秘宝別冊とスーザン・ジョージ [映画ア行]

『おませなツインキー』

本屋に行ったら、なかなか面白いビジュアル本が出てるじゃないか。
「映画秘宝ex 思春期映画女優グラフィティ」という、70年代~80年代の洋画を飾った女優たちを網羅してる。だがその中にはメリル・ストリープとかグレン・クローズの名前はない。
つまりはそういう観点でセレクションされた女優図鑑なのだ。
どういう観点だかは察してほしい。ほとんどR45仕様ではあるが。

おませなツインキー雑誌.jpg

表紙を一番デカく飾ってるのが、ナスターシャ・キンスキーなので、これは俺に買えと無言のプレッシャーを与えてるようなもんである。

ちなみに裏表紙には『サンバーン』のファラ・フォーセットが。
サラフィアン監督とは思えないユルさの映画だったが、彼女の胸下までジッパーおろしたウェットスーツ姿の破壊力は、『死亡遊戯』の黄色いトラックスーツのブルース・リーに匹敵すると、当時クラスの男子の議論を沸騰させたのだ。

買ってひと通り眺めてみたが、おそろしいことに、この本に出てくるすべての女優の、ほとんどの映画を俺は見てるのだった。

スチルだけでなく、読み物も楽しい。
大槻ケンヂが、社会現象となってた『エマニエル夫人』に触れて、
小学校の同級生が「お前はエマニエルだ!」とアダ名されるイジメに合い、クラス会で
「●●君をエマニエルと呼ぶのはやめましょう」
と提案があったとか爆笑したわ。

みうらじゅんのインタビューでも、文系の自分らは『アメリカン・グラフィティ』見ても、どう考えてもチャーリー(・マーティン・スミス)の役でしかない。
とか本質を突いた語録に溢れており、これを読めるだけでも買った甲斐はあるってもんだ。

そんな楽しい本にも登場するのがスーザン・ジョージだ。
この『おませなツインキー』は彼女が19才の時に、16才の女子高生を演じた、1969年作。
日本では1972年に公開されてる。

おませなツィンキー.jpg

ロンドンのパブリック・スクールに通うツインキーは、毎朝ブレザーにミニのスカート、白のハイソで自転車通学。
家は裕福で、厳格な父親は朝食のテーブルで、ツインキーが官能小説を読み耽ってるのを見つけて叱りつける。しかも母親からは「あなたの日記読んだわよ」と言われピンチ。

なぜピンチかというと、ツインキーには恋人がいたのだ。
それも彼女が読んでた官能小説を書いた作家で、38才のアメリカ人スコットだった。

親子ほども歳の離れた二人が、どこでどう出会ったのか、ツインキーは登校前に、スコットのアパートに立ち寄り、まだ寝てる彼のために朝食を作る。
出来たものは黒こげになってるが。
歳は離れてたが、ツインキーは純粋にスコットのことを愛していた。
だが二人が恋人同士と明るみに出ると、イギリスの法律では「法廷強姦罪」が適応される可能性がある。有罪になれば7年の禁固刑だ。

ツインキーは「じゃあ、結婚して夫婦になればいいのよ!」
一応16才で結婚はできるが、二人の関係上、イギリスで認められるかわからない。

そんなスコットの元に、警察官がやってきた。
スコットのイギリス滞在ビザが明日で切れると言う。
更新手続きを踏まなかったのは迂闊だった。
この二つの問題を解決させる妙案があった。
スコットランドに行けば、すぐに結婚手続きが交わせるというのだ。
スコットとツインキーは、その日のうちにグラスゴーへと向かい、二人は晴れて夫婦となった。

ツインキーから事後報告を受けた両親はびっくり。すぐにスコットを家に呼び、審問が開かれた。
父親は「長続きするはずない」と結婚を認めない構えだが、母親はスコットの男前ぶりに満更でもないようだ。
いずれにせよ、結婚してしまったもんはしょーがない。
両親はその新婚生活を見守るしかなかった。


38才の作家が、16才のイギリス少女と結婚したというニュースは、大衆紙の格好の記事になった。
同級生が人妻になったと、学校でも大騒ぎ。

ツインキーは同級生の女の子たちを、スコットの家に招いてパーティを催した。
家に戻ったスコットは、たくさんの女子高生たちの視線に晒された。
だが仲睦まじく寄り添うツインキーを見て、同級生たちは一様に、裸の二人を想像してしまい、場は微妙な沈黙に支配される。
ツインキーの夫に会いたいとやってきた同級生たちは、そそくさと部屋を出て行った。

ツインキーの家族のことやら、なんやらと干渉に晒されるのを逃れるため、スコットはニューヨークに彼女を連れて戻ることにした。

ケネディ空港にはスコットの両親と、スコットのエージェントが出迎えた。
「イミグレーション」から出てきたツインキーを見て
「息子はロリコンだったのか」と親は絶句する。

ツインキーは本気で息子を愛してるようなので、スコットの両親もすぐに彼女を受け入れた。
エージェントは、スコットが一向に新作の執筆に入ってないことに焦っていた。
「小説が今すぐ無理ならCMの台本を頼む」と仕事を依頼した。


数日間はスコットの両親の家に同居したが、スコットの父親が、二人の寝室を覗ったりするんで、やはりアパートを探そうということに。
ニューヨークはデモの季節だった。
ツインキーにはその光景が物珍しく、スコットが目を離した隙に、いつの間にか、デモに加わって、プラカード持って歩いてる。
スコットはツインキーを連れ戻そうと、警官と揉み合いになり、つい殴ってしまう。
現行犯逮捕され、下されたのは30日間の拘留。

ツインキーはスコットが釈放されるまで、自分でアパートを探す決意をする。
彼女が見つけたのは、ハドソン河に架かる橋の傍にある、見晴らしのいい部屋だった。

可愛い女の子の独り住まいと思った大家は、快く契約を交わすが、後で人妻と知りがっくり。
ツインキーはアパートに暮らし始めると、すぐに仲良くなった人たちを呼んではパーティ三昧だった。

ようやく釈放されたスコットは、ツインキーと待望の新婚生活へ。
だが執筆活動に専念したいスコットと、常にかまってほしい若いツインキーの関係は、しだいにぎくしゃくしたものになっていく。


映画としては小品というイメージだったので、ロンドンとニューヨーク、二つの大都市でロケーションしてるスケールの大きさは意外だった。
ハイドパークとテムズ川を臨むロンドンの風景と、セントラル・パークとハドソン河のニューヨークが、対になってるように描かれてる。

他愛ないロマコメではあるが、設定が他愛ないどころか、今じゃアウトな内容なのだから、時代は進んでるのか戻ってるのか。
二人が裸で抱き合うような場面は一切ないが。

60年代後半のミニブームそのままに、スーザン・ジョージは終始ミニスカで、とにかく可愛い。
彼女はこの映画の後は、集団暴行される人妻役が衝撃を与えた『わらの犬』とか、
ピーター・フォンダと逃げる『ダーティ・メリー、クレイジー・ラリー』で、思春期部分を直撃する女優となる。
庶民的な親しみ易さがあり「外人さんだけど、お願いすればなんとかなるんじゃないか?」という、都合のいい妄想に耽らせてくれた。
風吹ジュンがデビューした当時、スーザン・ジョージとカブるエロ気を感じたもんだ。


そんな彼女が惚れるのがチャールズ・ブロンソンというのが、「なぜ?」って感じなのだが。
父親が早くに亡くなって、以来ファザコンでというような設定ならわかるんだが、家には口うるさい父親がいるのに、なんでまたそんな年上と、と思わざるを得ない。

口ヒゲのないブロンソンも、エロ小説家という設定が、合ってるんだか、合わないんだか、微妙だけど、贅肉のないシルエットはカッコいいね。

前にこのブログでコメント入れた、オリヴィア・ハッセーの『青い騒音』というイギリス映画も、中年の妻子持ちとの恋愛を描いてたが、その時の男優もイケメンというより、ジミシブな感じの見た目だった。イギリスの女性の独特な好みがキャスティングに反映されてるのか。

監督はリチャード・ドナーで、この人は当時はテレビドラマとか、こういう小ぶりな映画を手がけてたのが、1976年の『オーメン』の大ヒットで確変起こして、以降は大作監督として名を成していく。
「ツイ~ンキ~♪」っていう軽快なテーマソングもいい。

ジェットリンクから出てるDVDは、フランス公開版を原版にしてるようで、タイトルはフランス語だった。画質はいいとは言えない。
なぜか後半のニューヨークの場面になると、画質がマシになってく印象があった。
錯覚かもしれんが。

2012年9月15日

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出た!ソン・ガンホの飛び蹴り [映画カ行]

『凍える牙』

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乃南アサの直木賞受賞作を韓国で映画化。
過去に日本では2度テレビドラマ化されてるというが、俺は見てない。
狼と犬を掛け合わせた「ウルフドッグ」の仕業による連続殺人事件を、刑事が追うという内容は、なにやら1981年の『ウルフェン』を思い起こさせもする。

韓国映画で刑事ものといったら、飛び蹴りはつきもので、期待しつつ物語を追ってたら、やってくれましたソン・ガンホ。ただし犯人にじゃなく、同僚にだったけど。


ソウル市の駐車場で、車の炎上事故があり、運転席にいた男性が焼け死んだ。
目撃者によると、運転席の男性の体から発火したという。
灯油をかぶるような素振りもなくだ。

現場を調べる中年刑事サンギルは面白くなかった。
班長から、白バイ上がりの新米女性刑事ウニョンと、捜査に当たれと命じられたからだ。
何度も昇進を見送られてるサンギルは、こんな自殺と思しき事件など、解明できても手柄にならない。
おまけに新米の教育を押し付けられる。

ウニョンに早速毒づいても、言い返してくるわけでもない。
愛想のない陰気な女だ。

サンギルは私生活でも問題を抱えていた。
妻は2人の子供を置いて出ていった。上の息子はモロに反抗期で手に負えない。
ウニョンも夫と離婚していた。
両親とも早くに死に別れ、家族と呼べる者は誰もいないと言う。


黒焦げで指紋も採取できない死体から、科学捜査班は興味深い検死結果を出してきた。
尿から覚醒剤反応が出た。
巻いてたベルトのバックルには、タイマーと点火装置、そして引火性の高い化学物質が仕込まれてた。
そのベルトを誰かが贈ったのだとしたら、これは殺人事件となる。
ウニョンは、死体の太ももに、何かに噛まれた傷跡があると、サンギルにその部分を見せた。
バックルとその傷跡に関連性はあるのか?

覚醒剤の売人から、焼死した男性は学習塾の経営者とわかる。
その塾を調べてみると、隠し扉の向こうに、いくつもの部屋があることがわかった。
売春に使われてたのは明らかだ。部屋には覚醒剤の錠剤もあった。
また焼死した男性のケータイは、損傷が激しかったが、男の後ろ姿が映る動画が残っていた。

これは大がかりな背景を持った事件だ。解決させれば昇進は間違いない。
ウニョンは何度も「班長に報告しましょう」
と言うが、サンギルは手柄を横取りされるからと、二人で捜査を続行していく。


新たな死体が検死に回されてきた。
会社員風の男性で、喉を噛みつかれたことによる失血死だった。
一報を受けて解剖室に駆けつけたサンギルは、前回の死体に残された証拠について、なんの報告もしてなかったことを、班長から激しく叱責された。
その場にいたウニョンは、サンギルの後輩で、つい先日に警部に昇進したヨンチョルから
「お前も手柄に目がくらんだか」
と頬を張られる。

ヨンチョルはカラオケ宴会の場で、ウニョンに迫り、拒絶されたのを根に持っていた。
サンギルは勇み足だったと認め、二人は捜査の脇に追いやられた。
死体の喉の傷から大型の野犬か闘犬の可能性があると、サンギルとウニョンは、犬探しに回される。

犬の正体を探る過程で、サンギルとウニョンは、犬とオオカミを交配させた
「ウルフドッグ」の存在に辿り着く。
その犬は、事件につながると踏んで、サンギルとウニョンが張り込んでた民家の家宅捜索で、住人とつかみ合いとなる最中、不意に現れた。
少女たちを乗せたライトバンを運転する女性を襲って、その喉笛に噛み付いて絶命させた。
ウニョンは刑事たちの中で、唯一その場面に出くわし、そのウルフドッグと目を合わせていた。


ウニョンは、家宅捜索の際に腹をしたたか蹴られ、入院を余儀なくされた。
だがウルフドッグのことが頭から離れず、警察犬トレーナーに関わりがないか、資料をあたり始めた。
現役のトレーナーに疑う部分はない。
だが退職した人間だったら?

