25才は命の曲がり角 [映画タ行]

『TIME/タイム』

img3423.jpg

人間の成長は25才でストップする。すべての人間の左腕には「ボディ・クロック」が刻まれていて、25才になった瞬間に、余命時間のカウントダウンが始まる。
余命を延ばすには通貨によって「時間」を買わなければならない。持つ者、持たざる者は生活区域が隔てられており、持たざる者たちの住む「スラム・ゾーン」での余命は平均23時間、持つ者の住む「富裕ゾーン」での余命はほぼエンドレス。まずはそういう設定があるわけだ。


ジャスティン・ティンバーレイク演じる「スラム・ゾーン」の住人ウィルは、ある夜酒場で、終わりなき人生に絶望し「富裕ゾーン」を抜け出してきたという男から、この世界のからくりを聞かされる。
そして116年という膨大な「ライフタイム」を譲り受ける。互いの左腕を接触させれば、時間のやりとりができるのだ。
その男は翌朝、橋から身を投げて果てた。
だがせっかく時間を譲り受けたのに、同じ頃、母親は通貨での更新が出来ずに、ウィルと待ち合わせる直前に命を落とす。
怒りと疑問がウィルを突き動かし、この世界のシステムを解明するために、「富裕ゾーン」への侵入を試みる。
時間を譲り受けた男に成りすまして。


星新一や筒井康隆のショートSFにありそうな設定だけど、そのディテールがザルなんだね。
「スラム・ゾーン」の人間に対して物価は日々上がっていき、何か買うにもすべて自分の左腕から「時間」を支払わなくてはならない。物価が上がるから、それに追いつくためには睡眠を削ってでも労働しなければならない。
道端にはこと切れた人間の死体が転がってる。
不思議なのは、なんで暴動のひとつも起きないのかってことだ。
「スラム・ゾーン」の人間たちの人生には、頑張って生きていくべき希望など何一つないのだ。どうせ25才で死ぬんなら、アナーキーになってもおかしくないだろ。

「富裕ゾーン」には「時間監視局員」というのがいる。世界の全ての人間の「ライフタイム」を厳しく監視してるということだが、大して人数いないんだよ局員。
局内には巨大なボードがあって、統括してる設定だろうが、映画の中で、局員のレオンが、ウィルを執拗に追いまわすことになるが、一人の叛乱者に、こんなに手間かかってちゃ、一斉に叛乱が起きた時どうすんだよ。
つまり一斉に蜂起すれば何とかなるような世界なんだよな。

ウィルは「富裕ゾーン」に侵入するが、その素性はレオンが嗅ぎ付けてた。ウィルは住人が遊び呆けてるカジノで出会った、大富豪の娘シルビアを人質にとって逃亡する。
ウィルは大富豪に娘の身代金を要求するが、大富豪は支払わない。
そりゃそうだろう。「富裕ゾーン」の人間たちは通貨で、いくらでも「ライフタイム」を延ばせるのだ。つまり「死」への畏れはない。自分が死なないとわかってたら、子孫を残す必要もないよな。
シルビアもセックスしたらできちゃった程度の存在だろう。

ディテールが詰められてないから、ふたりの逃亡劇も差し迫った感じにならない。アクション自体も目を見張るような描写もないしね。
監督は『ガタカ』の静謐なSF美がよかったアンドリュー・ニコルだが、随分と展開も描写も大雑把にはなってしまってる。
それでもこの映画が無視できないと思うのは、その身も蓋もなさだ。

これはSFではなく「今ってこういうことだろ」って映画なのだ。

「スラム・ゾーン」と「富裕ゾーン」は、現実の持つ者持たざる者の格差社会のデフォルメではあるが、映画の中では対立の構図になってない。
時間監視局員が追ってはくるが、「富裕ゾーン」の住人たちは、基本無関心だ。
「富裕ゾーン」の人間たちは、ほぼ不老不死を手に入れたようなもので、そうなると何か建設的なことをしようとか、そんな意欲もなくなる。危険を冒さず、遊んでればいいだけだ。
映画の中で、ウィルに時間を譲った男は
「肉体は長く生きることができても、精神が持たなくなる」
と言ってる。
「富裕ゾーン」の感情の失われたような世界は、医療によって、寿命を延ばされてるだけの老人たちを見るようでもある。


俺は最近父親のことで病院を訪れることも多いんだが、よくメディアに取り上げられるようになった「胃ろう」というものがある。自力で食べることができなくなった患者に、胃に直接穴を開け、チューブを通して栄養を入れるというやり方だ。
これは「延命治療」のひとつとして使われるものでもあるんだが、栄養は直に取れてるから、生命は維持できる。
だが意識が混濁してしまってたり、病状が回復の見込みが低い高齢者にとっては、そうやって「生かされ続ける」ことが、本人にも家族にも幸せなことなんだろうか?という疑問がある。

この映画の「富裕ゾーン」とは、「胃ろう」で生き永らえさせられてる老人が見た「妄想」の世界なんじゃないか?

つまり働けてる間は、暮らし向きも良くなる希望も薄いなかで、馬車馬のように働き続けるしかなく、今度は動けなくなると、延命優先の医療によって、死をいつまでも先延ばしにされる。
だからこの映画の「スラム・ゾーン」も「富裕ゾーン」も現実の反映なのだ。

この世界観は1970年代に作られた2本のSFとリンクするところがある。

『2300年未来への旅』では、大気汚染から唯一シールドされた「ドーム都市」に暮らす人間の寿命が30才に定められていた。世代交代が早いために、歴史の伝承も行われず、外の世界の様子も知れないのだ。だが実際には、緑に覆われた大地に、90才まで生きてる老人がいることがわかるという物語。

2300年未来への旅.jpg

或いは『未来惑星ザルドス』は、同じく2300年に近い未来、「ボルテックス」と呼ばれる理想郷に、不老不死で暮らす人間たちと、その外の世界で、獣のような生活を営む人間たちを描いていた。
その「ボルテックス」の中でも、不老不死に耐えられない人間は、痴呆状態となり「恍惚人間」と呼ばれて生き続けてたり、思想犯には「加齢」という罰が与えられたりしてた。

ザルドス.jpg

1970年代のデストピアSFにおいては、「このままじゃ、こういう未来になっちまうよ」という、あくまで未来への懐疑的な展望がテーマとなってたが、この『TIME タイム』で描かれる世界はSFのものじゃないんだね。

CGで未来世界を作り出したりなんてことをせず、何となく未来っぽく見える建物をロケに使い、レオンたち時間監視局員が乗るのが、70年型のダッジ・チャレンジャーだったり、あとは「スラム・ゾーン」はLAのそれっぽい地区で撮影してる。
70年代アメリカ映画でよくロケに出てきた、LAの「水のない」川の橋でも撮影してる。

1970年代のSFのデストピアな世界観を今作ったら、SFの話じゃなくなっちゃったよということだね。
突っ込み所満載ながら「そんなことは承知の上」とシレっと作ってる感じがするね。

2012年3月2日

nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:映画

押し入れからビデオ⑪『ボーイ・ワンダーの孤独』 [押し入れからビデオ]

『ボーイ・ワンダーの孤独』

ボーイワンダー.jpg

今年のアカデミー賞を受賞したのは、サイレント映画そのままの手法で、サイレントからトーキーに移行する時期のハリウッドを、フランス人の監督・キャストで描いた『アーティスト』だった。
日本公開が楽しみだが、その『アーティスト』の時代設定と関連づけられそうな映画を、押し入れから探し出してきた。内容は全然ちがうけど。

リチャード・ドレイファスが『アメリカン・グラフィティ』と『ジョーズ』の間の1974年に主演した、日本劇場未公開作。
俺んちの押し入れからは『この生命(いのち)誰のもの』に続くドレイファス映画。なぜかウチにはドレイファスの未公開ものが数本あって、1978年の主演作『THE BIG FIX』(TV放映題名「私立探偵モーゼス」)も、時間かけて探せば出てくるはず。

この『ボーイ・ワンダーの孤独』は1989年にTBSの深夜に放映された時の題名で、原題は『INSERTS』だ。
この「挿入」という単語はダブル・ミーニングとなってる。
映画技法の用語「インサート・カット」と、男が女に「インサート」するという意味。


映画の主人公ボーイ・ワンダーは、サイレントからトーキーへと移り始めた、1930年代前半のハリウッドに暮らす映画監督。だがすでに才能は枯渇したと言われ、今は自宅で酒浸りになりながら、自宅内にスタジオを組んで「ブルー・フィルム」を撮るという無為な日々。
今日も主演女優でありガールフレンドでもあるハーレーンが、撮影のため家を訪れる。彼女もサイレント時代には人気の女優だったが、今は仕事もなく、ポルノで稼ぐようになる。稼ぐといっても、彼女のギャラはコカインで支払われる。ハーレーンは
「クラーク・ゲイブルっていう若い役者が、あんたの才能を褒め称えてたわよ」
などと言うが、ワンダーは関心も向かない。
ハーレーンは撮影前に「注射」を射ち、ワンダーを誘ってくるが、ワンダーは勃起もしない。

そのうち若い男優がやってきて、さらに撮影の様子を見ようと、プロデューサーのマックが若い愛人を連れてくるんで、ワンダーはますますクサる。
ハーレーンはマックのポケットからコカインの包みを受け取ると、ワンダーの制止も聞かず、上の寝室に射ちに行ってしまう。
ワンダーが人気監督だった時代に買った邸宅は、フリーウェイの建設予定地となっており、立ち退きに応じてれば大金が入ったのにと、マックはこの家から外にも出ず、隠遁生活を送るだけのワンダーを見下してる。
マックは、フリーウェイが通ったら、そこにハンバーガーのチェーン店をいくつも建てるんだなどと青写真を描いてる。

ワンダーがそんな無駄話を聞かされてると、若い男優が上の階から血相変えて降りて来る。
「彼女死んでるぞ!」

コカインの過剰摂取だ。だからあれほど止めたのに。ワンダーはその場を動く様子もなく、マックと男優が死体を運び出して、家を出て行った。
その間、ワンダーと、マックの連れて来た若い愛人が部屋に残ることに。

彼女はキャシーといい、まだ大学を出たてのようだった。マックは自分のことを「パパ」と呼ばせてたが、私はそんな子供じゃないわと。
キャシーはワンダーが撮影前に口にした「インサート」と言う言葉に盛んに反応した。
「ねえ、インサートってどういう意味?」
何度も聞いてくる。キャシーも女優志願だという。

ワンダーは、ハーレーンが死んで撮れなくなった分を、キャシーを代役に立てようかと思いついた。
巧みに言葉を弄して、キャシーを撮影用のベッドに上がらせ、ドレスを脱がせる。
「インサートカットがいるんだ」
なかなか乳房まで見せようとしないキャシーとの、一進一退の攻防が展開される。
無気力だったワンダーに、「映画的」情熱なのか、別のものなのかわからないが、込み上げてくるものがあった。

「女優を目指してるというなら、その意気込みを全身で表現してみろ」
キャシーはついに一糸まとわぬ所まで乗ってきた。
「おっぱいのアップは撮れた、次はアソコだ」
ワンダーは、どうせそこまではできないだろうとタカを括って言ったが、キャシーは動じなかった。
しかもいつの間にかワンダーの股間は大きくなっており、それを指摘されたことで、キャシーとの攻守が逆転してきた。カメラを回すならセックスしてもいいと。

ワンダーは最初は小娘だと鼻にもかけなかったキャシーに、今は我を忘れ、カメラを回す暇などなしに、彼女と体を重ねた。
ことが終わり、キャシーはカメラが回ってなかったことを知ると、途端に冷淡になった。
「単に、あなたとセックスなんかするわけないでしょ」
そして、二人がベッドに裸でいる所を、戻ってきたマックが目撃した。


この映画はアメリカ公開時には成人指定を食らって、監督とリチャード・ドレイファスは抗議を行ったという。
アメリカでは映画が成人指定になると、興行はもとより様々な面でハンデを抱える。例えば宣伝も規制がかかる。確か入場料金も割高に設定されてたはずだ。
成人指定というが、セックス場面はほぼ無い。ただ女優はほとんど半裸のまま演技してる。

最初に出てくるハーレーンを演じてるのはベロニカ・カートライト。『エイリアン』で、シガーニー・ウィーヴァーと共に、女性クルーとしてノストロモ号に乗船してた。『SF/ボディ・スナッチャー』にも出てたね。
そのベロニカが服を脱いで下着姿で、ワンダーを誘う場面で、足を広げると画面にボカシが入るのには驚いた。
民放で放映してるんだけどね。ヘアが映ってるのか、米国盤のDVDでも見れればわかるんだが。

それにも増して「よく出たな」と思ったのが、キャシーを演じるジェシカ・ハーパーだ。

ジェシカハーパー.jpg

『サスペリア』と『ファントム・オブ・パラダイス』の2本のカルト映画のヒロインとして、秘めやかに愛されてる女優だが、もう途中から脱ぎっ放しである。
全裸ではないが、彼女もボカシを入れられる場面があった。

ただベロニカにしろジェシカにしろ、痩せてるんで、ヌードになっても、なんかこう「もう服着ていいから」と気を遣いたくなってしまうんだよな。
この映画は彼女たちの「黒歴史」になってなきゃいいけど。
プロデューサーのマックを演じるのはボブ・ホスキンス。若い頃からあんな髪型だったんだな。

映画は主人公のワンダーの邸宅から、カメラは一歩も外に出ず、舞台劇のような印象だ。落ちぶれてしまった映画監督の隠遁ぶり、その鬱屈した心情を反映するように、風通し悪い密室感を演出してる。
登場人物も5人という、コストかかってないね。

サイレントの時代からブルー・フィルムというのは撮られていた。ジョン・シュレシンジャー監督が、やはり1930年代のハリウッドを描いた1975年作『イナゴの日』の中では、映画と言われて、ブルー・フィルムでレズシーンを撮らされて、カメラの前で泣いてる女優の卵を映した場面があった。

2012年3月1日

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:映画

誘拐されたら力ずくで取り戻すという意志 [映画マ行]

『マシンガン・プリーチャー』

img1433.jpg

サム・チルダースという人のことは、この映画で初めて知った。一言で言うと「でもやるんだよ!」系の人だね。
なにか物事を決断する時に、葛藤を経ないというのか、とにかく走り出してしまうんだね。こういう人には毀誉褒貶がついて回るんだろうが、多分まったく気にしちゃいないだろう。俺なんか一々周りの目が気になったりするから、こういう性格の人が羨ましくもある。


サムは元々麻薬の売人だった。悪事に手を染めることになんの躊躇もなく、刑務所を出所する際にも、係官に捨てゼリフを残してくような男だ。久々に家に戻ってみれば、家内のリンは稼ぎのいいストリッパーを辞めて、工場で働いてると言う。信仰に目覚めたからだと?ふざけやがって。

クソ面白くもないんで、バイクで酒場へ繰り出し、悪友のドニーに迎えられる。さっそくドニーと組んで、地元の麻薬の売人の住処を急襲。金を強奪した帰り道、気まぐれにヒッチハイカーを拾う。だがハイカーが車強盗だとわかると、サムはすぐさま反撃し、虫の息となったその男を道端に放置して帰宅する。
洗面所で血のついた服を洗うが、血は落ちない。
サムは家内のリンに思わず「助けてくれ」と口走った。

翌日リンの通う教会に出向き、サムは洗礼を受ける。ドニーから、あのハイカーは一命を取り留めたと聞かされた。神に救われたと感じたサムは、悪事と手を切り、地元の建設現場で汗を流すように。
その地元ペンシルベニアを大規模な竜巻が襲い、多くの家屋が倒壊した。建設ラッシュを機に、サムは会社を設立、経営もすぐに軌道に乗った。

サムに転機が訪れたのはその数年後、熱心な信者として、教会の礼拝に出ていたサムは、ウガンダからの牧師の説教に感銘を受けた。ウガンダでは子供たちが過酷な日常を送ってると言う。
サムは牧師の薦めで、現地の建設ボランティアに参加することにした。そこで出会ったスーダン人民解放軍(SPLA)のデンに案内され、スーダンの難民キャンプを訪れたサムは、悲惨な現実を目の当たりにする。
北部ウガンダと南部スーダンの村々は、神の抵抗軍(LRA)と呼ばれる武装ゲリラの襲撃を受けていた。ゲリラは子供たちを拉致し、洗脳して少年兵に仕立て上げていた。自らの手で母親を殺せと命じられる子供もいた。

難民キャンプには拉致を免れた子供たちがいた。キャンプに近い村が襲われたと聞き、サムはデンと共に現場に向かうが、そこには死体の山が。そして目の前でLRAの仕掛けた地雷に、子供が吹き飛ばされるのを見て、サムは激しいショックと怒りに見舞われる。
その日から、スーダンと故郷ペンシルベニアを往復するサムの人生が動きだした。


サムはペンシルベニアの地元の町に教会を建てた。そこは麻薬常習者や売春婦など、どんな人間も来るものを拒まなかった。
サムは自ら説教の壇上に上がった。自分が罪人だったことを率直に語り、どんな人間にでも更正のチャンスはあるのだと、熱く説いた。
建設会社の仕事や、教会への寄付金などが、ある程度まとまると、またスーダンに飛び、孤児院の建設に邁進する。だがせっかく建てた孤児院も、LRAに襲撃され、すべて灰となる。

再建するために金がかかり、孤児たちの食料や、運営費にも金がかかる。ペンシルベニアに戻り、銀行に融資を申し入れるが断られ、知人を頼って寄付をあてにするが、雀の涙ほどの小切手が。
留守の家族の面倒を頼んでたドニーにもあたり散らし、サムは抑えが利かないほどに荒れてきた。
ドニーは再び麻薬に溺れ、命を落とす。
教会での葬儀の場で、サムは「神などいない」と言い放ち、教会には人も次第に寄り付かなくなっていた。

家内のリンに相談もなく、自分の建設会社を売り払い、その金でスーダンの地に戻ったサムは、LRAとの徹底抗戦を決意する。自らサブマシンガンを手にし、危険きわまりない戦闘に身を投じる。SPLAの兵士たちからも、サムの無謀な行為への反発が生まれていた。
サムはこのスーダンの子供たちを助けようにも、何一つ状況が良くならないことへの怒りが、体中に充満してたのだ。その怒りは、LRAに拉致され、少年兵となりながら、サムたちに投降した、ひとりの少年によって、鎮められることになる。


とにかく直情型というのか、本人としては行動に迷いがないんだろうが、近くにいる人間はしんどいだろうね。
『ソーシャル・ネットワーク』のザッカーバーグと同様に、現在まだ生きて、活動を続けてる人物をモデルに描いてるわけで、本人が最後に出てくるし、ある種のPR映画と受け取られかねない内容だが。

だがサム・チルダースは

「もし、あなたの子供や大事な人が誘拐されたとして、この私が必ず連れ戻すと言ったとしたら、その方法を問うだろうか?」

と言ってる。四の五の言ってられないんだよ!という、彼のような人間でないと、状況を打破することなどできないのかも知れない。と日本人の俺は思ってしまう。

なに演じてもスパルタ人に見えてしまうジェラルド・バトラーだが、このどんどん怒りが篭もってくるようなサムの人物像には適役だったんじゃないか。
マーク・フォースターという監督は、『チョコレート』の時からそうなんだが、感情に訴えかけるのは上手いんだが、短絡的に感じる描写が目立ったりもするのだ。ただ今回の映画はモデルになってる人物が、いい意味でも悪い意味でも短絡的なんで、不思議と演出の粗として気にならなかったりする。

いつもは「電波系」の役作りで楽しませてくれるマイケル・シャノンが、サムの悪友ドニーを演じてて、無理やりサムの家族の面倒押し付けられて、戸惑いつつもリンや娘とコミットしてこうとする、健気な姿にはグッと来るものがあった。最後は可哀相すぎるよな。

2012年2月29日

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:映画

自身を投影するのがユアン・マクレガーって… [映画サ行]

『人生はビギナーズ』

img722.jpg

とにかくこの題名もな、日本語おかしくないか?
『魔法にかけられて』とか『しあわせの隠れ場所』とか、なんか気持ち悪いんだよ最近の邦題。
映画の配給会社って文系が多いはずなんだがな。
映画の邦題に関しちゃ昨日今日の話ではないが。原題通りの長ったらしいカタカナ邦題もどうかとは思うが、やっぱり昔の洋画の邦題を眺めてると、そういう言葉のセンスが無くなってきてるように思う。
日本語としておかしいか、或いはあからさまか、どっちかという事が多い。

俺にとって衝撃的だったのは『いまを生きる』だ。原題を直訳すると「死せる詩人たちの会」なんで、そのまま題名にはできないだろうが、なんでそういう原題がついてるのかという事への配慮がない。
アメリカ映画の「教師と生徒」のドラマの定型を少し外した、ある種のスノビズムが見所な映画なのに、あんな「標語」みたいな邦題つけられるとは。

その線だと、昨年公開された、アカデミー外国語映画賞を獲った『未来を生きる君たちへ』も酷い。
原題の「復讐」というシンプルな一言に込められた意味がどっかに消えて、自民党のポスターなんかに使われそうな「標語」になっちまってる。

「そういうことを言いたい映画なんだろ」という意見があるかもしれないが、言いたいことをあからさまにしないで、文学的な含みを持たせるのが、映画の題名というものなのだ。


さて、クリストファー・プラマーがいきなり「私はゲイだ」と言う、あの出オチみたいな予告編がウケてた、この映画。妻に先立たれ、癌を宣告された父親から、そんな風にカミングアウトされた、監督マイク・ミルズの実体験に基づいて描かれてるというが。

たしかに俺んとこも父親とじっくり話し合うなんてことなく今まで来たし、オヤジが若い頃どんなこと考えてたかとか、子供に自分のことあまり言うような人じゃなかったしな。だからオヤジが本当のところ、どんな人間なのか?わかってるなどとはとても言えないし、アルツ入り始めた今となっちゃ、もう訊くのにも遅い。
だが実例とは言われてても、この映画のケースはレアすぎて、我が身に置き換えようにも、置き換えられんわ。



ユアン・マクレガー演じる主人公のオリヴァーは、ゲイであることを隠して44年の結婚生活を送ってきた父親と、1950年代という「輝ける白人の時代」だったアメリカで、ユダヤ人であることを隠して育ってきた母親との間で、少年時代を過ごしてきた。
父親は出掛けに母親にキスしてくが、母親はいつも淋しそうな顔をしてた。
指を銃に見立てて、子供のオリヴァーに「バンッ」と言うと、オリヴァーは関西人みたいに死ぬフリをする。
「死に方がヘタ」とダメ出しされて、やり直す。
オリヴァーも、両親のように「ゲイじゃないフリ」や「ユダヤ人じゃないフリ」と同じく「死んだフリ」をさせられて育ったのだ。
そんな家庭に育ったことが、オリヴァーの人間形成に影響を与えてるというのは、「それはそうだろう」とは思う。

オリヴァーは38才のアートディレクターで独身。恋愛はするんだが、うまくいかない。「これが自分の本当の気持ちなんだろうか?」という疑いが生まれてしまうのだろう。
「フリ」をしてるだけなんじゃないか?という自分への疑念。
映画はオリヴァーが父親の死後3日目に知り合った、フランス人の女優アナとの恋愛の過程と、父親との最後の日々とをカットバックさせながら進む。

父親の遺した飼い犬のジャックラッセルテリアが話し相手というオリヴァーを、見かねた同僚が、無理やり仮装パーティに引っ張ってく。そこでアナと出会うわけだが、アナは誰の変装なのかわからないが、スーツにネクタイ締めて「男装の麗人」のよう。
演じるメラニー・ロランはこの時点で素敵だ。
でもって、オリヴァーは精神科医フロイトに扮して、パーティ客を診察するが、診察受けなきゃなんないのはオリヴァーの方だろ。
アートディレクターとして、プロのミュージシャンのアルバムジャケットのデザインを依頼されて、自画像描いてくれって言われてるのに、暗いセリフ満載の人物イラストばかり上げてくる。そりゃ仕事にはならんわ。

せっかく「人生の魔法を信じてる」と言う、前向きなアナのような女の子と知り合えたのに、父親の死を引きずったままなんで、彼女との恋愛も行きつ戻りつ、なんだかしゃっきりしないのだ。


俺はグジグジと停滞してる男の話は好きなんで構わないんだが、これは男より女の方が、イラッとくるかもね。
「あんた、いつまでグズグズ言ってるのよ!」ってね。
オリヴァーの恋愛を含めたペシミスティックな性分というのは、家庭環境が元となってれば、それなり根が深いわけで、それこそ精神分析医にかかるとか、「治療」してもらう必要があるんじゃないかね。
映画はハッピーエンドっぽくなってるけど、オリヴァーが完全に吹っ切れたという感じも受けなかったしね。

オリヴァーが古いジャズのレコードなんかを好んで聴いてる設定とか、映画の雰囲気がなんとなくウディ・アレンのものと似てるなと思った。
ウディ・アレンも「自画像映画」を作り続けてきた監督だが、このマイク・ミルズとの違いは、
「自分を笑えるか」という所だろう。
ウディ・アレンは自分の風采を逆手に取って「チビで髪の薄いユダヤ人で、自意識は過剰」というキャラクターを作り上げた。「自嘲」することで、自分を描くことへの、風通しの悪さを軽減させることができる。

例えば、この映画で父親が「私はゲイだ」と面と向かって言われた時も、ウディ・アレンなら
「なんてこった!そんなこと言われてどんすりゃいいんだよ。こりゃひょっとすると僕も、
実はユダヤ人じゃなくて、父親はメンゲレ博士だ、なんてことになりかねないぞ!
だって僕はユダヤ人なのに、なぜかワーグナーを聴くと血が沸き立ってくるしな。
だけどそれを調べる勇気はないな。もし調べてそんな事実にブチ当たったら、きっと自殺するだろう。
自殺するためにまずは銃を買いに行こう」
くらいのことは、あの早口でまくし立ててるんじゃないか。

この映画は主人公である自分自身を相対化するような、ユーモアとかに欠けるんだよね。
自分がウディ・アレンのようなキャラじゃなければ、例えば身近な人間に、主人公に対して毒舌を吐くようなキャラを配するとかね。
ユアン・マクレガーが演じてるんだから「お前そんなイケメンのくせに、悩み持ってんじゃねーよ!」みたいな、ジャック・ブラックっぽいのが出てくればよかった。

マイクミルズ.jpg

大体、監督のマイク・ミルズも、自分を演じるのがユアン・マクレガーって
「どんだけイケメンに投影させてんだよ!」
ってことだが。顔を見たらむしろエディ・マーサンとかが適役だろう。

大ベテランのクリストファー・プラマーは、あの歳になって男とのキスもブチューッとやってるし、熱演だが、彼のキャリアから言えばこの位の演技はサラリとこなしちゃうだろう。
アカデミー助演男優賞は獲れるのか?もうあと少しで結果が出るが。

(追記)獲ったねプラマー、おめでとう。82才という、オスカー受賞者最高齢記録更新だそう。

同い年の候補者だったマックス・フォン・シドーとどちらにも獲ってほしかったが。
それにニック・ノルティも候補に挙がってたんだね。司会のビリー・クリスタルが唸り声だけでノルティの真似をしてたのはウケた。
彼が出てる『ウォーリアー』は日本に入ってくるだろうか?たしか総合格闘技の選手の、星一徹みたいな父親を演じてるらしいが。

