夏川結衣のドラマを見る [映画タ行]

『尋ね人』

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WOWOWの無料放送でやってた。
主演が夏川結衣とあっては、まずは見なくてはならない。

監督は篠原哲雄。先月「TIFF」で見た日中合作の『スイートハート・チョコレート』はガッカリな出来だったので、どうかなとは思ったが。

これは今年出版された谷村志穂の小説をドラマ化したものだが、筋を追いながら、なんだか篠原哲雄監督が2000年に撮った『はつ恋』と、プロットが似てるなあと思った。


『尋ね人』で夏川結衣が演じるヒロイン李恵は、東京で服飾デザインの会社を経営してたが、仕事でも私生活でもパートナーだった男に裏切られ、地元の函館に戻ってくる。

病床に臥す母親を自宅で看病するためだったが、傷心を癒すためでもあった。
だが家に戻ると、母親から思いもかけない頼まれごとをされる。

母親の美月は、自身の余命が僅かであることを察していた。
命尽きる前にと、母親がどうしても確かめたかったこと、それは50年前の初恋の人の消息だった。


昭和27年、函館の児童施設で働いていた美月は、仙台の大学から函館を訪れた藤一郎と知り合う。
二人は親密になると共に、藤一郎は大学の休みを見つけては、青函連絡船に乗って、仙台からやってきた。
旅費もかなりかかるはずだが、藤一郎は仙台の土地持ちのせがれだったのだ。

親友によれば、それまでは女にも手が早い、遊び人だったが、美月と出会い、その純真さに打たれて、本気で彼女を愛するようになったと。

美月も藤一郎との将来を心に決めていた。
「次に会う時は、ご両親にも紹介してね」

藤一郎はその言葉に頷いたが、帰り際、市電乗り場で一緒に乗り込むはずが、二人はそこで別れ別れになってしまう。
藤一郎は不意に市電乗り場から立ち去り、それきり姿を消してしまったのだ。

以来手紙を出しても返事は来ず、心当りに連絡しても、誰ひとり藤一郎の居場所を知らない。

「私がなにか気に触ることでも言ってしまったのか?」
美月は思い悩む日々を送った。

そして傷心にけじめをつけるべく、2年後に、紹介を受けた見合い相手と結婚を決め、そして李恵が生まれたのだ。


「なんで50年も前の恋にこだわるの?」
「私やお父さんは、一体なんなの?」
李恵は母親の申し出をとても納得できはしなかった。

だが母親が藤一郎と交わした、100通にも及ぶ恋文を目のあたりにして、余命僅かな母親の真剣な心情に思い及ぶようになっていった。


地元のいきつけのバーで、そんな話を漏らした李恵に、そばに居た無精ひげの男が
「それは失踪ですよ」と口を挟んだ。
「自分から望んで失踪した場合、まず見つけだすのは不可能だ」
男のぶっきらぼうな口調にカチンとくる李恵。

だがその言葉が引っかかり、後日、男が営んでる「浮気調査」の事務所に顔を出す。
男は「失踪人の調査はしない」と断るが、李恵の率直な性格に惹かれるものがあり、手助けをするようになる。
恋文の文面から手がかりを探り、糸をたぐるように、藤一郎の足跡を見つけて行く。


藤一郎はあの後、仙台の実家にも戻らず、バーテンをして渡り歩いていた。
大阪のバーに当時の藤一郎を知る主人がいた。

藤一郎には実は親が決めた許婚がおり、美月との恋の狭間で、悩んでいたという。
美月からも将来を乞われ、許婚との式も迫り、その女たちの視線に耐えられなくなり、藤一郎は衝動的に姿を消したのだという。

だが2年が経ち、やはり美月への思いは断ちがたく、藤一郎は大阪から、再び函館へと向かった。

その時すでに美月は結婚し、児童施設も辞めていた。
藤一郎は後悔を胸に、昭和29年9月、嵐の近づく青函連絡船・洞爺丸の乗客となっていた。


夏川結衣は、母親の恋の消息を辿るなかで、自らの過去の恋との訣別をはかるヒロインの心の揺らぎを、丁寧に演じてた。
男を寝取った、自分の部下でもあった若い女から、男の部屋にあった私物を函館に送りつけられ、屈辱に涙する場面もいいが、その男が函館にやってきて、ホテルで復縁をちらつかせる態度に、きっぱり拒絶を示し、
「では、お元気で!」と立ち去る、
その切れ味に夏川結衣の本領が出てた。

無精ひげの男を演じてるのは安田顕。ファンからは「ヤスケン」と呼ばれてるんだね。
うらぶれた感じは、若い頃の山崎努を思わせるものがあり、舞台に立ってるからか、声がいい。

俺はこの人の芝居を初めて見るんだが、普段の芸風とはちがうようで、盟友の大泉洋が見たら
「おまえ、なにカッコつけちゃってるんだよ!」
とツッコミ入るところか。
大泉洋も『探偵はBARにいる』で十分カッコつけてたから、お相子だろうけど。

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さて前述した篠原哲雄監督の『はつ恋』だが、あの映画では田中麗奈演じる女子高生が、やはり母親の昔の初恋相手への想いを知り、その男性を探すという出だし。
母親が病に倒れ、余命いくばくもないというのも同じ。

初恋相手はわりとすぐに見つかるんだが、真田広之演じるその男は、初恋のイメージをブチ壊すような、うらぶれた風情の中年男で、女子高生は
「こんなじゃ母親に会わせらんない」と、男を改造するべく奮闘する。

男は結婚生活に破れ、その痛手を引きずってグズグズしてるという設定だが、
これも『尋ね人』の安田顕演じる無精ひげの男が、妻と離婚し、いまは幼い息子に会うことも適わず、失意の日々にあるというのと一緒だ。
真田広之演じる男の名が藤木真一路といい、藤一郎と似てなくもないし。

監督の篠原哲雄がこういう話が好きで、『尋ね人』の監督を引き受けたのか、原作の谷村志穂が、『はつ恋』のプロットからヒントを得て、小説を書き上げたのか、なんにせよ偶然すぎる一致に思える。

2012年11月9日

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パリの家政婦は見た [映画ヤ行]

『屋根裏部屋のマリアたち』

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この映画は昨年の「フランス映画祭」で上映されてたが、その時にはスルーし、「文化村ルシネマ」で一般公開された時にも見逃した。
ようやく横浜でつかまえて見た。

昨日コメント入れた『桃(タオ)さんのしあわせ』もルシネマで上映されていて、家政婦映画を同じ年に2本かけてたことになる。
どちらもいい映画だ。だがテイストは異なっている。

この『屋根裏部屋のマリアたち』は、60年代パリのアパルトマンを舞台にした、ブルジョワの雇い主と、屋根裏住まいのスペイン人メイドたちによる、一種のユートピア映画。

軽やかな人生賛歌の趣きがある。
こんないい気分に浸れる映画をスルーしてたとは、俺のバカ。


ジャン=ルイは、祖父の代からの証券会社を経営してる。
パリの古いアパルトマンには妻と二人暮らし。
息子二人は格式ある寄宿学校に入れている。

ジャン=ルイはブルジョワ層の身分だが、妻のシュザンヌは田舎育ちで、そのコンプレックスから、ブルジョワ的暮らしに強いこだわりを持ってる。
ジャン=ルイは淡々と仕事をこなし、生活に不満もないが、情熱も沸き起こらない。

彼の唯一のこだわりは、朝食に出されるゆで卵の、「3分半」というゆで時間のみだ。

先代から仕える年配のメイドは、家の中の一切を仕切ってたが、料理は下手で、卵のゆで時間が守れない。
だがそのメイドは、シュザンヌが亡き義母の部屋を改装するのに反発して、仕事を辞めてしまった。

奥様連中とのランチで、シュザンヌはその件をボヤくと、いまはスペイン人がメイドの主流だと教えられる。
1962年当時パリには、フランコ独裁政権下から、自由と仕事を求めて、多くのスペイン人が逃れてきていた。
アドバイスを受けて、パリにあるスペイン教会を訪れたシュザンヌは、叔母を頼ってパリに出てきたばかりの、若いマリアに声をかける。


メイドとしての適正をテストされる初日に、マリアはジャン=ルイの云う通りに、ゆで卵を3分半きっかりに出した。
夫婦が出かけた後は、同じアパルトマンの屋根裏部屋に暮らしている、叔母たち住人に声をかけて、膨大な家事を手分けしてもらい、無事に正式採用となった。

給与を示すジャン=ルイに、マリアは強気で交渉する。
スペイン女性はタフだった。
それでもジャン=ルイが彼女を雇い入れたのは、ゆで卵の件だけでなく、マリアが若くてきれいだったことも、もちろんあっただろう。


マリアはジャン=ルイ夫妻の部屋の裏手にある使用人階段を上って、屋根裏部屋の寝室をあてがわれた。
雇い主がその階段を上がることなどなかったし、屋根裏部屋の住人たちがどんな暮らしをしてるのか、知る由もなかった。

屋根裏の物置を覗きにいったジャン=ルイは、そこで初めてスペイン人のメイドたちと顔を合わせた。
彼女たちは気さくだったが、生活環境は苛酷だった。
狭い部屋には暖房もなく、お湯も使えず、共同トイレは詰まったまま。

そのトイレの惨状にショックを受けたジャン=ルイは、すぐに修理を呼んだ。
それがきっかけで、ジャン=ルイと階上の女たちは、少しずつ交流を深めていく。

6人のスペイン人はそれぞれに過去や悩み事を抱えており、ジャン=ルイは手の及ぶ範囲で、彼女たちの力になってやった。
気分が乗るとみなで唄いだすような、陽気な彼女たちといると、表情の乏しい生活を続けてきたジャン=ルイの気持ちも、不思議と浮き立つようだった。


ホームパーティで客を招いた際には、ウェイターがマリアに言い寄るのを見て、激しい嫉妬に駆られた。
そんな感情が自分の中に湧き上がるとは。
ついマリアに辛辣にあたり、しばらくは口もきいてもらえなくなる。

ジャン=ルイはそれでも、階上の彼女たちの助けにはなり、DV夫から逃れるメイドのために、新しい住み込みの職を世話してやる。
その入居祝いに招かれたジャン=ルイは、同じく駆けつけたマリアと和解することができた。


最近夫が妙に活き活きとしてると、怪訝に感じていた妻のシュザンヌは、夫の顧客で色気を振りまく未亡人との浮気を疑った

妻の勘違いを敢えて否定することもせず、家を追い出されたジャン=ルイは、なんと屋根裏部屋に移り住む。
もちろん妻はそれを知らない。
住人のスペイン女性たちは、呆れはしたが、まあ気の済むようにと眺めてる。

だがジャン=ルイとマリアの距離が近づいていることには危惧もしていた。
所詮は身分も背景もちがう者同士。どちらにとっても幸せな結果は得られるはずもない。

そしてジャン=ルイは知らなかった。
若いマリアは未婚の母で、息子は養子に出され、資産家の元に暮らしてることを。

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ジャン=ルイを演じるのは、エリック・ロメール作品の常連で、多彩な役柄をこなすベテランのファブリス・ルキーニ。
俺は出演作の中では『百貨店大百科』が印象に残ってるが、彼は喜怒哀楽がはっきり出ない顔をしてる。
昨年スピルバーグがフルCGで『タンタンの冒険』を作ったが、若い頃のファブリス・ルキーニなら、実写で主役にハマると思う位の「タンタン顔」だと思ってる。


その彼の最小限の表情で、心が動いていくさまが、見る者に伝わってくる、そこにこの映画の「描きすぎない」良さが表れてるのだ。
人情話として、もっと濃い味に仕上げることも可能だが、そこをいい塩梅に抑えている。

でもエピローグでは「そうだよね、そうあってほしいよね」と観客が思うであろう結末を用意してる。
ここですっかり気持ちよくなってしまうのだ。

こういう映画は作れそうで、なかなかこんな風には仕上げるのは難しいだろう。
フランス映画というと、個性的な映画監督がいて、「作家主義」的に語られることが多いが、映画をほどよく語る上手さも見逃せない美点だと思う。
今年前半に見た『ある秘密』にも通じてる。

この映画の細やかさは、妻のシュザンヌの存在を、マリアとジャン=ルイへの「アンチ」として描いてはいない所だ。
シュザンヌ自身は身につかないブルジョワの生活に、いまもストレスを抱えてる。

スペイン人のメイドたちが、ジャン=ルイと交流するように、彼女もブルジョワのジャン=ルイと、生活を共にすると決まった当初は、環境や身分の違いに身がこわばっただろう。
ジャン=ルイとの関係は、だからメイドたちと実はそう変わらないのではないか。

マリアを演じるナタリア・ベルベケは、芯の強さと可憐さが同居していて、これは惚れてまうだろという納得のキャスティングだ。

2012年11月8日

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香港の家政婦は見た [映画タ行]

『桃(タオ)さんのしあわせ』

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父親の実家に昔、住み込みの家政婦さんがいた。
別に大層な家でもないのだが、俺の祖母というのが、料理や家事の一切をしないという人だったので、早くから雇い入れていたようだ。

ガキの頃、家族で帰省すると、決まって駅まで出迎えに来てくれた。
俺は「なあさん」と呼んでた。
語尾に「なあ」がつくんで、そう呼ぶようになったんだろう。

祖父が死に、祖母も入院するようになり、なあさんは暇をもらったようだ。
それはいつの頃だったか。
それどころか、俺はいまも「なあさん」の本名を知らないのだ。

彼女がどんな風に育ち、青春時代を送り、結婚した様子もなく、俺の父親の実家に住み込んで、長い時間を過ごしてきた、そのことをほとんど知らないままだ。

香港のベテラン女性監督アン・ホイによる、この『桃(タオ)さんのしあわせ』を見ながら、なあさんの顔を思い浮かべていた。


幼い頃に養子に出され、養父の死後には、梁家の家政婦となった桃さん。
その後彼女は4代に仕え、もう60年の月日が流れていた。
梁家は現在サンフランシスコに移住し、独身で映画プロデューサーのロジャーだけが香港のマンションに残っている。
桃さんはそのロジャーの身の回りの世話をしてるのだ。

夕飯の食材を探して市場に出向き、ロジャーのために手をかけた料理を出す。
ロジャーは旨いとも何とも云わず、当たり前のように黙々と食べると、中国に出張に出る。

桃さんとロジャーは母親と息子のような間柄となっており、息子は母親の作った料理を、褒めることもせず食べるだけという、この描写はチクリと心に刺さる。
息子であった者なら、思い当たるふしがあるからだ。

台詞で説明せず、テキパキと的確な画をつないで描いていく、ベテラン監督らしい進め方が気持ちいい。

ロジャーが出張から戻ると、桃さんは脳卒中で倒れていた。
退院はできたが、治療は継続し、完全な回復は望めないと知り、桃さんは、
「家政婦を辞めて、老人ホームに入る」とロジャーに告げる。
多少の貯えはあるから、費用も世話にならないと。


ロジャーは桃さんのために、顔見知りの役者バッタが経営する老人ホームを、格安で手配した。
個室と云われた部屋は、間仕切りで囲われただけで、ホームに入居する老人たちの風体や、味付けに気を配ってない食事など、桃さんには気が滅入ることばかり。

おまけに名前を「お手伝いさんみたい」と云われ、いよいよ腹も立つ。
だが桃さんは、ここで暮らしていくほかはなかった。

ロジャーは以前に心臓の病気で倒れたことがあり、その時に桃さんが献身的に看病してくれたことを感謝してる。
なのでホームにもよく顔を出し、今度は自分が世話する番と、桃さんの晩年に付き添う。
映画はその二人の関係を「心あたたまる物語」にしつらえてる訳ではない。


桃さんは60年に渡り、「いい家」に住み込みで働いてきたのだ。
その家の主人ではないが、生活をともにし、同じ窓の外の景色を眺めて生きてきた。
だから彼女の中では、生い立ちは貧しくとも、本来同じ「階級」ではない梁家の元に仕えることで、いつしか自分も庶民とは違う場所にいると、思いこんでたかも知れない。

老人ホームに入って、裕福とは云えない入居者たちと接することは、否応なく自分が本来いた場所を思い知らされる。

多少体の具合が悪くなっても、なんとかロジャーの下で暮らすことはできただろう。
「ホームに入る」と告げた時に、止めてくれるかもという思いもどこかにあっただろうか。
だが彼女にはプライドがあった。
使用人として、雇い主に迷惑はかけられないという。


ロジャーも「ほんとにいい人」という描かれ方ではない。
あのホームを見れば、桃さんのためにもう少しいい環境をと思ってもいいはずだ。
仕事があるから、桃さんを家で看るのは不可能と最初から決めている。

彼がなぜ独身でいるのかはわからないが、桃さんが家から居なくなり、電気製品の使い方ひとつわからないことを痛感する描写がある。
すべてを桃さんに任せっきりにしてきた。

相手が母親なら、さすがにある程度年齢がいけば、依存することにも躊躇するだろうが、桃さんが家政婦だということで、その存在に甘えてきたのではないか。

ロジャーにとって、桃さんは都合のいい母親だったのだ。


桃さんにも、ロジャーにも、ちょっと辛辣な視線を向けることで、ベタついた感傷から逃れる映画となってる。
それでもロジャーが桃さんを外出に連れ出す、2つの場面はいい。

ロジャーはプロデュースした映画の完成披露試写会に、桃さんをエスコートする。
化粧にも気をかけなかった桃さんが、心浮き立たせながら鏡に向かい、とっておきのドレスに身を包んで、お出かけする。

会場でロジャーは桃さんを「僕の義母です」と紹介した。
桃さんの人生で一番華やいだ夜だったろう。


もうひとつの場面は、ホームに入ってから、脳梗塞の症状を繰り返した桃さんが、ロジャーに車椅子を押されて、公園に散歩に出る。

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同じ言葉を繰り返す桃さんに、もう以前の表情はない。
彼女に背を向けてゴミ箱に向かう時のロジャーが痛切だ。

人は家族であれ、友人であれ、恋人であれ、つながりのあった相手に
「もう少しなにかしてあげられたかもしれない」
と、後から思う。
そういう思いが積み重なることが、歳をとるということなのだ。
ロジャーはあの時、そんなことを思っていたのかも。

