TIFF2012・1日目『ウーマン・イン・ブラック』他 [東京国際映画祭2012]

東京国際映画祭2012

『独身男女』
『ウーマン・イン・ブラック』

「東京国際映画祭2012」が20日に初日を迎えた。
初日から飛ばさずに、今日は2本のみ。

そのうち1本は、本祭ではなく、関連企画の「東京・中国映画週間2012」の方で見た。
場所は六本木ではなく、渋谷の「ヒューマントラストシネマ渋谷」だ。



『独身男女』(東京・中国映画週間2012)

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一筋縄ではいかない活劇を連打する傍ら、ジョニー・トー監督がたまに手がけるラブコメ路線の新作。
だがその期待に冷水浴びせるかのように、内容よりまず、あの悪夢の字幕問題が再燃してたのだ。

一昨年の上映作『孫文の義士団』の字幕が凄いシロモノで、レオン・カーファイや、ワン・シュエチーなど、渋い役者たちのシリアスなセリフが、全部オネエ言葉になっちゃってた。
日本語の意味が通らない箇所も多く、映画の緊迫感も台無し。

思うに日本語がなんとなくわかる中国人女性が翻訳したのだろう。
それを修正する日本人スタッフがいなかったのか。
だが昨年に、この映画祭で見た2本の字幕は、それほど不自然さは感じなかった。
だから字幕の部分は改善がなされたものと思ってた。

やな予感がしてたのは、今年の「東京・中国映画週間2012」の、開催期間が近づいた頃に、HPに
「作品の一部に字幕の不備や、誤字などがある場合がございます」
的な但し書きがつくようになったことだ。

そして今日『独身男女』の上映前にも、劇場側から再三アナウンスで
「字幕に不自然な点や誤字があります」とのエクスキューズが。
実際見てみると、これが思いのほか壊滅的に酷い。

まず男と女が二人で会話してる場面でも、
「君」が「おまえ」になり「あなた」になるという、
ひと言ごとに言い回しが変わってしまう。

前の言葉は敬語だったのに、つぎには急に馴れ馴れしい口調に訳されたり。
「あなた、どうしましたか?」みたいな、中国の人が日本語しゃべる時の言い回しがそのまま字幕になってたり。
固有名詞や地名や店名なんかが、全部中国語で表記されてるから読めないし。
もう映画のストーリーに集中なんて無理。

たぶん一昨年と同じ状況で字幕が制作されたんだろう。
この映画祭を主催する組織には、日本人はいないんだろうか?
いや、いないにしても、字幕を日本語として自然な形に直す手間くらいかけてくれよ。

専用の業者に外注するとか、そんな大袈裟なレベルでもないよ。字幕読んでれば
「ああ、ここは本来こういうことを言いたいんだろうな」
と俺だって見当つく。
ということは普通の日本人なら直せるレベルだ。
ちょっと誰かに頼めば済む話だと思うがな。


とても映画を1本まともに見たとはいえないんだが、ストーリーはヒロインを巡る男二人の「三角関係」ラブコメだ。
ヒロインを演じるカオ・ユアンユアンは、最初は髪がロングだが、すぐにダニエル・ウーに勧められてショートにする。
このショートになった彼女が、なんか長澤まさみに似てるのだ。

表情豊かにユーモラスな演技もこなし、2001年の『北京の自転車』での、初々しくも硬い演技の印象はもはやない。美しさは増した。

「窓越し」に、見る見られるという行為をモチーフにしたストーリー展開が楽しい。
これで字幕がまともならね。
いつもはクールなイケメンを決めてるルイス・クーが、カオ・ユアンユアンの気を惹くために、あの手この手を繰り出してくる、その男カマトトぶりな演技が物珍しい。

このヒロインは、男ふたりの間を揺れ動くというのか、優柔不断というのか、両天秤というのか、ちょっと同性からは反感買うかもしれない性格づけになってる。
ダニエル・ウーが飼ってるガマガエルがいい味出してる。あの末路は悲痛すぎるが。

終映後の女性客の話を漏れ聞いた所によると、この映画は昨年の「大阪アジアン映画祭」で『単身男女』という原題のままで上映されており、その時の字幕はまともなものだったという。

ということは違う素材を使ってるわけか。一度字幕入れたものを使えばいいのにねえ。
いやあ、明日は『画皮 あやかしの恋2』を見るんだが、不安だよもう。



『ウーマン・イン・ブラック』(特別招待作品)

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舞台では二人芝居として演じられた、スーザン・ヒル原作のゴシックホラー小説を映画化。
こちらは二人芝居ではなく、登場人物がそのまま出てくる。

今年の映画祭の期待作をコメント入れた折りに、ホラー映画なのに「G」という一番緩い指定になってると書いたが、確かに血生臭い場面や、残忍な殺害場面などの描写はない。
だが心理的に追いつめられてく主人公に密着するカメラの視点で、見てる側も相当に緊張を強いられる。


子供たちの変死が相次ぐ、イギリスの田舎町。
その因縁が深いと目される「イールマーシュの館」にダニエル・ラドクリフ演じる弁護士アーサーが足を踏み入れる。

満潮時には泥の地面が水没してしまう、広大な沼地の中にそびえる館のロケーションが、フランスの世界遺産「モン・サンミッシェル」を思わせる、幻想的な美しさだ。

その廃墟となってる「イールマーシュの館」で、アーサーは黒衣の女の姿を目にする。
それが恐怖の連鎖の引き金になっていく。

『バイオレンス・レイク』で、胸糞悪くなるほどの臨場感で、理不尽な暴力を描き出したジェームズ・ワトキンス監督は、今回は残忍さは封印して、「お化け屋敷」映画としての怖さの醸造に徹している。
イギリスの寒村の灰色のムードや、館の調度品や小道具の不気味さ。
画面の隅々にまで、手を抜かずにこしらえてある。

ショック演出は苦笑してしまう位に王道で、音が消えたらビビらせのサインだ。

「ハリポタ」を1本も見てない俺は、この映画がダニエル・ラドクリフの演技を初めてまともに見ることとなったが、館の中で怪奇現象に見舞われるのは、もっぱらラドクリフ一人なんで、その追いつめられ感の表現は見応えがあった。
本当に一人で映画を背負って立ってる印象だ。

アーサーに唯一協力的な、地元の住人サムを演じるキアラン・ハインズは、いつもどおりの安定感。
ご贔屓のジャネット・マクティアが「黒衣の女」を演じるのかと思ったらちがった。

サムの妻役で、この夫婦の子供も変死してるのだ。妻はそれが「黒衣の女」の呪いと思っており、時折亡き息子が憑依して、ナイフで禍々しい絵を刻む。
その演技のためにキャスティングされたっぽい。

主人公が仕事のキャリアで窮地にあるという設定や、ラストが駅のホームという所や、主人公が泥水の中に潜る描写など、サム・ライミの『スペル』と合致する部分がある。

サム・ライミが、スーザン・ヒルの小説をヒントに取り入れてたのかも知れない。
登場人物が悲しみを抱えてるという部分では『リング』を連想させもする。
俺は映画を見て、逆に舞台の「二人芝居」を見たくなってしまったが。

2012年10月20日

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ステイサムと少女のニューヨーク逃走劇 [映画サ行]

『SAFE』

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ジェイソン・ステイサム主演作というと、「ステイサム映画」というブランドとして捉えられる印象がある。
機敏な身のこなしと、マーシャルアーツの見せ場がふんだんに織り込まれたアクションだろうと。
今回もその特徴は備えてはいるが、ステイサムのファンだけに留まるのは勿体ないなと思わせる内容だった。

アクション俳優というのは、人気のピークが過ぎると、あとは似たりよったりの新作を作り続けるという循環に入る。
そして監督も「おかかえ」のように、何度も同じ人間と組むようになるのだ。
ブロンソンしかり、ヴァン・ダムやセガールしかり。

ステイサムがそれらのスターたちと違うのは、シリーズ作以外は、同じ監督と組むことがない。
なので馴れ合いにならず、毎回少しずつ雰囲気が変わって、飽きられることがないのだ。

まあ映画のテイストは変わっても、ステイサムの出で立ちはほぼ変わらないし、絶対死ぬ事もないので、ファンにとっては「安心のステイサム・ブランド」となるわけだが。


今回の『SAFE』は、偶然出会った中国人の少女を、ステイサムが守りぬくという、『レオン』や『アジョシ』を思わせる筋立てで、アクションだけ目当てのファン以外にも、広くアピールできる要素を含んでいる。

この二人の結びつきが軸にはなってるが、先の2作ほどにウェットにはならない。
中年男と12才の少女の間には、ハードボイルドな空気が流れてる。

中国人の少女メイを演じるキャサリン・チェンという子は、松坂大輔に似てる、はっきり愛嬌に欠ける顔だちなんだが、その目つきの悪さも、媚びがなくていい。
目の前で人が殺されすぎるんで、これはPTSD発症するだろと思ってしまうほどに、過酷な目に遭わされる。


監督はエンドクレジットで気づいたが、ボアズ・イェーキンだった。
この映画のプロデューサー、ローレンス・ベンダーと組んだ
1994年の監督デビュー作『フレッシュ』を見てると、納得できるのだ。

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あの映画でも、メイと同じ12才の黒人少年が、麻薬売買に手を染め、否応なしに、血まみれな抗争劇のただ中に放り込まれていく姿が描かれていた。

『フレッシュ』とこの『SAFE』も、ニューヨーク、ブルックリンを舞台にしていて、ボアズ・イェーキン監督にとっては、あの黒人少年の過酷な体験を、同い年の少女に再び辿らせてるような所がある。

メイが幼くして数学の天才で、一度記憶した数字を忘れないという能力を持ってるという設定は、やはり天才少年が、偶然に政府の機密事項にかかわる暗号を解読してしまい、命を狙われる
『マーキュリー・ライジング』を連想させる。
どちらも子供を守るのがゲーハーな主人公というのも一緒。

この『SAFE』はボアズ・イェーキンの演出がいい。普通つかみに持ってくるような、冒頭部分でのアクションというのがない。
無関係なステイサムと、中国人少女がどうやって出会うのかまでを、互いの経緯を交互させながら、無駄を省いて描いていく。


ステイサム演じるルークは、ニュージャージーで行われてる、地下格闘技の試合で、八百長に背いて、誤って相手をKO。
その拳の破壊力は、相手を意識不明に陥らせ、見舞いに行った病院では、母親が掴みかかってくる。
その八百長では、ロシアン・マフィアのボスが、ルークの負けに大金を賭けていた。

そのことを知ったルークは自宅の妻に電話し、家を離れろと警告するが遅かった。
ルークが帰宅した時、妻は銃で蜂の巣にされた後だった。
ルークは待ち受けてたロシアン・マフィアたちの前で膝をついた。

ここまでの演出が省略を効かせてる。
八百長試合も、ルークが殴る前でカットが変わり、病院の場面になっていて、ルークの自宅でも、妻の死ぬ場面や遺体などは見せない。
無残に殺されたのは、セリフでわかる。

ボスの息子は抵抗の意志も見せないルークに言う。
「お前を殺しはしない」
「だがこれから先、ずっとお前を見張ってやる」
「お前が誰かと知り合ったりすれば、その人間を殺してやる」
「お前は一生一人でいるんだ」
「自殺するのは構わん。妻と会えるしな」
「だが自殺だって簡単にはできやしないぞ」

こういう脅しの方法は初めて見た。
自分ではなく、自分と縁のできた人間が殺されるってのはきついな。

頼るものもなくなり、ルークはホームレス同然に、教会が運営するシェルターに寝床を求めるまでに落ちる。
有り金をスリに奪われ、食料品店で騒ぎを起こして、警官にパトカーに乗せられるが、連れて来られたのはビルの廃墟。
そこでルークは、連絡を受けた刑事たちに袋叩きにあう。


ルークと刑事たちには因縁があった。
ルークは元は市長から直々に任命された、ニューヨーク市警特捜班の特命刑事だった。

ルークの鬼の粛清で、ニューヨークの組織犯罪はほぼ一掃されたのだが、その過程で、権力を私服を肥やすことに利用した同僚たちを告発。
特捜班は解散となり、ルークは裏切り者として刑事たちからも目の敵にされ、警察を去ったのだ。


同僚の悪事をもみ消そうとする組織の中で、唯一証言台に立ち、警察内で孤立無援となる主人公というと、チャック・ノリス主演の『野獣捜査線』を思い起こさせる。
『マーキュリー・ライジング』のブルース・ウィリス、『野獣捜査線』チャック・ノリス、そしてジェイソン・ステイサムが、同じ画面に立ち並ぶという『エクスペンダブル2』は、そんなことでも期待大なのだ。


さて孤立無援、天涯孤独状態に陥ったルークは、ニューヨークの地下鉄のホームに立ち尽くしていた。
投身自殺が頭をよぎる。
その時、目の端に入ったのが、中国人の少女の不安な表情だった。

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中国・南京の小学生だったメイは、その並外れた数字への理解力と、記憶力をマフィアのボスに利用される。
病気の母親をいい病院で診せてやると、右腕的な部下チャンの養子にメイを迎え、アメリカに移住させたのだ。
ニューヨークのチャイナタウンを仕切るボスのハンは、組織の売上げ金や、隠し金をパソコンのデータには残さず、メイに記憶させた。
そして組織が経営するカジノの地下金庫の、複雑な暗証番号も憶えさせた。

ニューヨークの縄張りを巡って、チャイニーズ・マフィアと争いを起こしていたロシアン・マフィアは、メイの存在を知り、この12才の少女を拉致しようとしてたのだ。

二大組織の暗闘は、もちろんニューヨーク市警も把握してたが、過去にルークを警察から追いおとした悪徳警部のウルフは、二つの組織を天秤にかけ、より賄賂を吸い取れる方につこうという腹だった。

ロシアン・マフィアはメイを拉致し、頭の中の数字を言えと脅すが、チャイニーズ・マフィア側から通報を受けた市警察の警官隊が、ロシアン・マフィアのアジトを急襲してきた。

その混乱に紛れて、メイはビルから逃げ出して、地下鉄のホームまでやってきたのだ。
少女の様子が気になったルークの目に、ロシア人らしき男たちの後ろ姿が。

地下鉄に乗った少女を追って、男たちも乗り込む。
ホームを滑り出した地下鉄の最後部に手をかけて、ルークは車両にしがみ付いた。


ここまではほぼアクションはないのだが、このあとの地下鉄内での格闘場面を皮切りに、妻を殺され、失うもののないステイサムが、
「中国人もロシア人もクソ野郎」
と等しくブチ倒していく。後半は怒涛のステイサム劇場となってる。
格闘のスキルだけでなく、二つのマフィアと悪徳警官、その三者を翻弄するような立ち回り方も憎いのだ。

車を使った銃撃の場面も、工夫が凝らされており、視点を車内に限定して、バックミラー越しに状況を見せたり、バックして跳ねられたマフィアが、ボンネットに落下して、路上に落ちると、それを前進してまた跳ねるとか、スタントも大変だね。

ラスボス的に出てくる相手が案外つまらなかったり、終盤に向うにしたがい、アクションが雑になってくのは惜しいが、94分で語ることをきっちり語ってる、人物造形に手を抜かない感じがよかった。

2012年10月20日

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スクリーンで見た60代のツェッペリン [音楽&ライヴ映画]

『レッド・ツェッペリン 祭典の日(奇跡のライヴ)』

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2007年12月にロンドンO2(オーツー)アリーナで開かれた、アトランティック・レコードの創設者アーメット・アーティガンの、トリビュート・コンサートにおいて、ほぼ再結成といえる状態のレッド・ツェッペリンが、ヘッドライナーを務め、2時間に渡り代表曲をプレイした。

ギターのジミー・ペイジが63才、ベースのジョン・ポール・ジョーンズが61才、ヴォーカルのロバート・プラントが59才、ドラムスは亡きジョン・ボーナムの息子ジェイソンが務めた。

この時のパフォーマンスを収めたCD&DVD・ブルーレイのセットが11月21日にリリースされるのに先んじて、各地のシネコンで、10月16日と17日の2日間限定でのスクリーン上映が実現。
俺は桜木町の「ブルク13」に駆けつけた。

ここでは一昨年に『QUEEN ROCK MONTREAL cinesound ver.』を見ていて、音を鳴らしてくれるので、今回も期待したのだ。

だけど1曲目の『グッド・タイムズ・バッド・タイムズ 』が流れてくると、小さくはないんだが、音量的にちょっと物足りない。
ツェッペリンで音を上げなくて、いつ上げるのだ。
映像はさすがにクリアだったけどね。

セットリストは

『GOOD TIMES BAD TIMES』(グッド・タイムズ・バッド・タイムズ)
『RAMBLE ON』(ランブル・オン)
『BLACK DOG』(ブラック・ドッグ)
『IN MY TIME OF DYING』(死にかけて)
『FOR YOUR LIFE』(フォー・ユア・ライフ)
『TRAMPLED UNDERFOOT』(トランプルド・アンダーフット)
『NOBODY'S FAULT BUT MINE』(俺の罪)
『NO QUARTER』(ノー・クォーター )
『SINCE I'VE BEEN LOVIN' YOU』(貴方を愛しつづけて)
『DAZED&CONFUSED』(幻惑されて)
『STAIRWAY TO HEAVEN』(天国への階段)
『THE SONG REMAINS THE SAME』(永遠の詩)
『MISTY MOUNTAIN HOP』(ミスティ・マウンテン・ホップ)
『KASHMIR』(カシミール)

アンコール1回目
『WHOLE LOTTA LOVE』(胸いっぱいの愛を)
アンコール2回目
『ROCK AND ROLL』(ロックン・ロール)


ストーンズの『シャイン・ア・ライト』は、スコセッシ監督のカメラと編集の見事さも相まって、俺も大好きなんだが、あの時のストーンズは平均年齢60代半ば。

このツェッペリンも、オリジナルメンバーの3人は平均で61才というところ。
紡ぎ出すサウンドの激しさからみても、60才でこの音を出すのは凄い。
ドラムスの、若いジェイソン・ボーナムが、体力にものを言わせて音の厚みをこしらえてるから、
「加齢で音の足腰が弱った」と感じさせない。

見た目にも老けたなと感じるロバート・プラントが、声量を渋みでカバーするような歌い方になってるのは致し方ないか。
『ブラック・ドッグ』などは、高いキーでは歌わず、曲のインパクトが弱まってる。
あの金属音ヴォーカルが、いかにツェッペリンのサウンドを形作ってたかと痛感した。

だが慣らし的な最初の3曲から、『死にかけて』ではエンジンがあったまってきた感じで、プラントの声も伸びが出てきた。

ジミー・ペイジがけっこう弾きまくってくれる。
ジョン・ポール・ジョーンズは、若い頃から地味で堅実な印象がまったく変わらずに、そこにいる。
体形もスリムなままだ。

彼らのライヴ映画として有名な『レッド・ツェッペリン 狂熱のライヴ』と重なるナンバーも多いが、あのライヴにはない、6枚目のアルバム『フィジカル・グラフィティ』からの3曲
『死にかけて』『トランプルド・アンダーフット』そして『カシミール』のパフォーマンスがいい。
俺は『カシミール』が聴けたのは感激だった。


それにしてもツェッペリンの曲には古さを感じない。
曲を生み出したアーティストが歳を食って、昔とはちがう見た目でプレイしてるのに、曲は歳を食ったように思えないのが不思議だ。

トリを飾る『ロックン・ロール』の、あのドラムの入りを耳にした瞬間には、やっぱ血が沸き立つもんがある。
カッコよかった。もうそれだけ。 

2012年10月19日


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今年一番おだやかでない題名 [映画サ行]

『先生を流産させる会』

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愛知県の中学校で起きた事件に材を取った映画。
事件を起こした男子中学生たちは、映画では女子中学生に書き換えられてる。

女性教師と生徒との「対決」の構図という部分から、松たか子主演の『告白』と較べられもするが、なによりも二つの作品は「子供を殺す」という内容の一致がある。

『告白』では学校内のプールで、女性教師の幼い娘が溺死させられてた。
この映画では女子中学生が「妊娠なんてキモい」という理由で、担任の女性教師を流産させようと、執拗に手を打ってくる。

なぜ女性教師なのか?そして『告白』においても、この『先生を流産させる会』においても、教師の夫の姿は出てこない。

思春期の生徒たちは、女性教師が自分の子を育てている、あるいは身篭っていることに、反発するのか。
「教師として自分たちを導いていくように見えても、いざとなれば自分の子が一番かわいいのだ」

つまり生徒たちの中では、教師であることと、母親であることは並び立たない。
家で自分に対してガミガミと干渉してくる母親の姿が、教師に投影された時点で、もう教師としては見れなくなる。
それはもう言いがかりのレベルだが、両方の映画に夫の影も見えないという所からも、女性教師の孤立無援の状況が剥き出しにされている。


俺の中学の頃を思い返してみても、女性教師はしんどいだろうなあと感じた。
中学になると、生徒がほとんど言うことをきかなくなる。
女性教師はどうしても舐められてしまうのだ。
学級崩壊に至るケースも、女性担任の場合が多いという。

この映画の中にもエゲツない位のモンペアが出てきて、女性担任のサワコに暴言吐きまくってくのだが、その後にサワコが、同僚の女性教師に

「バカがバカを産んで、そのバカがまた子供を育てる」
「教師はそのバカの機嫌をとるだけなのよ」と吐き捨ててる。

学校側の姿勢にも問題があるとはいえ、こんなことを言ってやりたいと思ってる、実際の女性教師もいるのではないか?