過去の人事ファイルをあたり、ミョンホという、警察犬トレーナーの元刑事の存在が浮かび上がった。
ミョンホには娘がいて、麻薬中毒から精神療養施設に預けられたはずと情報を掴んだ。

だが情報を辿って行っても、娘のジョンアは捜し出せない。
それでもウニョンは地道な捜査を諦めなかった。

そして、ミョンホの娘ジョンアが少女売春を強要されてた事実をつかみ、この不可解な連続殺人事件の被害者が、その売春組織につながりがあるらしいこともわかってきた。

バックルの発火による、一見無関係に思える事件も、ある一点で結び着く。
だがウニョンがその鍵を握る場所に向かったことを、サンギルは把握してなかった。


映画のオープニング・タイトルで、疾走するバイクの映像が、早くもテンションを上げさせるんだが、バイクを駆るウニョンを演じるのはイ・ナヨン。
俺は彼女の出てる映画はこれが初めてだが、こういう顔は好きだ。
日本でいうと田中美奈子と阿木曜子をミックスした感じかな。

とにかく刑事として配属されるのに、そのハブられ方が露骨すぎ。
そういう境遇に耐えながら、捜査に加わる滑り出しで、彼女に肩入れしてしまう。
映画終盤で彼女がバイクで、ウルフドッグを追う場面には、
「がんばれ、ここ見せ場!」と思って見てた。

家庭ではいい父親とはいえないサンギルを演じるソン・ガンホは、出世に見放された屈折を抱える中年刑事を、大袈裟な芝居をせずに演じてる。
ともに警察官という職務に愚直であろうとするあまりに、妻に逃げられ、夫に逃げられた二人の刑事。
その間にほのかなロマンスなど生まれはしないのが、甘ったるい後味にならずに済んだ。


このウルフドッグのチルプンとなる犬がいい。
底冷えするような目で、じっと見つめる場面は迫力がある。
一方で最後の場面などは、ほんとうにそういう表情を作ってるように見えて、グッとこさせるものがある。
まだ小さな娘のジョンアと戯れる、仔犬時代のチルプンの回想場面の挟み方は、ベタそのものなんだが、それを変な照れを感じさせずに、きっちり絵として見せてくれるのがいいのだ。

この映画は目を見張るアクション場面とか、唸るような語り口の上手さとか、そういうものは持ち合わせてない。「通俗的」な刑事サスペンスなんだが、何と言うか
「きちんと通俗を貫いてる」ので、最後まで堪能できたのだと思う。

2012年9月14日

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猛毒将軍ニューヨークへ行く [映画タ行]

『ディクテーター 身元不明でニューヨーク?』

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サシャ・バロン・コーエンの『ボラット(以下略)』を見た時、故郷のカザフスタンを出る場面で、
『ジプシーのとき』の冒頭に流れる、ロマの民族音楽風のテーマ曲が流用されていて、さらにボラットが「アメリカで最高の女」と思ってる、パメラ・アンダーソンが出てくる場面では、やはり『ジプシーのとき』の感動を盛り上げる、スピリチュアルなコーラス曲が流用され、
「俺の大好きな曲をこんなものに使うな!」
と憤慨したが、その選曲センスはただもんじゃないな、とも思った。

その『ボラット』と次の『ブルーノ』は、サシャ・バロン・コーエン(以下SBCと略す)が扮する謎のキャラが、お笑いの舞台でいうと「客いじり」のように、一般人の前に現れ、傍若無人に振舞うという、ドッキリ的趣向がウケたコメディだった。

明らかに無礼なんだが、SBCは背丈もあるし、得体が知れないんで、殴りかかるのも躊躇される、そんな受け手のリアクションに笑いが押さえきれなかった。

今回の新作は「カザフスタン人」「クネクネのゲイ」に続いて、北アフリカ某国の独裁者というキャラ設定になってる。『ボラット』『ブルーノ』と違うのは、ドッキリ手法ではなく、かっちり劇映画の手法になってることだ。
SBCのキャリアとしては、主演第1作の『アリ・G』のアプローチに回帰したといえる。


ワディヤ共和国という架空の国名がつけられてるが、そこの独裁者アラジーン将軍がニューヨークへ行くというお話。
映画の最初に、同じ独裁者の「金正日を偲んで」と出るあたりから、もう飛ばしてる。

アラジーン将軍がなんでニューヨーク(以下NYと略)に行くことになったかというと、核ミサイル開発を疑われ、国連本部でのサミットで釈明しないと、空爆するぞと脅されたから。
実際思いっきり開発してるんだが、そのミサイルの大きさは将軍の背丈の半分くらいしかない。
しかもアラジーン将軍は
「ミサイルの先っぽは、とんがってなきゃ駄目だ」というのに、科学者は先の丸いのを作って、処刑を命ぜられたりしてるんで、なかなか飛ばすまで至らない。

今夜もハリウッドからミーガン・フォックス(本人)を、デリヘルよろしく大金で呼びつけ、ベッドで一物をトランスフォームさせた将軍だったが、
「そんなに言うなら行ってやる」とNYへ観光気分で乗り込んだ。

だが信頼を置いてた側近のタミールがあっさり背信。
出迎えたアメリカ人のクレイトンに拉致され、トレードマークのヒゲを剃られて、NYの街中に放り出されてしまった。

アラジーン将軍は暗殺の危険に備えるため、そっくりの影武者を同行してたのだが、側近のタミールは、その影武者を使って、将軍本人の代わりに、サミットで演説させようと企てていた。

ワディア共和国を、独裁国家から、民主主義国家へと生まれ代わらせる宣言をするためだった。
もちろんタミールの陰謀には超大国が糸を引いていた。


一転してパスポートもない、身元不明の難民と化してしまったアラジーン将軍。
ヒゲがないので、本人アピールもまったく通らない。

困り果てて、さまよい着いたのは、NYの一角にある「リトル・ワディア」という地区だった。
そこのバーに入ると、店にいる人間たちから異様な視線を浴びる。

バーの店主はアラジーンの顔をまじまじと眺め
「あんた名前は?」と執拗に訊いてくる。
店に貼られてる英語をチラ見しながら、テキトーな名前でかわそうとするが、
「おまえ将軍だな!」と囲まれて絶対絶命。そこに
「彼は俺の従兄だよ」
と助け船を出したのはナダルだった。

ナダルはミサイルの先っぽを丸くして、将軍に処刑を命ぜられてたはずだ。
ナダルはアラジーンに驚くべき真相を耳打ちした。

アラジーン将軍が国で処刑を命じた、数しれない人間たちは、実は一人も処刑されておらず、刑の執行官がアメリカへの亡命を取り計らっていたのだ。
そうしてNYに渡った人間たちが、この「リトル・ワディア」に暮らしてるのだと。
なんだいい話じゃないか。

ナダルは「ミサイル開発の仕事に復帰させてくれれば、将軍の復権に手を貸す」と言い、3日後に控えた国連サミットでの新憲法サインまで、タミール側の動きを探ることになった。


アラジーン将軍にはもう一つ幸運な出会いがあった。
彼を政治難民だと勘違いして、女性活動家のゾーイが助けてくれたのだ。

彼女は博愛主義者で、経営する自然食品スーパーには、あらゆる人種の店員が働いていた。
その彼女の店が、サミットの食事のケータリングを依頼されたのだ。
店員としてサミット会場に入ることができれば、タミールの陰謀を阻止できるかも。

アラジーン将軍は、アリソンと名を偽り、ゾーイの店で生まれてこのかた経験のない、店員として「労働」することになった。

ゾーイはアラジーン将軍にとっては、出会ったことのないタイプの女性だった。
彼女はフェミニズムを標榜していて、なんでもありのままに任せるべきと、腋毛も剃ってなかった。
将軍はその腋毛にそそられた。
ゾーイはアリソンことアラジーン将軍が、オ●ニーの仕方も知らないことに驚いた。
物心つく頃から女性にやってもらってたからだ。
「こんなモノ自分で触れるか!気持ち悪い」
と拒否してたが、ゾーイの言う通りに試してみると、そのあまりの快感に将軍の核ミサイルは暴発した。
「人情」という言葉も知らない独裁者が、博愛主義者の女性に恋をしてしまった。


はサミット会場に潜り込むことができた将軍が、ニセモノに代わって宣言の壇上に立つ場面でクライマックスを迎える。ここでの将軍のスピーチは、映画の題名からも察する通り、
チャップリンの『独裁者』の場面を模している。
アラジーン将軍のスピーチが奮ってる。
「アメリカも独裁国家になっちゃいなよ!」というもので
「独裁政治が行えれば、富を1%の人間が独占することができるし、
他の国を簡単に爆撃することもできるし」
と、今のアメリカそのままじゃないかという話をする。

皮肉が利いてるコメディじゃないのと、あらすじ読むだけならそう思うかも知れないが、SBC本領のド下品なギャグが、合間にバンバン挟まれてるのは相変わらずなのだ。

タミールたちが滞在するホテルに侵入するため、スパイ映画みたいに、隣の建物からワイヤー張って、宙刷りで渡ってく場面。
途中で止まってしまったため、体重を軽くしようと、アラジーンはポケットの中の色んな物を捨ててくんだが、まだ足りない。ナダルに
「腹の中のものも!」と言われ空中で脱糞。

とか、ゾーイの店で店番してたら、客の妊婦がいきなり産気づいてしまう。アラジーンは
「私は国で医者の心得がある」
と本当とも言えないことを言うと、妊婦の股間に手を突っ込む。
「その穴じゃない!」
と何度も言われる。
ゾーイは「私も手伝うわ!」と二人で手を入れる。
それを妊婦の体内から見たカメラで描写する。

女体の内側から外を見せるというカメラは、三池崇史監督の『極道戦国史・不動』で、女殺し屋が、股間から吹き矢飛ばして、標的を殺す場面以来かもな。
アラジーンはそうして取り上げた赤ちゃんが女の子とわかり「捨てよう」と言う。

こんなドイヒーなギャグが散りばめられてるんで、SBC映画のイチゲンさんは引くかもしれん。
だが全体の印象としては、独裁者をデフォルメさせて笑いを取る、シニカルなコメディの範疇に収まるもので、『ボラット』や『ブルーノ』に見られた、一触即発のハプニング性といった、型破りな面白さとは別のものになってる。

それと『ボラット』にしろ『ブルーノ』にしろ、SBCの扮装したキャラが目立ってはいるが、そういう明らかに異質の者の乱入によって、対象となるコミュニティや、組織や環境といったものが、逆にその特殊性を浮き彫りにさせられる、そこに批評性が感じられたりしたのだ。


それはSBCと組んで独特のコメディ世界を作り上げてる監督のラリー・チャールズに寄る所が大きい。
彼はSBCと組まずに単独で、新興宗教の教祖たちに突撃インタビューを試みた
『レリジョラス~世界宗教おちょくりツアー~』というドキュメンタリーを作ってる。

その環境にいる人間たちは、なんの不思議も感じずにいる、その価値観が外から見ると、どれだけ特殊に映るのか、そういう視点にこだわってる映画作家なのだ。

だが今回の『ディクテーター 身元不明でニューヨーク?』は、独裁者が他所の国に来て、その価値観を覆されるという話で、独裁者自身の戯画化に終わってしまってる。

まあ『ボラット』と同じアプローチで、アルカイダみたいな面相の男が、いろんな場所に乱入してったら、まかり間違えば射殺されたかも知れないしね。


ちなみに俺が一番笑ったのは、アラジーンとナダルが、タミールたちのホテルを空から偵察しようと、観光ツアーのヘリに乗り込む場面。

アメリカ人の熟年夫婦が同乗してるんだが、アラジーンとナダルはどう見てもアラブ人。
英語でひとしきりフレンドリーに話しかけるが、あとはアラブ言葉で二人は雑談してる。

だが合間合間に「フセイン」とか「ビン・ラディン」とか単語が耳に入り、熟年夫婦は気が気じゃなくなる。
ポルシェの話をしてるのに「911」と耳にして「ギャー!」と奥さんパニックに。

ゾーイを演じてるのがアンナ・ファリスとは、エンディングのクレジット見るまで気づかなかった。

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彼女は金髪のイメージだから、今回の髪をブルネットに染め、しかもショートに刈り込んでると、ちょっと別人の印象。アメリカのレズビアンの人にウケそうな感じ。
実際に腋毛も生やしたそうで、『カケラ』の満島ひかりと一緒だね。
腋毛フェチは必見と言っとく。

2012年9月13日

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あらかじめ失敗した詐欺師たちよ [映画ヤ行]

『夢売るふたり』

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西川美和監督・脚本・原案のこの映画は、たぶん見た人の数だけ異なった解釈が生まれるのではないか?そういう懐の深さを持っている。
なので今から書くことは俺としての解釈にすぎない。まだ見てない人は読まない方がいい。


オープニング・クレジットから10分くらいの、ごく冒頭から、意味を含ませたさりげない描写が続いていく。
卸売り市場に野菜などの買出しに出かける夫婦がいる。
京成電鉄が走ってるから、東京の北部の町だろう、小料理屋「いちざわ」を夫婦で切り盛りしてる。
板前の夫・貫也が厨房に立ち、妻の里子が膳を運ぶ。常連客で賑わう店内。

カウンターには昔なじみらしい、オカヤンが妻と一緒に陣取る。
貫也は軽口を交わしながら、オカヤンの妻が皿に残したミニトマトを
「アーン」と言って口に入れてやる。

店が退けると貫也は自転車の荷台に里子を乗せて帰る。
途中の交番の手前で里子は、自転車をサッと降りて、交番が過ぎたらまた乗り直す。

その夜もいつも通り、店は繁盛してたが、焼き鳥の油が火の勢いを強め、瞬く間に厨房は火に包まれる。里子は客を外に逃がすが、貫也は火を消そうと、油の張った鍋をひっくり返し、もはや手はつけられなくなる。
身動きとれない貫也を、オカヤンが助け出すが、店は全焼。
オカヤンも病院へ運ばれる。

貫也と里子の夫婦は10年前に「いちざわ」の開店に漕ぎつけた。
その時オカヤンにも借金をしていた。
絶望して里子の胸で泣く貫也に、タンス預金の通帳を見せる。
オカヤンに借金を返してきてと。

それですっかり無一文になってしまう。だが里子は
「10年前と同じたい。ちっとも怖くないよ」
と貫也を慰める。

この夫婦はともに九州から東京に出てきて、少なくとも10年以上になる。
いつ夫婦となったのかわからないが、子供はいない。
市場の買出しの様子を見てても、仲睦まじい感じだ。自転車も二人乗りだし。
貫也は板前で自分の店を持ちたいと思い、それを里子が支えてきたのだろう。

貫也は仕事に対しての頑なさから、今まで店と衝突しては辞めていくということを、繰り返してたようだ。
自分の店が燃えた後、知り合いの口ききで料亭の厨房に雇われるが、活きの悪い魚は捌けないと、たちまち板長と喧嘩になってる。
腕はあるんだが、頑なさで仕事を失う危うさが常にある。

里子の前で子供のように泣く貫也は、外でも「子供のような」振る舞いで自分の首を絞めてるのだ。
なので里子は妻であり、母親の役割も担ってる。
自分の店が持てれば、思い通りにできるし、人も揉めることもない。

もう一つ、この夫婦はどこかで、子供がいないことの淋しさを抱えてる。
自分たちの店で1日ヘトヘトになるまで働いていれば、その淋しさも紛らわすことができるだろう。
だから二人にとって、自分たちの店はどうしても必要なのだ。

その二人が、新しい店を出す資金を作るために、夫婦で「結婚詐欺」を働くことを決意する。
なぜそんな経緯を辿るのか?


