏せられている。ルシアはなにか感じ取った。
そして車でジャッキーの農場を訪れた。

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マティアス・スーナールツというベルギーの役者は初めて見るが、インパクトがあるね。
二枚目といってもいい顔立ちだが、両目が均等でないというか、片方が視点が定まってない。
これがホルモン投与を続けた副作用として顔面に表れてるものなのか、
それを表現してるとすれば、そんな顔が作れるのはすごいと思うが。

この映画は「グラフィック・ノベル・ヒーロー」ものの変形のように見ることもできる。
例えば『ハルク』なんかに性格づけは近いんじゃないか?
だがヒーローもののカタルシスとは無縁の内容だ。


終盤はルシアの住むアパートが修羅場となるんだが、警察が迫り来るのを知ったジャッキーは、携帯していたホルモン剤のボックスを開け、薬をガンガン飲んで、ガンガン注射してく。

『スカーフェイス』で、コロンビアマフィアの刺客を迎え打つトニー・モンタナが、コカインの白い粉に鼻を突っ込んで気合入れる描写のようで、ここはちょっとテンション上がるのだ。

だがなんというか、ジャッキーも気の毒な身の上ではあるが、ルシアにちょっかい出したってだけで、男を植物人間にしてしまうまで殴りつけるとか、結局ブルーノにされたことと同じ行いをしてるんで、その人物像に共感はできんだろうし、ホルモン・マフィアの犯罪をなすりつけられるような形で、ストーリー的にもすっきりはしない。
見る人によっては「胸糞悪いだけ」と思われるだろう。

フランドル地方というのは、言語も入り混じってる地域のようで、人種の相克も背景に感じられる。
一筋縄ではいかない土地の風土や、人間の関わり合いを浮かび上がらせるためには、すっきりとしたエンディングにはできようもないということなんだろう。

2012年8月2日

フィルムセンターで『ジェラシー』 [映画サ行]

『ジェラシー』

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先月29日まで、京橋の「国立近代美術館フィルムセンター」で特集上映されていた「ロードショーとスクリーン ブームを呼んだ外国映画」のラインナップの中の1作。
楽しかった「フィルセン」通いもこの映画が最後になった。

1979年のニコラス・ローグ監督作。
日本では1981年に新宿歌舞伎町のミニシアター「シネマスクエアとうきゅう」のコケラ落としとして公開され、俺もその時に見て以来のスクリーン鑑賞となった。

この当時ニコラス・ローグというと、ミック・ジャガーを起用した1970年の初監督作『パフォーマンス』は未公開のまま、ワーナーからビデオで先に出て、劇場上映されたのは、1998年のことだったし、1971年の『美しき冒険旅行』もごく地味な初公開時以来、ほとんど名画座にかからないという「幻の作品」扱いとなってた。
その後2004になって、『WALKABOUT』という原題のまま、リバイバル公開が実現してる。

代表作と名高い1973年の『赤い影』も未公開のまま、ようやく1983年にミニシアターで初公開された。
なので監督作としては1976年にデヴィッド・ボウイを起用した『地球に落ちて来た男』以外は見ることが困難な、日本においては不遇の映画作家だったといえる。
今そのフィルモグラフィを振り返っても、『ジェラシー』に至るその70年代の監督作が傑出してるのだ。

監督デビュー作の『パフォーマンス』は別として、ニコラス・ローグの映画には通低するモチーフがある。それは登場人物たちが、「場違いな場所にいる」という、所在なさ、居心地の悪さを抱いてるという点だ。

『美しき冒険旅行』ではそれがオーストラリアの「アウトバック(砂漠地帯)」に取り残された幼い姉弟であり、『赤い影』では溺死した娘の霊に呼び寄せられるように、水の都ヴェニスをさまよう考古学者であり、『地球に落ちて来た男』では、自分の住む星と図らずも風景の似た、アメリカ中西部に墜落してきた異星人だった。
この『ジェラシー』で出会う男と女も、アメリカ人だが、出会った場所は異郷の地ウィーンだ。


アート・ガーファンクル演じるアレックスは、ウィーンの大学で教鞭をとる精神分析学の教授。
テレサ・ラッセル演じるミレーナは、オーストリアと国境を接するチェコに、初老の夫を持つ身だ。
映画はミレーナが睡眠薬で自殺を図り、そのことをアレックスに電話で告げる場面から始まる。
ふたりの間に何があったのか?
監督ニコラス・ローグは記憶をシャッフルするように、時制を入れかえながら、物語を進めていく。

アレックスはミレーナの部屋に行き、昏睡するミレーナを発見して救急車を呼ぶ。
ミレーナは手術台に乗せられ、救命措置がとられるが、呼吸も危うくなり、気管切開が行われる。
この場面は、喉から赤黒い血が溢れ出す生々しさで、目を背ける人もいただろう。

ハーヴェイ・カイテル演じる、地元ウィーン警察のネチュシル警部が、アレックスを事情聴取に呼んだ。アレックスはごく淡々とミレーナからの電話から、発見・通報に至るいきさつを話すが、ネチュシル警部はなぜか、アレックスに疑いの目を向けるような執拗さで、質問を投げかけてくる。


アレックスとミレーナはパーティで出会った。先に誘う素振りを見せたのはミレーナだった。肉感的なボディを強調するようなドレスで、通路の壁に足を立てて、アレックスを通せんぼした。
アレックスは余裕の素振りで、彼女の足をくぐり抜けて立ち去るが、二人はたびたびデートするようになっていく。

奔放なミレーナの色香にアレックスの方がのめり込んでいった。アレックスは彼女との結婚を望んだが、ミレーナの反応は鈍く、遊び友達の男の影もちらついて、アレックスを苛立たせる。
ウィーンのアメリカ情報部で、時折仕事を頼まれてたアレックスは、偶然一組の夫婦のファイルを見て愕然とする。
ミレーナはステファンというチェコ人と結婚してたのだ。

アレックスはチェコ大使館に赴き、チェコでの離婚手続きについて質問した。
嫉妬心は抑えが利かなくなってたのだ。チェコの担当者は、
「誰が離婚するのか?」と尋ね、アレックスが「友人が」と答えると、
「ではそれはあなたの関知する問題ではない」とピシャリと言い渡される。

すでにミレーナはステファンとは別居状態にあったのだが、アレックスが正式に離婚を求めても、頷くことがない。
ミレーナはなぜアレックスが自分のことを手に入れたがるのか、その気持ちがわからない。
「僕のものになってほしい」
「私は誰のものにもならないわ。あなたは欲が深いのよ。なんでも持ってて、なんでも知ってる。」
「私は私のものなんか欲しくない、もちろんあなたのものもね」
「野心なんてないし、芸術家でも哲学者でも革命家でもないの」
「私の好きな時に好きなようにしてたいだけ。私はこのままの私でいたいのよ!」

セックスには没頭できても、互いの愛する気持ちは噛み合わない。愛し方が噛み合わないのだ。
アレックスは彼女を自分だけの物にしたいと嫉妬を募らせ、ミレーナはその束縛に憔悴していく。

ネチュシル警部は、その噛み合うことのない愛の果てに、アレックスがどんな行為に及んだのか、実は把握していた。救命措置を受けるミレーナの体にその痕跡が残されてたからだ。
ネチュシル警部は、そのことをアレックス本人から「告白」させようとしてたのだ。


映画の中では登場人物たちが絶えず煙草を吸っている。アレックスもミレーナも、ネチュシル警部も。
この煙草は一服つけてリラックスしてる、そういう様子を映してるわけじゃない。
みな苛立ちを紛らわすかのように、煙草に火を点けてるのだ。

そして煙草に火を点けるためのライターを、アレックスは別のことに使う。その場面に見る、精神分析学の教授というインテリで、静かな物腰の紳士に見えるアレックスの、冷血で唾棄すべき素顔。

アレックスは部屋で昏倒するミレーナを発見すると、ベッドに仰向けに横たえる。
ランジェリーをまとうだけのミレーナ、その反応を確かめるために、アレックスはライターで彼女の足裏をあぶるのだ。
しかしこの場面はどうやって撮ったのか?足は作りものには思えず、しかしライターの火は皮膚に触れている。
なにか熱さを感じないジェル状のものを塗ってたのかな。

それはともかく、ライターの火を女の体に当てることに躊躇もないという、それだけでも最低だが、さらにアレックスは下着をナイフで切り裂くと、昏睡状態のミレーナを暴行するのだ。
「君を取り戻せるならなんでもする」
まったく言葉の意味を取り違えてるな。

それから月日が経ち、ニューヨークのアストリア・ホテルの玄関前。
タクシーに乗り込もうとしたアレックスは、赤いドレスの女とすれ違う。髪はショートになってるが間違いはない。
「ミレーナ!」
振り向いた女の喉元には、手術の傷跡が残る。
ミレーナは無言で、傷跡を誇示するようにアレックスに見せると、背中を向けた。

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昏睡状態の女性を暴行するという場面は、アルモドヴァル監督の『トーク・トゥ・ハー』にもあった。
病院の介護士の男が、昏睡を続ける若い女性を暴行し、彼女に妊娠の兆候が現れ、騒ぎになるという展開だったが、
「あれもひとつの愛の表現かもしれない」などという感想が述べられたりしてた。
「んなわけねえだろ!」と俺はツッこんだが。

それはともかく、この映画、原題は『BAD TIMING』という。
ウィーンという異国の場所で、亭主持ちの女と出会ってしまったのも、タイミングが悪かったし、
男と女が互いを求め合う、そのタイミングも
「いまここでそれを言う?」みたいなことは頻繁に起こるし、
すれちがう心を表すには打ってつけの題名だろうが、アレックスの視点に立てば『ジェラシー』という邦題もそのものスバリで納得できる。


ニコラス・ローグは撮影監督だった時代から、例えば『華やかな情事 』のジュリー・クリスティの部屋に「赤」を大胆に配していて、その後も『赤い影』の、赤いレインコートの少女の亡霊だとか、この映画でもテレサ・ラッセルが身につける、ドレスや手袋など、やはり「赤」が散りばめられている。
手術シーンの血の色もしかり。
色彩へのこだわりがダリオ・アルジェントと共通するものを感じるのだ。

テレサ・ラッセルのむっちりとした肢体が、とにかく画面を圧していて、ファム・ファタールとして文句のつけようもないエロ美しさだ。

ネチュシル警部を演じるハーヴェイ・カイテルの、インテリの皮を剥いでやろうという、サディスティックな風貌も素晴らしい。髪も長く色気も漂っていて、場面をさらう。

撮影監督あがりの人なので、とにかくカメラの位置が的確なのだ。
この映画では登場人物の切り返しのショットが多いが、目線がきちんと合っている。
当たり前のようだが、その当たり前が出来てない映画も多いのだ。

クリムトやエゴン・シーレの絵の意味するところとか、多分いろんな暗喩も込められてるんだろうが、そのへんは俺の教養不足だ。
トム。ウェイツや、キース・ジャレットや、ビリー・ホリディと、挿入される音楽も渋いけど、ザ・フーの「フー・アー・ユー」はテーマからするとベタすぎないか?

2012年8月1日

フィルムセンターで『サスペリアPART2』 [映画サ行]

『サスペリアPART2』

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この29日まで京橋の「国立近代美術館フィルムセンター」で特集上映されていた「ロードショーとスクリーン ブームを呼んだ外国映画」にラインナップされた1本。

選んだ人が意図したのかどうか、このダリオ・アルジェント監督作と、同じくラインナップに入ってるニコラス・ローグ監督の『ジェラシー』には共通して、「赤」へのオブセッションが感じられる。
2本ともミステリーの装いで、見る者を迷路に誘い込むような手口で作られてる所も似てる。

1978年日本公開のダリオ・アルジェント監督作。スクリーンで見るのは、その公開時以来だが、30年以上優に経っていても、やっぱり面白いんだよなあ。
唯我独尊というのか、時代による風化を凌駕する、この頃のアルジェント作品の強固な美意識に貫かれてる。
ミステリーとしては、『四匹の蝿』なんかにも言えるんだが、「なぜそこからそうつながる?」という、どんなに察しのいい人でも察しきれない謎解きが待っていて、途方に暮れたりするのだが、そんなことはおかまいなしに、痛覚直撃の惨殺シーンが挟まれているんで、しまいには筋はどーでもよくなる。


女性霊能力者が、講演中に霊の存在を感じとり、この会場に殺人犯がいて、新たな殺人を犯そうとしてる、と取り乱し、会場を騒然とさせる。
憔悴してアパートに戻った霊能力者は、突然何者かに襲われ、惨殺される。
悲鳴を聞いて部屋に駆けつけた、アパートの住人の音楽家マークは、茶色のコートを着た男の背中を目撃した。

講演会場に殺人犯が居て、それを指摘されたんで霊能力者を殺したというのはいいが、事件の真相が明かされると、そもそもなんでその犯人が、女性霊能力者の講演会場にいる必要があったのか、さっぱりわからん。

デヴィッド・ヘミングス演じるマークが、探偵さながらに事件の真相に迫っていくが、それは20年以上前に、小さな息子の目の前で、自分の夫を殺した女が、夫の死体を屋敷の壁の中に埋め、その殺人の発覚を恐れて、危険そうな人間を殺して回ってたというわけ。

しかし警察はまだ動いてる気配もないし、過去の殺人を隠蔽するため、新たに殺人を積み重ねてるんだから、勇み足もいい所なのだ。
そして殺された2人に関しては、マークのいわば「探偵ごっこ」に付き合わされた末に、惨たらしく殺されてるんで、実はマークこそ疫病神だったといえる。


マークは事件を嗅ぎ回る過程で、子供の「わらべ歌」を耳にし、「お前を殺す」という声を聞いた。
その「わらべ歌」を聴いてもらおうと訪れるのが、心理学者ジョルダーニのもとだ。
そして「わらべ歌」の謎を解く鍵が、「近代の幽霊と暗黒伝説」という本にあるとわかる。

その作者である女性作家のもとを訪ねるが、すでに女性は惨殺済みだった。
女性は自宅で襲われ、バスタブに熱湯を注がれ、その中に顔を押し付けられた。
浴槽に転がされた時はもう虫の息となってた。
犯人が立ち去った後、顔面がジェリー状になった女性は、最後の力を振り絞って、バスルームの鏡に指で「ダイイング・メッセージ」を書き遺す。

その現場を訪れたマークはそれに気づかなかったが、死体が収容された後に現場を訪れたジョルダーニは、死体の位置を示すチョークの痕を見て閃いた。
そしてバスルームを蒸気で満たし、鏡に文字が浮かび上がった!

…なんて書いてあるのかわからない…

そのジョルダーニが自宅に戻り、物思いに耽っていると、居間になにかがやって来る。
ドアの向こうから真っ直ぐに、ジョルダーニの前まで、一体の操り人形が笑いながらスルスルと!
ジョルダーニは恐怖で思わず人形を叩き壊す。
顔が割れて半分になっても、ケタケタ笑ってる。
次の瞬間ジョルダーニは後ろから頭をつかまれ、何度もテーブルの角に口を打ちつけられ、歯が砕ける。
そして刃物で止めを刺された。


ふたりともマークに係わってなければこんな目には遭ってない。
そのマークは「近代の幽霊と暗黒伝説」の本に紹介されてた、曰くつきの幽霊屋敷をようやく探し当てた。廃墟となったその屋敷の壁が不自然に塗られてる箇所を発見する。

その表面を剥がしていくと、中から子供が描いたと思われる絵が出てくる。
誰かがナイフで刺されて血まみれになってる絵だ。

マークは事件に興味を持って近づいてきた女性新聞記者のジャンナに充て、その屋敷に行くとメモを残し、夜中に廃墟となったその屋敷に忍び込み、今度は壁の向こう側に空間があることを突き止める。
壁を叩き壊すと、中には部屋があり、ミイラ化した死体が椅子に座っていた。
だがその直後にマークも何者かに襲われた。

意識が戻ると目の前にはジャンナがいた。心配で駆けつけてきたのだ。
二人はその屋敷の壁に描かれた絵とそっくりの絵が、レオナルド・ダ・ヴィンチ小学校の図書館に残されていることを知る。
その図書館で同じ絵を発見した時、またしてもあの「わらべ歌」が聞こえ、ジャンナは暗がりで何者かにナイフで刺される。だが一命は取り留めた。


なぜマークとジャンナは殺されず、心理学者と幽霊本の作者と、霊能力者は惨殺されたのか?
ああ、灯台もと暗し。犯人はマークの友人の音楽家カルロの母親だったのだ。

マークは女性霊能力者殺人の謎を追ってると、カルロに告げた時に
「あまり深入りしない方がいい」と言われてた。
マークとジャンナを襲ったのはカルロで、他の3人を殺したのは母親だったのだ。

図書館の絵がカルロによって描かれたものとわかり、マークはカルロを追求。
だがカルロは動揺してその場を逃げ去ろうとし、清掃車の後部に足を挟まれて、そのまま引き摺られていく。叫びを上げても運転手は気づかない。
やがてカーブで縁石に頭を打ちつけられ、意識を失いかけてる所に、対向車がカルロの頭部を潰して走り去った。

カルロが犯人ではないとすると?マークはカルロの母親の住むアパートを訪ねた。
その廊下には、なにやら不気味な幽霊画のような絵が何枚もかかっている。
マークは何か思い出した。
あの霊能力者が殺された現場に駆けつけた時に、これと同じ絵がかかってた気がしたのだ。

いやあれは絵ではなく鏡だったのでは?
そしてその鏡に映ってた顔こそ、不気味な幽霊画と思い込んでたが、カルロの母親の顔だったのだ!