担任のサワコが妊娠した。中学の女子生徒たちは敏感に反応した。
クラスでも異質な女子グループのリーダー的存在のミズキは云った。
「サワコ、セックスしたんだよ。キモくない?」

5人の女子たちは、ブラジル人向けの雑貨店から、指輪を万引きして、ラブホの廃墟にある、彼女たちの「アジト」に向かう。
田んぼのあぜ道が長く延びる、どこにでもある地方都市の風景だ。

5人は指輪をはめて、ローソクの火にかざし、結成の儀式とする。
「先生を流産させる会」は発足した。

理科室で薬品を盗むと、給食時間に、サワコのスープに混入させる。
飲んだサワコはその場でもどし、女子たちは「きたなぁ~い」と声を上げる。

保健室で横になるサワコの様子を見にきたミズキは、保健の先生に
「何ヶ月から人間なんですか?」
と尋ねながら、サワコの腹に触れてみる。

保健室から戻ったサワコは、クラス全員に紙を配る。
給食に異物を混入したのは誰か?
知ってる名前を書かせるためだ。
5人の女子グループの中に、やり過ぎだと思う子がおり、彼女が主犯格の名前を記入した。

サワコは5人を呼びつけ
「赤ちゃんがもし殺されたら、私はその人間を殺す」
「先生である前に女なんだよ!」
サワコは立場を超えて、生徒たちに啖呵を切るが、ミズキは手を緩めない。

担任の回転チェアの、背もたれ部分のネジを利かないように細工した。
生徒たちの脇の席で採点をし終えたサワコは、いつもの癖で、後ろに反り返り、外れた背もたれとともに、椅子から転落した。
生徒たちの哄笑が響く。
起き上がったサワコは、例の5人に平手打ちして回った。

その5人のグループの一人、フミホから話を聞かされた母親が、激しい剣幕で学校に乗り込んできた。
娘を溺愛する母親は、教師の言い分など聞く耳持たない。

校長たちはひたすら頭を下げるのみで、サワコは
「学校の評判に関わる」と始末書を書かされる。

ミズキの執拗さに、グループの女子たちは引くようになり、事は鎮静化するかに思えた。
だが複雑な家庭環境で育ったミズキの、女性教師に対するドス黒い感情は、増幅を続けていた。


この映画はまず女子中学生たちのキャスティングがいい。
ミズキを演じる小林香織という子は、この映画の撮影時にはまだ小6だったというが、その敵意まるだしの表情に見惚れてしまう。
彼女は血が混じってるようなルックスで、実体験でイジメに遭ったりした事がなかったのか。
なにか映画の設定同様に、複雑な背景を抱えてそうに見えてしまった。

その彼女以外の4人が、また正反対に地味で、顔の区別もつき辛いほどだ。
こういう映画では、大抵タレント事務所からキャスティングされたりするんで、どうしても見映えのいい子が揃ってしまう。

でも実際の中学生とか、俺の時代もそうだったが、ほんとに可愛い子なんて、クラスに2人くらいだったからね。地味なのが普通だよ。
この地味な見た目の女の子たちが、地味で見所もなさそうな地方の町をブラブラ歩いてる。

学校の屋上からの風景もよかった。夏でプールに水は張ってあるが、その水もなんか緑っぽい色してて奇麗じゃない。
ダラダラと準備体操をする女子たちの表情。
彼女たちの日常が淀んでしまってるのが、画面から匂いだしてくる。


60分強という短めの映画は、終盤にサワコとミズキの対決へとなだれ込んでくが、不穏な暗さをまとい続けてきた映画は、意外な道筋を辿る。

俺はこの展開を見ていて、サミュエル・L・ジャクソンが、荒廃した高校の教師を演じた
『187 ワンエイトセブン』という映画を思い出した。
あの映画も学園ドラマとしては、当時は相当に異色な内容だったな。

サワコという女性教師は、その内面があまり描かれないが、その立ち居振る舞いは、ハードボイルド映画の主人公のようだ。

自らが傷を負っても、一線は越えない。
ホラーテイストにも感じられる映画が、踏み止まってるのは、そのサワコの人物造形による。

2012年10月17日

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グイ・ルンメイの台湾美人姉妹カフェ [映画タ行]

『台北カフェ・ストーリー』

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「東京ごはん映画祭」なるものが開催されてることをご存知か?
といっても俺も3日前に存じ上げたばかりだが。

「食べ物」が印象に残る映画や、「食」にまつわるテーマを持った映画を集めて上映する企画で、
10月6日から10月20日まで、渋谷「シアターイメージフォーラム」で、10月20日と21日の2日間は、南青山の「スパイラルホール」で開催される。

初日に、この20日から公開される日本映画『ペンギン夫婦の作り方』がプレミア上映された他は、新作は並んでないが、俺はスクリーンで見逃した映画があったので、足を運んでみた。

チケットカウンターで当日券を買うと、布製の小さなエコバッグをくれた。
中には協賛してる食品メーカーの「レトルト玄米がゆ」と「フリーズドライのおこげと野菜スープ」に、クラフトの「パルメザンチーズ」のミニサイズが入ってて、得した気分になった。

「東京ごはん映画祭」は今年第3回だそうだが、来年も開催してください。


『台北カフェ・ストーリー』はなんといっても主演してる二人の女優が美しい。
貯蓄家で、会社を辞めて念願のカフェをオープンさせた姉ドゥアルと、いまいち気が合わないんだけど、母親から「人件費だってバカにならないんだから、身内でやりなさい」と押しつけられた妹チャンアル。

そのドゥアルを演じるのは、高校生の時に『藍色初恋』で主演デビューを飾り、麗しく成長したグイ・ルンメイ。
妹チャンアルを演じるのは、これが映画デビューというリン・チェンシー。

昨日の『ロスト・イン・北京』のコメントでも触れたけど、アジア映画の俳優は、日本の誰かに似てるのだ。
グイ・ルンメイは女子アナの西尾由佳理に、リン・チェンシーは、映画のSキャラな感じと、ボーイッシュなショートで、木下あゆ美を思わせる。
二人とも「きつね顔」だね。こういう顔が好きなので、こんな美人姉妹が切り盛りしてるカフェなら俺も足繁く通うだろう。

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ドゥアルは開店前日に、花屋の車と接触事故を起こす。
ドゥアルの車の壊れたバンパーの修理代の代わりにと、花屋の車の荷台の花をもらう。

辞めた会社の同僚たちなどに、オープン日に何か持ってきてくれたら、花をプレゼントするとメールしたら、同僚たちは、役に立ちそうもない置物なんかを持ち込んできた。
すっきりと洗練されたはずの店内は、いろんな貰い物で雑然となってしまう。

同僚たちもぱったり顔を見せなくなり、店は途端に暇になった。
「もうこれ捨てちゃおう」
となった時に、地元の自治会長が、カフェのオープンを聞きつけてやってきた。

なぜか誰かが、タイ料理のメニューブックを置いていったらしく、自治会長はそれに反応を示した。
タイ料理ができる訳ではないと聞かされた会長は、メニューブックがほしいという。

すると妹のチャンアルは、とっさに
「なにかと交換するならいいですよ」と言った。
「店の排水溝を掃除してくれませんか?」
自治会長は「よし、息子にやらせよう」と請負い、交換話は成立した。

「ここはカフェで、物々交換の場じゃないのよ」
と不機嫌なドゥアルに、妹は

「物々交換に来た人は、けっこう悩むわよ」
「人は悩んだ時どうすると思う?」
「コーヒーを飲むのよ」
凄い論理の展開だが、姉のドゥアルはなんとなく納得してしまったようだ。

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ドゥアルは手作りのケーキやエクレアに磨きをかけ、妹チャンアルは、「物々交換」の宣伝チラシを町に配布して回る。
物珍しさも手伝って、少しずつ店に人が入ってくるようになった。
自慢のカプチーノやケーキのオーダーが中々伸びないのに、ドゥアルは不満ではあるが、店は人で賑わってる方がやはりいい。


そんなある日、男性客が35個の石鹸を持って店に来た。
それは彼が世界中を旅して集めた物だという。
石鹸をただ交換しようというのではなく、彼は石鹸を手に入れた場所、それぞれにまつわるストーリーも語ってきかせると云う。

最初会社の同僚たちが持ちこんできた物は、どれもガラクタに見えたが、人にとってガラクタに見える物でも、その持ち主には、それにまつわる思い出が含まれてる。
物々交換の場は、次第に物だけではなく、その人のストーリーを交換しあう場にもなっていった。

ドゥアルは学生時代には勉強一本に取り組み、いい会社に入って、コツコツと貯金をして、カフェを開くにまで至った。
それはそれで目標を実現させた達成感は得られたが、自分には語るべきストーリーがあまりない。

いろんな場所に行って、いろんなものを見るという経験をしてないからだ。
ドゥアルの中で、人生の価値観が少し変化し始めていた。


映画の中ではたいした出来事が起こるわけではない。
「雰囲気映画」といってもいいのだが、その雰囲気を、細部まで気を行き届かせて作っているので好感がもてる。

全体的に柔らかい色彩の質感であったり、ジャズピアノ調の音楽であったり、台北の街路樹の緑であったり、ゆったりとした気分で見てられる。
自転車で町を巡るリン・チェンシーの表情がきれいだった。


たぶん荻上直子監督の一連の映画が好きな人は、これも気に入るだろう。
俺は『かもめ食堂』は見たが、ほかのは見てない。

いや小林聡美や、もたいまさこも悪くはないんだが、たまにはこの映画みたいな「眼福系」のキャストで臨んでもらえればね。

台湾ではスタバのようなフランチャイズのカフェよりも、いろんな個性を打ち出したカフェが軒を並べてるという。
NHK-BSの町歩き番組でも、台湾の地方都市でそんなカフェを訪れていた。

2012年10月17日

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ファン・ビンビンの目の下のクマ  [映画ラ行]

『ロスト・イン・北京』

ロストイン北京.jpg

10月6日から11月16日まで、新宿のミニシアター「K'S CINEMA」にて開催されてる
「中国映画の全貌2012」。
その46本の中でも目玉のように扱われてるんで、見に行ったんだが、昨日ツタヤを覗いてたら、普通に旧作棚に並んでるじゃないか。
とっくにDVDになってたとは、全く気がつかなんだ。
でもスクリーンで見る機会があるんなら、それに越したことはない。

中国には二人のビンビンがいて、もう一人のリー・ビンビンは、『バイオハザード』の最新作に出てるが、「尖閣問題」に抗議して来日プロモーションを蹴ってる。
「まあ勝手にしろ」って所だが、こっちのファン・ビンビンの集客力は凄かったな。

開始20分前くらいに劇場に着くと、ロビーは人で溢れてる。
しかもほとんど「ご年配」だ。
彼女が激しい濡れ場を演じてるという情報が知れ渡ってるんだろう。

しかし今日び「女優が濡れ場を演じてる」なんて売り文句で、劇場に駆けつけるのは年配だけだろうな。若い人たちにはAVもあればエロ動画もある。
「間に合ってますから」という感じか。

実際、映画冒頭20分くらいの間に、中国映画にしてはかなり思い切ったセックス描写があり、ファン・ビンビンは透き通るような白い肌を晒している。

相手の男優も裸のケツを上下していて、昔ならそれだけでボカシが入れられる所だ。
描写は生々しいが、彼女は肝心な部分は見せてない。絶妙な寸止め感といえる。

だが前半を過ぎると、そういう場面は一切なくなる。
失望するかといえば、映画としてはそこからが面白くなってくるのだ。
物語の世知辛さには苦笑するほどで、それをリードしてくのは、ベテランのレオン・カーファイだ。


ファン・ビンビン演じるピングォは、北京市内のマッサージパーラーで働いてる。
亭主持ちは雇ってもらえないので内緒にしてるが、ピングォの夫アンクンは、ビルの窓拭き作業員をしてる。
同僚の女の子が、しつこい客に暴力を振るったと、オーナーのリン・ドンから解雇を言い渡される。

ピングォは彼女を慰めるため一緒に酒を呑み、したたか酔って、パーラーに舞い戻る。
そのままオーナーの部屋に入り、誰もいないと見ると、ベッドに倒れ込む。

部屋に戻ったリン・ドンは、従業員がベッドに寝てるのに仰天するが、太腿も露になった、そのあられもない姿に欲情し、覆いかぶさる。
酔っていて自分の亭主かと思い、名前を呼んでしまうが、リン・ドンと気づき、ピングォは激しく抵抗するが、それも虚しかった。
事が終わるとリン・ドンは
「今日のことはこれきりに」と金を掴ませようとするが、ピングォははねつける。

すると窓の外が騒がしい。なんとアンクンが、マッサージパーラーのビルの窓拭きに来てたのだ。
アンクンはオーナーの部屋に怒鳴り込んで来るが、すぐに警備員につまみ出される。
亭主持ちと知られたピングォは解雇を言い渡される。

持つ者と持たざる者、大都市・北京に生きる人々の明暗は残酷だ。
だが事はそれでは済まなかった。


しばらく経ってピングォの妊娠が発覚したのだ。
「人の女房を寝取って妊娠までさせた」
アンクンはそれをネタにオーナーのリン・ドンを強請ることにした。

だがアンクンからその話を告げられて、リン・ドンの反応は意外なものだった。
「本当に俺の子なのか?」
その言葉には、疑うというよりも、確認のニュアンスが強かった。

リン・ドンと妻のワン・メイの間には子供ができなかった。
二人はもう長くセックスレスだ。
リン・ドンは適当に外で遊び、妻のワン・メイは、鬱憤を散財で紛らわす毎日。
子供を諦めていたリン・ドンには、僥倖といえるアクシデントになったのだ。

もし自分の子供だと証明されれば、大金を出して、その子を買い取るという。
アンクンとの間で契約書まで交わしてしまった。

ピングォは釈然としないが、自分が過ちを犯してしまった引け目から、アンクンに強く出れない。
ピングォはマッサージパーラーのクビを免れ、リン・ドンは従業員たちの前でも、露骨に彼女の体を気遣った。

面白くないのはリン・ドンの妻のワン・メイだ。
夫が従業員の女を孕ませ、その子を引き取ると云う。
つまり子供ができないのは妻のせいだったということだ。
ワン・メイは店でピングォに足を揉ませて、ネチネチと皮肉を浴びせるしかなかった。


リン・ドンはピングォの膨らんだおなかに顔をつけ
「いま俺の声を聞いて、足で蹴ったぞ」
渋い顔で眺めてるアンクンにも同じことをさせ、蹴らないと云うと
「ちゃんと父親がわかってるのさ!」
リン・ドンは子供が生まれる前から、親バカ状態となってた。

無事出産が終わり、赤ん坊の血液検査が行われた。
リン・ドンの思いとは裏腹に、血液型からして、リン・ドンが父親である筈はない。
医者から検査結果を聞いたアンクンは、結果を改ざんしてくれと医者に頼み込む。
大金がフイになってしまうからだ。

そんな事はできないという医者に、指で金額を示した。医者は
「どうなっても知らんぞ」と言い、改ざんを了承した。


リン・ドンは知らせを聞いて、しばらくピングォを自宅に住まわせることにした。
アンクンが家に入ることも咎めなかった。
いびつな因縁に結ばれた4人の男女が、同じ屋根の下に集った。

夫を寝取られたワン・メイと、妻を寝取られたアンクンは、やり場のない憤懣を、お互いの体で紛らわすようになった。
だがそこに愛などはない。

ピングォも、腹を痛めて産んだ赤ん坊を、売り渡して金を得ようという夫の心根がわからない。
リン・ドンは自分の子にしか目はいかない。
4人の間のどこにも愛など見つからない。


リン・ドンは日が経つにつれ、自分の子を身篭ったピングォに気持ちが移っていく。
もう一度抱きたい。
シャワーを浴びるピングォを覗く様子を妻に見られ、そそくさと立ち去る。
シャワーから出てきたピングォは、いきなりワン・メイから平手打ちされる。

ピングォは自分たちの子供を偽って、他人に譲ることへの呵責から、疲弊していく。
そしてアンクンは、金のために割り切ってた筈が、不意にもたげてきた父親としての感情に、動揺し始めていた。


この「中国映画の全貌2012」の上映作品に入っていて、昨年の「三大映画祭週間」で既に見た
『我らが愛にゆれる時』のプロットと、似た部分が感じられる。

我らが愛にゆれる時.jpg

あの映画は、臓器移植しか助かる道はないという、難病の娘を持った母親が主人公。
彼女は再婚で、娘は前の夫との間の子だ。
今の夫は娘を我が子のように可愛がってくれてる。
臓器は血が繋がった者同士でないと上手くいかないと云われるが、彼女も前の夫も、検査の結果、適合しなかった。
そこで母親は前の夫との間で人工受精を試みる。

前の夫には若い後妻がいた。
中国の法律で、男は二人子供を作ると、もう作ることはできない。
なので人工受精で出産となれば、今の若い妻は子供を持てなくなるのだ。

彼女は抗議しに主人公の家を訪れるが、彼女は不在で、夫と病気の娘しかいなかった。
娘の姿を見て、若い後妻は何も言えず立ち去る。

主人公の今の夫は、彼女の判断に口を挟まなかった。
だが人工受精は失敗に終わり、残された手段は一つになった。
前の夫と直に行うことだ。前の夫はさすがに快諾はできない。

だが娘を助けたいという母親の思いは、もはや周りを見れるような状態ではない。
仮に出産できたとして、産まれてきた子は、臓器を摘出されるために育てられるのだ。

二組の夫婦が大きな運命のうねりに晒される、その内容が似通ってはいるが、『我らが愛にゆれる時』はひたすらにシリアスで、それこそ我が身に置き換えて、どんな判断が下せるか、見る者に突きつけてくる所があった。


この『ロスト・イン・北京』の場合は、子宝に恵まれたと舞い上がる、リン・ドンを演じたレオン・カーファイの滑稽さが加速してくんで、拝金主義の現代中国を浮き彫りにする、一種のブラックユーモア劇となってる。

展開はエグいんだが、演出のタッチは熱を抑えていて、ピアノの旋律の劇伴にもクドさがない。
このこじれた4人の関係が、意外な構図で収束してく終盤も見応えがある。


ファン・ビンビンは後半は憔悴してく表情に終始していて、目の下のクマが痛々しい。
この人は目の周りの印象とか、肌の白さとか、大塚寧々を思わせる。
大塚寧々も目の周りが妙にエロいんだが、下品な色気にはならない。
彼女は若い頃に、代表作と呼べる映画に出会えなかったのが勿体なかった。

ファン・ビンビンに限らず、アジアの映画を見ると、俳優の顔が大抵、日本の誰かに似てたりするんだが、例えばレオン・カーファイは、若い頃に比べて肥えてきており、小林旭みたいになってきた。

アンクンを演じるトン・ダーウェイは、意外とふてぶてしい役柄の印象もあり、目元が新井浩文を思わせる。ワン・メイを演じるエイレン・チンは奈美悦子だ。

2012年10月15日

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ラテンビート映画祭『獣たち』 [ラテンビート映画祭2012]

ラテンビート映画祭2012

『獣たち』

獣たち.jpg

「ブルク13」での、横浜最終上映に滑り込んだ。
夜9時からの上映とはいえ、客は10人いたかどうか。

『ヴィオレータ、天国へ』の時などは、ロビーにいた主催者のスペインの人も、あまりの客の居なさに、この日は姿も見えず。
この会場での最終上映だし、一応「映画祭」なんだから、挨拶があってもよかったが。

まあプログラムとして、この先鋭的ともいえる映画を、最後に持ってきたのが目論み違いだったか。
淋しい祭の終わりとなってしまった。
9本見た中では『Sugar Man』が断トツだったが、この『獣たち』は好き嫌いは別として、インパクトあった。


アルゼンチンの少年院から5人が脱走した。
ガウチョ、シモン、モンソン、最年少のデミアンと、唯一の少女グレース。

5人は予め銃を調達しており、モンソンは脱走する時に、世話になった年配の男を、つい撃ち殺してしまう。看守も一人殺して、5人は山の中へと逃げ込む。

今年の「世界三大映画祭」で上映されたルーマニア映画『俺の笛を聞け』も、少年院から脱走する少年を描いてたが、あの映画では少年の行動に、止むにやまれぬ理由があることが示されてた。

この映画の少年たちには、そのような背景は描かれない。
何らかの罪を犯して少年院に入れられた少年たちが、脱走して、人の命を奪っていく。
そこにさしたる理由も切迫したものもない。
行動にエクスキューズがないので、少年たちに思い入れることもないし、作り手もそれを望んでるわけでもないだろう。


5人には当初、山を抜け、国道を辿って町を目指すという目的があったが、手持ちの食料も底をついてくる。
山の中で牧畜を営む家の留守に入り込み、食料をあさる。

家の主人が戻ってくると、待ち伏せして射殺する。
恨みもなにもない。腹が減ってるだけだ。
太っちょのモンソンは、主人の被ってた帽子を失敬する。

その後、警官たちと遭遇し、ガウチョが撃たれて命を落とす。
警官たちを巻いたあと、4人はガウチョの死体を川に流して弔う。
さらに山奥へと進む。夜は常に、周りにイノシシの荒い息遣いに包まれる。