俺の父親にとっても「おふくろの味」とは、このロジャーのように、母親でなく家政婦「なあさん」の作った料理の味だったのか。

この映画を父親が見れば、なにかしら感じ入るものもあったかもしれない。
だが映画を勧めようにも、その術はもうない。

ロジャーを静かに演じるアンディ・ラウもいいし、プライドと淋しさの狭間で揺れる、桃さんを演じたデイニー・イップも見事。
女好きのホームの入居者、キンさんを演じるチョン・プイが最後に泣かせる。

2012年11月7日

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昔『ヨーロッパの夜』というモンド映画があったが [映画ナ行]

『眠れぬ夜の仕事図鑑』

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ガキの頃から夜型だった。10才の時に「手作りラジオ」のキットというものを買ってもらい、夜中にたまたまスイッチを入れたら、ラジオ番組をやってる。
夜中にやってるなんて知らなかったので、イヤホンつけて聴いてるうちに、それが日課になってしまった。
学校では眠くてしょーがない。

若い頃には夜勤の仕事も何年かやった。夜勤明けに映画を見に行く。
平日の初回なんてガラガラだし、今のように指定席ではなかったから、好きな席に座って、退屈ならそのまま寝ればいい位の心持ちで見てたが、意外と眠らずに見てしまえる。

夜中に仕事して稼いで、平日の昼間に映画を見る。
若い頃はそれが効率的と思えてたが、あの時期の暮らし方で、心臓の寿命を縮めてたんではないか?と振り返って思う。
明らかに体に負荷はかかってるのだ。

映画を見終わって、まだ陽の高い屋外に出て、これから寝に帰ろうという時には、目の周りがズーンと重くなり、後頭部もボウッとした感覚になってる。
でもその感覚を「充実した時間を過ごした証」と解釈してたのだ。


このドキュメンタリーは、ヨーロッパ10カ国をロケして回り、「夜寝ない人々」の光景を観察する。
そのテーマに関心を惹かれて見に行った。

俺が映画を見始める以前、1960年代には『ヨーロッパの夜』をはじめとする「夜」シリーズという、ドキュメンタリーが日本に入ってきてた。
当時の性風俗が捉えられていて、「夜のいかがわしさ」が扇情的に宣伝されてたようだ。

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夜というのは、普通の生活者は寝てる時間であって、その時間にごそごそ動き回ってる人々は、なにか疚しさと隠微さがまとわりついてる。

夜は24時間のうちの「下半身」だったのだ。
だが今の都市生活において、夜は「昼間の延長」でしかなくなった。

昼間と同じように夜も、その時間を経済活動に使えばいい。
人間はそうして夜の時間を、当たり前のように侵食してきたのだ。
だが1日の24時間というのは、「人間が何もしない」時間も含めて設定されてるものなのだ本来。

俺が心臓の寿命を縮めたと感じた、あの時期のように、夜まで食い尽くして繁栄しようという人類は、きっとそのぶん寿命を縮めてるんだろう。

クリント・イーストウッドが最近の週刊誌の記事の中で、「とにかくよく寝る」と語ってる。
1日に9時間は寝るそうだ。
「もう老い先短いから」などと焦るような素振りなど微塵もない。
たっぷりと寝て、あれだけ画面に力の漲った映画を撮り続けてる。


この『眠れぬ夜の仕事図鑑』では20の異なる場所の光景が映されてる。

世界の都市で一番監視カメラの数が多いと言われている、ロンドンの監視モニター室。
警備員が何十台とあるモニターの画面を眺めている。
路上では麻薬の取引も頻繁に行われてる。
街頭の灯りの光量で十分に目視できる。
もちろんズームも自在にコントロールできて、公園のベンチにいる男の顔がはっきり判別できる。
監視カメラの精度が高い。

これでは町に出てる限りにおいては、丸裸にされてるようなもんだ。
こういう仕事を黙々とこなしている監視員というのは、どんなことを考えてるんだろうか。

ただ監視を行うというのは単調だろうし、眠気も誘うだろう。
誰か特定の人間に的を絞って観察することはないのか?

例えば自分が気に入った女性だとか。
彼女がもし毎日同じ場所に現れれば、そこらじゅうにある監視カメラを駆使して、その行動パターンや、どのくらいの収入の仕事に就いてるかとか、いろんな個人情報を手にできるだろう。

監視員にとって、ストーキングの誘惑というものはないのか。

このロンドンの監視員と比べて、冒頭に出てくる、スロバキアの国境警備のモニターは地味の一言。
だだっ広い草地にカメラが設置され、フェンスの前をたまに横切るのは動物だけ。


そんな無人の光景と真逆なのが、ミュンヘンで開かれる「オクトーバーフェスト」の人の山。
いわゆるビール祭りなんだが、広大な空間を擁する会場が人で埋め尽くされてる。

真ん中あたりにステージがあり、
バンドが「ビール!ビール!ビール持ってこい!」みたいな歌を演奏してて、客も大合唱となってる。
東京中のビアガーデンが1箇所に集まったみたいな。

ウェイトレスがチキンを乗せた皿の山を運んでくが、人波をかき分け、よく落とさないもんだ。

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その会場でピーター・シリングの『メイジャー・トム』という曲が流れてた。
これはデヴィッド・ボウイの『スペース・オディティ』へのアンサーソングとして、80年代にビルボードのヒットチャートにもランクインしたポップソングだ。
ピーター・シリングはドイツ出身のミュージシャンなので、母国ではかなり有名な曲なのだろう。

ほかは医療現場、24時間のニュースチャンネルや、空港、不法移民たちの強制移住手続きなど、淡々と行われる夜間の仕事がほとんど。


『ヨーロッパの夜』的なネタとしては、プラハの売春宿があった。
ここでは客が行為を撮影され、有料ネット会員に向けて配信されるということを了承すれば、格安料金で利用できるという。
裸でまぐわってる男女にも、その後素っ裸でシャワー浴びて出てくる様子にも、ちっともエロさを感じない。
もう『ヨーロッパの夜』のようなエキゾチズムは、この星の夜からは失われてしまった。

2012年11月6日

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インドネシア容赦ない『ザ・レイド』 [映画サ行]

『ザ・レイド』

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ブルース・リーが十数分だけ出てる「主演作」の『死亡遊戯』を、封切りの時に、日比谷映画で見た。

黄色に黒のラインが入ったトラックスーツを着た、ブルース・リーによる格闘場面が十数分撮られたまま、彼の死で未完となった「幻の映画」を、代役を使って完成させたものだ。

短編を長編映画に作り直すということは、よくあることだが、断片的なフッテージから、1本の長編映画をこしらえるというのは稀だろう。

その無理矢理感は公開前の段階からプンプン臭ってはいたが、映画オープニングの、ジョン・バリーのテーマ曲のカッコよさに
「ああ、これはちゃんとした映画になってるはず」
と、つかの間胸を撫で下ろした。

だが本編に入り、リーとおぼしき主人公は現れてからは、もういけない。
黒いグラサンで目は覆っているが、本人ではないことは一目瞭然だった。

一応代役の人たちも、それなりカンフーを習得してるから、動きは悪くない。
遠目でアクションを見てる分にはいいが、寄るともろバレで、場面によっては、ブルース・リーの顔をはめこんだりしてる。

本来なら「ふざけんな!」ってとこなんだろうが、俺を含めて、映画を見てた客たちは、
「なんであれ努力してることは認める」
というスタンスだったと思う。そして代役であれ、
「あれはブルース・リーなのだ」
と、自分の中で脳内変換させて見てたのだ。

こんなに観客に気を遣わせる映画もない。

そこにはもちろん商売っ気があったにせよ、ブルース・リーの雄姿を、いま一度スクリーンに甦らせようとした、作り手の執念と、そのことを踏まえて気を遣いながら見る観客の、そんな不思議な連帯感があの映画を形作ってたんだと思う。

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その観客の気遣いが終盤の「レッドペッパー・タワー」(唐辛子塔ってどうよ?)での本人登場で報われる。
と同時に代役たちに「今までご苦労さん」と言う気持ちにもなった。

階を上がるごとに刺客が現れ、本物のブルース・リーが打ち倒していく。
ヌンチャクの戦いも見れる。

ただ最上階のラスボスの、カリーム・アブドゥル・ジャバーがな。
俺はその時は胸に閉まっといたが、あれはどう見ても「ただのノッポ」だ。

バスケ選手としてはスターでも、リーのもとでジークンドーを習ってたとは云っても、あんな蹴りでブルース・リーの相手は務まらない。
チャック・ノリスに見劣りしすぎる。
そのラスボスの残念感だけは拭えなかった。


でようやく、この『ザ・レイド』に話がつながる。
日本に入ってくること自体が珍しいインドネシア映画だが、『死亡遊戯』の「レッドペッパー・タワー」でのシークェンスだけを抽出したような、全編が殺し合いという凄まじさなのだ。

ジャカルタにある、麻薬王が君臨する、スラムのような30階建ての高層アパートに、20人のSWATチームが突入する。
プロットはそれだけだ。
スピルバーグの『激突!』なみにシンプル。


SWATチームは完全武装して乗り込んでるが、見張りの一人に逃げられ、麻薬王リヤディは、突入の事実を知る。
アパートの各階に設置されたカメラによって、SWATチームの位置が把握され、リヤディはモニタールームから、全館に通知する。

「当ビルに害虫が侵入した。駆除に協力してくれた者には、アパートの永住権を与えよう」

それを聞いて、ドアというドアから、住人たちがワサワサと襲い掛かってきた。
襲撃に備えて、向かいのビルに配置してた麻薬王のスナイパーたちの銃撃も受け、20人いたSWAT隊員は、瞬く間に半数以下となる。

SWATのチームリーダーのジャカは、奇襲作戦を計画したワヒュ警部補に、本部に応援を要請してほしいと告げる。
だがこの作戦は警部補が独断で決めたもので、応援は来ないことが判明。
退路も断たれたSWATチームは、一転窮地に陥る。

屈強なジャカは徹底抗戦を覚悟するが、自分のチームの中に、救世主となる男がいることに気づいてなかった。


SWATに配属されたばかりの新人警官ラマは、インドネシア発祥の格闘術「プンチャック・シラット」の使い手だった。

リーダーのジャカと別行動となったラマは、なみいる敵を次々に打ち倒していった。
凄まじい速さの拳と蹴り。
ナイフや棒も自在に操り、容赦なく留めを刺してく。
6階からリヤディのいる15階まで、ラマは徐々に歩を進めつつあった。

階が上がるごとに、銃撃戦から肉弾戦へと様相は変わっていった。
そしてリヤディの側近「マッドドッグ」が動いた。

ジャカが銃を突きつけられると、マッドドッグは、銃など必要ないというジェスチャーで、ジャカを呼び寄せる。
素手でカタをつける気だ。

ジャカも腕に覚えはあるが、マッドドッグの強靭さは想像を超えていた。
拳も蹴りもまるでダメージを与えられない。
ジャカの表情に絶望の色が滲んでくる。

二人の戦いを知る由もないラマは、後から後から湧いてくる敵に、満身創痍となりながらも、前進を続けていた。
もはやラマが15階に辿り着いた時、マッドドッグと相まみえることは、避けようがなかった。

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主役ラマを演じるイコ・ウワイスはマスクもいいし、格闘のスキルも半端ないので、これはトニー・ジャー以来のスターになりそう。
この映画が前述した『死亡遊戯』より優れてるのは、なんといってもラスボスがガチに強いという所だ。

マッドドッグを演じるヤヤン・ルヒアンは1968年生まれというから、映画の撮影時には43才になってるが、29才のイコ・ウワイスに全く遜色ない、動きの速さと技の切れを見せる。

この人はプンチャック・シラットの他、さまざまなマーシャルアーツを習得してるだけでなく、
「インナーブリージング」という、衝撃に耐えられる体を作るテクニックも持っているという。

「拳も蹴りもまるでダメージを与えられない」という設定は絵空事ではないのだ。


こういうマーシャルアーツ系の映画は、とにかく肉弾戦を「ひえええ」とか「うはあああ」とか感嘆を漏らしながら、画面に釘付けになるというのが楽しいのであって、その意味ではアドレナリン出まくりで、見終わってグッタリするほどだ。

インドネシアおそるべし。

ジャカを演じたジョー・タスリムという役者は、口ひげのはやし方とか、全体の印象が、フィリピンの歴代最強ボクサー、マニー・パッキャオそっくりで、これは本人が意識してやってるんだろう。

監督がイギリス人のギャレス・エヴァンズという人で、演出スタイルに垢抜けた感覚がある。
アジアの監督だともう少しドロ臭くなるところだろう。

2012年11月5日

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ダイ・ハードなアイリッシュギャング [映画カ行]

『キル・ザ・ギャング』

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副題に「36回の爆破でも死ななかった男」とついてるが、これは事実誤認を誘発する。
「36回」というのは、1976年夏に、オハイオ州クリーブランドで起きた、ギャング間の抗争事件における、爆破件数を示したもの。

その抗争の主役となるのが、地元で生まれ育ったアイルランド系のギャング、ダニー・グリーンだ。
実在のギャングの生涯をタイトに描いて、「東映実録路線」のようなテイストの2011年作で日本未公開。
DVDリリースを待ちかねてた。
まずキャスティングが小躍りしたくなるほど渋いので列記しとく。

ダニー・グリーン(主人公のアイリッシュギャング)=レイ・スティーヴンソン 
ジョー・マンディツキ(幼なじみでクリーブランド市警刑事)=ヴァル・キルマー 
ジョン・ナルディ(地元ギャングでダニーと意気投合)=ヴィンセント・ドノフリオ 
キース・リットソン(ゴミ回収業を通じてダニーの仲間に)=ヴィニー・ジョーンズ 
ションドー・バーンズ(ダニーの腕を買う高利貸し)=クリストファー・ウォーケン 
ジェリー・ミーク(港湾局の組合長)=ボブ・ガントン 
リカヴォリ(地元のイタリアン・マフィア)=トニー・ロー・ビアンコ 
“ファット・トニー”サレルノ(ガンビーノ・ファミリー直系のNYのマフィア)=
ポール・ソルヴィーノ 
レイ・フェリーノ(サレルノが仕事を依頼するロスの殺し屋)=ロバート・ダヴィ

これだけ揃えても、喜ぶのは映画好きだけなのだろう、劇場公開に至らなかったのが残念だ。

クリーブランドといえば、MLBのインディアンズの本拠地というイメージくらいで、こんなギャングの抗争に揺れてた時代があったとは、初めて知った。
クリーブランド東部の下町コリンウッド周辺が舞台となってる。


ここで生まれ育ったダニーは、2m近い巨躯で、腕っぷしも強いが、人望もあった。
1960年代に地元の港湾労働者として働いてたが、労働条件は劣悪で、仲間からは、港湾局の組合長に立候補してくれと頼まれてた。
冷酷な組合長ジェリー・ミークは「余計なことは考えるな」とダニーを牽制した。

幼なじみにバクチで借金を作ったと泣きつかれたダニーは、地元のマフィアの元に話をつけに行く。
そこでジョン・ナルディと顔見知りとなり、借金をチャラにする条件として、港の倉庫から物品を強奪する仕事を請け負う。

だがそれをダニーの仕業と見抜いた組合長ミークは、自分が警察に通報すれば、今後一生組合長になどなれないぞと脅す。
そして奪った物品の利益を半分寄こせと。

ミークのボディガードが金を受け取りに来るが、ダニーは銃を向ける相手に、
「そんな物しまって、俺と踊らないか?」
と挑発する。
踊るとは、素手で殴りあうという意味だった。
挑発にのったボディガードは、ダニーの拳によって床に沈む。


翌朝、組合長の椅子に座るダニーに驚き、ボディガードを呼ぶが、誰も来ない。
ミークは、ここを立ち去れという意味で
「3秒やる」と云うと、
ダニーは「なんのために?」と応え、ミークを何度も平手打ちして、事務所から追い出してしまう。

腕づくで港湾局の組合長の座に就いたダニー。
だが、ダニーの羽振りのいい生活から、汚職の匂いを嗅ぎつけた、幼なじみで今は市警察の刑事であるジョー・マンディツキによって、ダニーは逮捕され監獄へ。


出所したのは1971年だった。金もなくなり、妻のジョアンと幼い娘たちを連れ、町でも治安の悪そうな地区に一軒家を借りた。

近所にはバイクの騒音を轟かせる暴走族がたむろしてたが、ダニーは臆せず乗り込んでいき、リーダーを引っ張り出すと、またもや
「俺と踊らないか?」
その場で返り血を浴びる位にブチのめして、追い払ってしまう。

ジョン・ナルディの口ききで、ダニーはレストラン経営者のションドー・バーンズに挨拶に出向いた。
ションドーはカジノも経営しており、バクチの負けを取り立てるため、高利貸しも同時に営んでいた。

ダニーの体格と腕っぷしを見込んだションドーは、借金の取立てを任せた。
ダニーは有無を言わさずに取り立てて回り、ションドーの信頼を得る。

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その報酬だけでは十分でないと感じていたダニーは、隣人のフラートが自前のトラックで行ってる、ゴミ回収業に目をつける。
ビジネスを仕切ってるのは地元のイタリアン・マフィア、リカヴォリだった。

ゴミ回収業の男たちは気が荒く、人の云うことを聞かない。
リカヴォリは男たちを組合に加入させることができれば、ダニーにゴミ回収ビジネスに噛ませてやると条件を出す。
男たちを組合員にできれば、組合費として売上げをピンハネできるからだ。


ダニーは回収業者でも猛者と呼ばれるキース・リットソンを抱き込み、これも半ば強引な手法で、男たちを組合に加入させていく。
だが隣人のフラートは頑として拒んだ。

一人でも加入しない者がいると、みんな右へ倣えとなる。
ダニーはリカヴォリから、隣人を始末しろと命じられる。

その話を聞き及んだフラートは、先にダニーに銃を向けてきた。
撃ち合いとなり、フラートは死んだ。
妻のジョアンは、常に不穏な空気に包まれてるダニーとの生活に耐えられなくなり、子供を連れて出ていった。


4年後の1975年、ダニーはそろそろ堅気の仕事がしたいと思い、ションドーに
「ダブリン風のパブを出したい」
と持ちかける。ションドーは
「成功者は自分の金は出さないもんだ」
と云い、ニューヨークのガンビーノ・ファミリーに融資を掛け合う。

だがファミリーから金を受け取った、ションドーの使いが、その7万ドルを着服。
麻薬売買の現場を警官に押さえられたことで、金も押収されてしまう。

金の返済を巡って、ダニーはションドーと揉める。
ションドーは目をかけてきたダニーの態度に怒り、その首に2万5千ドルもの賞金をかけた。

車に爆弾を仕掛けられたが、間一髪で難を逃れたダニーは、すぐさま報復。
ションドーを同じように車で爆死させてしまう。

ダニーをこのまま野放しにはできない。リカヴォリは手下を動かし、ダニーの自宅に爆弾を投げ込む。
ダニーはつきあってたエリーの身を庇い、全壊した家屋の下敷きとなったが、ここでも奇跡的に生き伸びた。

ダニーは仲間と結束し、地元のイタリアン・マフィアとの全面戦争に突入した。
ひと夏に36回の爆破事件が起きたが、ダニーはまだ生きていた。


いくら殺そうとしても、平然と生き続ける「ダイハード」なアイルランド野郎に、リカヴォリはついに手打ちを提案。

だがその席でダニーは
「俺は骨までしゃぶられてきたんだ」
「もう言いなりにはならない」
と、好きに振舞うと言い放った。

もはや自分の手に余ると感じたリカヴォリは、ブルックリンに拠点を置く、上層部のマフィア、“ファット・トニー”サレルノに始末を依頼する。

サレルノは、ロスに使いを寄こし、殺し屋のレイ・フェリーノに仕事を託した。
そのサレルノの元を、なんとダニーが挨拶に訪れた。
その申し出は意外なものだった。


ダニー・グリーンというギャングの人物像が、ちょっと掴みどころがない感じで、そこに面白みがある。
普段は本を読むのが好きな「静かなる男」という印象なんだが、いざとなると腕に任せて決着を図る。
小細工はないのだ。

長いものに巻かれるのを好しとしないため、常に軋轢を生むし、トラブルを屁とも思ってない。
野心はあるんだろうが、具体的にどこまで上ろうとか、そういうギラギラ感はない。

クスリはおろか、酒も呑まないから、私生活も乱れた風にはならない。
アイリッシュとしての誇りは高かったようだ。


演じるレイ・スティーヴンソンは、『パニッシャー ウォーゾーン』で主役を張ったものの、その後は地味に糊口をしのいでる感じだったが、この映画はキャリアの代表作になりそうな快演ぶりだ。

特に口ひげをたくわえてからが、いかにも70年代のタフガイの風情が出て、過去の出演作では感じさせなかった色気も漂わせている。

『マイティ・ソー』の時も、一際デカさが目立ってたが、今回も何が驚きって、『スナッチ』とかどの映画に出てても、一番デカいなと感じてたヴィニー・ジョーンズが、レイ・スティーヴンソンと並ぶと小柄に見えるという!