2012年2月28日

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:映画

タン・ウェイとシアトルの秋 [映画ラ行]

『レイトオータム』

img149.jpg

ヒューマントラストシネマ渋谷の一番小さなスクリーンで上映してた。女性客ばかりで補助席まで出てたぞ。なんで大きなスクリーンに移さないかな。彼女たちのお目当てだろうヒョンビンのことは、韓流に明るくない俺は全く知らない。

タン・ウェイ目当てに来た俺はアウェイ状態だったが、そのタン・ウェイにしたって、俺は『ラスト、コーション』も実は見てない。「激しい性愛シーンが」みたいなことが宣伝されてたんで、「ああ、これはかったるいかもな」とスルーしてたのだ。
いや、しかしいいなタン・ウェイ。

この映画は役柄上、メイクも素に近い感じで、髪はひっつめ、ほとんど笑うこともなく、伏し目がちでいることが多い。俺は彼女を見てて、誰かに似てるなあ、とずっと考えてた。アジアの女優を見ると、大抵日本の女優の誰それに似てたりするんだが、女優ではなかった。

ZARDの坂井泉水に似てるのだ雰囲気が。ZARDのアルバム・ジャケットみたいなポーズで写ってるスチルがパンフに載ってる。イメージが繋がってすっきりした。

タンウェイ2.jpg

中国の女優と韓国の男優によるドラマだが、舞台はアメリカだ。
冒頭、閑静な住宅街を、放心状態でふらついてる女。タン・ウェイ演じるアンナは、この時、夫の暴力から身を守ろうと反撃し、夫を死なせてしまってた。

それから7年間、アンナはアメリカの女子刑務所に収監されていた。シアトルに住む母親の訃報が届き、模範囚の彼女は、葬儀のため、72時間の外出許可を受けることに。携帯を持たされ、常に居場所の確認が義務づけられた。

シアトル行きのバスに乗り込むと、発車寸前にアジア人の若い男が駆け込んできた。同じアジア系のアンナの顔を見つけ、バス代の持ち合わせがないので貸してほしいと、英語で頼んできた。アンナは逡巡したが、結局お金を貸すことに。
「お金を返すまで、これを預かってて」
と腕時計を渡されるが、アンナには迷惑なだけだった。
若い男はフンという名の韓国人だった。彼は中年女性などを顧客に持つ「エスコート・サービス」をしてたが、暗黒街のボスの妻と関係を持ったことから、追われる身となっていたのだ。
中国人のアンナと韓国人のフンは、互いの国の言葉はわからず、バスの車内ではフンが英語で一方的に話しかけるだけ。相手にしないまま、シアトルで二人は別れる。

アンナは結婚以来帰ってなかったシアトルの家に迎えられた。集まった親族たちは、彼女をねぎらってはいるが、身内から罪人が出たという思いは、互いの間に埋めようもない距離を生んでいる。保釈金を払ってくれた兄は、アンナに家の売却同意書へのサインを求める。

アンナは外の空気を吸うために裏庭に出ると、隣の家の住人と顔が合う。
妻子と遊んでた男が、アンナの方にやってくる。
「変わらないな」
「私は変わったわ。知ってるでしょ?」
ワンジンはアンナの兄の友人で、アンナの初恋の相手だった。アンナが結婚した後、夫に暴力を振るわれるようになり、ワンジンはアンナに駆け落ちしようと言っていた。だがワンジンは踏ん切りがつかず、そのことをアンナの夫に知られてしまった。
ワンジンは刑務所に面会に行くこともなく、別の女性と家庭を持ってたのだ。

アンナはその日は親族たちから離れ、シアトルの町のホテルに部屋をとった。美容室へ行き、化粧をして、おしゃれな服を買って、町を歩いた。
だが携帯が鳴り、自分が囚人であるという現実に引き戻された。服は捨て、髪も元に戻した。
そして町中で偶然見かけたフンに声をかけた。
アンナは英語で言った
「私を抱きたい?」


72時間の猶予しかない女と、いつ捕まるかもわからない身の男。互いの秘密を隠しながら、シアトルの町をデートして歩く二人。閉園した遊園地に二人が潜り込む場面がある。
遊具を解体中のスタッフの男と、彼の恋人らしい女が言い合うのを、物陰から眺めてるアンナとフン。
聞こえてはいない男と女の会話の内容を、二人で推測してみる。そんな遊びをする内、笑顔ひとつ見せなかったアンナの表情が和らぐ。

この場面は映画のフィルムをビュー・ファインダーで見てるような演出がされており、洒落てる。
そのデートのさ中、アンナは、自分の境遇や今までのいきさつを、中国語でフンに話す。フンは彼女の表情を覗いながら、相槌を打ってる。それはひとり言のようでもあったが、アンナは心中を吐露することで、スッと気持ちが軽くなるようでもあった。

葬儀の日、不意にフンが現れ、ワンジンは不審な目を向ける。その場でアンナはワンジンに対する憤りをぶつけ、アンナの72時間の外出は終わりに近づいていた。
バス乗り場でアンナを見送るフン。だがバスが発車して、アンナが目を上げると、そこにはフンが。
「もう一度、自己紹介し直そう」
シアトルから戻るバスの中で、二人は饒舌だった。

行きにも立ち寄った休憩所で、二人はバスを降りた。さびれた湖のほとりに佇み、フンはアンナを引き寄せて、口づけした。
アンナを抱きしめ
「君が出所したら、この場所で会おう」
その表情は何かを覚悟してるようでもあった。


1966年の『晩秋』という韓国映画がオリジナルだそうで、その映画は現在フィルムが失われてるんだそうだ。
1972年の斉藤耕一監督作『約束』は、そのストーリーを日本に置き換えたもの。アンナにあたる役を岸恵子が演じ、フンにあたる役を萩原健一が演じてた。これは昔NHKで放映時に見た記憶がある。
ショーケンはこの映画のフンとちがい、すでに窃盗か何かの罪で警察に追われてるという設定だったと思う。
バスではなく電車の中だったな。ショーケンの演技が今でいうと浅野忠信のような「芝居がかってないセリフ回し」の元祖のような感じで、当時はそこが面白かった。

この映画のヒョンビンは、韓国の男優の例にもれず長身で、ショーケンのような強い個性はない。
表情に柔らか味があるから、女性が心を許しやすい感じはするね。ということは役には合ってるってことだ。
俺はタン・ウェイのちょっとした表情の変化なんかに見とれてたから、退屈することはなかったけど、ちょっと淡々と進みすぎるきらいはあった。
あとエピローグの場面も、リフレイン以上の意味合いが伝わってこない。
悪くないんだけど、なにか一味足りないように思う。

2012年2月27日

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(1) 
共通テーマ:映画

役所広司のゾンビはメイクが雑なのよ [映画カ行]

『キツツキと雨』

img553.jpg

数日前のブログで、ハリウッド映画の導入部の効率の良さに関して書いたが、この映画はそれでいくと、テンポはのろいとは思うが、これは舞台となる「田舎」の時間の流れを感じさせようという意図がありそうだから、これはこれでいい。
ただ「ちょっといい話」という感じの、こういう小品で129分は全体として長いかなとは思うけど。
いいと思う部分と文句つけたい部分と両方ある映画だった。


山間部の村で、木こりとして生計を立ててる60代の男が、山にロケに来ていた映画の撮影隊と出会い、行きがかり上ゾンビとして出演することになり、自分の息子と同い年くらいの新人監督と交流を深めてくという流れ。
このところ、一時期のように主演作が立て続け状態となってきた役所広司だが、山本五十六よりこっちの方が演技に愛嬌も滲ませてよかった。

この映画で一番いいと思うと同時に、重要だと思う場面がある。
ゾンビとして撮影に参加した翌日に、仕事現場で昼飯時に、役所広司演じる克彦は、映画に出たことを仲間の木こりたちに話す。ゾンビの役だとは言わない。

キツツキと雨4.jpg

「えっ?どんな役なの?」
「おっ、俺は歩いてる…」
「うんうん、それで?」
「すると、銃で撃たれる」
「おー!撃たれるんだ。それで?」
「で、撃たれるけど、起き上がる」
「おー!起き上がるんか!すげえ」
「で、また歩いていく」
「おー、それで?」
「で、また撃たれる」
「また撃たれるんだ!すげえ!それで?」
「で、また起き上がる」
「おー!マジか!克つぁん、カッコええ!」
聞きながらテンション上がってく仲間たちを見て、克彦もなんか嬉しくなってくる。

3年前に妻に先立たれ、一人息子の浩一は定職もなくブラブラしてる。毎日木を切るだけの単調で、愉快なこともない日常に、降って湧いたような「ハレ」の気分。
いきつけの温泉につかってても、ついゾンビのポーズをとってしまったり。
克彦のテンションの変化を、あの仲間との会話の場面が鮮やかに描き出していた。あの場面があるのとないのとでは、物語が先に転がっていく説得力がちがう。

克彦は撮影隊の車があぜ道で動かなくなってる所を通りかかり、新人監督とチーフ助監督の二人を自分の車に乗せてやる。チーフ助監督から撮影に適した川がないかと聞かれ、車で案内する。
その道中、動き回るのはチーフ助監督ばかりで、新人監督の幸一は黙って座ってるだけ。
克彦は彼が監督とは知らないから、
「おい、若いの、お前もなんか動けよ!」
などと、どやしつけてしまう。
小栗旬演じる映画監督の幸一は、現場で自信を失ってて、なす術もなく居るだけなのだ。

俺は映画ではないが、撮影現場にいた経験があるから、この撮影隊の人間関係というか、力関係はリアルだと思った。チーフ助監督はかなり年上だし、現場経験が豊富だから、どこかで若い監督を舐めてかかってる所がある。カメラやその他のスタッフも、それは同じだ。
この映画の中で、プレッシャーに耐えられなくなった監督・幸一が、現場から逃げて電車に乗ろうとする駅で、クルーたちに取り押さえられる場面。チーフ助監督は
「映画撮らせてもらえるだけで恵まれてるんだぞ!」
と殴りつけてる。
『歓待』の間借り人役で強烈な印象を残した古舘寛治が、「こういうの居るなあ」というチーフ助監督を演じてて、実に上手い。


こういう監督が潰されてく様を、もっと生々しく描いてたのが、高橋克典が、伝説の俳優・金子正次を演じた『竜二・FOREVER』だった。
あの中で当初、金子から『竜二』の監督にと呼ばれた知人の自主映画作家が、撮影中にテンパってしまい、降板させられることになる。
演じた香川照之のベストアクトじゃないかと思うくらいの痛々しさが漂ってた。

その現場の感じはリアルに出てたと思うんだが、問題は小栗旬演じる新人監督を巡る描写の方にある。
自分の書いた「ゾンビ映画」の内容に自信が持てない幸一が、駅まで送ってもらう車中で、克彦に映画のストーリーを聞かせる場面。
荒唐無稽なストーリーに、しきりに感心して「おう、それで?」と先をせがむ克彦に、幸一は何度も
「あの、ホントに面白いですか?」
と訊ねる。そこが引っかかるよね、まず。

撮影隊の規模から見ても、この山間の村に、多分1週間近くはロケで滞在してる様子からも、自主映画のスケールではない。
商業映画を作るプロダクションが、新人が書いた「ゾンビ」映画のストーリーを見込んで製作にGOを出したんだろうし、その新人の熱意を感じて、監督まで任せることになったんだろうから、その当人が「面白い」と思ってないんじゃ意味ないよね。

ここはむしろ、脚本を書いた時点では「すげえ面白いもんになる」と確信してて、コンテも完璧に切れてるんだけど、いざ現場に入ったら、どうスタッフを動かせばいいのかとか、全然思ったような画にならなくて愕然としてるっていう方が「あり得る」ことだと思うが。

それと若い監督が「ゾンビ」を撮ろうというんだから、こだわりがあるはずなんだよ。あんなやっつけメイクで満足するはずない。コメディ・ゾンビならともかく、ストーリー聞いてる感じではシリアスに描こうとしてるし。

幸一のゾンビ映画の中で、生き残った人間たちの村の女たちで組織する「竹やり隊」が出てくるんだが、人数が5人しか集まらない。そこで克彦が一肌脱いで、村の猟友会の婦人たちに声をかけて、何十人と集めてくる。
それを機に村人たちが総出で映画に参加するようになり、村を歩いてると、いたる所でゾンビのメイクをしたまま、働いたり、談笑したりしてる村人たちに出くわすという展開は微笑ましく、映画の流れとしちゃ、いいとは思うんだが、監督・幸一とすれば、やはりこれも他力本願であって、彼が克彦に励まされたりしながら、次第に撮影現場のイニシアチブを握ってく展開には弱い。

その後に、山崎努演じるベテラン大物俳優がワンシーンのために現場に来る。痔が悪化し、まともに座ってられない大物に対して、臆することなくテイクを重ねられるようになる幸一のエピソードは、彼が自信を持ちつつあることを描いてはいるが、少々取ってつけた感がある。


例えば、シリアスなゾンビ映画を撮ろうとしてるわけだから、ゾンビは人を食うし、血まみれな場面もある。
村の人間が出演するという段で、子供にまでゾンビのメイクをさせて、そんな内容の映画に出させていいもんかと、一度は紛糾すると思うんだよ。田舎の人は保守的だし。
その時にこそ、大人しかった幸一が、村人の前で製作意図をきちんと述べるみたいな場面があったらよかった。

理由は口からでまかせでもいい。ゾンビはTPPのメタファーなんだとか。農業貿易が自由化されると、外国産の農作物がゾンビのように蔓延してくるんですよ!とかね。日本の農家を守ろうという裏メッセージが込められてるとブチ上げて、村人たちの共感を得てしまう。
映画を作ることのいかがわしいバイタリティのようなものを、そこで描いてもよかったんじゃないか?

細かい文句はあるが、後味は悪くないし、役所広司をはじめ、愛嬌のある映画の雰囲気はいいと思う。

2012年2月26日

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:映画

純正IMAX映画2本を見る [映画ハ行]

『HUBBLE 3D ハッブル宇宙望遠鏡』
『BORN TO BE WILD 3D 野生に生きる』


俺が言う「純正」というのは、デジタルIMAXシアターで上映されてる、ハリウッドの劇映画と区別をつける意味で使ってる。IMAXシアターの巨大スクリーンで上映されることを前提に、専用のIMAXカメラ(通常の映画で使われるカメラより一回り以上大きく、フィルム幅も広い)で撮影された、60分弱の映像作品を指してる。

過去にはCGアニメもあったが、メインとなるのは「ネイチャー・ドキュメンタリー」の分野だ。
俺も以前は高島屋タイムズスクエアや、品川IMAXシアターで、この手の作品を見に出かけてたが、今回久々に、ユナイテッドシネマズと、109シネマズの両シネコンに設置されてるデジタルIMAXシアターで、作品が上映されてるんで、ハシゴしてきた。

場所はユナイテッドシネマズのとしまえんだ。ハシゴするには早い時間しかないのだが、それにしても、両方合わせても、客が10人に満たなかったぞ。気の毒に。
これなんか、小、中学校の視聴覚授業で、館内貸切にでもして見せてやればいいのに。



『HUBBLE 3D ハッブル宇宙望遠鏡』

ハッブル宇宙望遠鏡.jpg

NASAが打ち上げたハッブル宇宙望遠鏡に不具合が見つかったため、スペースシャトルで、船外修理へと向かうミッションを、クルーにIMAXカメラで撮影させたドキュメンタリー作品。
まずシャトル打ち上げの場面を見上げるようなカメラワークで、至近距離から捉えた場面がド迫力。IMAXは音響も半端ないんで、ロケットの轟音がビリビリくる感じだ。
ハッブルをシャトルの台に固定される過程は、3Dの立体感も十分で、アームなどは手を伸ばせば掴めそう。
青白く輝く地球を背景に見るように、ハッブルの修理が続けられる。
アフリカの喜望峰の海岸線がクリアに見えてたりするのは、ちょっと感動的だね。

ただ意外と作業工程そのものは単調で、これはやはり以前にIMAXで見た、スペース・シャトル自体が主役の作品の二番煎じ的な印象は否めない。
それでもこういうものを見ると、10分でもいいから、宇宙に出て、地球を眺めてみたいなあと思ってしまうね。

ハッブル宇宙望遠鏡は今までに数々の銀河の撮影に成功してきてるが、後半はその画像を解析したものを元にして、銀河の中に入っていくようなCG映像を映し出す。
教育映画という側面があるんで、常にナレーションと音楽が被さってくるんだが、この銀河の場面なんかは、むしろ無音でずっと見てたい感じだ。宇宙に音はないわけだし。
3Dで無数の星々が自分の背後に飛んでいく感覚が気持ちいい。



『BORN TO BE WILD 3D 野生に生きる』

ボーントゥビーワイルド.jpg

ボルネオの熱帯雨林で、伐採で住む場所を追われ、親から引き離されたオランウータンの子供を保護し、野生に還す活動を続ける霊長類学者ビルーテ・マリー・ガルディカス博士と、アフリカのサバンナで、密猟などによって、同じように親を失った子ゾウを保護し、野生の群れへと還す活動を続けるデイム・ダフネ・M・シェルドリック、二人の女性が主人公。

シェドリックの名前の最初につく「ディム」とは、英国皇室が授ける称号で、男性における「ナイト」にあたるもの。
彼女の長年の活動が敬意を込めて、評価されてるということ。
彼女はガルディカス博士とはちがい「学者」ではない。子ゾウの置かれた境遇に心を痛め、自分の二人の息子たちと同じように、子供を育てるように接している。サバンナのお母さんだ。

ゾウは動物の中でも、感情の豊かさで知られてるが、子ゾウがシェドリック母さんや飼育員たちに、本当に気を許してる感じが微笑ましい。
連れてこられたばかりの子ゾウは気が立っていて、柱に向かって思い切り頭突き食らわしてきたりして、その迫力は関取以上のものがあるが、夜は中々寝付かず、飼育員にまとわりついて、疲れると横に寝転んで眠ってしまう。飼育員はそっと毛布をかけてやる。ほんと人間の子供と変わらんな。
赤い砂の上を転げ回ったりするのは嬉しそうだ。
シェドリック母さんたちが、子ゾウを野生に還す前に、一種の緩衝地帯というのか、保護区域を設けてるんだが、新しく子ゾウがそこに入ると、大人のゾウたちが迎えに来るかのように、やってくる。本当の親子とか、そういうことに係らず、群れとして子供を受け入れる、ゾウの性質がわかる。

一方、ボルネオのガルディカス博士とオランウータン。こちらはとにかく子ウータンが可愛すぎる。
画面に近い木の枝で横になってる所など、3Dカメラの威力てきめんで、それこそ体毛の生え方までくっきり分かる。
子供の頃から、すでに木の枝の渡り方は熟知してるようで、ゆったりとした、しかし一定のリズム感で、木を渡っていく。しめし合わせたかのように、そのままカメラの手前まで来たり。
博士たちはミルクをやったり、抱いて甘えさせたり、面倒を見はするが、過剰にならないよう気は配ってる。野性を失わせたくないからだ。

森林伐採で住処を追われる他にも、子ウータンがペットとして売り買いされる密猟の現状もある。博士が言うように、オランウータンはペットに適した性分ではない。なので飼ってもすぐ手に余り、保護の依頼がきたりする。
保護に向かった先のウータンは子供というには少し成長が進んでいて、車に乗せようとすると抵抗する。
博士は息子に任せる。
「この子はオランウータンと気持ちが通じるの」
車に乗るのを拒んでたウータンは、息子の背中にしがみ付いてバイクで連れてくことに。
「車は駄目なのにバイクはOKかい」と笑った。

アフリカのサバンナの大地をセスナで飛行する場面もよかったが、3D効果がより実感できたのは、ボルネオの密林を流れる川をボートで行く場面。
水面に近い位置にカメラがあるんだが、自分がヘソから上くらいまで、川の中に浸かってるような感覚になる。
3Dは水の質感と一番相性がいいのかも知れない。

この作品もナレーションとともに音楽が間段なく流れてるんだが、特にサバンナにしろ、密林にしろ、生き物が出す音というのが聞きたいんだよ。

アフリカ物語.jpg

昔、羽仁進監督の『アフリカ物語』を映画館で見たんだが、とにかくサバンナの音が圧倒的だったのを憶えてる。
監督はヘタに音楽などつけずに、「大自然の音こそが音楽なのだ」とわかってたんだと思う。
IMAX映画は親子連れで見ることを想定してるから、音楽を流して楽しさを演出しようということなんだろうが、そこらへんがダサい所なんだよな。

まあしかし、動物見るなら動物園行けばいいじゃないかと思うかも知れないが、動物園ではこれだけ至近距離で動物は見れないよ。旭山動物園のように見せ方に工夫してる所もあるけど、東京から簡単に行ってられないし。

そんなわけで客は少なかったが、なんとか今後もプログラム組んで上映していってほしい。

2012年2月25日

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:映画

911少年漂流記 [映画マ行]

『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』

img1515.jpg

複雑な気分にさせられる映画だ。
「9・11」で父親を失った少年が、喪失感から立ち直るための旅を通じて、その源にある「後悔の念」と折り合いをつけるまでの物語。
当事者たちが味わったあの悲劇について、感情に溺れることなく、見つめ直してみようという、語り手の意図はわかる。
少年の聡明さが、周りの人間の心になにかを届けるという展開は、オスメント君が主演した『ペイ・フォワード 可能の王国』を連想させる。


この映画の新人トーマス・ホーンが演じる少年オスカーは、アスペルガー症候群の気はありそうだが、亡き父親との絆を再確認するために、自分の苦手な物事や場所などを克服していく、その成長の過程が描かれるのはいいとして、トーマスが、父親の死を受け入れられず、虚ろな日々を送る母親を忌み嫌い「(犠牲になったのが)ママだったらよかった」と面と向かって言い放つのは、この少年がどういう境遇であれ、また聡明さを持ってたとしても、人として「失格」だろう。

せっかく冒頭の父親トム・ハンクスとの回想シーンで、トーマスの聡明さを育むことになる、父親との「知的探検」ゲームの一節が、「結局こんな性格の子供にしちまったのか」と徒労に感じられる。

映画の終盤で、虚ろに過ごしてたとばかり思われてた、サンドラ・ブロック演じる母親が、実はある行動に出てたと知る場面。
俺はこれは蛇足だと思った。
これによってトーマスは母親と「和解」することになるが、こうでもしないとわからないのか?ということなのだ。
最愛の夫を失ってしまった、母親のその喪失感は、トーマスのものと同じであり、その気持ちを抱えたまま、虚ろになってたとしても、それを責める権利は子供にはない。むしろ普通に情操教育を受けてれば、その悲しみに慮ることぐらいできるはずだ。

だから映画としては、トーマスが父の痕跡を探す「冒険」を終えて、さまざまな人々との出会いを通して、自らの喪失感に決着をつけられた時点で、母親の悲しみにも気づくべきだ。
喪失感が与える悲しみの表出はひと通りではないことに。
そして母親を労われるようになったとすべきだろうと思うのだ。


複雑な気分になるというのは、この映画の内容に関してではない。
この映画を含めて「9・11」の悲劇を描いた映画を、他の事故や震災と比較して、どうこう言うのは間違ってるという意見がある。
「9・11」だけがことさら大きな悲劇ではないという意見に対してなんだろうが、俺はね、そこはやっぱり「9・11」の特殊性ということは、考えざるを得ないんじゃないか?と思う。

つまり震災で、貿易センタービルが倒壊したわけじゃない。
テロリストに乗っ取られた旅客機が突っ込んだからだ。
なんでそんな事態が起こるのか?
「9・11」で犠牲になったアメリカ人や、その場に居合わせた外国人に直接その原因はない。
だがアメリカという国そのものには、この大惨事を誘発させた原因がある。何も恨みを買わなければ、こんなことは起きようがないからだ。

俺が思うのは、この映画のように、知的で思慮深い視点に立って作られた、そういうクリエイターたちがいる、そういう物の考え方のできる人たちが住んでいる同じ国が、なんで簡単に他所の国に軍事介入して、その事を国民は徹底的に阻止しようとせず、容認してしまうのか?
まさにこの映画でトーマスと父親が行う「矛盾語ゲーム」そのもののような国家に見えてしまう。

それとこれは受け手側の問題になるんだが、前にポール・マッカートニーのライヴ・ドキュメンタリーのコメントの中でも言及したけど、送り手側の映像なりメッセージなりの量的な「不均衡」ということがある。

アメリカは今まで映画やドラマを通して、自国民が体験した悲劇を盛んに描いてきた。それは「同胞」としてのユダヤ人におけるホロコーストも含めてだ。
だからそういう映画やドラマを見てきた我々日本人も、アメリカ人の悲劇的体験は身近なものとして捉えてる所がある。西洋人と言い換えも利くんだが。

だが「9・11」の報復のような形となった、イラクへの爆撃で、多数のイラクの民間人も死傷してる。
イスラムの国々では、もちろん映画の製作は行われてはいるが、規模の上でも技術的な進み方においても、圧倒的にアメリカには敵わない。
なので同じように悲劇に巻き込まれた人々を描いた映画やドラマが、我々のもとにまで届いてこない。

悲劇に遭って辛い思いをしてるのは白人で、立ち直ろうと強い意志を示してるのも白人で、家族やコミュニティで団結する温かみを感じさせるのも白人で、我々がそういう時にアラブ人の顔をイメージすることはないのだ。
だからこの映画のように、努めてヒステリックではなく、最愛の者を失った人たちの悲しみを描いた映画であっても、それがどこの国のどういう人種にもあてはまる悲しみだとされても、やはりこれはアメリカ人の(白人のための)悲しみの物語だと感じられてしまう。

この映画の中で、トーマスは手がかりとなる「ブラック」という苗字の住人を訪ねて回るんだが、その中に「アラブ系」の人間は出て来ない。「9・11」の直後にはニューヨークに住むアラブ系住民は、相当な偏見や嫌がらせにさらされたと聞いている。
その存在をスルーしてしまってるのは、作劇としてフェアではないと思うが。

2012年2月24日

nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:映画

冒頭20分のハリウッド映画術 [映画雑感]

先日見た『ペントハウス』は後半の強奪場面のディテールが強引すぎるという難点があったが、話の滑り出しはすこぶる快調だった。

ハリウッド映画でもサスペンスの要素が入ったものや、話の展開の面白さで見せてこうという映画の場合、冒頭20分位の、「起・承・転・結」でいえば「起」の部分が、周到に描かれているのがわかる。

『ペントハウス』でいえば、
主人公ベン・スティラーはどんな職業に就いてるのか?
仕事先の場所はどうなってるのか?
彼の仕事ぶりと、その人柄はどんな感じなのか?
主人公とこの後映画で係っていくのは、どんな顔ぶれなのか?
その大まかな性格は?
主人公と対立するであろう人物は誰か?
この映画がどんなテイストの映画になりそうなのか?