4人は行動をともにしてるが、結束してるというわけでもない。
この奥深く得体のしれない山で生き延びるため、寄り添ってるにすぎない。

シモンはグレースの心を掴んでおり、森の中でセックスもする。
「一緒に町で暮らそう」と。
シモンは自分の靴がボロボロになると、寝てるモンソンの靴を盗み、寝床を立ち去る。


森を歩いてると、山道が見え、ちょうど一台の4WDが目の先で停まる。
息を殺して見つめてると、男が運転席から降りて、荷台から女の死体を抱え上げてる。
捨てに来たのか。
シモンは持ってた銃の照準を男に合わせる。
男は地面に横たえた女の手をとって、口づけした。
シモンは一瞬、撃つのをためらうが、再度構え直して、男を撃った。
4WDの運転席をあさると拳銃があった。
エンジンをかけると、シモンはそのまま山道を走り去った。

グレースはシモンがいなくなったことを悟った。
いま頼れるのはモンソンだ。
グレースはモンソンに近づいた。

最年少のデミアンは寡黙だった。すこし頭が弱いのかもしれない。
デミアンは兄と一緒に、叔父の家に火をつけ、焼死させていた。


残った3人には、町を目指すという目的も曖昧になっていた。
食料を見つけ、夜になれば森の中で眠り、ビニール袋に入れたシンナーを吸い込んで酩酊してる。
泥を体に塗り、森を這い回る。
そこには時間の観念も、人間の倫理感も、生きる目的も、すべてが霧散して、獣たちの息遣いと匂いの中に、混然と溶け込んでいく。


山の谷間のような場所に一軒の家がある。農家ではない。
部屋を見回すと本棚には本がぎっしりと詰め込んである。
残り物のパスタにありつくグレースの前に、男が立っていた。
グレースは銃を向けるが、男に動じる様子はない。
侵入者を歓迎する素振りだ。

タカを飼っている男は、世捨て人のような暮らしをしてた。
グレースがわけを尋ねると
「君のような女を殺したんだよ」と。

男は3人に寝床も提供した。グレースは男と過ごす時間が多くなった。
モンソンとデミアンは狩りに出かけ、洞窟の中に、主人のいなくなった猟犬数匹を見つける。
デミアンはすぐに犬たちを手懐けた。デミアンは洞穴で眠るようになった。

イノシシの匂いを嗅ぎ取り、猟犬たちが殺気だった。猟犬のあとを追ったモンソンは、イノシシを仕留めるため、デミアンの視界から消えた。
デミアンが追いつくと、モンソンは仰向けに倒れていた。
死んでいるようだった。
デミアンはモンソンを洞窟に運びこみ、その傍らに座りこんで、いつまでも動かない。
どのくらい時間が流れたのか、モンソンは息を吹き返した。

「なんで脱走した時、あの親父を撃ったのか、自分でもわからない」
「自分が悪いことをしてる時、これは自分じゃないと思うことがあるんだ」
モンソンはデミアンの肩を抱いて、別れを告げた。
「あの家に帽子を取りに帰る」
そう言うと、銃を持ってグレースと男のいる家へと向った。


デミアンはその夜、焚き火にあたりながら、眠りに落ちた。
目を閉じているデミアンの横に男が立っている。
「おまえはデミアンだよな?」
焼死させた叔父のようだった。
デミアンはなおも眠り続け、火はその体を包んでいった。


今年の「カンヌ映画祭」の「批評家週間」で、長編第1作を対象にした「ACID部門」で作品賞に輝いた、アルゼンチンのアレハンドロ・ファデル監督作。
あらすじを書くと以上のようになるが、映像の力感がストーリーを凌駕してる。

シネスコいっぱいに捉えられた、アルゼンチン山野部の広大さ。
少年たちの心もとないシルエットが遠景で切り取られ、山を這い回るしかない、その道行きを納得させるが、そこに悲壮感はない。
少年たちはもともと人間たちが司る社会においても、弾き出されたような存在であり、山を抜けて町に戻ったとしても、とりまく状況はなにも変わらないことは、本人たちも認識してるだろう。

だから彷徨い歩くうちに、国道に出ようが、それがいつまでも見つからなかろうが、同じことなのだ。

もし自分が脱走とかではなくても、なんらかの事情で、奥深い山中に置かれることになったら。
人の命を奪うまでは至らなくても、空腹を満たすために、盗みくらいはするだろう。
つまりはこう状況になったら、罪を犯して逃げてきた少年たちと、そんなに行動は変わらないかもしれない。

デミアンという少年の中に、人間の聖性を見出すことはできる。
彼は洞窟でモンソンに命を与えていて、最後に火に包まれる、その前にすでに死んでいたと解釈もできる。
デミアン以外の少年たちの行いを、山に住む獣と一緒のように思わせるが、逆に人間以外の動物に、聖性が宿っていないと、なんで言い切れるのか。

動物は相手に情けをかけたり、自分が身代わりになったりはしない。そう思われてるが、その動物になったわけじゃないだろう。
人間が獣のレベルにまで落ちていくというのではなく、人間と獣の境目なんか、本当にあるのか?
そんなことを考えさせもする映画だ。

2012年10月14日

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ブラジル映画祭「音楽映画の2作」 [ブラジル映画祭2012]

ブラジル映画祭2012

『バイアォンに愛を込めて』
『エリス・レジーナ~ブラジル史上最高の歌手~』

渋谷の「ユーロスペース」で開催されてた「ブラジル映画祭2012」で、一昨日コメント入れた『トゥー・ラビッツ』の他に見たのが、音楽映画2本。
その内容が「ラテンビート映画祭2012」で上映された、『トロピカリア』とつながりが深いことを知った。

『トロピカリア』のコメントでも書いたけど、南半球の音楽にまったく疎い俺が、今回これらの映画に触れて、随分と未知なる固有名詞を憶えることとなった。


『バイアォンに愛を込めて』

バイアォンに愛をこめて.jpg

日本では昔から「バイヨン」と表記されてきた、ブラジル音楽と、その立役者の一人にフォーカスしたドキュメンタリーだ。
バイアォンはもともとブラジル北東部に伝わる民族音楽で、それを1940年代に、アコーディオン奏者のルイス・ゴンザーガがダンス・ミュージックとして、親しみ易くアレンジし、ブラジル全土に広まった。

1952年のブラジル映画で、1955年に日本公開されてる『野性の男』は、
18世紀のブラジル北東部を干ばつが襲い、食えなくなった農民たちや脱獄囚たちが、徒党を組んで暴れるというドラマで、バイアォンの主題歌がその年のカンヌ映画祭で「音楽賞」を受賞してる。

音楽ドキュメンタリー『バイアォンに愛を込めて』は、ルイス・ゴンザーガの楽曲に歌詞をつけて、バイアォンの魅力を高めた、もう一人の立役者である、作詞家のウンベルト・テイシェイラの功績にフォーカスしてる。

彼はゴンザーガと同じく、そのブラジル北東部の出身で、その土地は度々干ばつに見舞われ、、農民たちは貧しい暮らしに喘いでいたという。
ブラジル都市部の人間たちからは偏見の目で見られていたようだ。

ウンベルト・テイシェイラは、その土地に暮らす者たちの悲しみや、虐げられた怒りを詞に表して、バイアォンの叙情的なメロディに乗せた。


その代表曲が『白い翼(アザ・ブランカ」)』だ。
『トロピカリア』で、国外追放処分を受けた、若き日のカエターノ・ヴェローゾが、亡命先から故郷を想うように弾き語った曲がこれだったことを、この映画を見て気づいた。

俺はこれまでこの曲を知らなかったが、ブラジル人の「心のうた」と呼ばれてる『白い翼(アザ・ブランカ」)』が、すっかり気に入ってしまった。


1940年代に、このような社会的なメッセージのこもった詞が楽曲になってた。それはアメリカでいえば、1920年代の大恐慌時代に、若くして放浪生活を送り、労働者たちの苦しい心情を歌にこめた、
「フォークソングの父」と呼ばれるウディ・ガスリーを思わせもする。

1950年代に人気を博したバイアォンは、アメリカでも知られるようになる。
このドキュメンタリーによると、当時アメリカでは南米との経済交流を促進していく政策のもと、ラテン系の音楽のブームも沸き起こっていた。

バイアォンも、アメリカの人気歌手がレパートリーに加えたりしたが、オリジナル曲として発表されて、度々盗作騒ぎに発展してたようだ。

映画に出てくるフッテージの中に、イタリア映画でバイアォンを大々的にフィーチャーした映画があったが、題名が出ないんで、日本公開されたものなのか、わからなかった。

だが音楽には流行りがあるように、バイアォンも50年代後半には人気も廃れてしまったようだ。
それが再び脚光を浴びることになるのが、1960年代後半。
音楽ムーブメント『トロピカリア』の立役者だった、ジルベルト・ジルやカエターノ・ヴェローゾによって、そのリズムの革新性とともに、ウンベルトのつけた詞が、時代のプロテストソングとして、強い求心力を持っていると捉えられたのだ。


『バイアォンに愛を込めて』の案内役として、ゆかりの人々にインタビューして回るのが、ウンベルト・テイシェイラの娘デニーゼ・デュモンだ。
彼女が父の墓参りをする冒頭場面で語ってる。
バイアォンの歌も有名だし、ルイス・ゴンザーガの名も知られてる。
でも歌詞をつけた父親ウンベルトのことは、知る人も少ないと。

もちろん「バイアォンの王様」と呼ばれたルイス・ゴンザーガの、パフォーマーとしての才能が、バイアォンを世に知らしめたのは事実なんだろう。

だが裏方的な存在で、「バイアォンの博士」と呼ばれたウンベルト・テイシェイラが果たした功績も、顧みてもらいたい。そんな意図が映画には込められている。


ウンベルトは音楽活動に留まらず、弁護士資格も持ち、後には国会議員にもなってる。
娘デニーゼが幼い頃、両親は離婚し、父ウンベルトが娘を引き取った。
母親より経済的に安定してたからだ。
デニーゼは長じて女優の道に進むが、父親は反対したという。

一緒に暮らしていても、心を開いて接したということがなかったという父と娘。
ウンベルトが病に倒れ、その病床で初めて娘は父親と心を通わせることができたと。
「希望を感じた。父と友達になれるかもしれない」
「だけどそれは叶うことはなかった」
その翌日にウンベルトは帰らぬ人となったからだ。


娘デニーゼが幼い頃に生き別れた母親と再会する場面がある。
二人は静かに思いのたけを語り合う。
ここは感動的だった。

映画の最後のライヴ場面。ここでデヴィッド・バーンが登場する。
80年代のトーキング・ヘッズの時代は俺もよく聴いてた。
『リメイン・イン・ライト』は大ヒットしたアルバムだが、その頃からデヴィッド・バーンは、ラテン系やアフリカ系のリズムを取り入れたりして、テクノとのユニークな合体を試みてた。

このライヴ場面でデヴィッド・バーンは、『白い翼(アザ・ブランカ」)』を軽快な踊れるアレンジに仕立て直して演奏してる。
娘のデニーゼと母親も、会場で嬉しそうに体を揺らしてる。



『エリス・レジーナ~ブラジル史上最高の歌手~』

エリスレジーナ.jpg

彼女のことは、ブラジル音楽好きで知らなきゃモグリという存在らしい。
俺みたいに白紙で見に来た人間は少なかったのかも。
『バイアォンに愛を込めて』も『エリス・レジーナ~ブラジル史上最高の歌手~』も、ユーロスペースの客席は、ほぼ満席の盛況だった。

「ブラジル映画祭2012」のフライヤーに「MPB」という表記があって、これは何の略なのだ?と思い調べたら「ムジカ・ポプラール・ブラジレイラ」つまり
「ブラジルのポピュラー音楽」という意味だった。
多分ブラジル音楽好きには常識の略号なんだろう。
エリス・レジーナはその「MPB」史上最高の歌手とされてるようだ。


彼女は1982年1月に、コカイン中毒により、36才で世を去ってるが、この作品は映画というより、1973年に彼女が、テレビ番組のために収録したスタジオ・ライヴの映像を上映したもの。

画面はモノクロで、数名のミュージシャンと、シンプルなセットの中で、歌声を聴かせ、合間に自分のキャリアを振り返る語りが入る。
NHKの「SONGS」のもっとシンプル版といった趣。

語りから曲への移行がさり気なく、そこがカッコいいのだが、彼女の声は、俺がボサノヴァの女性ヴォーカルにイメージする、そのままの声だった。

「ボッサ声」というのか、羽根のように軽やかで、すこしかすれて、柔らかい感触もある。
ずっと聴いていたら、そのまま気持ちいい眠りに誘われるような。

しかし改めてメロディを耳にすると、抑揚がけっこう複雑で、これは唄いこなすのも大変だろうなと思う。その一方でこんなに微妙な音階まで使ってると、ちょっと音はずすくらいは「味」に感じられたりするかもなと。

『枯葉のサンバ』と『三月の雨』がよかった。
『三月の雨』の正しい日本語タイトルは『三月の水』というそうだが、このアントニオ・カルロス・ジョビンの曲だけは、耳にしたことがあった。
門外漢の俺でも知ってるということは、よっぽど有名な曲なんだろう。

エリス・レジーナも、1960年代後半の「トロピカリア」のムーブメントに一役買っており、ジルベルト・ジルやカエターノ・ヴェローゾと共に、レコーディングしてるそうだ。
ここでも『トロピカリア』とのつながりが出てくるんだな。

彼女は「小さな唐辛子」という愛称で呼ばれていたそうで、特にダンサブルなナンバーでのパフォーマンスが素晴らしいという。

このスタジオ・ライヴは落ち着いた曲が中心で、彼女も椅子に腰掛けての歌唱だったんで、その片鱗が見られなかったのは残念だった。
ライヴDVDが出てれば買ってみたいが、ちょっと検索した限りでは、商品化されてないようだ。


今回の「ブラジル映画祭2012」と「ラテンビート映画祭2012」で、すっかり「南米の音」に魅了されてしまったよ。
昨年の「ラテンビート映画祭」で上映された音楽アニメ『チコとリタ』もまた見たくなってしまった。
どこか上映権買ってくれないかな。

2012年10月14日

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TOHOシネマズの三文芝居 [映画雑感]

シネコン通いをしてる人なら当然遭遇してるであろう、「TOHOシネマズ」の本編上映前の短編プロモ。
リミテッド・アニメを逆手にとったような「おトボケ感」が、それはそれで悪くなかった『紙兎ロペ』のシリーズが終わり、今やってるのは、岩井俊二に撮らせた風の短編ドラマ『映画のある生活』。

あなたの日常の中に「TOHOシネマズ」を、というコンセプトなんだろう。
それは別に構わんけど、内容はちょっと思慮に欠けやせんかね。


シネコンに映画見に来て知り合ったというカップル。
男はそのまま年上の女の部屋に転がり込んでる。
女はベランダでガーデニングしながら
「支柱があるから植物は育つんだよ」みたいなことを年下男に言い、
「フ~ン」て感じで聞いてる。

二人でレストランに居ると、彼女の大学時代の友達らしき一行と偶然出会う。
年下の彼氏?と冷やかされると、年下男は
「いえ、映画好きのただの後輩です」
と言下に否定。女の顔が曇る。

二人の同棲生活はギクシャクし、
「二人でいても、一人と一人じゃ意味ないし」と、
もうボチボチ出て行ってよ的なセリフを年下男にぶつける。

すると翌朝だか、反省した年下男は、興味もなかったベランダの植物に触れながら、彼女の言った
「支柱」の意味を悟り
「ひとりとか…ちがうから!」と謝る。


三文芝居な筋書きとか、ツッコミありきで作ってる、確信犯的な意図も感じるが、それより映画館に見に来てる観客に向けて
「ひとりとか…ちがうから!」
ってセリフをよく吐けるな。
「おひとりさま」全否定ってことだろ。

「もっとカップルとか、夫婦づれで映画館を利用してくださいね」
というアピールだとすれば、それはそれで言いようがあるだろう。

こういうことに噛み付くと
「そりゃ独りもんの僻みだ」と捉えられる。
別にそう思われてもいいし、映画を一人で見ることは、俺の中では当たり前のことだから、それはどうでもいい。

だがどんな客であれ、お金を払ってその場所まで出かけてきてる相手に、
「おひとりより、座席2つ分は確実に利益になる、二人連れ以上でお越しください」
みたいなアピールは感じ悪いぞ。

「感じ悪いぞ」と感じる観客がいるであろうことを、多分思い至ってない、そのデリカシーの欠落ぶりが、サービス業の姿勢としてどうなんだよと思う。


この短編プロモに限らず、いつの頃からか映画館で一斉に流し始めた
「海賊版撲滅キャンペーン」の映像もね。

あれはたしか谷村美月が、どアップで黒い涙流して
「映画が盗まれている、感動が盗まれてる」ってのが最初だったか。

現在はパントマイムキャラの「映画泥棒さん」(多部未華子談)のシリーズになってるが、あれだって、お金払って映画館に来てる客に
「映画の撮影・録音は犯罪です(キリ!)」
と凄んで見せて、感じ悪い。

「いやそういう怪しい行動を見かけたら通報してくださいという意味」と作った側は言うんだろう。
あのシリーズも見てくると、「映画泥棒」は単独犯であるとほぼ断定してるね。
実際そうなのかもしれんが、
いかにも「ご夫婦やご家族連れや、カップルでお越しの方々に、こんな行為をする人はおられないと思いますが」
が前提になってる描き方だ。
「おひとりさま」全不審である。

一人で映画を見に行くというだけのことで、なんで本編が始まる前に、こういう嫌味な思いをさせられるのか。
「おひとりさま」はそもそも映画の興行収入に、それほど貢献してない存在とされてるんだろうか?


俺はちょっとマイナーな映画を見たような時には、他にどのくらい見た人がいるだろうという興味で、ネットをあたったりするけど、映画に関するブログをやってる人の数はあまたに上る。

その中で、新作映画のコメントをマメにアップしてる人の文面から察すると、俺みたいに「おひとりさま」鑑賞の人は多い。
年間100本も見るなんて人間につきあえる相手は、そうは居ないだろう。
映画好き同士が付き合ってない限りは。

でもって「おひとりさま」の俺が、年間どのくらい映画館に金をおとしてるかザッと見積もってみる。

当日料金1800円で見ることはあまりないとして、平均で1本1300円としとく。月にならして12本程度か。
試写会にはここ何年行ってないから、ポイント無料鑑賞の分を差っ引いて、年間で140本とみて、

1300×140=182,000円

これは人によるが、俺の場合はよっぽどダメだった映画以外は、基本パンフが売ってれば買うので、パンフの平均価格を650円に設定するとして、中にはパンフが作られない映画もあるから、

650×130=84,500円

合計すれば
266,500円を例年、映画館で使ってる計算になる。

それからはっきり書いとくが、俺は映画館で飲食系の物は買わない。
理由は「高い」からだ。
飲み物が外の自販機とそんなに金額が変わらないというなら買うが、100円以上は差があるよな。

俺は上映中に物は食わないが、上映前にコンビニのパンをかっこむことはある。
「外部からの飲食の持込みはお断り」
とか知らんよ。だったら安くしろ。

まあとにかく俺ひとりでも年間266,500円おとしてるわけで、そういう人間はブログを眺めただけでも、かなり居るはずだ。
「おひとりさま」が映画館収入の下支えをしてると、捉えては貰えないんだろうか?
レイトショーでは特に「おひとりさま」率が上がってると、見た目感じる。
それは会社が退けた後に駆け込むような人がいるからだ。


よく「猫は家につく」なんて言われるが、映画好きというのは映画ではなく
「映画館についてる」のだ。
映画館で時間を過ごすことが日常の行いに組み込まれてる。
そういう人間たちは、映画館に背を向けることはない。
ことさらに優遇してくれなんてことは言わない。
だけど「気分よく居させてほしい」と思うのは、そんなに贅沢な望みかね?