キルザギャング2.jpg

男の映画だから女優は飾り程度になってしまうが、エリーを演じるローラ・ラムジーは可愛い。
いきなりオッパイ丸出しでダニーを誘う場面は、思わぬサービスカットになってる。

監督は『パニッシャー』シリーズの、レイ・スティーヴンソンではなく、トム・ジェーンが主役を演じた1作目の方を撮ったジョナサン・ヘンズリー。
俺は『パニッシャー』はけっこう好き。

この映画70年代のロックがかなり流れてるんだが、相当に渋い選曲と思われ、1曲も知らなかった。
こんなのは珍しい。サントラがあれば買って聴いてみたい。

「野太く生きて、パッと散った」男の話だ。
ギャングの実録はだから面白いのだ。

2012年11月4日

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映画は人を騙し、人を救う [映画ア行]

『アルゴ』

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1979年、イランの前国王パーレビが、癌の治療のため、アメリカに入国。
イランの過激派は、恐怖政治の中で私服を肥やしたパーレビを、自国で裁きにかけるため、身柄の引渡しを要求。
時のカーター政権はこれを拒否したため、過激派に煽動された民衆たちによる大規模なデモが起こる。

デモの大群は、在イラン米国大使館を取り囲み、最悪の事態を予感した大使館員たちは、書類のすべてを焼却、あるいはシュレッダーにかけた。

怒りに駆られた民衆たちは、大使館の塀を乗り越え、敷地内になだれ込む。
52人の大使館員が拘束された。
だが混乱に乗じて、6人が大使館を脱出し、カナダ大使の私邸に逃げ込んだ。

アメリカ人を匿ったことがイラン側に察知されれば、自分と妻の身も危ない。
だがカナダ大使は、アメリカ大使館員6人を、客人として滞在させることにした。

カナダ大使から連絡を受けた米国防省は、CIAに応援を要請。
人質奪還のプロ、トニー・メンデスの手腕に委ねた。


すでに、どうやって6人をイランから脱出させるかの案は上がっていた。
2つの案はトニーによって即座に否定される。

車を使うと検問にかかるので、自転車でトルコ国境を越える案。
これは国境まで600キロもあるので非現実的。
外国人教師を装うという案も、すでに反西欧に傾いていた当時のイラン国内には、英語教師などはいなくなってると、トニーは指摘。

「では代案はあるのか?」
との問いには、その場では答えられなかった。

だが自宅に戻り、幼い息子に電話しながら、テレビで放映されてる『最後の猿の惑星』を眺めてたトニーは、ある突拍子もないアイデアが閃いた。


1977年『スター・ウォーズ』の空前の大ヒットにより、SF映画ブームが到来していた。
カナダ大使私邸に滞在する6人の、アメリカ人大使館員を、カナダの映画クルーに装わせる。

荒涼とした砂漠の惑星のロケーションに、エジプトやイランなど、中東諸国が適してるとして、撮影に訪れたことにする。
トニー自身が映画の資料を持って、イランの役人にロケの許可を得る。
そしてカナダ大使私邸で、6人と合流し、一緒に空港へ向かい、出国審査をクリアして、民間機で脱出するという筋書きだった。

だが過激派は大使館内のシュレッダーから、裁断された紙の断片を回収。
子供たちを動員させ、なんとジグソーパズルよろしく、断片をつなぎ合わせる作業をさせていた。

その紙の中には、6人の大使館員たちのプロフィールも含まれ、顔写真が照合されれば、人質の中に6人がいないことがバレてしまう。

入国時に書かされる証明書も、控えは空港職員のもとにある。
出国時にトニーと、6人の入国日が違うことを指摘されたら?
薄氷の上を渡るような作戦は、決行の時を真近に迎えていた。


前作の『ザ・タウン』と同様に、監督・主演を兼ねたベン・アフレックだが、前作がアクション描写を強調した作りになってたのに対し、この『アルゴ』は、じっくりと腰を据えて、物語の展開をコントロールしていこうという姿勢だ。

前半に動きのある場面なんかを入れて、メリハリを効かそうとか、そういう色気を出すことがない。

これは事実自体が十分面白いのだから、それをなるべく明解に、駆け足にならずに観客に提示する。
ベン・アフレックの「功をあせらない」演出ぶりで、事件の背景や、登場人物の関わり合いが把握しやすい。
それでも前半は単調に感じる人もいるだろう。
だが映画好きなら、前半から身を乗り出して見てしまうようなネタが蒔かれてるのだ。


『アルゴ』とは、映画会社のボツ脚本の山に埋もれていた、SF映画の題名による。
『スター・ウォーズ』に便乗して、ロジャー・コーマンが手掛けた『スペース・レイダース』とか『宇宙の7人』とか、そんなパチモン感が漂う。
トニーはまずこのSF映画を製作するという、既成事実つくりから行う。

「敵を欺くにはまず味方から」ということで、特殊メイクマンと、映画プロデューサーに声をかけ、
「架空の映画話をデッチ上げる」と。

ストーリーボードを描かせ、エキストラ役者を集めて、コスチュームを着せ、製作発表の席で、台本を読み合わせさせる。
ポスターの図柄が、製作発表の記事とともに、映画業界誌「バラエティ」に載る。

「バラエティ」誌は、世界どの国の映画人でもその名を知ってる業界誌であり、この雑誌に載ったということが、アリバイ作りの成立を意味してるのだ。

バラエティ誌.jpg

実際の映画業界でも、製作発表をして、イメージポスターも作って、だけどその後に話がポシャることはザラにある。
企画をブチ上げて資金を募って、そのまま雲隠れする、自称プロデューサーなんて輩も珍しくない。

映画というのは、そういった「いかがわしさ」の中で日々生み出されているものなのだ。


製作発表の内容通りに、映画が完成したとして、それが巧妙な宣伝によって、映画館にかかったとして、その「クソみたいな」出来栄えに、それこそブログやツイッターなんかで
「金返せ!時間返せ!」の合唱が沸き起こったとしても。

もしそうなったとしても、その観客の内の誰かが、監督やプロデューサーのもとに押しかけて
「つまらないもの見せやがって!」
と刃物振りかざすようなことにはならない。

映画というのは不思議なもので、どんなにつまらない映画でも、殺意を抱かせるまでには至らず、観客は
「そのつまらなさも一つの存在価値」などと、生暖かい目で見てくれたりする。

面白いと思って「騙された」としても、観客は刃物までは手にしないが、この
『アルゴ』の場合は、「騙された」と気づいたら、銃を向けてくるであろう人間たちが相手なのだ。

ハシにも棒にもかからない脚本を拾いあげて、チープなSF映画をデッチ上げて、だがその映画こそが、6人の人命を救う「切り札」になるという痛快さ。


映画の終盤は、一気呵成に見せてく演出で、もちろん脱出のスリルは十分に味わえるが、俺はこの映画の主眼は、やはり「映画を語る映画」という部分にあると思う。

映画を作るという行為は、いわば「上手に嘘をつく」ことだ。
観客も嘘を承知で楽しむ術を心得てる。
作り手と観客の間には、暗黙の了解があるわけだ。

だが『アルゴ』の嘘は「命がけ」でつかなければならない嘘だ。
その作戦自体が、「バクチ」といわれる映画製作そのものを表してる。

だから自分たちも、映画に騙されたと思って、いちいち目くじら立ててちゃいけないのだ。
そんな映画が人を救うことだってあるのだから。
70年代のワーナー映画のロゴから始まるところも憎い。

2012年11月3日

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吹替版で見よう「消耗品軍団」 [映画ア行]

『エクスペンダブルズ2』

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シルベスター・スタローン(バーニー・ロス)=ささきいさお
ジェイソン・ステイサム(リー・クリスマス)=山路和弘
ドルフ・ラングレン(ガンナー・ヤンセン)=大塚明夫
ジェット・リー(イン・ヤン)=池田秀一
チャック・ノリス(ブッカー)=堀勝之祐
ジャン=クロード・ヴァン・ダム(ヴィラン)=山寺宏一
ブルース・ウィリス(チャーチ)=綿引勝彦
アーノルド・シュワルツェネッガー(トレンチ)=玄田哲章

どうよ、この吹替版の声優のメンツ。これでこそ「吹替版」を名乗る資格があるってもんだ。
普通ならもちろん洋画は字幕版で見るんだが、これは別だ。
本編に負けず劣らず、こんな声の顔ぶれが一堂に揃うなんてことは滅多にないのだ。

都内近郊いろいろネットで調べてみて、吹替版が大きなスクリーンでかかってる所ということで、今まで足を運んだことなかった「109シネマズ木場」を選んだ。
しかし俺の見た回は、他に男性客ひとりだけ。なんだこの「選択に負けた」感は。

吹替自体は文句なしに素晴らしかった。
CMでブルース・ウィリスと「共演」してる綿引勝彦が、
「ちゃんと覚えとくんだ、ブルゥース!」って云うのかなと期待しちゃったよ。

パンフは800円と高めだが、ささきいさお、玄田哲章、綿引勝彦による対談も載ってるし、内容盛りだくさんで、値段に見合ってる。


基本1作目とやってることは変わんない。
スタローンは今回監督はサイモン・ウェストに任せて、自分は演技に徹してるが、それとて、スタローンの演出とどこが違うとか差も感じないし。

冒頭でネパールの武装反乱軍に拉致された、中国の富豪を救い出すというミッションに臨む「消耗品軍団」。
最初っから殺しまくりだ。
徹底的に殺して破壊し尽くして、ミッションを終えて国へ帰ると、新入りの凄腕スナイパー、ビリーが仕事の血生臭さに耐えられないと、バーニーに訴える。

バーニーは「俺もお前くらいの頃、同じように悩んだもんだ」
と云い、その胸の痛み、わかるぞみたいな熱い眼差しを注ぐ。

俺はスタローン好きだし、映画もほとんど見てるけど、彼の悪い癖は、こういうウェットな訴えかけをしてくる所だ。
あれだけ他所の国の人間を虫けらみたいに殺しまくっといて、
「でも俺たちも家に帰れば、一人の人間なんだよなあ」みたいなアピールはいらんわ。
殺しが仕事なら、殺しに徹してくれ。

まあしかしウェットなのはそこまでで、後はひたすら撃ちまくり殺しまくりしか描かれないので、安心して見てられたが。

今回はジェット・リーが冒頭のミッションで、ちょっと暴れてみせただけで、映画から退場してしまうのはがっかりだが、前回仇役っぽい位置づけだったドルフ・ラングレンが、なんとコメディリリーフを任されてる。
これが悪くないのだ。スタローンはこういう人の使い方が上手い。

ちなみにドルフの役名のガンナー・ヤンセンというのは、同じ北欧出身で、『悪魔のいけにえ』でレザーフェイスを演じた、ガーナー・ハンセンをもじってると俺は踏んでる。

前作ではオファーを蹴ったヴァン・ダムが、今回満を持して悪役として登場。
役名がヴィラン(悪党)ってそのままじゃないか。
サングラスかけて凄みを感じさせるが、最後の見せ場でそのサングラスを外すと、なんか目が変になってる。
スタローンも同じなんだが、アクション映画に出続けた頃に、筋肉増強剤をかなり服用してたんだろう。
その副作用めいたものが、顔の妙なゆがみに現れてる気がする。

スタローン対ヴァン・ダムの「ゆがみ顔対決」も見ものだが、格闘の切れのよさでは、ジェイソン・ステイサムと、敵の腹心スコット・アドキンスのマーシャルアーツ対決の方が見応えはある。

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だが俺にとっては、この映画はチャック・ノリスに尽きる。
もうここからはチャック・ノリスの事しか書かないが、実は途中まで彼は出てこない。
俺も見ながら「あと誰か出てくるはずだよなあ」
などとボンヤリ考えてたら、敵に囲まれた「消耗品軍団」のピンチを一人で解決した男が現れた。
なぜか『続・夕陽のガンマン』のテーマ曲に乗って、歩いてくるのがチャック・ノリスだ。

俺はこの場面で、二人しかいない劇場内で、ケラケラ笑い出してしまった。
別にギャグの場面でもないし、俺は「こういうのわかってるんだぜ」というような、笑いのアピールをするのは好かない。
時々映画見てるといるんだよ、そういう手合いが。
笑おうと思って笑ったんじゃなく、自然に笑いが止まらなくなってしまったのだ。
スタローンが「ブルース・リーと拳を交えた男」に、最大の敬意を払ってることに嬉しくなったのかも。

チャック・ノリス演じるブッカーは、傭兵の業界では「ローンウルフ(一匹狼)」と呼ばれてるのだ。
ローンウルフという呼称と、マカロニウェスタンの音楽となれば、これは
1983年のチャック・ノリス主演作『テキサスSWAT』へのオマージュだとわかる。

原題は『ローンウルフ・マッコード』といい、現代版マカロニウェスタンを目指したような作りの活劇で、フランチェスコ・デマージによる音楽は、モロにマカロニテイストでカッコよかった。

あの映画の仇役はデヴィッド・キャラダインだった。
テレビドラマ『燃えよ!カンフー』で一躍名を上げたキャラダインと、ブルース・リーとの対決で名を上げたノリスが、最後に野っぱらで、カンフーで雌雄を決する様は、
『ドラゴンへの道』の記憶を喚起させたもんだ。

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俺は自分の人生の持ち時間を、人に比べてチャック・ノリスの映画に結構費やしてきてる方だ。
1977年の『暗黒殺人指令』から、1993年のTVムービー『テキサス・レンジャー』あたりまで、ほとんど見てきてる。
キャリアとしての最盛期は、この『テキサスSWAT』から、『地獄のヒーロー』『野獣捜査線』『デルタフォース』『地獄のコマンド』の5連発だろう。

『地獄のコマンド』なんて、原題は「合衆国侵略」と大きく出てるわりには、フロリダの先っぽの方で小競り合いしてるレベルの話だったが、キャノン・プロ製作だから、見せ場もエグくて楽しめた。

なによりこの時期の「チャック・ノリス映画」はテーマ曲がみんないいのだ。
『野獣捜査線』はラロ・シフリン風にクールだし、アラン・シルベストリによる『デルタフォース』のテーマは、一時期「プロ野球ニュース」の試合ダイジェストで必ず流れてた。

『エクスペンダブルズ2』のチャック・ノリス参上で、こんなにテンション上がるのは、彼の映画に付き合ってきた者だけに表れる症状なのだ。

2012年11月2日
  
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「東京国際映画祭」をみなとみらいで [東京国際映画祭2012]

「東京国際映画祭2012」総評的なこと

今年の東京国際映画祭は、関連上映を含めると、期間内の9日間で33本を見た。
昨年は「コンペ」作品をそこそこ見たが、今年は4本だけ。

もともとコンペに興味が薄く、こんなこと云っちゃなんだが、「サクラグランプリ」に輝いたからといって、過去の例だと、大して作品の箔づけにはなってない。

コンペで上映される映画は、この機会を逃すと、公開もされずもう出会えなくなく、そういう確率は高いのだが、出会えないままでもいいと思う映画も、この世にはたくさんある。
「貴重な機会と思って見たけど、自分には合わなかった」
そういう経験をもう随分と長く、映画祭では味わってきてるからだ。

俺がコンペ作品にあまり熱が入らないのは、はじめの頃の印象が芳しくなかったというのが大きい。
俺は1985年の第1回から参戦してるが、当時のコンペの上映作はとにかく「地味」。

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1991年の「第4回」までは隔年開催だったから、作品選定の余裕もあったと思うんだが、なぜこうも地味なのかと。
それは開催されてしばらくは、コンペの作品選定を行ってた人の嗜好に拠っていた。

映画評論家の草壁久四郎は、すでに世界の映画祭で審査員を務める経歴を持ち、特に欧米以外の国の映画に造詣があった。
それで作品選定の責任者として白羽の矢が立ったのだろう。
だが選ぶテイストが「エキプ・ド・シネマ」的というのか、見て楽しめるものより、テーマ性とか民族色とか、そういう要素が色濃い映画に傾いているんで、
「まあ描きたいことはわかるけどさ」と、なにか論文発表におつきあいしてる気分になってくる。

ふつう映画を見てれば笑ったりとか、感情の起伏が誘発されるもんだが、当時はコンペ作品を3本もハシゴしたら、自分自身も表情を失ってしまったんじゃないか?と思うくらいにテンションがダダ下がりになった。
「映画祭」という祭りのはずなのに。


そんな気分を払拭してくれたのが、1985年から同時開催されてた
「東京国際ファンタスティック映画祭」(通称・東京ファンタ)だった。

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こちらはホラー・SF作品中心に「娯楽なくしてなんの映画か」という上映作が並び、祭り気分を盛り上げる。
なので俺は東急文化村より、その「対岸」に位置してた渋谷パンテオンに入り浸ることが多かった。


ゼロ年代に入って、2回ほどは仕事の関係で東京を離れてたため、参戦してない年があるが、最初の10年よりは、ここ10年の方が、コンペ作品のテイストにも幅が出てきて、面白い作品に出会える確率は高まったとは感じてる。

それでも、すでに世界の映画祭で、評価済みの未公開新作を集めた「WORLD CINEMA」部門の方に食指が動いてしまうのは、「TIFF」のコンペに、有力なワールドプレミア作が揃えられないという課題が、27年経った今も解消されてないからだ。


それから「WORLD CINEMA」部門が出来て、「賞獲り映画」が並ぶという、映画祭ならではの華やかさが加味されたことで、そろそろ「特別招待作品」部門は縮小されていいんじゃないか?