それに気づいた時、案の定マークは、カルロの母親に刃物で襲われた。
カルロの母親は勢い余って、エレベーターの鉄柵に、首にかけたネックレスを引っ掛けてしまう。
それを見たマークは即座にエレベーターのボタンを押す。
エレベーターシャフトが降りて行き、ネックレスは絶叫とともに母親の首を切断した。


まあこれでほぼゴアシーンの解説は済んだな。
ゴブリンのプログレ・サウンドが鳴りまくるのも気持ちいいね。

アルジェントの音楽のつけ方は独特で、普通は殺害場面など、その最中に鳴らすもんだが、この映画ではその場面の直前に「さあ、行きますよ!」って感じで盛り上がるのだ。
そして音楽が止んで静かになると「ドン」とショックシーンが挟まれる。
登場人物がなにか重要なことに気がついて「そうだったのかあ!」っていう場面でも音楽が高鳴ります。その見え見えの感じが楽しいのだ。

あのトラウマ人形だが、今回改めて見ると、歩いてるというより、やっぱり上から紐で釣られてる感があったね。足がヒョコヒョコ浮いてたから。そこは愛嬌感じたよ。
あの幽霊屋敷もよくこんな建物見つけてくるなと思うくらい雰囲気出まくり。こういう建物がそこらに残ってるというのが、ヨーロッパの強みだろう。

ダリオ・アルジェントの映画を見てて思うのは、ひと気のない広場とか、登場人物以外の画面に映ってる人間たちが、ほとんど点景にしか見えない所。
なにか自分の見る、夢の中の風景に近い感覚を覚えるのだ。
『GANTZ』の中で主人公たちが、自分たちの住む町そのままの異空間で敵と戦う場面があるが、あの「無人感」に近い。
自分の日常と繋がってるようで、繋がってない、地に足がついてない、心細くなるような感覚。

アルジェントの映画に惹かれるのは、ただのジャーロ的な露悪趣味に終わらない、独特の感覚を味あわせてくれるからなのだ。

2012年7月31日

フィルムセンターで『カサンドラ・クロス』 [映画カ行]

『カサンドラ・クロス』

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この29日まで京橋の「国立近代美術館フィルムセンター」で特集上映されていた「ロードショーとスクリーン ブームを呼んだ外国映画」のラインナップの中の1作。

1976年12月に「お正月映画」として、本命の『キングコング』(東宝東和)への対抗馬となった、日本ヘラルド映画配給作。
オールスターによるパニック大作だが、イタリア人プロデューサー、カルロ・ポンティが指揮を執り、ヨーロッパ資本で作られてるのが目新しかった。
なので当時アメリカでは大きな興行も打たれてないのだ。
アメリカが悪者扱いされてるのも、そんな製作の背景があるからだ。


ジュネーブにあるIHO(国際保健機構)に、救急隊員と患者を装ったテロリストが侵入。爆弾を仕掛けようとして、警備兵と撃ち合いになり、細菌研究室に逃げ込む。
警備兵の銃弾が細菌を保管するケースを破壊し、テロリスト二人は飛び散った細菌をモロに被る。
一人は窓を破って逃走し、ジュネーブからストックホルムへと向かう大陸横断列車に乗り込んだ。
取り押さえられたテロリストは、そのまま病室へ移されるが、すでに感染は体全体に広がっていた。

診察したスイス人の女医エレナは、伝染病の症状を疑った。
ほどなくアメリカ陸軍情報部のマッケンジー大佐がIHOに現れた。テロリストが浴びたのは、アメリカ軍が細菌兵器として開発途中の伝染病菌だと認めた。
逃げたもう一人を一刻も早く確保しないと、ヨーロッパ中に伝染してしまう。

大佐は病室にいるテロリストの所持品から、大陸横断列車の往復切符を見つけた。
もう一人はその列車の中だ。
乗客名簿を調べると、エレナもその名前を知る著名な医師チェンバレンが、偶然乗り合わせていた。

マッケンジー大佐は無線で大陸横断列車と交信、チェンバレンを呼び出して、事の顛末を説明すると、車内に潜むテロリストを探し出すよう告げる。大佐は言った。
「千人の乗客を隔離して、検疫収容するため、列車の進路を変える」


列車はポイントを切り替え、ポーランドのヤノフへと向かうことに。途中ニュールンベルグで列車は停車し、警備兵と医療班を乗り込ませた。
すでに車内で発見されたテロリストは、多くの乗客と接触しており、伝染病の症状を示す乗客たちも増えつつあった。
列車の昇降口、窓、通気口はすべて鉄板などでシールドされ、車内には高濃度酸素が送りこまれた。

この進路変更に恐怖したのは、ユダヤ人の老セールスマン、キャプランだった。
目的地であるヤノフには、第2次大戦時に、ナチスの強制収容所があり、キャプランの妻子はそこで命を絶たれていた。
しかもヤノフへ行く途中には「カサンドラ・クロッシング」と呼ばれる長い鉄橋が架かってる。
その鉄橋は終戦後は老朽化を理由に封鎖されており、橋の下の住民たちも立ち退いているのだと言う。


キャプランの口調が真に迫っており、チェンバレンは鉄橋の前で列車を停車すべきだと、大佐に掛け合うが、大佐は橋の安全性を確認してると取り合わない。

チェンバレンは通話口の向こうの、顔の見えないマッケンジー大佐の態度から、恐るべき意図を嗅ぎ取った。アメリカ軍は開発した細菌兵器の情報を隠蔽するため、千人の乗客たちの命を、列車もろとも橋から突き落としてしまおうとしてる。
チェンバレンは乗客の中から有志を募り、列車の奪還に動き出した。


各国から多彩な顔ぶれを揃えたキャストの中で、肝だと思うのは、マッケンジー大佐を演じたバート・ランカスターだろう。
なぜかと言うと、彼は過去に「列車を奪還」する側の主人公を演じたことがあるのだ。
1964年のジョン・フランケンハイマー監督作『大列車作戦』だ。

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第2次大戦で敗戦濃厚となったナチスドイツの大佐が、パリから名のある美術品を、根こそぎ47両編成の貨物列車で、ベルリンへと持ち去ろうと計画する。
軍事費に充てるという名目だったが、実際は大佐個人の欲望によるものだった。

フランス国有鉄道の操車係長ラビッシュは、仲間とともにレジスタンスとして立ち上がり、列車のベルリン到着を、様々なサボタージュで阻止していく。

中でも面白かったのは、列車には当然ナチスの警備兵たちが乗ってるわけだが、彼らは駅名がドイツ語に変わり、ベルリンが近づいてると喜んでる。だがそれはレジスタンスたちが、駅名表示板を架けかえていて、実際は列車はパリの周りを一晩中廻っていただけというもの。

ラビッシュを演じたバート・ランカスターは、映画の世界に入る前は、サーカスの団員だった。その身体能力が走る列車でのアクションに活かされていたのだ。

『大列車作戦』で列車の進路を阻止しようと体を張ってたランカスターが、この『カサンドラ・クロス』では、列車の見えない位置から、いわば遠隔操作のように、陰謀の進路へと向かわせる役回りに転じてる。


その陰謀を阻止しようとするチェンバレン医師を演じるのがリチャード・ハリスだ。
70年代のハリスは「映画のヒーロー」の一人だった。
だがマックィーンのようなひと目でわかるヒーローっぽさはない。
思えばルックスもちょっと不思議だ。般若のような顔立ちなのに、頭髪はポップス歌手みたいな、やんわりとしたウェーブがかかってる。そのアンバランス。マッチョ体形でもない。

でもこの人が「こうだ」と言うと、なんか説得されてしまうような、「修羅場」に強そうな大人な感じがあるんだね。

この人が実質主役なんだが、クレジットのトップにはソフィア・ローレンの名が。キャリアからいえばリチャード・ハリスより上だけど、前にも書いたが「男の活劇」にしゃしゃり出てくる悪い癖があるんだよ。この映画でも別に出てなくてもいい役だ。
製作してるのが旦那のカルロ・ポンティだから、ゴリ押しって感じもあるな。

その二人に次いで、クレジットの3番目に上がってるのが、当時はまだ名が知られてなかったマーティン・シーンだ。けっこうなスターが並んでる中で3番目というのは大したもんだが、俺も当時は顔を憶えたばかりで注目してたのだ。

マーティン・シーンは、エヴァ・ガードナー演じる武器製造メーカーの社長夫人のツバメみたいな存在で、その実は麻薬密輸の手配犯ナバロを演じてる。
社長夫人と同伴してれば、国境もフリーパスで通れることを見越してた。
まあ、ろくでなしなんだが、映画の最初の会話の中で、ナバロが「アルピニスト」でもあるというセリフが、後半のスタントの見せ場への伏線になってる。

そのナバロを秘かに追ってきた麻薬捜査官を演じるのがO・J・シンプソンだ。
実生活で追われる身になるのは、まだ先のことである。

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細菌兵器というのは、ナチスの強制収容所の「ガス室」を思わせ、シールドされた大陸横断列車は、強制収容所へユダヤ人たちを送りこんだ貨物車を当然思わせる。
ドイツの戦犯を裁いたニュールンベルグが、死へのポイント切り替え地点に設定されてるのも露骨な暗喩だ。
ちょっと社会派を気取ったあたりに、逆に底の浅さも指摘されてきた作品だが、汚染の被害者や、その事実を隠蔽しようする、国家権力の姿勢というのは、つい最近日本人が身に染みて味わったことだけに、このパニック映画をもう「絵空事」と笑えないのが情けない。

昔封切りを見た時には、感じなかったことだが、今回見直して、この映画には、一度も列車の機関士の姿が映らなかったのが気になった。
自動走行なんかできる車両ではないし、当然機関士は乗ってるはずだ。
こんな国際列車の運転を任されるんだから、それなりにキャリアも積んでるだろうし、ということは鉄路にも熟知してるだろう。
ヤノフへ向かう線は廃線となってて、しかも渡るには危険な老朽化した橋の存在も知ってるはず。
なぜすんなりと列車は向かってしまうのか?

どういう説得をされたか、または脅しをかけられてたのか?それともニュールンベルグで列車を下ろされ、軍の人間が代わりに運転席に座ったのか。
橋の直前で機関車両から飛び降りるような算段だったのか?
そこを数カットでも入れ込んでほしかった。
いやそういう描写を俺が見落としてたのかな。どうも釈然としないのだ。

2012年7月30日

フィルムセンターで『コンボイ』 [映画カ行]

『コンボイ』

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この29日まで京橋の「国立近代美術館フィルムセンター」で特集上映されていた「ロードショーとスクリーン ブームを呼んだ外国映画」のラインナップの中の1作。

6本見た中で一番プリントの状態が悪かった。前半の方のリールでは、「バラバラバラバラ」というノイズがしばらく乗っかっていて集中力を妨げる。


1978年公開のサム・ペキンパー監督作。見るのはその公開時以来のことだ。
ラストの見せ場は憶えてたが、ほかはほとんど憶えてなくて、初めて見るような新鮮さで楽しめた。

70年代には大型トラックを転がすアクション映画がけっこう作られてたね。
バート・レイノルズの『トランザム7000』シリーズはその代表みたいなもんだが、ほかにもジャン・マイケル=ヴィンセント主演の『爆走トラック'76』とか、
ピーター・フォンダ主演の『ハイ・ローリング』とか。
『マッドマックス2』でもメル・ギブソンが、クライマックスのチェイスシーンでは、タンクローリー転がしてたし、スピルバーグの『激突!』も、タンクローリーの馬力と迫力を強烈に印象づけた。

久方ぶりにトラック野郎のアクションを見たのは1998年の『ブラック・ドッグ』だった。
主演は今は亡きパトリック・スウェイジ。
髪も短く刈って、ずいぶんと渋くなったなと思ったもんだが。
最近活躍の目立つ伊原剛志って、パトリック・スウェイジとカブる感じがある。

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俺は『リアル・スティール』が気に入ってるんだが、それはヒュー・ジャックマン演じる主人公が、大型トラックで移動してるからという理由もある。


この『コンボイ』では、クリス・クリストファーソン演じるラバー・ダックが転がす黒のMACKトラックをはじめ、船団(コンボイ)を組むようにハイウェイをトラックが連なってくのが壮観なんだが、アメリカのトラックはとにかく無骨なんだよね。

一時期日本でブームになった「デコトラ」とは対照的だ。
あのデコトラは、その精神的なルーツをたどれば、祭りの「山車(だし)」から来てるのだろう。
煌びやかな装飾の中に、自分がどこの土地の者かを示す地名なども書かれている。
思い思いの装飾で自分をアピールし、自分の土地を誇らしげにアピールする。
それは自分の故郷の祭りで「山車」を担ぐ誇らしさに通じてる。
日本のトラッカーたちは自分のルーツを背負ってると言える。

アメリカの陸送トラックのルーツはなにかと言えば、西部開拓時代の幌馬車隊だろう。
当時のアメリカ人たちには、ルーツとなる土地は、海の向こうの捨ててきた国だ。
もう戻ることもない。
幌馬車隊は、新天地でこれから「ルーツ」となる土地を探して旅をするのだ。

幌馬車隊はいつ襲撃を受けるかわからないから、馬車を煌びやかに飾るなんてことはできない。
祭りの「山車」と違って祝祭とは無縁の、無事目的地に着くための、無骨な装いとなってる。
その精神が、現在のアメリカのトラックの風貌に引き継がれてるんじゃないか?

なので、この『コンボイ』も、ペキンパーが撮ってるということ以前に「西部劇」の再生となるのは必然だろう。
船団を組んで荒野のハイウェイを連なるトラックは、幌馬車隊そのままだし、不当な差別の上、留置場に入れられた仲間を、ひとり助けに行ったラバー・ダックのトラックに、後から追ってきた他の仲間のトラックが合流する場面。

テキサスのアルバレスという町の入り口に、トラックが道からはみ出して、何台も横並びに位置を取る。そして戦闘開始の雄叫びのように、警笛を一斉に鳴らす。
ここなんかは、西部劇でガンマンたちが、馬で横並びになる、あの構図をトラックで再現しててシビれるのだ。


映画はクリス・クリストファーソン演じるラバー・ダックと、トラッカーを目の仇にするアーネスト・ボーグナイン演じる悪辣な保安官ライルとの、対決の構図で描かれてく。
ただペキンパーの演出に、以前ほどの粘り腰が感じられないので、どうも全体的に淡白なアクションになってしまってる。

レストランでの乱闘場面や、クライマックスのアクション場面での、ペキンパーのトレードマークとなった「スロー撮影」も、エモーションを高めるに至らず、セルフ・パロディのように映る。
もっとも公開当時から、もう「ペキンパーのスロー」を期待するのも流行らないという気分はあった。

アーネスト・ボーグナインの「目の仇」キャラといえば、アルドリッチ監督の『北国の帝王』で、ホーボーたちの無賃乗車を絶対許さないという、鬼の車掌を即座に連想する。
あの映画のキャラは、職務と人間憎悪が混在して有無を言わさぬ恐怖を発散させてたが、この『コンボイ』の保安官というのは、難癖つけて罰金を巻き上げよう位の、「イヤな奴」レベルなんで、いざこざが、ちんまりした感じで展開されてる感が否めない。

それでもラバー・ダックが保安官をレストランでブン殴ったことから、トラブルがデカくなって、州境を越えようとするラバー・ダックと、その仲間たち、追う警官隊、ラバー・ダックを援護するため駆けつけるトラッカーたちで、ハイウェイは騒然となり、マスコミも動き出す。

選挙を控えた州知事は、票取りに利用できると、ラバー・ダックを労働者たちのヒーローに仕立て上げ、自分が応援する立場のように演出を図る。
追われる者が、次第に社会のヒーローに祭り上げられてというのは、アメリカ映画にはよくあるパターンで新鮮味はない。


トラック野郎たちがCBで交わす会話のやりとりは面白いし、ラバー・ダックに惚れてるレストランのウェイトレスの描き方なんかいいね。
船乗りだと「港港に女あり」なんて言われるが、トラック野郎の場合は「酒場酒場に女あり」ってとこか。
このウェイトレスのヴァイオレットは、ラバー・ダックが店に立ち寄るのを心待ちにしてる。
ラバー・ダックの誕生日が近いからと、プレゼントを用意したと言って、
「トラックの中で見せるから」と鍵を受け取る。

ラバー・ダックがトラックに戻ると、体にリボンを巻いて待ってるヴァイオレット。
だがラバー・ダックは、ちょっと前にハイウェイで知り合った、ジャガーXKEを運転するアリ・マッグローをトラックに乗せることに決めていた。
彼女がオイル漏れを起こしたジャガーを売っ払って、その先の足に困ってたからだ。
ふつうなら「アタシがいるのに、こんな女と!」
とキレそうなもんだが、ヴァイオレットは
「彼をよろしくね」と見送るのだ。なんだよ、いい女じゃないか。

キャシー・イェーツという女優のことは俺は知らなかったが、ちょっとテリー・ガーのような雰囲気がある。

ヴァイオレンスの巨匠の映画でありながら、カー・クラッシュや家屋粉砕や銃撃戦までありながら、死人はひとりも出ないという、その意外性は悪くない。

前にもこのブログで書いたが、C・W・マッコールの全米ナンバー1ヒット『コンボイ』の歌詞をヒントに作られた映画で、劇中に流れるのはC・W・マッコール自らが映画用に歌詞もアレンジしたバージョン。
エンディングにオリジナル版が流れてる。

2012年7月29日

フィルムセンターで『エンドレス・ラブ』 [映画ア行]

『エンドレス・ラブ』

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この29日まで京橋の「国立近代美術館フィルムセンター」で特集上映されている「ロードショーとスクリーン ブームを呼んだ外国映画」のラインナップの中の1作。

1981年12月に「お正月映画」として公開されてるが、当時俺はスルーしてて、その後DVDとかでも見てなかったんで、今回初めてスクリーンで相対したわけだが、いや聞きしに勝る「困った映画」だったな。

青春ラブストーリーであり、ブルック・シールズを売るためのアイドル映画でもあるんだが、内容は今でいうケータイ小説の映画化作みたいなもの。『恋空』とかね。『恋空』見てないけどさ。
映画に描かれてるテーマをどう解釈するとか、そういう見方はどうでもよくて、とにかくよくこの人物設定とストーリーでGOサインが出たなという、そこんとこを楽しむべきものだった。
あらすじを真面目に書くのも憚られるので、くだけて書くんで、まあ聞いてください。


課外授業でプラネタリウム見学に来てる15才の女子高生が、ブルック・シールズ演じるジェイド。
その彼女の席の隣に後から忍び込むように入って来るのが、ボーイフレンドで、新人マーティン・ヒューイットが演じるデヴィッド。
17才で上級生の男子がジェイドと暗闇でいちゃついてるもんだから、周りの女子も色めきたつわけ。
純愛ドラマっぽく、二人が恋に落ちる部分は端折られ、肉体関係成立済み。

ジェイドは飛び抜けた美少女で、映画で説明はないが、彼女の兄貴が、デヴィッドの同級生で、紹介されたのが最初だったのだろう。それからデヴィッドは頻繁にジェイドの家族の元を訪れてる。
ジェイドの父親ヒューは開業医で、その家庭もユニークだ。
どうもフラワー・チルドレン世代で、執筆活動もしてる母親アンは、子供たちの恋愛にも
「いいんじゃないの?ラブ&ピース」な立場だ。

ヒューは自宅でパーティを開くと、バンドは入るわ、マリファナは回すわで、テンション高くなるのだった。若い者に囲まれ、興が乗ると趣味のサックスを聴かせたりする。
デヴィッドはそのジェイドの両親から、家族扱いされてることが嬉しかった。
「こんな家族って最高だよなあ」

デヴィッドの両親は弁護士として互いに仕事に追われ、家庭ではろくに会話もない。
自分の話もじっくり聞いてくれる余裕も見られない。
デヴィッドは家族の温もりを味わいたくて、ついジェイドの家で過ごすことが多くなる。
まあ第一の理由は彼女とヤリたいってことなんだが。

「えっ?彼女の自宅に行ってヤッてるの?」
そうなんです。だがそこまでは彼女の家族もまだ知らない。
ジェイドの兄貴のキースは、すでに二人がデキてることは感づいていて、
「妹とヤッたからって、家族と認めたわけじゃないぞ」
とデヴィッドに言い放つ。

キースを演じるのが、これがデビュー作となるジェームズ・スペイダーだ。
映画に出て早々に嫌味なセリフが板についてるのはさすがだな。
キースとしては、自分が紹介したダチに妹を奪われたってのが面白くないんだろう。
妹がブルック・シールズなら、なおさらそう思うわ。


その夜もパーティで父親ヒューは酔っ払って寝室へ。最後まで残ってたデヴィッドには、
「暖炉の火が消えるまでに帰るんだぞ」と言い残し。

デヴィッドとジェイドは両親が眠る2階に聞こえるように
「じゃあ、明日学校で!」と調子を合わせ、ドアを閉めるふりして、そのまま居残り。
暖炉の前で始めるのだ。気づいたの母親アンだった。