ところでこの「TOHOシネマズ」短編プロモだが、主題歌を唄ってる近藤晃央というミュージシャンが主演してて、どうもシリーズ化するらしい。
ならば彼が年上の女のもとを離れて「自立」して、「ひとりになってもTOHOシネマズ」というエピソードも作ってくれよ。

というより本音を言えば短編いらないんだけどな。

2012年10月13日



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ブラジル映画祭『トゥー・ラビッツ』 [ブラジル映画祭2012]

ブラジル映画祭2012

『トゥー・ラビッツ』

トゥーラビッツ.jpg

「ラテンビート映画祭」と同時期開催となった、「ブラジル映画祭2012」の東京での上映は明日12日まで。その後、大阪、京都などで順次開催されていく。
今年で8回目とのことだが、俺は初参加になる。

1本目に見たこの『トゥー・ラビッツ』は、ハリウッド・リメイクも決定してると出てる。
海外のアクション物を、ハリウッドがリメイク権を買うという場合は、まずプロットが面白いということだろう。

「二兎追うものは一兎をも得ず」という諺をブラジル人が知ってるかどうかわからないが、この映画は
「二兎を一撃で仕留める」計画を練る男が主人公。
実に込み入った脚本になってて、気を抜くと置いてかれる。

だがハリウッドの判断の決め手になったのは、ラストショットだろう。
最初に言っとくと、これはもう結末の鮮やかさがすべてなのだ。
今年多分一番の鮮やかな結末と思ってた、韓国映画『ハロー、ゴースト』に匹敵する。

そして作り手が観客を「またこの手の映画か」と油断させるような演出を、意図して仕掛けてきてるというのも、『ハロー、ゴースト』に似てる。
メモ取りながら見ればよかったと後悔するくらい、人物の因果関係がややこしい。
憶えてる範囲で書いてみると、筋立ては以下のようなことだ。


サンパウロで無為な日々を過ごす若者エヂガールが物語の中心。
彼は2年前、この町で車を運転中、脇見をして人身事故を起こした。
犠牲となったのは、若い母親と幼い男の子。

二人は即死だったが、エヂガールは裁判で罪には問われなかった。
父親のコネが効いたのだ。
エヂガールは父親から「ほとぼり冷めるまで国を出てろ」と言われ、マイアミで過ごしていた。

父親は犠牲者の夫で、事故後ショックから、国語教師の職も辞めてしまったヴァルテルに声をかけ、自分の経営するレストランで雇った。
息子の行いへのせめてもの罪滅ぼしだった。


帰国後、家でAVとテレビゲームに明け暮れるエヂガールだったが、彼は秘かに計画してることがあった。
「教授」とよばれる電子部品製造の達人に頼んで、二種類のマイクロチップを作らせていた。
片方は距離が近づくとセンサーが反応するもの。
もう片方は一定距離が開くとセンサーが反応するもの。
これを何に使おうというのか?

一方サンパウロでは、ある現金強奪事件が複雑な展開を見せていた。
双子の兄弟が経営する会社の金庫から、使用人の東洋人女性が、多額の現金を持ち出した。
だがその女性は現金をバックに抱えたまま、路上で何者かの一味に拉致される。

糸を引いてるのは、マイコンという名の冷酷な悪党だ。
拉致役の一味は、金をマイコンに渡し、あとで分け前を受け取る約束。

だが一味は監禁してた女性を殺害してしまう。
そしてマイコンたちのアジトに、分け前を寄こせと乗り込んでくるが、周到なマイコンによって返り討ちに遭う。
大金は得たものの、犠牲者の女性の死体が上がったことで、マイコンに殺しの容疑がかけられ、窮地に立たされる。


そのマイコンの前に現れたのが、検事局から来た女性検事ジュリアと、彼女の夫で弁護士のエンリケだった。
二人はマイコンに「金を積めばなんとかなる」と切り出す。

この夫婦は、検事と弁護士という職業を最大限に生かして、裏のビジネスを行ってた。
犯罪の容疑者に近づき、妻のジュリアが検事局で得た捜査情報を分析して、効果的な解決策を弁護士の夫エンリケが、提案するというものだ。
法曹界に顔の効くジャダールに金を渡せば、うまく揉み消してもらえる。
マイコンは二人の提案に従い、200万ドルを用意することに。


エヂガールは市内の道路を運転中に、信号待ちで隣に停まったバイクの男から、拳銃を突きつけられ、財布やケータイを強奪された。
まったく油断も隙もない町だ。
だがその後、ファーストフードのスタンドで、さっきのバイクに遭遇。その後を尾けて行く。
バイクの男は尾行に気づき、曲がり角で待ち伏せしてた。
再び銃を突きつけられたエヂガールは、だが笑ってた。
計画に格好の相手が見つかったからだ。
「なんで笑ってる」と凄む男に、
「デカい金儲けの話があるんだけどな」

一方、エヂガールの父親のレストランで真面目に働いてるヴァルテルは、事故の加害者がこの町に戻ってきてるのを知る。
ヴァルテルは、エヂガールの父親に
「あのことはもう恨んでない」と言った。
父親はどんなことでも力になるからと、ヴァルテルを気遣った。

そのヴァルテルが電話した相手は、200万ドルを受け取ろうというジャダールの妻だった。
ヴァルテルはなぜその妻と面識があるのか?
そしてヴァルテルは拳銃も用意していた。

トゥーラビッツ2.jpg

監禁女性のくだりは、俺の解釈がまちがってるかもしれない。
なにしろ登場人物も多いし、展開速いし、画面がチャカチャカせわしないんで、じっくり整理しつつ見ていけないのだ。

この上、回想シーンも挟まり、また登場人物たちの因果関係が、実はこう、実はこう、と二転三転してったりもする。
そういうのが煩わしいと感じる向きにはしんどい展開かも。

演出もいわゆる「トニスコ編集」と呼ばれる(呼ばれてるか?)、フリッカー現象みたいな効果つけたり、アニメーション挿入したり、スローかましたり。
要はハリウッド・アクションの演出の流用で固められてるんで、正直後半にストーリーが佳境に入るまでは、「またかよ」感のため息まじりに見ることになる。


だけど思い返せば、それも狙いの内だったんだろうなあ。
いかにも「ブラジルの若いもんが真似してみました」なアクション・コメディ風を装って、ああ持ってくか。
何気にラストの絵ヅラが「LBFF」で上映された『EVA <エヴァ>』にそっくりだった。

この『トゥー・ラビッツ』は日本配給が決まってないけど、どっか買えばいいのに。
もうじき「東京国際映画祭」もスタートするけど、もし「東京ファンタ」がまだ続いてたら、そこで上映されれば拍手喝采ものだったろう。

2012年10月12日

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ラテンビート映画祭『ママと私のグローイング・プラン』 [ラテンビート映画祭2012]

ラテンビート映画祭2012

『ママと私のグローイング・プラン』

ママと私のグローイングプラン.jpg

他愛なく楽しめそうなものも見ようと、これを選んだが、ほんと他愛なかったわ。
ヒスパニック系の女優としては、近年のハリウッドで最も成功したといえるエヴァ・メンデスが、思春期の娘に手を焼く母親を演じてる。
メキシコ人女性監督パトリシア・リヘンがメガホンを握る。

舞台はカナダ、ヴァンクーヴァーの港に近い町だ。
このブログでもコメント入れたが、
カナダ映画『僕たちの、ムッシュ・ラザール』の小学校と同様に、この映画で13才の娘アンシエダッドが通うハイスクールも、いろんな人種の生徒がいる。
母親のバイト先のレストランの従業員もまたしかり。
カナダが移民を積極的に受け入れている国だとわかる。


エヴァ・メンデス演じるグレースは、17才で娘アンシエダッドを産んだ。
父親となる男の姿はなく、母娘はヴァンクーヴァーに越してきた。

アンシエダッドが授業中に、クラスメイトの前で暴露した所によると、母親グレースは何人もの男とつきあっては別れ、現在は地元の医師ハーフォードの自宅でハウスキーパーの職にあるが、その妻子あるハーフォードと不倫中だ。

グレースはその職のほかにも、港沿いの「カニを食わせる」シーフード・レストランで、ウェイトレスのバイトも掛け持ちしてる。
生活費のほかに、娘の授業料や家賃、ウェブ・デザイナーになるための、学校の学費など、とにかくお金がかかるのだ。

だが30の女ざかりを、働くだけに費やせない。
「母さんにだって恋する権利はあるでしょう?」
と言いたげだ。
母親の生臭い行いを見たくないと思うのは、思春期の娘なら当然だろう。
だがグレースはそのことに思い至ることがない。

なぜなら彼女も自分の母親からほとんど顧みられずに、思春期を送ってきたのだ。
その母親はグレースが子供を生み、慣れない子育てに苦しんだ時期にも、彼女を支えることもなかった。
グレースの「母親は母親、子供は子供」という、どこか割り切った考え方は、自らの体験に根ざしてもいるのだ。


母親が恋に奔放すぎて娘がストレス抱えるという設定は、『恋する人魚たち』のシェールとウィノナ・ライダーの母娘の関係を思わせる。

恋する人魚たち.jpg

あの映画では母親への反動からか、ウィノナ・ライダーはやたらと信心深い性格に描かれてたが、この映画で、シエラ・ラミレス演じるアンシエダッドは、勉強熱心なだけに、その探求心が
「大人になること」に向けられるのだ。


パトリシア・アークェット演じるアームストロング先生が、授業で「成長体験」とはなにか?という話をする。
それは子供が大人になる上で、乗り越えていくべきこと。
それは「通過儀礼」という呼ばれ方もすると。その言葉がアンシエダッドの心にヒットした。

母親グレースは、自分は妻子持ちの男と不倫して、夜遅く帰ってきたりするくせに、私には台所や掃除をしろと言う。
傷つきやすい思春期にあることに、なんの関心も示さない。
もうこんな家出てってやる。
でも子供のままじゃ出してはもらえない。
だから私は手っ取り早く大人になって、この町を出てくのだ。

アンシエダッドは図書室で文献をあさり、「通過儀礼」に欠かせない要素をクリアしてく事に決めた。


まず見た目が明らかに変わったと思わせること。
そのためにわざわざ、一番保守的っぽい「チェスクラブ」に入部して、地味な優等生っぷりをアピール。
その上で、校内でも一際目立つ、不良のゴス少女ヴァレリーとお近づきになる。
彼女の仲間に入り、不良たちの集まるパーティに参加して、プレイボーイのトレヴァーに処女を捧げるのだ。

「通過儀礼」の要素の一つに、以前からの友達を捨てるというのがある。
アンシエダッドは校内で唯一の友達で、同じヒスパニックのタヴィタを説得して、
「大人計画」の一翼を担ってもらうことに。

タヴィタはかなり「ふくよか」な女の子なんだが、とても性格が温和でいい子なのだ。
アンシエダッドが頭で考えた「通過儀礼」をこなす過程で、この親友タヴィタと決定的な溝を作ってしまうことになる。

ママと私のグローイングプラン2.jpg

一方そんな娘の奮闘をよそに、母親グレースはレストランの仕事に追われる。
チップもピンハネするようなケチなオーナーのエミールが、「カニ料理選手権」に出場するため、数日間店を留守にすることに。
グレースは張り切って、その間の店の仕切りをアピールするが、オーナーの留守中に事件が起こってしまう。


この映画の物足りない点の一つは、男がみんなパッとしないということだ。
グレースと不倫する医師ハーフォードを演じてるのはマシュー・モディーンだが、彼もつまらない役を演るようになったな。
若い頃ナイーブな個性で売った役者は、年重ねると厳しくなってくる。

妻とは別れると言いながら、なかなか別れないというお決まりの役どころだが、グレースがランチ時で、てんてこまいしてる店に電話かけてきて、「やりなおそう」などと言ってくるのも駄目だ。
店の外に車停めて、電話してる。
店が忙しいのがなおさらわかりそうなもんだろ。
グレースもその電話にまともに取り合ってる。
俺が経営者なら「私用の電話は休憩時間にしろ!」
とどやしつけてやる。

アメリカ映画はよくこういうパターンの描写があるよな。
「人生には仕事よりも愛が大切」
みたいな。仕事を舐めんな。

グレースのことを秘かに想ってる、レストランの下働きの男がいる。
メキシコ人で、なぜかミッション・インポッシブルという名で呼ばれてるんだが、グレースはこの男ともちょっといい雰囲気になったりする。

悪いヤツじゃないんだろうが、その長いボサボサ髪をなんとかしろ、そのモサモサの不精ヒゲもなんとかしろ、というむさ苦しさなのだ。
「ラテン系はあれがウケるのよ」と言われれば
「ああ、そうですか」としか返しようがないが。

アンシエダッドが処女を捧げようとするトレヴァーも、イケメンではあるが、それだけだ。
なにかこう「パリッ」とした男が一人くらい居てもいいだろ。


「成長したい」と思う娘と、娘の気持ちに気づいて、母親として「成長する」女性と、合わせ鏡のような関係を描いてるのはわかるが、タヴィタの扱いとか、とってつけ感があるし、エピソードが点在しすぎて、どれも余韻を残すに至らない。

むしろ描かれなかった、グレースと母親の関係をどこかで挟んであればね。

たとえばこんな描写を考えてみた。
長いこと音信も途絶えてた母親が病床に臥せっている。
グレースは娘を連れて見舞いに訪れるが、優しい言葉をかけることはできない。
アンシエダッドは一人で改めて「祖母」の病室を訪ねる。
そこで祖母から、娘に対しての悔恨の言葉を聞かされる。
アンシエダッドは、自分の母親も辛い思いをして育ってきたことに気づく。

いやベタとは思うよ、でもそんな場面があってもよかったんじゃないかと。
テンポよくストーリーを語ってはいるが、楽曲の使い方も含めて、凡庸な感じに留まったかな。

キャストではふくよかなタヴィタを演じたライニ・ロドリゲスがよかった。
表情に可愛げがある。
「シュレック」なんて呼ばれて可哀相だったよ。

2012年10月11日

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ラテンビート映画祭『悪人に平穏なし』 [ラテンビート映画祭2012]

ラテンビート映画祭2012

『悪人に平穏なし』

悪人に平穏なし.jpg

2012年の「ゴヤ賞」(スペインの映画賞)で作品・監督・主演男優など6部門を制したハードボイルド。
題名もいかしてるし、主演のホセ・コロナドの風貌が、最近になく、むさ苦しい男臭さに溢れたもので、久々のアンチヒーロー型の刑事の造形を堪能できた。
ハリウッドでリメイクなんてことになったら、ビリー・ボブ・ソーントンあたりが、演りたがりそうだ。


マドリッド警察の「行方不明者捜索課」の中年刑事サントス・トリニダは、職務を終えると酒浸りの毎日を送ってる。
映画が進むうちに判ってくるが、元は有能な警察官だったようだ。
コロンビアのスペイン大使館の警備にあたってた時代に、銃の暴発で、一番信頼のおける同僚の命を奪って以来、人が変わってしまった。

閉店だと酒場を追い出され、夜の街を彷徨う内、扇情的なネオンに照らされた売春クラブに足を踏み入れる。

「クラブ・レイディーズ」の店内は静まりかえり、カウンターの奥から女が出てきた。
もう終わりだと告げられても、サントスは委細構わず、酒を注文する。
「おまえ、コロンビア人だな?」
「ちがうわ、スペイン人よ」
サントスは女を眺めながら鼻で笑った。
サントスの背後にボディガードらしき男が立っていた。
「店閉まいだと言ってるだろう」
サントスは男に向けて警察手帳を出した。
「いいから酒を出せ」

緊張が高まる中、オーナーの男が「お注ぎしろ」と出てきた。
「もう少し早く来て頂ければ、女たちも揃ってたんですがね」
注がれた酒をサントスはこぼしてしまう。

その手元を見て、オーナーの男は慣れ慣れしい口調とともに、肩に手を回してきた。
サントスはすかさず、男の頭をつかみ、カウンターに打ち付けた。

ボディガードが銃を抜くより前に、サントスの35口径が火を噴いた。
カウンターの女は蒼白となり、逃げようとしたが、サントスは容赦なく女も撃った。
そして床で呻いてるオーナーの男にも、2発撃ち込んだ。
だが店の2階にいた若者が、音を聞きつけ下りてきた。
現場を見て若者は逃げ出し、サントスは後を追うが、見失ってしまう。


店内に戻ったサントスは、証拠隠滅に取り掛かった。
射殺したオーナーや、ボディガードの服をあさり、身分証や車のキーなど、本人特定につながる物を持ち出す。
薬莢もすべて拾った。
店内に防犯カメラがある事に気づくと、レコーダーを見つけてディスクも回収した。

家に戻ると、まず自分の35口径の拳銃を解体し始める。
店の人間の遺留品の中から、逃げた若者につながりそうな物を除いて、銃と一緒にゴミ処理場に投棄した。
防犯ビデオの映像をチェックする。
すると店の事務所内にもカメラがあり、何人かの男たちが、札束のやり取りをしてる。

「クラブ・レイディーズ」のオーナーは、本業以外に企んでることがあったようだ。
咄嗟のこととはいえ、3人の人間を射殺してしまった、
その証拠隠滅で始めた行為だったが、なにか事件が起こりつつあるという、刑事の嗅覚が働いた。


なにしろ3人のうち、丸腰の二人にも容赦なく銃弾を打ち込むような主人公なんで、この刑事に共感しつつ見るなんてことはできない。

この映画の面白さは、自分の罪を表沙汰にしないために、なんとか現場を目撃した若者を見つけ出さないとならない、その刑事の行動が、マドリッド市内で、大規模なテロを計画してた一味の存在を、あぶり出すことにつながってくという展開にある。


サントスは「行方不明者捜索課」のデスクのパソコンで、殺したオーナーの男のパスポートを、警察の犯罪者データベースで照合する。
男はペドロ・バルガスというコロンビア人で、コカイン密輸の前歴があった。

一方、売春クラブで起きた殺人事件の捜査に、女性判事チャコンと、その部下レイバがあたっていた。
サントスが既に、身元特定につながる品を持ち去っているため、捜査は難航する。

それでもボディガードが、ウーゴ・アングラーダという名で、本名は別にあり、コロンビアマフィアの殺し屋で、元反政府勢力の組織に属してたことを突き止める。
チャコン判事は麻薬捜査局の刑事から、コロンビアマフィアが、モロッコなどアフリカ経由の麻薬を扱うようになってると聞かされる。
その過程で、イスラムのテロ組織とのつながりにも注視していると。

そのコロンビア人たちが、なぜ殺されたのか?イスラム系の殺しの手口とはちがう。
ウーゴが滞在していたホテルを突き止めたチャコン判事は、駐車場の防犯ビデオを回収した。
その中に部下のレイバの見憶えのある横顔が映っていた。

サントスはウーゴの所持品の中に、ホテルのカードキーを見つけ、すでにウーゴの部屋に侵入し、車のキーを持ち去っていたのだ。

レイバは横顔がサントスに似てると思った。
二人は元は警察の同期だったのだ。


2004年にマドリッドで起きた爆破テロ事件を題材にしたフィクションとのことだが、テロの一味が、爆弾を消火器に詰めて、市内のショッピングセンターやら、遊園地やら、バス発着場やら、そういった場所に、交換を装って設置してくのが怖い。

サントスがチャコン判事に呼び出され、事件との関与を問い質される場面で、過去の銃の暴発事件の一件が語られる。
サントスの親友だった同僚は、コロンビア時代に、麻薬組織との癒着が疑われていたようだ。
サントスは暴発だと言うが、本当のところは判らない。
なのでサントスがコロンビア人を憎んでるとも読める。

酒は浴びるほど飲み、自暴自棄な生活を送りながら、麻薬には手を出そうとしないのも、そのあたりに原因があるのか?
猟犬のように執拗に追いつめていくサントスの姿は、
『フレンチ・コネクション』のドイル刑事を思わせる。


ざっと以上のような流れのストーリーなんだが、なにしろ登場人物が多く、因果関係も込み入ってるので、細かい部分は俺の中でも曖昧になってしまってる。
もう1回見るとさらに伏線などに気がつくかも知れない。

それと不思議といえば不思議なのが、テロを計画してる一味の側が、サントスに対してなんのアクションも起こしてこない点だ。

店でペドロやウーゴが殺されたことは、ニュースにもなってるし、誰がやったのかということは、当然関心を持つだろう。
サントスが嗅ぎ回ってることも、どこかの時点で気づく筈だ。
一味の側のディフェンスの甘さは気になった。

2012年10月10日

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ラテンビート映画祭『ヴィオレータ、天国へ』 [ラテンビート映画祭2012]

ラテンビート映画祭2012

『ヴィオレータ、天国へ』

ヴィオレータ天国へ.jpg

チリで最も有名な歌手といわれる、ヴィオレータ・パラの生涯を描いた伝記音楽映画。
彼女のことは知らなかったが、日本にも彼女の歌や生き方に魅了される人たちは、けっこういるようで、ブルク13の客席はかなり埋まっていた。

ヴィオレータは1967年に拳銃自殺を遂げているが、映画は自殺直前の思いつめた彼女の表情から、子供時代、旅周りする十代、歌手として名を広めつつある後半生と、時代をシャッフルしながら描いていく。
率直なところ、この構成が上手く機能してるのかは疑問だ。

この映画は、もともとヴィオレータのことを知ってる、愛着を持ってるという観客にとって、すでに事実として知っている彼女の経歴を、補足し合うような作りになってる気がする。

つまり、まったく彼女のことを知らない観客にとっては、時制が前後するような構成が、彼女に関する理解を邪魔するような所があり、もっとオーソドクスに演出してほしかったと感じた。


ヴィオレータは1917年、チリの貧しい村で生まれた。
父親は白人で小学校の教師をしてた。
幼いヴィオレータは父親の授業を受けている。
父親はギターと歌が得意で、よく村の人々の前で披露してた。
ヴィオレータは父親の傍らでそれを聴いていた。
その父親は政治信条がもとで失職し、まだヴィオレータが幼い時に、結核で死んだ。
ギャンブル好きで貯えなどなく、古びたギターだけが残された。

家計は困窮し、ヴィオレータは父親の形見のギターを、その小さな腕に抱え、幼い姉弟たちとともに、食堂や路上で歌い、小銭を稼ぐ毎日を送る。

回想場面で度々出てくるんだが、幼いヴィオレータは、ベリーの実が大好物らしく、いつも口のまわりを紫にしてる。
子供時代のヴィオレータを演じる少女が、つぶらな瞳で愛らしい。
成長したヴィオレータは姉とともに、チリの各地をドサ回りして暮らし始める。