一般公開がまだ先になるという映画を上映するのならともかく、物によっては映画祭の翌週には公開という映画を、わざわざかける必要あるのか?
それに「特別に招待する」ほどのもんでもないようなレベルの映画も混じってるし。

どういうパワーバランスのもとで決められてるのか知らんが、国際映画祭のオープニングが
『シルク・ドゥ・ソレイユ3D』とか、ないわ。

俺自身としては、「特別招待作品」では、ミニシアターでの一般公開が決まってるような映画を、選んで見ることにしてる。
シネコンの大きな画面と音響で堪能できる唯一の機会になるし、ミニシアターは場所によって上映環境がピンキリだからだ。


それから「日本映画・ある視点」もボリュームとして淋しい気がする。
俺はこのブログで前に、映画館の料金に関して書いた中で、インディーズの日本映画の上映環境に触れたが、「TIFF」は10月開催なので、その年に劇場公開された日本映画から、注目すべき作品を集めて再上映するという試みがあってもいいと思う。

いま、夥しい数の日本映画が劇場公開されてるが、その存在も知られてないという作品もかなりな数に上るだろう。


2004年以降は「TOHOシネマズ六本木ヒルズ」がメイン会場になっていて、プレス会場だとか、上映施設以外の周辺の環境整備も整ってるだろうから、しばらくはここで開催するんだろうが、通ってる側からすれば、ちょっと飽きたよ。
六本木という町自体がそれほど魅力的でもないし、映画と映画の間に、時間を潰せるような場所に乏しい。

そこでなんだが、一度会場を横浜の「みなとみらい地区」に移してみちゃどうかな。
横浜開催だと「TIFF」じゃなく「YIFF」になるけど。

みなとみらい.jpg

あそこには「パシフィコ横浜」という、首都圏最大級のコンベンションセンターがある。
大ホールは5000人のキャパがあるし、施設内には会議スペースもあるし、事務局やプレス関係の場所も確保できるだろう。
周辺にホテルもあるから、来日ゲストの宿泊に使える。

「パシフィコ横浜」から10分圏内に、「ブルク13」と「109シネマズMM横浜」の二つのシネコンがある。
丁度三角形に結べるような位置関係だ。

「みなとみらい地区」を巡回するバス路線というのがある。
映画祭の期間中は、「ブルク13」と「109シネマズMM横浜」を結ぶ無料シャトルバスを運行するなどして、2つのシネコンで作品を上映できれば、今以上の規模の本数や、上映回数が実現できると思う。

もちろんアクセス的には六本木より足がかかる。
だけど海を臨めるロケーションというのは売りになるはず。

俺の勝手な印象なんだが、外国の人って日本人より、海を眺めるの好きだよね。
ここ数年淋しくなる一方の、映画祭の来日ゲストだけど、会場が海に面してると知ったら、
「じゃあ行こうかな」と思うような人も出てくるんじゃないか?
同じく外国の人が好きな「観覧車」もあるしね。

六本木は開放感がないんだよ。
映画漬けになった、その合間を潮風にあたってリフレッシュしたいと思うでしょ?

「TIFF」は過去に一度だけ、1994年の第7回のみ、京都に場所を移して開催したことがある。
俺もさすがに京都までは行けなかったが。

海を臨めるという点では「お台場」という選択肢もあるが、あそこはシネコンが「シネマメディアージュ」しかないし、豊洲の「ユナイテッドシネマズ」までは離れてる。
ということで、「みなとみらい開催」を推してみる。

2012年11月1日

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TIFF2012・最終日『怪奇ヘビ男』 [東京国際映画祭2012]

東京国際映画祭2012

『怪奇ヘビ男』(アジアの風・中東パノラマ)

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カンボジア映画というもの自体、目にすることがなかったので、この機会にと見たわけだが、闇鍋的な面白さがつまった映画で、一応ホラー・ファンタジーなんだが、それにしても上映時間164分だからね。
何でも揃ってる田舎の雑貨屋みたいだった。
ツッコミ所ありすぎで、みんな笑って見てたが、作った監督たちが見舞われた災厄は、とても笑いごとではない。


『怪奇ヘビ男』はテイ・リム・クゥン監督が1970年に作った映画だが、映画に理解を示していたシハヌーク殿下が、政権を追われ、1975年には、ポル・ポト率いる「クメール・ルージュ」(カンボジア共産党)による、革命という名の大量殺戮が行われ、それはおよそ4年もの間、カンボジア全土に吹荒れた。
当時の知識層に属する人々は、根こそぎ粛清され、カンボジア映画のフィルムも多くが焼却されてしまう。

現存するフィルムは30本ほどと見られており、テイ・リム・クゥン監督は、命からがら、自作のフィルムとともに、粛清を逃れたという。
その後長い間、自らのフィルムの存在を明かさずにきた。

当時カンボジアで何が起きてたのかは、1984年の映画『キリング・フィールド』に描かれている。
この上映の前に舞台挨拶に娘とともに登壇した、すでに高齢のテイ・リム・クゥン監督が、

「こうして国際映画祭の場で上映されることで、世界の映画史の中に、
カンボジア映画が確かに存在したことの証になる」
と語って、その胸中を察すると胸が痛む思いがした。

この『怪奇ヘビ男』のような、極彩色の娯楽パラダイスみたいな映画が作られてた国を、地獄のような光景が覆い尽くすことになるなんて、当時の国民には想像もつかなかっただろう。

そんな思いに耽りつつも、映画が始まると、ポル・ポトの禍々しい記憶など払拭してしまう、能天気パワーが画面から放出されるのだ。


貧しい村に暮らすセテイは、働きもせず、酒かっくらって、機嫌が悪くなると暴力を振るう、ド最低な亭主に縛られている。
美人のセテイを、亭主は外に出さず、一日中、家の仕事でコキ使われ、一人娘を構う気力もない。

ある日、娘と森にタケノコを採りに行ったセテイは、掘ってる最中に鍬の先端の刃を、穴の中に落としてしまう。
するとその穴の中から巨大な蛇が姿を現した。
「ケンコン蛇」という大蛇で、ふつうに男の声でしゃべれるのだ。

セテイは「鍬の刃を返してください」と懇願する。
「返してもらえないと亭主に殴られます」
ケンコン蛇は「私の嫁になると約束すれば、刃を返そう」

ここでセテイが悩むのがすごい。どんだけ亭主が恐ろしいんだよ。
そしてなんと蛇の嫁になることを了承!

亭主が家を留守にするのを見計らい、娘が蛇の穴へ呼びに行く。
ケンコン蛇は夜這いの如く、セテイのもとに忍びこみ、体を絡みつかせる。

女と蛇がまぐわう描写はさすがにないが、その後のナレーションで、セテイは、雑な亭主のセックスよりも、ケンコン蛇のヌラヌラとうごめく体つかいに、すっかりメロメロになってしまったそうな。

だがその夜這いに亭主が気づいた。
妊娠したセテイの相手が蛇だと知り、亭主はケンコン蛇をおびき寄せて殺した。

そしてその肉をスープにして、無理矢理セテイに食わせた。
いよいよセテイの腹が膨らんだ時、亭主はその腹を裂くと、中から無数の蛇の子供が溢れ出て来た。

ここまでで、全体の3分の1くらいだが、すでにお腹一杯なエグさである。
セテイの亭主がクソすぎる上に、別になんの罰も受けないで、その話は終わる。


ソリーヤーという、裕福な家の娘が出てくる。
彼女の父親は性格の悪い後妻を貰い、ソリーヤーはその継母から家を追い出されてしまう。
ソリーヤーはある日、水遊びをしていて、溺れそうになり、青年に救われる。
その青年こそ、セテイの腹から生まれ、ただ一匹だけ生き残った蛇が、人間の姿で成長した「ヘビ男」だった。
顔は森進一に似てる。

二人の道ならぬ恋は、歌謡映画のように、互いに唄いながら、育まれていくが、ここに怪しい魔女が登場する。
ソリーヤーの継母の息がかかってるんだが、その魔女は、青年が「ヘビ男」ではないかと感づいてる。

そして青年の「命玉」ともいえる、赤い宝石の指輪を盗む。
その指輪の力を悪用され、青年は蛇の姿を晒し、さらに最後は石となってしまう。


して唐突に8年後となる。
ソリーヤーは「ヘビ男」との間に子供をもうけており、その小さな一人娘と、なぜか洞窟の中で暮らしてる。
ソリーヤーはあの後、指輪を取り返そうとして、魔女から逆に呪いをかけられ、すっかり獣のように変わり果ててしまったのだ。

ソリーヤーを演じた女優は、ちょっと若尾文子に似た美人なのだが、この変貌してからの表情は怖い。
完全に正気を逸してるのだ。

そしてさらに凄いことになってるのが、小さな一人娘だ。

なんとメデューサみたいに髪の毛が蛇!
レプリカを頭に乗っけてるんだが、何匹か本物の蛇が頭でのたくってる。
それを踏まえた上で、娘役の少女が演技をしてる。

蛇が頭に乗ってるんだよ。それだけでほぼ世界中の少女はNG出すだろ。
だがこのカンボジア少女は、そんなこと忘れてるかのような熱演を見せる。

少女はセキセイインコのヒナが巣から落ちて、動物に襲われそうな所を助けてやる。
蛇だから小鳥は好物なはずだが、心が優しいのだ。
セキセイインコの親はいたく感謝し、少女に魔女から指輪を取り戻す方法を、しゃべりまくって教えてくれる。
とにかくカンボジアでは、動物はしゃべって当然ということらしい。

魔女を洞窟におびき寄せる少女!
檻の中で狂ったままの母親!
状況を逐一報告してくれるインコ!
ズルズルと近づいてくる魔女!
キリキリと弓を引く少女!
とここまで盛り上げといて、魔女が仕留められるカットはなしという、
「このいけず!」な演出。

映画館の座席から思わずズリ落ちそうになったよ。

とにかく164分かけて、最後はヘビ乗っけた少女と、セキセイインコが持ってくという。
継母がどうなったのかとか、全然憶えてない。

このアシッド感はぜひとも一般公開されて、多くの人に体験してもらえるといいのに。
テイ・リム・クゥン監督、翌年に続編も作ってるそうで、フィルムがあるんなら見たいよなあ。

2012年10月31日

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TIFF2012・8日目『メイジーの知ったこと』 [東京国際映画祭2012]

東京国際映画祭2012

『メイジーの知ったこと』(コンペティション)

メイジーの瞳.jpg

今年の「TIFF」では偶然なのか、「母親としてどーなんだよ?」なキャラに出会う。
例えば『風水』や『あかぼし』など。
俺は未見だが韓国映画『未熟な犯罪者』の若い母親も相当難ありだったようだ。

この映画の主人公で7才の少女メイシーの母親を、ジュリアン・ムーアが演じてるんだが、まあこの母親もひどい。
父親の方はましなのかといえば、どっちもどっちで、これは「親バカ」ではなく「バカ親」の映画だった。

映画の展開を見てると、フランス映画にありそうな感覚なんだが、原作は「ねじの回転」で有名なヘンリー・ジェームズ。
100年以上前に書かれた小説のプロットを、現代ニューヨークに移し変えて、なんの違和感もない。


ニューヨークの高級アパートメントに暮らすメイジー。
母親スザンナはロックシンガーで、父親ビールは名うての美術商だ。

だが互いに忙しい上に、なんで結婚したのかわからない位に性格が合わないらしく、口喧嘩が絶えない。
メイジーは若く美人のベビーシッター、マーゴとの時間に、親に構ってもらえない淋しさを紛らわす。

ジュリアン・ムーアがロックシンガーってのも、凄いというか無茶というか、曲を聴いた感じでは、コートニー・ラヴあたりの線を出そうとしてるようだった。

この両親は離婚の協議に入ることになり、親権を争う裁判で、父親ビールが優勢な立場となる。
母親スザンナはそのことに苛立って、周りに当り散らす。
メイジーはそういう所も真近に見てる。


とりあえず10日間ずつ、互いの間でメイジーを引き取るということになるが、もともと女関係が緩いビールは、いつの間にかベビーシッターのマーゴを口説き落としてた。

父親の住まいに連れて行かれたメイジーは、ドアの向こうにマーゴが立ってたことに「なんで?」と思う。
ビールは親権を確実なものにしようと、マーゴと籍を入れてしまったのだ。

それを知って激怒したスザンナは、それならと、いつもアパートメントでパーティを開く時に呼んでいる、地元のバーテンダーのリンカーンに、気のある振りをして誘い、強引に結婚に及ぶ。

マーゴとリンカーンの若い二人は、どちらもメイジーのことを可愛がったが、否応なしに親権争いに巻き込まれたことには困惑を隠せない。

スザンナはマーゴを夫だけでなく娘も奪おうとする「泥棒猫」扱いして罵倒し、
ビールは「あんなバーテンに娘を任せられるか!」
と身分差別まるだしだ。
その両親のエゴしかない諍いの一部始終も、メイジーの幼い瞳は見つめてる。


このメイジーという女の子は、とても大人しい子で、親に向かって不満をぶつけるような物言いもない。
だけどな、こういう大人しい健気な子ほど、思春期になった時に、内に抱えててたストレスが爆発して、思いっきりグレたりするぞ。

互いにスザンナとビールにコケにされたような、若いマーゴとリンカーンは、間に挟まれたメイジーが不憫との思いもあり、一緒に過ごす時間が増えてくる。
互いの気持ちも近くなり、二人はメイジーの「代理親」になることを考え始めていく。


リンカーンを演じるアレキサンダー・スカルスガルドは、『メランコリア』『バトル・シップ』に続いて今年3本目という売れっ子ぶり。
彼の繊細さを感じさせる個性が、この役に合っていて、幼いメイジーがすぐに懐くのも納得できる。

メイジーを演じたオナタ・アプリールという少女は、オーディションで見出されたそうだが、もう全編出づっぱりで、親たちの愚かさを静かに見つめる瞳が切なくさせる。

過剰な演技をさせてないのがいい。

2012年10月30日

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TIFF2012・8日目『エヴリシング・オア・ナッシング 知られざる007誕生の物語』 [東京国際映画祭2012]

東京国際映画祭2012

『エヴリシング・オア・ナッシング 知られざる007誕生の物語』
(特別招待作品)

エブリシングオア3.jpg

もう既に有名なことなのか知らんが、冒頭のインタビューに出てくるクリストファー・リーが、イアン・フレミングの従弟だということを、俺は初めて知った。
そんなこともあって、『黄金銃を持つ男』の悪役スカラマンガへの起用となったのか。

シリーズ50周年記念の最新作『スカイフォール』の前評判も上々な、「007」シリーズを、作り手視点で振り返るドキュメンタリー。
長寿なだけでなく、興行的実績を上げ続けている稀有なシリーズにも、いろいろ紆余曲折あったのだな。


イアン・フレミングによる、ジェームズ・ボンド原作物の1作目は、『007/ドクター・ノオ』ではなく『カジノ・ロワイヤル』で、実はこの映画シリーズより先に、CBSテレビでドラマ化されており、そのフッテージがチラと見れるが、お粗末なシロモノだったようだ。

映画「007」シリーズの生みの親である、ハリー・サルツマンとアルバート・R・ブロッコリのコンビは、『カジノ・ロワイヤル』の映画化権は持っておらず、1967年の映画版は二人が設立した「イオン・プロ」の製作ではない。

この1967年版は、イアン・フレミングの原作を基にしながら、「007」のパロディに換骨堕胎した「お遊び映画」といえるもので、イオン・プロは権利を巡る泥沼の法廷闘争を経て、2008年に晴れて、新生ボンドとなるダニエル・クレイグを立て、本来の『カジノ・ロワイヤル』を完成させた。

洗練よりも野性の凄みを感じさせた、ダニエル・クレイグによるジェームズ・ボンド像は、原作第1作目のテイストを踏襲してるという。


イオン・プロが権利を持ってなかったもう1本の原作が『ネバーセイ・ネバーアゲイン』で、この2作の映画化権を持っていたのはケヴィン・マクローリーという脚本家だった。

イオン・プロとマクローリーは、度々訴訟を起こしあう因縁の関係となっており、アルバート・R・ブロッコリの娘で、5代目ボンドのピアース・ブロズナンによる『ゴールデン・アイ』以降の、「007」シリーズの指揮を執るバーバラ・ブロッコリなどは、インタビューで、「マクローリーこそ諸悪の根源」みたいな発言をしてる。

1983年の『ネバーセイ・ネバーアゲイン』では、「イオン・プロ」のサルツマンが見出した、初代ボンドのショーン・コネリーを、マクローリー側が引っ張り出してくるという、皮肉な状況がおきた。
印象としては「ジェームズ・ボンドが戻ってきた」と思わせるに十分だが、あのテーマ曲を始め、映画「007」のトレードマーク的な要素は、当然使うことができない。

なので「ジェームズ・ボンド」であって「007」ではない、みたいな微妙な映画に出来上がってしまったわけだ。

この強引ともとれる映画化に怒ったアルバート・R・ブロッコリは、叩き潰す勢いを持って、同時期に
『オクトパシー』を製作。
その年の世界興収では勝利し、本家の面目を保ったが、気合入れて作ったわりには『オクトパシー』も、あまり褒められたもんじゃなかったと思うが。


なぜショーン・コネリーが再び(というか正確には三度だが)ジェームズ・ボンドを演じるつもりになったのか?
それはどうも『ダイヤモンドは永遠に』を巡る遺恨があるようだ。

2代目ジョージ・レーゼンビー起用が失敗に終わったサルツマンとブロッコリは、イメージが固まるのを嫌って、ボンド役はもう演らないと表明していたショーン・コネリーに、無理を押してカムバックさせた。

だが現場ではコネリーはやる気を見せず、もともと『007/ドクター・ノオ』で、原作者フレミングから
「田舎もんのスコットランド人がボンドとはあり得ない」
と言われながら、その起用を貫き、コネリーを一躍スターに導いた恩人でもある、ハリー・サルツマンとの関係も険悪になってしまう。

その一件があって、コネリーは「イオン・プロ」へのあてつけのように、『ネバーセイ・ネバーアゲイン』に出たのだろうか?