店が燃えた後、里子はすぐに地元のラーメン屋でバイトを始めた。
食べてかなきゃ、落ち込んではいられない。
貫也はラーメン屋のカウンターで里子に毒つく。
健気に働く里子の姿に胸がえぐられるからだ。
「お前は俺みたいなのと一緒になって、貧乏くじ引かされたと思うちょる」
貫也は卑屈になるしかない。
ビールを飲んで町をさまよい、気づけば終電はホームから出た後だ。

ベンチに同じように酔いつぶれた女性がいる。
「大丈夫ですか?」と声をかけると、いきなりズボンに吐かれた。
顔を見たら、店の常連客の玲子だった。

玲子は店に一緒に来てた会社の部長と不倫関係にあった。
その部長は交通事故で重体となり、玲子は病院に駆けつけるも、面会は果たせなかった。
担当医は部長の弟で、「兄からです」と分厚い封筒を玲子に渡した。
手切れ金だった。
玲子は言葉を失い、いまは酔いつぶれて駅のベンチにいた。

火事を話を聞いて、玲子はズボンのお詫びに、貫也を自宅マンションに招いた。
貫也と玲子は衝動的にお互いを求めてしまった。

セックスの後で、貫也は自分の今のふがいなさや、里子は自分なんかにはふさわしくないなどと、愚痴を漏らした。
玲子はひとしきり聞き終わると、カバンの中の封筒を見せ、
「あげる」と言った。
「これ何?」
「手切れ金」
「早!」
貫也はさっきの行為に関してだと勘違いしてる。
玲子は部長の金だと説明し
「これでまた店やってよ」

思わぬ大金を手に、貫也は里子の元へ朝帰りした。
「昔の板前仲間が出してくれた!」
と里子を抱きすくめる。
里子は嗅ぎ慣れない洗剤の匂いに
「この服どっかで洗ってきた?」


ここから里子を演じる松たか子の、背筋を凍らせる表情演技が炸裂する。
封筒の中には常連客の玲子へ部長が宛てた短いメモ書きが入っていた。
夫と玲子の間になにがあったのか、もう里子は悟ってる。だが同時に
「これは金になるのでは?」とも。

オカヤンの妻にミニトマトを食べさせてた貫也を、里子は目の端で追ってた。
貫也にはそういうことを普通にできる「人たらし」な能力というか、人柄が備わってる。
たぶん里子自身も、そんな貫也にほだされて今日まで一緒にきたのではないのか?

浮気をした夫には、その浮気でさらに資金を稼がせよう。
私の味わった屈辱感は、その気にさせられて、金を貢いで騙されて途方に暮れる、その女たちの屈辱感で相殺される。
里子は詐欺を正当化するような捉え方をする。

詐欺といっても、そんなにあくどい事だろうか?
私と同じ年くらいの、独り身でいる女性たちは、みんな心に空しさを抱えてるはず。
そんな彼女たちに一時でも、夢を見させてあげられるのは、きっとあの人に与えられた天賦の才なのだ。


だがこの夫婦は本気で新しい店を持とうと思ってたのか?
不動産屋から物件がFAXされてきて、「ここにしよう」と貫也が盛り上がってる場所は、スカイツリーが川の対岸に臨める場所だ。
映画に地名は出てこないが、京成電鉄の走る町に二人は暮らしていて、京成電鉄の沿線からはスカイツリーが見えるのだ。
つまり火事を出した店と、新しい店に考えてる場所とは、そんなに離れてない。

複数の女性に対し、結婚詐欺を働くような人間が、そんな近場に店を構えようと本気で思ってるのか?
貫也が板前ということは女性たちは知ってる。
新しい店のカウンターに立てば「自分はここに居ますよ!」と宣伝するようなもんだ。
被害者が探偵を雇えばすぐわかる。
実際映画の終わりの方に探偵が出てくる。

店の手付けも打ち、内装が入るようになるが、貫也と里子の気持ちのベクトルは違う方向に向っていく。
新しい店を出せば、居所もわかってしまう、そのことは二人も薄々承知してたのではないか?
だがそれでも店が必要と思うのは、それがないと、二人を同じ場所に繋ぎとめることができなくなる、そんな予感を互いに抱いてたと見る。


里子にとってそれが確信に変わるのは、貫也がシングルマザーの滝子と近づいてからだ。
滝子はハローワークの窓口で、この夫婦の仕事の斡旋を担当しており、里子も当然顔は知ってる。

独身OLの咲月から金をせしめた後に、ターゲットにした、巨漢のウェイトリフティング選手のひとみが、練習中にケガを負い、貫也は病院へ見舞いに行く。
夫のDVから逃げてきたデリヘル嬢の紀代ともつきあい、貫也は体力的にも疲弊していた。
それに女性たちとつきあいを深めるほどに、罪悪感が拭えなくなってくる。

ひとみには、妻の里子が自分から癌であると嘘を吹き込んでいて、ひとみは病室に里子の高額な治療代を用意してたのだ。
里子のことは貫也の妹と思い込ませていた。

貫也は見舞いに訪れた病院の待合室で、心細げに座る男の子と目が合う。
その子と遊んでやってると、母親がやってくる。
ハローワークの滝子だった。同居する父親が具合を悪くしてたのだ。
滝子の家は町で印刷工場を営んでいた。

貫也は里子に、新しいカモが見つかったと話す。
滝子には死んだ夫の生命保険が下りている。
店の仕込みの余りをタッパーに詰め、板前の包丁を新聞紙に包んで
「折をみて、お前の癌のことを持ち出してみるよ」


だが里子は胸騒ぎを覚えていた。いままでの相手とは状況がちがう。
火事の時に真っ先に持ち出そうとした、板前包丁まで持って、滝子の家族に料理を振舞うというのか。
滝子には子供がいる。
他の女と夫が肉体を交わすだけなら、情もしれてる。
だが子供がいて、家庭がある、もしそこに貫也が情を移してしまったら、引き戻すことはできないだろう。

どしゃ降りの中を、里子は印刷工場に向った。
階段を上がり、住居とおぼしきアパートのドアに返事はない。
ドアは開いて、台所の流しの上に、貫也の包丁が、手入れもせずに無造作に置かれている。
印刷工場の物陰から覗うと、作業服を着た貫也が、滝子の父親に仕事を習ってる。
里子はアパートに取って帰し、貫也の包丁を握って階段を下りかけて、滝子の子供と鉢合わせした。

夢売るふたり.jpg

交番の前では二人乗りの自転車から降りるような、小市民なメンタリティの里子と貫也のような人間が、そもそも詐欺など貫徹できはしないのだ。
これは計画した段階から、あらかじめ破綻が約束されてたようなものだ。

貫也は何人もの女性を騙す過程において、自分も肉体的にさまざまな怪我を負う。
罰を与えられるのは、一方的に夫の貫也であり、里子の身には何も起こらない。
起こらないが、自分が企んで、夫を動かした行為は、夫の心を離れさせていくという「呪い」に変えられていく。

映画の結末は、貫也にとっては「苦い解放」といえるものだが、里子は自分でピリオドを打てたわけではない。
夫の浮気への復讐と捉えれば、これはある種のピカレスクではあるが、俺は里子は敗北したのだと解釈する。


西川美和の脚本は、登場人物が有機的につながっており、無駄がない。
うろのように溜まる感情を暴くような、核心をつくセリフの数々にもシビれる。
元が漫画でもテレビでもない、オリジナル脚本による、プロフェッショナルな映画の凄みに溢れている。

貫也を演じる阿部サダヲ、里子を演じる松たか子はどちらも素晴らしい。
ひとみを演じる江原由夏は、撮影のためにウェイトリフティングを習い、その才能を開花させてしまったという。

役者はみんないいんだが、中でも俺はデリヘル嬢を演じた安藤玉恵の
「うわあ、いるよこういう人」という生々しさに目を奪われた。
男運が悪く、貢いでしまうことが身についてしまってる。
そういう自分を卑屈に笑うんだけど、仕事に卑屈になってはいない。
自分で稼いで、自分の足で立ってると。

だが実家に電話する時は公衆電話。
ケータイの番号を親には教えられないし、ケータイにはいつ呼び出しが入るかわからない。

幸せになりたいけど、なりかたを忘れてしまったような。
脚本の描き込みによるものだろうが、安藤玉恵はそれを血肉化してる。


この映画は何回見ても、その度に「これは本当はこうかもしれないな」と解釈が変わる可能性がある。
なので、繰り返すようだが、これは1回見たきりの俺の解釈にすぎない。

展開やセリフに文句はないが、描写にはケチをつけたい部分がある。
映画の冒頭からヘルスでオッパイ丸見えの場面とか、松たか子にひとりHさせてみたりとか、セックスも女性監督だからと流すことなく、きっちり見せようとしてるのか。

だがそれなら貫也とひとみがセックスする場面を描くべきだ。
あの巨漢の彼女を、貫也はどんな風に抱こうとするのか。
松たか子に生理用品つけさせるような描写を入れるんだったら、むしろそっちを見せてくれ。
「いやそれは同じ女性として…」
みたいな遠慮があるなら、それは違うんじゃないか?と思うぞ。

2012年9月12日

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綾瀬はるかのリアル「キッザニア」映画 [映画ア行]

『映画 ひみつのアッコちゃん』

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豊洲のららぽーとの3Fにある「ユナイテッドシネマズ豊洲」は、よく利用するシネコンの一つなんだが、その同じフロアに、週末には親子連れの長い行列ができてる。

その行列の先にあるのが「キッザニア東京」という施設だ。
子供たちが、自分がなりたい職業をシミュレーション体験できるというコンセプトで、けっこうな種類の職業から選ぶことができる。
インストラクターがその仕事の手順とか、道具の使い方を補佐してくれるので、初めてでも戸惑うことがなく、リピーターも多いという。
こういうのがガキの頃にあったら、俺も行ってみたいと思っただろうな。

綾瀬はるかが、心は10才で外見は22才というヒロイン、「アッコ」こと加賀美あつ子を演じる、
『映画 ひみつのアッコちゃん』は、まさに子供の目から会社を見たらどんな風に映るのか、大人たちはどんな風に仕事をしてるのか?という「キッザニア・コンセプト」そのままの物語が展開されてく。

トム・ハンクスの『ビッグ』を下敷きにしたような内容だが、もっと近いのが、2004年の日本未公開作『13 ラブ 30 サーティン・ラブ・サーティ』だ。
ジェニファー・ガーナー演じるヒロインは、13才の誕生日の日に、好きな男の子のマットと喧嘩してしまう。
クローゼットに閉じこもって「早く30才の大人になりたい」と念じたら、翌朝には本当になってたという話。30才の自分はファッション誌のキャリアウーマンになってたが、心は13才のままなのだ。


綾瀬はるかの主演作は見たり見なかったりで、前作『ホタルノヒカリ』は、テレビドラマを見てないのでスルーしたが、『プリンセス・トヨトミ』や『おっぱいバレー』は見てる。

綾瀬はるかが演じてきた役柄は、かなり振り幅が広いというか、他の女優と比べてもユニークではある。
サイボーグだったり、女座頭市だったり、スッチーだったり、干物女だったり。
だがこれだけいろんな役を演じ分けてきてるわりには、「カメレオン女優」という風に呼ばれることもないし、演技的な評価をあまり受けることがない。

これは彼女がデニーロのような「メソッド演技」のアプローチで、その人物や役柄になり切ろうとする、そういう方向を目指してないからかもしれない。

自分の中で役のリアリティを追求するんじゃなく、例えて言うと
「コーチのいうことには全力で従います!」
的な、体育会系の演技に感じるのだ。
役者としての妙な野心とかがなく、一所懸命演じるだけという、そこに清々しさがあり、俺は彼女の演じたどの映画を見ても、気分悪く見終えたことはない。

この『映画 ひみつのアッコちゃん』においても、終始一貫、10才の子供口調と、子供の仕草で押し通しており、同世代の女優たちも
「あそこまではできないかも」と思うかもしれない。
なので、綾瀬はるかの「天然ブリキャラ」が苦手という人はきついかもな。


映画の冒頭は、子役の吉田里琴が演じる10才のアッコが、今はいない父親から貰った手鏡を割ってしまい、悲嘆にくれてる。
庭に埋めて「鏡のおはか」を作って供養する。
するとその夜、アッコの前に黒ずくめにサングラスの、見るからに怪しい男が光とともに現れる。
よく見れば香川照之だ。
『るろうに剣心』にも『夢売るふたり』にも『鍵泥棒のメソッド』にも、もうどこを向いても出てるな。仕事しすぎ。

男は「鏡の精」で、アッコに魔法のコンパクトをプレゼントする。
「テクマクマヤコン、テクマクマヤコンと唱えて、なりたいものの名前を言えば何にでもなれる」
「もとに戻る呪文は、ラミパスラミパス、ルルルルルだよ」
「でもこの秘密を人に知られたら、もう魔法は効かなくなる」

半信半疑で部屋に戻り、呪文を唱えると、たちまち22才の自分になった。
「胸大きい!」

冬休みに入り、アッコは親友のモコちゃんたちと遊園地に出かける。
アッコはつまづいてコンパクトが転がってしまうが、それを拾ってくれたのが、早瀬尚人という青年だった。
二人は観覧車の順番待ちで、再び顔を合わせた。
小さな観覧車に、一緒に乗ることになったアッコと尚人。
いや見知らぬ青年と小学生の女の子が、一緒には乗らんだろう観覧車と思うが。

尚人は夕焼けの町を眺めながらアッコに
「平日なのに遊園地に来てるのかい?」
「だって今は冬休みだもん」
「そうか、子供はいいな気楽で」
尚人の言葉にちょっとふくれるアッコ。
「ほら、きれいだよ」
「えっわたし?」
でも尚人はアッコの背後に見える夕焼け空を指差してた。

見ようによっては際どいシチュエーションだが、尚人を演じる岡田将生が、爽やかキャラなので、妙な空気にはなってない。
「1日の終わりに、ここに来て空を見るのが日課なんだ」
尚人はそう言った。


翌日コンパクトの魔法で、22才の自分に変身したアッコは、デパートの化粧品売り場で、メイクを受けていた。
そこに通りかかったのが尚人だった。
彼は化粧品会社「株式会社赤塚」の社員だったのだ。
思わず声をかけてしまうが、尚人にわかる筈はない。

逆に化粧品の感想を尋ねられた。アッコは率直に子供の目から見た印象をぶつけた。
尚人はアッコの感性を面白がり、そのまま会社に連れて行くことに。

アッコは名刺の漢字をよく読めなかったが、「企画開発室・室長待遇」と書かれていた。
そのまま専務たちが取り仕切る社内会議の場に。

尚人と専務たちとの間には、険悪なムードが漂っていた。
アッコには知る由もなかったが、「赤塚」の社内は揺れていた。
業績の伸びない会社を、専務はある企業に買収してもらう話を進めていたのだ。

専務は前社長を追い落とした張本人で、その社長を慕ってヒット商品を生んできた尚人は、社内の派閥争いに破れ、今や企画室は、商品を企画しても、ことごとく専務に握り潰される「閑職」と化していた。