なんとなく目が覚めて、寝室から下の階へ降りて行くと、暖炉の前で素っ裸で絡んでる娘とデヴィッド!
「なんということでしょう」と一瞬ショックで目を逸らすが、なぜかすぐにガン見。
娘のエクスタシー顔を眺めて微笑んでるではありませんか!そんな母親って…。

「ああ、私にもあんな若い頃があったんだわ」って表情なのだ。
もちろんアンはその事はオフィシャルにはしなかった。

期末試験の時期だというのに、勉強なんか手につかない二人。
ブルック・シールズも頑張って喘ぎ顔とか作ってる。
一箇所デヴィッドがおっぱいに触れる場面があるが、あれは別撮りのボディダブルだろう。


ほぼ毎日の夜這い状態が続くわけだが、ある朝、父親のヒューは、2階の娘の部屋に、デヴィッドが素っ裸で立ってるのに仰天。

「なんでここにいる?」
しかもそこにシャワーを浴びてきたと思しき娘が。
「いったいここで何をしとるんだ?」と問い詰めるも
「私の部屋で何しようと勝手でしょ!」と娘逆ギレ。

あとで妻のアンに訊くと
「あらあなた気がつかなかったの?」ときたもんだ。
「デヴィッドは家族が寝静まった夜中にそっと来て、夜明け前には帰ってくの」
「コウモリみたいで素敵でしょ?」
うーむ、自分の妻とはいえ、この女、話にならんな。

しかもジェイドはそんなどさくさに紛れて、診察室から睡眠薬を失敬しようとする。
父親に見つかり
「眠れないのよ!」とまた逆ギレ。
あれだけ毎晩ヤッてれば、疲れてぐっすり眠れそうなもんだが、若さゆえであろう。
「お前の歳で睡眠薬はまだ早い!」
父親もな、ここで医師的所見を述べるのも、指摘すべき部分がズレてる気がするが。

実際ジェイドは授業中は居眠りこいてて、成績もガタ落ち。
休日に夜這いではなく、昼間にジェイドの自宅を訪れたデヴィッド。
だが声をかけてもキースはガン無視。
父親ヒューからは
「娘に会わすわけにはいかない」
「試験前に勉強も手につかないでいる。30日間会うのは禁止だ」
「30日経ったら改めて考えよう」

後から出てきた母親のアンに頼ろうとするが、家に入ろうとするデヴィッドを「警察を呼ぶぞ」とまで言って拒絶する父親。
突き飛ばされて、追い払われるように出て行かされる。


学校でもジェイドの姿を眺めるだけの日々。すっかりくさったデヴィッドは、同級生の友達に事の次第をボヤく。
「そんな家、放火してやれよ」

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そう言った同級生の顔をよく見るとトム・クルーズではないか?
ジェームズ・スペイダーとともに、この映画がデビュー作だが、端役もいいとこで、この場面のみだ。
しかもセリフが「俺は前に放火したことあるけど、自分で通報したら、その家から感謝されたぜい!」
とバカ笑いしてる。

あの精悍な表情など微塵もなく、この端役の若者が、将来ハリウッドを代表する大スターになろうとは、この映画に係わった誰ひとりとして、夢想だにしなかっただろう。

スペイダーやクルーズがその後スターの階段を登ってくのに、この映画で主役に抜擢された、マーティン・ヒューイットは、すぐに忘れ去られてしまったのだから皮肉だよ。

でもってデヴィッドは、そのトム・クルーズのセリフ通りに、本当にジェイドの自宅に放火しちまうんだから、開いた口が塞がらない。
つまりこの映画で、物語をある意味劇的に動かしたのは、端役のトム・クルーズだったということも言えるんで、すでに影響力を発揮してるということだよな。


玄関先に積んであった暖炉の薪に火をつける。一応ボヤですむように、バケツで上の部分には水をかけてるんだが、17才の浅知恵というのか、瞬く間に火は燃え広がり、見てたデヴィッドは思わずドアを破って、ジェイドたちに火事を知らせる。

「なんでここにいる?」
ジェイドの両親にキースとその弟、火にまかれる前に逃げ出すが、デヴィッドはジェイドを助け出そうとして何かにぶつかり気を失う。
ジェイドも無事で、倒れたデヴィッドは、ヒューが抱えて外に連れ出した。
もう何やってんだよ。火つけといて助け出されるって。


デヴィッドは自供し、裁判の末、重大な罪だが情状酌量の余地もあるということで、保護観察処分で、精神療養施設への強制入所を言い渡される。
ジェイドの家の人間に接近してはならないとも。
ヒューは刑の軽さに激怒。まあデヴィッドは親が弁護士だしねえ。

その後2年間、施設で暮らす中で、デヴィッドは何十通もの手紙を、ジェイドに向けて出していた。
だがすべて院長の手に渡り、投函されることはなかった。

デヴィッドは面会に来た両親に
「もうこれ以上耐えられないから出してくれ!」
と泣いて頼み、両親は院長に手を回して、デヴィッドを退院させる。
それを伝え聞いたジェイドの父親ヒューはまた激怒。

ジェイドの家族はあの一件以来こわれてしまった。父親ヒューは若い女を作り、両親は離婚。
ジェイドはひとりバーモンド州の大学のそばで下宿生活をしていた。


この精神療養施設の描写もいかんなと思うのは、デヴィッドは我が身を嘆くだけで、施設の患者と触れ合って自分を見つめ直すとか、そういうことが一切ない。

それから映画で言及されてなかったが、放火で家を全焼させたんだから、当然賠償請求って話になるだろう。デヴィッドの両親が払ったのか?
自分の家に戻ってくる場面があったから、家を売ったということはないとすると、やっぱり弁護士って稼げるってことなんだな。


でこのあと、ジェイドの家族に会うことを禁じられてるのに、デヴィッドはニューヨークに住むアンの部屋を訪ねてる。その前あたり俺は一瞬眠ってたんで、どういう経緯か知らない。
アンはあれだけの目に遭わされたデヴィッドを、それでも拒絶してないね。驚いた。

アンはジェイドがバーモンドに居ることを教えちゃったみたいだが、デヴィッドはバス停まで行くものの、バーモンド行きのバスに乗る踏ん切りはつかなかった。

悶々としながら、ニューヨークの街を歩いていると、交差点の向こうにヒューがいるではないか?
隣には若い彼女が腕組んでる。
先に気づいたのはヒューの方だった。顔色が見る見る変わる。
その殺気を感じたのか、デヴィッドが顔を向けると、二人の目が合った。

「なんでここにいる?」
夜這い発見から都合3度目の疑問となるね。

デヴィッドは思わず身を翻し、ヒューは後を追おうと、赤信号で飛び出し、タクシーに轢かれて即死。
若い彼女は取り乱し、デヴィッドは一度は駆け寄るが、その彼女と目を合わせた後、その場を立ち去ってしまう。

ヒューの事故死は家族の元にもたらされ、アンは部屋を訪れたデヴィッドにそれを告げて泣き崩れる。
自分がその場にいたとは、まして自分が事故死の引き金になったとは、とても言えない。
だがその部屋にはヒューと一緒にいた若い彼女が。
ドアから見えるデヴィッドの横顔に「もしや」と思った。

アンのもとを立ち去り、ホテルの部屋に戻ったデヴィッドを、誰かが訪ねてきた。それはなんとジェイドだった。
葬式にやってきて、母親からデヴィッドの居場所を聞いたのだ。

デヴィッドはアンに会った時に、施設で投函されることのなかったジェイドへの手紙を、本人に渡してほしいと託していた。
いまジェイドはその手紙をすべて読み終えて、デヴィッドに会いに来たのだ。
「だけどもう元通りにはならない」
立ち去ろうとするジェイドの腕を掴み、ベッドに押し倒す。抵抗するジェイドに
「君はまだ僕を愛してる!」
デヴィッドの叫びに、ジェイドは腕の力を抜き、すべてを委ねた。


久しぶりにすっきりしてしまった二人だったが、ホテルの部屋に、ジェイドの兄キースから電話が。
「聞きたいことがあるから、母の部屋に来てくれ」
デヴィッドはジェイドを伴い部屋を訪れる。キースは父親の若い彼女に
「現場にいたのはあいつか?」
若い彼女は頷く。ジェイドは驚き
「デヴィッド、パパが死んだ時その場にいたの?」
「ああ、いたんだ」
「でもあれは事故だった」
ジェイドは後ずさった。
「お前のせいで父さんは死んだんだ!」
キースは掴みかかり、その騒ぎに警官が乗りこんで、デヴィッドは連行されていった。

裁判所命令を破った以上、行く先は刑務所しかなかった。
さすがに二人の関係もここまでだろう。
しかし、ジェイドは信じていた。「エンドレス・ラブ」を!


ダイアナ・ロスとライオネル・リッチーによる主題歌が流れるラストシーンを、脱力して眺めるほかない俺がそこにいた。
もう映画の感想とかそんなことより、ストーリーを読んでもらえば、それがすべてという映画だ。
純愛ラブストーリーの名匠と謳われたフランコ・ゼフィレッリとしても、この脚本では途方に暮れたんではないか?

脚本はジュディス・ラスコーという女性で、他に何書いてるのかと思ったら、俺の大好きな
『ドッグ・ソルジャー』も書いてるのか!どうなっとるんだ。

マーティン・ヒューイットの演技はそれほど大根という感じでもなく、だがほとんどキャリアを伸ばせなかったのは、こんな共感も得られない「なんでここにいる?」男を最初に演じてしまって、そのイメージに足引っ張られたという不運さもあるんじゃないかな。

ブルック・シールズは、これはもう奇麗ですよ。
ときおり目線が定まってないような表情に見えることもあったが、アイドル映画としては成立してるんだろう。

2012年7月28日

隠し砦の白雪姫とジブリの森 [映画サ行]

『スノーホワイト』

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グリム童話の「白雪姫」がけっこう陰惨な物語だということは、すでに知られてる通りで、この映画も、いわゆる「ディズニー」的なアレンジではなく、原作の基調に忠実なダーク・ファンタジーに設えてある。
その暗さやシリアスさを牽引してるのが、シャーリーズ・セロンだ。若さと美貌の維持に執着し、継娘スノーホワイトの心臓を奪おうとする、王妃ラヴェンナを、エキセントリックに演じている。

キャスティングに関しては、当初はシャーリーズ・セロンの王妃より、スノーホワイトを演じるクリステン・スチュワートの方が美しいという設定には疑問の声が上がったほどに、シャーリーズは確かに美しいのだ。
ベテラン女優らしい、見栄の切り方も熟知した演技で、序盤は彼女の映画となってる。
だが彼女の演技も、その美しさの表現も、なにか映画を突き抜けるような、そういう迫真性は感じられない。

クリステン・スチュワートは、演技経験も、シャーリーズとは比較できないほどに浅いし、感情表現も一本調子に思う。
だがここが残酷な所だが、クリステンの、女優として戦う術をまだ身につけてないというのか、その無手勝流な「若さ」が、皮肉にも映画の枠をはみ出すような美しさとなって、こっちに迫ってくる。

俺は別に彼女は好きでも嫌いでもないという立場だが、泥まみれになって、幽閉された城を脱出し、恐ろしいガスの充満する「黒い森」で朦朧と彷徨う彼女を、美しいなと思った。
「若い」という野生の美があったのだ。

それはカメラによる所もあるかもしれない。シャーリーズ・セロンを撮る場面は、フィクスして、アップでも過剰に寄らず、きっちり画面に収めてる。
対してクリステンを撮るカメラは大胆に寄りの画をおさえたり、表情の生々しさを捉えようとしてる。
「芝居を撮るか素材を撮るか」という違いが感じられるのだ。

これが例えば王妃ラヴェンナを別の女優が演じていて、「若さには敵わないわよねえ」なんていう感じで、王妃の滑稽さを滲ませるような余裕の演技で見せていれば、また印象は違ったかもしれない。
シャーリーズは、そういう腹芸抜きに、王妃自身の過去のトラウマと、美への渇望をマジに演じてしまうんで、女優と加齢というテーマが、役の世界以上に際立ってしまってる。
「おとぎ話のはずなのに、シャレになりませんね」ということだ。


この映画が「気楽にファンタジーを楽しもう」と思うとアテが外れるのは、役者たちと個性の「濃さ」にもある。
王妃ラヴェンナの弟フィンを演じるサム・スプルエルは、イギリスのテレビドラマの世界でキャリアを積んできてる役者だが、ポール・ベタニーを思わせる「白い顔」で、クセの強い悪役ぶりを見せる。
その表情演技は迫力があった。

この映画の最大の収穫は、原題にある「白雪姫と狩人」の狩人役、クリス・ヘムズワースだろう。
『マイティ・ソー』を見た時には別段どうとも思わなかった役者なんだが、印象が変わった。

この映画ではもう方々で指摘されてるが、黒澤時代劇における三船敏郎を彷彿とさせる風貌であり、役どころなのだ。これがハマってる。
姫を守りながら城を目指すというのは『隠し砦の三悪人』であり、途中で出会う7人の小人たちは、あの映画の千秋実と藤原鎌足の役回りだ。

『隠し砦』だけでなく、スノーホワイトと狩人が、葦で覆われた、女たちだけの水辺の村を訪れるくだり。
ここがフィンたち追っ手に焼き討ちにされるんだが、その場面で姫を守って戦う狩人の姿は、
『七人の侍』で、燃え盛る水車の前に、置き去りにされた赤ん坊を、抱きかかえた菊千代が
「この赤ん坊は俺だ!」と叫ぶ、あの三船敏郎の名芝居の場面を思い出した。


7人の小人たちを、ボブ・ホスキンズ、イアン・マクシェーン、エディ・マーサン、レイ。ウィンストンといった、イギリスの渋い名優たちに演じさせてるのが贅沢!
しかもCGによって、本当にあの体形に違和感がない。演じた本人たちが、出来上がった画を見て、一番喜んだだろうね。

彼らは映画の後半は活躍の場も多いのだが、この『スノーホワイト』のパンフには、キャラと出演者の紹介ページはおろか、その全身を写した場面スチルすらない。
差別表現かなにかに配慮でもしたんだろうか?そういうことが余計なんだよ。

スノーホワイト.jpg

アメリカ映画界では「小人症」の俳優たちが、映画などでキャリアを積める環境ができており、そういう人たちを画面に出すことが差別につながるなどという考えは、逆にその人たちの労働する権利を奪うことになる、そう捉えられているのだ。しごく真っ当な考え方だと思うよ。

むしろこの映画で問題にするとすれば、「小人症」ではない役者にCGを施して、そういう役を演じさせたという点だろう。だって仕事の機会を奪われたわけだからね。

ピーター・ディンクレイジやジョーダン・プレンティスといった、顔の知られた役者もいるのに。
競作となったジュリア・ロバーツ主演の『白雪姫と鏡の女王』には、小人役として、そのジョーダン・プレンティスが出てるんで、そちらの方はCG処理とかではないのだろう。


『スノーホワイト』は役者たちの演技も含め、けっこうシリアスなアプローチで臨んでるわりには、スト^リーには粗も目立つ。
スノーホワイトには幼なじみのウィリアムがいる。幼い頃、王妃の手勢の者に拉致されたスノーホワイトを助けることができなかったウィリアムは、長じて弓の名手となり、王妃に抵抗する公爵の息子として、幾度となく王妃の軍隊に奇襲をかけていた。

ウィリアムはスノーホワイトが、幽閉されてた王妃の城を脱走したことを伝え聞いた。
そして王妃の弟フィンが組織する追っ手に、弓の名手として身分を隠して加わろうとする。
弓の腕前を認めたフィンは、一隊に加える。

そこがまずね。ウィリアムはそれまで再三、王妃の軍隊を襲ったりしてるわけで。なんでフィンは疑いもなく、隊に加えるのか?
葦の村で追っ手が襲撃かけた時も、ウィリアムは追っ手の兵隊に弓を射掛けてる。
しかしそこでもバレずに、なおも一隊に加わってるのだ。
フィンは狡猾なキャラに設定されてるが、これじゃ「節穴」。

そしてウィリアムに関連して、王妃ラヴェンナの魔法の効力の実効性もはっきりしない。
ラヴェンナはスノーホワイトが、脱走して「黒い森」に逃げ込んだと聞かされる。
「あの森では私の魔力は通じない」と言ってたから、弟に追わせるのはわかる。
逆に言えば、森を抜ければ、魔力でどうとでもできるという事だ。

スノーホワイトと、ウィリアムが、再会を果たしたあと、そのウィリアムに化けて、スノーホワイトに毒リンゴを齧らせる場面があるんだが、ラヴェンナは何でウィリアムがスノーホワイトと再会したことを知ったんだ?
二人が幼なじみだということは、小さい頃一緒に遊んでるのを見てたかも知れないから、認識してたとしても。

弟のフィンが、ウィリアムの素性を知った上で、追っ手に加え、スノーホワイトと再会させておいて、姉の王妃にそれを伝える。そこまで企んでたという解釈もできるが、残念ながら、王妃に知らせる前に、フィンは狩人と戦って殺されてるのだ。


その王妃ラヴェンナが、自らの若さと美貌を保つために、少女たちの生気を吸い取って、いわば「死をもたらす」存在なのに対し、スノーホワイトは「生命をもたらす」存在に描かれている。

スノーホワイトとその一行が、黒い森を抜け、妖精たちの「聖域」という森に足を踏み入れると、森の花や生物たちが一斉に芽吹き始める。痛風だなんだと体の悪かった7人の小人たちも、すっかり具合が良くなる。それは彼女のおかげなんだと。

だがそのわりには、追っ手の矢で射抜かれた小人の一人を、死から救うことはできなかったり。
なんか設定がぐらついてないか?