だが別の見方もできる。ハリー・サルツマンは、「007」シリーズを製作していく過程で、アルバート・R・ブロッコリと、シリーズの方向性を巡って意見が合わなくなっていた。

それとともに「007」シリーズも興収が上がらなくなり、3代目のロジャー・ムーア起用も当初は効を奏しなかった。
ハリー・サルツマンは『黄金銃を持つ男』を最後に、盟友ブロッコリと袂を分かつことになる。

ショーン・コネリーとしたら、恩師のサルツマンが「イオン・プロ」から離れたことで、後ろめたさも無くなったのではないか?
そのあたりの真相はわからない。


このドキュメンタリーでは歴代のボンド役者もインタビューに応えてるが、唯一ショーン・コネリーだけは出てこないからだ。

2代目のジョージ・レーゼンビーは白髪でテロップが出ないと、本人と判らない印象の変わりようだったが、彼が『女王陛下の007』の1作で降板となった後に、今に至るまでずっと
「ジェームズ・ボンドを演じ切れなかった」
という思いを抱き続けてるというのは、ちょっと切なかった。
映画としては『ダイヤモンドは永遠に』などより、よっぽど面白く出来てたんだが。

エブリシングオア2.jpg

3代目ロジャー・ムーアはもうお爺さんだが、無理もない。
「007」に起用された時点で46才で、今年82才だもの。

3代目となって、ボンドにはユーモアが加味されたと感じるが、それはこの役者の人柄に負う所が大きいのだろう。
『黄金銃を持つ男』で、ボートから少年を川に突き落とす場面が映されるが
「あれは最悪だった。ユニセフ親善大使がやることじゃない」
という本人のコメントに、場内爆笑だったよ。

ロジャー・ムーア版6作目となる『ユア・アイズ・オンリー』の、完成披露パーティの席で、アルバート・R・ブロッコリと、袂を分けたハリー・サルツマンが再会し、握手を交わす和解の場面はよかった。

4代目のティモシー・ダルトンは、本人が「あのボンドの性格づけは、時代として早すぎた」
と語ってる。
当時の製作陣も、起用が失敗に終わったことを率直に認めていた。
たしかにダルトンの言葉通り、現在のダニエル・クレイグによるボンドに、一番性格づけが近いのは、4代目だと思う。

エブリシングオアナッシング.jpg

5代目ピアース・ブロズナンは、本来ならティモシー・ダルトンより先にボンド役に起用される筈だった。
彼は当時テレビ『レミントン・スティール』のスケジュールに縛られており、新シーズンはないだろうと見当つけて、4代目への襲名を待っていた。

だがテレビ局は直前に、新シーズンの製作を発表。ボンドは幻と消えた。
その時の落胆ぶりを露骨に語るブロズナンが可笑しい。

『ゴールデン・アイ』はシリーズ起死回生のヒットを飛ばし、ブロズナンは最もボンドに相応しいとの評価も得る。
そのブロズナンも4作目の『ダイ・アナザー・デイ』のマンガっぽさには呆れたようで、消えるアストンマーチンとか、スクリーンプロセス丸出しの津波サーフィン場面とか、「あれもねえ!」と本人も思いっきり失笑してるし。


そして6代目のダニエル・クレイグ起用発表時の、猛バッシングへと至る。
「金髪のボンドはあり得ない」とか。

だがシリーズ1作目に、原作者の反対を押して、ショーン・コネリー起用を成功させたように、ダニエル・クレイグはまさしく「新世紀のボンド」のイメージを確固たるものにした。

関係者の証言と、「007」のシーンのセリフをシンクロさせるなど、見せ方に工夫が凝らされており、ファン以外でも興味を引かれるドキュメンタリーになってる。

一般の劇場公開の予定はないそうで、近い将来「007」シリーズのブルーレイなんかに、特典映像として入れられたりするのかも。

2012年10月29日

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TIFF2012・8日目『モンスター・パニック』他 [東京国際映画祭2012]

東京国際映画祭2012

「審査委員長・特別オールナイト コーマン魂」

『レッドバロン』
『ピラニア』
『モンスター・パニック』



今年のTIFFの俺的メインイベントが、このオールナイト企画なのだ。

ロジャー・コーマンの、監督としての最後の映画になる1971年の戦争映画
『レッド・バロン』
ジョー・ダンテ監督の出世作となる『ピラニア』
そしてエログロ度において、このジャンルでも突出した傑作
『モンスター・パニック』の3本立て。

名画座全盛だった時代でも、浅草にしろ、三鷹にしろ、蒲田にしろ、この3本を番組に組んだ例はなかったんじゃないか?
『ピラニア』と『モンスター・パニック』の2本立てはあり得ただろうが、その当時にはすでに『レッドバロン』は名画座にはかからなくなってたと思う。

何れにしても、何十年ぶりかのスクリーン再体験。
取り壊しが決まった浅草中映とか、俺が昔あしげく通った名画座の記憶を喚起させるような、魅惑の3本立てだよ。

あの頃の名画座は、椅子もクッション利かない
音も悪い。プリントは劣化して、ノイズの雨が乗ってる。
そのフィルムはたまに切れて、つなぐまで待たされる。

そんな状態の中でも、別に観客は文句も云わず、座席に座ってたもんだ。
そんな環境でしか出会えなかったはずの、この3本の映画を、シネコンの快適な座席と音響と、なにより今回上映されたのは、ニュープリントと思しく、これらの作品の、初公開時なみのきれいな画質で再見できたのだ。

俺は『レッドバロン』以外の2本は、初公開時に映画館で見てる。
個人的には素晴らしい3本立てだと思ったが、ちょっとレアすぎるんではないか?という懸念もあった。
だが蓋を開けてみると、「TOHOシネマズ 六本木ヒルズ」で3番目のキャパである「スクリーン5」の265席の、ほぼ9割方が埋まってたんではないかな。
この盛況ぶりには驚いた。
それに来るのは男ばかりかと思ってたが、意外と女性のひとり客もちらほらと。

早朝4時半すぎに上映が終わり、大江戸線の六本木駅へ向ったが、どこぞのクラブかで、ハロウィンパーティでもやってたらしく、コスプレした若い男女で溢れ返ってた。
『時計じかけ…』のアレックスに扮した男二人づれがいて、「君たちわかってるねえ」とちょっと感心。
そこにいた若者たち全員が、ロジャー・コーマンなど知らないだろう。
でもこちらも心の中ではアゲアゲの夜を明かしてきてたのだ。

上映前に昨年に続いて、ロジャー・コーマン先生の登壇が実現。
今年はコンペの審査委員長だしね。
『レッドバロン』の時代背景や、リヒトホーフェンに関する予備知識を語ってくれた。
トークの時間は短くて、本来はこの3本の製作に関わる裏話的なものを期待してたが、そこはスルーだったのが残念。



『レッドバロン』

レッドバロン.jpg

第1次世界大戦で、「赤い男爵」と呼ばれ、敵国のパイロットたちに怖れられた、ドイツの撃墜王マンフレッド・フォン・リヒトホーフェンを描いた、ロジャー・コーマンが手がけた映画の中でも、バジェットの大きな戦争映画だ。

リヒトホーフェンを主役にした、2008年のドイツ映画『レッド・バロン』が、昨年日本でも公開され、俺は映画館に2度見に行った。
そのドイツ版が、複葉機による空中戦をほぼCGで再現してたのに対し、ロジャー・コーマン監督は、すべて実機を飛ばして撮影を敢行してる。
スクリーンバック合成のようなことも極力せずに、俳優たちを実際に複葉機に乗せて撮影したと、コーマン先生は云ってた。

「ちなみにこの映画は、その年のニューヨークタイムズが選ぶ、映画ベストテンにも選ばれたんだよ」
と、プチ自慢入れてくるのも忘れなかったが。


映画の冒頭から、複葉機による空中戦が、ふんだんに描かれていて、宮崎駿監督とかは大好きなんではないか。
内容としては、質実剛健な「男の戦争映画」という感じで、騎士道精神にこだわるリヒトホーフェン男爵と、きれいごとで戦争は戦えないという、近代戦との相克をシンプルに描き出している。

ただリヒトホーフェンの頑迷とも見える性格は、とっつきがいいとはいえず、それゆえ彼の性格描写と、空中戦が交互に描かれていく流れは、単調さも否めない。

ニューロティックな役柄を振られることが多いジョン・フィリップ・ロウとしては、この誇り高きドイツ軍人の役は、キャリアの代表作といってもいいだろう。

この1971年版が好きな人には、2008年のドイツ版はあまり評判はよくないようだ。
複葉機がCGだったりという他にも、リヒトホーフェンと彼が出会う年上の従軍看護士の女性との、メロドラマ的な要素が余計ということもあるのか。

俺としては2008年版は、冒頭の描き方に始まり、全体に流れるロマンティシズムは悪くないと感じたが。
なによりテーマ曲が、近年の戦争映画の中でもズバ抜けてカッコいいのだ。

「ロジャー・コーマン映画」というと、低予算のイメージだが、この『レッドバロン』は爆撃シーンでも、かなりの量の爆薬を炸裂させており、コーマン監督も油ののった年齢で撮ってるから、演出にも緩みがない。
広大な田園の上で繰り広げられる空中戦を、スクリーンで見られるのは爽快だ。




『ピラニア』

ピラニア.jpg

1978年のジョー・ダンテ監督作。
『グレムリン』大ヒットへの布石となる、アニマルパニックの快作。

アレクサンドル・アジャ監督によるリメイク版『ピラニア3D』も、エログロ強度が大幅にバージョンアップされていて、それはもう素晴らしかったが、あの阿鼻叫喚の「淡水浴」シーンの原型として、当時これを見た時は、けっこうショッキングではあった。

オリジナル版の脚本はジョン・セイルズで、ピラニアが軍による実験によって、攻撃力や環境適応能力をアップさせた、「殺人兵器」として人々を襲ういう着想よりも、もっと皮肉な人物描写をこめているのが、今回見直してみてわかった。


テキサスの山中で道に迷ったカップルが、金網に覆われた軍の研究施設を見つける。
廃墟となってるようで「立ち入り禁止」の札がかかる。
当然無視して入っていく。
すっかり夜なんで、ここに泊まってしまえと。

プールらしきものがあるんで泳ごうということになる。
だがそれはプールではなく殺人ピラニアを養殖してる水槽だった。
軍が研究を取り止めた後も、生物学者がひとり秘かに改良を続けてたのだ。

ピラニアの餌食になったカップルの親から、失踪人捜査の依頼が来て、女性捜査官マギーがやってくる。
地元に詳しい中年男ポールに協力を仰ぎ、二人は軍の研究所を見つける。
プールらしき場所の周辺に、カップルの衣類がある。
「溺れて沈んでるかも」
マギーはポールが止めるのも聞かずに、水槽の水を放水してしまう。

放水された水は、近くの川に流れ出す。もちろんピラニアも一緒に。
ポールは水槽の水を舐めて、塩分があると気づく。

生物学者は淡水魚のピラニアが、海でも生息できるように改良していた。
つまり川に放流されたピラニアは、海へ出て、そこからアメリカ中の河川へと遡っていくことになる。


まあそれに気づくのは後のことで、結局よく調べもせずに放水バルブを開いてしまったマギーによって、殺人ピラニアの惨劇が引き起こされるわけだ。

もちろん勝手に研究を続けてた生物学者も悪い。
だが施設には立ち入り禁止の札を立ててある。
そこに敢えて入り込んだカップルが、何に襲われようが、それは自己責任の範疇だ。

なのでこの殺戮パニックは、マギーという思慮に欠けた女による「人災」なのだ。

ピラニアを放水してしまったことを知り、マギーとポールは下流にあるキャンプ施設へ警告に急ぐ。
だが被害を食い止めるために八面六腑の活躍をするのは、地元の中年男ポールだ。
彼はダムの底にある毒薬パイプを開いて、水中のピラニアを全滅させようと、潜って作業中に、ピラニアたちに襲われ、全身を噛み付かれて瀕死の重傷を負うまでに。

マギーは怪我らしい怪我もせず、水遊びの客たちの大惨事を目のあたりにしても
「私が放水してしまいました」
と謝罪のひと言もない。
こんな無責任な主人公というのも珍しい。



『モンスター・パニック』

モンスター・パニック.jpg

1980年作で、コーマン先生によると『ピラニア』とともに、先生が設立した
「ニュー・ワールド・ピクチャーズ」の最初に手がけた映画とのこと。

初公開時にガラガラの映画館でこれを見たが、そのサービス精神の旺盛ぶりに、すっかりテンション上がったのを憶えてる。
そしてこのエログロ描写が、女性監督の手によるものと知って驚いたのだ。

そのバーバラ・ピータースという監督は、ロジャー・コーマン門下生で、この映画の前に数本「グラインドハウス」映画をコーマン先生の下で撮っている。
当時このジャンルで女性監督が撮るというのも珍しかったと思う。

ロジャー・コーマンという人は、そういう意味でも分け隔てなく、
「撮れそうな人間に撮らせる」という姿勢だったのだろう。

『ピラニア』よりキャスティングはメジャーとなっており、『地底王国』のダグ・マクルーア、リチャード・ハリスの嫁のアン・ターケルに、『コンバット!』のヴィック・モローだ。
いやこのジャンルとしては、これは十分メジャーなレベルなのだ。


鮭がほとんど獲れなくなって、不景気の波にさらされる漁港の町。
缶詰工場を誘致して町の活性化を図ろうとする漁港組合のボスと、環境破壊を懸念して誘致に反対する、ネイティブ・アメリカンの人々との間に、軋轢が起きるこの町を、得体の知れない怪物が襲い始める。

頭部は脳がむき出しとなっており、二足歩行できるが、海草に覆われた、その体はほとんど魚であり、足ヒレもある。
そんな半魚人モンスターはなぜ出現したのか?

缶詰工場のために養殖していた鮭に、特殊な成長ホルモン入りの餌を与えていて、その鮭を食べた魚の一種が突然変異を起こしたらしい。

それも一匹ではなくワサワサ出てくる。
特殊メイクの名手ロブ・ボッティン造形のモンスターのヌルヌル感が気色悪くてよい。

こいつは人間の男は迷わず惨殺、動物はそのまま食べて、女はというと生殖のために襲うのだ。
ビキニの女の子を、ちゃんと裸にひん剥いてる。
あんな手をして器用だな。

女の子は裸で襲われることになっており、女性監督の思いきりのよさに感服する。
交尾させられた女の子が、海岸の海草に包まれてるのを発見されるくだりもエグい。


折りしも町は年に一度の「サケ祭り」に沸いており、その会場にモンスターたちが乱入して、大パニックに。
次々と犠牲になる住民たち。
だがアメリカ人たちはやられてるばかりではない。

男たちが角材を手に手に、モンスターを囲むと、集団リンチ状態でフルボッコに。
まあモンスターもこれといった飛び道具もないんでね。多勢に無勢。

翌朝にはなんとか事態も沈静化したが、病院では瀕死の状態で運びこまれた、海岸の女の子が、早くも出産を迎えていた。
分娩医は急激に彼女の腹が膨張していくのに、思わず声を上げてしまう。
女の子は絶命し、その腹を突き破って、モンスターの胎児が現れる。

これは『エイリアン』の流用ではあるが。

のちに『エイリアン2』の音楽を担当することになるジェームズ・ホーナーが、この映画を手がけてる。
まだキャリアのごく初期で、2年後に『48時間』の音楽で脚光浴びることになるのだ。

この『モンスター・パニック』も、この手のジャンル映画特有の安っぽい音楽ではなく、若きホーナーがきっちりスコアを書いてるので、映画の緊張感も高められている。

低予算のジャンルムービーでも、手を抜いてない、ロジャー・コーマン・ブランド気合の一作となってる。
バーバラ・ピータースを起用した経緯とかが聞けるとよかったんだが。

2012年10月28日

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TIFF2012・7日目『サイド・バイ・サイド フィルムからデジタルシネマへ』 [東京国際映画祭2012]

東京国際映画祭2012

『サイド・バイ・サイド フィルムからデジタルシネマへ』(ワールドシネマ)

サイドバイサイド.jpg

主にハリウッド映画のクリエイターたちが、フィルムからデジタルへの移行を、どのように捉えているのか、キアヌ・リーヴスが聞き手となり、その証言を集めたドキュメンタリー。

その中で、フィルム撮影の現場では、主導権を握るのは監督ではなく、DP(撮影監督)だったという認識を、監督たちが抱いてたのは面白かった。
監督の中にシーンのイメージはあっても、それを技術的に映像にするのはDPであり、撮ったフィルムを現像し、ラッシュにかけるまで、その成否はDPが握ってる。