これらの要素、つまり建築でいうと建物の「基礎」にあたる部分を、20分ほどで、かっちり固めてくのだ。
観客に映画のストーリーにすんなり入ってもらうのに、ここの部分の明解な描写は欠かせない。
よく見てると、いかに効率的に話を語り出すかということが、演出の主眼になってるかわかる。
画面に人物をどう入ってこさせるか?次の人物への紹介を、どういうセリフきっかけで行くか、それが短いカットの積み重ねで、かなり早いテンポで描かれてく。

なので、ハリウッドの娯楽映画を見る時には、冒頭20分に最も集中して見ておくべきだ。映画によってはその部分ですでに伏線が張られてることもあるし、またタイトルバックが出てる状態でも、どんどん会話が進んでたりもする。
だからそこをボケーッと見てると、後半になって「うん?」という置いてきぼりを食うことがある。
見終わって釈然とせず、後でもう1回見直した時に、
「こんなとこですでに語られてたのか!」
と気づいたりね。
個人的にも、近年のハリウッド映画は前半3分の1あたりまでが一番面白かったということが多い。
「これからどんな物語に転がってくのか?」というワクワク感を与えてくれるような演出になってる。

だが建築でも、いくら基礎がしっかり出来てても「ウワモノ」を建てたら、装飾が過剰でダサいビルになったとか、デザインに凝りすぎて使い勝手が悪すぎるなんてことはままある。
それと同じで、映画でも後半に行くにしたがって、話の風呂敷広げすぎて、収拾つかないとか、ありきたりな見せ場で決着つけるとか、「ウワモノ」に当たる部分の描写が練られてない映画が目立つね。

日本の商業映画のクリエイターたちが、ハリウッド映画から学ぶことがあるとすれば、CGの使い方だとか、爆破シーンやカーチェイスの演出だとか言うことより、映画の「起」にあたる、語り出しの部分を、どう快調に捌いてくかというテクニックではないかと思う。


俺が今まで見た映画でも、とりわけ冒頭20分が「すげえ!」と思わせたのは、
マーティン・スコセッシ監督の『カジノ』だ。
タイトルバックが明けてから、ラスベガスのカジノがどのように運営されてるのか、その入り口から出口までの、「おっかない」部分もある裏側を、水際立った演出と編集で、それこそ息継ぎしないで、一気に語り尽くす感じだった。

カジノ.jpg

スコセッシ監督のインタビュー映像とか見たことある人ならわかると思うが、あの人も相当な早口でまくしたてるが、それは映画に関して語りたいことが山ほどあるという事なんだろう。
その監督の口調がそのまま映像になってるようだった。俺は『カジノ』のこの冒頭部分ばかり、もう何度となく繰り返し見てるのだ。

例えばこの『ペントハウス』でも、日本で同じ予算と脚本で撮らせたとしたら、140分位の上映時間になるだろう。
ちなみにこの映画は104分だ。

日本映画の場合、ちょっとでも大きな予算がついた映画になると、すぐに120分超えしてしまう。
監督が苦労して撮った所だからと、もっと見せたい所を我慢して切る、無駄なカットを減らす、そうやって研磨されたものを、最終的にスクリーンにかけてほしいのだ。

2012年2月23日

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:映画

ベン・スティラー流「ホット・ロック」 [映画ハ行]

『ペントハウス』

img3752.jpg

ベン・スティラーとエディ・マーフィが共演してるわけだから、当然コメディだと思って、「大して笑えなかった」という失望の声が多いようだが、これはコメディというより「ケイパー・ムービー」(泥棒映画)に属する内容だね。

ベン・スティラーがパンフに掲載されたインタビューで語ってるように、俺もこれを見てて『ホット・ロック』みたいなテイストにしたかったんだろうなと思った。
あの映画は70年代のケイパー・ムービーの傑作に挙げられたりしてるが、最後にダイヤをせしめる方法なんかは、さんざ泥棒のテクニックを使っててオチはそれかい!という人を食ったものだった。それでもロバート・レッドフォードのラストシーンの会心の笑顔を見せられて、こっちも何かいい気分にさせられてしまうのだった。

なので本来『ホット・ロック』に倣うんであれば、主演はベン・スティラーじゃなくて、ブラッド・ピットだったら、コメディという先入観を持たずに済んだだろう。
ベン・スティラーは、これまでのコメディで見せたようなボケは一切かまさない、シリアスな演技に徹してる。ただ高級マンションの使用人という「庶民感」はブラピよりかは役に合ってるとは思う。
昨年ウォール街から沸き起こった「1%の富裕層」に対する糾弾のデモを思わせるような、ペントハウスに暮らす「1%の人間」を、「99%の庶民」である使用人たちがギャフンと言わせる、その構図こそが映画のテーマになってるのだ。



マンハッタンにそびえる65階建ての「ザ・タワー」は、一握りのセレブしか暮らすことのできない高級マンション。
そこは住人のあらゆる便宜を図るために、ホテル並みのサービスを行う使用人たちが働く場でもある。
総支配人から、サービスに関する一切を一任され、使用人たちの仕事を管理するマネージャーのジョシュ。この仕事一筋で、最上階のペントハウスに住む大富豪アーサーとは、チェスの相手にもなる間柄で、その信頼は厚い。ジョシュは使用人たちに
「このマンションの最大の価値はなにか?それは自分たちが働いていることだ」
と公言する位に、その仕事に一点の疑問もなく、誇りを持ってた。

だがある日、アーサーの身柄をFBIが確保しにやってくる。大富豪として尊敬の念さえ抱いてたアーサーが、大がかりな証券詐欺の容疑者だとわかり、ジョシュはショックを受ける。しかも彼はアーサーを信用して、マンションの使用人たちの積み立てた年金の運用を任せてたが、それもすべて流用され、跡形も無くなるという事態に。
暖かい土地での隠居を考えてた年配のドアマンは、絶望して地下鉄に飛び込んでしまい、一命は取りとめたものの、病院送りに。

アーサーは速攻で1千万円の保釈金を払い、裁判までペントハウスでの自宅軟禁に置かれる。ジョシュは抗議しに部屋を訪れるが、アーサーからは謝罪もなく、逆に態度が横柄だと凄まれる。
カッとなったジョシュは、部屋の真ん中にデンと置かれたスポーツカーに目をやる。それはスティーヴ・マックイーンが『華麗なる賭け』で乗ったという赤いフェラーリで、そのウインドーを粉々に叩き割ったジョシュは、騒ぎを知った総支配人からクビを言い渡される。

そんなジョシュに、アーサーを逮捕したFBIの女性捜査官クレアが接触してくる。アーサーが逃亡資金として用意してた20億円が見つからない。どこに隠してるか見当つかないか?というのだ。
ジョシュはとぼけたが、実は「ある場所」に思い当たるものがあった。
「その金は俺たち使用人が奪取すべきものだ。あの卑劣な野郎から」


と、ここから使用人のうち何人かと、株でしくじり部屋の退去を求められてた証券マンに声をかけ、ド素人の「泥棒チーム」が結成されるわけだが、この時点でようやくエディ・マーフィが本格的に出てくる。
ジョシュと近所に暮らしていて、「泥棒歴」がありそうなヤツということで指名を受けたのだ。だがそのスライドはBSのパラボラ・アンテナ以上の金額の物は盗んだことがなかったという、ケチな泥棒だった。口だけは達者なので、みんな何となくスライドの「泥棒学」を学ぶことになってくのだが。

エディ・マーフィは今年51才になるんだが、人気絶頂の80年代の印象とあまり変わらないのは立派なもんだ。老けこんだ感じがない。
一方、証券マンを演じるマシュー・ブロデリックも久々に見たんだが、こっちは「永遠の青二才」といった印象だったのが、すっかり顔も太って「オヤジ」になってまってた。エディ・マーフィより1つ下なんだけどね。

出演者の中ではティア・レオーニがよかった。彼女も今年46になる。『バッドボーイズ』とか『ディープ・インパクト』とか、クール・ビューティで売ってた頃の彼女には、俺は関心がなかった。
彼女に初めて注目したのは2005年にジム・キャリーと共演した
『ディック&ジェーン 復讐は最高!』だ。

ディック&ジェーン 復讐は最高!.jpg

偶然にも設定が『ペントハウス』と非常によく似てる。
IT企業で出世を叶え、高級住宅地にマイホームも手に入れ、順風満帆のジム・キャリー。だが会社の経営は破綻していて、社長は自社株を売り抜け、トンズラしてた。職を失い家のローンを抱え、ドン底まで落ちたジム・キャリー夫婦は、社長が隠し持つ大金の強奪を計画するという展開だもの。

この中で、ジム・キャリーの奥さんを演じるティア・レオーニは、夫ともども慣れないバイト先をクビになり、彼女ひとり新薬の治験のバイトに応募。投与された薬の副作用で、頬っぺたがパンパンに膨らんでしまい、口も半開きで寝てる。帰宅してその寝顔を見たジムが
「妻にこんな寝顔をさせてしまって」
と男泣きする場面には、俺も思わずもらい泣きしたよ。
この場面があることで、俺の中では「傑作」扱いになってる映画だが、美人女優で売ってる人が、こんな顔はなかなか晒せるもんじゃない。ティア・レオーニのその寝顔に、俺もギュンときたのだ。
それ以来彼女への見方が変わった。最近は顔つきもエマ・トンプソンに似てきたというか、役柄にさらに幅も出てくるんじゃないか?

この『ペントハウス』だがケイパー・ムービーとすれば、肝心の強奪場面に難はあるね。
先にも出たフェラーリが鍵を握ってるんだが、強奪手段の段取りからオチに至るまで、無茶というか、大雑把というか、ザルというか、とにかく「そうはならんだろ」という描写の連続なんで、白ける向きもあるだろうね。
まあ『ホット・ロック』のオチも脱力もんではあるので、どっちもどっちではあるが。

あとエディ・マーフィのまくし立て演技は健在だったんだが、彼がいつの間にか退場してたのもな。
それこそエンドロール明けにでも一発ギャグかましてほしかった。

2012年2月22日

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:映画

カン違いが加速するホラーコメディ [映画タ行]

『タッカーとデイル 史上最悪にツイてないヤツら』

タッカーとデイルジャケ.jpg

昨年「三大映画祭週間」という好企画に何回か足を運んだ、ヒューマントラストシネマ渋谷で、今年の前半6ヶ月をかけて継続上映されてるのが「未体験ゾーンの映画たち2012」という特集企画。

昨年の企画上映では、映画祭で受賞していながら、日本に入ってこない「芸術的価値」のある映画がラインナップされてたが、今回の17本は、いわば昔の「東京ファンタ」で上映されてたような、娯楽性重視、ビデオスルー確定な未公開作品を集めてる。といっても厳密にはオランダ映画の『LOFT』はすでにミニシアターで公開されてるし、『ある娼館の記憶』は昨年の東京国際映画祭で上映済みだが。

ラインナップを眺めてみても、シドニー・ルメット監督の未公開の2006年作から、あのウーヴェ・ボル監督作まであって「玉石混合」であることは窺い知れる。
既に4本上映されてるが、俺が最初に見たのが、この『タッカーとデイル…』で、これがいきなりの「あたり」だった。

ゾンビの定石をひねってネタにしつつ、それだけには終わらない、冴えない日常を送る男たちの、意地と友情のドラマが熱かった『ショーン・オブ・ザ・デッド』と同じように、この映画も『13日の金曜日』や『クライモリ』『キャビン・フィーバー』などの森林スラッシャー映画をパロディにしつつ、ちゃんと男の自己改革と友情のドラマになってる。
『最終絶叫計画』のような一発ギャグをつなげたコメディとは一線画する出来栄えなのだ。


このブログでも度々出てくるんだが、『ウィンターズ・ボーン』とか『ロリ・マドンナ戦争』とか『歌追い人』で描かれた一帯の森林地帯が、この映画でも舞台となる。「ヒルビリー」とか「マウンテン・ピープル」などと呼ばれて、偏見を持たれてる住人たちの生活する土地だ。

その偏見を持たれてる土地に、定石通りにキャンプにやってくるのは、都会の大学生たち。自分たちの車を追い抜いてくトラックから、こっちを睨んでる男ふたり。
ホラー映画でよく見るようなヤツらだ。
だがそのタッカーとデイルはいたって普通の山の住人だ。
昔からの親友同士の二人は、彼女はいないものの、トイレ修理の仕事を真面目に続け、ようやく森の中に格安の別荘を手に入れることができた。
今日はその別荘を初めて見に行く日で、タッカーは釣りを楽しみにしてた。

途中、森の入り口の食料品店で、二人はあの大学生たちをまた見かける。デイルは
「都会の女の子はやっぱりキレイだよね」
「デイル、お前行って声かけて来いよ」
「俺なんかすぐに逃げられちまうよ」
「お前は自分に自信がなさすぎるんだよ。思ってるほどブサイクでもないぞ。
笑顔を作って挨拶してこい」
デイルは言われるままに、思いっきり作り笑いを浮かべ、なぜか手に大きな鎌を持ってたので、声かけた途端に逃げられてしまう。
一方、大学生たちには
「あれは絶対殺人鬼だ」
と思いこまれてしまうのだった。

そんな風に思われてるとは露知らず、タッカーとデイルは森の中の湖のほとりに佇む別荘に着いた。
それはどう見ても廃屋にしか見えないが、レザーフェイスの部屋みたいな異様な内部の装飾物も、二人にはおしゃれに見えて、すっかり気に入ってしまう。
実はその物件が格安だったのは、ボロいという以外にも理由があった。
そこでは昔、やはりキャンプに来てた家族たちが、殺人鬼によって惨殺されてたのだ。

そしてその事件を知る者が、大学生たちの中にいた。グループのリーダー格のようなチャドは、昔この地で惨殺された家族たちの唯一、生き残った子供だった。
チャドは両親を殺した殺人鬼がまだこの森に住んでいたなら、必ず復讐してやろうと燃えていた。
キレた時のクリスチャン・ベイルみたいなこの大学生は、タッカーとデイルなんかより、よっぽど危なそうなのだ。

キャンプの夜、大学生たちは湖で泳ぎ始め、タッカーとデイルは手漕ぎボートで釣りに出た。
チャドから言い寄られてウザいと思ったアリソンは、みんなと離れて泳ごうと思い、ボートの男たちと目が合って驚き、岩から滑り落ちて湖の中へ。
上がってこないのでデイルが飛び込んで彼女を引き上げる。
その様子を大学生たちが遠目に発見。
「アリソンが殺人鬼にさらわれたぞ!」とパニック。


翌朝、頭を打ったアリソンは包帯がまかれたまま、見知らぬ家のベッドで目覚める。
そこに朝食を持ったデブでヒゲもじゃで、オーバーオールを着た、殺人鬼らしき男が!
さすがに彼女が「近寄らないで!」と言うと、デイルはメニューが気に入らなかったと思い、別の物を作って持ってくる。見たところ、どうも悪い人間じゃなさそう。
社会心理学を学んでるアリソンは、先入観を払ってデイルを眺めてみる。
事情を聞いて納得した彼女は、すぐにデイルと打ち解けるように。

頭を打ってるし、しばらく動かない方がいいと言われ、デイルとボードゲームに興じるアリソン。
タッカーは窓の外から見ながら「二人で楽しくやってるな」と文句を言いつつも、デイルが女の子と普通にしゃべれてるのにホッとする。
自分はトイレを作る材木でも切り出すかと、チェーンソーを振るう。
だがその様子を大学生たちが、身を潜めて見つめてた。

ジャンケンで負けた者が家の様子を見に行くことに。
だがその時、タッカーのチェーンソーが木の中に作られた蜂の巣を直撃。
蜂の大群に襲われたタッカーが、チェーンソー振り回したまま、叫びながら走りだしてきた!

タッカーとデイル.jpg

もう何のパロディかわかるよね。
このあとも材木を粉砕する「ウッドチッパー」が出てくるんだが、それもネタになってる。
『ファーゴ』見た人なら使い方わかるだろうけど。
タッカーもデイルも何も手を下さないのに、カン違いした大学生たちが、足滑らしたり、よそ見したり、拳銃の銃口を自分に向けたりして、次々死んでく。

タッカーとデイルは恐ろしい結論に達する。
「あいつら集団自殺しに来てるんだ!」


正直、この中盤のスプラッター全開の爆笑場面が素晴らしすぎるんで、後半にそれに匹敵する見せ場が作れてないのが残念だ。
お人好しで、自分の意見を抑えて、いつもタッカーに従ってるようなデイルの人物描写がいい。
デイルにもっと自分に自信を持てと、奮い立たせるようなセリフを吐くタッカーの熱い友情にもグッとくる。

アリソンを演じるカトリーナ・ボウデンは典型的なアメリカン・ガールだが、可愛くてなごむ。
スラッシャー・ホラーとかそんなに見てなくても十分楽しめる快作だよこれ。

2012年2月21日

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:映画

TNLF『シンプル・シモン』 [トーキョーノーザンライツフェス2012]

『シンプル・シモン』

シンプルシモン.jpg

アスペルガー症候群の弟シモンと、一番の理解者ながら、弟に振り回されもする兄サムの日常を、軽やかなタッチでユーモラスに描いたドラマだった。

シモンはなんらかのストレスがかかると逃げ込む場所がある。
よく山小屋なんかに、ドラムカンを利用した「ロケット・ストーブ」っていうのがあるが、あんな形状の、要はドラムカンなんだが、上には大きな鍋蓋が付けられてて、その中に入って膝を抱え、蓋を閉めて真っ暗な空間に何時間も篭もってしまう。
シモンはこれを宇宙船に見立てていて、感情がなく、ゆえに誤解も混乱も生じることがない宇宙空間に身を置いた気分になれるのだ。
一度その状態になると、兄のサム以外には「交信」できなくなる。
サムは管制官となり
「宇宙船のシモン、応答せよ。プシュー」
と、柳沢慎吾の警官ギャグみたいな口調で、ドラムカンのそばから話しかけないとならない。

実家で暮らすシモンもとうとう両親の手には負えなくなって、サムはガールフレンドのフリーダと同棲中の家に、シモンを連れてくとこに。
ただですら彼氏の弟が同居なんてあり得ないと思ってる上に、シモンは生活上のあらゆる事を時間通りに行わないと気が済まず、役割分担も勝手に決めてしまう。借りてくるDVDは必ず『2001年宇宙の旅』で、フリーダはサムとラブコメが見たいのに「自分の部屋で見て」と。
ついにフリーダはキレてサムのもとから去ってく。

シモンは困った。
「僕には兄さんが必要、兄さんにはフリーダが必要、それで万事うまく行ってたのに」
その方程式に戻すために、シモンはサムに新しい恋人を見つけるために奔走する。


アスペルガー症候群については近年、社会的にも認識が広まってきてるようだが、この映画を見る限りでは
「人に触られるのを嫌う」
「物事を法則だてて考える」
「時間にルーズなのは許せない」
「ある分野において人より明らかに秀でている」
「人の感情の機微というものを理解しにくい」
「普段はほぼ無表情」
といったような所か。
近くにいるとめんどくさい存在かも知れないが、法則性を把握してると、逆につきあい易いかも。

だがシモンはサムの恋人になってもらう女性を見つけるためには、他人とコミットしていかなくてはならず、その中で、人の感情には矛盾があったり、物事は自分の意思とは関係なく変化していってしまったりということを、少しづつ認識してくのだ。

イェニファーというオープンマインドな女の子と出会うことで、シモンの頑なさが、ちょっとづつ和らいでく感じが微笑ましいのだが、一方で、シモンが会いに行っても、サムが会いに行っても、断固関係の修復を拒否するフリーダの描写もいい。
ハリウッド映画なら、彼女も考え直してサムとハグなんて展開になりそうなもんだが、世の名には、シモンのような人とは相容れない人もいるだろうから。

シモンは毎朝サムの大きな荷台が付いたバイクで、勤務先の清掃会社に送ってもらう。3人の同い年くらいの仲間がいるが、交流はしない。時間通り仕事をして、真っ直ぐ帰る。
だがイェニファーと知り合って、彼女の家に遊びに行ったりして、清掃会社から帰ってこない。
焦って探し回るサム。夜中に普通の顔して帰宅するシモンを激しく責める。シモンは、サムの新しい恋人を見つけたと言うが、その気持ちは兄には通じない。

お前のためにどれだけ自分が振り回されてるのか、サムはつい本音をシモンにぶつけ、部屋を出てく。

シモンはショックを受け、「宇宙船」に篭もった。
だが気を取り直したシモンは、ドラムカンから飛び出し、清掃会社の仲間に協力を呼びかけ、サムとイェニファーのために飛び切りのデートを演出する作戦を立てた。


アスペルガー症候群の主人公を描いた映画には2004年にジョシュ・ハートネットが演じた
『モーツァルトとクジラ』がある。あの映画ではアスペルガー症候群の男女が惹かれあうというドラマだったが、この『シンプル・シモン』はあまり症状をシリアスに描くことはせず、ファンタジックな描写を交えてるあたりは、1993年の『妹の恋人』のテイストに近いかも。
あの映画は、自閉症の妹メアリー・スチュアート・マスターソンが、町にやってきた風変わりな青年ジョニー・デップと心を通わせるようになり、兄のエイダン・クィンが複雑な心境で見守る情景が描かれてた。

『シンプル・シモン』の劇中で、シモンは外出する時は、常に真っ赤なジャージを着るんだが、胸には
「アスペルガーです、触れないで!」と書かれたバッジをつけてる。
スウェーデンでは、この症状が日本以上に認知が進んでることがわかる。
イェニファーもついシモンの腕をつついたりして、その度に「触るなって言ったろ!」と突き飛ばされてるが、ちっとも怒らないね。ほんとにそういうもんなんだろうか。


シモンを演じるビル・スカルスガルドは名前の通り、ステラン・スカルスガルドの息子だ。父親ほど、なんというか北欧系の「白い顔」ではなく、アメリカ映画の青春ものとかに出てても違和感ないね。
男優も女優も、クセのない馴染みやすいルックスをしてるし、北欧の特にスウェーデンの映画に感じるんだが、出てくるインテリアとか、小物とかの色使いを見るのも楽しい。
ポップソングが全編に流れるのは常套ではあるけど、気持ちよく見終えることができる。
一般公開されるといいのにね。

2012年2月20日

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:映画

TNLF『マンマ・ゴーゴー』 [トーキョーノーザンライツフェス2012]

『マンマ・ゴーゴー』

マンマゴーゴー.jpg

今回の「トーキョー・ノーザンライツ・フェスティバル」で特集が組まれている、アイスランドを代表する監督フリドリック・トール・フリドリクソンの、今の所最新作となる2010年作。

この監督の作品が最初に日本で紹介されたのは、1991年作『春にして君を想う』だった。
最果てのような風景の土地で、妻に先立たれ、一人農家を営んでた老人が、町のアパートに住む息子夫婦の家に引き取られる事に。一緒に連れてはいけないので、長く生活を共にした老犬を銃で撃ち、土に埋めて、土地を去る。その冒頭から、厳しい映画なのだということがわかった。
老人は息子たちと折り合わず、老人ホームに入れられる。そこで幼なじみの老女と再会。彼女が死ぬ前に訪れたいと願ってる島を目指して、ホームを脱走するという物語だった。
老人ふたりの「心中行」のような旅と、湿気を含み、霧が立ち込めるアイスランドの、幽玄的な風景が響き合うようだった。

後にピクサーの『カールじいさんの空飛ぶ家』を見た時、既視感に襲われたんだが、『春にして君を想う』みたいな展開だと思ったのは、主人公の名がフリドリクセンだったということもある。


この『マンマ・ゴーゴー』は、フリドリクソン監督が、『春にして君を想う』を完成させた直後あたりから、母親にアルツハイマーの症状が出だしたという、実体験をもとにした物語となってる。
映画が終わった後に、フリドリクソン監督のインタビュー映像が映され、その中で監督は、劇中の主人公である映画監督に、自身は投影してないと語ってた。

そこが複雑なとこなんだが、映画の主人公は『春にして君を想う』を完成させたばかりの映画監督だ。完成披露上映会に母親を招待して、「この映画を母に捧げます」とスピーチしてる。
だが時代設定は1991年ではなく、登場人物がケータイを持ってたりするし、現代の話となってる。

『春にして君を想う』が本国で封切られた当初は、全くの不入りで、銀行から融資を受けた制作費の返済も滞り、自家用車が差し押さえられ、家も手放す寸前まで追い込まれるという窮状や、アカデミー賞の「外国語映画賞」の候補に選ばれる事に一縷の望みを託してるなど、あの映画に関するエピソードは事実なのだろう。
実際この映画では描かれてないが、『春にして君を想う』はその年の「外国語映画賞」の5本の候補作に選ばれ、受賞こそならなかったが、その効果は絶大で、最終的には本国アイスランドの人口26万のうち20万人が見るという大ヒット作となったのだ。

『マンマ・ゴーゴー』では、自分の監督作の不入りによって、経済的に追いつめられてくのと平行するように、母親のアルツハイマー症状が進んでいき、悩みの種が絶えないという映画監督の、マゾヒスティックなまでの肖像が描かれていて、深刻なんだろうけど、ちょっと可笑しくもある。
母親のエピソードは部分的には事実を元にしてるんだろうが、母親目線の描写も織り交ぜてるので、リアルさを追求してるわけではない。


母親ゴゴを演じるのは、アイスランド映画界の名女優と謳われるクリストビョルグ・キィエルド。
彼女には時折、先立たれた夫の幻影が見えるのだが、その夫を演じてるのも、ベテランの名優グンナル・エイヨウルフソンで、彼女と夫との若い日々の甘い追憶の場面には、演じる二人の俳優が、若い頃に共演した映画の場面が使われてるという、洒落た趣向が凝らされてる。

映画で、母親ゴゴは息子から「老人ホームに入ってほしい」と告げられ
「老人ホームから逃げ出すような映画を作ったあんたが、母親をホームに入れるのかい?」
と言い返す。
いやこれを言われちゃあ、二の句も告げないよね。さすが母親。

映画の最後で、ゴゴは入所させられたホームを抜け出し、夫の眠る墓地に花を手向けに訪れ、そこで倒れる。
フリドリクソン監督の母親は今も90を過ぎて存命だということだが、映画の中で、ホームの母親に会いに来た息子が、今まで伝えられなかった思いのたけを、母親に語りかける場面は、監督自身の思いが強く込められているように感じた。

もっと早く母親を大切に思う気持ちや、感謝の念を伝えておけばよかった。
今その思いを伝えようとしても、母親は無反応に座ってるだけだ。
あの母さんはどこにいってしまったんだ?