「過去のブランドイメージにあぐらをかいて、このまま新商品も開発できなければ、会社は潰れます」
社内会議で尚人は訴えるが、それこそ専務の望む展開だった。
会社の株価が下がれば、黒い噂のある買収先の「ゴールド興業」からの出資も承認され易くなると踏んでるからだ。

尚人は「赤塚」という会社に勤めてることに誇りを持っていた。
なのでなんとかヒット商品を開発して、買収話を白紙に戻させようと思っていた。
アッコを冬休みの間、バイトとして雇い、化粧品のアイデアを出してもらおうと期待したのだ。

だが中身が10才のアッコには、会社で交わされる会話はチンプンカンプンで、まわりの社員にも変な目で見られてる。
それでも母親には塾に行くと言って、毎日会社に出社するアッコは、次第に大人の世界のいろんなことがわかってくるのだった。


ラブコメ乗りのファンタジーかと思ってたら、企業ドラマな展開になっていくのは意外だった。
「アッコちゃん」を見に来た子供は、それこそチンプンカンプンだろうな。
この脚本は思い切ったもんだ。

アッコは冬休み中の、自由研究を発表する登校日に、会社で覚えたパソコンのスキルで、資料をコピペしてプリントアウトしたものを提出。
「大人はみんなこうしてるよ」
と同級生に自慢気にするが、担任の先生にはやんわりとたしなめられる。

「アッコは、自分が提出した内容を、この場で言えるかい?」
全然頭に入ってないアッコは、言葉を継げない。
「自分で苦労して調べたり、考えたりしたことが、自分の身につくんだよ」

コピペしたデータを貼り付けてパワポで仕上げたようなプレゼン資料をやりとりする、現実の大人社会の仕事のやり方を皮肉ってる場面だった。
会社内の紛争は、株主総会の紛糾でピークを迎える。


もちろんシリアスな描写だけでなく、アッコが魔法のコンパクトを使って、いろんな人間に変身して状況を変えようと奮闘するので、変身された役者も「子供口調」で演じることになる。

専務を演じる谷原章介も、開発室の女性社員を演じる吹石一恵も。
中でも前社長を演じる大杉漣の、子供演技全開っぷりは爆笑ものだ。

終盤に向かうに従いマンガな展開になってくが、エピローグも気持ちよくまとめてあり、
「大人とはどういう人のことを言うのだろう」
と、映画が描こうとしたテーマを、判り易く観客の心に届くように作られてる。

『映画 ひみつのアッコちゃん』という題名で、俺みたいな物好きはともかく、大人の男性客が関心持つとは期待できないと思うが、これは侮れない仕上がりなのだ。

2012年9月12日

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『龍馬伝』とつながる『るろうに剣心』 [映画ラ行]

『るろうに剣心』

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これも原作のマンガとかアニメはまったく見たことがなく、ふつうならスルーしてるとこなんだが、監督が大友啓史であるという点に惹かれて見に行くことにした。

大友啓史はNHKのドラマの「ルック」を変えた演出家で、この『るろうに剣心』は、『ハゲタカ』の劇場版に続く、映画第2作となる。NHKも辞めたそうだ。

彼の演出したNHKのドラマで、俺が最初に印象に残ってるのは、2000年に放映されたドラマ・ミニシリーズの『深く潜れ~八犬伝2001~』だった。

深く潜れ.jpg

軍艦島にロケをした、ちょっとスピリチュアルな要素のある、不思議なテイストのドラマで、主役のボーイッシュな鈴木亜美に、
「あなたと私はソウルメイトなのよ」
と一方的に近づいてくる小西真奈美との間柄に「ビアン」な空気を、俺のアンテナが察知。毎回見逃せなくなったのだ。

その翌年には朝の連ドラ『ちゅらさん』を演出してる。
これも国仲涼子のあまりの可愛さと、古アパートの舞台設定に、これは平成版『めぞん一刻』だなあと、勝手に思い込んでハマってた。

そして2007年のドラマ『ハゲタカ』となる。
映像からして従来のNHKドラマと違った。色も彩度も落とした画面に、敵意や猜疑心を剥き出しにした男たちの顔が、ずらりと居並ぶ。

このドラマを見て思い起こしたのは、マイケル・マン監督の1999年作
『インサイダー』だ。
あの映画で流れるリサ・ジェラルドによる、女性の独唱をフィーチャーしたメインテーマも、『ハゲタカ』で音楽を担当した佐藤直紀にヒントを与えたんではないか?
とにかく全体の印象が、『インサイダー』のタッチを踏襲してるように、俺には思えた。

その大友啓史が大河ドラマを手がけるというんで、『龍馬伝』には見る前から期待してたのだ。
『龍馬伝』は何部かに分かれた構成だったと思うが、俺は前半のエピソードが良かったと思う。
この『るろうに剣心』には、『龍馬伝』で重要な登場人物を演じた役者が、やはり大きな役で出てる。

岡田以蔵を演じた佐藤健、
その以蔵を拷問にかけた後藤象二郎を演じた青木崇高、
岩崎弥太郎を演じた香川照之。
この3人が『るろうに剣心』で演じた役には、それぞれ『龍馬伝』との繋がりを感じさせる部分がある。

この映画で佐藤健が演じる「人斬り抜刀斎」こと緋村剣心は、「人斬り以蔵」と怖れられた岡田以蔵の、魂の変遷そのままのキャラ設定だ。

青木崇高演じる相楽左之助は、最初は剣心に挑みかかるが、ほどなくその剣の腕と人間性に惚れ込み、剣心のよき「同士」となる。
これは土佐の侍で龍馬を目の敵にしてた後藤象二郎が、のちに身分へのこだわりを捨て、龍馬と共闘するに至る流れを、思い起こさせる。

香川照之演じるのは、アヘン密売で莫大な富を得て、それを元手に西洋の銃火器を買い集め、倒幕後の混沌とした日本を支配しようと目論む実業家・武田観柳。
『龍馬伝』の岩崎弥太郎が「悪」のフォースに堕ちたような人物像だ。

武井咲が演じるのは、剣心と偶然出会うことになる、剣法道場の師範代・神谷薫。
亡き父の「神谷活心流」を受け継いで、道場を守っている。

この神谷薫のキャラ設定と、剣心との関わりというのは、『龍馬伝』で貫地谷しほりが演じた、千葉佐那を連想させる。
佐那は「北辰一刀流」道場師範の千葉定吉の娘で、江戸に出た龍馬が、道場に通い出会った。
剣の腕も上がり、その人望も見込まれ、師範は娘の婿にとの気持ちもあった。
だが日本を変えるとの大志のため、龍馬は道場を去ることに。

佐那は娘ながら剣一筋に育てられ、龍馬への想いも口には出せない。
龍馬が旅立つ日に、佐那と最後に竹刀を交わす場面は、『龍馬伝』前半でも特に胸に迫る名場面となってた。

そんな具合で、『るろうに剣心』自体への基礎知識はないものの、『龍馬伝』からトレースされたような要素が多分に含まれてるので、あの大河ドラマを見てた人なら、楽しみを見出せるだろう。


『るろうに剣心』は、坂本龍馬が京都の近江屋で、新撰組の刺客に暗殺された、1867年(慶応3年)11月15日から3ヶ月後の時代設定で幕を開ける。

新政府軍が倒幕を成し得た日、京都鳥羽伏見の山中で、新撰組と刃を交えていた、倒幕側最強の刺客
「人斬り抜刀斎」は、その報を耳にして、自らの剣を大地に突き刺して、姿を消した。
抜刀斎を追い続けていた新撰組の斉藤一は、刃を交える機会を失った。

それから10年。人斬り抜刀斎は緋村剣心と名を変えて、日本各地を流浪していた。
倒幕派のリーダーから「新しい時代のため」と人斬りを命ぜられるまま、多くの人を殺めてきた。
もう人は斬らない。
「不殺(ころさず)の誓い」を自らに立てた剣心は、刀をさしてはいたが、その刃は峰と逆についた
「逆刃刀(さかばっとう)」と呼ばれるものだった。


東京に出てきた剣心は、人相書きに昔の自分の名「人斬り抜刀斎」と記されているのを見て驚く。
容疑をかけられることなどしていない。

ニセの抜刀斎を名乗り、辻斬りを繰り返し、都を震え上がらせていたのは、鵜堂刃衛という剣の使い手で、実業家・武田観柳の護衛の一人だった。
観柳は、桁違いの常習性を伴う黒いアヘンの塊を製造させ、市民たちの間に蔓延させ、支配しようと企てていた。

そのアヘンを製造した高荷惠は、薬剤師の父から薬の調合の知識を受け継ぎ、武田観柳は美貌の惠を、その知識とともに、手元に置こうとしていた。
だが罪悪感に駆られた惠は、観柳のもとを逃げ出し、警察署へ。

その居所を察知した鵜堂刃衛が、警察署に乱入し、居並ぶ警官たちを一人残らず斬り殺していく。
惠はその修羅場に紛れて逃げおおせた。

血に飢えた刃衛は、外に逃げた警官も追って斬り捨てる。
その場を目撃したのが神谷薫だった。
人相書きの抜刀斎は、彼女が師範代を務める「神谷活心流」を語って、人を斬り殺していた。
刃衛を抜刀斎と思い込んだ薫は、竹刀で行く手を塞ぐ。
だがとても歯の立つような相手じゃない。

刃衛に留めを刺されようとする、その時、剣心が割って入った。
警官たちの声に、刃衛はその場を立ち去った。


頬に十字の傷を持つ若者は「ただの流浪人でござるよ」と言い、
薫はお礼にと、剣心を自らの道場に招いた。

だがそこには先客があった。刃衛の追跡を逃れてきた高荷惠だった。
高荷惠を演じるのは、蒼井優。きつね顔のメイクが施されていて、最初は彼女とわからない。
椎名林檎みたいに見える。
惠は意外と小悪魔系で、薫がそれとなく剣心を意識してるのを見抜いて、わざと剣心の気を引こうとしたりする。
妙な三角関係の空気が漂う。


武田観柳はアヘンを、日本のみならず、海外にも船でばら撒こうという野望のもと、海に近い一帯の家屋を軒並み買収して、巨大な港を作ろうとする。

薫は師範代として、「神谷活心流」道場の立ち退きには応じず、観柳は荒くれ者たちに道場を破壊させようとした。薫は竹刀で抵抗するが多勢に無勢。
その時立ち寄った剣心は、瞬く間に男たちを倒してしまった。
もちろん刀は使わず、竹刀や格闘術で。
薫はそのあまりの強さに、彼が抜刀斎なのでは?と思い始めていた。


ここから、物語は剣心が、武田観柳とその一味との戦いを余儀なくされるという展開になっていく。
アクション監督・谷垣健治による、スピーディな殺陣の迫力は、日本映画としては特筆すべきもので、今までこのレベルを目指して達成できた映画はない。

時代劇伝統のチャンバラではない、剣によるアクションを標榜した映画は過去にある。
『ジパング』や『五条霊戦記』や『あずみ』など。だがやはり殺陣そのものが「遅い」のだ。
香港の武侠映画に見劣りしてしまう。

この映画の佐藤健や、鵜堂刃衛を圧倒的な不気味さで演じ切った吉川晃司の殺陣は、日本刀の本来の斬り合いではない。
だが「型」を超えた刀の振い合いの迫力に満ちている。

観柳の邸内を縦横に使っての、剣心と、綾野剛演じる刺客・外印の斬り合いも、よくこの速さで動けてるなと、二人の役者の身体能力に感嘆する。
併行して描かれるのが、剣心を助太刀した相楽左之助が、須藤元気と肉弾戦に及ぶ場面。
プロの格闘家とタイマンを張る青木崇高も活きがいい。
観柳がガドリング銃を撃ちまくる場面に至るまで、手を変え品を変えのアクション場面が、贅沢に盛り込まれてる印象だ。

佐藤健は殺陣をはじめ、とにかくこのキャラを成立させるために健闘してると思う。
シリーズ化されるのだろうから、さらに役を着こなせていくだろう。


この映画は登場人物が多い分、エピソードの一つ一つが深みに欠ける。
剣心がどういう葛藤を経て、「不殺(ころさず)の誓い」を立てるに至ったか、回想場面で描写されるが、あの程度では弱い。
斬るべき相手にも家族がいるということを、死体にすがる恋人の姿を見て気づくというのはね。

そんなことは踏まえた上で、大儀のために殺しを行ってたんじゃないのか?
でなければ、剣心という人間には想像力が欠けてるということになる。

そのあたりの内面が漠然としていて、佐藤健はもの静かな若者を表現するに留まってる。
これは演出の「言葉足らず」ということでもあるんだろうが。

もう少しセリフというか、声に引き付ける力がほしい。
武井咲もああいう声だし、中心の二人の声が、周りの役者の声の強さに気押されてる感じがあった。

「人斬りが斬らずして、どうやって人を守れる?」
という、斉藤一のセリフも、江口洋介の声が強いので、剣心のキャラが相対的に弱くなる。
まあこういう部分は場数の差だから、若い役者には酷だとは思うが。

演技陣の中で、俺としては唯一「これはどうかな?」と思ったのが香川照之だ。
武田観柳という悪玉のキャラ作りが「やりすぎ」てる。
一筋縄でいかない冷酷さを滲ませようとしてるんだろうが、芝居がかったセリフ回しが、逆に小物感を漂わせてしまってる。
吉川晃司や須藤元気を手下にできてるのが不思議に思うほどだ。

たぶん俺だけじゃなく、この映画を見た人は、香川照之の出てる場面は、あまり面白くないと感じてるんじゃないか?演技の計算ミスだと思うよ。

2012年9月11日

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銀座シネパトスの見納め作になるのか [映画ア行]

『ウェイバックー脱出6500kmー』

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取り壊しが決まってる、銀座シネパトスでの単館公開ということで、見に行ってきた。
銀座シネパトスは、先日「ロンドン・オリンピック」のメダル選手たちのパレードが盛大に行われた、銀座の目抜き通りの、三越交差点を歌舞伎座方向に2分ほど歩くとある。

「三原橋」という名称になってて、元は晴海通りの横断地下道だった場所に、飲食店と映画館が作られた。
シネパトスより前の時代は「銀座地球座」という館名で、主に洋ピンをかけてたと記憶する。

ヒューマックスシネマの経営会社が母体となって、「銀座シネパトス」として、スクリーンを増やし、3館体勢で営業してきた。
当初は2館で、後から1館増やしたんではなかったか?