デジタル撮影となったことで、現場で撮った画を、すぐにチェックできるようになり、カメラの操作も簡易となったため、監督の裁量の幅が広がったと。


インタビューではスコセッシやフィンチャー、リンチ、ノーラン、フォン・トリアー、ルーカス、キャメロン、ソダーバーグといった有名監督たちが次々に出てくるが、むしろ人数的にもDPへのインタビューに時間が割かれてる。

ヴィットリオ・ストラーロやミヒャエル・バルハウスといった大御所から、近年注目を浴びるアンソニー・ドッド・マントルや、女性DPのリード・モラーノなど、彼らは概ね、フィルムへの愛着はあるものの、積極的にデジタルでの表現を模索していこうという姿勢だ。

アンソニードットマントル.jpg

ただ35mmのカメラを扱えるようになるには、技術の習得や経験、その技術が継承される環境が不可欠だが、デジタルカメラは、映画を撮りたいと思えば、誰にでも扱える。

映画を映画たらしめている、デッサン力や「風合い」といったものが、欠如した「映画と呼ばれる」作品が夥しい数生み出され続けてる、そんな冷ややかな視線も、フィルムを扱ってきたクリエイターたちの中にはあるようだ。



映画上映後に、映画監督の黒沢清監督と、撮影監督の栗田豊通によるトークショーが行なわれた。

黒沢は、DPへのインタビューはそれ自体が貴重としながらも、この作品に欠けてるものがあるとすれば、デジタルへの移行を、映画の観客はどう捉えてるのか?という視点だという。

一般的な観客は、映画館でかかってるものは、すべて「映画」だと認識してるんじゃないかと。
つまりフィルムで撮影されてようが、デジタルだろうが、その差異にどれだけの観客が気づくのか。

そしてこと日本においては、撮影現場の変化よりも、それを送り出す映画館のデジタル化というのが、ここ1年位で急激に進んでしまったことの方が問題だと。

レッドワンや、パナヴィジョン社の「ジェネシス」など、4Kのピクセルに到達したデジタルカメラの出現で、たしかに「ビデオの画」という先入観は払拭されつつある。

だが現場のクリエイターが、まだフィルムかデジタルかの選択肢に議論の余地がある段階で、早くも上映する環境では、フィルムをかけられなくなってるという事態が出来上がりつつある。
映画産業が自ら、芸術表現の幅を狭めているということに、黒沢は警鐘を鳴らす。

栗田は、フジフィルムのフィルム生産終了と、コダック社の倒産という事実が、デジタル化の時代を雄弁に示していると。
日本の撮影現場においては、デジタル撮影からデジタル編集がすでに主流で、ここ最近でフィルムで撮られてる作品は7本ほどという。
黒沢監督も、最後にフィルムで撮ったのが『トウキョウ・ソナタ』だった。


栗田はデジタルカメラは、映像表現を広げてくれるし、こういう転換期だからこそ、いま映画を作るとはどういうことなのか、自問する機会にもなるという。
デジタルだとラッシュを行なわなくとも、その場で画がチェックできる。

だが栗田が撮影監督として携わったロバート・アルトマンや、アラン・ルドルフといった監督たちは、「デイリー」と呼ばれる、毎日のラッシュ上映を、慣習としていた。

現場のスタッフたちが、部屋に集まって、ビール片手にラッシュを眺めて、意見を言い合う。
そういう行為も映画を作る現場ならではの楽しさであり、スタッフたちの意思疎通の場にもなってたと。
フィルムからデジタルへという、単に技術的な側面だけでなく、映画を作る場の雰囲気にも変革が起こるだろうと。

それはスタッフだけでなく、役を演じる俳優にも影響を与える。
フィルム撮影では、NGを出せば、その分のフィルムが無駄になり、またセッティングに時間も取られるから、俳優も演技への緊張感が高まる。

デジタルだとNGを出しても、データが書き換わるだけだから、無駄も出ないし、時間もかからない。
リラックスして演技に臨めるが、張り詰めた状態だからこそ発揮されるものもある。

ジョン・マルコヴィッチは、舞台出身の役者にとっては、演技を寸断されずに、すぐ続きに取り掛かれるデジタルの方がいいという。


黒沢と栗田がこのドキュメンタリーを見ていて、ともに反応してたのが、ハリウッド映画の製作現場における「カラリスト」という役割だ。

フィルムの場合であれば、現像技師にあたり、映画の最終的な色彩調整を担ってる。
その調整は本来であれば、撮影監督と技師の間で、細かいやり取りを通じてなされるのだが、このドキュメンタリーに出てきたカラリストは、パソコンでの編集の段階で、デジタルで色調整を施していく。
そこに監督や撮影監督が介在してないように見える。

映画のトーンを決めるのは、色彩調整であって、その一番重要な部分を、カラリストが自分の判断で行なってるように見えるのが、黒沢監督には衝撃だったと。

「これでいくと、将来監督は要らなくなるんじゃないか?」
そんな自虐なコメントが漏れた。


俺が特に映画館でのデジタル化の現状で、気になるのは、黒沢監督がいみじくも云った、
「映画館で上映されてるものは、すべて映画と思ってるんじゃないか?」
ということに関するもの。

「映画」とはここではフィルム素材によるものということだが、デジタルでのアウトプットが可能になり、素材のまちまちな物が、さも一緒のように映画館でかけられてる。

映画館のHPなどでは一応表記はされてるが、ブルーレイ上映や、DVD上映が混ざってる。
ブルーレイがきれいだとはいっても、スクリーンにかけると、色彩の明度が足りないのは一目瞭然。
これがDVD-CAMが素材ともなれば、輪郭はギザってるし、絵自体もぼやけた感じになるし、とてもDLP上映と同じクオリティとは云えない。

だが映画館及び配給会社側は、明らかに見た目が落ちる「商品」にも、同じ料金を請求してくる。
この変換期における、どさくさに紛れた商売の仕方が気に入らない。


それは一方でデジタルで安価に映画が作れるようになり、映画と呼べないようなシロモノも、いろんな事情で映画館にかけられるようになり、映画そのものが「軽く」なってしまったとも云える。

映画の送り手たちの中には、今の若い世代は、タブレット端末で映画を見ることに抵抗もない。
なのでスクリーンに映される映像のクオリティなんてものには関心を払わないのだ、という意識があるのだろう。
スクリーンに映ってる薄ぼけたモンを見に、金を払ってるわけじゃないんだが。

それにデジタル上映機材を導入するには、決して安くはない金がかかり、小さな経営規模のミニシアターが苦境に立ってるという。

映画産業にとって、観客に映画を届ける映画館が、これだけ困窮してるのに、例えば負担の少ない条件で、上映機材をリースするとか、なんかバックアップのしようがあるだろう。
デジタルに移行するもしないも、自己責任みたいなスタンスは、冷酷じゃないかね。

2012年10月26日

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TIFF2012・6日目『ゴミ地球の代償』他 [東京国際映画祭2012]

東京国際映画祭2012

『レイモン・ドゥパルドンのフランス日記』
『ゴミ地球の代償』



『レイモン・ドゥパルドンのフランス日記』(ワールドシネマ)

レイモンドゥパルドン.jpg

フランスの写真家であり、映像作家でもあるこの人のことを知らずに見た。
彼の映像作品としては、『アフリカ、痛みはいかがですか?』と『モダンライフ』は、日本でも紹介されてるが、見ていない。
だがこれを見終わった時には、今年70才になる、この爺さんのことが、すっかり好きになってしまった。

この作品は現在のドゥパルドンの、写真家としての活動と、彼が過去に残してきた膨大な報道フィルムや写真などを、整理・再構築して、その足跡を辿るという構成になってる。

その素材をつなぎ合わせてく作業を、1986年に録音技師としてドゥパルドンに雇われ、以来公私ともに「一心同体」のパートナーとなるクローディーヌ・ヌーガレが担当。
彼女はナレーションも務めている。

いわゆる名のある人物の足跡を辿る、他のドキュメンタリーと感触が異なるのは、
「妻が夫のことを語る」ところに拠る。

キャリアを振り返って、それを賞賛するという、ありがちなトーンではなく、
「亭主のことなんですけどね」
という、身近な人間を語る心おきなさが、現在はひとり車で被写体を探して、フランス東部を巡ってる、ドゥパルドンから滲み出る人柄と相まって、肩肘張らない雰囲気を作品に与えている。

ドゥパルドンは報道写真家のキャリアは終えて、懐かしい風情のある建物などを車で探して、写真に収める。
彼のツボにはまるのは、1950年代から60年代の趣を残す、タバコ屋な、農場や、食料品店など、市井にあるものだ。
「ビューカメラ」と呼ばれる、昔かたぎの写真屋にある、記念写真撮るようなカメラね、あれを車に積んでるのだ。
セッティングにいちいち手間がかかるが、
「これはエクササイズみたいなもんだよ」と。
「常に光に目を凝らすこと」

だが被写体を写す時に
「待ちすぎると、実物以上の写真になってしまう」
「美しすぎるのは危険なんだよ」

これは含蓄のある言葉だなあ。
俺は別に写真もやらなきゃ、映像も作らないが、言葉の意味が腑に落ちる。
映画でも、カメラはやたらに美しいのに、一向に伝わってくるものがない、そんな映画って、けっこうあるからね。

三脚立てて撮影に臨んでも、きっきりなしに車が行きかう。
「車さえなければ、フランスは最高の国なんだが」
そういう自分も車を運転しながら、被写体探してるんだけどね。そういう旅の最中に
「いまどこにいる?」とケータイで尋ねられても困るという。

「どこ走ってるのかわからないんだよ」
「この車がカプセルで、周りは宇宙なんだ」
「いつもどこかの軌道上にいるってことだ」

この飄々とした爺さんが、若い頃から、世界各地の紛争地帯に出向き、その最前線にカメラを持ち込んでることが、過去の素材からわかってくる。


1963年のベネズエラ内戦に始まり、中央アフリカ共和国、イエメンから、『ブラックホーク・ダウン』の舞台となった、ソマリア、モガディシオに至るまで。

1969年のチェコ、プラハでもドゥパルドンは、民衆の中でカメラを回していた。
ソ連が主導する「ワルシャワ条約機構軍」の戦車隊が、プラハの町を占拠し、「プラハの春」と呼ばれた民主化を力で押さえつけた、「チェコ事件」の現場だ。

アフリカの砂漠を愛したというドゥパルドンは、1975年チャドで、ある事件の当事者となる。
彼が密着取材を続けていたツブ族のゲリラが、現地を訪れていた女性考古学者クロストルを誘拐・監禁する。
ドゥパルドンは、ツブ族と粘り強く交渉を重ね、監禁中のクロストルへの取材を行う。
彼女は「私を助けようとしない人たちへの怒りを抑えて過ごしている」
と涙を浮かべ、その映像はフランスのテレビで放映された。

国民の間でその事件は騒然とした話題となり、時の大統領ジスカール・デスタンは、政府批判ととれる内容に激怒。
帰国したドゥパルドンは直ちに逮捕される。
デスタンは「同胞を見捨てて帰ってきた」と禁固刑に処した。
その3年後にクロストルは解放されている。

紛争の場だけでなく、彼は写真ジャーナリスト集団「ガンマ」を設立し、精力的に取材の場を広げていった。
1970年代の、劣悪な環境下にあった、イタリアの精神病院を取材したフィルムは、フレデリック・ワイズマンの『チチカット・フォーリーズ』を思わせる。
ドゥパルドンはその後もパリの精神病院などを取材している。

一方で、ドゥパルドンのカメラは町に出ると、かならず女性を追っている。
女性たちが美しいと思うからだ。

硬派一辺倒ではない、男の愛嬌を感じさせるのがいい。
ドキュメンタリーなんだけど、風通しのいい部屋にいるような、そんな心地よさを感じる映画だった。



『ゴミ地球の代償』(naturalTIFF)

ゴミ地球の代償.jpg

一人暮らしだし、自炊しますわね。
スーパーで食材買ってきて、料理し終わって、毎回いやになるくらい出るのが、プラスティック容器のゴミなのだ。
ほぼすべての食材がラッピングされて売ってるし、そのラップの残骸と一緒に、ドサッと捨てることになる。

このドキュメンタリーの中では、廃棄される膨大なプラスティックが、処理の過程でダイオキシンを発生させる、それがもたらす戦慄的な光景を、検証しながら語っていく。

レバノンの地中海沿いに延々とそびえるゴミの山の中に、俳優ジェレミー・アイアンズが佇む冒頭場面からインパクトがある。

ここでは1975年以降にゴミの投棄がはじまり、有害な廃棄物の周辺土壌や、海洋への流出が深刻になってる。
投棄されたゴミは、海を漂って地中海沿岸の国々へと流れ着いている。
イタリア・トルコ・ギリシャ・エジプトなど、それらの国々は懸念を表明してるが、レバノンのゴミの山は減る兆しがないという。

俳優活動の傍ら、早くからゴミ問題に強い関心を持ち続けてきたという、ジェレミー・アイアンズが、この『ゴミ地球の代償』の製作総指揮を務め、自ら世界各地のゴミ処理施設や、ゴミ投棄・埋め立ての現場に足を運び、周辺住民の声に耳を傾けている。

ハリウッドスターでも、エコに関心が強いという人はいるが、実際にゴミの山にまで出向いて、その現状をフィールドワークしようという人は他にいないんじゃないか?
身を固めて取材に臨むとはいえ、どんなアクシデントで、ゴミから感染したりというリスクは、ゼロとはいえない。

俺は昔から彼の声のファンでもあるんで、きっとナレーションも自分で行ってるだろうと思い、これを見ようと決めてたのだ。
予想通り、ナレーションも彼によるものだった。


レバノンから、欧州最大のゴミの埋め立て地がある、イギリス、ヨークシャーや、グロスターシャーの、有害ゴミ処理施設、フィンランドのイーサフィヨルズォルの町など、世界中どこの国でも、等しく大量のゴミに囲まれて暮らす生活がある。

ダイオキシンなど、ゴミから発生する有害物質が、人体にどんな影響を与えるのか、そのこと事態を取材したドキュメンタリーは、テレビでも流されてはいるし、目新しいものではない。

だがベトナム戦争下で、アメリカ軍がジャングル地帯に投下した「枯葉剤」の影響によって、今でも奇形児が生まれているという、そういう子供だけを収容する施設への取材では、目の当たりにする光景に気持ちがすくむ思いがする。

顔そのものの形状が失われてる子供もいる。
目のあるべき部分はただ窪んでいて、口だけがはっきりと認識できる。

ダイオキシンが人間の体に取り込まれると、それが完全に消えるまでには「6世代」を経なければならないと学者は言う。見ていて暗澹となってくる。

ヴァンゲリスの音楽が黙示録的な色彩を帯びて流れている。
ヴァンゲリスは以前から、ネイチャー・ドキュメンタリー系の音楽を担っていて、脚光浴びた1981年の『炎のランナー』からあよそ10年間に渡る、映画音楽の仕事は、あまり本意とするところではなかったようだ。

2012年10月25日

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TIFF2012・5日目『パーフェクト・ゲーム』他 [東京国際映画祭2012]

東京国際映画祭2012

『5月の後』
『インポッシブル』
『パーフェクト・ゲーム』



『5月の後』(ワールドシネマ)

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『カルロス』の5時間完全版が公開実現に至った、オリヴィエ・アサイヤス監督の最新作。
アサイヤス監督は俺より年上だが、1960年代後半の「学生運動の季節」には、間に合わなかった世代にあたる。
フランスにおいて、学生運動の高まりがピークに達した1968年の「5月革命」から遅れること3年の、1971年に、政治活動に傾倒した高校生たちの日々と、その後の人生を描いている。

最初は主人公たちがキャンパスで私服でいるし、演じてる役者たちが十代に見えないこともあり、政治活動をしてるのが高校生だという設定に面食らった。

妙な言い方だが「さすがフランス」というのか。
日本では学生運動は、大学生が主導するものという概念があり、理屈で育つフランス人は、十代半ばでも社会意識が芽生えるもんなのかと。

アサイヤス監督は「乗り遅れてしまった世代」の、ある種の引け目めいた心情を、率直に映画に焼き付けようとする。
映画の中で、警備員に大怪我を負わせて、イタリアに逃げていた高校生のジルが、戻ってきたパリで、仲間のひとりから
「お前はしょせん傍観者だ」
と云われる場面がある。

この映画を見ていて連想するのは、山下敦弘監督の『マイ・バック・ページ』だ。
あの映画も1971年に、革命家を標榜する青年が起こした事件と、その青年と関わった同年代の週刊誌記者の苦渋を描いていた。

原作者の映画評論家でもある川本三郎が、自身を投影した週刊誌記者像というのは、当時学生運動とは距離を置き、当事者として立てないコンプレックスから、パラノイアでしかなかった革命青年に思い入れてしまっ悔恨が核となってた。
彼の中にも「傍観者」のそしりを免れないという気持ちが常にあったのでは?