劇中で母親のことを気にかけてばかりいる息子に、嫁が「ほんとマザコンよね」と呆れてる場面があるが、この映画はリリー・フランキーの『東京タワー…』に似てるかも知れない。
「息子が母親に愛情を示すことのどこが悪いんだ?」という視点が。

主人公にはしんどい状況ばかりが描かれるが、決して暗く沈んだようなタッチではない。
その底には静かなユーモアが流れてるからだ。

母親ゴゴが夫が生きてれば今年は100才になるからと、息子に記念の行事をやれと言う。
石を切り出して、父親の好きだった詩を刻んで、その碑を建てることになる息子。
だがなぜかその式典に母親ゴゴは参列せず、息子は電話の向こうの母親に、参列者が詩を歌ってる声を聞かせると
「その詩は父さんは嫌いだったよ」

俺のとこでは父親にアルツハイマーの症状が出始めてきてる。介護する母親のことも時々わからなくなるようで、お手伝いさんかなにかと思ってる。
「こんな夜中にまで申し訳ないねえ」と言われたと。
次の日には母親本人と認識してて
「あの人にはちゃんと金を払ってるのか?」と。
足が悪いから徘徊される不安はないが、症状は進んでいきこそすれ、改善することはないようなので、この映画に描かれることは他人事ではないな。

2012年2月19日

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:映画

TNLF『ラップランド・オデッセイ』 [トーキョーノーザンライツフェス2012]

『ラップランド・オデッセイ』

ラップランドオデッセイ.jpg

「北欧好き」を公言してるくせに、昨年「フィンランド映画祭」というのが有楽町で開催されてて、この映画も上映されてたなんて知らなかったよ、やれやれ。
今回の「トーキョー・ノーザンライツ・フェスティバル」の作品解説によると、この映画は2010年のフィンランド映画興収1位を記録したという。

フィンランドも日本と同じような時期に、テレビのアナログからデジタルへの移行が行われたようで、映画の主人公で、会社の倒産以来5年も無職のままでいるヤンネが、恋人のイナリから「翌朝までにデジタルチューナーを買って来ないと別れる!」と言われて、200キロ先の町の電気屋まで、悪友を伴って旅に出るというプロット。


『ハングオーバー…』や『ロード・トリップ』を参考にしてる感じは随所に見られるが、いきなり冒頭の、主人公ではなく友達ラプのモノローグが暗い。
彼らが住んでるのは、フィンランドでもヘルシンキとか、大都市のある南の方ではなく、北のラップランドと呼ばれる地域。
村を見渡す丘の上に一本の老木があり、先祖代々、行き詰った男たちが、その枝で首を括ってきた。
なんか倍賞千恵子が出てた『旅路 村でいちばんの首吊りの木』みたいだが、意外と逆境に対して諦めが早いという、フィンランド人の国民性を表してるようだ。

そのエピソードから始まって、(たかが)デジタルチューナー1台のために、諦めずに体を張った旅を貫徹しようとする、主人公ヤンネの姿を描くことで、そんな国民性を打破してこうぜ、というポジティブな着地点に辿り着く、晴れやかな後味を残す映画になってた。

主人公ヤンネと、首吊りのモノローグ語ってたラプに、マザコンで人の好いカイハという、失業率の高い国で暮らす、ドン詰まりな3人が車で旅するわけだが、実は一番キャラ立ちしてたのは、恋人イナリの十代の頃の元カレ。
こいつは3人と対照的に仕事で成功収め、立派な家に住んでる。
旅の途中に立ち寄ることになるんだが、元カレは事情を聞くと
「ウチにはデジタルチューナーの古いのがあるからやるよ」
と上から目線。ヤンネは
「こいつから恵んでもらうもんか」
と意地張り目線。
両者がデジタルチューナーのスペックを巡って言い争うのが可笑しい。
「HDMI端子は?」とか「タイムシフト機能がなきゃ駄目だ」とか。

北欧の人たちもこの手のテクノロジー好きみたいだね、日本人と同じに。
そういやケータイ端末世界シェア1位は、フィンランドの「ノキア」だし、2位の「エリクソン」はスウェーデンの会社だし。洗練されたデザインのオーディオ機器で有名な「バング&オルフセン」はデンマークの会社だしね。

その元カレが、ヤンネがチューナーを受け取らず、立ち去ったのを見計らって、ヤンネと同棲中のイナリのもとを訪れ、彼女に別居をそそのかし、ついでに復縁を迫ろうとするんだが、その下衆な行動が、この映画一番の笑い所になってる。元カレ退場の場面もいい演出だ。

「珍道中もの」だから、行く先々で細かいエピソードが積み重ねられるんだが、その中でも、トナカイを轢いてしまって困ってるロシア人家族と遭遇する場面が楽しい。
チューナーを買う資金を工面しなきゃならないヤンネたちは、
「轢いてしまったもんはしょーがないので、この際トナカイの肉を食べてみたい」
と言うロシア人と交渉し、調理して金を貰うことに。
だが解体などしたこともなく、血抜きをしようとナイフを突き立てたら、トナカイが突然叫び出し、マザコンのカイハはピューッと逃げ出してく。
ドタバタしたがなんとか調理して、ロシア人の別荘ですっかり打ち解ける。だが金を貰う前に酔いつぶれたロシア人から「財布から抜いてけ」と言われ、手を伸ばした所を、その男の仲間に「泥棒!」とカン違いされ、3人はライフルを乱射され、逃げ惑うはめに。
ライフルは実弾じゃなく、ペイント弾なのだが。
スノーモビルを奪取して逃げ去ったヤンネたちだが、免許証をその場に落としてしまう。それが伏線になってるんだが、ああいうオチになるとは予想してなかった。

とにかく話のまとめ方が気持ちいいので、フィンランドで人気だったのも、そのあたりが理由にあるのかも。
先に述べた『ハングオーバー…』ほどじゃないが、下ネタもある。
だがあの映画のようなバイオレントな描写は極力避けてる印象だ。
ロシア人のペイント弾しかり、途中のレストランで、日頃のケンカ相手の3人組と角突き合わす場面があるんだが、アメリカ映画のように店内で殴り合ったりはしない。寒い外に出て取っ組み合う。その描写を店内から窓越しに、小さく映してる。

正直それほどギャグが弾けるという映画じゃないんだが、描写をエスカレートさせればウケるだろうが、あえてそれをしないという所に、フィンランド人の奥ゆかしい国民性を感じたりする。
なので他愛ない話ではあるんだが、後味がいいのだろう。

2012年2月18日

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:映画

TNLF『友達』安部公房原作をスウェーデンで [トーキョーノーザンライツフェス2012]

『友達』

友達.jpg

「トーキョー・ノーザンライツ・フェスティバル(略してTNLF)」にて、日本公開から24年ぶりに発掘上映されることとなった、安部公房の小説の映画化作。
セゾン・グループの総帥・堤清二が製作総指揮を執った日本とスウェーデンの合作だ。
製作の翌年1989年にシネセゾン系のミニシアターで公開されたと記憶してるが、当時は見逃した。

この映画をずっと見たいと思ってたのは、「まだ肥えてない頃」のステラン・スカルスガルドの貴重な一作でもあるからだ。
『ドラゴン・タトゥーの女』では、スウェーデン舞台ということもあり、その代表格として、重要な仇役を振られてたが、彼がハリウッド映画に顔を出すようになったのは、1990年の『レッド・オクトーバーを追え!』で、まさに追う側のソ連潜水艦の艦長を演じたあたりからだ。
その後『ウインズ』でヨットの設計士を好演してた。
日本で顔を知られるようになったのは、1996年のラース・フォン・トリアー監督作『奇跡の海』での、半身不随でベッドに寝たきりの夫を演じて以降だろう。

俺は前もこのブログで書いたが「北欧好き」なんで、もうだいぶ昔になるが「北欧映画祭」で上映された1987年作『ヒップ・ヒップ・フラー!』で、19世紀の北欧の若い画家を演じたステランを見て以来のファンなのだ。
その時期には本国ではかなりなスターだったようで、スウェーデン軍の特別捜査官を演じた「カール・ハミルトン」シリーズに2作主演し、アクション・ヒーローを渋くキメてた。
これは『神々のテロリスト』『D(デッド)スナイパー』という題名で、共にマイナー・メーカーからビデオ・スルーで出てたのだ。
近年では画家ゴヤを演じたりもしてるが、ハリウッド映画では、ドスを利かせた仇役が多いね。40代以前のスリムなステランを知ってる日本人が少ないのが残念だ。

ステラン.jpg

というわけで、この『友達』なんだが、安部公房なんで「不条理劇」だ。
日本・スウェーデンの合作だが、舞台はアメリカで、主演も『ヤング・ゼネレーション』が「午前十時の映画祭」で上映されてた、なつかしのデニス・クリストファーだ。


バブル真っ盛りのアメリカ、主人公のジョンは、高名な法律事務所の弁護士助手として、高給を取り、ガラス貼りの高層マンションのペントハウスを借りてるという身。
サラというフィアンセには結婚をのらくらと先延ばしして、独身貴族を満喫している。

だがある日、ジョンがシャワーから上がると、見も知らぬ家族6人が、ジョンの部屋に入ってきてる。しかもいきなり我が家のようにくつろぎ始める。わけがわからないジョンは最初は「ドッキリ」かと思うが、そうではないとわかると、6人を出ていかそうとする。だが
「ひとりで居るのはよくない」
「我々は君の孤独を救おうとやってきたんだ」
などと言い出す。

ジョンは管理人を呼び出し、警官にも来てもらい、事情を説明しようとするが、6人の家族たちは警官を言い含めてしまい、埒があかない。
出社時間も迫り、面倒臭くなったジョンは
「僕が帰るまでに出て行け!」
と言い残し、家を出た。帰宅しても当然6人はまだ居た。
ジョンはたまらずサラの家に。だがサラは結婚を引き延ばすジョンの不誠実さに不満があり、やがてサラまでもが、6人の家族に丸めこまれてしまう事態に。

ジョンも6人の家族の一方的なペースに巻き込まれる内に、慣れが生まれてきてしまう。
その家族は結束が強いようで、それなりに家族内に問題を抱えてるようでもあり、その末娘に惹かれるようになったジョンは、一緒に逃げようと持ちかける。
だが6人との生活のせいで、仕事にも支障をきたし、ジョンは精神的にも追いつめられていく。


「見知らぬ闖入者によって生活を乗っ取られる」というプロットは、『世にも奇妙な物語』のネタにもなりそうな感じだが、実際あのテレビシリーズの一編くらいの長さで描かれたエピソードと、内容は変わらないという印象だ。
つまりこの映画、上映時間は86分と、短めにも係らず、間延びして感じてしまう。
ひと言でいうと「なんかヘタ」。

まず主役のデニス・クリストファーが、リアクションにしろ「浅い」んだよね演技が。シリアスなんだか、一種のブラックコメディとして演じたいのか、中途半端なのだ。
これはむしろ演出プランに問題があるんじゃないか?
人物設定も、主人公のジョンが、高給を取るような有能な仕事ぶりは見られないし、フィアンセに内緒で自堕落な生活してるしで、そんな男が迷惑な目にあったとしても、本人の身にはなれない。
この6人の家族は新興宗教のメタファーのようでもあり、また「勝手な価値観のもと、標的に近づいていき、用なしと思うと切り捨てて、次の標的を探す」という、団体様による『ステップ・ファーザー』のように見ることもできるし、もう少し面白くしようがあったんじゃないか?

これを見てる間、連想してたのが、ブレット・イーストン・エリスの小説『アメリカン・サイコ』だ。
クリスチャン・ベイル主演の映画版は、原作の濃縮なゴア描写を100倍位に薄めた「へっぴり腰」な出来で、話にならなかったが、小説は最高だ。それこそ園子温監督に撮ってもらいたかったよ。

実はこの『友達』の主人公の設定とよく似てるのだ。
時代背景が80年代バブルのアメリカで、高給マンションに住むヤッピーで、フィアンセがいるのに、「フーゾク」に手を出すような主人公。
この映画のジョンとちがう所は、『アメリカン・サイコ』の独身貴族ベイトマンは、殺人狂なのだ。
なのでもしこの映画の6人の家族が、ジョンではなくベイトマンの部屋に入り込んでたら、どうなるだろうと。
多分最初の内は6人のペースに乗せられた振りをして、油断を見たところで二人の娘をギッタギタに陵辱してから、チェーンソー振りかざして、6人を切り刻んでくだろうね、ベイトマンなら。

とまあそんな凶暴な妄想に駆られてしまうほどに退屈してしまったのだ。
主演のデニス・クリストファーと、フィアンンセ役の女優はアメリカ人で、6人の「家族」はスウェーデンの俳優が演じてる。ジョンを誘惑する上の娘には、まだ若いレナ・オリンが扮してる。

先のステランは長男役で、実にスリムだ。だがいかにも80年代なビニールコートが気恥ずかしい。
誰の歌だがわからないんだが、これも80年代の「産業ロック」風のバラードが流れてたり、まあ当時はカッコいいとされてたんだろうな。
ファッションにしろメイクにしろ、例えば70年代もダサい感じはあったけど、それは1周回って「それもアリ」なファッションと捉えられてるけど、80年代のダサさは、これから何周回っても、やっぱりダサいままかも知れない。

そんなわけで、貴重な物を見れたという以上の手応えは得られなかった。

2012年2月17日

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:映画

TNLF『ネクスト・ドア/隣人』 [トーキョーノーザンライツフェス2012]

『ネクスト・ドア/隣人』

ネイバース隣人.jpg

北欧圏の映画を集めて上映する「トーキョー・ノーザンライツ・フェスティバル(略してTNLF)」が、今年も昨年と同じく、渋谷のユーロスペースで開催されている。
昨年はルーカス・ムーディソン監督特集があり『リリア4ever』をようやく見れた他、『レイキャビク・ホエール・ウォッチング・マサカー』など4本を見た。今年も4,5本という所になるかな。

この映画の監督はノルウェーのポール・シュレットアウネ。1996年のデビュー作『ジャンク・メール』が日本公開されてる。郵便局員がストーカー行為を働くという、全く共感を持たれなさそうな話なんだが、予期しない方向に転がってく脚本で、最後まで飽きずに見れたという印象がある。
この映画は2005年に撮ったサイコスリラーだ。かなりエロくてバイオレントな描写もあり、本国ノルウェーでは滅多にない「成人指定」を食らってる。


古めかしいアパートの5階の部屋に住んでるヨーンのもとを、つい最近別れたばかりのイングリットが訪ねて来る。憔悴するヨーンを横目に、彼女は私物を持ち帰ろうというのだ。新しい彼氏が下の車で待ってる。クラクションに窓から手を振って反応してる。
ある一件がイングリットに別れを決意させたんだが、どうもその話を新しい彼氏にしたらしい。なぜプライベートなことを、他人に話したりするんだと、ヨーンは気色ばんで彼女を責めるが、イングリットは荷物を抱えてドアへと背を向けた。

別の日、ヨーンは会社帰りの、アパートのエレベーターに乗り合わせた若い美人が、自分と同じ階の、しかも隣りの部屋の住人であることを知る。鍵を取り出してると、声をかけられた。
彼女はアンネと名乗った。ヨーンが自己紹介すると
「知ってるわ」と。
部屋にある大きな家具を動かしてほしいと言う。
「少し待って」と言うと
「別に急ぐ用事もないんでしょ?」

ヨーンは半ば強引に部屋に招かれ、タンスをドアの前に移動するよう頼まれる。なぜそんな場所に?と考える間もなく、アンネはシャンパンを用意して、ヨーンを居間に誘った。
そこにはもう一人若い美人が。妹のキムだと言う。キムは意味ありげな視線をヨーンに投げかける。
落ち着かず、帰ろうとすると
「彼女と別れて淋しいんじゃない?」
「なぜ知りもしないことを?」
「隣りから声が聞こえてたわよ」
この二人は、壁を通してヨーンの私生活を把握しているようだった。
気味が悪くなり、ヨーンはその場を立ち去る。

自分の部屋に戻り、隣りとの壁に聞き耳をたてても、なにも物音は漏れ聞こえてこない。ドアがノックされ、開けるとまたアンネが。不快なのでドアを閉めると
「キムはレイプされたの」
ドアを開け話しを聞くと、以前ヨーンの前にこの部屋の住人だった男に、キムが連れ込まれてレイプされたと。
それ以来キムは引き篭もり状態で、ドアの前にバリケードを築いてないと気が休まらないのだ。
自分が薬局に行く間に、様子を見てやってほしいと言われ、ヨーンは渋々隣りの部屋を訪れた。

先程に入った居間の向こうにも、これが同じアパートの部屋かと思うほどに、迷路のような部屋割りがなされている。その奥の一室にキムがいた。ほとんどショーツ一枚のような扇情的な格好でソファーに座ってる。
中カギをかけられ、出ように出られない。
「私の話しを聞いてくれたら帰してあげる」
キムは部屋を訪れた3人の内装工にレイプされた時のことを、生々しく語り始める。
ヨーンは聞きながら妙な気分に襲われてきた。

キムは話し終わると、いきなりヨーンを平手打ちした。唖然としてると今度は拳が飛んできた。
カッとなり殴り返す。するとキムは昂奮し出して、服を脱ぎ「もっとやって」と、ヨーンの顔面を殴りつける。
ヨーンはセックスしたまま、何度も何度もキムの顔面に拳を叩き込んでいた。
朦朧としたまま、自分の部屋に戻ったヨーンは、洗面所の鏡を見て愕然とする。
顔面はアザだらけで、無数の切り傷ができ、白いワイシャツの胸の部分は真っ赤に染まっていた。

翌日腫れの引かない顔で出社したヨーンは、同僚たちの好奇の目にさらされた。
会社帰りに、どうしてもキムのことが気にかかり、ヨーンは隣りの部屋のドアをノックした。そして、ヨーンをさらに混乱させる事態がそこには待っていたのだ。


最初はヨーンが、なんでこんな簡単に隣人の言葉に乗ってしまうのかと、苛々させられるんだが、実はその反応も織り込み済みという、ミスリードぶりが上手い。
ポランスキー監督の『テナント/恐怖を借りた男』のような、強迫観念や妄執を背景にしたサイコスリラーというわけだ。
ヨーンとイングリットが別れる「一件」というのがキーポイントになってく後半は、一気呵成という展開で、75分というタイトな上映時間に1分の緩みもない語り口は見事だ。

次第に神経衰弱に陥ってくヨーンを演じるクリストファー・ヨーネルに見応えがある。
会社に出て来ないヨーンの部屋を同僚が訪ねる場面。
ドアを少しだけ開けたヨーンが同僚に
「君がいま立ってるのは廊下だよな?」
と言って、恐る恐る手を伸ばして、同僚の体に触れる。
この場面がなんとも切ない。

ポール・シュレットアウネ監督はノオミ・ラパス主演の新作を完成させてる。
それも見れるようになればいいんだが。

2012年2月16日

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:映画

若妻ジュディ・ギーソンに釣られる [映画ワ]

『若妻 恐怖の体験学習』

d0855.jpg

男には「若妻」という文字に反応してしまう性(さが)というものがあるのだ。映画の題名にもこれが入ってると、俄かに興味が高まる。
俺にはいづれも見に行かなかった3本の映画があるが、例えば『僕と妻の1778の物語』が『僕と若妻の1778の物語』になってたら見たかも知れないし、『死にゆく妻との旅路』が『死にゆく若妻との旅路』になってたら、若妻が石田ゆり子であっても見たかも知れないし、『余命1ヶ月の花嫁』が『余命1ヶ月の若妻』になってれば確実に見に行っただろう。

この映画は1972年の英国ハマー・プロ製作のサスペンスで、日本では劇場未公開、昔テレビで何度か放映されてたものだ。DVDになってたので、題名に釣られて買った。理由はそれだけじゃなく、英国フェロモン女優のひとりジュディ・ギーソンが主演だからでもあるが。
この題名は昔のテレビ放映時のものを採用してるようだが、それにしても、うまいこと気を引くようにつけたもんだと、見終わってから感心したよ。原題は「恐怖の夜」というような味もそっけもない意味だもの。


ジュディ・ギーソン演じるペギーは、4ヶ月前に知り合ったロバートとスピード結婚したばかり。ロバートが単身赴任してる、ロンドンから遠く離れた寄宿学校に、新任の女性教師として雇われることに。
だが荷造りを進めるその晩に、アパートで義手をつけた侵入者に襲われた。ペギーは気を失うが、何も捕られず、怪我もなかった。アパートの大家は彼女の話を信じてないようだ。
ペギーは半年前までノイローゼで精神科医の診察を受けてたのだ。

ショックも癒えぬまま、ペギーは寄宿学校を訪れる。森に囲まれた広大な敷地に立つ、チューダー様式の校舎。学校は休みの期間で、生徒も教員のひとりも見かけない。
ペギーが建物の中を探索してると、ドアの向こうから教師の声と、生徒の歓声らしき物音が。だがペギーがドアを開けると、物音は止み、振り返ると、そこには肖像画にあった顔の老人が。
この学校の校長カーマイケルだった。彼はペギーを連れて校内を案内しつつ、自らの教育理念をとうとうと語った。ペギーは気づかなかったが、その左手は義手だった。

ペギーはロバートとの新生活に、落ち着きを取り戻しつつあったが、その矢先、またしても敷地内の自分たちの住家で、義手の侵入者に襲われ、またしても気を失う。
「ロンドンから私を尾けてきたんだわ!」
ロバートに訴えたが、彼も半信半疑の様子だ。
「警察を呼びたいなら呼ぶよ」
と言われたが、ペギーは躊躇した。

気晴らしにとロバートは敷地内の美しい川辺にペギーを誘った。
ペギーはそこでカーマイケル校長の妻モリーと顔を合わす。
モリーはロバートには親しげな口調で、ペギーはこの校長には不釣合いな若い妻を不快に感じた。

ロバートがカーマイケル校長の代理で、ロンドンの学界の集まりで家を空けた夜。ペギーはロバートのジープに積んであったライフルをそばに置いて、不安な一夜をやり過ごそうとしていた。
だが物音がして、ライフルを手に部屋を出ると、目の前に義手をつけた男が。それがカーマイケル校長と分かると同時に、ペギーは引き金を引いていた。
だが撃たれたはずの校長は起き上がってきて、ペギーは、またまたまたしても気を失うのだった。

ロバートが家に戻ると、ペギーは人が変わったように、無表情になってた。ドアが壊された跡や、血のついた床、何を聞いても生返事しか帰ってこない。カーマイケル校長の姿も見えない。
ロバートはペギーが校長を撃ったのか確かめるため、彼女に秘密にしてたことを打ち明けた。

実はこの寄宿学校はもう十年以上も前に閉校になってると。
カーマイケル校長が火事を出し、多くの生徒が亡くなった。校長自身も火傷を負い、当時医者をしてたロバートと知り合ったのだ。校長はショックで、精神的に時間が止まってしまった。親族から校長の面倒をずっと見てくれるなら、報酬は十分に出すと言われ、ここに来たのだと。

生徒の合唱の歌声や、授業での受け答えの声はすべてテープによるもので、校長は今も授業を行ってるつもりでいるし、昼食も学校の皆と一緒と思ってるので、テーブルも食器も揃えて置いてあるのだ。
なので校長の居所がわからないと困ったことになると、ロバートは言った。
そこに校長の妻モリーが入ってきた。
そしてさらなる真相が、ペギーの眼前に展開されることになる。

ジュディギースン.jpg

まずね題名の「若妻」はその通り、「体験学習」といったって、学校やってないしね、でもある意味「学習」と言えなくもない目に遭ってるね。
映画の脚本としては、非常に低予算構造となってて、会社としちゃ有難いだろう。寄宿学校を舞台にして生徒の一人も出さずに済む設定だし、映画全体でも登場人物10人いないからね。建物に火をつける場面もないし。

しかしせっかくジュディ・ギーソン出してるのに「エロ要素」一つもないのはガッカリだよ。1本の映画の中で3回も気を失うヒロインてのも珍しいけどな。
『ナイト&デイ』のキャメロン・ディアスがいたか、そういえば。
ハマー・プロの大スターであるピーター・カッシングの、風格ある怪演は見れるけど。
悪女が似合うジョーン・コリンズが、もうちょいジュディ・ギーソンをいじめるような場面でもあれば、俺もテンション上がったんだが。

2012年2月15日


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:映画

TV放映題名は『連続殺人警官』 [映画カ行]

『カリフォルニア・キッド』

d0145.jpg

30年前位までは、関東地区では各曜日ごとにテレビの「映画放映枠」というのが、ゴールデンタイムにあった。
正確には火曜日はなかったかも。民放各局で曜日がちがい、それぞれに映画放映前に解説がついた。
日曜日はその先駆けのテレ朝(旧NET)「日曜洋画劇場」で解説は淀川長冶、
月曜日はTBS「月曜ロードショー」で解説は荻昌弘、
水曜日は日テレ「水曜ロードショー」で解説は水野晴朗、
木曜日はテレ東「木曜洋画劇場」で解説は南俊子、
金曜日はフジ「ゴールデン洋画劇場」で解説は高島忠夫、
土曜日は再びテレ朝「土曜映画劇場」で児玉清(その前任者がいたが)となってた。

キングレコードから原題『カリフォルニア・キッド』でDVDリリースされた本作は、「土曜映画劇場」の枠で『連続殺人警官』という題名で放映されてた、1974年のTVムービーだ。
つい最近まで原題でDVDになってたことを知らなかった。よくこんなものまで引っ張ってくるな、さすがキングと思うが、それなら同じ「土曜映画劇場」でやってた『殺人ブルドーザー』もDVDにしちゃってよ。買うかどうかわかんないけどさ。

この映画がDVDになった一番の理由は、出てくる車にある。
主人公マーティン・シーンが運転するのが、34年型のフォード・クーペをホットロッド仕様にカスタマイズしたマシン。ZZ TOPのアルバム『イリミネーター』のジャケになってるヤツ。
『アメリカン・グラフィティ』でポール・ル・マットが乗ってた、レモン色の32年型デュース・クーペ、あれよりデカいエンジンを積んでる。黒の車体にド派手な赤い炎をあしらって、カッコいいね。

カリフォルニアキッドフォード.jpg

1958年のカリフォルニアの小さな町。橋を越えて34年型フォード・クーペが、町に入ってくる。
すぐに一台のパトカーが現れ、運転する若者は職質を受ける。
「速度を5キロオーバーしたぞ」
「パトカーのホイールのせいだよ」
「なんだって?」
「ホイールがデカいと、メーターに誤差が生じる」
保安官ロイに対して、全く動じてない。若者は署に行き、罰金を払うが、町を出る様子はない。

若者の名はマイケル・マッコードといい、数日前にこの町の州境近くの山道で、カーブを曲がりそこねて転落死した若者と同姓だった。
その州境近くのカーブではすでに7人のドライバーが命を落としていた。その時追跡してたのは、常に保安官ロイの、チューンナップされたパトカーだった。
マイケルは事故地点に車を走らせ、何度も猛スピードでカーブに突っ込んでくが、転落するのは不自然としか思えなかった。

一方、保安官はマイケルがこの町をうろついてるのが気に入らない。保安官ロイは5年前、この町のメインストリートで、妻子をスピード違反の車にひき逃げされていた。犯人は捕まらず、それ以来、スピード違反の車に異常な憎悪を向けるようになってたのだ。
追跡して停まらなければ、州境まで追いつめ、あのカーブの直前で、バンパーに取り付けた鉄製のアームで、後方から追突して転落させる。事故車輌は町の自動車工場に払い下げられ、部品ごとに解体され、証拠も残らないというわけだ。
だがマイケルは事故の真相に迫りつつあり、両者の対決は避けられなくなっていた。


保安官ロイを演じるのはヴィック・モロー。このTVムービーと同じ年の『ダーティ・メリー/クレイジー・ラリー』でも、ピーター・フォンダたちを執拗に追いつめる警官を演じてた。この時期の彼は悪役として充実してて、前年1973年のやはりTVムービーで、トルーマン・カポーティ原作の『暗黒の檻を暴け』では、看守も手なずける刑務所のドンのような囚人を、ドスを利かせて演じてた。