とまあシリアスに作ってる分だけ、気になる所も出てきてしまうが、俺はジブリの影響も感じられると言われる「黒い森」の描写とか、その色のない世界から、妖精の森がどんどんカラフルになってく描写とか、色彩設計に力が入っているのが、見てて楽しかったのはたしかだ。

2012年7月27日

フィルムセンターで『愛と哀しみのボレロ』 [映画ア行]

『愛と哀しみのボレロ』

愛と哀しみのボレロ.jpg

この29日まで京橋の「国立近代美術館フィルムセンター」で特集上映されている
「ロードショーとスクリーン ブームを呼んだ外国映画」のラインナップの中の1作。

クロード・ルルーシュ監督の184分に及ぶ音楽大河劇といえる大作だ。現在DVDも廃版なため、見ることな困難となってる映画でもある。
俺は1981年の公開時に見ていて、このブログの「俺の午前十時の映画祭(80年代編)」の50本に選んだコメントの中で、その時の感動を思い出しつつ書いた。
30年以上経って、今回スクリーンで見直して、
「やはり思い出というのは美化されるもんだなあ」
と嘆息してしまった。

フィルムセンターの入場料は基本500円なんだが、今回はなぜか「特別料金」の1000円だ。納得いかない常連客の姿もあったが、にしても客席は8割方は埋まってた。
カラヤン、グレン・ミラー、バレエのヌレエフ、エディット・ピアフといった、国籍の違う音楽家たちをモデルとしたと思しき、登場人物たちの、世代を跨いだ、第2次大戦下から、80年代初頭までの人生の歩みを、音楽を散りばめながら描いていく。


その中で実在の人物をモデルとしない、ユダヤ系フランス人の男女のエピソードが、この映画の軸となってる。

パリの有名なキャバレー「フォリー・ベルジュール」の楽団員として出会った、ピアニストのシモンとバイオリニストのアンヌ。
ふたりはすぐに恋に落ち、結婚して赤ちゃんも授かるが、パリはナチスドイツの占領下に置かれ、ユダヤ人狩りの末、二人は赤ちゃんを抱いたまま、強制収容所への貨物列車に乗せられる。

このユダヤ人狩りのシークェンスには時間が割かれており、俺は忘れてたが、小学校の教室にナチスの軍人が生徒をチェックしに来る場面があった。
男子生徒のズボンを下ろさせ、割礼のあとを確認するためだ。

ひとりユダヤ人の少年がいて、軍人は少年に名前を訊く。フランス人の名だが疑っている。
女性教師は「これはおできの痕です」と言い、キリスト教の祈りの言葉を少年に暗唱させる。
軍人は教室を出ていき
「憶えておいて良かったでしょう?」
と少年は教師に言われる。そんな場面があった。

貨物列車に乗せられたシモンとアンヌ。赤ちゃんは泣き止まない。貨物列車の車両には、トイレ用の穴が隅に開けられており、シモンは妻に「子供だけでも助けよう」と言う。
そして紙にペンで書き置きをする。
文面を読んで泣き叫ぶアンヌ。だがシモンはアンヌの腕から赤ちゃんを放すと、服にくるんでその穴から、停車中の駅の線路に、そっと下ろす。

紙には「ダビッド」と名づけられた赤ちゃんを拾った人間に宛て、指輪といくばくかの紙幣が包んであり、「戦争が終わるまで預かってほしい」と書かれていた。

だがフランス国境沿いのその駅で、赤ちゃんを拾った男は、金と指輪だけ持ち去り、赤ちゃんを村の教会の玄関先に置いて行った。


前にブログの中で、強制収容所で、ガス室におくられるシモンを見つめるアンヌの場面に泣けたと書いたんだが、俺はその時の、アンヌを演じたニコール・ガルシアの表情が強く残ってたと記憶してた。
でも今回見直すと、その場面は彼女はじかにシモンの最期を見てたわけではなかったんだな。

アンヌは収容所でもバイオリンを弾かされていて、その姿と、ガス室で扉を閉められるシモンの表情がカットバックされるという描かれ方だった。
まあ、いい場面ではあるんだが、どこらへんで泣けたのかが、見直すとわからなかった。


でもって、この映画の趣向というのは、カラヤンを除いて、前に書いた3人の音楽家も含め、それぞれの二世代を同じ役者が演じてるのだ。

ジャック・グレン(グレン・ミラー)とその息子をジェームズ・カーンが。
グレン・ミラーの事故死する妻と、その娘でのちに世界的シンガーとなるサラをジェラルディン・チャップリンが。
ボリショイ・バレエ団の選考委員で、スターリングラードで戦死したボリスと、その忘れ形身で後にボリショイ・バレエの花形ダンサーとなり、西側に亡命を果たすセルゲイ(ルドルフ・ヌレエフ)にはジョルジュ・ドンが。
占領下のパリのナイトクラブで歌うエブリーヌ(エディット・ピアフ)は、若いナチスのと恋に落ち妊娠するが、終戦後、敵と寝た女と吊るし上げられ、頭髪を刈られてパリを追放される。
生まれ故郷で私生児を生み、自殺する。祖父母に育てられたエディットは、美しく成人してパリに出る。その二役をエブリーヌ・ブイックスが演じてる。

エブリーヌが情を通じた軍楽隊長カール(ヘルベルト・フォン・カラヤン)を演じるのが、ポーランドの名優ダニエル・オルブリフスキだ。
つまり映画の中では、ピアフがカラヤンの子を宿したという描かれ方だ。
しかもカールはこの時すでにドイツには妻がいたのだ。


そのカールは戦後指揮者としてヨーロッパで名声を得るようになり、初のニューヨーク公演へと意気込んだ。チケットは完売という。
だがコンサート開始時間、カールの妻は舞台カーテンの隙間から客席を覗いて愕然となる。
客がいないのだ。
中央に男が二人だけ。新聞の音楽欄担当のライターだった。

だがカールは演奏を敢行した。演奏を終え、楽団員から拍手が沸く中、天井からビラが撒かれる。
それは1枚の写真で、カールが若い頃ベルリンでヒトラーの前で演奏し、声をかけられてる場面だった。チケットはニューヨーク在住のユダヤ人たちが買い占めてたのだ。
この場面は映画のハイライトのひとつだろう。


もちろん最大のハイライトは、映画終盤17分間に及ぶ、ユニセフ・チャリティ・イベントにおける、ジョルジュ・ドンによる「ボレロ」の舞だ。

ジョルジュ・ドンにばかり注目が集まってしまうが、彼が演じるセルゲイの母親タチアナを演じてるのが、この映画のバレエシーンの振り付けを担当してるモーリス・ベジャールの、劇団のプリマでもあるリタ・ポールブールドだ。
彼女が戦場のロシア兵への慰問先で、民族衣装でコサックダンスのような踊りを披露する場面があるんだが、この時の彼女が可愛い。
本当にロシア人形が踊ってるようで、ここは見直して「発見」できた場面だった。

総じて一世代目のドラマはそれなりに見応えもある。
グレン・ミラーのエピソードはとってつけた感が否めない。
アメリカ人だから、フランス人のクロード・ルルーシュには、さして思い入れる所もないんだろう。
戦時中のエピソードといえば、ジャック・グレン夫妻の隣人の、いつも喧嘩してる双子の兄弟が、ノルマンディ上陸作戦の、パラシュート降下の最中に撃たれて死ぬという位だ。


戦後の二世代目のエピソードが面白くないのだ。
その要因として、同じ役者が親と子の世代を演じ分けてるんで、わかり易いのか、ややこしいのか、よくわからん状態に陥るということがある。

最たるものが、無名のフランス人の楽団員を演じたロベール・オッセンとニコール・ガルシアのケースで、特にロベール・オッセン演じるシモンは、ガス室で早々に命を絶たれるわけだが、彼らが託した赤ちゃんのダビッドを育てた、教会の牧師もロベール・オッセンが演じてる。
さらにダビッドではなく「ロベール」と名付けられた、シモンの息子の役もロベール・オッセンが演じてるんで、どこかしこにもロベール・オッセンが出てきてしまうのだ。

シモンの妻アンヌは、強制収容所から生きて戻り、戦後も楽団員として活動したが、頻繁に自分たちが赤ちゃんを置き去りにした、あの駅を訪れ、その消息を辿ろうとし続けてた。
一方作家として名をなしたロベールは、自分の出生の秘密を初めて知り、自分を生んだ母親が、今は精神を病んで施設にいることを突き止める。

息子と母親が再会を果たす場面は、終盤の「ボレロ」の旋律とともに描かれていて、施設の庭のベンチに座る二人を、かなりのロングの画で捉えた演出自体は上手いと思うのだが、どうしても夫婦だったロベール・オッセンとニコール・ガルシアが、母と息子として再会する、その絵づらが喉に引っ掛かってしまう。

グレン・ミラーのエピソードは二世代目に入って、さらに混迷を深めてく。ジェームズ・カーンは父親ジャックと、その息子でゲイのジェイソンを演じ、ジェラルディン・チャップリンは、交通事故で死亡した妻と、その娘の二役。
娘のサラは兄のジェイソンのサポートで、シンガーとして大成功を収めてるという設定だ。
劇中のセリフには「ビートルズに匹敵する人気」とか「世界中で1600万枚のレコードを売った」
多分、兄弟ということからカーペンターズをモデルにしてるんだろう。

まあカレン・カーペンターも決して美人というわけじゃないが、彼女にはあの歌声があったし、やはりスターのオーラがあった。
ジェラルディン・チャップリンには悪いが、華なさすぎ!
とても世界的人気シンガーには見えない。

この二世代目の描写でいかんと思うのは、シモンの息子ロベールを巡るエピソードが散漫なことだ。
アルジェリア戦争に従軍した戦友たちと友情を育むという展開だが、それまでの音楽絡みと関係なくなる。
当時フランスで有望視されてたリシャール・ボーランジェや、フランシス・ユステといった若い役者たちを出演させたいというだけの意図に感じられるのだ。
彼らのエピソードがペラい。


映画の流れとしては、前半で培った貯金も、後半で使い果たし、なんとかジョルジュ・ドンで元をとったみたいな。
この劇場公開版より長い4時間を越えるバージョンもあるらしい。
もっと描き込みがなされてるんだろうか。

2012年7月26日

ホセ・ルイス・ゲリン『ベルタのモチーフ』 [映画ハ行]

『ベルタのモチーフ』

渋谷の「イメージフォーラム」で開催中の「ホセ・ルイス・ゲリン映画祭」にて。
1983年の長編監督第1作のモノクロ映画。

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2007年作の『シルビアのいる街で』が翌年の「東京国際映画祭」で上映されたことで、一躍その名が日本でも知られることとなったので、まだ若い監督かと思ってたが、1960年生まれというから、俺と歳が近い。この『ベルタのモチーフ』は23才で撮っている。

エリック・ロメールの『海辺のポーリーヌ』とかに出てた、ゴージャスな美女アリエル・ドンバールの名前があるから、彼女が主演かと思ってたが、ちがった。


スペイン、セゴビアの辺鄙な農村に暮らす、思春期の少女ベルタが主人公。
ベルタには父親がいない。肖像写真が置かれており、父の死が読み取れる。

家にはけっこう歳のいった母親がいて、二人で暮らしてる。兄のホアンは兵役に出ている。
彼女の家の面倒を見ている隣人のイズマエルと、その息子でベルタより年下のルイジト、彼女が会話を交わすのは、その3人しかいない。
イズマエルと息子ルイジトの会話から、ベルタが学校に登校してないことがわかる。
「ホアンが戻れば、学校に行くようになるだろう」

ベルタはイズマエルが搾った牛の乳を、自転車で近所の家に配達する役を担ってる。
近所といっても、見渡す限り、麦畑と荒涼とした丘が続くような土地だ。
ベルタの住まいはその中にポツンと立ってる。

ベルタは「蛇の縁石」と村の人間が呼ぶ家に牛乳を運ぶが、中から人のうめき声のようなものが聞こえる。ちょっと気味が悪い。
イズマエルの話によると、その家に越してきたのは、デメトリオという名の男で、頭がおかしいのだと言う。

次に配達に行った時、ベルタはデメトリオとハチ合わせた。中世のボヘミアンのような格好をして、不思議な三角帽を被っていた。
彼は物静かで「頭がおかしい」ようには、ベルタには見えなかった。

ベルタが野草摘みに森に入った時も、デメトリオは大きな木に腰掛けて、本を読んでいた。
デメトリオは野草の知識もあり、摘むのを手伝ってくれた。
麦畑の中のくぼみに、燃え尽きた乗用車が打ち捨てられている。
デメトリオは、自分の妻はこの車の中で死んだ、だがまた戻ってくるんだと言った。
妻は異国の人で、金髪で美しく、白いドレスを着てるとも。
ベルタはその言葉を信じた。

だがほどなくして、デメトリオはその車のそばで、古い拳銃を自分のこめかみにあて、命を絶った。
ベルタは少し離れた場所からそれを見ていた。
横たわる死体を覗くと、その場を駆け去った。


デメトリオの死は村に伝わり、未亡人が「蛇の縁石」を封印しに訪れた。
ベルタはその様子を眺めて
「あの女は妻じゃない」と感じていた。
妻は白いドレスを着てるとデメトリオが言ってたからだ。
未亡人は黒の喪服姿だった。

未亡人は三角帽を探している様子だったが、見当たらなかった。
その三角帽はベルタが「形見」として持ち去っていて、彼女はそれを草原に穴を掘り、布に包んで埋めておいたのだ。


丁度その頃、中世のコスチューム劇の撮影に、フランスのロケ隊がこの土地を訪れていた。
主演女優のメイベルは、白いドレスに身を包んでいた。
メイベルは撮影の空き時間に、馬に乗ってこの何もない土地を散策した。草原の只中で馬を下り、休んでると、馬が地面を掘り返してる。
メイベルはそこに三角帽が埋められているのを発見した。撮影に使えそうではあったが、きっと誰かが目的を持って埋めたのだろうと思い、そのままにして立ち去った。

ベルタは未亡人の乗る車に、あぜ道で遭遇する。
「奥さんの偽者」と思うベルタは、なにか追われるような気がして、必死で自転車のペダルを漕いで逃げ去ろうとした。
ロケ隊が撮影に来てることなど知らないベルタは、見慣れない車が何台も連なるのを、訝しげに見つめていた。
三角帽を埋めた穴は掘り起こされている。

ベルタは三角帽を取り出して、自転車を走らせた。ロケも終わり立ち去る車とあぜ道で会う。
黒い車から降りてきたのは、白いドレスを着た金髪の美しい人だった。

メイベルは少女が三角帽を手に抱えてるのを見て、近づいていった。
ベルタは無言でメイベルに三角帽を差し出した。
メイベルは少女の髪を優しく撫でて、二人は別れた。

ベルタのモチーフ.jpg

題名の『ベルタのモチーフ』となるものとは何だろう?

当初の題名は『思春期の夢想』だったというが、ベルタは自分のいる世界を、
「死者と生者の中間」のような場所と見立ててたような所がある。

ベルタは年下の少年ルイジトと、秘密のアジトを作ったりして遊ぶほかは、独りで草原に立って、なにかの音に耳を澄ましてたりする。


彼女のそういう行為には、父親の死が関わっているのだろう。単に風の音を聞くというのではなく、なにか死者の声が聞こえないか、耳をそばだてているように見える。

ベルタは家にいる時は納屋で過ごすことが多く、古いテープレコーダーを肌身離さず抱えてる。同じ歌が流れてくるんだが、すっかりテープが伸びてしまっていて、
「ワオオオーン、ワオオオーン」としか聞こえない。それでもベルタは飽かずに流し続けてる。
この音も歌というより、死者からの声のようだ。

ベルタに係わるモノは「まともに動かなかったり」する。
彼女の自転車もチェーンが切れたり、母親が取り寄せた扇風機も、コードを差し込んだ途端に、狂ったような動き方をして、母親をうろたえさせる。
燃え尽き朽ち果てた車に乗り込んだベルタは、そこが居心地のいい場所というようにまどろんでいる。
すべてが「半分死んでる」ような世界だ。

その一方で、ベルタは昆虫を手に乗せて、愛おし気に眺めていたり、亀の尻尾を紐で結わえて、ビールの蓋をつなげて、ハネムーンの車のように見立てて遊んでる。

自分だけが知る秘密の湧き水をすすり、納屋でワラの感触に包まれ、ルイジトをからかって、泥の上で取っ組み合いをしたり。「生の手ごたえ」を彼女なりに感じとってるように見える。
「半分は生きてる」世界だ。


そんなベルタには、中世の出で立ちで現れたデメトリオは、
「死者の国の住人」だったのかも知れない。
だからデメトリオの「死んだ妻が戻ってくる」という言葉にも違和感持つこともなかったのだろう。

デメトリオの形見となった三角帽を、白いドレスの妻に手渡すこと。
「死者との約束」を果たした時に、ベルタの孤独な世界にも出口が見つかった。


この映画で象徴的に画面に出てくるのが、あぜ道を二分する「Y字路」だ。
画家の横尾忠則が、ここ何年にも渡って描き続けてる、いわゆる「横尾忠則のモチーフ」ともいえるのが、この「Y字路」の風景だ。
「Y字路」で二分された道は一体どこにつながっているのか?
その絵を見る者も不安とともに、得もいえない恍惚感を覚えるのだ。

ベルタの周囲の風景はどこまで行っても麦畑と草原と丘が連なるばかりで、涯が見えない。
足が地についてないような、浮遊感が彼女の中に常にあったのではないか?
「Y字路」の左への道は、ベルタのいる「死者と生者の半々の世界」で、右への道は、彼女が踏み出すべき外界への道だ。

メイベルに三角帽を託した後、ベルタは家のキッチンにある鏡に自分を映し、大人のような仕草で髪を整えて、初めて晴れやかな微笑みを浮かべる。
そして自転車で「Y字路」を右へと駆けていくのだ。

ベルタがデメトリオの死を目撃する場面で、彼女はセーターの襟首を持ち上げて口元を隠す。
トリュフォーの『大人は判ってくれない』のレオのように。
大人が判らない、理解し得ない世界に、少女が佇んでいたことの証のように俺には見えた。

23才のデビュー作でこれだけ確信に満ちた映画を撮っていたとは。
五感の鋭さが半端ない人なんだろうな。

2012年7月25日

ピエール瀧のうさん臭い沖縄言葉 [映画ハ行]

『ぱいかじ南海作戦』

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原作は椎名誠。一時期この人の「探検エッセイ」をけっこう読んでた。
その中のどれかだったか、たしかこんなことが書かれてた。

いつものように探検メンバーで集まって、どこかでキャンプしようという話になった。
すると当日メンバーの一人が自分の彼女を連れて来た。
椎名誠はそれが許せず、そのメンバーを「除名」したというような内容だった。

探検メンバーは男だけで構成されてるのだ。それは女性差別とかそういうことではなくて、いろんな見知らぬ土地へ行く、そこでテント張って過ごしてみる、そういう行為が、ガキの頃俺もやってたが、近くの空き地や雑木林に入りこんで、いろんな物を積み重ねて「秘密基地」にして遊ぶ、その延長線上にあるのだろう。
そこはガキとはいえ、男だけの隠れ場所なのだ。
だがその時間は永遠ではない。夕飯時になれば、母親に叱られるから家に帰らなければならない。

椎名誠がそういう探検に女性を加えないというのは、男だけでなんの気兼ねもしなくていい、その伸びやかさが奪われるということと同時に、探検メンバーの間に色恋沙汰が起こると、もう楽しくなくなってしまうからでもあるのだろう。

それは「やっぱり探検は男のロマンだよなあ」と、男ならではの結びつきの強固さを誇ってるように見えながら、けっこうモロいものだと認識してるからではないか?