当事者よりずっと下の世代である山下敦弘監督が、イデオロギーから離れた視線で、あの時代の青春を追体験するように描いた『マイ・バック・ページ』と、この『5月の後』の、熱い季節の残り香をかぐような青春映画としてのテイストに、同じような屈折を感じもした。

これは70年代世代の特有な心情ではないかと思う。
自分の兄貴たちが過ごした激動の季節が過ぎ去り、社会意識に目覚めるような頃には、もう何もなかったような「白々とした」空気が漂ってたのだ、あの頃は。


この『5月の後』は、高校生のジルが、反体制色の強い新聞を作り、デモに参加して警官隊に追われ、深夜の校舎に忍び込んで、壁一面にメーセッジをスプレーしたりという、その行動をきびきびと、躍動感が溢れるカメラで切り取っていく。

ジルがガールフレンドとつかの間、気を休める森の瑞々しい緑の描写など、映画を鼓動させるアサイヤス監督の演出が素晴らしい。

高校を出た後に、仲間たちは別々の道筋を辿る。
社会的メッセージを掲げたドキュメンタリーを製作し、自らの信条にブレを見せない同級生のクリスティーヌに対し、ジルは少しずつズレていく。
リエイターを志す仲間たちの中で、ジルも映画製作の道に入るが、その現場は、ナチと怪獣が出てくるSF映画だった。
ジルの過去を振り払えないようなグズグズ感は、俺はわかる。

高校生のジルとガールフレンドが、映画館に行く場面で上映されてるのは、
このブログの「午後十時の映画祭」70年代編で選んだ
『愛とさすらいの青春 ジョー・ヒル』だった。
労働者たちに団結を促す歌を唄ってる場面だ。



『インポッシブル』(ワールドシネマ)

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昨年3月11日の「東日本大震災」の直後、公開中だったイーストウッド監督の『ヒアアフター』が、急遽公開取り止めとなった。
冒頭の津波の場面があまりに生々しいという理由からだ。

1年が経ったが、今年の「TIFF」で上映された、この『インポッシブル』の津波の場面は、さらに凄まじい。

2004年の12月26日に、インドネシア、スマトラ島沖で発生した巨大地震による、大津波に呑まれた、島のリゾート客のある一家を描いた、実話の映画化だ。
モデルとなったスペイン人一家を白人に置き換え、ユアン・マクレガーとナオミ・ワッツが夫婦を演じてる。


男の子3兄弟を連れて、ホテルのプールで遊ぶ、その最中に前ぶれもなく、海岸を津波が襲い、あっという間に家族は散り散りになる。

この冒頭数分後の津波の描写は、1年経ってはいても、やはり一般公開するのは躊躇するだろう。
この場面だけで、セットも含めて1年をかけたという製作陣の言葉が誇張には思えない。

どうやってあの濁流のスケールを再現したのか?
数年前に韓国映画が、CGを多用して描いた『TSUNAMI』というパニック映画が公開されたが、あんなものじゃない。


濁流の中で、ナオミ・ワッツ演じる母親マリアと、10才くらいの長男ルーカスが、互いの姿を目撃する。
カメラは二人のほぼ顔の高さに合わされ、見る者も濁流に流されてる感覚に陥る。
息が苦しくなるほどだ。
濁流が押し流すのは、もちろん波だけではない。
その地上にあったあらゆるものが、猛烈な勢いでなぎ倒され、流されてる。
それが容赦なく二人の体を直撃する。

ようやく同じ倒木に掴まり、無事を喜びあった母と息子だが、母親マリアの負った傷が、あまりに無残なことに、ルーカスは絶句する。
全身に傷を負ってるから、マリアは気づかないのだが、その後ろ足のふくらはぎの部分が、皮膚が肉ごと大きく剥がれて、ぶら下がってる。
生死を分かつサバイバルは、ここから始まったのだ。

小さな子供の叫び声に、マリアは助けに向おうとする。
ルーカスは「今そんなことはできない」と。
だが母親は頑として聞かない。
ルーカスたちに救い出されたのは、幼い男の子だった。
3人は大きな木の上に身を寄せ、男の子は疲弊するマリアの髪を撫でる。

もうこの場面あたりから、ユアン・マクレガー演じる父親ヘンリーが、離ればなれになった家族たちを探す過程にいたるまで、胸に迫るような描写の連続だ。

ナオミ・ワッツは最初だけ、いつものブロンドの美しい表情で出てくるが、あとは満身創痍のメイクと、死が迫る表情に終始する。
ナオミ・ワッツはこの役に体を張れる女優だと知った上でのキャスティングだったのだろう。

物語の中心は、その母親を支え続ける長男ルーカスにあって、演じるトム・ホランドという少年が素晴らしい。

前半の妥協のない描写が圧倒的なだけに、後半の「どれだけの幸運が積み重なったのか」と思えるような展開は、足早に事実が指し示す結果に突き進んだ印象を与える。

もちろん諦めることをしなかった、この家族の信念が生んだものではあるんだろうが、大多数の被害者は、愛する者を失ったまま、成す術もないのだ。
その残酷が、家族の幸運にかき消され兼ねない、そんな複雑な感情も去来する。


「3・11」が起きるまでは、それこそ70年代のパニック映画ブームに端を発し、日本人は客船が転覆したり、ロスが大地震に見舞われたり、超高層ビルが猛火に包まれたり、そういう光景にスリルや感動を求めて見てきたのだ。

「エメリッヒ映画」も、底が浅いとは云われながらも、なにかその破壊のカタストロフに魅入られる、そんな思いで映画館に詰め掛けた。

いま同じようにパニック映画を楽しむ心情にはならないだろう。
だがこの『インポッシブル』は、ジャンルでいえば「パニック映画」であり、災害に晒された人間たちの闘いを描いたドラマだ。

そしてセットの手のかけ方や、妥協のないサバイバル演出、役者の演技力に至るまで、このジャンルで最高の水準にあると思う。

以前であれば「泣けるパニック映画」の決定版として、堂々と宣伝を打っていただろう。
この映画の公開に踏み切れるかは、何とも云えないところだ。配給先も決まってないようだし。

キャストにはハリウッドスターを配してるが、製作クルーはスペイン人たちで占められてる。
自国の家族たちの実話だからだ。
監督のJ・A・バヨナは『永遠の子供たち』に続く2作目だが、その演出力には感服するしかない。



『パーフェクト・ゲーム』(アジアの風・中東パノラマ)

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韓国の「野球映画」だ。これを見ようと思ったのは、韓国映画がスポーツものを、どのくらいの見応えを持って描けるのか、ということに関心があったからだ。

というのも、翻って日本映画というのは、とにかくスポーツを描くのが下手だからだ。
いわゆる個人種目的なものはまだしも、球技がほんとに駄目。

野球映画でも『タッチ』とか『ルーキーズ』とか、とにかく試合場面が盛り上がらない。
それは見せ場の前にさんざ「ため」を作ってしまうからだ。
競技としての流れが寸断されてしまい、作り手が大仰に盛り上げようとすればするほど醒めてくる。
結果ユーモアも足りなくなる。

スポーツ映画に欠かせないのは、アメリカ映画を見ればわかるが、迫力ある試合場面に、スッと笑いを放りこむ、そのバランス感覚なのだ。
それがスポーツの持つ、開放感につながっている。

韓国映画の持ち味を見てくると、スポーツものに向いてるんではないかなと、以前から思っていた。
試合場面はとにかくテンション上げて、臨場感で押し切ろうとするだろうし、ドロ臭いギャグも構わず放りこんできそうだし。
この映画はまさにそんな予想通りの仕上がりになってた。


ソン・ドンヨル(宣胴烈)という投手のことは俺も憶えてる。
ドラゴンズファンではないから、思い入れがあるわけじゃないが、90年代にドラゴンズのストッパーとして、その存在を示してた。球が速かったな。

そのソン・ドンヨルが日本に来る前、韓国プロ野球リーグで、ヘテ・タイガースのエースとして、右腕を唸らしていた時代の実話を描いている。

韓国では1982年にプロ野球リーグが設立され、彼はその萌芽期を飾るスターであり、エース投手だった。
その彼の先輩格でライバルと云われたのが、ロッテ・ジャイアンツの絶対的エース、チェ・ドンウォン(崔東原)だ。
両エースの投げ合いは、その登板試合が決まると、号外が出されるほどのイベントだったようだ。


二人は3度投げ合っていて、1勝1敗で臨んだ、1987年5月16日の、延長15回を二人で投げ抜いた死闘が、この映画のメインとなってる。
もちろん二人が主役だが、それぞれに因縁深いチームメイトにフォーカスを当ててるのが、いいアクセントになってる。

チェ・ドンウォンと、かつては同じ恩師のもとで、高校野球に励んでいた4番で一塁手のキムは、エースのプライドからチームの選手を見下すような態度をとるチェ・ドンウォンと、なにかにつけ衝突するようになる。

その反目から和解にいたるドラマもいいのだが、もう一方、ヘテ・タイガースで、ソン・ドンヨルの同僚でありながら、ブルペンキャッチャーの身に甘んじ、一度も1軍での試合出場がないという、パク・マンスのエピソードが泣かせる。
ソン・ドンヨルは彼のキャッチングの安定感を認めてはいた。

そのパクが、5月16日の試合で、総力戦となり、9回にはすべての代打を使い果たした監督から、グラウンドに出ろと言い渡される。

パーフェクトゲーム.jpg

9回2死、1点差で負けている、絶体絶命の状況で、アナウンサーも出て来た代打の選手を知らない。
だがパクはその打席で、相手のエース、チェ・ドンウォンから、起死回生の同点ホームランを打ち込む。

パク・マンスを演じたのは、今年見た『ミッドナイトFM』で、大ファンの女性DJを助けようとしてるのに、ストーカー扱いされる中年男を演じて、強い印象を残したマ・ドンソクだ。
この映画で出てきた時、ひと目でわかった。
このパク・マンスの見せ場が、俺としては胸熱最高地点だった。

チーム同士の選手や、ファン同士の衝突っぷりが、ベタなユーモアで描かれていて、だがそういうのが必要なのだ、このジャンルには。

終盤は韓国映画特有の、「盛って盛って」な描写がたたみ掛けられるんで、若干胸焼けは起こすが、まあそれも味のうちだし。

2012年10月24日

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TIFF2012・4日目『あかぼし』『恋の紫煙2』他 [東京国際映画祭2012]

東京国際映画祭2012

『あかぼし』
『恋の紫煙2』
『ライフライン』



『あかぼし』(日本映画・ある視点)

あかぼし.jpg

140分という上映時間に、ただならぬ気合を感じ、チケットを買った。
実際これは低予算のインディーズ映画ではあるが、濃密で、脚本のロジックもしっかりとした、ちょっと驚くべき一作だった。

吉野竜平監督はQ&Aの最後に「まだ配給先も決まってない」と言ってたが、これは公開しなきゃ駄目だろ。公開されれば、その年の日本映画ベストテンに名前が挙がるはずだ。

夫が蒸発してしまった日から、精神のバランスを崩した佳子。
その夫はしばらく経って、自殺体となって発見される。
息子で小学校(5年生位か)の保(たもつ)は、表情のない母親を見つめるしかない。

家事も手につかず、夕飯はレトルト、ハウスキーパーのパートでも、ミスを連発する。
ホームのベンチで座りこむ佳子に、
「あなた、苦しんでるのね?」
と労わるように声をかけてきた夫婦は、キリスト教の布教を行っていた。

堰を切ったように号泣する佳子。
その日から、宗教の力が、彼女の拠り所となった。


前日に見た中国映画『風水』も偶然にも、夫が自殺してる。
あの家の息子は、父親の自殺の原因が母親にあると思い、それから母親を拒絶していく。

この『あかぼし』の息子・保は対称的に、こわれていく母親に寄り添い続けようとする。
だから見てて切ない。

子供連れだと布教活動に効果が出ると言われ、佳子は保を連れて、住宅を回る。
次々に勧誘が成功し、夫婦からも褒められた佳子は、みるみる生気を取り戻していく。

母親の変化が不自然とは感じつつも、保は母親が元気になってくれるならと、友達とも遊ばず、布教訪問につきあう。
トロい同級生をイジメる側の一員だった保は、瞬く間にイジメられる側に立たされる。

佳子は自分が勧誘してきた主婦が、自分以上に勧誘実績を上げるようになり、苛立ちを募らせる。
結婚の報告に来た妹は
「仏教式のは、異教になるから止めて」
と佳子から言われ、姉がいつの間にか新興宗教にハマッてることを知り、愕然となる。
「目を覚まして!」
と言う妹に、佳子は逆上し、ついには絶縁を宣言する。
「あんた、サタンの手先なんでしょ?」

パートの仕事先でも同僚に勧誘を迫り、佳子は職も失う。
さらに拠り所である夫婦のもとでも問題を起こし、佳子は墓穴を掘り続けて、孤立無援に陥っていく。

布教を行う夫婦には、カノンという娘がいた。どう見てもロシア系で、夫婦が養子にしたと思われる。
カノンは中学生だったが、援交で小遣いを稼いでいた。

学校にも行かなくなった保は、ある日カノンから
「一緒に家出する?」と持ちかけられる。

あかぼし2.jpg

佳子を演じる朴璐美は声優として有名だそうだが、存知上げなかった。
これが映画初出演だが、圧巻のダメ母ぶりである。
『風水』の母親はまだ弁護の余地はあったが、この母親は、自らドツボにはまってくような精神構造しか持ち合わせてないのだ。

だから彼女ひとりにフォーカスしてたら、見る側もゲンナリさせられただろう。
終盤は息子の保とカノンに視点が移るんで、淀んだ空気が入れ替わるような効果があった。

保を演じる亜蓮という男の子は、オーディションで選ばれたそうだが、朴璐美の濃い演技に拮抗する眼差しを持っていて、感情表現も巧みだ。
監督の演技指導の賜物なのか、とても映画初出演と思えない。

カノンを演じたブラダという(おそらくロシア系)女の子は、金髪にセーラー服という必殺アイテムで、もう演技云々を超えている。

保が母親から執拗にダメ出しされる、勧誘の決まり文句が、あんな形でラストに繋がるとは。
その鮮やかさも、脚本が練られてるという証拠だ。




『恋の紫煙2』(アジアの風・中東パノラマ)

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この映画の前作は2010年の「TIFF」のこの部門で上映されてるが、チケットが速攻売り切れで、俺は見れなかった。
このパート2は、ショーン・ユーとミリアム・ヨンのカップルのその後を描いてるというんで、本来なら前作を見てなきゃ話にならないんだが、監督がパン・ホーチョンなので、見とくことにしたのだ。

なにしろ、血まみれ不動産バブル・ホラー『ドリーム・ホーム』を作った人だ。
あれは最高だった。

今回の映画も、冒頭に出てくるのは、別のカップルなのだ。
その二人を突如襲う悲劇には、『ファイナル・デスティネーション』かい!と、思わず腰が浮くほどビビった。やっぱりホラーでくるのか?と思ったが、それはつかみみたいなもんで、あとはロマコメモードに終始する。

前作でショーン・ユー演じるジーミンと、ミリアム・ヨン演じるチョンギウは、同棲する所で終わってるらしいが、その同棲生活が半年でピリオド打たれるというのが、今回の出だし。

香港に住む二人が、一度は別れるが、それぞれが仕事の都合で、北京へと移り住み、そこで再会。
互いに想いは残してるのに、互いに新しい「恋人」がいることを知る。
その4人の関係が描かれていく。

俺はカップルがくっついたり、はなれたりって話は興味はないんだが、パン・ホーチョンの演出は、ユーモアがふんだんに盛り込まれていて、飽きさせない。
それも子供っぽいドタバタではなく、大人のユーモアで楽しませてくれる。


ジーミンが北京に移住するフライトで、いきなり知り合ってしまう、若いCAのシャン・ヨウヨウを演じてるヤン・ミーという女優。
彼女この間見た『画皮 あやかしの恋2』で雀の妖魔を演じてた。

あの時は名前がわからなかったのだ。しかし可愛いね彼女。
例によって「誰かに似てるシリーズ」でいうと、65%の人が加藤夏希と答えるだろう。

ジーミンが若い彼女か元カノかと、優柔不断に決めかねてる、その理由が
「ピンクの乳首は手放し難い」って、率直にもほどがあるぞ。

ミリアム・ヨンの「どうせ私若くないし」という、自虐入った感じの苛立ちぶりもリアルで、彼女の表情演技が、この映画を支えてる部分は大きい。

イーキン・チェンや、俺は知らなかったが、かなり人気があるらしい、ホァン・シャオミンのゲスト出演には、香港映画ファンの女性客がどよめいていた。
ちゃんとエピソードに絡んで出てるのがいい。
1作目とセットで一般公開が実現すればいいのに。




『ライフライン』(アジアの風・中東パノラマ)

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演出にしろ、撮影にしろ、脚本にしろ、あらゆる面で「足りない」と感じた。

イラン北部の山岳地帯に囲まれた町で、多くの男たちが従事してる仕事が、送電線の鉄塔の組み立て作業。
男たちの中でもひときわ腕の立つサマンと、都会から戻って、作業チームに加わったエムラン。
二人は幼なじみでもあったが、絨毯屋の娘を巡るいさかいから、高い鉄塔の上でコンビを組む二人の男の間に、一触即発の緊張が漲る。

あらすじだけ聞けば、スリリングで面白くなりそうなもんだが、製作陣の取り組み方がぬるいんで、緊張も高まらない。
高所で作業してるんだから、まずはその危険さを画でわからせなければいけない。
この監督は『超高層プロフェッショナル』を見てないんだろう。
アメリカ映画だから見てなくて当然だけど。

撮影監督がリスクを冒してないんだよな。
鉄塔の上部から下を見下ろすようなカットがほとんどない。
下から仰ぎ見るカットか、作業員たちをバストショットで捉えるかしかない。
これが木村大作だったら、自らカメラ担いで鉄塔の上まで登って、絵を撮るはずだ。

たまに手を滑らせて、鉄骨を下に落としてしまうって描写があるくらいで、見ていて作業の怖さが伝わらないのだ。
サマンとエムランによる、決定的な事故の描写も、カットを割ってるんで、迫力もなし。

二人の男の板挟みになる、絨毯屋の娘も、セリフがあまりにも少ないんで、何を考えてるのか掴みとれない。
山岳部のロケーションは雄大でいいのだが、そこに送電線を這わせていくという、行為のダイナミズムがいまひとつだ。

鉄塔の組み立て作業というと、警戒しねければならないのは「雷」だと思うんだが、予算の都合なのか、雷の怖さを描く場面もなし。
その仕事はこの土地の男たちに代々伝わってるという、誇りを描いている部分はいいと思うのだが。

2012年10月23日

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TIFF2012・3日目『風水』『イエロー』他 [東京国際映画祭2012]

東京国際映画祭2012

『イエロー』
『目隠し』
『マリー・アントワネットに別れをつげて』
『風水』



『イエロー』(コンペティション)

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ジョン・カサヴェテスの息子ニックによる『こわれゆく女』と捉えてよかですか?という内容。
大量の精神安定剤を服用することで、現実世界との均衡を図ってる、代理教員メアリー。
彼女が不意に耽る妄想世界を、ミュージカル風、舞台劇風、ホラー映画風、あるいはデヴィッド・リンチ風の映像にこしらえながら、その綱渡りするような、不安定な内面を描写してく。

人と人の関わりを、飾り気ないタッチで見つめてきた従来の作風を、イメチェンした、ニック・カサヴェテス監督の意欲が感じられる。

一方で、メアリーの妹とのランチの場面は、ダーティ・ワードが飛び交うさまが、笑っちゃうほどに強烈。
妹を演じるシエナ・ミラーは、ちっともオーダーを取りに来ない店員にキレまくり
「ファック!」を連発。
それでは足りずに「ア●ル!」とまで。
「ファック!」って言葉はもう珍しくもないが、「ア●ル!」と叫んだハリウッド女優はシエナ・ミラーが初めてじゃないのか?
ちょっと言いにくい症状も持ってるんだが、とにかくこの怪演ぶりは一見の価値あり。
そこから姉妹喧嘩に発展する流れが最高だった。