彼女は十代の頃から、社会意識に目覚めていたようで、象徴するような場面があった。
山間の村を訪れると、祭りだというのに、歌や踊りは控えてほしいと村長から言われる。
教会の教えに従うということのようだが、ヴィオレータは
「神を賛美する内容にしては?」
と提案し、受け入れられる。

集まった村人の前で、信心深さを表すような歌と芝居を見せるが、村人たちも盛り上がらない。
一応拍手を貰って引っ込むが、ヴィオレータはやおら太鼓を下げて、自らリズムを作りながら、力強い声で歌い出す。
それは貧しい暮らしへの憤りであり、社会への疑問を投げかける内容だった。
教会が認めるはずもないような。
ヴィオレータは村人たちの心に直接ぶつけるように歌い、歌が終わると、一瞬の沈黙を置いて、村人たちは一斉に拍手と歓声を上げた。

この頃からヴィオレータは
「歌によって社会が変えられるかもしれない」と思ってたようだ。


既成のフォルクローレの曲を演奏するに留まらず、彼女はフォルクローレに、社会的なメッセージや、自らの極私的な心象風景をこめる、ユニークな存在として、しだいに認知されていったようだ。
これは1960年代にラテンアメリカ諸国で湧き上がった、「ヌエバ・カンシオン(新しい歌)」という音楽運動の潮流につながってる。

1936年に最初の結婚をし、2人の子をもうけるが、1948年に離婚。
翌年テノール歌手と再婚して、もう2人子供が生まれる。
この頃にはチリ国内はもとより、海外でもその歌声が知られるようになっており、ヴィオレータはポーランドからコンサートの依頼を受ける。
だが彼女が初の海外公演に出てる間に、生後9ヶ月の末娘が死亡。それがもとで2度目の離婚となる。

彼女は自作の歌を次々に生み出していく傍らで、チリの伝承音楽の継承にも情熱を注いでいた。
村で有名な歌い手がいると聞けば、まだ幼い息子のアンヘルにも荷物を持たせて、山深く分け入って行く。
2000年の『歌追い人』でジャネット・マクティアが演じた、伝統音楽の採集と同じことをしてたのだ。

だがようやく辿り着いた村でも、当の老人は歌を聞かせてくれようとはしない。
息子を失って以来、歌を封印してしまったという。
その老人が、ヴィオレータの幼い娘の葬儀の場で、封印してた歌を唄い出す場面は、この映画でもひときわ感動的だ。


40才を過ぎて、ヴィオレータの誕生日を親しい者たちで祝おうという席に、息子のアンヘルが久々に顔を見せた。
その時アンヘルが連れてきたのが、ヴィオレータの歌声に魅了されたという、スイス人のファブレだった。
ヴィオレータより年下だが、二人はすぐに惹かれ合った。

ケーナ奏者でもあったファブレと共に、ヴィオレータはチリを離れてパリへと渡った。
その頃には音楽に留まらず、絵画や刺繍にも表現の場を広げている。
しかもそれらにも一貫したメッセージをこめていた。
彼女は自らの創作物をルーブル美術館に持ち込み、展示を掛け合ったりしてる。
その行動力はすごい。

だがファブレは、次第に自分の存在がスポイルされてるように感じ始め、彼女のもとを去る。
ヴィオレータの痛手は深く、その心情を『ルンルンは北に去った』という曲に綴る。
ルンルンとはファブレの愛称だ。

チリに戻ったヴィオレータは、都心部から遠く離れた山あいの、見晴らしのいい一角に、自らが理想とする「住居兼レストラン」を作って、暮らし始める。
レストランにはステージがしつらえ、彼女自身や、ミュージシャンたちが思い思いに演奏する。
客たちにはチリの素朴な料理が振舞われる。
店内にはヴィオレータの手による絵や刺繍が飾られてる。
たぶん建物自体も本職に頼まず、建てたのだろう。壁は隙間だらけだし、支柱が常にミシミシと小さな音を立てている。

当初は話題にもなり、客も入ってたようだが、辺鄙な場所にあるし、たぶん料理が上手いというわけでもなかったんだろう。
客も来なくなり、ヴィオレータからは気力も失われていったようだ。
彼女の3番目の娘カルメン・ルイサが常に寄り添っていた。
ヴィオレータはその年、50才になろうとしていた。


ヴィオレータを演じるフランシスカ・ガヴィランの熱演は認めるものの、この内面に語り足りなさは覚える。
ヴィオレータは政治信条でいえば、社会主義者で、アメリカを嫌悪してたようだ。
映画の中で、彼女の誕生日を祝う「ハッピー・バースディ」の歌声に、
「アメリカの歌は嫌いだから止めて!」と言ってる。

差別意識に敏感で、パリに行った折に、白人セレブたちの前で歌を披露、主催者から
「お腹が減ったでしょう?」
と言われ、頷くと
「用意してありますから、どうぞ台所へ」
と言われブチ切れ。
「台所で食べろと言うの?このクソおやじ!」
と吐き捨てて出てく。

でもってアメリカ嫌いということは、白人も嫌いなのかというと、スイス人のファブレには惚れてたりする。
父親が白人であったということが、ヴィオレータの中に、どんな影響というか、愛憎をもたらしているのか。
そこらは映画からは汲み取れなかった。


ヴィオレータが、貧困から社会意識に目覚めていくのはわかるが、彼女の力強い表現に満ちた詞の世界は、どのように育まれてきたものなのか?
その創作の秘密に関わる描写がなかった。
彼女の人生の一場面一場面に、彼女の歌が被さるのみなので、どうやって詞を紡いでいくのか、そこを描いてくれればよかったんだが。

エピソードが普段の暮らし向きというより、彼女の足跡でポイントとなる事象を選んで描いてることもあるが、くつろいだ空気というのが流れてない。
なにか「常にピリピリしてる女性」という印象を抱いてしまう。
晩年に建てたレストランの一件も、いかにも自らの信条や表現について、頑なな人が陥りがちな展開に見える。

映画の歌声は本人のものだろうが、たしかに歌声は伸びやかで力強く、多くの人を捉えて離さない魅力があるとは思える。
ただ個人的には、俺が音楽に求めてるものとは毛色が違うと感じた。
なにか生き方が反映されすぎてて、気圧されてしまうのだ。

アンドレス・ウッド監督の演出は、ヴィオレータの心象風景や、時制を前後させたりすることで、技巧が前に出てきてしまい、彼女の人生が陰鬱に映ってしまってるのは、果たしてどうだったのか?

2012年10月8日

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ラテンビート映画祭『トロピカリア』 [ラテンビート映画祭2012]

ラテンビート映画祭2012

『トロピカリア』

トロピカリア.jpg

回数券との引換えの時、チケットカウンターで、思いっきり
「トロピカーナお願いします」と言い間違えた。
だがカウンターの女性には
「そりゃジュースだろ!」
というツッコミは入れてもらえず
「はい、トロピカリアでございますね?」
と丁重に返されてしまった。
表情ひとつ変えることがなかったのを見ると、きっと言い間違えてるのは俺だけではないのだろう、と都合よく解釈する。

俺は南半球の音楽にはまったく疎くて、かなり偏った嗜好で今日まで来てしまったのだなあと、これを見ながら痛感した。


軍事政権下にあった、1967年から68年にかけて、ブラジルの都市リオを中心に巻き起こった、カルチャー・ムーブメントは、「トロピカリア」と呼ばれ、特に音楽の分野で、当時の若者たちに大きな影響を与えたものらしい。

その中心として名前が挙がるカエターノ・ヴェローゾ、ジルベルト・ジル、ガル・コスタ、トン・ゼー、そしてバンドのオス・ムタンチスといった面々の楽曲も初めて耳にした。

正確にはカエターノ・ヴェローゾのことは、アルモドヴァル監督の『トーク・トゥ・ハー』に出ていて、その時初めて知ったのだが。

カエターノ.jpg

映画は「トロピカリア」を彩った様々な楽曲にのせて、南半球でも同じように「社会運動の季節」でもあった60年代後半の、ブラジルの熱気を振り返っている。


この時代ブラジルでは、テレビでの「ポピュラー・ソング・コンテスト」的なイベントがブームになってたようda.
そういえば、アバを見出した「ユーロビジョン・ソング・コンテスト」も、長い歴史があるし、日本でも1970年代には「世界歌謡祭」や「東京音楽祭」や「ポプコン」といった、ソング・コンテストが流行った。
新しいスターの登竜門的役割を果たしてたのだ。

若き日のカエターノ・ヴェローゾも、ソング・コンテストで受賞する場面が映されてる。
一緒に演奏してるのが、オス・ムタンチスという、女性ヴォーカル、ヒタ・リーをフィーチャーしたバンド。
彼らの楽曲が面白い。

トロピカリアオスムタンチス.jpg

当時のサイケデリック・サウンドがベースになってるようで、プログレっぽい複雑なコーラスワークが入ったり、ダイナミックなリズムに変調したり、とにかく構成が予想つかない。
彼らはブラジルのドメスティックな伝統音楽と、西洋のロックの音を混然とさせた音世界を描いてるらしく、ちょっと病み付きになりそうな魅力がある。

数日前に「LBFF」でやはり音楽ドキュメンタリーの『Sugar Man』を見て、ロドリゲスのアルバムを無性に聴きたくなった。

この映画でもオス・ムタンチスのアルバムや、映画と同名のカエターノ・ヴェローゾ、オス・ムタンチス、ジルベルト・ジルらがコラボした『トロピカリア』というアルバムが聴きたくなった。


カエターノ・ヴェローゾとジルベルト・ジルは、その音楽表現や、政治的姿勢で睨まれ、投獄された後、1969年に国外追放処分を受けている。

彼らはイギリスに亡命し、この映画冒頭に出てくる、スタジオライヴは、イギリスのテレビ局で収録されてる。
亡命する間に、彼らは「ワイト島ミュージック・フェス」の舞台にも立ってる。

ブラジルでは軍事政権下で、弾圧を受ける若者たちも多いと、オーディエンスたちが知り、瞬く間に、ステージのカエターノとジルベルトに、連帯の声援を上げる様子はいいねえ。

『トーク・トゥ・ハー』で見ただけで、渋いヴォーカルという印象しかなかったカエターノ・ヴェローゾだが、若い頃はカリスマティックで、これは支持を集めるのもわかる。
彼がフランスのテレビ番組に出て、戻れない母国への想いを弾き語る歌にはジンときた。


それから映画の中でもっと長く流してもらいたかったのが、ガル・コスタの歌声だ。

トロピカリアガルコスタ.jpg

彼女の1969年の1stソロアルバムは「トロピカリア」の名盤とされてるそうだが、彼女の色っぽい笑顔のスチルとともに流れてくる歌声は、腰骨を溶かしそうな威力があるね。
この時代のポピュラーソングは、俺の好みでは女性ヴォーカルの方がいい。


映画としてはカエターノやジルベルト・ジルにフォーカスがあたっていて、女性ヴォーカルが思ったほど聴けなかったのは不満ではある。
音楽ドキュメンタリーであり、カルチャー・ドキュメンタリーであり、ブラジルの一時代の証言でもある。

そういう性格から、『Sugar Man』のように、一人の人間の謎を探し求める、ドキュメンタリーだけど、普遍的なストーリーの面白さを感じさせるものとは違う。
ブラジルの音楽シーンとかまったく知らない「イチゲンさん」には、ちょっと敷居が高い部分があるかもしれない。

2012年10月7日

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ラテンビート映画祭『刺さった男 』 [ラテンビート映画祭2012]

ラテンビート映画祭2012

『刺さった男 』

刺さった男.jpg

昨年の『気狂いピエロの決闘』(これは三大映画祭の時の邦題だが)に続いて。2年連続で「LBFF」上映が実現した、鬼才アレックス・デ・ラ・イグレシアの新作。
今回も嫉妬と暴力の濃ゆ~い世界が堪能できるかと思うと、そういうんじゃなかった。


主人公の中年男ロベルトは、失業中の元広告マン。
今朝も美しい妻ルイサに励まされて、広告会社の面接を受けに行く。
「マッケンジー社」という、アメリカに本社がある、外資系広告会社の支社長は、ロベルトの昔の同僚だった男だ。
ロベルトは17才の時、バイトで入った広告代理店で、コカコーラのキャッチコピー
「人生に輝きを!」を生み出して、それが流行語にもなり、華々しいキャリアのスタートを飾った。

だがそれも過去の栄光だ。
いまは支社長にも剣もほろろに扱われ、うな垂れてビルを後にする。

失意の中でハンドルを握るロベルトは、ふと新婚旅行でルイサと泊まったホテルに足を運んだ。
「人生が輝いてた」時代を思い起こそうとでもするかのように。
だがホテルがあった筈の場所は、博物館になっている。
まだ開館準備中らしく、マスコミが内覧に招かれていた。
事情を聞こうとしたロベルトは人波に押されて、そのまま中に入ってしまう。


市長と女性館長が得意気に説明してる列を抜けて、ロベルトは建物のドアを開けて、工事中の足場を組んだ空間に出た。
建物の裏手には、コロセアムのような広大な遺跡があった。
ホテルの敷地内に、ローマ時代の遺跡があることがわかり、ホテルを取り壊し、市が遺跡を売り物にする博物館を建てたのだ。

立ち入り禁止の札をくぐり、さらに進んでいくロベルト。
警備員のクラウディオに制止を求められるが、足元をふらつかせたロベルトは、そのまま彫像にしがみついた。
彫像はクレーンに吊るされており、ロベルトが負荷をかけたため、アームが動いて、ロベルトは彫像とともに宙刷りの状態になる。

クラウディオは必死に手を伸ばすが届かない。
「助けを呼んでくる!」
クラウディオがその場を離れた直後、ロベルトは彫像から滑り落ち、発掘現場のただ中に落下した。


鉄柵が組まれた足場の上にあおむけに落下したロベルト。
意識はあるが、起き上がることができない。
駆けつけたクラウディオは、起き上がれない原因を知って、愕然となった。

ロベルトの頭部には、下から伸びた鉄柵が突き刺さっていたのだ。
ところがどういう奇跡か、痛みもさほどではないし、しゃべることも、手足を動かすこともできるのだ。
救急隊員が駆けつけ、ロベルトに状況を説明した。

その間に警備員から市長と館長に知らせが入った。発掘現場で人身事故があったらしい。
マスコミに博物館側の不備を指摘されてはマズい。
内覧に来てる記者たちを、外に出さないようにと、市長は館内を閉め切った。


救急隊員としてもお手上げの状態だった。
鉄柵は奇跡的な角度で刺さってる。
それをこの場で抜くことは危険だ。搬送することができない。

まずは専門医の診断をと、ベラスコ医師が呼ばれる。
普通にしゃべることはできるロベルトは、ケータイで妻のルイサに事情を説明した。
真っ青になったルイサは現場にやってきたが、夫の頭に鉄柵が刺さってるのを見て卒倒した。

内覧の記者たちも事故に気づいて、現場に群がった。
博物館内の遺跡で起きた事故の模様は、ただちに中継され、ロベルトは一躍ニュースの主役となった。

ロベルトはこれこそ千載一遇のチャンスだと思った。
テレビとインタビュー契約を結べば、多額の契約金が手にできる。
娘バルバラの大学進学の資金も捻出できるし、今いる住まいを手放さずにすむだろう。


心配して寄り添うルイサの前で、ロベルトは知り合いの制作会社に連絡を入れた。
早速「有名人に突撃」という名物コーナーを持つ、ワイドショー・レポーターのジョニーがやってきた。
ロベルトはジョニーを代理人に立て、テレビ局のワイドショーでの単独インタビュー交渉を任せた。
自分が生死の境にあって、家族がこんな心配してるのに、夫は金のことしか頭にない。
ルイサはそれがショックだった。

鉄柵を切り離すべく、女性館長自らが機械で切断を試みるが、ロベルトの頭部に振動を与えて、激痛が走るため、それも断念。
一方、市長は一時は事故を報を聞いた大統領から、博物館側の不備を指摘されるから、事故を表沙汰にするなと言われてたが、一転、これだけ騒ぎになれば、観光名所になると、一般人も遺跡に入れろと命じられる。


ジョニーは単独インタビューの交渉にあたった。
金を渋るテレビ局のオーナーに、中継中に男は死ぬかも知れないと。

「チリの鉱山事故の炭鉱夫たちが、すぐに忘れさられたのは何故だと?」
「みんな生きてたからです。死ねば伝説になる」
「ブルース・リーや、ジェームス・ディーンみたいにね」
オーナーはインタビュー中に死んだら、200万ユーロ出そうと言った。

ベラスコ医師は、この場で鉄柵を頭から抜くのは不可能と判断、手術設備を現場に持ち込んで、手術を行うしかないと、ルイサに告げた。
さまざまな人間のさまざまな思惑が、遺跡の中で渦巻いていた。


この筋立ては目新しいものではない。
例えばビリー・ワイルダー監督の1951年作『地獄の英雄』では、先住民の居住区の洞窟に探検に行って、生き埋めになった男を、カーク・ダグラス演じる新聞記者が取材に来る。

地獄の英雄.jpg

記者は保安官と共謀して、救出を遅らせ、この事故を大きなニュースに仕立て上げる。
野次馬が現場に押しかけ、生き埋めの男の妻は、ひと儲けできるとガソリンを売り始める始末。

大手の新聞社から記事を依頼がかかり、目的を達した記者が、救出にとりかかった時は、すでに遅かったという内容。


もう1本、コスタ・ガブラス監督の1997年作『マッド・シティ』は舞台が博物館というのが同じだ。
ジョン・トラボルタ演じる、博物館を解雇された男が、逆上して銃を乱射し、博物館に立て篭もる。
地方局に左遷されてたダスティン・ホフマン演じる記者が、その場に出くわし、生中継を始めた。

マッドシティ.jpg

事件は全米中に広まり、記者は男にテレビ・インタビューを申し込んだ。
「なぜこんなことをするはめになったのか、テレビを通して話すんだ」
記者はこれでキー局へ戻れるとほくそ笑むが、男が同僚の黒人警備員を射殺してたことから、
「人種差別主義者だ」と声が上がる。


この『刺さった男』も、今挙げた2作と同様、メディアやマスコミのセンセーショナリズムを皮肉ってはいるが、デ・ラ・イグレシア監督に期待する、突き抜けた展開という風にはならないのが残念だった。
いや頭は突き抜けてはいるんだが。

相変わらず演出のテンションは高いので、あれよあれよと、見る者を事故現場に放り込んでくのだが、そもそも頭に杭が刺さってるのに、ロベルト元気すぎるし、ちょいちょい挿みこんでくる、ブラックユーモア的なギャグが類型的で、いまいち弾けない。

ロベルトに一途な愛情を注ぐ妻ルイサをサルマ・ハエックが演じてるが、彼女がいい。
この時45才だが、若い頃より女っぷりが上がってる感じがする。
彼女の、儲けを企む男たちへの、毅然とした表情にシビれるね。

あの情念が暴走するフルスロットルな傑作『気狂いピエロの決闘』ですら、いまだ一般公開に至らないのだから、この映画も公開の見通しなど立たないだろう。

2012年10月7日

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『アイアン・スカイ』に足りない現場感 [映画ア行]

『アイアン・スカイ』

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ナチスドイツの残党が南米に逃れ、そこで秘密基地を作り、空飛ぶ円盤を製造してるなんてことは、「ムー世代」の人間ならよく耳にしたことだが、この映画では、ナチスは月の裏側に「第三帝国」を築き、70年もの間、地球侵略の機会を虎視眈々と覗ってたということになってる。

月面には巨大な「鍵十字」型の要塞都市が建設されており、月面探査にやってきたアメリカの宇宙飛行士を捕える。
宇宙飛行士が黒人と知り、月面のアーリア人たちはショックを受けるが、黒人が持ってたスマホにも驚愕する。
この機械の演算能力があれば、「神々の黄昏号」が完成でき、地球侵略のメドがたつ。
スマホの大量調達のため、将校クラウスと、そのフィアンセで地球学者のレナーテが、地球潜入のミッションに赴く。


ニューヨークに降り立ったクラウスは、政府の広報官ヴィヴィアンを誘拐。
大統領に合わせるよう迫る。
支持率が低迷し、再選に向けて、決め手を欠くヴィヴィアンは、ある思惑を抱いて、クラウスとレナーテをホワイトハウスに。

女性大統領は、ナチスの宣伝戦略や、理想主義を鼓舞するそのスタイルが、選挙キャンペーンに効を奏すると感じ、二人をパブリシストに雇う。
実は野心家のクラウスは、アメリカと同盟を結んで、ゆくゆくは月の総統の座を得ようと企んでいた。


だが裏切りを察知した、月面ナチスの総統コーツフライシュは、ただちに建造した宇宙船で、地球攻撃を開始。
国連の会議は紛糾した。あの飛行体はどこの国が製造したのか?