初めてここに行った人なら「ここ銀座だよね?」と確認したくなってしまうほどに、ハイソな銀座のイメージにはほど遠い「昭和」の風情が、しぶとく張り付いてる、そんな一角なのだ。

ここと同じく、浅草でも「六区」の大規模な再開発に伴い、「浅草中映」をはじめとする名画座の取り壊しが発表された。
映画館における「昭和」の残像は、もうほとんど感じる場所も無くなる。

「銀座シネパトス」はここでしか封切られないアクション、ホラー、ちょいエロ系の新作と共に、近年では「名画座」としての機能もはたし、古い日本映画の特集上映など、プログラムに工夫を凝らしてきた。
スティーヴン・セガール新作の常設館としても、名は通っている。

俺はそう頻繁に通ったわけではないが、通算すると20回くらいは見に来てると思う。
ただここで何を見たのか、そのタイトルがよく思い出せないのだ。

古い所では1990年の公開されたイタリア・ユーゴ合作のホラー『ザ・トレイン』はここで見た筈だ。
あとスティーヴン・ボールドウィンが主演した潜水艦もの『サブダウン』とか、『スターシップ・トゥルーパーズ2』とか、いやもっとマシなもんも見てたと思うんだが、なぜか思い出せない。

『クライモリ』はここだった気がする。あれは面白かったな。


そんなわけで『ウェイバックー脱出6500kmー』だが、監督ピーター・ウィアーと、この顔ぶれが並んで、シネパトス単館公開とはなぜに?

思えば記憶に残る「パトスショック」としては、
イーストウッド監督・主演の『トゥルー・クライム』がある。
それまでにもイーストウッド監督作で、ごく小規模な公開となる例はあった。
『センチメンタル・アドベンチャー』や『バード』『ホワイトハンター、ブラックハート』など。

だがそれらはいわば彼の「趣味的」な作品で、娯楽映画のフォーマットからは外れていたんで、見る側も公開規模に納得な感じはあったが、『トゥルー・クライム』はイーストウッド王道の犯罪サスペンスの装いだった。
ファンとしては、彼の封切りの「指定席」でもあったパンテオンや渋谷東急、あるいは丸の内ピカデリーといった「松竹・東急系」のロードショー公開と思っていた。

それが「銀座シネパトス」の単館封切りと決まり、
「もうイーストウッドを大きな劇場では見れないのか」と肩を落としたものだ。
まあ映画を見てみれば、あれだけ地味だったら仕方がないなとは思ったが。

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この『ウェイバックー脱出6500kmー』は、主演が『ワン・デイ 23年のラブストーリー』のジム・スタージェス、『崖っぷちの男』のエド・ハリス、『トータル・リコール』が公開中のコリン・ファレル、『第九軍団のワシ』のマーク・ストロングと、いずれも今年すでに出演作が公開されてる男優陣に、紅一点として『ハンナ』の美少女シアーシャ・ローナンが加わるという、これだけの顔ぶれなのだ。
本来ならシネコンにかかっていい規模だと思う。
それがなぜシネコンにかからなかったのか、見ていく内にわかってきた。


1940年、シベリアの強制収容所を脱走し、インドを目指し6500キロを踏破した男たちの実話に基づいた、細部はフィクションのサバイバル劇だ。

丁度アラスカの大地をサバイバルする『THE GRAY 凍える太陽』も上映中だが、オオカミに襲われたり、危機また危機という展開のあちらと比べて、このシベリア脱出行は、そういうアクション的な見せ場はほとんどない。

オオカミも襲って来ないし、ブリザードに紛れて脱走したんで、足跡も消され、ロシアの警備兵たちもあっさり追跡を断念してしまうのだ。

強制収容所の所長は、新参者たちを集めて言う。
「脱走を試みた所で、この広大なシベリアの大地がお前たちの行く手を阻む」
「脱走者には賞金をかけてあるから、村人にも襲われる」

そう言うんだが、実際は村人に襲われることもない。
外敵からの脅威はなく、ひたすらに歩いて行くのみとなる。

脱走者が何に襲われるかといえば、それは飢えや渇きであり、歩いても歩いても先の見えない徒労感であり、つまりは心が折れそうになる己との戦いとなるのだ。

監督のピーター・ウィアーはそこに焦点を絞って描いていくから、映画の見てくれとしては、地味で淡々と感じられるかも知れない。
だがサバイバルというのは、こういうものかも知れないなとも思う。


物語の中心人物となるポーランド人ヤヌシュをジム・スタージェスが演じてる。
ヤヌシュはスターリン批判とスパイ容疑でシベリア送りとなった。
拷問された彼の妻は、ヤヌシュの前で彼の容疑を裏付ける証言をさせられた。
強制収容所の劣悪な労働環境で、命を落とす者も後を絶たない。
ヤヌシュは中でも死と隣り合わせの炭鉱労働に駆り出され、精神的にも限界だった。

マーク・ストロング演じるロシア人のカバロフは、脱走する気があるなら、方法はあるぞと、ヤヌシュの表情を覗う。
南に向かいバイカル湖に辿り着けば、湖沿いを歩いて、モンゴル国境に出るという。
一人で脱走は無理だ。ヤヌシュは、アメリカ人の地下鉄技術者スミスに声をかけた。

エド・ハリス演じるスミスから出たのは意外な言葉だった。
「カバロフを信用するな。あいつは脱走する気などない」
「脱走に希望を抱く若い人間の姿を見ることで、それを生きる糧にしてるにすぎない奴だ」

その言葉通り、仲間を数名募って、カバロフに決行の手順を尋ねるが、曖昧な返事しか帰って来ない。
だがヤヌシュはやると決めていた。

スミスは収容所内でのヤヌシュの行いを見てきた。
「お前が脱走するならついて行く」
「お前の弱点が役に立つからだ」
「僕の弱点?」
「お前は優しい。人を見殺しにはできない奴だ」

脱走の計画を練ってることを嗅ぎつけた、荒くれ者のロシア人ヴァルカが、ヤヌシュにナイフを突きつけ、俺も加えろと迫った。
コリン・ファレル演じるヴァルカは、犯罪集団上がりで、平気で人を刺すこともわかってたが、ヴァルカの手にするナイフは、サバイバルに役立つとヤヌシュは考えていた。

脱走するのはヤヌシュ、スミス、ヴァルカの他に、ポーランド人が2人とラトビア人、ユーゴ人の計7人となった。カバロフの姿はなかった。
後になり、ヴァルカが密告を怖れてカバロフを刺し殺したことを知った。


ブリザードを突いて脱走は敢行され、追っ手の警備兵や犬もなんとか振り切った。
ヤヌシュはヴァルカからナイフを借りると、木の皮を剥いで、即席の吹雪よけマスクを作った。
影ができる位置から、方角を指し示す。
ヤヌシュのサバイバル能力に感服したヴァルカは、彼をリーダーとして忠誠を誓うと言った。

バイカル湖を目指す過程で、すでに蓄えてきた食糧も底を尽きてきた。
オオカミが仕留めた獲物を横取りして、オオカミのように輪になってかぶり着いた。
栄養失調で夜盲症となったポーランド人の若者カジクは、焚き木を集める間に道に迷い、翌朝凍りついた死体で発見された。


6人となった一行はようやくバイカル湖に辿り着いた。だがその森で何者かが後を尾けてきた。
賞金を狙う村人かと身構えるが、そこには少女がひとり立っていた。

名をイリーナといい、集団農場から逃げ出してきたという。何も食べてないようだ。
スミスたちは「足手まといになる」と反対するが、ヤヌシュはイリーナの同行を許した。
イリーナを演じるのはもちろんシアーシャ・ローナンで、彼女もこの後、容赦ないサバイバルの道行きを余儀なくされるわけだ。

バイカル湖を抜けて、シペリア鉄道の線路を越えると、そこはモンゴルの国境だ。
だがモンゴルに入り、砂漠に立つ門に、スターリンの肖像画が描かれているのを見て、
「ここも安全ではない」と愕然とする。
その先へ行くしかないが、そこはゴビとタクラマカンという、絶望的に広大な砂漠が広がっているのだ。


サバイバルでお決まりの展開というなら、一人の女を巡って、人間性を剥ぎ取った男たちが争うといった描写が入るようなもんだが、この映画はそうはならない。

男たちは常に飢えと渇きと、精神的な消耗にさらされる。
その殺伐とした足取りの中で、少女の存在が心を和ませるものになっていく。
自分が生き残るという気持ちから、この少女を守ろうという気持ちへと、モチベーションが外に向うことで、活性化されるのだ。

イリーナも、道中で男たち一人一人と、取り留めもない会話を交わしていく。
男たちの間では交わされない、それぞれの家族のことや、いままでの人生のこと。
それがイリーナを媒介に、互いの理解を深めることに繋がっていく。

スミスは水も食料も尽き果て、進退きわまるような状態になっても、なお前へ進むことを諦めないヤヌシュに、なぜそこまでと尋ねる。

ヤヌシュは妻を恨んでなどなかった。
むしろ拷問を受け、夫をシベリア送りにしたことへの、妻の罪悪感がいかばかりか。
妻は家に戻され、平穏に暮らしてるだろう。
だが一生その罪の意識に苛まれる。
彼女を救うために、自分は彼女の元へ帰らなければならないのだと。


極限の状態に陥った時でも、人を人たらしめているものがあるとすれば、それは何か?
ピーター・ウィアー監督の映画にいつも感じる、ある種の折り目正しさというか、人間に備わった「モノ」に対する信頼の視線を、この映画にも感じることができる。

もちろんこのサバイバルは甘くはない。男の体力でもギリギリまで消耗する砂漠の横断に、イリーナの体力は持たない。
日射病で動けなくなったイリーナを男たちが見つめる。
この場面は悲しいが、同時に人間の精神の美しさが静かに描写され、胸がつまる。


このサバイバル劇と同じような実話が以前に映画化されている。
2001年のドイツ映画『9000マイルの約束』だ。

これは2004年に日本公開されてるが、こちらはやはりシベリアに抑留されたドイツ兵が、脱走して3年がかりで、祖国の土を踏んだという内容だった。
9000マイルといえば、1万4千キロ以上はあるんで、『ウェイバックー脱出6500kmー』より全然過酷ってことになってしまうが。
しかもイランのテヘランまで追跡の手が伸びてきたというし。

なので脱走サバイバル劇としては、後塵を拝する形にはなるが、役者の顔ぶれもいいし、刻々と移りゆくロケーションも見応えあって、やはり単館では勿体なくはないか?

2012年9月9日

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君たちレオン・ニキータ・ドミノだね。 [映画カ行]

『コロンビアーナ』

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いや昔「君たちキウイ・パパイヤ・マンゴーだね。」っていう曲がヒットしてましてね、それをモジってみただけだが。
要はそういった映画をなぞった内容で、とりたてての目新しさも感じられなかった。


1992年、コロンビアの麻薬組織を束ねるドン・ルイスの下から独立を図ったファビオは、組織の手によって、家を襲われ、妻とともに殺される。
ファビオは顧客データを収めたフロッピーをドン・ルイスに返していたが、それ以外の内情に関わるデータをまだ握ってる。ドン・ルイスはそう睨んでいた。
ファビオを殺し、家さがしするが、見つからない。

組織の殺し屋マルコは、ファビオの9才の娘カトレアが、キッチンに残ってるのを発見。
「父親から預かってるものはないか?」
テーブルの向かいに座り、静かな口調で訊いた。カトレアは
「これでしょう?」
と、テーブルの下で握っていた包丁を、マルコの掌に思い切り突き立てた。

カトレアはキッチンの窓から飛び出し、猫のような身のこなしで、逃げ出した。
マルコたちを振り切って、アメリカ大使館に駆け込んだ。

父親ファビオは、カトレアに、ドン・ルイスの麻薬取引のデータを託していたのだ。
何かあったらこれを大使館の人間に渡せと。
そのデータと引換えに、カトレアはアメリカ行きの旅券を手にする。

父親からは1枚のメモも渡されていた。
シカゴで祖母と暮らす叔父のエミリオの住所が書かれていた。
9才の少女は、ひとりっきりの心細い旅の果てに、ようやくシカゴへと辿り着いた。


カトレアはエミリオたち家族に暖かく迎え入れられたが、彼女の望みは、アメリカで他の子供たちと一緒に、学校に通うような生活ではなかった。
カトレアは叔父のエミリオに、殺し屋になる手ほどきを頼んだ。
冗談で言ってるようには見えなかった。
エミリオは突然路上で発砲してみせた。周囲はパニックとなった。

叔父はカトレアに言った。
「お前はこういうことがしたいのか?」
「学校に通うってことは、知識を身につけ、善悪の判断がつけられるようになることだ」
「知性がなければ、ただ銃を撃ちまくって、射殺されて、人生は終わりになる」
「お前はどっちを選ぶ?」
通学カバンと拳銃を差し出され、カトレアはカバンを手にとった。


15年が経った。学校に通いはしたものの、カトレアはやはり、プロの殺し屋になる道を選んでいた。
仕事は叔父のエミリオが持ってきた。
警察の拘置所内に入れられた標的を暗殺することも、難なくこなす凄腕ぶりで、すでに4年間で22人を葬っていた。

だがカトレアは叔父に隠し事をしていた。
自分の両親を殺したドン・ルイスにつながる標的を暗殺した際には、その死体にカトレアの花を描いておいたのだ。

なぜそんなことをするのか?カトレアが殺し屋になったのは、両親の復讐のためであり、だがその標的とするはずのドン・ルイスと片腕のマルコは、コロンビアから姿を消している。

ドン・ルイスは、殺したファビオに娘がいて、カトレアという名だと知っている。
死体にメッセージを残すことで、ドン・ルイスが動くのを待っていたのだ。


FBI捜査官のロスは、連続殺人の捜査が手詰まりとなり、死体に描かれたカトレアの花の写真を、マスコミに公開する。
ドン・ルイスとマルコは、新聞でその写真を目にした。
そしてファビオの9才の娘の存在を思い出した。
マルコの掌に包丁を突き刺した、あのガキならやりかねん。

カトレアの抹殺に組織は動き出した。
ドン・ルイスは麻薬取引の情報提供と交換に、CIAの保護を受けていや。
今はアメリカ南部の町に移り住んでいたのだ。


カトレアにとって、殺しと復讐という、殺伐とした人生を逃れる、つかの間の時間が、恋人ダニーとのひとときだった。
彼女はジェニファーと名乗り、自分のことはほとんど話さなかった。
画家のダニーは、彼女が心に何か抱えてることは知ってたが、いまは目の前の彼女だけを愛していた。