メアリーの不安定な精神のオリジンは、疎遠となってる家族にあり、彼女は過去に決着をつけるべく、実家へと向う。
語り口に捕われない展開の面白さはあるものの、この監督は根が生真面目なんだろう、奔放なイメージの演出が、板についてるとは言い難い。

それでもビーチ・ボーイズの『素敵じゃないか』のウクレレアレンジが流れる、自転車暴走場面とか、エンディングに、トレイシー・ウルマンの『ゼイ・ドント・ノウ』がフルコーラス使われるとか、選曲と映像がハマってる。
『ゼイ・ドント・ノウ』はポップソング史上に残る名曲と思ってるんで、使われたのは嬉しい。




『目隠し』(アジアの風・中東パノラマ)

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インドネシアの監督ガリン・ヌグロホの映画は、TIFFにおいて、過去に何度も上映されてるというが、俺はこの作品で初めて見る。

インドネシアのイスラム原理主義組織をテーマにしていて、Q&Aに登壇した監督は、SNS上で殺害予告を受けたりしたという。
だがそんな事は国では日常茶飯事なので、もう慣れたと。
なんだか腹の括り方がちがう人のようだ。

映画は「NII」(インドネシア・イスラム国家)という名の、実在のイスラム原理主義組織が、若者たちをいかに組織にリクルートしていくのか、その過程を丹念に描いている。

榎本加奈子に似てる、可愛い女優が演じてるリマという少女は、主に少女たちをリクルートしてくる役割を担ってる。
彼女は直属の導師のような男の語る理念に心酔していて、献身的に組織の活動資金を集めてくる。
導師はその働きぶりを褒め、指導者の一人として推薦すると請け負う。

だがその面談の場で、上層部の人間から
「女性は指導者にはなれない」と告げられ、イスラムの男尊女卑の壁に絶望する。

あるいは年老いた母親と、貧民層の住む地区に暮らす青年アシマは、低賃金で学費が払えず、大学を除籍となり、その社会体制への失望感から、コーランの教えを説く男の、教義の解釈に傾倒していく。
インドネシアは国民の70%がイスラム教徒であり、国旗を掲げてない学校は、NIIが食い込んでるということだった。

センシティブなテーマを正面から扱っているが、テロ行為など、過激な行いに走る場面は描かれてない。
あくまで若者たちの貧困に対する不満や、社会を改革すべきという感情が、こういう組織につけ入る隙を与えてるという、インドネシアが抱える現実を炙り出してるのだ。




『マリー・アントワネットに別れをつげて』(特別招待作品)

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レア・セドゥを生で見れた。
舞台挨拶に登壇したのは、彼女と監督のブノワ・ジャコーだ。
レア・セドゥは新作撮影のため、髪をショートにしていて、遠目にも綺麗だった。

コスチューム・プレイには珍しい「女同士の愛憎劇」という、俺のフェイヴァリットなテーマなんで、一般公開まで待てずに見たのだ。

レア・セドゥ演じる、王妃の朗読係シドニーは、王妃に熱烈に心酔してるんだが、その王妃マリー・アントワネットには、ポリニャック夫人という強い絆で結ばれた存在があった。
王妃は彼女のことをファーストネームのガブリエルと呼んでた。

シドニーの心には嫉妬の炎が燃えさかるが、時はフランス革命勃発のただ中。
バスティーユ監獄を陥落させた民衆は、ヴェルサイユ宮殿へと迫っていた。
王制が打倒され、ギロチンリストには、王妃のほかにポリニャック夫人の名も。
王妃は覚悟を決めるが、ポリニャック夫人は死なせたくはない。

シドニーは王妃から呼び出された。
ポリニャック夫人を馬車でパリから逃がす際に、彼女には使用人の格好をさせ、シドニーには、ポリニャック夫人のドレスを身にまとい、身代わりになりなさいと。
それは恋焦がれた相手からの、非情な命令だった。

ブノワ・ジャコー監督は1995年の『シングル・ガール』で、ホテルのルームサービスとして働くヒロインが、妊娠を知り、恋人の逃げ腰に動揺しながら、仕事をこなしていく様子を、彼女に密着するようなカメラで捉えていた。

この新作でも、革命の火の手が、刻一刻と宮殿に迫りくる中で、揺れ動くシドニーの行動を、同じようにヒリヒリするような感覚で捉えている。

その『シングル・ガール』でデビューし、この映画でもポリニャック夫人を演じてるのが、ヴィルジニー・ルドワイアンだ。

睡眠薬を飲んで目覚めないという、ポリニャック夫人のもとを訪れたシドニーが、シーツをはいで、王妃から寵愛を受ける女の体を眺める場面はエロティックだ。
ここでヴィルジニーはフルヌードとなってるが、30代半ばになっても、まったく体のラインが崩れてない。

レア・セドゥも後の場面で、王妃の前で裸で着替えさせられて、フルヌードになってる。
脱いでないのは王妃を演じるダイアン・クルーガーだけだ。
実はこの彼女がミスキャストではないかと思った。

マリー・アントワネットは悲劇の王妃の印象が強く、運命に翻弄され、自分ではなにも成す術もなかった、その王妃としての儚げな感じが、ダイアン・クルーガーに似つかわしくない。

彼女は勿論美人だが、力強さが前に出てる個性を持ってるので、ポリニャック夫人を、心の拠り所にしなくてはいられないという風に見えないのだ。

それと、王妃がポリニャック夫人に別れを告げる場面で、二人が顔を寄せ合うのだが、ヴィルジニー・ルドワイアンが小顔なこともあり、顔の大きさがあからさまに違う。
そんな所も含めてのミスキャストかと。

レア・セドゥはコスチューム物でもいい。髪を上げてると顔の美しさが映える。
それと彼女の表情が含む「ふてぶてしさ」が、宮廷の女たちに対して、身分の出が違っても、引け目を見せない「ツッパリ」感として痛快に作用してる。




『風水』(コンペティション)

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コンペ出品作の場合は原則として、製作者や出演者による登壇・Q&Aが催されるんだが、これは中国映画ということで、ご他聞に漏れず、関係者の登壇はキャンセルとなった。
まあ来ても来なくても別にいい。
だがこの映画の場合は、主演女優のイエン・ビンイエンには来てほしかった。
彼女が素晴らしかったからだ。

まずこのヒロイン像が、よくこんな女を主人公にするよなという、性格に問題があるのに、自分では気づかずに、自業自得な状況に追いこまれてくというもので、だから「自業自得なだけ」と斬り捨てて終わることもできる。
でも共感を得られるような人物ばかり描くのが映画じゃない。

もとは自分が蒔いた種とはいえ、それを刈り取ることに悪戦苦闘しながら、ようやくなにか悟るに至る、そういう人物につきあうのも映画だと思う。

この共感の難しいヒロインに、それでも見てる側が辟易せずにいられるのは、イエン・ビンイエンの個性に拠るところが大きい。
例によって「誰かに似てるシリーズ」で言うと彼女は、愛嬌をそぎ落とした三浦理恵子という感じか。


この映画のヒロインのリー・バオリーはとにかく気が強い。
夫は工場務めで出世も近いが、性格は大人しい。
念願のアパートに引っ越す際にも、引越し屋にビタ一文余計には払わないという妻と、業者に気を遣う夫。
そんな夫を人前でリー・バオリーは激しくなじる。

夜の営みも夫は拒むようになり、アパートに越して早々に、夫は離婚を切り出した。
リー・バオリーには理由が自分の性格にあるなどと夢にも思ってない。

離婚を拒絶された夫は早く帰らなくなった。
工場の部下の女性社員と不倫関係となる。
妻の勘が働き、会社帰りの夫を尾行すると、不倫相手と安ホテルにしけこんだ。

リー・バオリーは怒りに任せ、警察にホテルで売春が行われてると通報する。
警察沙汰になったことで、夫は工場からリストラを宣告され、絶望して橋から身を投げた。
残された遺書には、小さな息子と母親に向けての言葉は書かれてたが、妻のことはひと言もなかった。

夫が同居させると連れてきていた義母とも、夫に懐いていた息子とも、リー・バオリーは心を通わすことができない。
だが夫がいなくなった今、自分が二人の面倒を見るしかない。

リー・バオリーは長く勤めていた商店を辞め、運べば運ぶだけ金になる「荷担ぎ」の仕事を始める。
彼女のような若い女のする仕事ではなかったが、10年経っても、彼女はまだ仕事を続けていた。
すべては、心を開いてはくれない息子が、一流大学に進学できるようにという一心だった。

リー・バオリーの親友は、彼女の悪運はあのアパートのせいだと言う。
「風水」から見て最悪の立地だと。題名はここから来てる。

持ち前のバイタリティで、悪運を振り切ろうとするリー・バオリーだが、息子との間に決定的な亀裂を生じさせる出来事が起こる。

性格に難ありではあっても、人生をその手で切り開いて行こうと踏ん張る女性像というのは、昔の日本映画に描かれてたように思う。
そういう懐かしさも感じさせる所が、彼女を憎めない理由にもなってるかも。

イエン・ビンイエンが、男の前で感情を爆発させて泣く場面があるんだが、その表情に胸を突かれた。
これは見てよかった。

2012年10月22日

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TIFF2012・2日目『スプリング・ブレイカーズ』他 [東京国際映画祭2012]

東京国際映画祭2021

『リアリティー』
『渾身 KON-SHIN』
『画皮 あやかしの恋2』
『スプリング・ブレイカーズ』



『リアリティー』(ワールドシネマ)

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2日目は最初に見た、これがまずもって傑作だった。
マッテオ・ガローネ監督が、あの殺伐感が半端なかった『ゴモラ』とまったく異なるトーンで描き出した社会風刺劇。

イタリア国中で大人気という、「リアリティ・ショー」に、家族の一員として出演するためのオーディションを受けた、ナポリの魚屋ルチアーノ。
口の上手さが幸いして、一次審査に通り、周りの住民の話題の的に。
だが一向に出演依頼の電話はかからず、ルチアーノは次第に他人の視線を気にするようになり、誰もが自分の素行を調査してると思い込む。

善人と認識されれば、出演も決まるはずと、町のホームレスたちに自宅の家裁道具をばら撒き始め、そのパラノイア症状は妻の手にも負えなくなってしまうという筋立て。

映画の中で印象的なのは、夕暮れの場面。
冒頭のアトラクション施設が併設されたホテルでの結婚式。
家族とともにオーディションの場所である、ローマのチネチッタ・スタジオに行く場面。
ルチアーノの妻が仕事のことで言い争いになる、アウトレットモールのような施設。
電話を待つ最中に出かけた海水浴場に作られた大きな滑り台。

夕暮れの場面はそれら「人工の空間」でカメラに収められてる。
それがなんとも言いようがない淋しさを、胸の中に植えつける。

「リアリティ・ショー」に出れば、有名になり金も得られる。
虚構のなかに囲まれて、それが自分の居場所であるかのように生活してる現代人の空虚さを、脚本だけでなく、風景としても語ってるのだ。

「フェリーニ的」かどうかは何とも言えないが、少なくとも男も女も「太っちょ」が沢山出てくるのは、似てるかも。
ラストの悲しさは『アメリカン・ビューティ』を思い起こさせもする。



『渾身 KON-SHIN』(特別招待作品)

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『RAILWAYS』の1作目ほか、一貫して島根を舞台に映画を撮り続けてる錦織良成監督が、隠岐諸島に伝わる「隠岐古典相撲」を題材にした、川上健一の小説『渾身』を、オール隠岐ロケで映画化。
20年に一度の大イベントである「遷宮相撲」に賭ける登場人物それぞれの思いを描いてる。

主役の青年には新人の青柳翔、相手役には伊藤歩という、正直地味なキャスト。
公開は年明けの1月12日だが、これは宣伝を上手く盛り上げていければ、来年早々日本映画のサプライズ的なヒットを飾る可能性を秘めてる。
顔も知られてないキャストのフランス映画『最強のふたり』が大ヒットしてるように。

一度は島を捨て、父親からも勘当された青年が、島に戻り、病死した妻との間の娘を育てながら、古典相撲の力士を目指して、再び島の人々に認められるまでの過程を軸に、ドラマを盛り立てるためなら、使えるもんはなんでも使うぞという、いい意味で、韓国映画のような貪欲さを感じさせる演出で見せる。

いわゆる「難病もの」なんかの、ウェットなテーマで泣かせるんではなく、土俵での取り組みをクライマックスにした、『ロッキー』的な熱血系の感動が味わえる。
そこに親と子、男と女の、不器用な心の通い合いを、丹念に拾い上げていく。

幼い娘を演じる井上華月という子役がおそろしく上手い。
芦田愛菜のような器用さではなく、素朴なのだが、笑ってた所から急に泣き出す、その感情の急変をまったく自然に演じてる。
亡くなった母親代わりに面倒を見る、伊藤歩との感情の通わせ方などは、女性客はほぼ泣くだろう。

正直セリフはあざとい部分もあるし、演出も定番を外さない凡庸さは感じるが、セリフの弱さを子役の演技がカバーしてる。

言葉をあまり発しない役柄の、高橋長英や隆大介に、ここぞというセリフを振ってるのも憎い。
上映後の拍手は一際大きかったな。

こういうテレビ局主導でもなく、メジャーな映画会社の制作でもない、ローカル発だが、作り手が手塩にかけたような映画がヒットするといい。



『画皮 あやかしの恋2』(東京・中国映画週間2012)

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とりあえず昨日の『独身男女』のような悲惨な字幕ではなかった。
しかし上映作品によって、字幕の出来がまちまちというのは、どういう事なのか?
統括して行ってる訳ではないのか。

中国本国では前作を大きく上回る興行成績を記録したという、シリーズ第2弾。
ドニー・イェンは出てないが、その他の主要キャストの3人、ヴィッキー・チャオとジョウ・シュンとチェン・クンは続投。
では話が繋がってるのかというと、そうではなく、前作のラストで、魔界の掟を破って、人間の生命を甦らせた妖狐の小唯を、そのままジョウ・シュンが演じ、時代は500年後となってるので、他の二人の役は当然ちがう。

小唯は罰として囚われていた凍結地獄から、脱け出すことに成功するが、追っ手が迫ってくる。
小唯の窮地を救ったのは、姫でありながら、勇猛と名高い靖公主だった。

彼女は昔、凶暴な熊に襲われ、顔に無残な傷跡を残した。顔半分を金の仮面で覆ってたので、女と判らなかったのだ。

小唯はその姫の心臓が氷も溶かすほどの強い熱を帯びていることに惹かれた。
その心臓を得ることで、小唯は妖狐から人間へ転生することができるのだ。
だがそれは力づくでは奪えない。相手が心臓を自ら差し出さなくてはならないのだ。

靖公主を演じるのがヴィッキー・チャオで、靖公主とかつては心を通じ合っていた将軍・霍心を演じるのがチェン・クンだ。

前作みたいな三角関係が展開されるかに見えて、今回はヴィッキー・チャオとジョウ・シュンが、女同士でイチャイチャしてる場面が多い。
はっきり「百合萌え」な映画になってたのは嬉しい。
なぜそうなるかといえば、小唯が心臓を得るために、靖公主をたぶらかそうとするからだ。

小唯の顔と、靖公主の心臓を交換する場面は、なぜか温泉の中で、裸で体を寄せ合ったりしてる。
前作よりヒットしたのはこれが要因か?

映画そのものは、そこ以外には見所に乏しい。
凶暴な熊とか、小唯が本来の姿を現す描写とか、CG丸出しで辛い
小唯の妹という、雀の妖怪を演じた女優が、日本のアイドルタレントみたいなルックスで可愛かったが、名前は知らない。



『スプリング・ブレイカーズ』(ワールドシネマ)

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1日も4本目となると、さすがに疲れもたまってくるもんだが、これはそんな条件下にうってつけの映画だった。
「六本木ヒルズ」最大スクリーン「7」の、画面いっぱいに炸裂するおっぱい(韻を踏んどるぞ)。
これで眠気が襲うなどありえない。
画面そのまま「眠眠打破」である。
21時からの上映だったが、満席に近い入りだったんではないか?

ハーモニー・コリンの映画は『ガンモ』とかあるけど、あんまり興味なかったのだ。
だがこれは凄いな、どんな確変だよ。
まず主役の女の子たちが、最初から最後まで、ほとんどビキニで通してる。
『ピカソ・トリガー』かと言うね。

「スプリング・ブレイク」といえば、アメリカの大学生の春休みシーズンの事だが、
『ピラニア3D』をはじめとして、過去には「おっぱい出して、ハメはずして男と楽しんでるようなビッチは地獄に堕ちろ!」と、非モテの学生時代を送ったにちがいない映画監督たちに、ホラーの格好の餌食として、その舞台が扱われてた。
だがこの映画では彼女たちを血祭りに上げるような殺人鬼は出てこない。

もう映画の前半は、ひたすらマイアミでハメはずしまくる女の子たちを、激しいビートで彩る、
「レイヴ映画」のようなノリ。

金髪三人娘のヴァネッサ・ハジェンズ、アシュリー・ベンソン、レイチェル・コリンに加わるのが、信心深いけど自分を変えたいとも思ってるセレナ・ゴメズ。
彼女はアイドルなんで、他の3人ほどはハメを外せず、最初にドロップアウトしちゃうけど。
なにしろ金髪3人は、マイアミ行きの旅費をレストラン強盗で稼ぐという気合の入り方だ。

映画半ばでジェームズ・フランコがデンジャラスに登場してからは、映画のトーンが変わる。
何度も呟かれる「永遠に終わらないスプリング・ブレイク」
という言葉が、映画の登場人物たちの、なにもない、空っぽで浮遊してる感じを象徴してる。

とにかく金髪ビッチな可愛さは他に敵なしの状態で、彼女たちの「プリティ・ベイカント」ぶりを崇めるように眺めてれば、90分弱があっという間だ。

23日(水)の21時半から、もう1回上映がある。当日券に並んでみる価値はある。

2012年10月21日

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