どの国の代表も首を横に振る中で、北朝鮮の代表が
「あれは我が国のものだ」
と発言。一同から「ププッ」と笑われるのみだった。

もし宇宙からの侵略だとすれば、そんなの想定してないぞ。
だがアメリカ大統領は高らかに言い放った。

「我々に任せなさい。宇宙戦艦作ってあるから」
宇宙の軍事利用をあっさり認めて悪びれる様子もない。
そして宇宙戦艦「ジョージ・W・ブッシュ」は、ナチスの艦隊と一戦交えるべく出撃した。


フィンランド人のティモ・ヴオレンソラ監督は、ナチスドイツもアメリカも同じようにコケにしていて、その心意気は買える。

アメリカが2018年に、なんでいきなり月面探査船を打ち上げたりしたのか、その理由も皮肉に富んでおり、ある意味ナチスドイツより悪辣な「アメリカ帝国」という図が描かれてる。
VFXも緻密に表現されてて、安っぽさはない。

だがなんだろうな、見ていて気持ちが浮き立つようなことがない。
作り手が風刺のこもった脚本を「ドヤ顔」で開陳してるんだが、その部分に留まってしまってる。
どこか映画が「閉じてる」感じがしてしまう。

これに似た印象を受けたのが、2004年の『スカイ・キャプテン ワールド・オブ・トゥモロー』だった。
ミシガン在住の映像オタクだったケリー・コンランが、自宅のパソコンで4年かけて作った短編が、ハリウッドに認められ、その短編SFの世界観をスケールアップさせた映画だ。

1939年のニューヨークをすべてCGで再現し、そこに空からロボットが襲撃してくるという、レトロフューチャーなイメージは目に新しく、ジュード・ロウほか俳優以外は、すべてCGで描かれているというのも斬新ではあった。

だがストーリーには面白みがなく、斬新と思えた画面にも飽きてくる。
映画が弾んでこないのだ。

この『アイアン・スカイ』にも通じることだが、監督が構想を形にすることに腐心していて、頭でっかちに感じられてしまう。
青島刑事のセリフを流用すれば
「映画は机の上で出来るんじゃない、現場で出来るんだ!」
と言いたくなるような、「現場感」が足りないんだと思う。


物語に入り込めない理由のひとつは、登場人物の誰にフォーカスしてるのか、それが曖昧なところだ。
ナチスに心酔しながら、地球にやってきてその現実に愕然となる、美貌の地球学者レナーテが一応ヒロインということだろう。

演じるユリア・ディーツェは色っぽいとは思うが、周りにアクの強いキャラが居並ぶので、意外に目立たない。
ナチスの博士によって白人化させられてしまう、黒人宇宙飛行士だとか、まんまサラ・ペイリンという、合衆国の女性大統領とか。
ウド・キアが、ヒトラー亡きあと総統の座についたコーツフライシュを演じてたりするんで。
滑稽な人たちを眺めてるだけという、引き気味の視線で見ることになってしまう。


例えば俺は『ギャラクシー・クエスト』が大好きだが、あの筋立てはこうだ。

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昔『宇宙大作戦』みたいなSFドラマに出演してたキャストたちが、ファンの集いに出席したら、その場に本物の宇宙人たちがやってきた。
彼らの星では、そのSFドラマが放映されており、「嘘」という概念を持たない宇宙人たちは、キャストの面々を本物のヒーローと思い込んでる。

「ぜひ侵略されそうな我らの星を救ってほしい」
なにかの冗談かと軽く流してると、いきなりその星にワープさせられる。

彼らの目の前には、番組ではミニチュアでしか見たことがなかった、エンタープライズ号みたいな宇宙船の実物が。
宇宙人たちは、ヒーローたちのために、宇宙船まで用意してたのだ。
この場面で、宇宙船を呆然と眺める、船長役のティム・アレンの表情を見るたび、泣けてくるのだ。


或いは『第9地区』で、ヨハネスブルグに飛来した宇宙難民の「エビ星人」に隔離政策を施そうとする政府側の役人だった男が、謎の液体を浴びて、徐々に「エビ星人」化していく。

二つのアイデンティティに引き裂かれるような状況下で、男はエビ星人の親子を守るため、モビルスーツに乗り込んで、人間と闘う決断を下す場面。
ここも盛り上がるんだよなあ。

『ギャラクエ』にしろ『第9地区』にしろ、ひと捻りしたストーリーに留まらず、見る側の感情がバァーッと高まるような場面が用意されてる。
この『アイアン・スカイ』にはそれが欠けてるのだと思う。

2012年10月5日

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スター男優たちをボコりまくるジーナ・カラーノ [映画ア行]

『エージェント・マロリー』

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TOHOシネマズで見たが、入り口でチケット渡したら、「マロニーちゃん」のタイアップ販促物「エージェント・マロニー」100gをもらった。ちゃんと袋に映画のスチルがプリントされてる。
失礼ながらあまりヒットしてる形跡もないので、この販促物はコレクターズ・アイテムになるかも。ならないかも。

女殺し屋の映画としては、ちょっと先行して『コロンビアーナ』が公開されてたから、「またかよ」的な印象も否めない。
だがこちらの主役はプロの格闘家ジーナ・カラーノだ。
といっても俺は知らなかったが、とにかく最近のアクション映画にありがちな、アクロバティックな格闘演出を避けて、彼女の格闘家としてのスキルを見せようという演出になってる。
女性でありながら、パンチや蹴りが重そうで、関節技も熟知してるようだ。
体格も男に見劣りしない。


映画冒頭の田舎のダイナーで、チャニング・テイタムといきなり肉弾戦。
その描写から、ジーナ・カラーノの肉体の強さを見せつけられる。
だがリアリズムで行こうというわりには、淹れたてのコーヒーを顔に浴びせられるマロリーが、戦いが終わったあとも平然としてられるのは解せない。
顔は火傷に近い状態になってるんだから、冷やすなりの応急処置を施さなければ、車の運転などできないだろう。熱湯に強い皮膚なんて鍛え方はできないはずだ。

そのダイナーに居合わせた地元の青年スコットを店から連れ出し、彼の車を(強制的に)借りるマロリー。
「買ってまだ2週間なのに」と不安一杯のスコットを助手席に乗せ、マロリーは店での格闘に至る経緯を話し始める。そういう構成になってる。


マロリーは危険な仕事を請け負う、フリーランスの女性秘密工作員だ。
仕事はユアン・マクレガーが演じる、民間軍事企業のオーナー、ケネスから発注される。
トラブルの元となったのは、バルセロナでのミッションだった。

監禁されてる中国人ジャーナリストの奪還を依頼され、チャニング・テイタム演じるアーロン他2名と動いた。
奪還は成功し、その身柄はケネスに仕事を依頼したスペインの政府関係者ロドリコに引き渡した。
アントニオ・バンデラス演じるロドリコは、マイケル・ダグラス演じる、アメリカ政府の高官コブレンツと繋がっていた。

ミッションを成功させ、サンディエゴの自宅に戻ったマロリーを、ケネスが訪ねてきた。
英国諜報機関「MI-6」から依頼された仕事があるという。
マロリーとケネスはかつては恋人同士だったが、マロリーはもう仕事上の関係も清算しようと思っていた。
だが「バカンスみたいなもんだから」と懇願され、しぶしぶダブリンへと飛んだ。

目印となるブローチをつけたマロリーは、現地で諜報員のポールと接触。
マイケル・ファスヴェンダー演じるポールと、新婚夫婦を装い、フランス人実業家スチューダーの動向を探るというもの。
だがこれはマロリーを罠にかけ、殺人の濡れ衣を着させるための筋立てだった。


映画の中で女優は彼女ひとりで、その周りを名のある男優たちが固める。
その中でジーナ・カラーノと格闘に及ぶのは、チャニング・テイタム、マイケル・ファスヴェンダー、ユアン・マクレガーの3人だ。
チャニングは肉体派だからいいとして、他の二人は優男だろう。
まあファスヴェンダーはフルボッコが似合うマゾ体質なんで、
「今度もやってくれたなあ」と思いながら見てたけど。
ユアン・マクレガーなんか弱っちくて可哀相になってくる。

やっぱり相手にも一人くらいはプロを出しちゃどうだったのか。
これだと「ハリウッドスターたちが、美貌の女格闘家にボコられたい」
って願望を実現させたような、一種のSMプレイみたいに見えてしまうが。

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ストーリーラインとしては、ありがちだし、目を見張るほどのアクション場面があるわけじゃない。
だけど退屈はしない。
ハラハラするというより、心地よく見てられるのだ。

それは監督スティーヴン・ソダーバーグならではの手つきに拠るもの。
彼は今回も例によって別名義で撮影監督も兼ねており、体温の低そうな画面の質感と、デヴィッド・ホームズの、ジャズやラウンジミュージックの要素を巧みに取り入れたスコアが、「乗り心地のよさ」を体感させてくれる。

近年のアクション映画はどれも似た印象を受けてしまうんだが、それは手振れバリバリのカメラとか、スタントとCGの組み合わせ具合とか、そういった演出上のトレンドという以外に、コンポーザーの音楽表現が、似たりよったりのものばかりだという事も大きい。

対して『アウト・オブ・サイト』以降、度々ソダーバーグの映画を手がけてるデヴィッド・ホームズの音は、例えばマイケル・ケインの『狙撃者』の、ロイ・バットのスコアとか、ラロ・シフリンがつけた数々のアクション映画のスコアを彷彿とさせる。
ちょっと古風で渋いのだ。

マロリーが警察の狙撃隊に追われて、ダブリンの町を逃げ回るシークェンスは、描写としては尺を取りすぎてる気もするんだが、デヴィッド・ホームズの変化に富んだ、軽快なスコアを聞けるんだから、しばらく逃げててくれていいよ、と思いながら見てたのだ。


ジーナ・カラーノは、格闘家という体つきはしてるが、「ゴツい」という印象はさほどなく、若い頃のレネ・ルッソみたいだ。
演技はどうこうというものではなく、ソダーバーグもそこは期待してないだろう。

『ガールフレンド・エクスペリメンツ』の時も主演にポルノ女優を起用していて、やはり感情の起伏を表に出さないようなキャラクター設定にしてた。
今回もジーナ・カラーノには、とにかく動いていてくれれば絵になるという、そういう演出で臨んでる。

彼女はこの後、『ワイルド・スピード』のシリーズ第6弾への出演と、
女性版『エクスペンダブルズ』への出演が内定してるようだ。
他に暴れる女性キャラが居る中で、どの程度目立てるのか、真価が問われるのはその時だろう。

2012年10月4日

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ラテンビート映画祭『ゾンビ革命 フアン・オブ・ザ・デッド』 [ラテンビート映画祭2012]

ラテンビート映画祭2012

『ゾンビ革命 フアン・オブ・ザ・デッド』

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師匠ロメロからの「暖簾分け」のような形で、今や世界各国でゾンビが闊歩する状況となってるが、ついに社会主義国キューバで、初のゾンビ映画がお目見えした。

血生臭さも、ゴア描写もそれなり頑張ってはいるが、南独特のまったりした開放感というのか、どんなにゾンビが湧いてきても、切迫した空気にならないのが可笑しい。

監督のアレハンドロ・ブルゲスは、コメディ系ゾンビ映画をきっちり研究してるようで、この映画も主人公ホアンは、ボンクラ中年に設定されてる。


フアンは、かつてはアンゴラ内戦に従軍し、忍者から手裏剣の技や格闘術を学んだと自己申告してるが、証拠はない。
棚にはヌンチャクが下げられており、ブルース・リーを師と仰ぐ。
絵に描いたボンクラである。

40過ぎても定職に就かず、贅沢を考えなければ、飢えて死ぬことはないと、
社会主義の恩恵にあぐらをかく怠惰な日々。
女の体のことしか頭にない、親友ラサロもそれは一緒だ。

つい最近は盗みを働いて捕まり、刑務所にブチこまれてた。
出所すると、妻にはヨリを戻すつもりはないと言われる。
「私はマイアミに行くつもり」


懲りもせず、盗みの計画を立ててたが、どうも最近ハバナの町の様子がおかしいことに気がついた。
四六時中、喧騒の中にあるような町が静けさに包まれてる。

亭主の留守中に色っぽい人妻を寝取ったりしながらも、フアンはその変化を訝しく思っていた。
女好きだがブサメンでまったくモテないラサロは、フアンと事を済ませた後の人妻を屋上から覗いてマスかいてる。

そんなのんびりした二人の周りでは、ハバナの住人たちが、食い殺しあうという、凄惨な地獄絵図が展開されていて、ついにそれはニュースでも中継された。
国営テレビはこの状況を、
「帝国主義国家アメリカが、裏で糸を引いて、反体制派を蜂起させた暴動である」
と報道した。


どうも襲われて噛まれたりした人間が、伝染病に感染でもするように、同じ症状になり、人を襲ってるようだ。
フアンは同じアパートに住む老婦人の亭主が、似た症状を起こし、死んだ後に甦り、襲ってきたので、概略がつかめてきたのだ。
体にいろんなもんを刺してもビクともしないが、頭に刺したら動かなくなった。
頭を狙えばいいのか。

その老婦人が、甦った亭主を再び息の根止めることなどできそうもないのを見て、フアンはビジネスを閃いた。
ラサロと二人では人手が足りない。
「ワル仲間」でオネエキャラのチナと、彼女のペット兼ボディガードの筋肉マン、プリモ。
フアンの娘カミーラに、父親と違ってイケメンの、ラサロの息子ブラディ・カリフォルニア。
その他数人の半端者たち。
頭数を揃えたフアンは、仕事内容を説明する。

ゾンビ革命3.jpg

謎の病気が蔓延してるが、一度症状にかかった身内を殺すことができない、そういう人々に代わって、
「あなたの愛する人、殺します」
をキャッチにして、殺人代行ビジネスを始めようというのだ。
日々患者は増えてるんだから、依頼には事欠かない筈だと。

意気揚々と町へ繰り出した一行。
フアンはボートのオールを、ラサロはナタみたいな刃物を両手に、チナはパチンコを、プリモは腕力を、それぞれ武器にして、町に湧き出る死人の群れを始末していく。

だが所詮はボンクラの思いつきだけのビジネス。
どんどん感染が進むにつれて、首都ハバナはまともな人間の方が僅かになってしまってるんで、依頼者も見つからないのだった。

状況が悪化してく中で、娘のカミーラと、ラサロの息子ブラディが接近しつつあると察知したフアンは、カミーラに「ブラディはヘルペス持ちだぞ」
と嘘を吹き込むという予防線を張ることは怠らなかった。
そんなフアンたち一行は、海の見える広場で、ついに大量の死人たちに囲まれてしまう。


絶体絶命のその時、一台のピックアップトラックが猛スピードで近づいてきた。
荷台から大きなモリを発射すると、それはフアンたちのそばにある電柱に突き刺さった。
「伏せろ!」の声にフアンたちは身をかがめた。

モリにつながれたワイヤーがピンと張られ、トラックは電柱を中心に円を描くように周囲を1周した。
死人たちの頭部は一斉にワイヤーで切断された。それは鮮やかな手際だった。

トラックを運転してたのは、アメリカ人で、自身をファザー・ジョーンズと名乗った。
ファザー・ジョーンズは、死人の群れのことを「ゾンビ」と呼んだ。
それはウィルスによるものではなく、資本主義諸国ではゾンビという現象として定義されてる。
キューバにおいては、まだその概念が浸透してなかった。

彼に導かれてフアンたちは地下駐車場へと向った。
ファザー・ジョーンズには、このハバナを脱出する秘策があるようだった。
だが彼が説明をしてる最中に、ラサロの持ってたフィッシング用のモリが暴発して、ジョーンズは即死した。
フアンは頭を抱えるが、さらにラサロは衝撃的な事実を告げる。


ラサロは太腿を怪我していた。死人たちを倒しまくってる最中に負ったものらしい。
「噛まれたのか?」
フアンの問いに、ラサロは悲しげな表情をかえすのみだった。
二人はビルの屋上で夜明けを待った。
ラサロは朝日を見る前に死ぬかもしれない。
もし甦ったらその時は頼むと。

そしてもう一つ頼みを聞いてほしいと言う。
「愛してるんだよ、フアン」
「俺もさ」
「そういう意味じゃない。本当に愛してたんだ」
フアンはラサロをまじまじと見返す。
「だから死ぬ前に、しゃぶらせてくれないか?」
あまりの告白に絶句するフアン。だがラサロの目は本気のようだ。
フアンは意を決してパンツを下ろした。


という呆れた展開になってくるんだが、これにもオチがあった。
フアンのアパートの屋上から、度々ハバナの町を遠景で捉え、黒煙を上げるビルが増えてくことで、破滅化が進んでる様子を描いたり、細部に手を抜かずに作ってる印象だ。

ゾンビはメイクなどはよくできてるが、ロメロ型のノロノロ歩きのがいたり、走れるのがいたり、まちまちだ。
「ゾンビもいろいろでしょう」というキューバ的なアバウトさなのか。


エグさを売りにするようなギャグが、いまいち決まらないという恨みはあるが、登場人物たちのキャラは立ってるので、楽しめる。

フアンを演じるアレクシス・ディアス・デ・ビジェガスという長い名前の役者は、俺の単なる先入観だが、キューバ人にしては、大らかな感じではなく、根暗な表情なのが意外だった。
キューバの松重豊みたいな。
親友ラサロを演じるホルヘ・モリーナは、その直球下ネタな感じが、昨年の「LBFF」で見た
『トレンテ4』のオヤジとカブる。

シド・ヴィシャス版『マイ・ウェイ』が飾る、エンディングのアニメーション画がカッコいい。

2012年10月3日

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ラテンビート映画祭『EVA <エヴァ>』 [ラテンビート映画祭2012]

ラテンビート映画祭2012

『EVA <エヴァ>』

エヴァ2.jpg

映画の内容とは別に、気に入った場面がある。
主人公のアレックスが、兄夫婦の出るパーティに呼ばれる。
会場でアレックスは、兄嫁のラナからダンスに誘われるが、
「踊れない」と一旦は断る。
ラナは兄のダヴィッドと踊り始める。
流れてるのはデヴィッド・ボウイの『スペース・オディティ』だ。

アレックスは二人が踊るのを遠目で見ると、その場を立ち去ろうとする。
アレックスとラナは、昔恋人どうしだったのだ。
アレックスが会場の扉に手をかけようとする時、
『スペース・オディティ』のサビ前のストリングスが高鳴ってくる。
それに呼応するように、アレックスの鬱屈は「ラナと踊るぞ」という決意に変化する。

この部分の音楽と感情のタイミングの合わせ方が見事だった。
デヴィッド・ボウイの曲では、ヒース・レジャーの『ロック・ユー!』の中で
『ゴールデン・イヤーズ』がダンスシーンに使われていて、選曲の趣味がいいなあと思ったが、この映画も負けてない。
『スペース・オディティ』をダンスに合わせるというのは、普通発想にないだろう。
曲の構成を熟知した上で使ってる。

そしてこのデヴィッド・ボウイの初のヒット曲は、『2001年宇宙の旅』にインスパイアされて出来たと言われてる。
ロボットをテーマにした、この『EVA <エヴァ>』のアイデアの源にあったであろう、キューブリックの傑作への、間接的なリスペクトの意味も含まれてるかも知れない。


アレックスは若くして、天才的なロボット・エンジニアと周囲も認める所だったが、10年前に「自律型」ロボットを兄とともに開発する最中、不意に開発を諦めて姿を消してしまう。

アレックスは雪深いサンタイレーネにある「ロボット研究所」の女性所長から、10年ぶりに呼び戻された。少年型のロボットの開発を任せようというのだ。
アレックスが戻ったことを聞いて駆けつけた兄のダヴィッドは、弟を快く迎え入れた。

アレックスは、研究所内の施設で、学生たちに講義するラナを見かける。
10年前、ラナとは恋人同士だった。
だが彼女を置いて、アレックスは立ち去ったのだ。
そのラナはダヴィッドの妻となっていた。


女性所長に、少年型ロボットのモデルにできる少年をオーディションさせられるが、ピンと来るような子はいなかった。
研究所からの帰りの道すがら、アレックスは車の中から、小学校の校庭で遊ぶ子供たちを眺めていた。
その中に、歩きながら、時折逆立ちしたりする少女が目に入った。
しばらく眺めてると、少女が視線に気づき
「なんで見てるの?」
「あなた変質者でしょ」
とヅケヅケ言ってくる。
アレックスはこの少女を面白いと思い
「ロボットを作ってるんだよ」
と言うと、ちょっと関心を示したようだった。

兄のダヴィッドから自宅での夕食に呼ばれたアレックスは、そこでラナとともに、道で会話を交わした少女と再会した。
少女はエヴァと言い、兄夫婦の娘だったのだ。
紹介されたエヴァは
「はじめまして」
と言って小さくウィンクした。


アレックスは大きな天窓のある、古びた一軒屋を借りて、そこに篭ってロボットの開発をしようとしていた。
すると入居した翌朝には、マックスと名乗る人型ロボットがやってきた。
身の回りの世話の一切を行うように、所長が派遣してきたのだ。
アレックスの父親ほどに年が離れて見える、中年紳士の顔をしてた。
委細構わずに家事を始めるマックスは、やたらとフレンドリーだ。

アレックスは、マックスの感情レベルが「8」に設定してあるのを知ると
「6に落としてくれ」
と言い、マックスの表情は即座に「6」にレベルダウンした。
アレックスは自律型のネコロボをペット代わりに飼ってたが、マックスとは相性が悪そうだ。


そんなアレックスの自宅をエヴァが訪れた。
エヴァはマックスの紋切型の挨拶をそっくり真似た。
マックスが愛想笑いをすると
「なんで笑うの?」
エヴァには愛想笑いという概念がわかってないようだった。