マーティン・シーンは、丁度テレンス・マリック監督のデビュー作『地獄の逃避行』で主役を張った直後位の時期で、映画会社としては、彼をジェームズ・ディーンのようなイメージで売り出そうとしてたようだ。
この作品でもリーゼントでこそないが、目を細めて見上げて話すみたいな、そういうポーズをつけてる。ただスタイルがいまいちスリムじゃないのと、時代がらなのか、白ジーパンとか履いてるし、何かキメきれてない感じだな。好きな役者なんだけど。
ちなみに冒頭で転落死するドライバーを演じてるのは、彼の双子の弟ジョー・エステベスだ。
自動車工場を経営する若者を演じるニック・ノルティもまだ無名の時代。

DVDの解説では『激突!』を引き合いに出してるが、ああいうサスペンス・アクションとはテイストがちがう。
むしろ西部劇の構造だね。悪役が一方的に恐怖を与えてくるんではなく、逆に余所者の出現によって、心理的にプレッシャーをかけられてく。
ミッシェル・フィリップス演じるカフェの店員は、西部劇でいう、酒場の女という立場だ。
マーティン・シーンのフォードが去ってくのを見送る、さりげない演出も西部劇っぽい。

監督のリチャード・T・ヘフロンはこの頃はTVムービーを撮り続けてたが、後に『未来世界』『アウトロー・ブルース』を経て、『探偵マイク・ハマー/俺が掟だ!』という決定打を叩き出す。

2012年2月14日

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:映画

ウィレム・デフォーによる「タスマニア物語」 [映画ハ行]

『ハンター』

img3615.jpg

2本見たこの日は、『ドラゴン・タトゥーの女』が本命で、こっちはサブと考えてたんだが、なんだなんだ面白いぞ、かなり。
ウィレム・デフォーの単独主演映画がシネコンにかかるのも意外な感じだし、予告編で見た印象は、孤高のハンターの旅を描いた、ハードボイルドな内容ではないかと、見てみることにしたのだ。
実際始まってしばらくは、渋くて地味という感触で、シネコンの客層にはそぐわないんではないかと思ったが、いい意味で予想を裏切るような展開を見せるのだ。

ウィレム・デフォー演じるマーティンが、バイオテクノロジー産業の会社から依頼されたのは、タスマニア島へ行き、幻の「タスマニア・タイガー」を捕獲する仕事だった。凄腕のハンターとして名を知られていたマーティンは、仕事を請け、資料の映像をじっと眺める。そこにははるか以前に捕獲された、背中に縞のあるタスマニア・タイガーの姿が。

このプロットなら、日本映画の『タスマニア物語』があったね。タスマニア・タイガーを探すのは田中邦衛だったから、アクの強さに関しちゃ、デフォーといい勝負ではある。だけど向こうのは、小学生高学年くらいの兄弟が、父親に会いに行くような設定で、最初からファミリー映画の作りだった。
こっちはデフォーがひたすら孤独に、幻の動物を追い続ける、そういう「男のドラマ」と思って見てたのだ。
するとこっちにも出てくるじゃないか子供が。


マーティンは、タスマニア島現地のガイドから、宿を用意してもらってたが、そこは幼い姉弟と、寝込んだままの母親が住む民家だった。
動物学者の父親は、環境保護調査のため、原生林に入ったまま、もう長く音信を絶っているという。
発電機は壊れて電気が使えず、バスタブは長く放置され、湯も出ない。やたらと話しかけてくる上の女の子サスと、無口な下の男の子バイクがまとわりついて来る。子供たちは長く父親と会えずにいて淋しいようだ。
だがマーティンにはそのすべてがストレスでしかなく、逃げるように雑貨店に買出しに出る。

バーに立ち寄ると男たちの敵意に満ちた視線に晒される。男たちは地元で、森林を伐採して生計を立ててる。この地は環境保護活動が盛んで、その活動家たちとは険悪な状況にあるのだ。
マーティンは活動家に見られたようだ。
マーティンは大学の研究者を装い、タスマニアの原生林を何日か掛けて移動し、宿に戻るという生活を始める。

タスマニア・タイガーの痕跡は容易には見つからないが、他の人間が仕掛けた鉄製のワナは、原生林のいたる所に散見された。マーティンは鉄製のワナは使わない。標的が好む小動物を狩って餌とし、すべてそこにある木や枝を用いて、昔の狩猟のやり方でワナを作る。あとは五感を研ぎ澄ませて気配を追う。その繰り返しだ。

宿に戻ると、男手がなく、具合の優れない母親に代わり、マーティンが自分が快適に過ごせるように行う事が、その家族の生活の改善に繋がっていく。最初は疎ましく思ってた子供たちとも打ち解けるようになっていた。
無口なバイクがじっと見守る中で、何時間もかけてようやく発電機を動かすことができ、笑顔ひとつ見せなかったマーティンは、子供の前で歓声を上げる。
バスタブに湯も張れるようになり、マーティンは母親のルーシーを抱えて風呂に入れてやる。
ルーシーのベット脇のテーブルには大量の睡眠導入剤などが置いてあり、それはガイドのジャックによるものらしい。
ルーシーは初めてまともに挨拶を交すマーティンに、風呂の礼を言い、家族で食卓を囲んだ。
マーティンは不思議な感慨におそわれていた。今までの人生で、子供たちと時間を共にすることなどなかったし、求めもしなかった。だがこの居心地は決して悪いものではなかった。

マーティンは家族との会話の中から、行方の知れない父親が、自分と同じようにタスマニア・タイガーを探してたことを知る。
なぜか言葉を発することがないバイクは、マーティンに自分の描いた絵を見せる。そこにはタスマニア・タイガーと、大きな木と、点在する水辺のようなものが描いてあった。
「この場所にいるのか?」

マーティンは翌日から水辺らしき場所を特定し、痕跡を辿る。
するとその場所には白骨化した死体があり、その頭蓋骨には銃弾を受けた穴が。遺留品から宿の家族の父親であることがわかる。
さらに、バイクの描いた絵の紙の裏側には、マーティンに仕事を依頼した、バイオテクノロジーの会社のロゴがあった。
今回の仕事や、家族の周辺にキナ臭さを感じたマーティンだが、その宿の母子たちにも、危機が迫っていた。


映画を選ぶ時に、子供が物語に絡んでるとわかってたら、スルーしてたかも知れない。そういう手のは苦手だからだ。
だがこの『ハンター』の場合は、自分の予断とちがう展開で、子供たちが出てきたんで、逆に興味を引いた。それにこの子供たちが素朴で可愛い。
ウィレム・デフォーと子供たちという、全然そぐわない感じが、いい距離感を生んでもいる。大体デフォーの骸骨みたいな面相がヌッと出てきたら、子供は普通ならビビるわな。

これが俺が当初思ってたような、ハンターが原生林をひたすら獲物を追い求めてく展開だったら、渋くはあるが淡々とし過ぎてたかも知れない。
タスマニアの陰影に富んだロケーションの美しさは堪能できるのは間違いないが。
デフォーと子供たちの触れ合いの場面がことの他よかったんで、家族に悲劇が襲うのはちょっと辛い思いがした。ラストはこうなってほしいという、その通りの描写になってるが、ベタであっても、ジンとくるものがあった。

俺はレイトで見たんだが、観客は男ばかりだった。そういう映画の印象があるからだろう。でも見終えると、これは小さい子向けではないが、家族で見てもいい内容だ。暴力的な場面もほとんどないし。

『タスマニア物語』では肝心のタスマニア・タイガーの描写がビミョーな事になっており、思い出の片隅に追いやられているようだが、この映画ではウィレム・デフォーの演技も相まって、心に沁みるような描写に仕上がってる。

2012年2月13日

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:映画

リスベットやっぱりか [映画タ行]

『ドラゴン・タトゥーの女』

img3499.jpg

トレント・レズナーとカレン・Oによるユニットの『移民の歌』のカヴァーは、この映画の予告編だけのものかと思ってたが、もろタイトルバックに使ってた。ダニエル・クレイグが出てるからということでもないんだが、なんか007のオープニングを連想しちゃうね。
スウェーデン版の『ミレニアム ドラゴン・タトゥーの女』は導入部は静かな滑り出しだったんで、「こっちはハリウッド映画だよ」という意思表示のようだった。

スウェーデン版『ミレニアム』3部作は一昨年、日本で公開されてて、俺もシネマライズで3本とも見てる。その後DVDにもなってるから、見てる人も多いだろう。
スウェーデン版を見てなくて、このハリウッド版を見る人はどのくらいの割合でいるのか、まあそれはわからないが、逆に『ミレニアム』を見ていて、尚かつ、このハリウッド版を見ようという人の動機に上げられるのは何か?
ミステリーだから、当然結末がわかって見るわけで、謎解きの面白さを抜きにしてでも、というと、やはり監督がデヴィッド・フィンチャーだからという点じゃないか。
普通の娯楽映画の担い手がハリウッド版を手掛けるというのとは、期待値が違う。
その焦点となるのが、『ミレニアム』が創造した、リスベットという強烈な個性のヒロインを、どう監督なりの解釈で作り上げるのかという所にある。

結論としては、過去の『ニキータ』や『ぼくのエリ 200歳の少女』のハリウッド版と同様、ヒロインがソフィスティケイトされてしまった印象だ。
『ミレニアム』のリスベットを演じたノオミ・ラパスが全身から発散させてた、敵愾心や、怒りを核に持つ禍々しいまでの外観など、「このヒロインにちょっとでも好感持てるんだろうか?」と見始めてしばらくは不安を抱かせるほどの役作りに比べると、今回のルーニ・マーラは、突拍子もない格好してるけど、それも愛嬌みたいに映りかねない、「乙女」が入っちゃってるかな。
『ミレニアム』を見てなければ、あの後見人との「犯したら、犯し返す、それも倍返し」な一連のシークェンスは、結構インパクト受けるんだろうが。

img1477.jpg

リスベットは凄絶な生い立ちゆえに、人と親和性を築けない。だがコンピューターを操る能力と、映像記憶力が卓越しており、そのことが、ジャーナリストのミカエルと出会いに繋がってく。
ニュースに顔をさらしていたミカエルに、興味本位でハッキングかけてたリスベットが、スウェーデンの財閥一族の長からミカエルが依頼された調査の内容に興味を持ち、メールを送ったことから二人が出会うのが『ミレニアム』の流れ。
「一族の令嬢が、一族の誰かに殺された」という事件の真相に、近親間の性的な虐待があるのではないか?
それがリスベットの過去、その彼女の怒りの源泉にリンクすることで、その事件の調査を手伝う動機づけになる。

だが当初ミカエルと共に聞き込みなどを行うのが居心地悪い。リスベットは人とまともに会話することも、行動することも初めてだったからだ。そのストレスのかかり具合を『ミレニアム』は見つめる描写があった。
そんな過程で、ミカエルが
「君の映像を記憶する力は凄いな」
と何の気なしに漏らした言葉。
リスベットは人から褒められた事など初めてで、動揺して部屋を飛び出してく。
実はこの時、リスベットとミカエルの心が繋がったのだ。この『ミレニアム』でも一際印象的なくだり、それに相当する場面が、今回のハリウッド版には見当たらないのが残念だ。


リスベットというヒロインが、ミカエルとの出会いを通して、自分の過去を払拭するまでは至らないまでも、初めて信頼できる人間のそばにいることで、鎧を着けて周りを威嚇してきた、その内面に温もりを得られるまでの、その身体のきしむような変化こそが『ミレニアム』が描き出したものだった。

デヴィッド・フィンチャーのリスベットには、その葛藤が見られない。
「令嬢殺人事件」の調査は、はなからミカエルと別行動で行われ、わりとあっさりとセックスに及んじゃうし、ミカエルに対しては「信頼」というより「愛して」しまってる。
財閥一族の件が落着した後の彼女の行動は、ミカエルのために行う「無償の行為」で、それは今まで人のために何か成すことなどなかったヒロインの、内面の変化を表してはいる。
あのいかにもハリウッド映画的な、切ない幕切れも悪くはないんだが。

フィンチャー監督は3部作の製作の可能性を否定はしてない。
『ミレニアム』のシリーズ3部作は、1作目の濃密さに比べて、2作目、3作目が演出が平坦で、いかにもあらすじをなぞった感じだったので、できればフィンチャー監督に続投して、ハリウッド版も3部作にしてほしい。
アクション的な要素は2作目の方がストーリーに多く含まれているし、金のかけがいもあると思う。

リスベット役のルーニ・マーラはヌードも辞さない熱演ではあったが、アカデミー賞候補とは持ち上げすぎ。もし彼女が続投となれば、戦うヒロインというより、ミカエルへの報われぬ愛を抱くヒロインという性格づけが濃くなりそう。

ダニエル・クレイグは非常によかった。北欧の白と灰色に相性がいいし、表情に知性と荒みが同居していて、見る者を落ちつかせない感じが、こういうミステリーの運び手にぴったりだ。
クレイグに見応えが出てしまってる分、ルーニ・マーラが割りを食ったともいえる。
眼鏡をスッとかけ直す仕草とか、何気ないけどカッコいいね。
捕まって拷問受けるのは『カジノ・ロワイヤル』以来だが、今度のも真に迫ってる。顔にビニール被せられて息できない感じとか、見てる方が息苦しくなる。「拷問映えする」役者だね。

2012年2月12日

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:映画

韓国版『グローリー』の戦場サバイバル [映画マ行]

『マイウェイ 12,000キロの真実』

img2163.jpg

だってオープニングに流れる合唱曲みたいなヤツ、『グローリー』のジェームズ・ホーナーのメインテーマそっくりだし。
日本人と朝鮮人、ふたりの男が主人公で、対立関係に置くとなれば、
「日本人卑怯!朝鮮人悪くない!」
な描写になろうことは予想はつく。
だがカン・ジェギュ監督はそこをテーマにしたいわけではないだろう。過去の2作の線上にこの新作を置けば、描きたいテーマや、あるいは嗜好は一貫してるんではないか?

一つは「人間の因縁」というもの。
近い距離にある二人の人間が、抗い難い力によって、憎しみ、対立、翻弄されてゆくという構図。
『シュリ』では、結婚も間近に控えた自分の恋人が、北朝鮮のスパイだと知ってしまう、韓国情報部員の苦悩を。
『ブラザーフッド』では、朝鮮戦争に徴兵された兄が、弟を戦地から家に帰すため、武勲を立て、権限を持てる地位を得ようと、鬼神の如く戦いに身を投じる内、正気を失っていく。弟は兄の真意がわからず、反発を募らせ、最後には「北」の軍服を着た兄と、戦場で相まみえる。

『恋人』『兄弟』と描いてきて、今回の関係性は『ライバル』だ。
マラソンランナーとして足を競った、憲兵隊司令官の孫、辰雄と、使用人一家の息子キム・ジュンシクの、流転の運命を、第2次世界大戦の激戦地をリレーして描いていくという、破天荒とも言えるようなストーリーになってる。

「実話」を元にしてるという謳い文句は、この手の映画にはつきもので、そこは話し半分でいい。
この映画が、『グローリー』を連想させるのは、キム・ジュンシクが、日本軍に徴兵されて、最前線に駆りだされるという展開。「自分たちのためにもならないような戦い」「大儀のない戦い」で死線をさまよう。

グローリー.jpg

『グローリー』は南北戦争を舞台にしていて、初の黒人兵で編成された部隊を描いている。リンカーン大統領は、この戦争を「黒人奴隷の解放」を大儀に掲げてたが、実際は国を一つの旗の下にまとめることにあった。
黒人兵たちは「自分たちのため」と聞かされながらも、その凄惨な殺し合いに、果たして意義などあるのかと疑問を持っていた。
一方、「黒人のため」と戦いに駆りだされた白人兵たちも、自分たちとは関係のない戦いで、血を流すなど、納得できるものではなかった。
映画の中で、同じ北軍の黒人部隊と白人部隊が、森で激しく衝突を起こす場面がある。互いに大儀を抱けない戦いに、身を投じざるを得ない、その理不尽が、『マイウェイ』のキム・ジュンシクに通じる所がある。

黒人部隊を指揮してたのは、若い白人指揮官で、デンゼル・ワシントン演じる若い黒人兵は、最初は何かと反発ばかりしてたが、映画のラスト、難攻不落の南軍の要塞を、黒人部隊が正面から攻めるという段になり、内面に変化が起こる。

日露戦争でいえば、旅順の要塞を正面から攻めた日本軍のようなもので、玉砕は必至なのだ。
だがその作戦に自分たち黒人兵を率いる若い白人指揮官は、先陣切って突っ込もうとしている。
銃弾の雨あられの中、要塞を駆け上がる白人指揮官が銃弾に倒れ、彼が持っていた部隊の旗を、デンゼル演じる黒人兵が、代わりに担いで先へ進む。
『マイウェイ』の、ノルマンディ上陸作戦のさ中に、キム・ジュンシクが、自分の認識票を辰雄に渡す、
「朝鮮人と思われれば、連合国の兵に殺されないですむ」
という場面を想起させる。
「託す」「託される」という行為の類似性だ。

『グローリー』も『マイウェイ』も俺が見る所では「反戦映画」ではない。
「玉砕を覚悟する」「意味のある死を選ぶ」という姿に、ロマンチシズムを見出そうとする作家の視線がベースにある「娯楽戦争映画」だ。あとは好きか嫌いかという問題だけだ。


俺が感服するのは、この「大ボラ」ともいえるような話を、画にして見せるためのプロダクション・ワークの本気度だ。

まずノモンハンでソビエト軍の戦車隊相手に白兵戦で望む、凄惨な戦闘場面を見せ、捕虜に取られ、シベリアの強制労働の場面を描き、そこから、モスクワを目指して進攻してきたドイツ軍と戦うため、ソビエト軍の兵士として駆り出されるジュコーフスキーでの戦い、ウクライナからヨーロッパを徒歩で縦断したキム・ジュンシクと辰雄が、辿り着いた海岸が、ノルマンディ上陸作戦の戦場となる、その場面まで、すべてに大掛かりな見せ場を作っている。
どこの国の人間を雇ってるか知らんが、ソビエト兵、ドイツ兵など、白人の俳優たちも多く登場する。

たまたま同じ日に、『山本五十六 太平洋戦争70年目の真実』も見たんだが、真珠湾攻撃の場面であれ、米国艦隊との海戦場面であれ、敵側の兵隊が全く画面に出て来ない。何と戦ってるのかわからないような空虚な戦闘シーンに呆れてたので、余計に違いが目立つのだ。

ファン・ビンビンは、『フルメタル・ジャケット』のラストに出てきた、ベトナム人少女スナイパーを思い起こさせたが、もう少し出番を引っ張ってほしかった。戦闘機一機撃ち落すって、カッコいい見せ場はあったけどね。

2012年2月11日

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:映画

押入れからビデオ⑩『エディ・コイルの友人たち』 [押し入れからビデオ]

『エディ・コイルの友人たち』

エディコイルの友人たち.jpg

先日ベン・ギャザラの訃報を聞き、『チャイニーズ・ブッキーを殺した男』でも見て偲ぼうと思ったんだが、録画してあったはずのビデオがどこ探しても見当たらない。
そうなると似たようなものでもいいから見たくなってきたんで、これを引っ張り出してきた。
1973年のピーター・イエーツ監督作。ボストンを舞台にした70年代版フィルム・ノワールだ。


ロバート・ミッチャムが演じる主人公エディ・コイルは、密造酒の輸送中にパクられ、起訴されて公判を待つ身。
50過ぎで前科持ちのエディは、財務省の捜査官フォリーから、組織の犯罪のネタを密告すれば、司法取引に応じてもいいと言われ、自分が組織のために調達している銃の密売人の情報を売る。

同じ頃、エディの調達した銃を使って、覆面をした男たちが銀行を次々と襲っていた。まず支店長の家に押し入り、家族を人質に取った上で、支店長を伴って開店前の銀行に入る。金庫のロックが解除されるのが朝の時間だからだ。行員たちには、支店長自ら、家族が人質になってると伝え、すべて犯人の指示に従うよう言い渡す。

捜査官フォリーは銃の密売人ジャッキー・ブラウンの身柄を確保、さらに、密売人の情報だけでは不十分と言われたエディが、リスクを犯して、銀行強盗の情報を渡そうとした、その前に、すでに強盗一味も逮捕していた。
だが組織の上層部は、銀行強盗の一件をタレ込んだのはエディだと目星をつけ、その始末を連絡役のディロンに任せる。
ディロンはエディが毎日のように立ち寄る、しがないバーの経営者で、古くからの顔なじみだった。


暗黒街の住人たちを主人公にしてるが、羽振りのいい男など出て来ない。組織の上の方の人間も顔を見せない。組織の末端で、吹き溜まってるような、男たちの日常が描かれる。

安い食堂のウィンドー越しに、ヌッと現れるロバート・ミッチャムの、くたびれた風貌が実にいい。
まだ若い銃の密売人と取引する場面だが、「人の話を簡単に信用するな」という教訓を、
「俺はお前より指の節が4つ多い」
と切り出すあたりから、会話の面白さに引き込まれる。
相手を信用して、引き出しに手を入れようとして、思いっきり閉められて、手を潰されたと。
若い密売人の名がジャッキー・ブラウンという所からも、この映画が、タランティーノ監督がリスペクトしてることがわかる。
この冒頭の会話の場面は、タランティーノ映画の、印象的な会話に繋がってる気がする。

もう1本この映画との繋がりを感じさせるのが、ベン・アフレック監督・主演の『ザ・タウン』だ。
舞台は同じボストンで、銀行強盗が出てくる。

img692.jpg

この映画で強盗たちが、銀行を後にして、目隠しをしたまま、車に乗せた支店長を、途中で解放する場面がある。海の近くで降ろし、
「ここから真っ直ぐ歩いて、100数えたら目隠しを外せ」
と言い、その間に車は立ち去る。
この場面は、『ザ・タウン』の中で、ベン・アフレックが、人質にとった女性行員レベッカ・ホールを解放するやり方と同じだった。

八方塞がりなロバート・ミッチャム演じるエディと違い、ジャッキー・ブラウンは383ヘミのエンジンを積んだダッジを転がす、イケイケの銃の密売人だ。
演じるスティーヴン・キーツは、『ブラック・サンデー』で、ロバート・ショウの相棒となる、イスラエル軍の特殊攻撃隊の隊員役で印象を残した。
弱い立場のエディにつけこんで、組織の情報を引き出そうとする、捜査官フォリーを演じるのはリチャード・ジョーダン。ミッチャムとは『ザ・ヤクザ』に続く共演だ。

そしてこの映画のキーマンとも言える、得体の知れない不気味さを放つのが、連絡役ディロンを演じるピーター・ボイルだ。
ディロンは組織上層部からエディ殺害を請け負うと、エディをアイスホッケーの観戦に誘う。
気の晴れない事ばかりのエディにとって、久々に憂さを晴らすことができ、ビールも旨い。
競技場からのディロンの車の中で、酔って寝てしまうエディに、その先はもはや無い。

監督がピーター・イエーツということで期待するようなカタルシスなどない。むしろこれで終わらせてしまうことで、後にカルト的に支持されることとなったとも言える。
多分監督自身も『ブリット』以降は何でもかんでもカーチェイスみたいなもんを求められてただろうし、ウンザリもしてただろう。
この映画にアクション場面といえる描写はほぼない。だが劇中に交される会話のほとんどが、フレンドリーなものではなく、相手を値踏みし、探りを入れ、優位に立とうとする、そういった緊張の糸がピンと張り詰めてる感覚は、しまりのないアクション映画などより、よっぽど見応えはあるのだ。

音楽はデイヴ・グルーシン。メインテーマなどは2年後の『コンドル』を彷彿とさせる。この映画の旋律をもう少し洗練させて『コンドル』が出来上がったという印象だ。

この映画は昔WOWOWで放映されたものを録画しておいたもので、
過去に一度もビデオ・DVD化はされてない。

2012年2月10日

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:映画

多部未華子の顔のふしぎ [映画カ行]

『ゴーヤーちゃんぷるー』

d0230.jpg

おととい、ネットを眺めてたら、スズキの発売前のコンセプトカー「G70」の、フロントのフェイスが、多部未華子そっくりという記事があり、画像見たら、これは納得せざるを得んというものだった。
誤解のないよう断っとくが、俺は彼女の顔は大好きだ、前から。
あんないつまでも見飽きない顔した女優もいない。

多部未華子の顔の魅力というのは、これは「流動性」という事ではないだろうか?
鋳型にはめた「できあがった可愛さ」ではない。
例えば彼女の映画デビュー作『HINOKIO』のジュンという役は、男の子の格好をしてる、小学生の少女だった。
若い女優が男装をするというコンセプトは時々あるが、それはベースに女の子の可愛さを残してる、そこを狙いにしてるわけだが、『HINOKIO』の彼女の場合は、普通に男の子に見える。俺らの世代で例に出すと『ケーキ屋ケンちゃん』の宮脇康之みたいに見えた。

男の子みたいに見えるなんてのは、序の口であって、ドラマ『鹿男あをによし』では、玉木宏に
「魚みたいな顔してる」
ってセリフ言わせてて「ひでぇな」と思ったが、ついに生き物ですらない「車」に似てるとまで言われるという、メタモルフォーゼする顔を持った、唯一無二の女優なのだ。
そういう思いもよらないものにまで連想が広がるというのは、つまり、その可愛さが不安定に表出してくるということにある。
それは特に彼女の最初の頃の映画やドラマに顕著だ。

この『ゴーヤーちゃんぷるー』は2005年の主演映画で、この年はもう1本『ルート225』という多部史上の傑作がある「黄金の年」といえる。


彼女が演じる中学生のひろみは、学校でイジメにあっており、祖父母と暮らす自宅では、部屋に引きこもってる。
写真家の父親は海で死んだ。ひろみが唯一心を開けるのは、西表島のダイバーズショップで働いているという、メル友の「ケンムン」だけ。ひろみはメールを交すうち、衝動的に西表島に向かうため、家を飛び出した。
その西表島は、2才のひろみを残して家を出た母親の生まれ故郷でもあった。

ひろみが島で過ごして何日も経つのに、祖父母からなんの動きもないのは何故かという事に関しては、映画の終盤にセリフで語られてたが、中学生の少女が、思い立っていきなり東京から西表島まで行くという流れが唐突。飛行機に船賃と、結構かかるはずで、1カットでも、ひろみの預金通帳の残高を映すとか、堅実に貯金してたとかの描写を挟んどかないと。

それはともかく、島に着いたひろみはすぐに、島のおばさんから「あんた家出してきたね?」とか言われて、家に招かれ、
「好きなだけ居ていいさあ」
とすんなり島の生活に入ってしまう。
最初は頑なに心を閉ざして、表情を変えることもなかったひろみだが、島の人々との触れ合いの中で、気持ちに変化が起こってくる。
末期ガンの男性の最後の静かな日々を見守り、島のみんなで見送ってやる、そんな場に居合わせることで、生きていくことの意味の重さを、ひろみは感じとっていく。

下條アトム演じる末期ガン男性の臨終の場面など、努めて大げさな演出を避けて、静かにカメラを置いている。全体として、押し付けがましさがないのは良かった。

だがこういうコンセプトの映画というか、「南の島に行って癒される」という構図ね。
なんか都会に住んでる人間のガス抜きの場のように、描かれることが多いけど、南の島の人たちにも、それぞれ悩みだとか、鬱屈したものを抱えてたりとか、あるんじゃないの?そういう人たちはどこへ行ったら、ガス抜きができるんだろう?