この映画で途中から、島の海岸での共同生活に加わる、2人の女の子たちと色恋沙汰に発展してかないのは、映画としては物足りないのかも知れないが、椎名誠の原作であるならば、それは発展してはならないのだ。


映画は、阿部サダヲ演じるカメラマン佐々木が、仕事先のリストラと離婚を一度に味わい、衝動的に南の島に逃れるようにやってくる所から始まる。

沖縄から更に南にある小さな島。レンタカーを借りて島を巡ると、道はやがて行き止まりに。
その先に何があるのだろうと、更に分け入ってくと、目の前に開けたのは美しい海岸。
人目もないし、ここは素っ裸で海へと、パンツを降ろした瞬間、隣に安全帽を被った浅黒い中年男が立っていた。そして藪の中から同じようなホームレス風の男たちがゾロゾロと。
総勢4人に囲まれた佐々木。

だが数分後には、佐々木と4人の男たちは、砂浜でなごんで語り合ってた。
4人の男たちは、この砂浜の周辺で、気ままなサバイバル生活をエンジョイしてるようだった。
佐々木はレンタカーで島に唯一ある商店まで往復し、ビールを買い込んで、男たちに振舞う。
男たちは魚の捕り方を熟知しており、佐々木は生まれて初めて、大きな葉っぱに食べ物を乗せて食べるということに感動する。そして恐る恐る男たちに尋ねる。

「あのお、僕もここでキャンプさせてもらっていいですか?」
男たちは「なんくるないさあ」な感じで受け入れてくれた。

安全帽を被った通称「マンボさん」は、夕方に海を吹き渡る「ぱいかじ」という南風のことを教えてくれた。
「その風にあたれば、なーんにも悩みはなくなって、ぼおーっと気持ちよくなるさあ」
佐々木はここは楽園だと確信した。
こんないい人たちに出会えるなんて、やっぱり人生思いきってみるもんだな。
酒を飲み、男たちが持ち寄ったいろんな食材をつつきながら、砂浜の宴は夜中まで続いた。


佐々木が目覚めると、4人の姿はなかった。藪や鍾乳洞にあったそれぞれの「住まい」も跡形もない。
最悪なのは佐々木の持ち物の一切合切もなくなってた。
財布やカード、ケータイや衣類に至るまで。
島にも駐在さんはいるんだろうが、なぜか被害を届け出る気にならない。
4人の男たちとの時間があまりにも楽しかったからだ。

途方に暮れるまま、砂浜で投網を体に巻いて眠りこけた佐々木を、若者が踏んづけた。
都会から1週間の休暇で来たという若者のことを、佐々木は「オッコチくん」と呼ぶことにし、二人はすぐに打ち解けた。
オッコチくんは佐々木をサバイバルの達人だと、勝手に思いこんでた。
今時の若者には珍しい位に、人を疑うことを知らない。

オッコチくんはカップ麺とか、ティーバックのお茶とか、いろんなものを気前よく奢ってもくれる。
なんとかここに引きとめようと、佐々木は4人の男たちから教わったサバイバル術の受け売りで、オッコチくんの尊敬を得つつ、よからぬ事を画策していた。
自分も4人と同じことをしようと考えたのだ。

だがそれにしてはオッコチくんはいい奴で、海岸での共同生活で友情も芽生えてきた。
佐々木は不安に教われた。オッコチくんは1週間経ったら帰ってしまうんだよな?
考えてみれば一緒に過ごす相手がいるからいいが、もし独りだったら、1日なにをして過ごせばいいんだ?きっと間が持たないぞ。オッコチくんは今や無くてはならない存在だ。


そんな二人の砂浜に、女の子が二人やってきた。テントを張る手つきも慣れてる。
オッコチくんが声をかけに行ったが、いまいち連れない反応だった。
彼女たちはカレーを作って食べ、その匂いは佐々木とオッコチくんのキャンプまで漂ってきた。
もう何日も同じようなものしか食べてない男ふたりに、アパとキミという女の子たちは、カレーを振舞ってくれた。
互いにすぐに打ち解けて、この南の島の生活も、次第に賑やかになってきた。

ある日、買出しに出かけた先で、佐々木は4人組の男の噂を耳にする。リベンジするしかない。
佐々木はオッコチくんとアパとキミに事情を話した。
「ぱいかじ南海作戦」決行である。


「ビールをいかに旨そうに飲むか」というのが、演技プランの筆頭に掲げられてたかのように、とにかくみんな旨そうに飲む。
ビールを売店で売ってるようなシネコンなら、買ってから見るといい。
俺は酒飲めないんで、別にビール飲みたいとは思わなかったが、喉は渇いてくるね。

ほぼ阿部サダヲの個人芸に頼ってる部分はあるんだが、それにしても笑わせ続けてくれる。
爆笑というより、見てる方も「南国」モードになるというのか、すっかりくつろいでしまうんで、エヘラエヘラと笑い続けてるという感じなのだ。

オッコチくんの天然ぶりに佐々木がツッコむというパターンだが、オッコチくんを演じる永山絢斗の演技にイヤミがないので、楽しく見てられるのだ。

あとからやってくるアパとキミには貫地谷しほりと佐々木希。
「きれいどころも必要でしょう」という所だろうが、ロケ地の西表島の空気にあたって、二人ともホンワリとした感じになってた。


インパクトあるのは4人の「ホームレス風」だろう。特にマンボさんを演じるピエール瀧の、うさん臭い「沖縄言葉」は絶妙なものがある。
この人はふだんからキャラ立ちしてるから、意外と映画には使いにくいタイプだと思うのだ。
だがこのマンボさんは、「うわ、いそう」という有無を言わさない生々しさがあった。

食べられる葉っぱにやたら詳しいという「ギタさん」を演じる斉木しげるは、これもいつものうさんくさい芸風のままで、この人ならでは。

この4人の中年男は、自由気ままに、サバイバル生活をエンジョイしてるかのように見えるが、その実、佐々木の持ち物盗んで逃げたり、見てくれもホームレスっぽかったりで、4人を見てて「羨ましい」とは感じさせないのだ。

「南の島に楽園があって、南の島にいけば人生も変わる」
などという幻想に冷や水浴びせる、そんな批評性も感じられる。

監督の細川徹は、舞台の演出をやってた人で、これが長編劇映画は初演出。
思えばこの設定は舞台劇でもできそうだな。

2012年7月24日

森山未來がエクセレントすぎる [映画カ行]

『苦役列車』

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原作は読んでない。そもそも芥川賞とか、直木賞とか、そういったものを受賞した小説自体ほとんど読んだためしがない。中卒で、単純労働の職場を渡り歩き、楽しみは風俗と本を読むことという、19才を主人公にした自伝的内容という。

森山未來が主演した『モテキ』は昨年の後半に映画館で見てるんだが、これといって書きたいことも浮かばず、コメントはスルーした。
あの主人公の自意識内部破裂のような症状は、昔の自分にもあった覚えはあるが、魅力的な女優を4人揃えてるわりには、そのうち2人は無駄キャラ扱いだったし、収拾のつけ方も俺には「刺さらなかった」のだ。


しかしこの『苦役列車』の貫多を演じる森山未來には唸った。
映画の最初の方で、港湾の荷役仕事に派遣されるバスの中で、貫多は専門学校生の正二から声をかけられる。正二は田舎から出てきたばかりで、屈託がなく、昼休みにもひとりで弁当をつつく貫多の隣にやってくる。
まずこの場面がいいし、森山未來の演技が秀逸だ。

貫多は仕事場でも日常生活においても、ほとんど人と言葉を交わすことがないのだろう。
俺の知り合いにもいたが、人とコミュニケーションを図るのが苦手な人の、くぐもった口調を、見事に捉えてる。
しばらくぎこちないやり取りが続くが、正二のことを「こいつとは話ができるかもしれない」という気持ちが芽生えてきて、段々口調が滑らかになってくる。
このワンシーンの中で、森山未來は表情とともに、口調を変化させることによって、貫多のパーソナリティを体現してた。

高良健吾が演じる正二は本当にいい奴で、貫多にとっては福音とも思えるような存在だ。
前田敦子演じる、古本屋の店番、康子に声をかけるきっかけを、貫多に与えてやったのも正二だし、
家賃滞納してアパートを追い出された貫多から、次の住まいの保証金を都合してほしいと言われ、金を貸してやるのも正二だ。

酔っ払った貫多が、幼い頃に父親が性犯罪者としてテレビに晒され、一家離散に追い込まれた過去を話し出し、「俺も親父と同じ血が流れてんのかなあ」と呟くと、
「お前と親父は関係ないだろ。俺はお前はいいとこあると思ってるよ」
と言ってやるのも正二なのだ。

正二も東京に出たてで、知り合いもいない寂しさはあったのだろう。貫多は正二を友達だと思った。
「友達の正二を風俗に連れてってやろう」それは貫多の友情の証だ。
だが潔癖な所がある正二は、風俗には馴染めない。

貫多という人間には、友達という概念も実はよくわかってない所がある。
古本屋の康子に「友達になってください」と言って快諾されると、正二には
「友達ってことは、つきあっていいってことだよな?」と真顔で訊く。
「つきあうってことは、ヤレるってことだろ?」
こんな調子なんで、康子も結局は離れていく。

そりゃあ、会えないからと康子のアパートの前で待ち伏せした上に、
「たのむからヤラせてくれよ!」などと迫られれば、決別の一撃も食らうだろう。
この場面の前田敦子の頭突きが見事だった。

貫多は独りでいる時は、読書にふける物静かな青年で、毒もないんだが、人と相対すると負の部分が漏れ出してしまう。
正二に昔つきあった女の話をする時も、酷い言い草でその彼女のことを腐す。
過去の恋愛話を吹聴する男を、女性は大体嫌うもんだが、それの最悪パターンといっていい。

しかもその話に出した彼女が、行きつけの風俗で働いていて、バッタリ再会、そのまま半ば強引に、彼女がホステスをやってるバーに押しかける。
自分の相手をせずに男といちゃついてる彼女に、またも暴言を吐き、その男にボコられる。
だがボコられた後も一緒に飲んで、動物のマネごっこをさせられる。
なんだこの場面は。
俺は山下敦弘監督の2002年作『ばかのハコ船』が大好きなんだが、このバーの場面なんかは、あの映画のシュールな脱力感に通じる感触があった。


映画を見てれば貫多のろくでもない人間ぷりが、これでもかと開陳されるわけだが、それだけがこの映画の視点ではない。
貫多はろくでなしには見えるが、常に働いてはいるのだ。
この映画は「労働する者」を描く映画でもある。


港湾倉庫での描写にいいものがある。貫多や正二より長く働いてる高橋という中年男が出てくる。
昼飯を食う若い二人にちょっかいを出しに来て
「お前ら、若いんだから夢をもたなきゃ駄目だろ」
などと余計なことを言う。貫多は思いっ切り鼻白んでる。

昼休みに港の堤防に張り付いてるカラス貝を、高橋は容器一杯に取ってくる。
「女房のみやげにするんだよ」
だが冷蔵庫貸してくださいと、社員に言うと
「こんな汚い海で取った貝が食えるわけないだろ、アホか!」と一蹴される。

後になってその場を見てた貫多は
「あの貝どうしたんすか?」
「残念だったすねえ、奥さんのみやげだったのに」
と薄ら笑って、高橋をキレさせる。

その高橋は作業中にフォークリフトの運転を誤り、転倒した車両に足を挟まれ、片足が使い物にならなくなる。臨時雇いで労災もおりない。

貫多と正二は真面目な仕事ぶりが認められ、荷役からフォークリフトへ「格上げ」となる。
このブルーカラーの仕事現場にもヒエラルキーが存在し、荷役に支給されるのは弁当だが、フォークリフトになると社員食堂で昼飯が食えるのだ。
「もうここで食うと弁当には戻れないよなあ」
と貫多は正二と話すが、高橋の事故を真近で見て以来、貫多は自ら荷役に戻ってしまった。


正二が専門学校で知り合った彼女とのデートを優先するようになり、貫多との友人関係はぎくしゃくしてくる。
正二の彼女を交えて3人での居酒屋で、目の据わった貫多は毒を吐き散らす。

下北沢に住んでるという正二の彼女に
「おまえら田舎もんは、決まって世田谷とか杉並とかに住みたがるよなあ」
そこからはもう歯止めが利かなくなり、思い切り下衆な言葉で、彼女を蔑む。
正二との友情はこの夜に終わる。

同じ港湾の倉庫で働き続けてる貫多と正二だが、もう職場でも会話はない。
二人が決別する場面は心が痛い。
正二は彼女と一緒に住むアパートに引っ越すため、仕事も変えると言う。

「電話番号教えてくれよ」
「いいけど、彼女との生活があるからな。緊急の用以外ではかけてこないでくれよ」

立ち去る正二に「俺たち友達だろ?友達だったよな?いままでありがとう」
貫多の言葉に正二は黙って手を上げた。


事故で港湾の仕事を辞めた高橋と貫多がカラオケバーで飲んでる。
「あの二人が?」と思ってしまうが、貫多が誘い出したのか、歌が得意だと言ってた高橋が声をかけたのか。
調子よく先輩風吹かせてた高橋の面影はない。

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「ほんとはな、夢なんて叶うわけねえんだよ」
「働いて、飯食って、寝て、また働いて、一生これの繰り返しだ」
貫多はおもむろに
「おれ、本が好きなんすよね」
「それがなんなんだよ?」
「いや、おれ本書こうかなと思ってるんですよ」
「おまえなんかが書けるわけねえだろ、この中卒が!」

高橋は吐き捨てて、ほかの客のマイクを奪い『襟裳岬』を熱唱しだす。これが上手い。
上手いのは高橋を演じてるのが、本職シンガーのマキタスポーツだから。

高橋の鬱屈と、貫多が初めて「成すべきこと」を口にするという、その感情の噴出とが、混然となった、ここは忘れ難い場面だ。


その日その日の労働で食いつなぎ、ほとんどを食費と本と風俗で使い果たし、まるで山手線のように永遠とループするような人生。
だが貫多は労働を止めることはない。生活保護の受給を画策したり、もっといえば犯罪に手を染めたりということにはならない。
貫多という「ろくでなし」と彼が行動範囲とする、きつい環境を描いていながら、そこに犯罪は出てこない。
まあ何度も貫多はボコられてはいるが、それは自業自得ということなんで。

余裕のないカツカツの生活に追われながら、でも大部分の人たちは犯罪に手を染めることなどなく、必死に暮らしてるのだ。
貫多もその「労働する」者の一人にすぎない。


エンディングのシュールな趣向も『ばかのハコ船』チックで俺は好き。
多分原作はもっと体臭がきついんだろうが、山下敦弘監督の作風は、どんづまりを描いても、どこかに飄々とした風通しのよさがあるもので、山下監督が手がけたとなれば、こういう感触に仕上がるのは予想はついた。

なんにしても欠落した人間を眺める映画は面白い。
森山未來という役者の凄さを初めて思い知らされた気分だ。

2012年7月23日

日米「森のアニメ」を見る② [映画マ行]

『メリダとおそろしの森』

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『おおかみこどもの雨と雪』を見た後に、同じシネコンでハシゴしたんだが、初日なのに客が少ない。
「おおかみこども」の半分も入ってなかった。
ディズニー/ピクサー作品としては、従来のものと違ったアプローチで臨んでいるように思えた。

中世のスコットランドを舞台にしていて、城や自然の景観など、かなりリアルにCGで描きこんでる。
森に囲まれていて、森というのは昼間でも鬱蒼として、うす暗いから、このアニメは明るい光をあまり取り入れないように描いてる。

メリダの父親は国王だが、当時のスコットランドの城は、煌びやかでもなく、内部の装飾も質素なものだ。この城と森の描写がほとんどなんで、つまりはカラフルな色が乱舞するような、いままでの作品とは印象が異なる。

赤毛のカーリーヘアのヒロインというのも思い切った。赤毛はスコットランド人よりも、アイルランド人に多いのだが、いずれにせよ、それにジャガイモみたいな輪郭のルックスなのだから、ヴィジュアル的にも一般ウケは難しいと思われるが、見てくうちに愛着感じるようになってくる。

ディズニーで「プリンセスもの」となれば、彼女の窮地を救ったり、恋のお相手となる王子とか、イケメンとか出てくるものだが、そういう二枚目キャラもなし。
メリダの母親エリノアが、おてんば娘に王女の自覚を持たせようと、勝手に結婚話を進めてしまうんだが、候補として城を訪れた近隣領主の長男3人は、いずれもボンクラなキャラなのだ。

さらに言うとメリダの冒険の物語を盛り立てるような「賑やかし」キャラも出てこない。メリダの歳のはなれた赤毛の三つ子が、ヤンチャぶりを見せるが、正直かわいくない。
意図的に「この要素を入れとけばウケる」というものを、外していってるとすら思うのだ。

音楽もスコットランドの伝統音楽的なムードを持たせており、パンフに掲載された監督のコメントには
「このアニメは、単にアニメを見るということではなく、スコットランドを見るというものにしたかった」とある。
作り手の思い入れはわかるとして、だが見に来た子供たちはスコットランドを見に来たわけじゃないだろう。
俺の席のまわりの家族連れの様子を覗っても、子供たちの反応が薄い感じがした。
笑い声とかほとんど聞かれない。

いろんな意味で過去のディズニー/ピクサー作品の定石を破ろうという、作り手の野心的な試みは、大人の観客には伝わる所があるだろうが、それにしては肝心の「物語」が、野心とは縁遠い、古色蒼然とした展開なのは痛い。


王女としての気品と振る舞いを身につかせようとする母親エリノアと、それに反発するメリダの「親子の揉め事」に始まり、結局はそこから話が広がっていくことがない、この「内々な」感じはどうしたものか?
ついには親子で大ゲンカとなって、メリダは家宝のタペストリーを切り裂いて、家を飛び出し、母親も思いあまって、メリダの大切な弓を、暖炉に投げ込んでしまう。

森に彷徨いこんだメリダは、青白く光る鬼火を見る。
幼い頃に「鬼火は運命に導いてくれる」と聞かされていたメリダは、その後を追うと、森の中に不意に「ストーンヘッジ」が現れる。
無数の鬼火が道を照らし、導かれていくと、森の奥には小屋があり、そこには魔女が住んでいた。

メリダは自分を自由にさせてくれない母親の束縛から逃れたいと、
「運命を変える魔法をかけてほしい」と頼み込む。魔女は
「これを母親に食べさせなさい」と、小さなケーキをメリダに渡す。


メリダは城に戻り、母親エリノアに「謝罪のしるしに自分で焼いた」とケーキを差し出すが、それをひと口食べたエリノアは、突然苦しみだし、気がつくと大きなクマに姿を変えていた。
「大変だ!こんな所をパパに見られたら!」
父親の国王ファーガスは、まだメリダが小さな頃に、城を襲った巨大なクマと格闘し、片足を失う大怪我をしてたのだ。
モルデューと呼ばれたそのクマには逃げられ、以来目の仇のように思ってる。

クマになった母親をなんとか城から連れ出して、メリダは魔法を解いてもらうために、再び魔女の小屋を訪れるが、魔女の姿はなく、
「2度目の夜明けを迎えると、魔法は永遠に解けなくなる」との置き書きが。

魔法を解く鍵となるメッセージも書かれてたが、具体的にどうすればいいのか見当がつかない。
途方に暮れたメリダとクマのエリノアは、森で一夜を明かすことに。


クマとなった母親は空腹を覚えるが、獲物の取り方などわからない。メリダは手製の弓と矢で、川の魚を射抜いて母親に渡した。
そのうちクマのエリノアは川に入り、自分で魚を取ろうと奮闘し始めた。
生の魚を食べ、獲物を狙う目つき。母親エリノアは、野生のクマに変貌しつつある。
焦ったメリダは、自分が切り裂いてしまったタペストリーに、魔法を解く鍵が隠されていることに気づく。