ダニーは、ベッドでまだ眠るジェニファーの寝顔をケータイで撮り、画像を保存した。
ダニーはその日、友達にカフェで何気なく、その画像を見せた。
だがそこから画像データが傍受されて、FBIは過去の犯罪者データと顔のマッチングを行い、拘置所に入れられた経歴を持つカトレアを焙り出す。

その時期に拘置所内で殺人事件が起こっていたことも。
カトレアはドン・ルイスの組織と、FBIと、双方から追いつめられていく。


冒頭部分の目の前で家族が殺され、ひとり生き残るってのは、『レオン』の悪徳警官ゲイリー・オールドマンが、家宅捜索だと押し入って、家族を殺してく場面と同じだし、恋人ダニーの存在は、『ニキータ』のジャン・ユーク・アングラードの役どころと一緒。

演じるマイケル・ヴァルタンの優男な感じまで似てる。
彼は『マンイーター』では頼りなさそうで、けっこう頑張るツーリストを演じてたが。
『ドミノ』と似てるってのは女殺し屋ってとこぐらいだが。
ドミノも大学進学はしてたんだよな。

カトレアを演じるゾーイ・サルダナは、細身で女豹のような身のこなしで、格闘場面も動きが機敏だし、そこんとこはいいんだが、ルックスも含めて、女優として、押し出しがいまいち弱い。
『ニキータ』のアンヌ・パリローとか、『ドミノ』のキーラ・ナイトレイのインパクトに、どうしても見劣りする。

むしろ少女時代のカトレアを演じたアマンドラ・ステンバーグという女の子が、アップでも人を惹きつける力があった。
彼女がシカゴに辿り着くまでの、セリフのないシークェンスも、心細さと、見たことない光景への好奇心がないまぜの表情がよかった。

映画では9才からの15年間はすっぱり削ってあるんだが、学校に通いながら、次第に殺しのスキルも叩き込まれていく、そういう過程を見せた方がよかったんではないか?
というか俺が見たかったんだが。

マオリ族の血を引くクリフ・カーティスが、カトレアの叔父エミリオを演じている。
俺はこの役者が好きなんで、パンフでも写真入りで紹介してほしかったよ。


映画自体は銃撃戦やら格闘技やら、いつもの「ベッソン印」のアクションで手堅くまとまってる。
ただこれは考えすぎかも知れないが、ベッソンの絡んだ活劇には、どことなく「人種蔑視」の視線を時折感じるのだ。

広末とジャン・レノの出た『WASABI』とか『TAXi2』なんかは、日本人を小馬鹿にしてるような描写が目立つし、リーアム・ニーソンの『96時間』ではセルビア人が諸悪の根源みたいな感じだし。

『パリより愛をこめて』では、ジョン・トラボルタが、いきなりチャイニーズ・レストランで銃を乱射して、中国人皆殺しにしちゃうし。

この『コロンビアーナ』も、ヒロインをコロンビア人にしてる目新しさはあるが、ここに出てくるコロンビア人たちは、みんな麻薬やら犯罪に関わっていて、カタギの人間がいない。
ダニーはアメリカ人だ。
結局コロンビア人のカトレアが、コロンビア人と殺し合うという話であって
「コロンビア人だからしょーがないよねえ」と言ってるように見える。

リュック・ベッソンは、自分で監督する作品はそういう視線は感じられないし、新作でもアウンサン・スー・チーの生き方に共感を表明してるけど、なぜか「ヨーロッパ・コープ」の代表として、映画の製作に絡むと、そういう気になる部分が目立ってくるのだ。

そう思うのは俺だけかもしれんが。

2012年9月8日

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ライアン・レイノルズのテンパり護送劇 [映画タ行]

『デンジャラス・ラン』

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デンゼル・ワシントンが演じるトビン・フロストは、CIAでも飛び抜けた技量を持ったエージェントだったが、10年前、突如CIAに背を向け、国家機密を売買する、最重要危険人物として、36ヵ国で指名手配を受けている。

南アフリカ、ケープタウンのとあるバーで、フロストは英国諜報部「MI-6」のウェイドから、極小さなアンプルに仕込まれた、マイクロチップを受け取った。
フロストは常に監視されてることを意識していた。
バーを出て、ウェイドと車を発進させた途端、助手席のウェイドが銃で撃ち抜かれた。
武装集団がさらに狙いをつけてくる。
フロストは車を降り、デモ隊に紛れて、追っ手を交わす。
追っ手がフロストの背中を捉えた時は、すでにアメリカ領事館に駆け込んだ直後だった。


「国家の敵」となった男が、自らアメリカ政府の施設に姿を現したことで、ラングレーのCIA本部は色めき立った。作戦本部副長官のハーランは、尋問を南アフリカのチームに任せた。

CIAの新米職員マット・ウェストンには突然の大仕事だった。
それまでこのケープタウンで、「セーフハウス(隠れ家)」と呼ばれるアパートの管理人に命ぜられていたが、それは彼が目指した諜報活動とは無縁の、退屈な日常業務だった。
その「セーフハウス」に、伝説の大物フロストが連行されて来るというのだ。

頭に布を被せられたフロストとともに、尋問のプロのキーファーが、部下とやってきた。
尋問用の部屋に、椅子に手足を括りつけられたフロスト。
キーファーは向かい合い、情報を聞き出そうとするが、すぐに無駄とわかると、拷問の用意に入る。

タオルに水を含ませてるのを見て、フロストは
「そのタオルじゃグラムが軽いぞ」
と指摘する。マジックミラー越しにその様子を見てるマットは聞かされていた。
フロストが人心を掌握する天才だと。
早くもそのスキルを披露してるのか?

キーファーは言葉を無視して、椅子を仰向けの体勢にさせる。
フロストの顔をタオルで覆い、その上から水をかけ続ける。
「イスラムのテロリストは20秒持たなかったぞ」
一旦終わらせると、フロストは荒く息をしながら
「何秒だった?」
その尋問のやり方を、マットは「合法なのか?」と呟いた。
フロストは全くこたえる様子もない。

「次はナイフだ」キーファーがそう言った瞬間、部屋の灯りが消えた。
すぐに非常回路が作動し、玄関を映すモニターには、武装した集団が。
「襲撃だ!」
キーファーたちは応戦するため、マシンガンや銃を構える。

大物が来たと思ったら、武装集団の襲撃。マットはパニックに陥った。
椅子に座ったフロストは表情ひとつ変えない。
マットは「そいつを見張れ!」と尋問部屋に、フロストと二人残される。


部屋の外では激しい銃撃の音がする。
キーファーたちが防げなければ、奥まったこの部屋もすぐに発見されてしまう。
動揺するマットに、フロストは言う

「あいつらが俺を捕まえた時は、お前は死んでる」
「俺を守り切ることが、お前の助かる唯一の道だぞ」
相手の行動を支配してしまう、トーク術が炸裂してる。

マットはフロストに手錠をかけ、裏口から外へと連れ出す。
道路で無理矢理、人の車を奪うと、フロストをトランクに押し込みアクセルを踏んだ。


ここからは厄介な相手を連行して、追っ手から逃げ続ける新米の奮闘が描かれてく。
デンゼルと若い白人男の関係性で手繰れば、デンゼルがアカデミー主演男優賞に輝いた
『トレーニング・デイ』のプロットと同じとわかる。

あの映画ではイーサン・ホーク演じる、実地1日目の新米刑事が、デンゼル演じるベテラン刑事の、悪徳とも思える捜査ぶりに、次第に違和感を拭え難くなる。
なにしろ1日目だから、デンゼルの言うことは、有無を言わさぬ迫力で、新米刑事を萎縮させる。
だがそれはタフな現場を生き抜くための「金言」にも聞こえ、新米には冷静にその善悪を判断しきれない。

この『デンジャラス・ラン』においても、デンゼル演じるフロストは、逃亡の最中にも、言葉で揺さぶりをかけてくる。

「なんで俺がセーフハウスに連行されたことが、すぐに察知されてるんだ?」
それはCIA内部から情報が漏れてることを示している。
フロストはこうも言う
「もしお前の上司がこう言ったら気をつけろ」
「君はよくやった。あとは我々に任せろ」
「それはお前が捨てられたということだ」


『トレーニング・デイ』のイーサン・ホークと同様に、この映画でマットを演じるライアン・レイノルズも、説教に丸めこまれそうな頼りなさを漂わせてる。

本人には悪い言い方だが、彼はバート・レイノルズという大スターの息子として、なに不自由ない子供時代を送ったんじゃないか?
今年36になるが、どこか「ぼくちゃん」な面影を残す。
サンドラ・ブロックと共演して大ヒット飛ばした『あなたは私の婿になる』のようなラブコメの方が、本来の個性には合ってるんだろう。

だがこの映画の場合は、要領の得ない新米が、それでも職務を諦めずに闘い続ける、その終始テンパった感じが、説得力持って伝わってくる。

主役はデンゼルだが、デンゼル自身の役柄としては『トレーニング・デイ』を踏襲する部分もあり、いつもの「安心して見られる」演技という域は超えてない。
ライアン・レイノルズの、満身創痍の表情演技が、物語に惹きつける力を滲ませてると思う。


スウェーデン出身で、これがハリウッド監督デビューという、35才のダニエル・スピノーサの演出は、『ボーン』シリーズ以降のフォーマットにのっとった、とにかくアクションつるべ打ちになっており、カースタントもかなりアグレッシブだし、格闘場面にも迫力がある。

フロストとマットの人物像をごく短時間で描き分け、幾重にも危機的状況に見舞われる前半部分は特に快調だ。だがマイクロチップの中身といい、CIA内部の裏切り者の正体といい、ネタが割れてく後半は、ありきたり感は拭えない。
エンディングなんか『ゴースト・プロトコル』のまんまだったよ。


ケープタウンが舞台となる映画で、「逃走・謀略」ネタというと2本思い浮かぶ。

1968年の『謀略都市』は、ケープタウンでスリを生業にする男が、若い女性の財布を盗むが、その中にはスパイの機密フィルムが入っていたため、諜報機関から追われるハメになるという内容。
『デンジャラス・ラン』の「機密データ」とつながる部分がある。

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ジャクリーン・ビセットが財布の持ち主を演じていて、彼女の美貌を堪能したい所だが、DVDにはなってないんだよな。ちなみに彼女の後ろにいるのは、クリスチャン・ベールみたいな顔してるけど、若き日のジェームズ・ブローリンだ。


もう1本は1975年の題名もズバリ『ケープタウン』
黒人政治犯と、彼の弁護を引き受けた女性弁護士、そのボーイフレンドの3人が、検問を振り切り、ケープタウンから、ボツワナ国境まで、1500キロの逃亡を企てる。
その逃亡には75万ポンドの価値があるダイヤが絡んでいたというもの。

ケープタウン.jpg

政治犯を演じるのが、デンゼル・ワシントンなど黒人俳優の先達でもある名優シドニー・ポワチエ。
一緒に逃亡するのがマイケル・ケインというのが、今回の映画の黒人と白人のコンビと同じだ。
まだ無名時代のルトガー・ハウアーがわりと重要な役で出てたりする。

この『ケープタウン』もビデオ・DVD化はされてない。

2012年9月7日

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まばたきしない、汗かかない [映画ヤ行]

『闇金ウシジマくん』

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以前に韓国映画『息もできない』を見た時の感覚に似てる。映画が似てるわけではない。
『息もできない』は公開時に高い評価を得た。
主人公の若いヤクザと女子高生が、埠頭で肩を寄せ合う場面には
「孤独な魂の触れあいに涙がでた」とか、コメントが踊ってたが、
俺には一滴たりとも泣ける要素はなかった。

主人公はなんの躊躇もなく、人をポカスカ殴れる人間だ。
その人間の家庭環境が描かれようが、心に抱えた鬱屈を描かれようが、あんな風に人を殴れる人間の魂など、推し量れるべくもない、俺には。

だがそうやって暮らしてる主人公の、日常の物言いとか、仕草とか、行動などが、注意深く描かれてはいたので、言ってみれば動物園のオリの外から、そういう生き物を、しばらく観察してるような気分にはなった。

あの映画が主人公のヤクザに非常に接近してカメラを向けながら、その人間に過剰に思い入れるわけでなく、観察眼としての接写を行ってるのが、暑苦しくなくて良かったのだ。


この『闇金ウシジマくん』は原作の漫画も、テレビドラマ版も見たことないが、主人公の闇金業者「ウシジマくん」の徹底した無表情ぶりに、キャラ立ちした登場人物を見る楽しさはまず感じた。

闇金業者の取立ての哲学と、取立てられる側の人間の、「人生の環境」が映し出されるが、この映画にもし観客に対して「明日は我が身」というような思いを抱かせようという意図があったとするなら、それは上手くいってるとは言えない。

鈴木未來という、20才くらいの女の子と、未來の幼なじみで、イベントサークルを運営して、成り上がろうと野心を燃やす青年・小川純のエピソードが半々に語られるが、二人とも「明日は我が身」を、肩代わりするような人物像ではない。


大島優子が演じる未來は、母親のやってるスナックを週2日ほど手伝うだけで、高校出て以来、進学もバイトもせず、ブラブラしてる。
その母親はパチンコに嵌っており、生活費もロクになさそうな状態に見える。
未來と歳の離れた小さな弟に、食事を作るのも煩わしいという様子だ。

未來は間近で見て、弟が不憫と思ってるようだが、なら自分がバイトするなり、なんかしろよと思う。
過去にバイト先で何かあり、トラウマになって働けなくなってるというような背景があるわけでもなさそうだし。

黒沢あすか演じる母親はロクデナシではあるが、
「今まで未來ちゃんを食べさせてきたんだから、
今度はお母さんのために稼いでくれてもいいいでしょう?」
とは、言い分が全く通らないとも言えない。

父親が不在で、小さな弟がいるとなれば、20才の未來が家計を助けるのは当然に思える。
まあ母娘の様子を見てると、娘の持つ金も母親がせびってパチンコに費やしてる感じだが。
それなら母親に見切りをつけて、家を出て、貯蓄できた時点で、弟を引き取ればいい。
この未來の、働こうとしない理由が見えないのだ。

母親はスナックもたたむことになり、アパートで売春をするようになる。
スナックの客を誘ったりしてるんだろう。
家から出てくる見知らぬ男を見て、未來は
「お母さん、売りやってるの?」
と糾す。母親はまったく悪びれた様子もなく
「ねえ、未來ちゃん、頼みがあるんだけど」
「今度お母さんと3Pしてくんない?」