多部未華子2.jpg

でもって多部未華子だが、まだ自分がどう映るとか、そういうことに自覚的でない時期だね。
役柄上、ほとんど笑顔は見せないから、あの普通にしてても不機嫌そうに見える顔のパーツの配置が、さらに際立ってしまう。
はっとするくらい可愛く見える瞬間と、
「こんなおすもうさん、いるよね」
という顔に映る瞬間と、もうスレスレをいってる。
まさに「状態が安定してない」、だからこそスリリングで目が離せなくなるのだ。

ここ最近の彼女は、自分の顔の取り扱い方を心得てきた感じで、変顔とか盛んにやり出してるが、もうそうなるとスリリングではないんだよな。
しかしそれでも彼女の個性が強靭であることには違いはない。
願わくば「顔をいじったり」とか絶対にしないでほしい。
どっから見ても美人とか、可愛いとか、そういう女優やタレントはそこらにいるし、韓流の女優やタレントもしかりで、俺にはちっとも面白味もないし、惹かれるものもない。

「G70」が発売されることになったら、多部未華子にCMのオファーは行くんだろうか?
実現してほしい。というか車の名前も「タベチャン」でいいんじゃないか?

2012年2月9日

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:映画

アンゲロプロス監督を偲ぶ [映画ハ行]

『蜂の旅人』

蜂の旅人.jpg

つい先日にはベン・ギャザラも亡くなってるんだね。ジョン・カサヴェテスもピーター・フォークも先に逝ってるから、これで3人、向こうでまた何か撮ろうか、なんて言ってるかもな。

テオ・アンゲロプロス監督の映画を最初に見たのは岩波ホールで、『旅芸人の記録』だった。彼の映画が日本で紹介される初めての機会だったのだ。
その次が『アレクサンダー大王』だ。なにしろカメラが動かない。「動かないこと山の如し」な位に動かない。
その『旅芸人の記録』と『アレクサンダー大王』との間の1977年に作られ、日本公開は1992年と遅れた『狩人』の3作が、アンゲロプロスの映画の中では最もコアで、「いっさい融通は利きません!」とそそり立ってるような作りなんで、ここを乗り越えとくと、後の監督作は、幾分口当たりがまろやかになってる感じがあるので、いいタイミングで日本に入ってきたんだなと思う。
逆に『旅芸人の記録』を見に行って、「こりゃダメだ」と思った人は、二度とこの監督の映画は見に行ってないだろう。

こんなことを書くのは、今回アンゲロプロス監督のDVD-BOXを買って、唯一、スクリーンで見逃していた『蜂の旅人』を見たんだが、「これでいいのか?」と思う位、とっつき易い内容だったからだ。

リアルタイムで作品を見てきてる世代は、最初にガツンと食らって鍛えられたという所もあるんだが、今、アンゲロプロスを体験するんであれば、逆の道筋というか、身体を段々と慣らしていくような見方をしてくのも有りなんではないかと。
俺の考えた順番としては
『蜂の旅人』『霧の中の風景』『永遠と一日』『ユリシーズの瞳』『こうのとり、たちずさんで』『エレニの旅』『シテール島への船出』『旅芸人の記録』『狩人』、そして『アレクサンダー大王』でゴールだ。


『蜂の旅人』のオープニングは、マルチェロ・マストロヤンニ演じる初老の男スピロスの、次女の結婚式の風景だ。その結婚を見届けるように、スピロスは長年勤めた村の小学校の教師の職を辞した。妻にはショックだったが、スピロスは妻のせいではないと彼女に言った。
スピロスはもう自分の人生は「過去」のものになったと感じていた。

その日、代々引き継いでいる「養蜂」の旅に出るため、蜜蜂の巣箱を積んだトラックで、スピロスは村を出た。
同業者は10人を切った。今年の旅が最後と思い定めたスピロスは、なつかしい友人や、故郷の生家を先々で巡る予定を立てていた。

休憩所でトラックに戻ると、若い娘が助手席に座ってる。スピロスが休憩所に入る時に、バイクの男に置き去りにされてた娘だった。
「次に停まる場所までだ」
と釘をさし、とりあえず娘を乗せて、トラックは蜜蜂を放す花畑を目指した。


冒頭の結婚式を終えて、スピロスが建物の外に出て、道路沿いを流れる川に架かる橋を渡るあたりのカメラ。
「ああ、いつもの色だなあ!」
ともう満足。よく陶磁器に「サビ」を入れるなんて手法があるって聞くけど、アンゲロプロス監督の映画は、画面にサビを施すような粉でもかけてるんじゃないかと思うような、絶妙の色加減が出てるんだよね。
あれ多分ロケした場所に実際行っても、同じように目に映らないんじゃないか。

そういういつものアンゲロプロス映画と思って見てると、このトラックに乗り込む若い娘が出てきて以降、様子が違ってくる。なんかイタリア映画にありがちな、年輩の男が若い娘に翻弄されるという「俗」な展開を見せてくんで、ちょっと面食らった。

ギリシャ軍が駐屯する湖畔の町で、泊まる所がないからと、スピロスの宿までついてくる娘。
二つあるベッドの片方に寝転がる、その格好が白シャツに白パンツ、白の短いソックスという、日本のアニメ好きも反応するだろ、これ。

アンゲロプロス女優.jpg

しかも誘いをかけてくる。スピロスが無視を決め込むと、今度は駐屯してる若い兵隊を連れ込んで、隣のベッドで始める。その最中もスピロスの顔をじっと見てる。
もお、追い出せよこいつら。

娘を残してトラックを走らせるが、行く先々で出会う。なぜかというと、娘がスピロスの旅の道順を記したメモを読んでたからだ。
ダンマリを決め込んでたスピロスも、段々心がざわついてきたのか、町のカフェで男たちと談笑する娘を見つけると、トラックごと店に突っ込むという…
「これほんとにテオの映画ですか?」
と、途中から見たらまずそうは思わないだろう場面の連続なのだ。

最後まで名前のわからない娘を演じるのが、撮影当時21才のナディア・ムルージというギリシャの女優。映画はこれがデビュー作だが、終盤の廃業した映画館の中で、スピロスと結ばれる場面では、一糸まとわぬ姿をカメラにさらしてる。

もしアンゲロプロスという名前に、なんとなく見る前から億劫になってるようなことがあれば、この映画から始めるといい。ただこんなサービスショットは、他の監督作には一切ないので悪しからず。

2012年2月8日

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:映画

ザッカーヴァーグと似てるJ・エドガー [映画サ行]

『J・エドガー』

img3303.jpg

この映画でJ・エドガー・フーヴァーの若い頃の場面の中で、彼が同僚たちから「スピード」と呼ばれてるというエピソードがある。上司からその理由に思い当たるか尋ねられて
「早口だからですかね」と答えてる。
『ソーシャル・ネットワーク』でジェシー・アイゼンバーグが、まくしたてるような口調で表現してた、ザッカーヴァーグの人物像にダブる部分があるんじゃないか?
二人とも天才肌で革新家であるという点。

J・エドガーは大学生の時に働いていた、国立国会図書館で、本の検索が飛躍的に早くなる分類方法を編み出している。司法省に入り、事件現場に足を向けるようになると、それまでの捜査では行われてなかった「指紋採取」こそ、犯人検挙への近道だと、その後の科学捜査の先鞭をつけている。
ザッカーヴァーグの「フェイスブック」によって、コミニュケーション・ツールが、国家権力を打倒するまでのパワーを獲得するに至るのと、ちょっと違う意味で、J・エドガーは個人情報のファイリングや盗聴を駆使して、時の権力者たちの首根っこを押さえてきた。

この2本の映画のつながりを感じたのは、『ソーシャル・ネットワーク』でハーバード大の双子を演じてたアーミー・ハマーが、J・エドガーと最も絆の深かったトルソンを演じてたからでもある。
『ソーシャル…』の中で、ザッカーヴァーグの人物像は掴みどころがない。家族も出て来ないし、彼が「フェイスブック」をどうしていこうとか、野望めいたことを考えてる様子もなかった。
だがそういう人物の生み出したものが、世界を変えようとしてる。
革新的なツールが次々に提供され、モラルはつねにその後を追いかけていく。

今、俺たちが生きている世界がどうなってくのか、『ソーシャル・ネットワーク』は見た後にそんなことを考えざるを得ない気分にさせられたもんだが、この『J・エドガー』は、「なぜ今、この男の伝記なのか?」という部分がわからない。

ザッカーヴァーグとちがって、この映画の中でJ・エドガーは、40過ぎても母親と一緒に暮す「マザコン」で、トルソンとはゲイの関係ではなかったか?と、そのプライベートをかなりあからさまに描かれてる。
だがその彼のパーソナリティと、48年に渡って、政治家の干渉を許さない、ある意味「治外法権」ともいえるような権力を持ち続けた、その動機づけというか、そこのところが、明瞭に結びつかなかったのだ、俺には。
つまり「マザコン」だろうが「ゲイ」かも知れなかろうが、それ重要なことだったのか?と思うのだ。

俺の興味は今まではケネディ家側からしか描かれることがなかった、J・エドガーと、ケネディの暗闘を、もう一方の側から検証するというような、J・エドガーがアメリカ現代史にどれだけ深く係ってきたのか、そこんところを見てみたかった。


J・エドガーが若い頃に担当した、チャールズ・リンドバーグの赤ちゃんの誘拐事件のシークェンスは面白かったが。あの事件はFBIの科学捜査によって、犯人が特定され、ドイツ系移民のブルーノ・ハウプトマンが逮捕されるが、後にあれは冤罪ではなかったかと言われてる。
1976年のテレビムービー『リンドバーグ2世誘拐事件』にその全容が描かれていた。ハウプトマンを演じたのは、アンソニー・ホプキンスだった。

アンソニーホプキンスリンドバーグ.jpg

イーストウッド監督は、今や日本の職人でいえば「人間国宝」クラスの腕前を持ってるから、この映画でも一人の強大な権力を持った男の人生を、まったく淀みなく筆を滑らして描いてるとは思うが、
「お手並みを拝見いたしました」
以上のものは残らない。

これは個人的な嗜好の問題だが、カメラの色調がここんとこずっと同じなんだよね。
イーストウッドの映画は2002年の『ブラッド・ワーク』以降ずっとトム・スターンが撮影監督なんだが、「銀残し」というのか、彩度を落とした映像になってて、「渋い」といえばそうなんだが、ちょっと飽きたよ。
元々は『セブン』のダリウス・コンジのカメラとか、『プライベート・ライアン』のヤヌス・カミンスキーあたりが、この色調でやり始めたんだよな。

ディカプリオは『アビエイター』のハワード・ヒューズに続いて、ミステリアスな権力者の内面を演じようとしてる。
俺は思うんだけど、彼は『シャッター・アイランド』もそうだったが、20世紀前半のクラシックな格好がしたいんじゃないか?
この映画の中で『民衆の敵』とか『Gメン』を映画館でJ・エドガーが見る場面があるけど、ディカプリオは自分の中に、ジェイムズ・キャグニーを見い出してるのかも知れない。キャグニーも老けてるのか童顔なのか、不思議なルックスをしてた。

70代まで演じるというのは、厳しい感じはあったね。声が老けてなかったし、トルソン役のアーミー・ハマーは声はともかく、目元が若すぎる。
二人の男優に比べて、ナオミ・ワッツは歳を重ねてる感じが、自然に表現できてたと思う。
ディカプリオはまだ38才なんだね。挑戦しがいのある役を選んでるのはわかるんだが、渋く演じようという背伸びが感じられる。もう少し年相応というか、軽めのラブストーリーとか、女性ファンが喜ぶような役をやってもいいんじゃないかと思うよ。

2012年2月7日

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:映画

「午後十時の映画祭」(80年代編)⑦作品コメ [「午後十時の映画祭」]

この映画が観たい「午後十時の映画祭」(80年代編)50本の作品コメントも、、今日が最後となる。
五十音順リストの「マ」行以降を。



『マイ・ライバル』(1982)アメリカ 
監督ロバート・タウン 主演マリエル・ヘミングウェイ、スコット・グレン

マイライバル.jpg

モスクワ五輪を目指す、陸上の「女子5種競技」の、二人の女性アスリートが、レズビアンの関係になってくという、「スポーツの世界と同性愛」を、正面からテーマにした異色作。
『俺たちに明日はない』『チャイナタウン』などの名脚本家ロバート・タウンが満を持しての初監督に、挑戦的な題材を選んだ。

ただその部分だけが突出してるわけではない。日本だと「オリンピック強化選手」の日常なんていうと、禁欲的なイメージがあるが、この映画では選手たちは競技大会が終わると、酒呑んだり、マリファナ吸ったり、セックスも奔放に描かれてる。
そのあけすけな感じが、スキャンダラスな視点でなく、「若いんだからね、体力もある連中だし」と、ごく普通のことのように描写されてるのが面白かった。

マリエル・ヘミングウェイは色気を感じない女優だったんで、レズシーンも期待してなかったが、それよりも、彼女は手足が思ったより長くて、ハードルを越える様子など、カモシカのような足をしてる。こんなにアスリート体形だったとは。
彼女が最初は記録会で揮わず、声をかけて慰めてくれた先輩の女子選手と肉体関係を結ぶんだが、その後、コーチのスコット・グレンとも寝てしまう。マリエルとスコット・グレンが一緒にトイレに入る場面は、ちょっと衝撃的ではある。

ロバート・タウンの演出は、扱う題材のわりにはベタついた感触がなく、競技シーンも躍動する身体の美しさを捉えようとしてる。
ビリー・ジョエルの『ロザリンダの瞳』という、メジャーではない曲を効果的に使ったり、センスを感じる。
先輩アスリートを演じた、陸上選手上がりのパトリス・ドネリーのさばさばした個性もいい。

ビデオは出てたがDVDにはなってない。



『マルホランド・ラン 王者の道』(1981)アメリカ 
監督ノエル・ノセック 主演ハリー・ハムリン、デニス・ホッパー

マルホランドラン.jpg

これを上映してたのは新宿プラザだったかな。今でこそ日本でも『頭文字D』とか、ドリフト族も普通に認知されてるけど、この映画はその魁と言えるもので、D・リンチ監督の『マルホランド・ドライブ』の、あの丘陵の湾曲した道を、ドリフト走行で競うドライバーたちを描いてるのだ。

過去にそのレースの王者として君臨してたのが、デニス・ホッパーで、彼得意の役作りの例に漏れず、今はすっかりアル中のスピード狂に成り果てている。
彼の駆るマシンが凄いことになってる。コルベットC2なんだが、異様なまでのチューンナップを施し、邪魔なもんはいらんと、リアウィンドーからボンネットまで取っ払ってて、まさに「愛のむきだしコルベット」だ。
主人公を演じるハリー・ハムリンが、そのコルベットに挑戦するわけだが、彼のマシンはポルシェ356スピードスターだ。

だが全編レースという展開ではなくて、主人公の走り屋仲間の作曲家ジョセフ・ボトムズのサブストーリーなどがあり、レースも音楽もと欲張った分、散漫になってるきらいはある。
そのサブストーリーもあってか、当時のヒット・ナンバーが使われたりしてるから、その楽曲版権がネックになって、今までビデオにもDVDにもなってないんだろう。
そもそもこの映画、ポリグラムというレコード会社が製作してるのだ。



『メイトワン 1920』(1987)アメリカ 
監督ジョン・セイルズ 主演クリス・クーパー、デヴィッド・ストラザーン

img1505.jpg

ジョン・セイルズは1980年代以降の最も重要な、アメリカの映画作家であるにも係らず、ほとんどDVD化がされてない。理由のひとつには、彼がメジャーな映画会社と契約せず、常にインディペンデントな製作環境で映画を撮り続けてるということがある。映画の版権がそれぞれ別の場所にある、その煩雑さがネックとなってる部分がある。

日本では2003年の『カーサ・エスペランサ 赤ちゃんたちの家』が公開されたのが最後だが、その後も3本作ってる。2010年のものが最新作だ。
入ってこないのは、日本人にとって馴染みにくい題材を扱ってることもあるだろう。歯痒いもんだ。
どっか太っ腹な会社が、まとめて権利を引き取ってBOXで出してほしいもんだが、今の日本にそんな酔狂な会社もないだろう。

この『メイトワン』は1920年のウェスト・ヴァージニアの炭鉱で起きた事件を元にしてる。
クリス・クーパー演じる労働組合のオルグが中心人物になるが、例えばマーティン・リットー監督や、山本薩夫監督が描くような、「社会告発」ものとは、ちょっと趣がちがってた。

もちろんイタリア系や黒人など、当時安い賃金で雇える労働者を「山」に入れてくる会社側と、最低賃金の切り下げに反対を唱える地元白人労働者との対立の構図は、現在の日本に置き換えて見ることも可能な、「社会的視点」は感じるが、山で暮す人々の生活ぶりを細やかに描いていることで、叙情を感じるし、アパラチア山脈の緑や黄色の木々などが、美しいカメラで捉えられていて、メッセージが前に出過ぎない懐の深さがあった。

対立が沸点に近くなり、ついに会社側が実力行使に出た時、それまで静観していた町の保安官が動く。
クリス・クーパーとともに、ジョン・セイルズ映画の常連のデヴィッド・ストラザーンが銃を手に表に出ると、映画は一転して『ヴェラクルス』かと思うような西部劇の世界へ。
見ながら「カッコいい!」と呟いてしまったよ。
黒人労働者のリーダー格をジェームズ・アール・ジョーンズが貫禄で演じてた。

これはパルコPART3で見たはずだ。
昔ビデオにもレーザーディスクにもなってたがDVDにはなってない。
スクリーンで見たいね、もう一度。



『夜の天使』(1986)フランス 
監督ジャン・ピエール・リモザン 主演ジャン・フィリップ・エコフェ

img1542.jpg

リモザンの映画は『天使の接吻』もそうなんだが、ストーリーとかほとんど憶えてないのだ。
だけどもう一度見たいと思うのは、とにかく繰り出されるショットがいちいちカッコよかったから。

この映画も主人公は夜は私設の夜警をやってるんだが、昼間は自動車泥棒という、アンビバレンツというのか、行動にほとんど一貫性がない。恋人が別の男になびこうとすると、その男を追っかけて銃で狙ったりとか、基本ろくでなしである。
しかし、ろくでなしが出てくる映画が好きな俺としては、この映画はマイク・リーの『ネイキッド』や、ギャロの『バッファロー'66』などと並ぶ「ろくでなし映画」の殿堂に入れたい位だ。

撮る前からキメキメに狙ったショットを「どうだ!」とドヤ顔で出してくるんじゃなく、ポンポンと軽快につながってく、あるいはブツ切りにされる絵が、結果としてカッコいい。
プールの場面なんか、なんでもないのに、ちょっと鳥肌立つ感じで、不思議だった。
初期のゴダールとか好きな人なら気に入るだろうな。

これはどこで見たのか、パルコPART3だったか、シネマテンだったか。
監督のリモザンも、2002年の『NOVO/ノボ』とかエロくてよかったんだが、その後は入って来ないね。
ジャン・フィリップ・エコフェもこの映画は最高なんだが。
昔ビデオになってたがDVDにはなってない。



『ラスト・カーチェイス』(1980)アメリカ 
監督マーティン・バーク 主演リー・メジャース

ラストカーチェイス.jpg

これはどこで見たのかすら憶えてないんだよね。浅草あたりかなあ。都内ではちゃんと公開されなかったんで、チラシもパンフも見たことない。

この映画を見ようという人の動機は二つだろう。
一つはテレビ『600万ドルの男』のリー・メジャースが、同じSFというジャンルの映画に主演してるということ。
もう一つは、監督1作目の『パワー・プレイ』の面白さに、マーティン・バーグの才能を信用して。
俺は両方だったけど。

石油が枯渇し、自動車の運転はおろか、国民の移動の自由まで制限されてる、近未来のアメリカ。
荒涼とした大地を映しとけばいいから、予算がかからない、ありがちなデストピアSFの設定だ。
リー・メジャースは昔はレーサーだった男で、自宅にポルシェ917を分解して、燃料とともに隠し持っていた。国家体制に失望した彼は、偶然出会った、凄腕ハッカーの大学生を助手席に乗せ、アメリカ大陸で唯一の自由自治区となってる、西海岸の「フリー・カリフォルニア」を目指して、ポルシェを走らせた。

「カーチェイス」といっても、他に車は走ってないしね。男の反乱行為に気づいた国家保安委員会は、一機だけ残ってたF-86セイバー戦闘機で後を追うことに。操縦桿を握るのは、元空軍の老パイロットだ。その役を『ロッキー』シリーズのバージェス・メレディスが演ってる。

しかし『世界が燃えつきる日』みたいに大サソリがでてくるわけでも、『マッドマックス』みたいなバイカー軍団が襲撃するわけでもなく、荒涼とした大地を淡々と走ってく、寂寥感すら感じる不思議なSFではあったね。
ビデオもDVDも出てないのはなんでだろ?



『リトル・ダーリング』(1980)アメリカ 
監督ロナルド・F・マックスウェル 主演テイタム・オニール、クリスティ・マクニコル、マット・ディロン

リトル・ダーリング.jpg

クリスティ・マクニコルって人気あったねえ、この頃は。健康そうで「部活系」の女の子という、さっぱりしたキャラだったんで、同性からもウケがよかったように記憶してる。

この映画は15才という設定で、煙草をプカプカやってる彼女と、良家のお嬢さんテイタム・オニールが、「サマー・キャンプ」で顔を合わす。女子たちの間でも一際目立った二人だったんで、自然と派閥が分かれる。その成り行き上、クリスティとテイタムと、どっちがこのキャンプの期間内にバージンを捨てるか、という競争になる。

クリスティが男子生徒のマット・ディロンに照準合わせるのはいいとして、テイタムが狙いつけたのは、大人の運動コーチ。
その役を演じてるのがアーマンド・アサンテだからね。今や「マフィアといえばこの男」ってポジションの役者。でもデビュー当初は「アル・パチーノに似た男」という、名誉なんだか失礼なんだかわからんような紹介のされ方してたんだよ。
こっちでいえば角川映画の『彼のオートバイ、彼女の島』の頃の竹内力を見る感じかな。

基本アイドル映画のノリなんで、際どい場面はほとんどない。クリスティ・マクニコルの胸ポチに反応したくらいか。
DVDになってないのは、内容というより、ブロンディなんかの楽曲絡みじゃないか。

この監督とクリスティはこの後も『さよならジョージア』で組んでいて、こっちも実はもう一度見たい。デニス・クエイドと兄妹役のロードムービーなんだが、カントリー歌手役のデニスが歌声を披露してて、それが上手い。たしか歌手としてアルバムも出してたはず。



『ル・バル』(1983)フランス・イタリア・アルジェリア 
監督エットーレ・スコラ

ルバル.jpg

これを見たのも歌舞伎町の「シネマスクエアとうきゅう」だ。
監督のエットーレ・スコラはイタリア人だが、舞台となるのはパリの一軒のダンスホールだ。なぜパリなのかというと、元々はフランスのテアトル・デュ・カンパニョールという劇団による舞台劇なのだ。その劇団員たちがそのまま、映画でも演じている。

1930年代、大戦前夜から80年代の「現在」に至るまでの現代史を、このダンスホールからカメラを一歩も外に出すことなく描いてる。しかもセリフも一言もなし!
すべては、時代時代に流行った音楽に乗せて、流行の服に身を包んだ男たち、女たちがダンスに興じる様子だとか、店を出入りする人間を眺めるだけで、それがいつの時代かわかる。その着想が素晴らしい。
さすがに古い時代の曲は知らないものも多かったが、グレン・ミラーとか、リトル・リチャードとか、ビートルズに至るまで流れるから、見飽きる聴き飽きるということがない。

字幕がいらないので、どこの国の人間でも楽しむことができるという、画期的な映画。
フランス語のセリフ一つないのに、その年のアカデミー賞「外国語映画賞」の候補に上がってるのも妙な話だった。
ビデオは出てたがDVDは出てない。出すならブルーレイでお願いしたいが。

2012年2月6日

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:映画

「午後十時の映画祭」(80年代編)⑥作品コメ [「午後十時の映画祭」]

昨日に引き続き、この映画が観たい「午後十時の映画祭」(80年代編)50本の作品コメントを入れる。
今日は五十音順リストの「ハ」行を。



『バーニング』(1981)アメリカ 
監督トニー・メイラム 原作ハーヴェイ・ワインスタイン

バーニング.jpg

公開当時のポスターのコピーに「これがウワサのバンボロだ!」って書かれてたけど、誰もウワサしてなかったし、大体映画の中に「バンボロ」なんて名前も出て来ないわけよ。
「ジョギリ・ショック!」っていうのも、この映画のコピーだったか。
ジョギリって何だよ?と。いやあれは『サランドラ』だったかも。
「全米27州で上映禁止!」ってのも嘘くさい。
だけどね、こういう「いかがわしさ」も含めての映画興行の楽しさなんでね。

キャンプ場の管理人の男が、若者たちにイタズラを仕掛けられ、それがもとで全身に大火傷を負う。退院し、変わり果てた風貌となった男は、復讐心に駆られた無差別殺人犯となった。
男の飛び道具が、デカい植木バサミで、そいつで首をシャキンシャキンと切り落としてく。

『13日の金曜日』と同様の「キャンプ・ホラー」だが、ラストはクワを手にした若者と、植木バサミとの一騎打ちとなる、いわば「農業系格闘シーン」が展開され、現在の自然回帰ブームを予見していたと言える。まあそんなことはないが。

注目したいのは、この原案と製作に、今や「ミラマックス社」の創始者として、ハリウッドで最も辣腕と知られるハーヴェイ・ワインスタインが係ってること。彼の映画の世界での、最初の仕事がこの映画だったのだ。
ビデオは出てたがDVDにはなってない。



『ハイ・ロード』(1983)アメリカ 
監督ブライアン・G・ハットン 主演トム・セレック

ハイ・ロード.jpg

ジョン・クリアリーのベストセラー冒険小説『高く危険な道』を映画化。
大体において、冒険小説の映画化は、原作ファンからは叩かれる傾向にあり、この映画も、小説のプロットをいじって簡略化してるのが、お気に召されなかったようだ。

イスタンブールの社交界の華のような、実業家の一人娘が、行方のわからないままの父親を、12日以内に探し出さないと、会社が乗っ取られると告げられ、パイロットと整備士を雇い、二機の複葉機で、父親の消息を辿る旅に出る。
イスタンブールからアフガニスタン、インド、ネパールのヒマラヤ越えを経て、新疆ウィグル地区へ。
複葉機が空を舞う雄姿が、ふんだんにカメラに収められてるし、変化に富んだロケーションと、行く先々で待ち受ける障害をクリアしていく、ロールプレイングな展開で大らかな気分で楽しめる一作。

第1次大戦の撃墜王ながら、呑んだくれのパイロットを演じるトム・セレックは、実はインディ・ジョーンズ役の第1候補に上がってたんだが、テレビシリーズ『私立探偵マグナム』で人気を博してた時期で、そちらのスケジュールを優先して、役を辞退してたのだ。
もし彼が演じてたら、その後のキャリアも違ってただろう。そんな直後に、インディと似たような、この映画のパイロットを演じてるんだから、皮肉なもんだ。