だがそんな二人の前に、以前ファーガスの片足を奪った、あの凶暴なクマのモルデューが現れた。
メリダを噛み殺そうと襲いかかるモルデューに、母親エリノアは果敢に立ち向かった。
野生のクマの迫力そのままに。
死闘の末、モルデューはストーンヘッジの下敷きとなり、果てる。

身を挺して自分を守ってくれた母親。口うるさいだけの母親と思っていたメリダは、その母の愛に身を震わせた。
2度目の夜明けまで残された時間は僅か。メリダは母親とともに、再び城を目指した。

ジブリを思わせるような日本題名から、勝気な王女が森で敵と戦いながら成長していく、みたいな物語なのかと、勝手に想像してたんだが、そういう意味では、観客の予断をはぐらかすような、このストーリー展開も、定石を破ったものと言えなくもない。


人間がクマに変えられるという話は、前にもディズニー・アニメにあって、偶然にも俺は公開当時に見に行ってる。2003年の『ブラザー・ベア』だ。

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何で見に行ったのかというと、俺は動物の中ではクマとゴリラが好きなのだ。
クマが主人公と聞くと見たくなってしまう。
同じディズニーの着ぐるみ実写映画『カントリー・ベアーズ』も見に行った。

でその『ブラザー・ベア』だが、最初は画面がビスタサイズなのだ。主人公がクマに変えられて、森で生きてくことになる、その場面から画面がシネスコに広がっていく。
森の描写に力が入っていて、目の前に深い森がバアーッと広がってくのが爽快だった。

元は人間の青年だったクマは、母親を失くした子グマと出会い、一緒に旅を続けるのだが、やがてその母グマを猟で仕留めたのが自分だったと知り苦悩する。

この『メリダとおそろしの森』の、クマになった母親とメリダが森で過ごすくだりは、
『ブラザー・ベア』の変形といえる。

「親と子が互いの気持ちを思い図って、和解に至る」という、そのちんまりした話の畳み方がなあ。
ここ最近のピクサー作品は、なにかジブリと同じような道を辿ってるというか、同じ壁に直面してる気がする。それは「物語の弱さ」だ。


俺はジブリのアニメは『風の谷のナウシカ』から、ずっと劇場で見てきてはいる。
だが近年のジブリは「昔のジブリ」を超えられない状態が続いてると思う。

『もののけ姫』は宮崎駿監督としても最大の野心作だと思うし、あの作品から何か大きなメッセージを込めようという、そういうストーリーに変わってきてる。
だが込めたいメッセージの方が強くなって、物語自体がうまく畳み切らなくなってる。

特に『ハウルの動く城』以降は、どれも終わり方がぼんやりした感じで、なんというか見てる側に残尿感を抱かせる。
宮崎駿監督は「子供に見てもらう」とこを主眼にしてるはずなんだが、テーマが子供には呑み込めないレベルに来てしまってる。
息子の宮崎吾郎監督になると、もはや子供に見てもらうことは想定してないようにも思える。

「ジブリだから見に行こう」という家族連れの観客は、「ああ、面白かったね!」と素直に言わせてもらえず、なんかぼんやりと劇場を出てくることになる。


ピクサー作品は、抽象的なメッセージこそ込めてはいないが、物語に新鮮味が薄れてきてると思う。

『カールじいさんの空飛ぶ家』も、冒頭10分の描写は高く評価されたが、物語は『春にして君を想う』というアイスランド映画の設定を、借りて作ったような所があった。
『カーズ2』は見てないが、公開当時はピクサーにはあまり無かったほどの酷評が並んでた。

今回いくつか共通点のある『おおかみこどもの雨と雪』と『メリダ』をハシゴしたわけだが、ディズニーに代表されるアメリカの家族向けアニメは、その物語の保守性を破ることはできないようだ。

直接的な描写はないが、おおかみおとこと、人間の女性が肉体関係を持つことを、はっきり提示してる『おおかみこども』のような物語の語られ方は、アメリカではあり得ないと受け取られるだろう。

だが細田守監督の主眼はそこにあるわけではないし、「子供に見せるから子供向けに」という考え方でもないのだと思う。
アニメで伝えられる物語の枠を広げて行きたい、そんな意気込みが感じられるのだ。
対して今回のピクサー作品には、意気込みはあるものの、その方向性が若干ズレてはいまいか?と思ってしまったわけだ。

2012年7月22日

日米「森のアニメ」を見る① [映画ア行]

『おおかみこどもの雨と雪』

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滅多にアニメを映画館で見ることのない俺だが、珍しく公開初日に、しかも2本ハシゴした。
『サマー・ウォーズ』の細田守監督の新作『おおかみこどもの雨と雪』と、
ピクサーの新作『メリダとおそろしの森』だ。
奇しくもどちらも森が舞台となっていて、「母と子」の物語でもある。

そして俺にとっては、この勝負は「おおかみこども」の圧勝だった。
物語の前半からすでに、俺も更年期障害で、自律神経イカレて、涙腺がゆるみっ放しになったのか?と思うくらいに涙が出てしょーがない。
このアニメは劇場で予告編が流れ始めた頃から「見たいな」とは思ってたんだが、期待にたがわずどころか、もう素晴らしいとしか言いようがない。

物語に関しては整合性など細かい突っ込みを入れる気はない。大体、人間の女性と「おおかみおとこ」が結ばれて、「おおかみこども」が生まれるって設定なんだから。


大学生の花が、端の席で講義を聞きに来てる、物静かな「彼」を目に止め、二人が心を許しあうようになるには、時間はかからなかった。
彼は大学生ではなく、講義を内緒で聞きに来てた。引越し屋でバイトをしてた。彼は言った。
「アパートの部屋といっても、みんな同じじゃない」
「独りで暮らしてる人もいれば、子供と暮らす一家もある」
「誰かが待ってる家っていいな」
「そんな風に暮らしてきたことないから」
「じゃあ、私が待ってようか?」

だが次のデートの夜、彼はいつまで待っても約束の場所に現れなかった。
それでも道端に座り込んで待つ花。

ようやく現れた彼は、花に謝って、自分の秘密を打ち明けた。
目をつぶってと言われた花が、少しして目を開けると、目の前にはおおかみの姿に変わった彼が立っていた。
でも花は彼を受け入れた。

花が妊娠して、でも病院に行くことはできず、自宅分娩の道を選ぶ。
彼も甲斐甲斐しく、花の世話を焼く。

このあたりの場面はセリフはなく、時折挟まれるナレーションと、音楽だけで描写され、その満たされた日々の情景がまず心を揺さぶる。
ピクサーの『カールじいさんの空飛ぶ家』の冒頭10分の、あの感じに近い。

雪の日に生まれた長女の雪、その1年後の雨の日に、弟の雨が生まれるが、父親の「彼」は、家族のために都会で「狩り」をする最中に命を落とした。
その死体はゴミ収集車に放りこまれ、花は都会に見切りをつけ、彼が持ってた写真に写る、日本アルプスの峰々を戴く、山里への移住を決意する。


雪はおてんばで、ひと時もじっとしてない。好奇心も旺盛、食欲も旺盛な女の子。
弟の雨は内向的で、虫が出る田舎の家を怖がって、町に帰りたいという。

人間の子供の姿をしてる雪と雨は、体をブルブルッと震わせると、大きな耳が頭からポンと出る。そうするともう全身はおおかみとなって、あたりを駆け回る。
雪がおおかみになって駄々をこねる場面は、場内大ウケだった。


民家から離れた廃屋に、隠れるように住まい始めた母親と二人の子供、その手探りで頼りない生活をまず見つめる。

雨と雪が、生まれて初めて家を取り囲んだ一面の銀世界に興奮する場面。
おおかみの姿になって、山の斜面を滑るように駆けていく。
母親の花も走って後を追う。転げながら、雪まみれになって、3人は大きな声で笑う。
オーケストラの旋律の高まりとともに、画面が躍動する。
どの国の子供たちが見ても、目を輝かせて夢中になるだろう。

田舎暮らしは生易しくはない。いくら野菜を植えようとしても、すぐに枯れてしまう。でもなんかの拍子に、雨と雪がおおかみに変わるかも分からないので、里の人間に相談もできない。
途方に暮れる花を、里の住人たちは何気なく目を配っていて、気難しいが頼りになる里の老人のスパルタ指導により、花は畑作りを無事やり遂げ、しだいに花の一家も輪の中に加わるようになっていく。


6才になった雪は、小学校に通いたいと言い出す。
絶対に人前でおおかみにならないと約束させ、花は娘を学校に送り出すことにした。
すぐに仲良しの友だちもできたが、雪は人間の女の子と、自分の好む物がちがうことにとまどう。
人間の女の子は平気でヘビを手づかみにはしないし、宝箱の中に生き物の骨や死骸を入れたりしない。
そこらじゅうを駆け回ってた、おてんばの雪は、人間との同化を図ろうと、すっかりおしとやかな女の子に変わった。


雪の1年後に同じように小学校に入った雨は、気弱なためにイジメにあった。
おしとやかな雪も、弟がいじめられてる時は豹変していじめっ子たちを蹴散らした。
隣り合った雪と雨の教室をカメラが左右にパンさせて、1年、2年、3年と学級が上がってく様子を表現する場面は上手い。

雨はいつからか登校拒否となり、母親の花の働き先の、地域の自然保護センターに出入りするようになってた。
そこにはロシアのサーカスから用済みとなり、引き取られた年老いたおおかみがいた。
「おおかみはどんな風に生きてくの?」
雨はそのおおかみに訊ねた。

この頃から雨はあれほど虫などを怖がって立ち入らなかった山の中へ、ひとりで分け入っていくようになった。
「お母さんに、僕の先生を紹介するよ」
そう言う雨の後について険しい山を分け入って行った花の目の先には一匹のキツネがいた。
「この山の主なんだよ」
そう言うと雨はキツネの後を追って、駆けていった。
花は気弱だった雨の中に、眠っていた野生が呼び覚まされたのだと、思い知らされた。


人間に同化しようとする姉の雪と、おおかみとしての野生を自覚する弟の雨は、互いのズレに苛立ち、ついにはおおかみの姿になって、壮絶な兄弟ゲンカにまでなる。
花はその野生の迫力に、止めに割って入ることもできなかった。


人間の女の子として周りとうまくやれていた雪は、転校生の草平から何気なく
「おまえ犬飼ってない?犬の匂いがするんだけど」
と言われショックを受ける。

以来、草平を避けるようになるが、その態度が気になる草平に逆に付きまとわれ、
「オレ、なんか気に障ること言ったか?」
と肩をつかまれて、雪は思わず爪を出し、草平の耳を傷つける。
その瞬間、雪はおおかみに変わっていた。


設定は「おおかみこども」だが、描かれていることは、人間の子供をとりまく、成長や悩みや自我の芽生え、そのものだ。
草平が雪に「犬の匂いがする」と言ったのは、悪気はないが、小学校高学年になってくると、女の子はそういうことを気にし始める。
イジメにあう子は「あの子なんか臭い」というような理由をつけられたりすることが多いのだ。
それに傷ついたりする子がいるのだということを、作り手は観客にわかってもらおうとしたのだろう。

母親は子供のことを、「自分の子供だから」と思ってしまいがちだが、子供は一人ひとり違った人格であり、また違った人格になってくものだ。
母親の花は「おおかみこども」の出自を隠そうとしてきたが、雪も雨もそれぞれに、そんな自分の出自を表明する場面が訪れる。

ここは両方の場面ともに、特に涙腺がやられるところなのだ。


このアニメは音楽も非常に印象に残る。
高木正勝という人のことは知らなかったが、ありきたりな劇伴ではなく、インディストリアルな感じもあり、一時期流行ったアディエマスのようでもあり、丁寧に作画された山里や深い森の佇まいや、吹き渡る風の描写などに、その音楽が深みを与えている。
細田守監督の作詞で、アン・サリーが歌うエンディング曲『おかあさんの唄』もいい。

宮﨑あおいや菅原文太など、有名どころが声をあててるが、中でもおおかみおとこの「彼」をあててた、大沢たかおの声がいい。
これはもう1回見ようかなと思ってる。

2012年7月21日

3Dで見たいものを見せてくれたか? [映画サ行]

『3D SEX&禅』

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行って来ましたよ「シネマート新宿」に。原作となる『肉蒲団』は、中国では『金瓶梅』に並び称される官能文学であるらしい。
以前同じものを映画化した『SEX&禅』に、スー・チーが出てるというんで見たんだが、もうどんなだったかほとんど憶えてない。


筋を要約すると、主人公は清王朝の若き学者の「未」で、彼はひと目惚れのすえに、美人でつつましやかな玉香を妻にめとるが、なにしろ未は、ルックスはまあいいとして、モノが短小で、しかも早漏ときてるから、玉香に性の満足を与えてやれない。

そこで性の奥義を会得すべく、断崖の洞穴に築かれた「絶世桜」に足を踏み入れる。
そこは無数の男女が営みに酔いしれる「SEX虎の穴」の如き場所だった。

楼主の寧王は、未を鼻であしらう素振りだったが、絵心のある未は、楼にかかる絵に贋作があることを見抜き、寧王はその眼力を認め、滞在を許可した。
「絶世桜」に集う女たちは、抜群の性技を誇り、未は奥義を得るどころか、太刀打ちもできない。
おまけに短小ぶりを笑われる。しかしこれでは引けない未は、この楼に時折姿を見せるという、
「極楽老人」に直訴して、性の奥義を伝授してもらおうと思った。

「極楽老人」は、禅と陰陽道により性の道を究める仙人のように語られたが、実際に未が目にしたのは、妖艶な美女だった。だが声はオヤジのだみ声だったが。
「極楽老人」は性の奥義を伝授する代わりに、してもらうことがあると言う。

この「絶世桜」のどこかに、皇帝の免罪符である「丹書鉄券」があるはず。
それを盗んでこいと言うのだ。
だがその言葉に従った未の行動は、楼主の寧王に知れることとなり、未は一転、性の奥義から「生き地獄」を味わうことになっていく。


女優は日本から原紗央莉と周防ゆきこ。上海出身のレニー・ランと香港のボニー・ルイが出てるが、俺が顔知ってるのは原紗央莉だけだったので、あとの3人はどの役なのか実は怪しいのだ。
多分、未の妻の玉香がレニー・ランで、「極楽老人」を演じてるのがボニー・ルイと思う。
周防ゆきこは初日舞台挨拶の中で、「宙づりSEXで死ぬかと思った」みたいな発言をしてたから、寧王お気に入りの刺青美女の役だろう。

この4人の女優がみんな奇麗なのには感心した。それぞれ濡れ場があるが、肌もおっぱいも美しい。
「キワモノ」ジャンルではありながら、やさぐれた雰囲気が画面から漂ってこないのは、女優選びや衣装や美術などに、目配せがされてるからだろう。

女優たちは惜しげもなく脱いでくれてはいるが、3Dで「ボヨヨ~ン」て場面は意外とないぞ。
原紗央莉が画面に向かって「山本リンダのポーズ」をする指先なんかは飛び出してるが、「そこじゃないんだがな」と観客は思ってただろう。
ボカシも入ったりはしてるから、描写そのものは、香港映画としちゃ気張った方なんだろうけど。

俺の期待としては「中国四千年の秘技」みたいなアクロバティックな、「雑技団的エロ」が見れるかと思ったんだが、けっこう生真面目に「突いて突いて」ばかりなんで、こういう題材を扱うわりには、監督がそれほどスケベな人ではないんじゃないかと思ったよ。

正直その単調さに、映画の半ばあたりでは「落ちてたり」したんだが、後半になって、楼主の寧王が未を拷問にかけたり、妻の玉香まで引っ張って来て、未の面前で犯したりという、暴虐の限りを尽くすあたりで、映画も活気を取り戻してくる。
それとて牧口雄二監督作に比べれば、まったく手緩いけどな。


それと同時に寧王の振る舞いを察知した王朝側の役人が、警察隊を送り込んでくる。
寧王はすご腕の護衛たちに対処を任せる。
護衛たちは剣や刃物で、銃を持つ警察隊と渡り合う。

3Dでナイフやら銃弾やらが飛び交うんで、この辺になってくると
「エロはどこへいったの?」とPPMのように問いかけたくなる活劇仕立てに変貌してる。
それはそれで面白いんだけど。

主役の未を演じてるのは、京都出身で、香港映画界でキャリアを積んでる葉山豪という人。
中国の古典の映画の主演に日本人俳優が起用されるのも意外だが、映画の中で早漏だったり、短小だったり、しまいにはそのイチモツを切り取られたりと思えば散々な扱われようだが、そんな日本人を、中国の観客はニヤニヤ笑いながら見てたなんてことはないんだろうか?