このセリフには笑った。日活ロマンポルノを見てるのかな?と錯覚しそうだ。
激昂する未來に
「若いうちに女を売っとかなきゃ損だよ」
しかしこのセリフが出ることで、
「ひょっとすると、未來はしちゃうのか?」と期待してもいいとこなんだが、演じてるのがアイドルの子だから、その描写はあり得ない。

見てる方が、それはあり得ないよなと、期待より諦め気分が先に立つ。
つまりそう思わせてしまう時点で、脚本とキャスティングが乖離してしまってるということだ。

なので大島優子が、セリフ回し自体は「棒」というわけでもなく、そつなくこなしてるとは思うが、その先の展開に限界が見えてしまってるから、登場人物としてスリリングではないのだ。


もう一人の、林遣都が演じる小川純は、もう少し人物像はクリアではある。
元は大学のその手のサークルから出発したのか、年下のイケメンたち「ゴレンジャイ」を束ねて、女の子たちを集める、イベントサークル「バンプス」を主催してる。
3台持つケータイには3000件のアドレス。
その人脈が自分の武器と公言してる。

セレブの集うパーティに、若い女の子たちを手配した純は、主催者社長から招待客に顔を通される。
そこに居合わせたFX長者の猪俣は、人脈が武器という純に対し
「武器になるのは金しかない」
と慇懃に言い放つ。

そのパーティの場にいきなり、丑嶋が率いる闇金業者「カウカウファイナンス」の男たちが乱入する。
猪俣が過去に踏み倒した債権を、丑嶋が引き継いだという。
まだ横柄な態度を崩さない猪俣を押さえつけ、銅線を剥き出しにした電気コードを眼球に突き刺そうとする、その恐ろしい迫力に猪俣は縮み上がる。

借金の総額は1千万。
「明日には必ず!」と言う猪俣に
「借金まみれの奴の明日など信用できるか」
「今払えなければ、半金の500万をこの場で、肩代わりしてくれる人間を探せ」

遠巻きに見てたパーティ客の成金たちは、猪俣が懇願しても、誰も金を貸そうとはしない。
純は金だけの空虚なつながりを目のあたりにした。

猪俣は男たちに引っ張って行かれた。丑嶋に何か言おうとした純に
「金は奪うか奪われるかだ」
「人に媚売って手に入れるもんじゃねえ」


純は2000人を集める一大イベントに、成り上がりのチャンスを賭けていた。
年下のイケメンたちから「おとーさん」と呼ばれ、束ねてるようで、内実は小間使いのようなことまでさせられる。「商品」に足元を見られてるのだ。
イベント会場の人間からは、会場代の前払いを要求され、チケットも捌ききれてない。

苦し紛れにウシジマくんの闇金に金を借りに行くが、
「最初は10万しか貸せねえ」とにべも無い。
純は闇金に一泡吹かせてやると画策する。

女の子たちに金を借りに行かせ、払わないままにし、取立てに来た所で「恐喝された」と訴えさせる。
黒岩刑事は丑嶋をその場で逮捕し、拘留する。
告訴を取り下げさせるには、示談金を払わなければならない。
「カウカウファイナンス」のガサ入れだけは避けなければ。
ウシジマくんは弁護士の西尾にその手配を頼む。
純は闇金から巻き上げた示談金を、会場代にあてる心積もりだった。


ウシジマくんを相手にするだけでもリスク高すぎるのに、新たな難題が降りかかった。
チケットを売りさばくイケメンのうち、一人と連絡がとれないでいる。

その男はイベントに来た女の子をトイレに連れ込んで無理打ち(暴行)する常習犯だったが、純のケータイに聞き慣れない男の声で動画が届き、そこにはバスタブで熱湯を浴びせられるイケメンの姿が映されていた。
「100万寄こせ」
電話の男は「肉蝮」と呼ばれる怪物だった。

示談金をせしめることに成功した純は、そこから100万を、指定されたマンションに持って行く。
下のポストに金を入れ、部屋に上がると、バスタブに、恐怖で人が違ったようになった「ゴレンジャイ」のメンバーがいた。

「肉蝮」は飽き足らずに、さらに「100万寄こせ」と。
今度はケータイ画面に、純の実家の写真が。
どこで調べたのか家族構成まで把握しており、脅迫してくる。

示談が成立したことで、警察から出てきたウシジマくん。
てんこ盛りのプレッシャーに追いつめられる純は、勝負の一大イベントの場にいた。
ウシジマくんも、「肉蝮」も会場に向っていた。


新井浩文が、地顔がよく判らないほど、風貌を作り込んで、怪物「肉蝮」を演じてる。
なぜ純とつながったかというと、「ゴレンジャイ」のレイプ男の被害を受けた女の子が、
肉蝮曰く「俺の女だった」とのことだが、真夏にフード付きのジャンパー着てるとか、明らかに「尋常じゃない」この男に惚れる女がいるのか?
それとも「商品」としての女という意味合いなのか?
原作には肉蝮の背景がもう少し描かれてるんだろうが、この辺が曖昧に感じた。

林遣都が演じる純が、たて続けにプレッシャーに晒されながら、意外に転んでも只じゃ起きない「往生際の悪さ」を発揮するんで、このキャラに引っ張られて見ていける感じはあった。
ただ純も生き方の志向が「ハイリスク、ハイリターン」だし、崖から転がり落ちる可能性はハナからあるわけだ。


「明日は我が身」を感じさせようとするなら、もっとごく普通の生活を営んでた人間が、あっという間に無一文となり、状況を好転させようと、逆に深みに嵌っていく。そういう怖さを描くべきで、
「闇金に頼るような人間は、そもそもそういう人間なのだ」
というサンプルでは、見る側も「眺めてみる」姿勢になってしまう。

文章の最初に書いた『息もできない』と同じく、無責任に観察してる感覚だ。
その意味では、いろんなキャラが出てくるんで楽しめる。

原作はもっと債務者の「堕ち方」がエグいんだろうし、もし韓国映画に作らせたら、そのあたりの描写もねっとり容赦なくやってくれただろう。

山田孝之が画面に映ってる限りにおいては、一度も瞬きしないで能面を貫くのは立派。
ウシジマくんは汗もかかないという設定だそうだ。

2012年9月7日

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スクールカーストとゾンビサバイバル [映画カ行]

『桐島、部活やめるってよ』

桐島部活やめるってよ.jpg

学校生活において、チビであることは、けっこうな不利として働くんだよな。
社会に出て、仕事の場になれば、身長など誰も気にしないが、中学、高校、ふつうに飯食って、寝て、体動かしてりゃ、身長は伸びるって時期に、なんでお前はチビなんだよ。
十代ってのは残酷な季節だから、こんな風な理不尽な物言いにさらされる。

なので自分がチビだと自覚してる少年は、人一倍アグレッシブにならなきゃいけない。
「あいつチビのくせにすげえな」
こう言わせるようにならないとね。
野球をはじめ、小柄なアスリートに、闘志を前面に出すキャラが多いのは、そのせいだ。
思索的なチビというのは、存在を正しく理解してはもらえないのだ。

この映画は、アメリカの青春映画のような「スクール・カースト」を描いてもいるが、格差を生む要因は他にもあるのだ。
神木隆之介が実際はどのくらい身長があるのかは、わからない。
そんなに背は低くないのかも。
だが意図的に彼より背丈のある子たちを、周りにキャスティングしてる気がする。

神木君が演じる、映画部の部長・前田と、共鳴を起こしてるようなキャラなのが、バレーボール部の風助。
キャプテンの桐島が、部の練習に出て来なくなり、代わりに「リベロ」を任されるんだが、とても同じレベルには追いつかない。
副キャプテンの久保は、そのことに苛立ち、執拗に球を拾わせる。
バレーボール部だから、久保をはじめ、部員は背が高い。
風助は似つかわしくないほどチビなのだ。

胸ぐらをつかまれて、風助は久保に叫ぶ
「目一杯やって、このレベルなんだよ!」
は、胸に来るセリフだった。


田舎町の高校。バレーボール部のキャプテンで、技量的にも、精神的にも、部の要だった桐島が、部を辞めるという。
その噂は瞬く間に校内を駆け巡った。その噂が立って以来、校内で桐島を見た者はいない。
動揺は部員以外にも広まっていった。

桐島の「彼女」で、校内でも人気No1の梨紗は、そのことを本人から聞かされておらず、いつもの待ち合わせ場所で、桐島の部活帰りを待ってる。
桐島の親友で、スポーツ万能の、元野球部員・菊池も、同じく本人からメール一つもらってなかった。
桐島が部を辞めるという話は、バレーボール部のマネージャーたちから広まったのだ。


梨紗を中心とする「グループ女子」には、沙奈とかすみと実果がいる。
4人はつるんではいるが、その関係は微妙なバランスの上に成り立っていた。

沙奈は「学園の女王」たる梨紗の親友を自認することで、ステータスを感じてる。
そして自分は桐島の親友である菊池と付き合ってる。
教室で菊池の後ろの席にいる、吹奏楽部の亜矢が、菊池に想いを寄せていることを察知すると、亜矢が見てることを承知で、菊池とキスを交わしたりする。

かすみと実果はバトミントン部だ。
実果は死んだ姉と同じバトミントンに打ち込むが、かすみのような才能がないことを自覚してる。
だから部を抜けた桐島の代役を背負わされた、バレーボール部の風助の気持ちが痛いほどわかる。

なので桐島のことに一々動揺する生徒たちを、つい冷笑もする。
その態度が沙奈には気に食わない。

かすみはそのグループの中で、冷静に振舞っている。
だが菊池とつるんでる竜汰とつきあってることは、周りに明かしてない。
「女子のつきあいは大変なのよ色々」
竜汰はそう聞かされていた。


「グループ男子」の菊池と竜汰と友弘は、いずれも部活動をしておらず、いつも校舎裏でバスケをしながら、桐島を待つのが日課だった。
菊池は一応野球部のバッグを背負っていたが、いつの頃からか、部活に出なくなってしまっていた。

野球部のキャプテンは顔を合わすと
「練習に出なくてもいいから、試合には来てくれんか?」
とその才能を惜しんだ。
菊池はどこか醒めていて
「できる人間はなにやってもできるし、出来ない奴はなにやってもできないってだけ」
と簡単にシュートを決めながら言う。


ここにもう一つのグループがある。「グループ空気」だ。
映画部という、ほとんどの生徒がその存在も知らない部に所属し、自主制作映画を撮ってる前田と、映画愛でつながった親友の武文だ。
教室の片隅で、「映画秘宝」の最新号を二人で読んで盛り上がってる。

前田が監督した第1作目は「映画甲子園」の一次審査に通ったと、全校朝礼で発表もされるが、生徒たちからはおざなりな拍手をもらうだけだ。
二次審査には落ちたんだが。
映画部の顧問がつけたという寒いタイトルは、失笑すら買っていた。

前田は2作目の構想を顧問に告げた。タイトルは『生徒会オブ・ザ・デッド』
高校を舞台にしたゾンビ映画だった。即効却下された。

「ゾンビがリアルだと思うか?」
「先生はロメロを見てないんですか!」
前田は食い下がるが、顧問は
「お前たちの半径1メートル以内の話を描け」
「恋だとか、友情だとか、高校生らしいものがあるだろう」

彼らの半径1メートル以内に、描くことができる何があるというのだろう。
他の生徒たちの半径1メートル以内に、前田と武文が入ったとしても、その存在を認識してはもらえない。桐島が不在であることで、逆にその存在を色濃く生徒たちに刻印するのに対し、前田と武文は、存在そのものが「不在」と一緒なのだ。


教室で「グループ女子」が雑談してて、前田たちの映画のタイトルの話になる。
それを笑い話にしてて、ふと教室の隅の席に、前田が雑誌を読んでるのが目に入る。
「聞こえたんじゃない?」
「平気平気」なんて言ってる。
武文が「おまたあ」とやってきて、二人は教室を出る。
「おまたあ、だって!」
女子たちの哄笑が響く。

「グループ女子」視点の際には、聞こえてないような描かれ方だが、前田視点で描き直されると、しっかり女子の声は聞こえてる。
武文は「あいつら、絶対に映画には使ってやらない」
校舎というのは、音が反響するような構造になってるのだ。
予想以上に声は届いてると思うべきだよな。
二人が「空気」と思われてる証拠だ。


印象的な場面がある。休日に町のミニシアターで、前田は塚本晋也監督の『鉄男』を見ていた。
堪能したなあと、何気なく後ろの席に目をやると、かすみが見に来てたので驚いた。

劇場を出て、前田は自販機でコーラをおごり、教室ではひと言も話す機会のないかすみと、会話した。
映画のことしか話せず会話は弾まない。

前田とかすみは同じ中学で、その当時はよく話しもしてたのに、高校に入って、変わってしまった。
「前田くん変わってないよね」
かすみはコーラの礼を言うと立ち去った。

このシチュは前にも覚えがある。
大槻ケンヂの小説『グミ・チョコレート・パイン(グミ編)』に書かれてた。

クラスで口も聞いたことのない可愛い子がいて、その彼女と主人公の高校生が、名画座で偶然会う。
かかってたのはジョン・カーペンターの3本立てで、
彼女は「カーペンターの話が出来る人がクラスにいると思わなかった」と
「カーペンター!カーペンター!」
とピョンピョン飛び跳ねて喜んでる。
その姿にいっぺんに恋してしまうという、そんな描写だった。

「そんなことが起きればいいよなあ」
というボンクラ映画少年の妄想として完璧なシチュだったな。

そうはならんけどねと言うのが、この映画の描写だったが、かすみはその後、校内でゾンビ映画の撮影に情熱を燃やす前田に、好感を抱いてくのだ。


この映画はいま挙げた登場人物のエピソードを羅列してくんではなく、前半は同じ1日を、各々の視点から捉えなおすという手法を取っている。

『羅生門』方式と言えるが、これは教室では、誰かが主役というわけではなく、教室にいる生徒ひとりひとりに、語られるべきストーリーがあるのだということなのだろう。


前田を演じる神木隆之介は、キャリアを積んでて、さすがに上手い。
ユーモラスな演技は見ものだ。

校舎の屋上でゾンビを撮りたいのに、大後寿々花演じる亜矢が、サックスを吹いてるのが、画面に入ってしまう。
前田は女子でも運動部の子には強く出られないが、文化部となると、怖くはないらしい。
少しの間どいてほしいと頼むが、応じてくれない。
亜矢は屋上のその位置から、バスケに興じる菊池を眺めながら、サックスの練習をしてたのだ。
でもそんなことは言えない。