複葉機の優雅な飛行に、ジョン・バリーの流麗な音楽がマッチしてた。これは有楽座で見たはずだ。

ビデオは昔出てたがDVDにはなってない。
アメリカと香港のゴールデンハーベスト・プロと、旧ユーゴのプロダクションまで絡んでるから、権利がどうなってるのか。



『バウンティフルへの旅』(1985)アメリカ 
監督ピーター・マスターソン 主演ジェラルディン・ペイジ、レベッカ・デモーネイ

バウンティフルへの旅.jpg

『逃亡地帯』や『レッド・ムーン』などの脚本で知られるホートン・フートの原作・脚本による、ほのぼのしみじみな「おばあちゃんのロードムービー」だ。

息子夫婦と折り合いが悪いおばあちゃんが、いつか故郷のバウンティフルに戻るために貯めていた小切手を、息子が当てにしてるのを知り、家出する決意を固める。
後を追ってきた息子たちをかわしながら、何とか汽車に乗り込んだ。隣りの席に座った若い人妻からの優しい気遣いに触れながら、故郷は次第に近づいてきた。
だが息子夫婦は捜索願いを出しており、一人旅のおばあちゃんの姿は、田舎町の保安官にはすぐに目についてしまう。
それでも保安官はおばあちゃんの心情を察して、バウンティフル行きを承諾するのだった。

ジェラルディン・ペイジはこの演技で、アカデミー主演女優賞を受賞。息子たちから隠れる様子とか、茶目っ気もあって、思わずそのひとり旅を応援したくなってしまう。
結末はほろ苦いものではあったが、なにか爽やかな風が抜けてくような小品だった。
悪女を演じることが多いレベッカ・デモーネイが、優しい性格の人妻を演じてたのもよかった。綺麗だったしね。
これを「おじいちゃん」に代えたのが『ストレート・ストーリー』ということになるね。

ビデオは出てたがDVDは出てない。



『パッショネイト 悪の華』(1983)アメリカ 
監督スチュアート・ローゼンバーグ 主演ミッキー・ローク、エリック・ロバーツ

悪の華 パッショネイト.jpg

この邦題の意味不明ぶりにも困ったもんだが、『グリニッジ・ヴィレッジの法王』という原題も、そのままじゃ内容は掴めないしな。

グリニッジ・ヴィレッジのイタリアン・レストランを任されてるのが、ミッキー・ローク演じるチャーリー。従兄弟で、同じ店でウェイターをしてるポーリーを演じるのがエリック・ロバーツ。

そのポーリーが不正伝票をつけてたのが元で、二人はクビになる。郊外に自分のレストランを持とうと頑張ってたチャーリーは落ち込むが、彼を慕うポーリーは儲け話を持ちかける。
競馬でデカく当てる資金を、金庫破りで稼ごうと。地元の組織のボスの金庫の在り処を知ってると。
しかしデカく当てられないかもしれない競馬の掛け金のために、そんなリスクの高い金庫破りをしようという、そのポーリーの思考回路がポンコツだと思うんだが、チャーリーもそれに乗っちまうし。

目が衰えてきて、老後の資金が心配だという、老時計職人を仲間に引き入れ、計画は実行された。だがその場に、組織のボスから賄賂を受け取るために現れた刑事と鉢合わせとなる。

公開当時はアメリカ版『チ・ン・ピ・ラ』などと評されてたが、実際にはこの映画の方が1年前に出来てる。だが日本公開が4年後の1987年だったのだ。高価なイタリアン・ファッションに身を固めた、ミッキー・ロークの男伊達な感じが、そういう連想となったんだろう。
ピカレスク物とすれば、エリック・ロバーツがダメキャラすぎるんだが。
フランク・シナトラの『サマー・ウインド』がいい感じに使われてた。

主演の二人は『エクスペンダブルズ』で久々の再共演を果たす。同じ画面に収まるシーンは無かったが。しかし二人とも風貌がこうも変わったかと。昔の二枚目ぶりを偲ぶ意味で、また見てみたい。
ビデオは出てたがDVDにはなってない。



『800万の死にざま』(1986)アメリカ 
監督ハル・アシュビー 主演ジェフ・ブリッジス、ロザンナ・アークエット

800万の死にざま.jpg

ジェフ・ブリッジスは1970年代初頭にキャリアをスタートさせ、現在に至るまで第一線の座に居続けている、ハリウッドでも稀有な存在だ。
ディケイドごとに代表作があり、70年代は『サンダーボルト』『ラスト・アメリカン・ヒーロー』、
80年代はこの『800万の死にざま』に『スターマン』『タッカー』、
90年代は『フィッシャー・キング』『フィアレス』『ビッグ・リボウスキ』、
そしてゼロ年代は、合衆国大統領を洒脱に演じた『ザ・コンテンダー』に『クレイジー・ハート』など。
監督業に色気を見せず、役者一筋なのも立派。

この映画はローレンス・ブロックの「私立探偵マット・スカダー」シリーズの一編を、舞台をロスに移して映画化したことで、原作ファンからは不評を買ってるが、俺はお気に入り。
監督ハル・アシュビーの遺作だが、いつもの作風には似つかわしくないほど、血生臭い場面やアクションが織り込まれて、これは脚本のオリヴァー・ストーンの持ち味が前に出てるせいだ。

ジェフ・ブリッジス演じるスカダーと敵対する、成金ギャング・エンジェルを演じるアンディ・ガルシアが強い印象を残す。
スカダーがアイスクリーム片手にエンジェルと威嚇し合う場面や、麻薬の山を目の前に、倉庫でスカダーとエンジェルと、エンジェルの手下が三つ巴で銃を向け合い、怒鳴り合う場面など、見せ方に工夫がある。
タランティーノの『レザボア・ドッグス』のラストはこれの流用だ。

スカダーがアル中のセラピーに通ってるという場面が出てくるが、『クレイジー・ハート』でもそれをなぞってて、思わず笑った。
ビデオにはなってるがDVDにはなってない。
ロスの空撮から、カメラがハイウェイを疾走する一台のパトカーにフォーカスしてく、見事なオープニング映像を、スクリーンでまた見たいね。



『フォー・フレンズ 4つの青春』(1981)アメリカ 
監督アーサー・ペン 主演グレッグ・ワッソン

h0159.jpg

アーサー・ペンという名匠が手掛けていながら、「忘れられた青春映画」となってしまってる一作。
俺は封切りの時見てるが、興行は不入りだったし、DVDはおろか、今までビデオにすらなってない。

東欧からの移民の子である主人公と、2人の親友、その3人から愛されたジョージアという名の女の子の、青春時代から、青春を過ぎた時代に至るまでの物語。
無名のキャストを揃えることで、世界のどこにでもある普遍的な青春像に移し変えることができる反面、激動の60年代以降のアメリカを背景にしてることと、主人公たちの人種的背景などもあり、アメリカの国特有のローカルな部分への認識が必要とされるんで、とっつき易いんだか、とっつき難いんだか、微妙なところなんだね。
主人公と娘との結婚に反対する父親が、結婚式場に乗り込んできて、花嫁を射殺するなんてショッキングな場面もあった。

だが全体の流れなど、ほとんど憶えてないなあ。
今このトシになって見直したら、感慨がこもったりするのかもしれない。

女の子の名がジョージアだからと『わが心のジョージア』が流れたりする、ベタな選曲のほかにも、時代のヒットソングが流れてた印象があるんで、ビデオにもならないのは、その権利関係なんだろうね。



『プリンス・オブ・シティ』(1981)アメリカ 
監督シドニー・ルメット 主演トリート・ウィリアムズ

プリンスオブシティ.jpg

正義感から窮地に立たされる刑事の姿は、同じシドニー・ルメット監督の『セルピコ』との「姉妹編」の趣があるが、こっちの方が、この監督としては最長尺の168分に渡って、警察組織が抱える腐敗やジレンマがあぶり出されており、その苦味も痛烈だ。
横山秀夫や佐々木譲といった、日本の警察小説の書き手も、きっとこの映画は見てるはずだ。

犯人検挙のために自由な権限が与えられた、ニューヨーク市警の麻薬取締り班。彼らは売人から賄賂を受け取るなど、その羽振りのよさで「街のプリンス」と囁かれる存在だった。
だがリーダーのダニーは、麻薬中毒者たちの悲惨な姿を見るにつけ、任務の不毛さを感じていた。
「街のプリンス」たちに目をつけた地方検事局は、ダニーに接触。過去の汚職を不問とする代わりに、麻薬取締り班の腐敗を立証するための協力を求めてきた。

ダニーは「仲間の名は口にしない」という条件で、その日から、身体に隠しマイクをつけて、汚職の現場に乗り込んでいく。
だが証拠が上がり、検事の追及が始まると、麻薬取締り班の内部はパニックとなる。
追いつめられ自殺する者、マフィアの一員と繋がりを暴かれ、殺害される者、家族ぐるみの付き合いをしてた刑事たちの絆は絶たれる。
ダニーは思いもよらない事態に憔悴し、同僚のガスに、内通者は自分だと打ち明ける。
怒り狂うガス。だが別れ際、
「許してくれるか?」
「恨んじゃいないよ」

映画のラストは、新人研修の教壇に立つダニーの姿が。
だが彼が名乗ると、一人の新人警官が即座に退席する。
トリート・ウィリアムズがなんとも言えない苦笑いを浮かべて、それを見送る表情が目に焼きついてる。
ビデオは出てたがDVDにはなってない。
これを映画館で見た時は、しばらく立てない位にズーンと来たのを憶えてる。



『ベルリンは夜』(1985)イギリス 
監督アンソニー・ペイジ 主演ジャクリーン・ビセット、ユルゲン・プロフノウ

ベルリンは夜半券.jpg

これは大人向けのいい映画。第2次大戦下のベルリンが舞台で、冒頭、長い裾のスカートで自転車に乗るジャクリーン・ビセットの優雅さに、一気に引き込まれるわけだが、彼女はドイツ人貴族の身分ながら、ナチスドイツには反対の立場を取る、進歩的な女性。
そのニナが偶然出会ったユダヤ系の詩人フリッツと恋におち、ユダヤ人狩りの魔手から、彼を匿い通すというのが大筋。

芯の強いヒロインを演じるジャクリーン・ビセットが、歳を重ねてもなお美しいのだが、ユダヤ系のフリッツを、ドイツ人俳優ユルゲン・プロフノウに演じさせるキャスティングには驚いた。
実はこれが結末に効いてくる。

戦争中、ドイツ軍から匿われ続けて、ベルリンは陥落。降伏したドイツ軍に代わって、ソ連兵たちがベルリンの町になだれ込んでくる。
ドイツ人の男とわかると射殺しかねない。
フリッツはソ連兵に引きずり出される。その顔を見てドイツ人だと銃を向けられ、フリッツは思わずユダヤ教の祈りの言葉を口にする。
するとユダヤ系のソ連兵がそれに気づくのだ。

これはミニシアターで見てるんだが、フリッツがソ連兵に見つかるまでのくだりが思い出せない。
戦闘シーンなどはなく、「いつ見つかっちゃうのか」というハラハラ感で見せてくドラマだった。

ビデオにはなってるがDVDにはなってない。



『炎628』(1985)ソ連 
監督エレム・クリモフ 主演アリョーシャ・クラフチェンコ

img1403.jpg

これは歌舞伎町の「シネマスクエアとうきゅう」で見た。
今回のリストに入れはしたものの、これをもう1回見るのも相当しんどいかもなと、今思い直してる。
第2次大戦下、ドイツが進軍してきた白ロシアが舞台。題名の意味は「独ソ戦」によって焼き払われた村の数を示している。

主人公は10才くらいの少年か。レジスタンスに参加しようとするが、幼いと置いて行かれる。だが少年がライフルを手にしてるのをドイツの偵察機が見ていた。
少年が村に戻ると、死体の山が積まれていた。家はすべて焼かれ、生き残った村長から、「村からレジスタンスがでた」のを理由に皆殺しに遭ったと聞かされる。
自分のせいで家族も殺された。
少年は絶望するが、殺された者たちに報いるためにも、残った村人たちのために、食料集めに奔走する。

だがドイツ兵に追われ、逃げ込んだ村には、「特別行動隊」と呼ばれるドイツ軍の一団がやってきた。
スピーカーから、けたたましい音楽を流し、村人を銃で追いたて、納屋に押し込む。
「子供だけ置いて出て来い!」
と命ぜられるまま出てくる大人たち。
子供だけが残された納屋に手榴弾を投げ入れるドイツ兵。酒を飲みながら眺める者、声援を送る者。
さらに火炎放射器を納屋へ浴びせる。
外に出たまま泣き崩れるしかない若い女は、ドイツ兵たちにその場で輪姦される。寝たきりの老婆は、ベッドのまま、道端に捨て置かれる。
あまりの光景に、まだ幼いはずの少年の顔は、老人のようにシワが刻まれた。

憎しみすら欠如した殺戮の場面が、これでもかと描かれて、神経が麻痺してくるようだ。
だが一方で、少年が年上の少女と出会い、森に逃げ込む場面などは、雨がしたたる森の光景など、実に美しく撮れており、その落差が凄い。

少年がヒトラーの肖像写真に向けて、何発も銃弾を打ち込むラストの見せ方も、痛烈な皮肉がこもってる。
DVDは出てたが廃版状態。かなり高値がついてるね

2012年2月5日

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:映画

「午後十時の映画祭」(80年代編)⑤作品コメ [「午後十時の映画祭」]

昨日に引き続き、この映画が観たい「午後十時の映画祭」(80年代編)50本の作品コメントを入れる。
今日は五十音順の「ス」と「タ」行を。



『忍冬の花のように』(1980)アメリカ 
監督ジェリー・シャッツバーグ 主演ウィリー・ネルソン、ダイアン・キャノン

ウィリーネルソン忍冬.jpg

カントリー・ミュージックというのは、どうも日本では受けない音楽ジャンルで、『クレイジー・ハート』も、ジェフ・ブリッジスがアカデミー賞を受賞したから、ちょっとは話題になったが、ロバート・デュバルがカントリー歌手を演じて、やはりアカデミー主演男優賞を得た『テンダー・マーシーズ』は劇場未公開・ビデオスルー扱いだった。

そんな中で劇場公開に漕ぎつけたこの映画は、カントリー界の大御所ウィリー・ネルソンが、自身を投影するような主人公を演じたドラマ。といっても、この主人公はアメリカの穀倉地帯の酒場などを回る「ツアー歌手」で、まだレコードデビューは果たしてないという設定だ。
その設定上、映画はロードムービーの体裁で進んでいく。監督はやはりロードムービーの傑作『スケアクロウ』のジェリー・シャッツバーグ。

撮影はロビー・ミュラーだ。ロードムービーでロビー・ミュラーといえば『パリ、テキサス』を即座に連想するだろうが、ドイツ時代のヴェンダース作品の撮影を担当してたミュラーが、アメリカに渡っての最初の仕事が、この映画だった。

『オン・ザ・ロード・アゲイン』をはじめとする、ウィリー・ネルソンの楽曲の数々が聴きものではあるが、同時にカメラの美しさが大きな魅力となってる。
封切りの時に映画館で見てるが、見事に客は入ってなかったな。
音も絵もシネコンでもう一度味わえたらいいのだが。

ビデオは出てたがDVDは出てない。楽曲絡みだろう。



『スタントマン』(1980)アメリカ 
監督リチャード・ラッシュ 主演ピーター・オトゥール、スティーヴ・レイルスバック

スタントマン.jpg

作ってるのは商業映画なのに寡作という「もっと仕事しろよ」な監督リチャード・ラッシュによる、ちょっと不条理テイストなアクション・コメディ。

殺人未遂の容疑で警察に追われてる若い男。手錠をかけられたまま、必死で逃げる様子を、上空のヘリが捉えていた。だがそれは警察のヘリではなかった。
若い男は逃げてる内に、映画の撮影現場に紛れ込んでしまっていた。ヘリから若い男を眺めていたのは、その映画の監督だった。
逃げっぷりの俊敏さを気に入った監督は、若い男を匿ってやる代わりに、撮影でスタントマンとして働かせることに。
だが監督は映画撮影に一切の妥協を排する、鬼のような性格で、任されるスタントも次第に過激さを増し、若い男はこの監督に殺されるかも知れないと、精神的に追いつめられていく。

いわゆる「映画の映画」というジャンルに属する一作だが、現実世界より、映画の撮影現場の方がもっと過酷だったという皮肉が面白い。

悪魔の映画監督を演じるピーター・オトゥールは、その年の全米批評家協会の最優秀主演男優賞を受賞し、アカデミー賞でも6度目の候補になったが、またも受賞は逃した。
彼が演じてる映画監督の名前がイーライ・クロスといって、あの『ホステル』の監督と一文字ちがいなのが可笑しい。

これを見たのはスバル座あたりだったか。
ビデオは昔一度出てたと思うが定かではない。DVDは出てない。



『タイムズ・スクエア』(1980)アメリカ 
監督アラン・モイル 主演トリニ・アルヴァラード、ティム・カリー

タイムズ・スクエア.jpg

ロック歌手を夢見る少女と、お譲さんタイプの少女が、収容された精神療養施設を二人して抜け出し、大都会ニューヨークを巡る冒険の旅へ。
互いがはぐれてしまった時には、名前を叫び合えば、どこにいてもきっと通じるなんてセリフは「少女漫画」チックなんだが、まさにこの映画の設定って、矢沢あいの『NANA』の元ネタっぽいよね。

彼女たちのちょっと危なっかしい冒険を、陰からサポートするラジオ番組のDJにティム・カリー。
『ロッキー・ホラー・ショー』とか『レジェンド』とか、奇抜な役ばかりの怪優にとって、この役は素の顔で演じてる、普通にいい役だ。

アメリカの少女たちの青春ストーリーでありながら、劇中を彩るナンバーは、ロキシー・ミュージック、ザ・キュアー、XTC、プリテンダーズなど、ブリティッシュ・ニューウェーブのブームを背景にした選曲になってた。
ロック少女ロビン・ジョンソンと、お嬢さんトリニ・アルバラードの個性のちがいを眺める楽しさも。

過去に一度DVDになってたかも知れないが、今は廃版と思う。



『チェンジリング』(1980)カナダ 
監督ピーター・メダック 主演ジョージ・C・スコット、メルヴィン・ダグラス

img3435.jpg

イーストウッド監督&アンジェリーナ・ジョリーによる同名映画の方が有名になってしまったが、こちらも心霊ホラーとして優れた出来栄えなのだ。
ジョリーの映画では、失踪した息子を別人の子供を、警察から「息子だ」と押し付けられる母親の話だったが、こちらの『チェンジリング』も同じ意味で、過去に病弱のため、遺産狙いの父親により殺害され、孤児院から貰われてきた子供に、実の子に成り代わられた子供の霊が、その存在を示そうと怪奇現象を起こす。

妻と子を自動車事故で亡くし、傷心の作曲家が、歴史保存協会に勤める女性から、閑静なビクトリア調の屋敷を、新居にと紹介される。悲しみを忘れ、音楽に専念できそうな雰囲気を気に入るが、ほどなく家の中で、妙な現象が相次ぐようになる。
霊媒師を頼み、降霊術を行うと、その家には子供の霊が憑いてることがわかる。
作曲家は、この古い屋敷の過去を調べていく内、元々の所有者だった一族にその原因があることを突き止める。そして屋敷の床板を外すと、その下には井戸が掘られていた。

うん?何かに似てるよね。そう『リング』貞子だね。
父親によって殺されて井戸に捨てられた幼い子供の霊なので、貞子みたいに這い出てくるわけじゃないが。

それに怪奇現象に見舞われるのがジョージ・C・スコットなので、全然ビビッてない。それどころか、子供の霊があんまり騒ぐと、叱りつけたりしてる。
なので心霊ホラーとしての怖さはさほどではない。それより、娘を亡くした作曲家と、父親に殺された子供の霊の、無念さや悲しみがリンクするストーリーに深みがあるのが、凡百のホラーにはない部分だ。
昔ビデオは出てたがDVDにはなってない。



『チャンピオンズ』(1984)イギリス
監督ジョン・アーヴィン 主演ジョン・ハート、エドワード・ウッドワード

チャンピオンズ.jpg

騎手と競争馬の実話というと『シービスケット』を思い起こさせるが、こちらの方は「事実は小説より奇なり」と言いたくなるほどの実話なのだ。

なにしろこの映画の主人公である、障害レースの花形騎手ボブ・チャンピオンは、名馬と謳われるアルダニティに騎乗して、世界最高の障害レース「グランド・ナショナル」を制することを目標としながら、突然のガン宣告で、余命8ヶ月と診断されてしまう。
回復の見込みを化学療法に賭け、その副作用で頭髪は抜け落ち、別人のような人相に。
そして追い討ちをかけるように、アルダニティがレース中に、前足を骨折、廃馬となる危機に。

だが未来の無くなったかに見えた騎手と競争馬は、共に復活を遂げる。ボブはアルダニティに騎乗し、「グランド・ナショナル」のトラックを目指して走り始める。

騎手を演じるのがジョン・ハートなんで、化学療法の副作用が表情に表れてくるあたりは、普段からあのルックスなのに、それに輪をかけて痛々しく、見てる方が気分が落ち込むんだが、
そのボブが担当の女医から
「ガンは完治しました」
と告げられる場面は、映画館の客席からどよめきの声が上がってたのを憶えてる。
それは「良かったわねえ!」という、実感のこもったどよめきだった。

ビデオは出てるがDVDにはなってない。
馬が疾走する映画はスクリーンで見たいね。



『天使の接吻』(1988)フランス 
監督ジャン・ピエール・リモザン 主演ジュリー・デルピー

img3465.jpg

この映画に関してはあまり書くこともなくて、要は『汚れた血』で目を奪われたジュリー・デルピーが主演してるということと、前作『夜の天使』が俺的には最高だったリモザン監督の新作なんで、封切りに駆けつけた。
内容はほとんど憶えてない。ジュリー・デルピーを眺めてる内に映画が終わってしまったからだ。
それより憶えてるのは、この映画はフランス映画『変身する女』と2本立ての興行だった。

場所は自由が丘武蔵野推理劇場で、その頃は名画座から、ミニシアターへと、プログラム編成を変えていた。劇場名も変えてたかも。
平日の夜、先に『変身する女』を見に場内に入ると、客は俺だけだった。間際になっても誰も入って来ない。
冬場だったが、俺は受付のスタッフに
「勿体ないから暖房切ってもいいですよ」
と言いに行った位だ。
『天使の接吻』の時にはポロポロと客も入ってきた。

まあとにかく俺はこの映画のジュリー・デルピーが一番可愛いと思ってるんで、もう一度見たいのだ。
ビデオはどっから出てたかな?パックインあたりか。DVDは出てない。



『遠い声、静かな暮らし』(1988)イギリス 
監督テレンス・ディヴィス 主演ピート・ポスルスウェイト

img1156.jpg

1950年代のリヴァプールの、ある五人家族の肖像を描いた映画なんだが、ユニークなのは、登場人物たちが、当時やなつかしの流行歌なんかを、アカペラで唄い継いでいく構成になっていて、その歌詞に時々の家族の心情が反映されてたりする。
『ボタンとリボン』とか『バイバイ、ブラックバード』とか数曲は知ってるが、ほとんどは耳なじみのない歌ばかりだ。
だけどその家の三人姉妹が唄うのを聴いてると、なにか不思議な幸福感に包まれる感じがした。

全編を歌で綴るといっても、ミュージカルのような明朗さはない。
ピート・ポスルスウェイト演じる父親は、すぐに癇癪を起こして母親に暴力を振るうような男なんで、家族の風景そのものは、ほの暗い印象なのだ。
しかし、なんだろう、彼らの唄う様子をずっと眺めていたいと思った、あの感情は。

人生にはいい思い出も、悪い思い出もあるが、自分が幼い頃から口ずさんできた歌に、
「悪い歌」はない。
家族の営みと「歌」がこれほど寄り添うように描かれた映画もないんじゃないか?

これは今は無き六本木の「シネヴィヴァン」で見た。
パンフレットがよく出来ていて、劇中で家族によって唄われる、すべての曲名と解説がついていた。
服飾デザイナーの菊池武夫が、登場人物たちのドレスやスーツを、自らスケッチして、解説してたり、シナリオの採録もあった。資料価値が高い。

これも昔ビデオになったきり、DVDにはなってない。



『ドラキュリアン』(1987)アメリカ 
監督フレッド・デッカー 主演スティーヴン・マクト、トム・ムーナン

ドラキュリアン.jpg

こんな「ドラキュラ」と「バタリアン」合わせただけのテキトーな邦題つけるもんだから、今じゃほとんど顧みられなくなってるし、ウェス・クレーヴンの『ドラキュリア』と混同されてるしで、ロクなことないんだが、はっきりこれは『ドラキュリア』より面白い!
今だったら原題の『モンスター・スクワッド』で公開できてただろうね。

内容は簡単に言うと『怪物くん』と『グーニーズ』をミックスしたようなもの。
ドラキュラ伯爵が、フランケン、ミイラ男、狼男などモンスターを引き連れて人間界にやってきた。自らの力を封じる「石」を人間から奪い取るためだ。郊外の町の少年たちが、その存在に気づき「モンスター討伐隊」を組織して、それぞれの弱点を調べ上げ、戦いに臨む。

「お子さま向け」かも知れないが、製作総指揮にはピーター・ハイアムズや、後に『ワイルド・スピード』で当てるロブ・コーエンが名を連ね、『ラスト・アクション・ヒーロー』などのシェーン・ブラックが脚本を書いてる。

フランケンがやっぱりいいヤツで、ドラキュラから少年たちの味方についたりしてる。少年の小さな妹と、フランケンの別れの場面などは、思わずホロリとさせられてしまうから侮れない。

監督のフレッド・デッカーは『クリープス』『ドラキュリアン』とSF・ホラーファンを喜ばせ、ビッグになるはずだった『ロボコップ3』でヘタこいて、その後は映画を撮れないでいる気の毒な男だ。

昔ビデオは出てたがDVDにはなってない。
本国アメリカでは「製作20周年記念版」のDVDが出るくらいに根強いファンがいるのにね。



『トラブル・イン・マインド』(1986)アメリカ 
監督アラン・ルドルフ 主演クリス・クリストファーソン、キース・キャラダイン

トラブル・イン・マインド.jpg

この映画の魅力を人に伝えるのは難しいんだよね。シアトルを架空の町「レインシティ」に見立てた、ハードボイルドであり、三角関係のドラマでもあり。

クリス・クリストファーソンの出で立ちなどは「ハードボイルド」を記号化したらこうなるというような、完璧に隙のない渋さなんだが、あまりにキマッてるんで、それが80年代特有の「すかした」感じ手前のギリギリで踏み止まってると言おうか。
キース・キャラダインは最初は、妻子を養うため、レインシティに職を探すが、すぐに悪の道にすくわれて行き、次第にルックスもおかしなことになってくる。
もう髪型なんか、リーゼントなのかクロワッサンなのかわからん状態に。

『ピンク・フラミンゴ』の怪優ディヴァインが、女装ではなく、素の表情でギャングのボスを演じてたり、舞台装置も含めてデフォルメされた世界の中で、アラン・ルドルフ監督ならではの「愛を掴み切れないでいる者たち」のドラマが展開されるのだ。

栗田豊通のカメラが美しいんだが、俺がこの映画で一番目を惹かれたのはロリ・シンガーだ。『フットルース』でケヴィン・ベーコンの相手役として出てた彼女は「なんか肩幅の広い女だな」程度にしか思わなかったが、この映画で小さな赤ん坊を抱えた若妻の彼女は、それは美しい!
ルドルフ監督は女優の魅力を引き出すことにかけては、師匠のロバート・アルトマンを凌ぐ才を持ってると思うが、それにしてもという感じで、彼女に魅入ってしまった。

マリアンヌ・フェイスフルのけだるいヴォーカルもマッチして、こんな雰囲気の映画は滅多にない。

ビデオは出てたがDVDにはなってない。
この映像をもう一度スクリーンで見たい。

2012年2月4日

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:映画

「午後十時の映画祭」(80年代編)④作品コメ [「午後十時の映画祭」]

昨日に引き続き、この映画が観たい「午後十時の映画祭」(80年代編)50本の作品コメントを入れる。
今日は五十音順リストの「サ」と「シ」を。



『ザ・キープ』(1984)アメリカ 
監督マイケル・マン 主演スコット・グレン、ユルゲン・プロフノウ

h0078.jpg

ある意味マイケル・マン監督唯一の「トンデモ映画」なわけだが、何とも捨てがたい魅力がある。
そしてこの映画は劇場の大スクリーンで見なければ、堪能できたとは言えない、そういう映像へのこだわりに満ちている。特に前半がいい。

第2次大戦中、ドイツ軍の小隊が、ルーマニア山中に進軍する。険しく幽玄のムードが漂う山肌が、湖面に鏡のように反映してる、この監督が好きなシンメトリーの構図のショットが美しい。
東山魁夷の絵画のようだ。
山中の村に着いた小隊は、そこで無数の石で築かれた巨大な城塞を発見する。
ユルゲン・プロフノウ演じるドイツ軍大尉はつぶやく。
「この城塞は作りが逆だ。外敵を防ぐためでなく、なにかを内側に封じこめようとしてるようだ」と。

城塞の内部はさらに石の壁でシールドされてるが、兵隊のひとりが、壁に穴を開けてしまう。
壁の向こうには、おっそろしく深く巨大な空間が広がっていて、その底から何かが、壁に開いた穴から漏れる光を目指して上昇する。
この場面の空間造形などは、スクリーンで見てこそ凄さがわかる。

ザキープ.jpg

F・ポール・ウィルソン原作による新手の「吸血鬼伝説」の映画化なんだが、ディテールが端折られてる感は否めず、後半の尻すぼみぶりは残念だ。
以前から噂に上ってる「ロングバージョン」でのリバイバル上映なんてのが実現できたらいいのに。
タンジェリン・ドリームの音楽も大音量で聴きたいね。

イアン・マッケランやガブリエル・バーンを起用してる、キャスティングの先見性にも注目。
ビデオが出たのみでDVDは出てない。



『ザ・クラッカー 真夜中のアウトロー』(1981)アメリカ 
監督マイケル・マン 主演ジェームズ・カーン、チューズディ・ウェルド

h0059.jpg

これは最初に映画館で予告編を見た時に「なんだこのカッコよさは!」と興奮して、「テアトル東京」の封切りに駆けつけたのだ。
昼は中古車の販売業、夜は金庫破りという、二つの稼業を持つ男を演じるジェームズ・カーンが渋い。これが代表作でいいんじゃないか?