あと映画の中で、未が師匠と仰ぐ老僧が出てくる。
50年以上も煩悩と無縁の毎日を送ってるんだが、原紗央莉が委細構わずに攻めてくるもんだから、なんとか「色即是空、空即是色」と唱えて気を紛らわそうとするんだが、あえなく彼女の手管に落ち、すっきりしてしまったため、「悟りに達するにあらず」と自殺してしまう。
この老僧が井手らっきょにしか見えなかったのが、ちょっと心苦しかった。

AVを見慣れた日本人には刺激も足らんだろうが、そういう興味ではなく、そうだな熱海の秘宝館を覗いてみたというような、そんな心持ちで見に行くとよいかもしれぬ。

2012年7月20日

サメVSピラニア 人食い対決 [映画ハ行]

『ピラニア リターンズ』

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先週末の同日公開となった「どうぶつパニック」、その出来具合の軍配やいかに?というところなんだが、結果からいうと『ピラニア リターンズ』の勝ち。でも「圧勝」とまではいかない。

どちらも3D仕様で製作されたものの、『シャーク・ナイト』は日本ではなぜか2D版のみでの公開というハンデを負った。だが3Dで見れていれば結果は変わったかといえば、そんなこともないんだな。

『ピラニア リターンズ』が前作に続いて「R18+」というレイティングに指定されてるのに対し、『シャーク・ナイト』は「PG12」というレイティング。
なんだ子供も、親付き添いなら見れるじゃん、というこれはハナから描写のエグさに差がついてしまうのも致し方ないのだ。


『ピラニア リターンズ』は、監督は前作のアレクサンドル・アジャから、『The FEAST/ザ・フィースト』シリーズのジョン・ギャラガーにバトンタッチされたが、物語上のつながりはある。

前作でアバンタイトル部分の主演を張ったのは、『ジョーズ』に敬意を表してという意味合いかリチャード・ドレイファスだったが、今回はゲイリー・ビジーと、監督の父親で俳優のクルー・ギャラガーがアバンタイトルを飾ってる。
ゲイリー・ビジーはこの手の「どうぶつパニック」には出てないんだがな。
あえて言えば『プレデター2』リスペクトかな?
ただピラニアに食われるだけではないという所が、ゲイリーの芸風に合ってて最高だった。


ヴィクトリア湖の湖面を赤く染めた前作の惨劇から1年。
異変はヴィクトリア湖から遠く離れたアリゾナ州のクロス湖で起きた。行方不明の牛の死体が湖面に浮かび、確認に近づいた農夫たちが、牛の体を食い破って飛び出してきたピラニアの群れに襲われた。
前作で生き残ったピラニアたちは、地下水脈を辿って、別の湖へと移動してきたのだ。

折りしもクロス湖畔には、「ビッグ・ウェット」という名のウォーターパークが、開園を2日後に控えていた。
ここは子供連れだけではなく、大人の男女にも楽しめる趣向が凝らされた、ヒロインの大学院生マディには悪いが、とても「いい線いってる」水のアミューズメントだと俺は思った。

なにしろ施設内には「アダルトプール」なるものが併設され、コンドームの自販機も備えてある。
プールの監視員はなぜかストリッパーなのだ。
おっぱい丸出しでウォータースライダーで滑り下りてくる金髪のお姉さん方。これは流行るだろ。
これを考えたマディの義理の父親チェットは、まあ悲惨な末路を迎えはするが、経営者としちゃ、いい腕してる。

チェットが開園の日に、特別にプール監視員として招いたのはデヴィッド・ハッセルホフだ。
日本じゃ『ナイトライダー』の主役で有名だが、アメリカではむしろその後の『ベイウォッチ』の沿岸レスキューが当たり役とされてるようだ。
しかしハッセルホフはゲストとして来てるつもりなんで、プールでピラニア大襲来が起こっても、我関せずなのだった。


知り合いのカップルが謎の失踪を遂げ、怪訝に思ったマディと女友達のシェルビーは、湖の桟橋で、トビウオのように襲い掛かってくる大型のピラニアから、間一髪逃げ延びる。

マディは昨年のピラニアだと確信し、ヴィクトリア湖のほとりに住む熱帯魚店のグッドマンを訪ねた。
前作にも出てた“ドク”ことクリストファー・ロイドだ。
グッドマンは、このピラニアが鉄板も突き破るようなパワーを持ち、プールのような施設はおろか、下水管をつたって、民家にまで浸入するかもしれないと警告を発する。

一方、マディとともにピラニアに襲われたシェルビーは、その際、一匹のピラニアに体内への侵入を許してしまったようで、急に気分悪くなって道端でもどしたりした。
3Dで飛び散るのがゲロという悪趣味ぶり。

シェルビーは彼氏に介抱されてベッドで寝てたが、体の異変に切迫感を強め、急いで処女を捨てとこうと、彼氏を強引にベッドに誘う。
彼氏が体の上でグラインド始めると、シェルビーの腹部からなにかが動き出す。
彼女の叫び声をエクスタシーと勘違いする彼氏のチ●コに、ピラニアが噛み付いてた!
んなバカなという一席である。

マディが自宅の風呂場でバスタブにつかってウトウトしてると、蛇口からピラニアが、という場面は、足を開いた間からのカメラなど、まんま『エルム街の悪夢』になってて、しかも夢オチという。

「下水管をつたって、民家にまで」と期待させたわりには、そこまで惨劇の場を広げられなかったのは、予算の制約もあるんだろう。
結局ウォーターパークが血に染まるだけなんで、前作ほどのスケール感はない。

子供にまで容赦なくゴア描写が降り注いではいるが、演出の畳み掛け方においては、前作のアレクサンドル・アジャには劣るね。グロ描写が散発的な印象なのだ。
3Dなんでピラニアはこれ見によがしに飛び出してくるが、女の子たちがおっぱい見せてるわりには、飛び出し効果が薄く、期待に添えてるとは言い難い。

エンド・クレジットに、アウトテイクやらNGテイクやらハッセルホフのPVまがいの映像やらが、けっこう長く使われてる。ハッセルホフをリスペクトしすぎじゃないんかな?



『シャーク・ナイト』

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この映画にに期待したのは、なんと言っても『スネーク・フライト』で、「ヘビヘビ大パニック」をエロとギャグを交えて爽快なまでに描き切ったデヴィッド・R・エリス監督だけに、サメでもやってくれるだろうと思ったからだ。

アバンタイトルは『ジョーズ』の趣向そのまんまだが、大学生たちが週末のバカンスに訪れる、ルイジアナの湿地帯にある湖のロケーションが美しい。モーターボートで突き進んでく様子を映す上空からのカメラに、自然の雄大さが伝わってくる。
彼らは女子大生ベスの、クロスビー湖畔にある別荘で楽しく過ごそうという計画だった。
だが黒人学生のマリクが、ウェイクボードの最中に、サメに片腕を食いちぎられ、バカンスは暗転する。

クロスビー湖は塩水湖という設定なんだが、にしてもなぜサメが?
ケータイの電波も届かない場所なんで、とにかくマリクを町の病院へ連れてこうと、ベスたちはボートを出すが、そのボートはサメの体当たりを食って、マリクの彼女がその衝撃で湖面へ落ちる。
たちまちサメの餌食となり、操縦の利かなくなったボートは桟橋にぶつかり大破。

だがまだ小屋には水上バイクがあった。筋肉ナルシストのブレイクはここで男気を発揮して、マリクをくくりつけ、水上バイクを飛ばすが、たちまち巨大なアオザメがジャンプ一閃、ブレイクをひと呑みした。マリクは水中に没した。7人いた学生は、4人になった。


窮地に陥った彼らの元に、地元のデニスとレッドが船で現れた。デニスは顔に深い傷跡があり、ベスとは因縁のある間柄だった。
デニスとレッドは学生たちに手を貸す素振りを見せたが、それは恐ろしい罠だった。

なぜ塩水湖に何種類ものサメがいるのか?それはデニスたちが養殖してたからだ。
彼らはサメの生態を知り尽くし、獰猛なサメだけを育てていた。
そしてドキュメンタリー『皇帝ペンギン』で使われてたという小型カメラをサメの体に仕込んであった。デニスたちはバカンスなどでやってきた人間たちを、サメに襲わせ、その映像を商売に利用してたのだ。


というようなことになっていて、「どうぶつパニック」というより、どうぶつを使った拷問マニアによる、サイコホラー的な色合いの方が強くなってるので、見てる側の楽しみ方の心構えにブレが生じてしまうのだ。
だって凶暴なサメより、人間の方がおぞましいって展開だからね。

肝心のサメの襲撃描写も、PG12指定なんでグロさが半端。襲われたら後は水が真っ赤になるというだけで、肢体が食いちぎられる生々しい描写がないのは、「サメもの」としては画竜点睛を欠く。

アオザメがジャンプで「パクリ」とやるのも、レニー・ハーリンが『ディープ・ブルー』でやってるし。ちなみにその時餌食になったのは、『スネーク・フライト』に主演してたサミュエル・L・ジャクソンだった。


「なんで3D版で上映しないんだ?」と不満を呈したが、実際見てみると大体「この場面だな」というのはわかる。その「飛び出しポイント」もあんまり大したことなさそうで、たしかにこれなら3Dの必然性もそう高くはないなと感じた。

グロ描写などは不満の残るところだが、大学生たちが窮地に立たされてく流れとか、登場人物の性格づけとか、サスペンスを高めるためのスキルに関しては『ピラニア リターンズ』の監督よりも、こちらのエリス監督に一日の長がある。


『シャーク・ナイト』にしても『ピラニア リターンズ』にしても若い役者たちが主人公を演じてるが、こういう映画に出てくる若い役者って、ほとんど顔を憶えるようなことがないんだよね。

この手の映画は、青春を謳歌するような(特に性的に)若いヤツらが血祭りに上げられるというのがパターンで、あまり感情移入もしないで楽しめるってことなんだろう。
一度、とても善良な家族がサメやらなんやらに襲われ、子供までもが食われて、見てるこっちまで惨さに号泣してしまうような、どシリアスなどうぶつパニックも見てみたい。

2012年7月19日

赤のひとつおぼえ [映画ハ行]

『ヘルタースケルター』

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これは絶対に、原作となった岡崎京子のコミック『ヘルタースケルター』を読んどいた方がいい。
俺は昔の一時期、岡崎京子とか高野文子とかのコミックにハマってた事があり、この原作も『リバース・エッジ』なんかとともに当時買って読んでた。
映画化のこともあり、最近部屋の中から探しだして読み返したが、沢尻エリカが、なぜりりこを演じたいと熱望してたのかがわかった。

沢尻エリカという女優は、まるでりりこの軌跡をなぞるように生きてきてる感じすらするもの。
これほど原作のヒロイン像と、それを演じる女優とがシンクロするのも滅多にない。


若い女の子たちのアイコンとなり、時代の寵児のような持て囃され方をするヒロインのりりこが、じつは全身整形を施して、その美しさを保ち続けようとする。
女性の「美」に対する脅迫観念が、りりこというキャラクターを通して「むきだし」に曝け出される。

そのテーマとともに、女優であれ、モデルであれ、歌手であれ、人から見つめられ、崇拝され、また値踏みされ、粗を探され、そういう「表現者」の立場にいる女性の内面描写に、共鳴する部分が大きいのかもしれない。

原作においても、りりこの周りの人間(特にマネージャーとその彼氏だが)に対する傍若無人な振る舞いよりも、周りにも自分に対しても毒を含んだ「独白」部分が鋭い。
メディアで取材を受けるたびに浴びせられる「どーでもいい」質問に、人が期待してるような言葉で応える。
美容整形クリニックの患者たちの死亡事件を追うなかで、りりこに興味を持ち始める検事の麻田が
「彼女の発言には核というものがない」と喝破してる。

メディアやそれを取り巻く世間を蔑んでいながら、「ちやほやされる私にはなにもない」と思ってる。
「歌もヘタだし、セリフも憶えられない」
元々いまとは似ても似つかぬ容姿で、コンプレックスの塊だったりりこは、その根っこを抱えたまま、スターに祭り上げられていくから、本当の自分との乖離に耐えられなくなってくる。

昔の自分そっくりな妹と久々に会う場面で、妹に
「美しくなるから、自信もつくんだよ」と言ってる。
それは一面真実ではあるだろうが、
「その美しさが保てなくなったら、自分には何も無くなる」
という恐怖に満たされることでもある。

自分にとって目障りな「美しさ」を持つ者には、凶暴なまでの敵意を示し、脅迫観念を振り払うためにクスリに溺れ、整形の後遺症は肌を腐食する。
りりこは「モンスター」のように描かれはするが、どこかに「哀れ」を滲ませる。
彼女は愚かというより不器用なのだと感じる。


実際の芸能界でも、セルフプロデュースが巧みで、息長く活動してる女性タレントはけっこういる。
沢尻エリカにも、同じような「不器用さ」を感じることがある。
彼女は「腹芸」というものができないのだろう。
女優にしろタレントにしろ、芸能界を泳いでいくには、ある種の「ふてぶてしさ」は必要だ。
清純派と思われれば、自分が清純でなくても、しれっとそのイメージを演じきる。
ブリッ子と呼ばれようが気にかけない。
だが「ふてぶてしさ」を表に出しては駄目なのだ。沢尻エリカはそれが顔に出てしまう。

例えば吉高由里子と比較するとわかり易い。
奇しくも吉高は『ヘルタースケルター』の監督、蜷川実花の父親、蜷川幸雄が、やはりエッジの利いた女性作家による原作小説を映画化した『蛇とピアス』で、大胆なヌードも辞さない演技を披露し、注目を集めてる。
それはまだ彼女のキャリアのごく初期のことで、だがその後は「裸を晒して勝負する」女優でいくこともなく、最新作の『僕達がいた』では、20代なかばで、セーラー服の純な女子高生をシレッと演じてる。でも別に「カマトト」と非難されることもない。

天然かどうかはわからないが、その屈託のなさはバラエティ番組でもウケてる。
吉高由里子の「ふてぶてしさ」は、だが決して表にはでないから、「愛されキャラ」にもなれるのだ。


沢尻エリカは『パッチギ!』で、芯は強いけど清純な女子高生を演じたのが鮮烈だっただけに、そのイメージに縛られることにもなった。

俺も『間宮兄弟』を見て、「こんな可愛いツタヤの店員がいたら、毎日借りに行くよ」
と思うくらい、レンタルビデオ店の制服とエプロンが似合うと思ったもの。

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でも彼女の中では、テレビドラマ『1リットルの涙』も含めて、同じような健気で、性格もいいヒロインをタイプキャストされることに、ストレスが溜まってたんじゃないか?

それに多分人前で愛嬌ふりまくことも苦手なんだろう。自分が目指すところと、求められてるイメージのズレに、彼女なりに苦しんだのではないか?ここ何年かの彼女の迷走ぶりは
「ああ、私はみんなから嫌われてしまった!」
という、取り返しのつかなさに絶望したことが原点にあるように思える。
20代の若い女性に、それはキツいだろう。

もはや演技するにしても「清純派」などはやれるはずもないし、支持もされない。
ならばと『ヘルタースケルター』のりりこを演じ切ってやろうと、自分にたいしての「荒療治」のように踏み切ったんだと思う。

裸も曝け出し、自分も曝け出し、これからは「ふてぶてしさ」を武器に、どんどん色んな役をものにしていけばいい。
「美しく可愛いヒール」だって、映画には絶対必要なのだ。
またそれを演じ切れる女優は、日本には少ない。


俺は自分の取るに足らない名誉のために一応書いとくが、決してそんな沢尻エリカのおっぱいが拝めるからと、映画にいそいそ足を運んだわけじゃない。
おっぱい自体はネットでもAVでも、巷に溢れてるといってもいいし、
「そんなAV女優のモノじゃなくて、沢尻エリカだから価値があるんだろ」
という意見には組しない。

映画スターのおっぱいが、AV女優のおっぱいより価値が上などという考え方は、階級差別に通じる。
おっぱいは等しく価値があるものだ。

だが原作にもある描写で、りりこが女性マネージャーの羽田に「舐めなさいよ」と言ってクンニさせるのを、映画でも再現してると聞いて、そこは重要とは思った。

寺島しのぶが、沢尻エリカの股間にちゃんと顔を埋めてるのか、どんな映画であれ「ビアン要素」があるとなれば「即確認」というのが、俺のグローバル・スタンダードなのだ。
結果としては大した事にはなってなかったが。
その後の、りりこの強烈なセリフも、ちゃんと沢尻エリカが口に出してたのはよかった。

沢尻エリカの演技自体は上手くはない、というより感情表現とか稚拙とすら言えるんだが、このとことん墜ちてく感じを、時に自虐的ともいえる場面を交えながら、演じてる、その形振りかまわない迫力は伝わってくる。


だが映画としては少々かったるい。
原作コミックを読めばわかるが、この映画は結末に至るまで、ほとんど忠実に筋を追っていて、むしろ映画だから表現できるというような、プラスアルファが見当たらない。
監督の蜷川実花は、この『ヘルタースケルター』の世界観の基調となる色を「赤」に設定して、赤を中心にした極彩色で画面を塗りつぶしてるが、岡崎京子の原作の筆致とは対照的だ。

岡崎京子の絵というのは、この感情を表すのに、この表情を表すのに、この荒廃を表すのに、
絶対必要という線のみで描かれている。余計な装飾はコマの中にはないのだ。
だからダイレクトにこっちに「くる」。

映画は色彩にはこと細かにこだわってるが、演出は平坦でテンポが生まれない。
映画の流れが滞るから「かったるく」感じてしまうのだ。

りりこの部屋を中心とした世界はデコラティブで、その反面、検事の麻田のいる世界には色がない。
それはコントラストをつける意味合いなんだろうが、麻田の仕事場のセットが安っぽすぎる。

麻田はこの映画で、りりこと、それをとりまく世界の歪みを解説するような役どころなんだが、演じる大森南朋のしたり顔の演技が、ほとんど『ハゲタカ』と一緒で、この人あんまり芝居の引き出し多くないなと感じる。『龍馬伝』の武市半平太なんかは良かったが。

率直にいえば、蜷川実花は美術監督に専念して、演出は人に任せた方がよかった。
岡崎京子の原作の、ページをめくるのも、もどかしく感じるくらいのスピード感が、映画では失われてしまってるのが一番痛い。

俳優陣では、寺島しのぶの「ドM」演技が見応えあった。
原作にもある、りりこに口に含んだ水を浴びせられる場面は、その一瞬前から目つぶってるのがバレてるけど、ビンタも本気で張られてるし、沢尻エリカとは別の意味で「女優魂」を感じたよ。

2012年7月18日

リーガル・サスペンス久々の快作 [映画ラ行]

『リンカーン弁護士』

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これは面白かった。年に3本か4本でも、こういう大人のための娯楽映画が入ってくると嬉しい。
『サハラ 死の砂漠を脱出せよ』では、チャラいダーク・ピットを演じてしまい、原作者クライヴ・カスラーから顰蹙を買ったマシュー・マコノヒーが、今回はマイクル・コナリーの全米ベストセラー小説の主人公に挑戦。
旧式のリンカーン・コンチネンタルの後部座席を事務所代わりにする、清濁併せ持つ辣腕弁護士ミック・ハラーを演じてる。

全編出ずっぱりといってよく、「俺はこの役をモノにする」という気合が漲ってるのがいい。


明らかに「クロ」という依頼人たちの弁護を進んで引き受け、罪を認めさせた上で、司法取引に持ち込み、刑期を軽くするというのが、ミックの常套だった。
そのため、法曹界や警察からは、悪党を野放しにしてると反感を持たれてもいる。

ミックは馴染みの保釈金立替業者ヴァルから、儲けになりそうな訴訟の件を耳打ちされる。
年収60万ドルの資産家で、31才の独身男ルイスが、拘留されてるという。容疑はバーで知り合った26才の女性レジーナの顔面を激しく殴打したもの。
逮捕歴はないので、保釈手続きをし、ルイス側から、この裁判の弁護を正式に依頼される。

原告のレジーナは、自分が金持ちということを知った上で、罠にはめ、賠償金をせしめようとしてると、ルイスは言った。
ルイス側は、ミックが提示した高額な弁護報酬も、二つ返事で受け入れた。

ミックは原告の言い分を切り崩す証拠集めに取り掛かるが、親友で私立探偵のフランクが、独自のルートで入手した警察の捜査資料では、レジーナがルイスにいきなり暴力を振るわれたとする、生々しい証言が記載されていた。

ルイスは「やってもいない罪を認めるなどあり得ない」と司法取引を拒否。
だがミックには、ルイスの話は鵜呑みにはできないとの、なにか信用の置けない感触があった。
そして担当検事ミントンも、ルイスの容疑を裏付ける重要な証拠を握ってるらしかった。

形勢が不利に傾く中、ミックは被害者レジーナの、暴行直後の顔写真を眺め直して気づいた。
顔の右半分が集中して殴打されている。
4年前に自分が容疑者の弁護を引き受けたケースと酷似してた。
その容疑者は一貫して無罪を主張してたが、状況証拠から有罪は免れないとして、司法取引を呑ませ、終身刑で服役中だった。
同一犯とすれば当然4年前の依頼人は「シロ」だ。自分は無実の人間を服役させたことになる。

さらに、そのことは恐ろしい事実をミックに予感させた。
弁護士は依頼人の不利となるような証言も証拠も提出できない。
「秘匿特権」に触れるからだ。勿論警察に突き出すこともできない。
ミックは周到に仕組まれた筋書きに、まんまと乗せられたことを悟った。


弁護士と依頼人が対立構造となる展開は、過去にもない訳ではない。
1989年の『クリミナル・ロウ』では、自信家の若い弁護士をゲイリー・オールドマンが演じていた。

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彼は「クロ」である暴行殺人犯で、良家の子息でもあるケヴィン・ベーコンの無罪を勝ち取るが、被告が釈放されると、再び同じ手口の殺人が起こる。
ケヴィン・ベーコンは、自分が犯人であることを仄めかした上で、再逮捕に備えて、またゲイリーに弁護を依頼してくるというものだった。
『リンカーン弁護士』に比べると、法廷サスペンスの要素より、サイコスリラーの色合いが強かった。