アレックスはエヴァに、写真に写る人の表情を見て、その感情を言い当てるテストをやってもらう。
アレックスの自宅には、少年型ロボットのプロトタイプがあり、エヴァの感受性をインプットしてみようと考えてたのだ。
だがテストの最中に、エヴァは不意に笑ったりするアレックスの態度に、急に不機嫌になってしまう。
ふとした笑いに深い意味はないのだが。
アレックスもその反応に戸惑う。


エヴァを送り返した後、プロトタイプに、エヴァのデータをインプットさせた。
するとそれまで好奇心はあるものの、従順だったロボットが、感情的に反応するように変わった。
感情が制御できなくなり、もうアレックスの命令も聞かない。

アレックスは仕方がないと、ある言葉をつぶやく。

「目を閉じると何が見える?」

するとプロトタイプは、そのプログラムをシャットダウンして、その場に崩れ落ちた。
制御不能に陥ったロボットを強制終了させるキーワードだった。
一旦この言葉で終了させると、もう元通りには動かなくなるのだ。
少年型ロボットの開発は振り出しに戻ってしまった。

途方に暮れたまま、アレックスは兄夫婦の家で記録した映像データを、モニターで眺めていた。
ラナのことに未練を残したままだった。
横から覗いていたマックスが言った。
「エヴァはあなたに似てますね」

それは思いがけない言葉だった。

エヴァ3.jpg

エヴァという名の10才くらいの少女を演じるクラウディア・ヴェガは、スペインの女の子だが、もうそのキャラが「小生意気」そのものだ。

大人のアレックスに対して、物怖じしないし、大人びた言葉を投げつけるし、予想つかないリアクションで振り回すしで、小生意気な少女から目が離せないというような向きには(危ない発言だが)、これは必見の映画だろう。
クラウディアは可愛いし、演技も上手い。

彼女と気持ちを通わせるアレックスを演じるダニエル・ブリュールが、役の性格もあるんだが、どこか大人になりきれない、少年ぽさを残してるんで、前半の二人の空気には際どさも漂ったりしてる。


映画は後半になるに従い、どんどん切ない展開に突き進んでくのだ。
もちろん「人間とロボットの境目はなにか?」という、この種のSF定番のテーマを内包してはいるが、監督が上映後のQ&Aで述べてたように、これは「愛」のかたちを描いた映画なのだ。

終盤は怒涛の展開といっていい。
といっても娯楽SF的な派手な見せ場を畳み掛けるという意味じゃない。

見る側の琴線に触れまくってくる描写の連続なのだ。
アレックスの自宅でのラストシーンは、SF映画史に残る「泣ける名場面」だろう。


世話係ロボットを演じたルイス・オマールはスペイン映画界の名優で、この演技で
2012年の「ゴヤ賞」で助演男優賞を受賞してる。
「レベル8」から「レベル6」に即座にダウンする時の表情の変化が絶妙だった。
アクションなどない、じっくり筋を追える映画だが、視覚的な見せ場は多い。

この『EVA <エヴァ>』は「バルト9」での上映はもうないが、横浜「ブルク13」に場所を移して、
10月6日(土)に1回上映がある。
その後は10月27日から「シアターN渋谷」にて、「“シッチェス映画祭”ファンタスティック・セレクション」の1本としても上映される。

2012年10月2日

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ラテンビート映画祭『Sugar Man』 [ラテンビート映画祭2012]

ラテンビート映画祭2012

『Sugar Man』

シュガーマン.jpg

昨年は8本を見た「LBFF」だが、今年の俺にとっての初日は、関東の台風直撃の日となった。

3本見る予定で出かけて、この『Sugar Man』は夜9時からの上映だったので、いよいよ天候も荒れる時間だ。電車も停まるかもなあ、と一時はパスも考えたんだが、いやパスしなくてよかった。

たぶんキャンセルした人もけっこういたのだろう、客席は淋しかったが、あの場に居合わせた観客は、みんな幸せな気分に浸って、バルト9から突風吹きすさぶ新宿の町にはけてったと思うよ。

音楽ドキュメンタリーだが、すでに角川書店が配給を決めてるというのもわかる。
俺はロドリゲスというアーティストのことをまったく知らなかったが、ポピュラー音楽の世界に、まだこんな驚くべき才能と、驚くべき逸話が埋もれてたとは。

この映画を誰が見るべきかといえば、まず『アンヴィル!夢をあきらめきれない男たち』に心震わせた人なら間違いなく必見だ。
あのラストシーンに匹敵するような、鳥肌もんの場面に出くわすから。
もう俺は後半は涙ボロッボロで、鼻グッシュグシュさせながら見てたのだ。
隣の席の女性にはバレバレだったろう。だが彼女も目を押さえてたから別にいいのだ。


メキシコ系のシンガー・ソングライター、ロドリゲスは、1970年に、デトロイトで
アルバム『COLD FACT』でデビューを飾る。

町の「ロンドンの霧のように」タバコの煙がたちこめるバーで、弾き語りをしてたロドリゲスを見出したのは、モータウン・レコードでスタジオ・ミュージシャンとしてサウンドの屋台骨を支えていた、マイク・セオドアとデニス・コフィーだった。
二人は独自のレーベル「SUSSEX」を運営してたが、その歌声を聞いて、アーティスト契約を結ぼうと即断したようだ。

それは映画の冒頭で流れる『Sugar Man』の歌声を聴けば納得できる。
当時その風貌から、ホセ・フェリシアーノと比較されることもあったようだが、とにかく声に磁力がある。シンガー・ソングライターといっても、フォーク系の唄い方ではなく、その粘り強さはR&Bシンガーの歌唱に近い。
歌詞はボブ・ディランを引き合いに出されてたが、デトロイトの路上の風景を、臨場感こもった表現で活写してる。


ロドリゲスはむろん弾き語りだけで食えてたわけではなく、メキシコ系の男たちの、一般的な職である建築作業員として働いていた。
そのブルーカラーの視線で語ることが一貫してた。
歌詞はシンプルだが、安っぽい言い回しは見られない。
歌を聴いていて、まったく時代の古さを感じないのだ。
そのまま「今」に通じる歌だ。
その生々しい詞が、モータウン仕込みの洗練されたサウンドアレンジで耳に運ばれる。

だがインタビューの中でデニス・コフィーは
「間違いなく、これは売れると思った」
という確信に反して、このアルバムはまったく売れなかったという。
2枚目の『Coming From Reality』も同様で、ロドリゲスはアメリカでは黙殺されてしまった。

ロドリゲスはその後、以前と同じ建築作業員として、黙々と働き続けた。
ロドリゲスには3人の娘がいて、彼女たちから見た父親の姿も語られてる。

父親は建築作業員として、スキルが高く、仕事に対する取り組み方も極めて真面目だったという。
一人で冷蔵庫を背負って階段を下りてくる所を見たことがあるし、水周りを含め、家に関することでは、誰よりも詳しかったと。

そして仕事の場では、自分がレコードデビューしたことがあるミュージシャンだとは、同僚にも話してなかった。この同僚の話もよかったな。

ロドリゲスはああいった肉体労働の場にも、洒落たスーツを着て通ってきた。
常に意欲的に仕事をこなしていて、単純労働と見られるような仕事でも、高尚さをそこに込めることができる人間だったと。
同僚はロドリゲスの歌は知らなかったが、その働く姿は芸術家のものだと感じてたと。

「この世の中を変えることができるのは芸術家なんだよ」とも。

シュガーマンロドリゲス.jpg

だが忘れ去られたシンガーだったはずのロドリゲスの歌声は、その数年後、1970年代後半、アパルトヘイト政策下の南アフリカで突然響き始める。
ロドリゲスのレコードは南アフリカに輸出されてたわけではない。
誰かがアメリカからの土産に持ち帰ったらしい。
そしてそのレコードからテープにコピーされ、次第に人々の耳に届くようになっていった。

火をつけたのは、『COLD FACT』の中に収められた『アイ・ワンダー』という曲だった。
「何度セックスすれば気が済むんだろう?」
などと、恋人との間の率直な感情を、親しみ易いメロディで表現した曲で、検閲の厳しかった当時の南アフリカ、ケープタウンでは、ラジオで流すこともできない。

『COLD FACT』には他にも、麻薬に関する歌や、権力を打倒するような内容の歌が収められ、どれもラジオでは流せないし、正規のレコード発売もできない。
つまりは「ブートレグ」としてケープタウンの若者たちの間に流通していったのだ。


若者たちはロドリゲスの歌を、政府へのプロテストの象徴に感じて熱狂するが、肝心のロドリゲス本人のことがわからない。
動いてる姿を映した映像もないし、アルバム・ジャケットの写真しかないのだ。
今生きてるのか、死んでるのかすら。
そのうち、都市伝説のように、噂が広まっていく。

ロドリゲスはあるライヴで、ステージの条件も悪く、客の反応も最悪だった中、
「聴いてくれたことを感謝する」
と言うと、ステージ上で、拳銃自殺を遂げたのだと。


今はケープタウンで中古レコード店を営む、“シュガー”という名の中年男性は、
当時『COLD FACT』をアメリカから輸入しようとしたが、「SUSSEX」はプレスしておらず、在庫は1枚も残ってないと言われたという。
だから南アフリカで流通したのは、ブート盤だったのだ。

ロドリゲスという謎のシンガーのアルバムが爆発的に売れている。
同じく南アフリカ在住の、クレイグという音楽ジャーナリストはそのことに強い興味を惹かれ、ロドリゲスの消息を辿ることを試みた。

探偵を雇い、アルバムに収められた曲の歌詞に出てくる地名などから、手掛かりを掴めそうな場所をあたらせた。なんと行方不明児の捜索で使われる、牛乳パックにも、ロドリゲスの顔のイラストを載せたりした。
ロドリゲスのレコードをリリースした「SUSSEX」レーベルすら、その事実は知らなかったのだ。


もうね、ここから先は「事実は小説より、映画より奇なり」でね。
こんな魔法のようなことが人生には起こるんだなあという。

だがそれはアーティストとしてのロドリゲスの部分より、彼のゆかりの人たちによって語られる、
「生活者」としてのロドリゲスの、背筋の通った生き方があったからだろうと思う。

娘たちが父親について語る、その眼差しを見てるだけで泣けてくる。
建築現場の同僚の「あんたは詩人か?」と思えるような、見事な例えでロドリゲスの人となりを語る、その内容にも泣けてくる。


ああ、台風を押して見に行ってよかった。
しかしこんないい映画が、東京では「バルト9」の1回しか上映がない。
今からでも是非追加上映を決定すべき。
まあこんなブログ、関係者は読んでないだろうが。
横浜の「ブルク13」で追加上映でも決まれば、また駆けつけたい。
本公開は来年春の予定にはなってるが。

今年のベスト1はこれでもいいよ俺は。「LBFF」グッジョブ!

2012年10月1日

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ジェーソン・ボーンの遺産は有効活用されたか? [映画ハ行]

『ボーン・レガシー』

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時系列としては「ボーン・シリーズ」3作目の『ボーン・アルティメイタム』の劇中で起こってた時期に発生してた、もう一つの重大な事案という描かれ方になってる。
これは「スピン・オフ」と呼ぶべきなのか「新生ボーン・シリーズ」と呼ぶべきなのか?

「ボーン・シリーズ」3作すべての脚本を担当してたトニー・ギルロイが、今回は監督も手がけ、印象としては「なんとか合わせてみました」って所じゃないのか。

マット・デイモンは出てこないが、「ボーン・シリーズ」でマットを追う側のCIA関係者は、ジュリア・スタイルズ以外は、同じ役者が再び出演してる。


暗殺者育成プログラムである「トレッドストーン計画」、その精度を高めた「ブラックブライアー計画」も、同じように語られてる。
さらに平行して極秘に進められてたという「アウトカム計画」の完成品といえる暗殺者アーロン・クロスが今回の主役であり、アーロンを抹殺するために放たれたのが、「ラークス計画」による最強の刺客であるという、もう「計画」しすぎだろ合衆国という状態に陥ってるのだ。

なので「ボーン・シリーズ」のアウトラインが、見る側の頭に入ってることが前提になってて、
「ああ、ここにつながるのか」という楽しさはたしかにある。
だがなにより、主役のキャラクターがはっきりと違うので、「ボーン・シリーズ」の本質には外れてるようにも感じる。


『ボーン・アイデンティティ』を嚆矢とした、スパイ映画の新しいフォーマットを打ち立てたシリーズは、肉体と知力を尽くした逃亡劇の面白さと、臨場感に溢れたアクション演出で語られることが多い。

だが肝となってるのは、記憶を失った青年が、自分が何者かを探るほどに、おぞましい行いに手を染めてたという事実に葛藤を深めていく、その痛切さにあったのだ。
「逃げながら、追い求める」という二律相反するボーンの行動は、きわめてスリリングでありながら、答えを知っても救済は得られないという、ホロ苦さを常にまとっていた。

俺は2作目の『ボーン・スプレマシー』が好きだが、それはかつて自分が命を奪ってしまったロシア人夫婦の、遺族の娘に真実を告げに訪れる、あのエピローグがあるからだ。

ボーンスプレマシーオクサナアキンシナ.jpg

ちなみに遺族の娘を演じてたのは『リリア 4-ever』のオクサナ・アキンシナだった。


今回、ジェレミー・レナーが演じるアーロン・クロスは、自分が何者であるかはわかってる。
映画冒頭での、アラスカ山中の単独サバイバル訓練の描写に見るように、まだ暗殺者として、実践の任務には就いてない。
これは映画としては上手い設定で、もしすでに暗殺行為を働いてた主人公だったら、記憶を無くしてるというわけでもないし、必死に逃げた所で、見る側の共感は得られないだろう。
なぜアーロン・クロスは逃げることになったのか?


『ボーン・アルティメイタム』で、CIAの極秘プログラムのネタを掴んだジャーナリストが暗殺される場面があった。
「暗殺者育成プログラム」の存在がマスコミに暴かれる危険性が高まり、全てを知ったジェーソン・ボーンや、CIA内部調査局のパメラ・ランディの告発もあり、事を重んじたNRAG(国家調査研究所)によって、進行中のすべての計画の証拠隠滅が図られることになったからだ。
世界各地に散らばる「暗殺者」たちの抹殺指令が下ったのだ。

暗殺者たちは、みな継続的な血液採集と、薬の服用が義務づけられてた。
「青」の錠剤は身体能力の維持、
「緑」の錠剤は精神や知力の向上に作用するとされていた。
NRAGは工作員を通じて、暗殺者たちに「黄色」の錠剤を服用させた。

一つの錠剤で今まで同様の効力があるとか説明されたのだろう。
黄色の錠剤を服用した者は、すべて謎の死を遂げた。


アラスカで訓練中のアーロンにも、現地の工作員から「黄色」の錠剤が手渡される手筈になってた。
だがアラスカの山小屋でアーロンを待ってた工作員「No3」は、思うところあってか、アーロンに錠剤を渡さない。一方のアーロンは訓練中に、青と緑の錠剤を誤って無くしてしまい、工作員に「予備をくれ」と言うが、貰えない。
この「No3」がどうも思わせぶりなキャラで、アーロンのことを疑ってるようでもあり、認めてるようでもあり。

そんな感じで山小屋の二人がまったりしてるんで、しびれを切らしたのか、NRAGは無人偵察機「プレデター」をアラスカへと向わせる。

もともとアーロンが義務づけられてる血液サンプルを乗せて、送ったその「プレデター」が、また戻ってくるような気配を、二人は怪訝に感じるわけだ。
アーロンの体内には、位置を把握できるカプセル式の発信機が埋め込まれており、「黄色」の錠剤を飲んで死んだ筈のアーロンが、まだ生きてると認識したNRAGが、もっと直裁的な抹殺を図ろうとしたわけだ。
それを寸前で回避したアーロンは、身の危険が迫ってると感じ、アラスカの地から逃亡を開始する。


だがアーロンにとって、逃げることよりも、もっと切迫してるのは、青と緑の錠剤を飲まないと、自分に異変が起こるのではないかという、パニックに近い不安なのだ。

俺はこのキャラクターが、ボーンと比べて弱いと思う。
本人は「クスリが切れるからクスリくれ!」
と必死になってるだけに見えてしまう。

ボーンが記憶をたぐるほどに、CIAの極秘計画の全貌が見えてくるという、「ボーン・シリーズ」にあった、ストーリーの有機的なつながり具合が感じられないのだ。
アーロンには自分がこの先命じられたであろう、手を汚すような仕事への葛藤は見られない。

とにかく目の前の「クスリ」問題を解決しなけりゃならないんで、その方面の人間に接触を図る。
それがアーロンの体調管理を行う製薬研究施設のマルタ博士だ。
研究施設内で、同僚の研究員が、突然銃を乱射し、施設の人間を次々と撃ち殺していて、マルタは数少ない生き残りの一人となっていた。

ショックで、森の中に佇む借家を引き払おうとした時、CIAを名乗る男女が訪問してくる。
目的はマルタの抹殺だった。
だが丁度彼女の居所を突き止めていたアーロンが、危機一髪、マルタを救い出す。


この場面でアーロンの暗殺者としての傑出した能力が、はじめて発揮されるんだが、この家の見た目が、『ボーン・アイデンティティ』のクライマックスの銃撃戦の舞台となった家とよく似てる。
回り階段の感じとか。

マルタを演じるのはレイチェル・ワイズ。なんか久しぶりに見たが、この映画では彼女がポイントゲッターと言ってもいい。
この場面から先は、アーロンとマルタ二人の逃亡劇となってく。
マルタな様々な危機的局面で、ただアーロンに守られるわけではない。
「私はただ研究をしてただけ」と及び腰だった彼女が、だんだん腹くくって逞しくなってく様子を、レイチェル・ワイズは情感こめて演じてる。
「逃げて!アーロン!」
と叫ぶ場面はよかった。声が凄かったね。

NRAGの統括責任者リックを演じるのはエドワード・ノートン。
指令室から一歩も出ることなく、アーロンたちを追いつめてく。
身体能力と、情報伝達能力との追いかけっこは、アメリカを出て、マニラへと及ぶ。

現地の刺客である「ラークス計画」の暗殺者を、ルイス・オザワ・チャンチェンが演じる。
『プレデターズ』で、日本刀で戦い挑んでた、松ちゃん似の、あの役者だ。
俺は彼の登場に、劇場のシートで前のめりになってしまった。
今回もほぼセリフはなく、その殺気のみで演じ切ってしまうのだから頼もしい。


このクライマックスのアクションが、マニラ舞台なんで、どことなく香港映画の無茶なアクション演出にカブる感じで、その感触が楽しかった。
ここでヒートアップさせて、辻褄あわせようみたいな意図を感じなくもないが。

そうなると、監督はトニー・ギルロイだが、功績はセカンドユニットであるアクション監督のダン・ブラッドリーにあるんじゃないか。

ちなみにダン・ブラッドリーはリメイク版『若き勇者たち』では初監督の大役を務めてる。
本国では12月公開だが、今回では侵略してくるのが、はっきり北朝鮮となってる。
アメリカ本土を侵略するような軍事力があるとも思えないが。

2012年9月30日

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『ハンガーゲーム』は併行世界のアメリカ [映画ハ行]

『ハンガーゲーム』

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ジェニファー・ローレンスが予め主役を演じることを当て込んでたわけではないだろう、にも関わらず、不思議なくらいに、『ウィンターズ・ボーン』とリンクするような内容だった。


『ハンガーゲーム』の舞台は、もとはアメリカであった全体主義国家パネム。
キャピトルという支配者層が暮らす都市があり、その都市の繁栄に寄与させるため、国土を12の地区に分け、住人たちは異なる産業に従事している。

74年前に、大規模な反乱戦争が起こり、12地区の住人が一斉に蜂起した。
だがキャピトルはそれを鎮圧し、再び全土を統治すると、国民に絶対的な服従を課すために、毎年恒例のイベントを催す。

12地区に住む、12才~18才までの男女それぞれ各1名づつが抽選で選ばれる。
これは「刈り入れの日」と呼ばれ、地区の住人はその抽選の場に集められる。

選ばれた24名はキャピトルに送られ、「競技場」の中で、生き残りを賭けて闘うことを強いられる。
広大な森林地帯で、僅かな武器を手に、飢えに晒される「ハンガーゲーム」。

勝者は他の23名との闘いに勝ち残った1名のみ。
その勝者と、勝者の出身地区は相応の富を手にできる。

そのゲームは12地区全土に生中継され、国民は見ることを義務づけられてる。
それは強大な国家の力を見せつけるためでもあり、反面、臨場感たっぷりの娯楽として提供することで、搾取され続ける国民の鬱憤に対する「ガス抜き」の作用として働いてもいた。
そういう世界観の設定になってる。


ジェニファー・ローレンス演じるカットニスは、抽選で選ばれた12才の妹に代わって、自分が「ハンガーゲーム」への参加を志願する。

カットニスは、石炭産業に従事させられてる「第12地区」の出身で、父親は炭鉱の事故で命を落とし、母親はそれ以来、生きる気力を失ってる。
妹の面倒はカットニスが見てきたのだ。