まず目を引いたのが、工事現場か、と思うような金庫破りの場面。デカいドリルを持ち込んで、扉に穴を開けてく。「音は大丈夫なんか?」と思うが、相棒のジェームズ・ベルーシと、無駄のない動きで黙々と進めてく。
タンジェリン・ドリームの無機的だが煽るようなシンセの旋律が、ドリルから放たれる火花に呼応して、とにかくスリリングだった。

もう一点強い印象を残したのは、ジェームズ・カーンの銃の構え方だ。それまで映画で見たことないような構え。
両手で銃を持ち、肘を伸ばして、肩を上下左右にすばやく動かして状況を図る。カーンの顔つきと共に、緊迫感漲ってた。
軍隊なのか警察なのか、マイケル・マン監督が実際にリサーチしての構え方なのだろう。
カーンに金庫破りの極意を授けた、今は刑務所の中にいる「師匠」を演じてるのが、ウィリー・ネルソンというキャスティングが意表を突いてた。出番は少ないが貫禄を感じさせるいい演技だった。

この監督は、結末の見せ方に今ひとつインパクトが足りないという弱点を持ってて、この劇場映画デビュー作から、その例に漏れずなんだが。

ビデオは出てるがDVDにはなってない。
間違いなくツタヤのオンデマンドにラインナップされるとは思うが。



『砂漠のライオン』(1981)リビア 
監督ムスタファ・アッカド 主演アンソニー・クイン、オリヴァー・リード

砂漠のライオン.jpg

カダフィ大佐が金を出したんだろうか?潤沢なオイルマネーによって作られた歴史戦争大作だ。
第2次大戦下の北アフリカ。イタリアの独裁者ムッソリーニは、サハラ砂漠に「第二のローマ帝国」を建設するという、破天荒な野望のもと、イタリア軍を進軍させていた。その前に立ちはだかったのが、ベドウィンの戦士だった。

その勇猛さで「砂漠のライオン」と呼ばれたオマー・ムクターの伝記の映画化。
シリア生まれの監督ムスタファ・アッカドは1976年の『ザ・メッセージ』がデビュー作で、当時都内唯一のシネラマ上映館だった「テアトル東京」で上映された。
ムハンマドの教えを描いた歴史宗教大作の趣だったが、この2作目は、戦争映画として娯楽性も高くなってた。こちらは「渋谷パンテオン」で見たと思う。

アンソニー・クィンはこの監督の前作に続いての主役登板。
ムッソリーニを演じるのはロッド・スタイガー。彼は1974年の『ブラック・シャツ/独裁者ムッソリーニを狙え!』でもムッソリーニを演じてる。この映画はビデオ・スルーでリリースされてた。
ベドウィンを抑えるために、イタリア軍を率いる将軍にオリヴァー・リード。彼のアクの強さが役柄にいい具合に反映されてた。

以前DVDになってたが、現在は廃版。
カダフィ大佐のリビア軍が全面協力した大がかりな戦闘シーンを、またスクリーンで見てみたいが。



『サンフランシスコ物語』(1980)アメリカ 
監督リチャード・ドナー 主演ジョン・サヴェージ、デヴィッド・モース

h0061.jpg

主人公ジョン・サヴェージが高層のオフィスビルに入っていく。社員なのかと思いきや、空いてる部屋の窓を開け、いきなり飛び降り自殺を図るという、衝撃的なオープニング。
駆けつけた救急隊員の中に、リチャード・ドナー監督がカメオ出演してる。

その青年ローリーは、一命は取り留めたものの、歩行困難な身体となり、途方に暮れるまま、立ち寄ったバーには、同じように身体の不自由な客たちが集っていた。
その中にやはり足が悪いがバスケが得意な、長身の青年ジェリーがいた。バーに通いつめる内に心の傷も癒えてきたローリーは、ジェリーの能力ならプロのバスケでも通用すると確信。手術を受ければジェリーの足は良くなると聞き、手術代の工面が、自らの生きる張り合いになってゆく。

リチャード・ドナー監督は娯楽大作の担い手のイメージがついてるが、元々は『君は銃口/俺は引金』や『おませなツインキー』など、小味な映画に上手さを見せる人だ。

ジェリーを演じるのはこれがデビュー作のデヴィッド・モース。俺はこの時の役柄が、そのままイメージに残ってるんで、近年では名バイプレーヤーとして、悪役も演ったりするが
「でもホントはいい人だよね?」
と思いながら見てしまうのだ。

あと出演者の中に、第2次大戦中に両腕を失ったハロルド・ラッセルがいる。彼がこの映画以外に唯一出たのが、1946年の、復員軍人たちのドラマ『我等の生涯の最良の年』だ。

ハロルドら;津セ.jpg

そのことからも、この映画が、あのアカデミー作品賞受賞作へのオマージュとなっているのがわかる。

この邦題だが、ありきたりな上に正確ではない。舞台はサンフランシスコから少し内陸側の、あのアスレチックスの本拠地オークランドだもの。
今までビデオもDVDも出てないのは、劇中に当時のAOR系の楽曲がけっこうな数使われてるからか?



『シカゴ・コネクション 夢みて走れ』(1986)アメリカ 
監督ピーター・ハイアムズ 主演ビリー・クリスタル、グレゴリー・ハインズ

シカゴコネクション.jpg

テレビ『サタデーナイト・ライブ』で人気を博したコメディアン、ビリー・クリスタルの映画初主演作。『タップ』のグレゴリー・ハインズが相棒を演じる「バディ・ムービー」の快作。
暖かいマイアミで店を持つことを夢見るシカゴ市警殺人課の刑事コンビが、退職前のひと仕事に、地元の麻薬組織のボスの逮捕を目指し、奮闘する。

ピーター・ハイアムズとしては、監督デビュー作『破壊!』以来の「バディ・ムービー」となるが、どちらの映画の刑事たちも、風采が上がらない感じなのが可笑しい。
映画初主演とは思えない軽妙洒脱な演技を見せるビリー・クリスタルと、シカゴ地下鉄の有名な高架線上を、車が爆走するという、ハイアムズ面目躍如なアクションが、がっちり組み合わさって、最後まで楽しませてくれる。

ただビリー演じる刑事の別れた美人の奥さんが、麻薬組織に誘拐されるという展開は頂けない。
アメリカ映画の刑事ものの悪いパターンというのが、刑事の身内に危機が及ぶというヤツね。
実際、悪人を検挙するたんびに身内が狙われてちゃ、刑事なんてやってられんだろうし、現実にはそんなことはほとんどない。
警察という組織は身内を狙うような犯罪者は、それこそ血眼で追いつめてくからだ。
まあその減点分を差し引いても、もう一度見たい映画には変わりない。

ビデオは出てたがDVDにはなってない。



『死にゆく者への祈り』(1987)イギリス 
監督マイク・ホッジス 主演ミッキー・ローク、アラン・ベイツ

死にゆく者への祈り.jpg

いや、わかってますよ、この映画がジャック・ヒギンズの原作ファンからはすこぶる評判が悪いことは。
ヒギンズ原作の映画化では『鷲は舞いおりた』の方がなんぼかマシという意見が大勢であろうことも。
しかしね、俺はマイク・ホッジスの映画が好みだし、80年代のミッキー・ロークも好きなんでね、これで満足なり。
ただ製作会社のサミュエル・ゴールドウィン・プロによって、当初の尺から大幅に切られたようで、公開当時、監督とミッキー・ロークが抗議のコメントを出していたりして、描き足りてない部分は確かに感じる。
完全版が存在するものなら、是非見てみたい。

IRAの凄腕のテロリスト、マーチン・ファロンは、手違いでスクールバスを爆破、罪の意識に苛まれ、組織を抜け、国外逃亡を図る。
偽造パスポートと引き換えに、ギャングのボスから殺しを依頼され、実行するが、その現場を神父に目撃される。
ファロンは懺悔の内容を神父が公にできないことを逆手に取り、教会で殺人を懺悔する。
だが今やファロンは警察からもIRAからも追われる身となっていた。

イタリア系のミッキー・ロークは、髪を赤く染め、アイリッシュ訛りで話し、役に近づける努力はしている。
脇を固める役者たちがいい。表向きは葬儀屋を営むギャングのボスにアラン・ベイツ。
昔は荒くれだったという神父を演じるボブ・ホスキンスは名演だろう。

リーアムニーソン死にゆく者.jpg

出番は少ないが、ファロンの親友だが、IRAの闘士として、ファロンに銃を向けることになるリーアム・ニーソンも強い印象を残す。彼は当時まだ無名だったが、もう数年遅ければ、アイリッシュのリーアム・ニーソンが、マーチン・ファロン役を演じてたかも知れない。

ビデオは出てるがDVD化はされてない。



『ジャグラー ニューヨーク25時』(1980)アメリカ 
監督ロバート・バトラー 主演ジェームズ・ブローリン、クリフ・ゴーマン

ジャグラー.jpg

『サンフランシスコ物語』の題名と同様、この映画の邦題も誤解を招く。
「25時」というのは、午前1時という意味じゃなく、突然人違いで娘を誘拐された元警官が、必死で犯人を追って、娘を救出するまでの「25時間」の物語という意味なのだ。
なのでこの設定からも連想されるように、これはリーアム・ニーソン主演の『96時間』の元ネタと言ってもいいサスペンス・アクションの快作だ。

ブロンクス地区からセントラル・パークまで、ゲリラ撮影も織り込みながら、ニューヨークを縦横に駆け抜ける、その「しゃにむ」な熱気がこもった演出ぶりに乗せられる。
『カプリコン1』でスターの座についたジェームズ・ブローリン以外は、名の知れてないキャストだが、主人公が警官時代に恨みを買った巡査部長が、誘拐犯でなく、それを追う主人公に銃を向ける展開も凄い。
巡査部長を演じるのが、これが映画デビューのダン・ヘダヤ。
街中でいきなりショットガン撃ちまくって、通行人が逃げまどう場面などは
「第2のブルース・ダーン来たあー!」
と喜んでしまったが。

エロい場所にもカメラが入っていくんで、当時のニューヨークの風俗も伺い知れる。
昔マイナー・メーカーからビデオが出てたがDVD化はされてない。



『シルクウッド』(1983)アメリカ 
監督マイク・ニコルズ 主演メリル・ストリープ、カート・ラッセル

シルクウッド.jpg

メリル・ストリープで言えば『ソフィーの選択』もまだDVD化されてないんだが、時節がらと言っちゃなんだが、「原発」を扱った題材のこの映画を今、見れるような環境が作られてるべきじゃないか。
それに同じ題材として『チャイナ・シンドローム』ばかりが取り上げられる傾向があるしね。

オクラホマにあるプルトニウム製造工場で働いていた工員カレン・シルクウッドの実話の映画化。
工場の放射能漏れ事故により、放射能汚染にさらされたカレンが、プルトニウム製造過程での重大な違反を探り当て、告発に動いた矢先に、自動車追突事故で死亡する。
それが事故か謀殺かと、当時アメリカ国内を騒然とさせたのだ。

カレンはバイセクシャルで、男と女、両方の恋人と三人で同棲していた。
男の恋人をカート・ラッセルが、女の恋人をシェールが演じてる。

「社会告発もの」ではあるが、マイク・ニコルズ監督は、その生活ぶりも細かく描写してる。
後にラブコメの名手と謳われるようになるノーラ・エフロンが、こんな硬派な脚本を書いてたんだね。
ブルーカラーを演じるメリルというのも珍しいし、彼女の狼ヘアーな髪型も俺は好き。

ビデオは出てたが、DVDにはなってない。

2012年2月3日

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:映画

「午後十時の映画祭」(80年代編)③作品コメ [「午後十時の映画祭」]

昨日に引き続き、この映画が観たい「午後十時の映画祭」(80年代編)50本の作品コメント。
今日は五十音順リストの「カ」行を。



『仮面の中のアリア』(1988)ベルギー 
監督ジェラール・コルビオ 主演ホセ・ファン・ダム、フィリップ・ヴォルテール

仮面の中のアリア(未使用).jpg

かつてその美声で聴衆を酔わせた名バリトン歌手が、突如引退を表明。後進を育てる「音楽教師」の道を選ぶ。彼には愛弟子の若い女性歌手がいたが、町で偶然耳にした美声の持ち主である青年を弟子にとることに。
二人の若い歌手は師のもとで技量を磨いていき、師がバリトン歌手だった時代のライバルだった公爵が主催する、アリアのコンテストに出場することに。
だが師と公爵にはある因縁があり、公爵はコンテストを復讐の場に考えていた。

とりすました「オペラ映画」なんかではなく、クライマックスの「歌合戦」の熱血な盛り上がり方なんかは、一昨年の『オーケストラ!』に近いもんがある。
通俗的なストーリー展開のとっつき易さがあるんで、劇中に歌われる名曲の数々も、俺みたいなクラシック音痴な人間でも、素直に「いい曲だなあ」と聴き惚れてられるのだ。

音楽教師を演じるホセ・ファン・ダムは実際に高名なオペラ歌手だそうで、劇中でその歌声も披露してるが、愛弟子を演じる若い男女の俳優は、オペラ歌手ではなく、歌う場面は吹替えだという。でも別にそれはいい。
女性歌手を演じるアンヌ・ルーセルが歌い上げる表情とか美しいし、見てるこっちも気持ちが昂ぶる。

DVDは以前パイオニアLDCから出てたが、廃版となってる。
これは音響のいいシネコンでかけてほしい。



『カリフォルニア・ドールズ』(1981)アメリカ 
監督ロバート・アルドリッチ 主演ピーター・フォーク、ローレン・ランドン

カリフォルニアドールズ.jpg

女子プロレスに材を取った、巨匠アルドリッチの遺作。
ローラーゲームを描いた『カンサスシティの爆弾娘』とも通じるが、まだ格闘系の女子スポーツが
「見世物」と捉えられてた時代が背景にある。なので尚更
「どう見られてようが、アタシは体張ってやってるんだよ!」
という女たちの意地が際立つ。
マネージャーの中年男と、一台のボロ車で、全米各地を遠征する女子プロレスラーのタッグが、ギャラがいいからと「泥レス」のリングに上げられ、その屈辱に悔し泣きする場面などは、
「見世物とは呼ばせない」という本気をリングにぶつけてきた彼女たちの、ギリギリのプライドに「泥」を塗られた無念さが痛いほど伝わってきた。

ロードムービーの魅力でもある、ひなびたアメリカの風景も堪能できるし、マネージャー役のピーター・フォークが実にいい味。二人の若い女と旅をしながら、一線を越えるなんてことがないのもいい。

『探偵マイク・ハマー/俺が掟だ!』でハマーの頼もしい秘書を演じてたローレン・ランドンと、ヴィッキー・フレデリックの女子タッグも、スタントなしでリングで暴れていて、まさに体張った熱演。だから最後の試合シーンもテンション上がる。
この二人の女優、その後やはりというか、それぞれ「アマゾネス」ものに主演してたりする。

昔ビデオは出てたが、DVDは出てない。
MGMなんで、そう遠くない時期にツタヤのオンデマンドにラインナップされると予言しとこう。



『キャル』(1984)イギリス 
監督パット・オコナー 主演ヘレン・ミレン、ジョン・リンチ

キャル.jpg

『父の祈りを』『ボクサー』『ナッシング・パーソナル』『ブラッディ・サンデー』そして『麦の穂をゆらす風』など、北アイルランド紛争を背景にした映画には力作が多いが、この映画はその中でも、それこそ視点がパーソナルだし、いろんな意味で地味だし、よく劇場公開が実現したなと思う。
日本公開は製作年度から5年後の、1989年になってだったが。

この映画のことは、音楽をマーク・ノップラーが前年の『ローカル・ヒーロー』に続いて担当してるということで注目してた。なので先にサントラを聴いてて、公開は望めないかもなと思ってたのだ。

プロテスタントが多くを占めるアイルランドの小さな村で、その鬱屈をIRAでの活動で晴らすような日々を送るカソリックの青年キャルが、図書館で働く未亡人のマルチェラと出会い、惹かれていく。
キャルは殺人も厭わないIRAの破壊活動に次第に嫌気がさしていたが、彼が係った殺害行為の標的が、マルチェラの亡き夫だったことがわかり苦悩する。

キャルを演じるジョン・リンチはこれがデビュー作で当時23才。未亡人演じるヘレン・ミレンは当時39才。「年の差ラブストーリー」の側面もある。
アイルランドの風景というのは、アメリカとは違い、なにか荒涼とした中にも「なつかしさ」を感じるような所があって、見てて飽きないのだ。

一度ビデオになってるが、かなりレア。たしか「紙箱」だったと思う。DVDにもなってない。



『ギャルソン!』(1983)フランス 
監督クロード・ソーテ 主演イヴ・モンタン、ニコール・ガルシア

img403.jpg

「俺もこんなジジイになりたい!」と映画館で見ながら、心の中で叫んでたよ。

ギャルソンというのは「給仕」のこと。パリのブラッセリー(大衆食堂といったところか)で、チーフの給仕としてフロアを仕切るイヴ・モンタンの身のこなしがまず見事。当時62才だが、食事時の満席のテーブルの間を、ダンスのような軽やかなステップで抜けていく。鬼シェフとの怒鳴りあいのオーダー通しも楽しい。

主人公には、海岸沿いに子供向けの小さな遊園地を建設するという、人生の目標がある。
『生きる』の志村喬を思わせる人物設定だけど、こっちは生活する活力に溢れてる。
仕事だけじゃなく、女友達も何人か居て、時には彼女たちの避難場所にと、住まいと別に借りてあるアパートの鍵を渡したりしてる。

ニコール・ガルシアが歳の離れた元カノを演じてるんだが、彼女がアパートに泊まり、バスタブにつかってると、モンタンが入ってきて、さり気なく彼女の足を揉んでやったりする。
ジジイがそういう事しても気色悪く映らない所がさすがだ。日本の役者でも映画でもこうはいかん。
イヴ・モンタンを見てると「枯れているけど艶がある」という、二律相反するんだが、そうとしか表現しようのない佇まいを感じるのだ。

幕切れも爽やかだし、ほんといい映画。
以前DVDになってるんだが廃版状態。



『キリング・タイム』(1987)フランス 
監督エドゥアール・ニエルマン 脚本ジャック・オーディアール 主演ベルナール・ジロドー

キリングタイム.jpg

今にして思うと「ミニシアター・ブーム」というのは確かにあったのだなあと、こんな「売りどころ」のなさそうな映画まで、公開されてたわけだから。ベルナール・ジロドーで客が呼べるはずもなく、監督は無名で、フランス映画お得意のラブストーリーでもなし。
でも俺も見に行ってるってことは、何か反応するような要素があったんだろう。
当時はジャック・オーディアールの名も知らなかったし。

ストーリーもよく憶えてないんだが、たしか妻が家を出てしまって、夫の刑事がその行方を捜すうちに、殺人事件に突き当たるという大筋だったかな。でも本筋からずれて、刑事が出会う、言動の奇妙な少女との係わり合いの描写の方が面白かった印象があるのだ。
この邦題は日本の配給会社によるもので、「ひまつぶし」という意味合いがあるらしい。
たしかに刑事が妻を捜すことより、少女との無為に思える時間を過ごすことに、心地よさを感じているようで、その話が真っ直ぐに進まない脚本の作りを、もう一度確認してみたいと思うのだ。

オーディアールは現在公開中の『預言者』を含め監督作は5本なので、まだ若いと思われがちだが、もう今年で60才となるのだ。初監督作『天使が隣で眠る夜』が42才の時だから、監督としては遅咲きだ。それまでは脚本を書いてたのだ。
これも昔ビデオになってたが、レンタル店にもほとんど出回ってないんじゃないか?DVDは出てない。



『恋の病い』(1987)フランス 
監督ジャック・ドレー 主演ナスターシャ・キンスキー ジャン・ユーク・アングラード

ナスターシャ恋の病.jpg

ナスターシャとは実年齢が近いこともあり、思い入れも強い女優だ。
特に俺はショートカットの彼女が好きなんで、『キャット・ピープル』『ワン・フロム・ザ・ハート』『愛と死の天使』に続く「ショート系」のこの映画も外せない。
ナスターシャというと、ギリギリ1984年の『パリ、テキサス』あたりまでしか語られない事がほとんどだが、いやいやこの映画もまだ26才だしね。レインコートとか、彼女のファッションも洗練されてた。
フランスきっての優男ジャン・ユーク・アングラードと、リヴェットとか、オリヴェイラとか、名匠の映画に出て、近年では「渋い」と評されてるが、70年代には「愛しの変態おやじ」という認識だったミッシェル・ピコリとの三角関係が綴られてる。
アンジェイ・ズラウスキが原案ということで、ヒロインのエキセントリックな内面が隠し味になってる。

ところで、そのミッシェル・ピコリが70年代に、ダッチワイフにリアルな愛情を注ぐ男を演じた映画があった。
『等身大の恋人』という題名まで決まりながら、結局オクラ入りしてしまったのだ。
それがすんごく見たいんだが。

話はそれたが、『恋の病い』はDVDになってるが、現在は廃版状態。
なんか多いなこの時代ので廃版になってるの。



『ゴールデン・エイティーズ』(1986)フランス・ベルギー・スイス 
監督シャンタル・アケルマン 主演ミリアム・ボワイエ デルフィーヌ・セイリグ

ゴールデンエイティーズ.jpg

フレンチ・ミュージカルといえばジャック・ドゥミであるわけだが、ドゥミのミュージカルのカラフル感はそのままに、舞台を地下のブティック・アーケードにして、大人たちの下世話な恋愛話を歌にのせた、ユニークなミュージカル・コメディ。
題名にあるように80年代のフレンチ・ポップス風ナンバーで彩られており、埋もれさせておくのは勿体ない楽しさに満ちている。

アラン・レネやルイス・ブニュエルなどの映画のヒロインを演じて、知的な女優という印象のデルフィーヌ・セイリグが、30年も前に別れた恋人との再会に、心みだされる様子を歌い上げるのも見もの。
登場人物たちがけっこう歳いってるというのも、いい味つけになってる。
そういやデルフィーヌ・セイリグはジャック・ドゥミ監督の『ロバと王女』にも出てたな。

昔ビデオは出てたが、ほとんどレンタル店で見かけたことない。もちろんDVDにもなってない。
もう楽曲も憶えてないんで、もう1回見てみたいのだ。



『コンペティション』(1980)アメリカ 
監督ジョエル・オリアンスキー 主演リチャード・ドレイファス エイミー・アーヴィング

コンペティション.jpg

これはしかしなんでDVDにならんかね?音楽版権と言ったって、ほとんどクラシックのピアノ・コンチェルトだからね劇中に流れるのは。
ドレイファス演じるのは、出場資格ギリギリの30才手前で、ピアニストになる最後のチャンスをコンテストに賭けようとするポール。
サンフランシスコでの決勝までに何度か顔を合わせた、エイミー・アーヴィング演じるハイディと、恋におちるが、その彼女とは優勝を争うライバルでもあるのだ。
彼らふたりの他にも様々な背景を持った若者たちが、決勝を目指してしのぎを削る様子を描いた、音楽群像劇だ。
主演のふたりは相当ピアノの特訓を積んだようで、実際の音は吹替えかもしれないが、その指さばきはなかなかのもんだった。

ドレイファス演じるポールの人物像が、エゴが強く自分に甘いところが目立つんで、素直に共感できるかは微妙。そのせいかわからないが、その年の「ラジー賞」で、ワースト男優賞の候補になってしまってる。
早くに「名優」と呼ばれる存在となってしまい、演技が粗くなってた時期だったかも。

この映画で主人公ポールは、ピアニストになれなければ、音楽教師の道に進むしかないという立場なんだが、それから15年後に主演した『陽のあたる教室』で、ピアニストをあきらめて音楽教師になった男を演じて、ドレイファスはアカデミー賞主演男優賞の候補に上がった。
『コンペティション』の役柄のその後を描いたような役を演じ、「ラジー賞」の汚名も晴らしたってわけだ。

2012年2月2日

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:映画

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。