この『リンカーン弁護士』は、これ見よがしなアクション場面とか、目を引くための暴力描写とか、そういったものは一切ない。
監督は「元のホンが面白いんだから、余計なことはせず、分かり易く筋を追ってけばいい」という姿勢で臨んでるようだ。

ルイスを演じるライアン・フィリップ、離婚したものの、良好な関係は保っている元妻で検察官マギーを演じるマリサ・トメイ、そして珍しくロン毛で登場する、私立探偵いフランク演じるウィリアム・H・メイシーなど、キャストも充実してる。

それにつけても、とにかくマシュー・マコノヒーが、久々に真価を発揮してると思える快演で、全米興行は大成功とはいかなかったようだが、一応続編の話も出てるらしいし、これは俺としてもシリーズ化してもらいたいと思う。
ウチの最寄のシネコンでも、客の入りはよかったよ。

2012年7月17日

チョウ・ユンファの二丁撃ちはないよ [映画サ行]

『さらば復讐の狼たちよ』

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この題名でチョウ・ユンファが出てるとなれば、「香港ノワール」の復活かと色めき立って見に駆けつけたという人も少なくはなかっただろう。
活劇要素がないとはいわないが、「義のために死を厭わない」という『男たちの挽歌』的な世界観とは異なる、ひとクセあるドラマとなってた。


冒頭、1両立ての汽車が線路の向こうからやって来るんだが、これが何頭もの馬に車両を曳かせてるという「馬列車」というもので、映画の時代背景となる、1920年代には実際に運行されてたというから驚く。
ライフルの照準を、その汽車に合わせてるのが、“アバタのチャン”と呼ばれ、恐れられてるギャング団のボスだ。襲撃により汽車は脱線する。チャンのギャング団は7人だ。

久石譲による音楽は、明らかに『七人の侍』のテーマを模している。
汽車を馬が曳いてるわけだから、幌馬車隊が襲われたように見え、この冒頭場面で、チャンを演じ、監督も兼ねてるチアン・ウェンが、「ウエスタン」を志向してるのがわかる。


チャンに襲撃を受けた汽車には、県知事とその妻と、書記の三人が乗ってたが、転覆の際に書記は死に、チャンは金目の物を出せと県知事を締め上げる。
だが大したものはなかった。銃を突きつけられた男は、
「この先の鵝城という地方都市に赴任する所だった。そこの県知事になれば、税を徴収して金儲けできる」と掛け合う。
男はマーという名の詐欺師で、実は県知事の官位を金で買っていたのだ。
マーは自分は県知事に同行する書記だと、チャンに嘘をついた。
チャンはその話に乗ることにした。

「鵝城」は要塞のような町で、水路から町の玄関となる門に着いた、チャンの一行は、「新しい県知事」として、町民の歓迎を受けた。
白のスーツの上下で颯爽と現れたチャンを、ギャングと疑う者はいない。

だが彼らの様子を、屋敷の高台から望遠鏡で観察する男がいた。
人身売買や麻薬密売など、悪事の限りを尽くしてこの町を牛耳るホアンだった。
その傍には瓜二つの影武者の姿もあった。

町に着くなりチャンとマーの目論みは外れた。前任の県知事が町民から90年後の分まで徴税してたことがわかる。もう町民から取り立てることはできない。チャンは言った。
「ならば持てる者から頂くのみだ」


ホアンの用心棒で気の荒いウーが、町民に手酷い暴力を振るったとして、チャンの前に連行されてきた。暴力を振るわれた町民は、ホアンを恐れて口をつぐんでいる。
だがチャンは毅然とウーに罰を与えた。
それを知ったホアンは激怒。
独裁者たる自分を差し置いて、勝手な振る舞いに及ぶ県知事に思い知らせよう。

ホアンは県知事に若い手下たちがいることに目をつけた。チャンが息子のように思う最年少の「六弟」が狙われた。町の食堂で飯を食った際に、二人前なのに、一人前の金しか払わなかったと、店主から言いつけられたのだ。
勿論ホアンから手が廻ってた。

ホアンの若く冷酷な用心棒フーが、検察官と偽ってその場に現れ、六弟を追求する。
一本気な性格の六弟は
「腹を割いて一人前しか食ってないと証明してやる!」
と、本当にナイフで腹を割き、腸の中身をさらして、その場で果てる。

六弟が言われなき罪を着せられ、挑発された末に命を落としたことを知ったチャンは、独裁者ホアンへの復讐を誓う。
そう簡単に命を狙える相手ではない。だがホアンも自分の素性に気づいてない。
ギャングのチャンと、町の独裁者ホアンの、腹の探り合いは、次第に血で血を洗う戦いへとなだれ込んでいく。


チャンとホアンの会席の場面などは、大袈裟に笑い合いつつ、目は相手を睨んでるという、まさに「隙あらば」の緊張感で描かれてる。活劇の要素より、相手を常に窺うような会話のやりとりが多い。
そこに突如として血なまぐさい描写を放りこんでくる。

誰も信用できないような、騙し合いの人間関係と、バイオレントな要素の組み合わせとなると、これは「ウエスタン」でも「マカロニ・ウエスタン」中華風といった味付けなのだ。

チアン・ウェンの演出は、どうもこの会話部分の芝居がかった作風に臭みがあって、ここは好みが別れる所だろう。
1993年の監督第1作の『太陽の少年』は、俺は大好きな映画だが、あの映画でも、瑞々しさとともに「どうだこの演出!」という、野心が表に出たような描写もあった。
1998年の2作目『鬼が来た!』になると、日本の軍人を描いてる部分は置いとくとして、芝居に関する演出に「あくどさ」が増してる気がして、俺は世評ほどにはいいと思わなかった。

この『さらば復讐の狼たちよ』は、パンフレットを読むと、物語の設定やセリフの端々に、現中国の体制への皮肉や、暗喩が散りばめられているという。
そのあたりは当の中国国民でないとピンと来ないのではないか。


俺が感じ取ったのは、この物語の登場人物が「名を語る」という設定だ。

チャンはギャングの素性を隠して県知事として振舞う。
詐欺師のマーは、県知事の官位を金で買ってたが、身の危険を感じ、自らを書記だと名乗る。
ホアンも身を守るため、影武者に「ホアン」を名乗らせている。
それがすべて通ってしまうというのは、監督が意図したかはわからないが、中国が「名乗ったもん勝ち」な国だということを表してるのだ。

それは日本のブランド名や、産地名を、中国国内で「登録商標化」してしまう、あのビジネスのやり口を連想させる。


監督と主役のチャンを兼ねてるチアン・ウェンは、役者としての風格が出てきた。
表情が時折、小林薫に重なる所がある。誰かが書いてたがケンコバにも似てるね確かに。

チョウ・ユンファはほとんど銃を手にしない。
狡猾な独裁者を余裕を持って演じてるんだが、底冷えするような冷酷さというものが足りない。
ちょっと抜けた所のある「影武者」と二役を演じ分ける、そのことに満足してしまってる感じがした。

二人の主役よりも、詐欺師マーを演じるグォ・ヨウが面白い。
『続・夕陽のガンマン』のイーライ・ウォラックのような立ち位置にあり、保身のためにだけ、頭がフル回転してるような、その表情の変幻自在ぶりに見入ってしまった。

けっこう日本公開作があるのに、俺はこの人が出てる映画をほとんど見てないんだな。
ちょっと他の映画も見てみよう。

2012年7月16日

飛び降り騒動はダイヤ狙う陽動作戦 [映画カ行]

『崖っぷちの男』

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マンハッタンの由緒あるルーズヴェルト・ホテル、その21階の表通りに面した部屋の窓を乗り越えた男が、40センチに満たない建物の縁に立った。
ほどなくその姿を目撃した通行人たちが、一斉にホテルを見上げ始め、周囲は騒然となる。

男は元ニューヨーク市警の警官だった。25年の刑を言い渡され、収監されてた刑務所から、父親の葬儀に参列するため、特別に一時出所を認められ、その墓地で監視の刑務官を振り払い、脱走したばかりだった。

男の罪状は時価4千万ドルの「モナークダイヤ」を盗み、闇で売り捌いたというもの。
たまたま非番の日に、貴金属輸送車の護衛のバイトを引き受け、その輸送車が襲撃された。
それを警官である男が仕組んだものと判断されたのだ。

男は自分が立つホテルの真向かいにあるビルを睨んでいた。
そこは「モナークダイヤ」の持ち主だった、不動産王イングランダーが所有するビルだった。


自殺志願者と思えた男が、自分の身の潔白と、自分を嵌めた相手に対して「礼」をするという、一石二鳥な賭けに出る、その設定は上手いと思う。

この映画の野次馬のように、ビルの屋上に人が立ってるのを目撃すれば、飛び降り自殺かと思うだろうし、あとの興味は「いつ飛び降りるのか?」だろう。
そのためにケータイのカメラをかざしてる。
駅で飛び込み自殺があっても、通勤中の人々は「はた迷惑なことしやがって」くらいにしか思わない。
ほとんどの人間は、自殺しようとする本人が、そこに至るまで、どんな苦しみを抱えてたのか、そんなことに思い馳せることもないのだ。


主人公の警官ニック・キャシディには、はなから飛び降り自殺をするつもりなどはないのだが、「自殺するしかない」という風に見えた人間が、人生逆転の大芝居を打つ、思い上がった相手に鉄柱を下す、そこに痛快さが生まれる。

ニックは父親の葬儀の場で殴り合いとなる、「ろくでなし」の弟ジョーイがいるんだが、そのジョーイがホテルの向かいのビルの屋上に現れるあたりから、この映画が新手の『ミッション・インポッシブル』なのだと気づかせてく。
ジョーイはラテン系の美人の恋人アンジーを、現場に伴ってる。屋上で小規模な爆破を起こして、そこからビルに忍び込もうという算段。

なぜそんなことをするのか?そのビルの15階には、超高額の貴金属などが保管されてる金庫室がある。
イングランダーは「モナークダイヤ」をニックに盗まれたと証言してたが、現物は保管してあるとニックは確信していた。イングランダーは盗難によって、高額の保険金を受け取っていたのだ。


ニックとジョーイが今回の計画を仕組んでるとすれば、兄弟のいがみ合いも演技ということになるし、父親の葬儀も本当だったのか?ということになる。
もちろんその答えは明らかになるんだが、この映画に関しては様々なツッコミ所があることは、見ればわかる。


まずジョーイとアンジーの「怪盗カップル」なんだが、プロっぽい装備を揃えて、実行に及んでるが、どうやってそんな装備や、スキルを学んだのか?
それはそういう稼業を続けてきたからという見方はできるが、そうなるとジョーイと兄のニックの関係性がわからない。
「泥棒稼業」の弟を持つ兄が、ニューヨーク市警の警官だったわけだろ。
兄弟とはいえ、互いに生きる道はちがうってことでは済まされないと思うが。

ジョーイがスキルを仕込まれたのは、父親からかも知れないことが、映画の中で匂わされてたりもするんで、そうなると、ますます兄のニックだけが警官という仕事に就いてるのが違和感ある。

ニックはホテルの建物の縁に立ちながら、体につけた超小型のマイクを通して、ジョーイと交信してるんだが、当然イングランダーのビルの内部のことは見ることができない。
ジョーイからの通信で見当をつけて指示を与えてる。その指示が的確なんだよな。

金庫までの通路に熱線感知センサーがあるんだが、それを即座に「冷やせ」とか指示してる。
ジョーイがどうやるかは見てのお楽しみだが、金庫室に入ってからも、センサーが張り巡らされて、元の配電盤のコードを切断することになるんだが、そのコードの色まで知ってる。
一介の警官がなんでそんな知識まであるんだよ?

みたいな点が気になってくると、そもそもニック自体、100%「シロ」な存在なのか?と疑問も湧いてくる。


ニックを演じるのはサム・ワーシントン。なんと今年日本では5本目となる出演作の公開だ。
この映画は彼の個性を、これまでの映画では一番生かしてると思う。
垢抜けない感じなんだが、その朴訥さが「裏表がなさそう」な人物像という印象を与える。
つまりはそこが「引っ掛け」であって、警官ニック・キャシディは白なのか黒なのか?映画を見終わった後も、尾を引く感じがあるのだ。

ニックから交渉人に指名される女性刑事リディアを演じるエリザベス・バンクスがいい。
彼女はきわどいコメディにも臆せず出て、サラリとこなしてる、そのさばけた感じが以前から好印象な女優。
この映画ではひと月前に自殺志願者との交渉に失敗して自信を失くしてるという設定なんだが、現場では男どもには一歩も引かない勝気さも見せて、難しい匙加減の演技をこなしてた。

リディアと交代させられる刑事を演じてたのは、エド・バーンズ。以前はエドワード・バーンズと名乗ってたが。
彼が監督・主演した『マクマレン兄弟』からもう17年になるのか。
監督・主演作をその後も何本か作り続け、『プライベート・ライアン』で役者として次期スター候補にも上げられた。デニーロと組んだ『15ミニッツ』で主演するも、その後が続かず。

彼のマスクはアメリカ人が好む面長でタレ目なんだが、ウィークポイントが「声」なんだよな。
これで声が渋ければ間違いなくスターになってただろう。
そのエド・バーンズも久々に見たが、あの万年青年みたいな持ち味だったのが、すっかり中年のオヤジ顔になってた。

もう一人のエドは、イングランダーを演じるエド・ハリスだが、なんか痩せたな。
相手を恫喝する得意の演技を見せる場面もあるが、迫力が足りない気がした。
まだ62才だからね、老け込むには早いと思うんだが。

2012年7月15日

鮫!鯨!蛇!ムカデ!ピラニア!猿&禅! [映画雑感]

この週末は月曜祝日の「3連休」となるんで、配給会社も勝負かけて封切作品を揃えてきたわけだが、題名眺めると「わくわくどうぶつ大集合」みたいなことになっとるぞ。
「猿」というのは「海猿」のことだが。

それにしても『BRAVE HEARTS 海猿』の、各シネコンにおけるスクリーン占有率はすごいな。
話題性からいえば『ヘルタースケルター』の方が上だと思うし、『ポケモン』も公開されるんだが。

もうシネコンの名前も「TOHO海猿シネマズ」とか「ユナイテッド海猿シネマズ」とか「109海猿シネマズ」とか「ワーナーマイカル海猿」とか「新宿海猿バルト9」とか「新宿海猿ピカデリー」とかにしといたらどうなん?
もっともどんなに海猿にあふれてても、俺は映画版2作を見た段階で、お腹いっぱいになったんで、3作目は見てない。
よって今回も「見ザル聞かザル海猿」である。


まず「鮫」VS「ピラニア」の人食い対決に期待がかかる。

『ピラニア・リターンズ』は3D上映。
前作『ピラニア3D』が、正しい3D映画の見本を示しただけに、今回も「その方向性」にブレがないように祈るのみ。監督が、常に攻めの姿勢が素晴らしいアレクサンドル・アジャから、
『The FEAST/ザ・フィースト』シリーズのジョン・ギャラガーに替わってるのが気になるが、あのシリーズのアホっぽさも捨てがたいものがあったんで、健闘を期待しよう。

対する「鮫」の方は『シャーク・ナイト』
これも本来3D映画として製作されてるのに、なんと日本では2D上映!
いやタイタンとかジョン・カーターとかMIBとか、そういうもんは3Dじゃなくたって一向に構わんが、これは3Dでやれよ。飛び出されて怖いとなったら「サメのアゴ」だろ。
しかも監督は『ファイナル・デッド』シリーズで3Dの見せ方にも長けてるデヴィッド・R・エリスだぞ。


次いこう。蛇やムカデは苦手な人も多いよね。

『ムカデ人間2』は、一部からは「最も待望されたパート2」作品といわれてる。
「お尻とお口をくっつけちゃおう」というキ●ガイ博士を描いた前作の続きといおうか、その『ムカデ人間』のDVDを見た素人が「僕もつなげてみたい」と、麻酔も医療用具もなく、日曜大工感覚で犠牲者たちをムカデ化してくという、手前味噌な設定だ。

あまりのグロさにモノクロで撮影したそうな。
といっても俺は前作をまだ見てないんで、レンタルして予習しとこう。
都内では「新宿武蔵野館」1館で、しかもレイト1回のみの上映。これは混むかもな。


「蛇」の方はグロではなく『白蛇伝説~ホワイト・スネーク~』
「なんだなんだデビット・カヴァーデイルか?」とロック・ドキュメンタリーと思いきや、ジェット・リーが『チャイニーズ・ゴースト・ストーリー』のチン・シウトンと組んだ「もののけファンタジー・ホラー」のようだ。
都内では「シネマート六本木」での単独公開。


次は「鯨」だが、これはホラーではなく、『だれもがクジラを愛してる。』
1988年10月に世界中のお茶の間の話題をさらったアラスカのクジラ救出作戦の実話を元に描いた、といっても俺はそんな話聞いたこともなかったが、まあ「感動のドラマ」ということなんだろう。
原題は『BIG MIRACLE』なので、日本の配給会社が、わざわざ日本へのあてつけみたいな邦題をつけたってことだな。
『だれもがクジラを食べている。』に変えるべき。

同じ海洋生物の感動の実話を描いて、愛しのアシュレイ・ジャッドが出てて、全米興行第1位にもなった『イルカと少年』が、劇場公開されず、DVDスルーになったのに、なんでこっちが?という思いが拭えないので、多分見ない。


最後に「&禅」だが、これはもちろん
『3D SEX&禅』である。
テキトーな伝え聞きでは、香港では『アバター』よりヒットしたと言われてる、古典エロ文学の映画化だ。その『アバター』以降「これからは3Dの時代だ!」などと言いながら一向に盛り上がる気配もなかったのは、その理由はわかってるくせに、どこも踏み出さずに、子供だましのCG見せてお茶を濁し続けてきたからだ。

そこでついに中国が、超大国の存在感を見せつけることとなった。
「見たいものを見せてあげる」
ってのは沢尻エリカのセリフではないのだ。
まあしかし本当にすごい場面に関しては、原紗央莉など、日本のエロ系女優に頼ってるということなんで、今後はその分野でも「国産」でまかなえるようになってほしい。
なんたって人的資源は豊富なんだから。
これ厳密には「香港映画」で、中国本土では上映禁止だそうだが。
都内では俺もよく通ってる「シネマート新宿」での単独公開。
はじめてそこで見る3Dがこれになるのか。若干こっ恥ずかしさはあるな。


この他にも前述の『ヘルタースケルター』に、芥川賞原作の映画化で、前田敦子がけっこう体張ってるらしい『苦役列車』と話題作に事欠かない週末となってる。

でもここまで書いといて、俺が一番楽しみにしてるのは、全米ベストセラーの映画化で、マシュー・マコノヒー主演の『リンカーン弁護士』なんだが。
原作は『わが心臓の痛み』が、イーストウッド監督・主演『ブラッド・ワーク』として映画化されてるマイケル・コナリーのハードボイルドだ。

2012年7月14日

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