あまり頑固なので、前田も口調がきつくなる。
「屋上は君だけの物じゃないよね?」
そのいつもの弱気とちがい「言い負かしたる」な感じが笑いを誘う。
大後寿々花の「なんでイジワルするのよ」というウルウルな表情もいじらしい。

役者で良かったのは、武文を演じた前野朋哉だ。
神木隆之介は黒縁メガネで、オタクっぽさを出してはいるが、顔が整ってるというのは隠しようがないが、武文のリアル映画オタな風貌は、生々しすぎて心が痛くなりそうだ。

しかも状況によっては前田より芯が強かったりする。
運動部の連中への捨てゼリフも可笑しい。

あと出番は多くないが、野球部のキャプテンを演じた高橋周平という役者も、なんか独特のグルーヴを感じる、面白いセリフ回しをしてたな。


桐島の不在が、生徒たちの関係に、様々に連鎖していき、最後にどんな光景を描くのか。
その大団円も見ものだが、乱暴な言い方をすると、その場面がなくても、俺は十分に面白がれた。

菊池が野球部の練習を眺める場面があるが、グラウンドが、道路より下にあるのがいい。
その見下ろしてる感じが、なにか過去の情景を見てるような心持ちにさせるのだ。
照明に灯が入り、バットが白球を弾く音がこだまする。

前田がゾンビ映画のセリフに書いた
「僕らはこの世界で生きていかなきゃならない」
というのは、十代の当事者の、のっぴきならない状況への覚悟でもあるが、その世界はたかだか3年で過ぎ去っていく。
あのグラウンドの光景には、現実はすぐに郷愁に変わる、その移ろいを感じさせるのだ。

2012年9月5日

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ホームズはコカイン中毒だった? [映画サ行]

『シャーロック・ホームズの素敵な挑戦』

シャーロックホームズの.jpg

別にロバート・ダウニー・Jrのことを言ってるわけじゃなく、そういう設定で、コナン・ドイルの原作ではない、オリジナル脚本で書かれた「ホームズ」もの。

コナン・ドイルが『最後の事件』で描いた、ホームズとモリアーティ教授が、ライヘンバッハの滝つぼに落ちて行った、その結末から、3年後に執筆される『空家の事件』までの、その空白期間のホームズを描いてしまおうという趣向だ。

1976年のハーバート・ロス監督作で、長らくDVD化が待たれてたが、「スティングレイ」からリリースされた。映画検索サイト「オールシネマオンライン」のHPから通販で買える。


1891年10月、ワトソンの元に、ホームズから4ヶ月ぶりに音信がある。
ベイカー街のアパートの2階の部屋を訪れると、ホームズはなにかを非常に警戒してる。
ホームズが「犯罪界のナポレオン」と呼び、その犯罪を暴こうとしてる、モリアーティ教授が、刺客を差し向けてくる。ホームズはそんな風に思ってるようだ。

テーブルにはコカインを7%の溶液に薄める注射器が見える。
ワトソンは、ホームズがコカイン中毒に陥っているのを知っていた。
だがホームズがなぜコカインに手を出すようになったのかは、ワトソンにもわからなかった。

家に戻ったワトソンを、モリアーティ教授が待っていた。
悪の帝王などとはとても見えず、困り果てたという表情をしてる。
モリアーティ教授は、もう長くホームズからいわれのないプレッシャーを受け続けてると、泣きついてきたのだ。

ホームズは教授の後を尾け回し、「今度こそ息の根を止めてやる」といった脅迫文を寄こして来るという。自分は一介の数学教授にすぎないのに。
ワトソンは「面識もないあなたになぜ?」と訊くと
「私は昔、ホームズ兄弟の家庭教師だった」
と教授は言った。
ワトソンは「ホームズは自分のことを全く話さないので」
と言うと、なぜかモリアーティ教授は顔色を変え
「本人が話してないのなら、私が話すべきじゃない」
そう言ってそそくさと立ち去った。

ホームズとモリアーティ教授にはどんな因縁があるのか?
それがコカイン中毒と関わりがあることなのか?
当時コカイン中毒に対する有効な治療法は、まだ確立されてなかった。

その治療を行える人間がウィーンにいるという。
ワトソンはモリアーティ教授に協力を仰ぎ、ロンドンからウィーンへ旅立ってもらった。


日頃から教授の行動をマークしていたホームズは、教授が家を留守にしたことに気づいた。
教授の家の玄関先にバニラエッセンスを撒いておいたホームズは、犬のトビーを連れてきた。
『四つの署名』で活躍したトビーだ。ワトソンも同行した。

トビーに匂いを辿らせて着いたのはビクトリア駅。
ウィーン行きの汽車に乗ったようだ。
ホームズたちは、すぐさま後を追った。
汽車に乗ると、ホームズはすぐに席を外した。
コカインを注射しに行ったのだと、ワトソンはわかっていた。

ウィーンに着くと、ホームズは迷わず馬車の乗り合い場に向かった。
馬車は目的地に着いたら、また駅に戻るはずだ。
犬のトビーが一台の馬車の匂いに反応し、ホームズは御者に金を渡して、前に乗せた客の目的地まで向わせた。

「19番地」の札がかかる建物に入って行くホームズとワトソン。
「追いつめたぞモリアーティ」と思いきや、部屋から出てきたのは全くの別人。
「髪まで染めてうまく変装したものだな」
まだ信じてないホームズに、男は自己紹介した。
「私はジグムンド・フロイト博士だ」


この映画のオリジナル脚本を書いたのはニコラス・メイヤー。
この前年の1975年のTVムービー『アメリカを震撼させた夜』の脚本を書いてる。

これは1938年10月に、まだ映画監督デビュー前のオーソン・ウェルズが仕掛けたラジオドラマの内幕を描いてる。H・G・ウェルズ原作の『宇宙戦争』を、さも本当に起こってるような効果音をつけ、迫真の口調で中継してるように演出して流した所、全米中で、真に受けた市民たちがパニックに陥ったという実話を元にしてる。

アメリカを震撼させた夜.JPG

これをテレビで録画したビデオが押し入れにあったんだが、テープが切れてて、直さないと見れない状態だ。直したら「押し入れ」で紹介したい。

ニコラス・メイヤーは1979年には自らの脚本で監督デビューも飾っている。
『タイム・アフター・タイム』で、ここでも『タイムマシン』を書いたH・G・ウェルズが、実際にタイムマシンを発明してたという設定だった。
現代にタイムスリップした「切り裂きジャック」を追うという内容。
この『シャーロック・ホームズの素敵な挑戦』ではフロイト博士を登場させたり、実在の人物を虚構の中に絡めるというアイデア巧者なのだ。


さていきなりフロイト博士に自己紹介受けて面食らうものの、ホームズは、博士がユダヤ人で、学界でどういう立場にあり、家族構成はどうなのか?ということまで、たちどころに推理してみせた。
短い時間に部屋の隅々まで観察してたのだ。
フロイト博士はその洞察力に一目置いたが、すかさずホームズのコカイン中毒を指摘した。
ホームズは動揺し、同時に今回のウィーン行きは、ワトソンに仕組まれたことだと、親友を非難した。
ワトソンはなにも言わなかった。

ホームズはコカイン中毒から脱け出すことは困難だと言ったが、フロイト博士は時間をかければ治療は可能だという。
フロイト博士は、退屈しのぎにコカインに手を出した、というような理由ではないと考えていた。
なにか深いトラウマが関わってる。
それを解き明かすためにも、ホームズに催眠術をかけた。
ホームズは一時的に禁断症状も治まり、眠りについた。

フロイト博士とワトソンは、ホームズのカバンを調べ、二重底の底辺に、溶液の注射器がズラリと並べて隠してあることを発見する。
治療は容易ではなさそうだった。


数日間はホームズは激しい禁断症状に苦しんだ。
「ヘビだ!ヘビがいる!」とワトソンを呼ぶ。
ドレッサーの扉からオオカミが襲ってくる。
天井からゆっくりぶら下がってきたヘビは、やがてモリアーティ教授の顔になった。
フロイト博士の辛抱強い治療の甲斐もあり、ホームズの禁断症状は治まってきた。

ホームズはワトソンを呼んだ。
「僕は君になにかひどいことを言ったりしたかな?」
「なにも言っちゃいない」
「もし言ったとしても、それは本心なんかじゃない」
「君は僕の親友なんだから」
ワトソンはその言葉に小さく頷いた。


治療は進むものの、ホームズは食事に口をつけず、表情も冴えない。
フロイト博士は、患者の若い女性が、自殺未遂を起こしたと知らされ、その病院へホームズたちも連れて行った。
ホームズには「君のためにもなるだろう」と。

一命を取り留め、病室で眠ってたのは、メゾ・ソプラノの人気女性歌手ローラ・デヴローだった。
彼女の手足にはコカインの注射跡があった。
ローラは橋から身を投げたというが、ホームズは手足の縄の痕から、その前に監禁されてたと推理した。
「なぜ逃げ出せたのに、自殺を図る?」
「また禁断症状に苦しむと思い、絶望したんだよ」
ホームズは、ローラが自分と同じ苦しみにあるという共感を持った。
女性には冷淡な所のあるホームズとしては珍しい感情ではあった。

誰が彼女を監禁したのか?そしてコカイン漬けにしたのか?
ワトソンは、ホームズが探偵の本能を甦らせ、精彩が戻ってきてるのを目の当たりにした。
「君のためにもなるだろう」と言ったフロイト博士の言葉の意味がわかった。
ホームズはローラから、自分を拘束した男の特徴を聞きだした。
ホームズの中から、もはやモリアーティ教授の存在は消えていた。


3人が入ったレストランで、偶然にホームズは特徴と一致する男を見つけ出す。
だがホームズには禁断症状が現れつつあり、フロイト博士に催眠術をかけるようせっつく。
ホームズが眠りに落ちかけた時、男が店を出て行こうとしてた。
見失ってしまう。ホームズを起こすがなかなか目を覚まさない。
追跡も非常に面倒くさいことになってきた。

だが何とか男が薬局でコカインを調達し、誰かに渡そうとしてるのを捕まえた。
ホームズは男を締め上げ、黒幕はオーストリア人のラインスドルフ公爵と突き止める。

ラインスドルフ公爵は、フロイト博士とワトソンが、スポーツクラブに立ち寄った際、フロイト博士を侮辱して、テニス試合での決闘の末、打ち負かされていた。
「公爵がなんでローラを?」
だがその時、ローラは病院から連れ去られ、イスタンブール行きの国際列車に乗せられていた。


この一件にはトルコの王族が絡んでいる。ホームズは様々な断片から推理を組み立てた。
ラインスドルフ公爵はモンテカルロのカジノで大負けした。
借金をした相手のトルコの王族アミ・パシャは、歌手ローラに惚れこみ、我が物にしたいと考えていた。
ラインスドルフ公爵は借金のカタにローラを差し出すため、彼女をさらってコカイン漬けにしたのだ。

イスタンブール行きの汽車はすでに出た。
ホームズたちは駅に停車中のドレスデン行きの汽車をジャック。
猛スピードで後を追う。
ドナウ川を越えられたら手の打ちようがなかった。


俺はSLとか詳しくないけど、見る人が見れば、この古いSLが2台走る追跡場面はたまらない見所になるんじゃないか?
ドナウ川を併走する2本の線路が、次第に交わっていく、そのロケーションがいいんだよなあ。

後を追うホームズたちの汽車には石炭が無くなり、後ろの空の客車を斧でバンバン解体して、木材を薪がわりにしてくとか、ユーモラスな見せ場になってる。
ようやく背後に追いつくと、今度は前の汽車に乗り移ったホームズと、ラインスドルフ公爵が、客車の屋根に上って、剣で渡り合う。
落ち着いた推理調で進んでたドラマが、一転活劇になるのも楽しい。


ホームズたちの活躍で事件は無事解決。だが肝心のホームズの、コカイン中毒の原因が解明されてない。フロイト博士は最後に催眠術を施す。

少年時代のシャーロックが、2階の両親の寝室に向ってる。
扉から覗くと、母親がよその男とベッドにいる。
そこに父親が入ってくる。男は部屋を逃げ出す。
次の瞬間、父親は銃で母親を撃った。間近で血を浴びるシャーロック。
その時すれ違った男と目があった。家庭教師のモリアーティ教授だった。

ホームズがコカイン中毒となり、その妄想からモリアーティ教授を悪の帝王と思い込んでた、その真相が明らかにされたのだ。
トラウマを克服したホームズは、フロイト博士の元を去ることにした。

ワトソンは一緒にロンドンに帰るものと思ってたが、ホームズは
「船でブダペストに行く」と言い、ワトソンと別れた。
晴れ晴れとした気分のホームズと、同じ船にもう一人、女性が乗り合わせていた。
二人は旅を共にすることにした。


ロバート・ダウニー・Jrの映画版、ベネディクト・カンバーバッチのテレビ版、それぞれに新しいホームズ像を築いて評判を得た。
この映画のホームズは、話自体は奇想天外ながら、演じてるニコル・ウィリアムソンはいかにも英国紳士の風情で、原作のホームズ像を踏襲してる。

むしろワトソンを、ロバート・デュヴァルが演じてるのが意外なキャスティング。
普段は中西部訛りでしゃべってるような印象の彼が、英国訛りを披露してるのは「聞きもの」といえる。カツラはつけてます。

ホームズものでありながら、キャストのビリングで一番最初なのが、フロイト博士を演じるアラン・アーキンなのだ。たしかに当時でいえば、彼が一番名前が通ってただろう。
この人も変幻自在であって、1966年の『アメリカ上陸作戦』ではロシアの軍人を演じてた。
この映画ではフロイトということで、オーストリア訛りの英語を話してる。

ローラを演じてるのはヴァネッサ・レッドグレイブ。この映画の時には39才で、男優も女優も、若い役者が出てないというのも特徴だね。
ヴァネッサの役は出番も少ないし、歌手なのに唄う場面もないし、演技派の女優としては物足りない役だったろう。
翌年の『ジュリア』では、アカデミー助演女優賞を獲得してる。

そしてホームズに苛められるモリアーティ教授を演じるのがローレンス・オリヴィエというんだから、これは渋いなりに豪華キャストといえる。

2012年9月4日

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