『ウィンターズ・ボーン』でジェニファー・ローレンスが演じるリーという少女は、ミズーリ州オザーク山地の村に住む、貧しい白人一家の長女だ。

父親は失踪していて、母親は同じように廃人同様となってる。
長女のリーが幼い弟と妹の面倒を見てる。
狩りの方法や、獲物の捌き方も教えてる。
カットニスも弓の名手で、狩りの技術に秀でてる所も似てる。

リーは、家を抵当に入れたまま失踪した、父親の行方を探るのだが、土地を支配する一族の掟の前に、自らの身も危険に晒すことになる。

ウィンターズボーン.jpg

ミズーリ州のこのあたりには、かつては炭鉱もあり、石炭産業で栄えたことがあったようだが、
『ウィンターズ・ボーン』で描かれるこの土地には、さしたる産業もなく、住人たちの多くが、一族が仕切る麻薬の製造に関わってるという設定になってた。

『ハンガーゲーム』での、全体主義国家で、炭鉱労働に従事させられる、貧しい「第12地区」の描写と、自由主義国家アメリカの現在の、ミズーリ州の山村の生活が、さして変わらないように映るのが皮肉だ。


『ハンガーゲーム』では意図的に、国民たちの着る服などが、古い時代のものになってる。
『怒りの葡萄』とか、あの大恐慌時代の頃の雰囲気だ。
女性の簡素なドレスとか、若い男の髪の撫でつけ方とか。
『ハンガーゲーム』はSFではあるから、遠い未来の話とも思えるし、だが時代設定がされてないので、「併行世界」という設定と捉えることもできる。

第2次大戦で、アメリカもまた核の惨禍を浴び、国土が焼き尽くされ、その後に全体主義国家として統治されるという。

この映画は2012年に製作されてるが、そこから映画の「74年前の反乱戦争」に沿って年表を遡れば、
1938年という「第2次世界大戦」前夜に合致する。
国民の服装を鑑みても、「あり得たかも知れないアメリカの現在」という解釈も可能だろう。


深作欣二監督の『バトル・ロワイヤル』との類似も指摘されてるが、あの映画は、いきなり中学の教師に「今日はみなさんに殺し合いをしてもらいます」
と宣言された生徒たちが、否応なく生き残りをかけたサバイバルの場に放り込まれてた。

この『ハンガーゲーム』の場合は、少年少女たちにとって、極端化された「通過儀礼」のように見えたりもする。
カットニスという一人の少女に焦点を合わせることで、彼女の心の葛藤を捉えていくのだ。
カットニスはもちろんゲームの残酷さをわかってるし、参加だってしたくはない。
だがやる以外に選択肢はない。

キャピトルに送られる過程で、今までの貧困生活では経験したことのない世界を垣間見ることになる。
「戦士」としてキャピトルの観衆の声援を浴びる。
煌びやかなドレスに化粧を施され、少女はその興奮に揺れる。
誰からも顧みられることもなかった自分が、注目を浴びる存在になってるのだ。

印象的な場面がある。カットニスが、審査員の期待値を得点に換算するための、デモンストレーションに臨む。
カットニスは得意の弓を的に放つが、審査員たちは飲食にかまけて、まるで見ていない。
そこでカットニスは、審査員席に弓を向け、料理を射抜いて、ド肝を抜かせる。
無関心に対する怒りの一矢だった。


「通過儀礼」と書いたのは、よく昔「驚異の世界」とかいうドキュメンタリー番組が放映されてて、未開の部族たちの村の慣習で、成人の儀式なんかを紹介してた。
バンジージャンプの元祖みたいなことをさせられたりね。
その意味するところは、
「この試練を乗り越えることができれば、お前を一人前の大人として認めてやる」
という、大人社会からのお墨付きのようなものだ。

だがそれが成立するためには、若者にとっての「大人社会」が畏れを抱く、絶対的な価値観として存在してなければならない。

目上の者から生きる知恵を授かり、社会の規範を叩き込まれる。
今でもそういう「小さな村社会」の集合体として、生活を営んでる人たちは、この地球上に存在してるだろう。
だが先進国といわれる国にそれはない。
ないというより、なし崩し的に、そういった慣習が消え去ったということだ。

規範意識の希薄な大人たちが形作った社会で、少年少女たちは、なんのハードルも課されることなく、20才になれば「はい成人おめでとう」と言われる。
「これからは酒もタバコもOKです」
って、そんなもん中学の頃からやってるよ、たいがい。
20才というのは、19才の翌年にはなるものという意味合いしか持たない。

よく成人式で騒ぎ起こしてるのが、ニュースで流れてて「バカだなあ」とは思うが、一方で形骸化した
「成人の儀式」に、苛立ちを感じてる部分があるかもなとも思う。
市長が出てきて訓示垂れたって、「だからなんだよ」という気分だろう。

「これを乗り越えたから大人と認める」というハードルがない。
逆にいえば「お前は20才かも知れんが、大人とは認められない」
と言われることがあってもいいんじゃないか?

もちろんそんな事を言った所で、具体的な「通過儀礼」なんて、成立しようもない。
「徴兵制度」がその役を成してはいないことは、お隣の国を見ればわかることだし。

アメリカの十代の観客の大きな支持を受けて、この『ハンガーゲーム』が大ヒットしたという背景には、もちろん原作小説の内容の奇抜さとか、あるだろうが、主人公のカットニスが、過酷な試練に晒される、その過程を我が身に置き換えて、感情移入できるからではないか。


それは「通過儀礼」というものに対する、ある種の憧れだ。
カットニスが審査員の無関心に、怒りの矢を放った場面には、自分が成人しようがしまいが、大人は関心を持ってくれない、という事への、少年少女たちの苛立ちが込められてるように映った。

この映画が『バトル・ロワイヤル』のような、殺伐とした子供たちの殺し合いを、正面きって描かずに、カットニスの行動と心の動きにフォーカスしてるのは、そういう理由によるものだろう。

殺しあう描写はあるが、残酷さは抑えられてる。
なのでセンセーショナルな内容を期待すると肩すかし食らう。

キャストに関しては、とにかくジェニファー・ローレンスで支えられてる映画だ。
最初からシリーズ化が決まってたようだが、もし彼女が降板するなんてことになったら、相当しょぼくなってしまうだろう。
監督のゲイリー・ロスは、この1作目を大成功に導いたにも関わらず、続編の監督を辞退してる。

2012年9月29日

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もう三谷幸喜より内田けんじかも [映画カ行]

『鍵泥棒のメソッド』

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35才の売れない役者・桜井は、ボロいアパートの一室で首を吊るも失敗に終わり、体は汗だくだし、とりあえず銭湯のタダ券があったので、汗を流しに出かける。

一方その前の晩、とあるアパートの前に車を停めた男が、カーステレオでベートーヴェンを聴いている。
腕時計のアラームが鳴ると同時に、アパートの玄関から会社員風の中年男が出てくる。
車の中の男は雨がっぱにマスクとサングラスをつけて、車を降りる。
中年男が車の後ろを横切ろうとした瞬間、男はナイフで腹を数回刺して、そのままトランクへ放りこむ。
返り血を浴びた雨がっぱとナイフをビニール袋にすばやくしまい、男は車を出す。
物陰からその一部始終を見てた若い男がいた。


翌日、男は映画撮影の渋滞に巻き込まれていた。
苛立ってふと腕時計に目をやると、腕に返り血が残っていた。
うんざりして外に目を向けると、銭湯の煙突が見えた。

桜井と同じ時間に、ヤバい仕事を終えた後の男が、銭湯にやってきて、桜井の隣りのロッカーに、分厚い財布を入れた。
桜井は先に体を洗ってたが、隣りのじいさんの石鹸を拝借しようとして、手で払われた。
その拍子に石鹸は床を滑っていき、丁度入ってきた男がそれを踏んで、転倒して頭を強打。
その拍子にロッカーの鍵が桜井の足元に。

風呂場は騒然とし、桜井はとっさに、自分のロッカーの鍵とすり替えた。
救急隊員が男を運び出し、ロッカーから所持品を持って行った。それは桜井の物だった。
桜井は周りに人がはけてから、男のロッカーの鍵を差し込んだ。
黒の上下のスーツに、黒のネクタイ。車のオートキーもあった。

銭湯の外に出て、キーを押してみると、「プイプイ」と音を立ててるのは、見るからに高そうな、クライスラーだった。


翌朝クライスラーで桜井は方々を回り、借金をしてた相手に金を返して回った。
もちろんその金は、頭を打った男の財布に入ってたものだ。

最後に向ったのは元カノのアパートだった。
桜井は一時はそこに一緒に暮らしてたのだ。
彼女にも借りてた金を返した。彼女は結婚相手とともに、アパートを出るところだった。
桜井と一緒に写ってる写真が残ってると、ゴミ袋からかきだして渡される。
桜井は車の中で、その思い出の写真を見ながら泣くと、写真を外に放り捨てる。


病室にいる男を、桜井は様子を伺いにやってきた。
紙袋には男の私物である腕時計やスーツが入ってた。

寝てる男のサイドボードの上に、自分の私物が置かれてる。
そっと手を伸ばそうとして、急に男に手を掴まれ、桜井は動揺する。
だが男は何も憶えてないようだ。

ふいに「桜井武史」と呼ばれ、桜井はビクッとなる。
「いや、それが私の名前らしいんですが…」
男が手にしてるのは、桜井が銭湯の行きがけにポストから抜き取った、税金の督促状だった。
その宛名を見てるのだ。
桜井は「あの時銭湯にいたんで、様子を見にきただけで」
と言い、男の私物が入った紙袋を再び持って、病室から立ち去った。


同じ病院の別の病室に香苗はいた。
母と姉とともに、父親の見舞いに来てたのだ。

何事につけ几帳面な性格の香苗は、恋には臆病で、彼氏ができない。
だが病床の父親は、香苗の花嫁姿を生きてるうちに見たいと願ってる。
雑誌社で編集長をしてる香苗は、編集部員の前で結婚宣言をしてた。
相手探しに協力してほしいと。
「健康で、努力家の方なら」という条件だった。

男は退院できることになったが、自分が何者かわからない。
少ない所持金の中からノートとペンを買い、手掛かりになることを書き上げていった。
几帳面さが感じられる筆致だった。

編集部員がセッティングしてくれた合コンに参加するため、母と姉とは、病院の前で別れた香苗。
そこに後から出てきた男が声をかけた。
税金の督促状に書かれた、宛先の住所の方角がわからないと言う。
30分はかかるという道を、歩いて行こうとする男の後ろ姿に、香苗は
「私、車ですけど」と声をかけた。


桜井は男の免許証に書かれてるマンションの前にいた。
免許証の名前は「山崎」となってた。
山崎が記憶喪失に陥ってることは思いがけなかった。

桜井は山崎の部屋に入って、自分のアパートとのあまりの違いに目を見張った。
だが罪悪感に苛まれ、目の前にあったビデオカメラに、謝罪のメッセージを残した。
その後、何気なくクローゼットを開けて、呆然となった。

あらゆる種類の服や、カツラ、盗聴グッズ、なにより山崎は、夥しい数の偽IDをファイリングしていた。山崎という男は詐欺師なのか?

本を模った箱に目が留まった。中を開けると、拳銃が隠してあった。
もとより自殺しようとしてた桜井だ。
いっそこの場でと、拳銃をこめかみにあて、引き金を引こうとした瞬間、ケータイの着メロが鳴り、ビビッて拳銃を落としてしまう。
鳴ってるのは山崎のスマホだった。おそるおそる通話ボタンを押す。

「コンドウさんですか?」
この相手は山崎のことをコンドウだと思ってる。
「ギャラを支払いたいんですが」
「ギャラって?…いくら?」
「500万です」
「場所を指定してもらえれば、そこに置いておきます」
桜井は少し考え、自分のボロアパートのポストを指定した。



俺はこの映画を見に行って、パンフを買い、見終わった晩にパンフを読んだ。
このパンフは最近のものには珍しく、「シナリオ再録」が掲載されてる。
これは映画のシナリオを、そのまま書き写したもので、これにじっくり目を通した。
映画で見落としてた細かい伏線というか、小道具的な要素を、読んで気づかされ、もう一度見に行ったのだ。

すると内田けんじ監督の脚本の周到さがより明確に伝わってきて、1回目に見た時よりも、結末などはジンときてしまった。
これは筋がわかってても、2度見た方がより楽しめると思う。
もちろん映画の中の山崎なみに、観察力の細かい人なら、一度ですべての伏線に、神経を行き届かせることが可能だろうが。


ボロアパートに住んでる桜井に、否応なしに入れ替わられた山崎が、桜井のアパートの部屋に残った所持品から、自分がどういう人間なのかを探っていく。

香苗も記憶喪失の山崎に興味を抱いて、一緒に手掛かりを探してくれる。
無名の役者だったようだと見当がつき、カレンダーにあった、エキストラ出演の日に、現場に行ってみる。
そして次第に演技というものに興味を抱いていく。


香川照之は、記憶喪失に陥りながら、悲観することなく、自分が何者なのかを手探りしつつ、その過程で人生の情熱めいたものを見出していく、そういうキャラクター像を、非常に的確に表現していて、その抑えた演技の中に、ほのかな可笑しみをたたえた按配が見事だと思う。

一方の桜井を演じる堺雅人は、行き当たりばったりの人生が行き詰ってしまった、売れない役者というキャラを、すねたユーモアで表現してる。
香川照之のような細密さの感じられる演技ではないが、これは役どころが、くっきりとした笑いを取らなければならないという部分があり、「持ち場」の違いということだろう。


売れないなりに「演技」を仕事としてきた桜井が、「コンドウ」という名の殺し屋に、実際に扮しなければならなくなる。
一方、実人生でいくつもの偽の名前を演じてきた山崎が、役者という「役を演じる」仕事に打ち込んでいく。
本当の自分ではない誰かを演じる二人の男に対し、香苗は男の本質を見極めようとする。

「健康で、努力家の方なら」というのは、見た目は問題ではないのだ。
金のあるなしでもない。
この几帳面で融通は利かなそうだが、真っ直ぐに人を見ることができる香苗を、広末涼子が役にハマったように見事に演じてる。
彼女の映画をそんなに見てるわけではないが、見た中では一番いいと思う。

殺し屋「コンドウ」に仕事を依頼した工藤を演じてるのが荒川良々だ。
いつもは出てくるだけで笑いを誘うようなルックスの彼が、ヤクザ者を演じ、静かな口調でドスを利かせてる。あの顔が逆に凄みを感じさせ、誰も笑ってない。
ただ1カットだけ、彼ならではの表情が一瞬見れるので、そこはホント可笑しい。


ここから先はイチャモンみたいなもので、これを書いたからといって、いささかも映画の面白さに影響はないとは思う。

山崎は殺し屋「コンドウ」を名乗って、工藤のような人間から依頼を受けてるという設定だ。
実はこれにも裏があるんだが、いずれにせよ、殺しを依頼した側は、殺しの証拠を求めると思うんだよな。証拠もなしに口頭だけで、報酬の支払いはしないだろう。
そこを「コンドウ」はどうしてたのか?その描写がない。
映画を見ればわかるけど、いくら周到な山崎でも、あの「仕事」の仕方が成立するだろうか?とは考えてしまう。

あと、小道具がほとんど伏線として機能してたけど、桜井が山崎の部屋で謝罪メッセージを録画した、あのビデオカメラ。
あれが後半のどこかで使われるのかなと思ってたが、スルーされたんでそこは残念だった。
些細なことではある。

2012年9月27日

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クリスチーナ・リンドバーグの映画にステランが [映画ア行]

『異常性欲アニタ』

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この映画は1973年のスウェーデン映画で、アット・エンタティンメントから発売されたDVDのタイトルは『クリスチーナ・リンドバーグinアニタ』だが、1976年にポルノ映画として日本公開された時の題名が『異常性欲アニタ』なのだ。

クリスチーナ・リンドバーグは、1971年に21才で主演した『露出』が日本公開され、ロリ顔のポルノ女優として一躍人気を博した。
東映に招かれ『不良姐御伝 猪の鹿お蝶』と『ポルノの女王 ニッポンSEX旅行』に出てる。

ステラン・スカルスガルドは、この『異常性欲アニタ』の準主役として、22才の時に出演してる。
クリスチーナより1つ年下だ。

映画の中身自体は、クリスチーナはポンポン脱いではいるが、ヘアが見えるという程度で、SEX描写もおとなしいもの。だがこれでも当時は「ポルノ映画」として製作されてたのだろう。

ステランは「ニンフォマニア」のクリスチーナの力になろうとする、心理学専攻の学生を演じてる。
整った顔をしてはいるが、なんというか、のっぺりした感じで個性に欠ける。

彼が役者として注目浴び始めるのは、日本では「北欧映画祭」でのみ上映された、1987年の『ヒップ・ヒップ・フラ!(原題)』あたりからで、30代後半になって、表情に陰影が帯びるようになり、「いい顔」になってきたということだろう。

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クリスチーナ・リンドバーグ演じるアニタは、16才なんだが、とにかく男としたいという欲求が抑えられない。
彼女が住んでるのは、スウェーデン第2の都市イェーテボリで、この町は昨年のTIFFのコンペ出品作
『プレイ』でも舞台になってたが、空港やら駅やらで男に声をかけては、コトに及んでるのだ。

アニタはただ「やりたい」だけなので、金を受け取るわけでもない。
なので「本職」の女たちからは目の仇にされてる。

男なら年齢も職業も問わない、どうやら自分が通ってる高校の教師の相手もしてるという、そういう意味では偏見を持たない「いい娘」ではあるんだが、毎日そんなことしてるんで、とっくに町の有名人になってる。
場所がないと、工事現場のテントの中でも済ますというのが凄い。

アニタの父親は出世欲バリバリの軍人で、母親は常に厚化粧。
妹はアニタに言わせると
「親の機嫌取りのうまい、偽善者」
だが裕福な家庭でなぜ彼女だけがそんなことになってしまったのか?

父親はアニタに「お前は家族の恥だ」
と言い放っておきながら、軍の高官たちを招いたホームパーティでは、娘たちにドレスを着させて、歌を唄わせる。
妹は引っ込み、アニタが「歌の次は踊りを」と言って、高官たちの前でストリップを始める。
もちろん高官大満足だ。
娘にそんなことさせといて、家族の恥とか、もう無茶苦茶でござりますがな。


ステラン演じるエリックは、偶然町でアニタとぶつかって怪我をさせたことで、治療のため、アパートに招く。そのアパートは、彼がリーダー役となってる、学生たちの楽団が共同生活を送ってる。
アニタはエリックの部屋でさっそく迫るが、エリックは断る。
行為を拒んだ男は初めてだったので、アニタはエリックを信頼するようになる。

心理学を専攻してたエリックは、彼女の身の上話を聞きながら、アニタが
「ニンフォマニア」(色情症)という病気であると判断する。
アニタは男とやりたくはなるが、性的満足は得られない。した後はいつも自己嫌悪に沈む。
エリックは彼女に
「オーガズムを感じたことは?」
と尋ねるが、アニタは首を振る。

アニタの欲求の根本には、両親からの精神的虐待がある。
頭のいい妹が贔屓され、自分は疎まれてる。
アニタが男と寝て回ってることが表沙汰になるほどに、両親は不快になり、そのことがアニタの溜飲を下げさせることになる。
だが同時に「達しない」SEXでは自己嫌悪を繰り返すばかりで、負のスパイラルからは脱け出せない。

エリックはアニタに課題を科した。
「まずは方法は問わないから、オーガズムを体験することだ」


ってそんなんでいいのか?ステランと思うんだが、アニタは素直な子だから、言われた通りにするわけです。
相手が一人だったから駄目だったのかもと、怪しいアパートに潜んでるイタリア人やらスペイン人やら、そういった男たちの前で裸になって、試してみたり。
だが翌日、警察の手入れが入り、男たちが連行されると、参考人として検事のオフィスに連行され。

「私はたまたま行っただけなのに」
と検事の秘書みたいな女性に慰めてもらう内に、
「そういえば女と試してなかった」ということになり。
レズシーンといっても裸になるだけだったが。

そうこうしてる内に「ストリップ劇場」で踊ってるアニタ。
学生たちの共同生活のアパートでも、男子学生と片っ端から及んでしまったため、女子学生の怒りを買い、それがもとで、アパートを出て行ってしまったアニタ。
エリックはいつしか彼女を愛し始めていて、彼女を探し回り、ようやくストリップ劇場の楽屋で再会するのだった。

「ニンフォマニア」という病気は、マイケル・ダグラスも発症してたくらいで、本人としちゃ、その辛さがわかってもらいづらい、しんどさがあるようだ。
この映画はそのあたりを「ネタ」としてでなく、シリアスに描こうという意図があり、「ポルノフィルム」というより「映画」として撮ってる感じはあった。

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クリスチーナ・リンドバーグは演技がヘタというわけでもないが、今年集中して見た「日活ロマンポルノ」で出会った日本の女優たちが、いかに海外のポルノ女優に比べて、肌がきれいで、演技もできてたかというのが、逆にわかったりもした。

アット・エンタティンメントのDVDを見たんだが、フィルムが悪いね。
この手の映画にニュープリントなんてコストかけてられんということなんだろ。
ニュープリントならクリスチーナの肌ももう少し奇麗に映ったのかも。

この映画で一番の見せ場は、クリスチーナが男の前で、パンティを両手でグッと引き上げて「パチン」と引き千切っちゃう所。
あんなんで切れちゃうもんかな。なんか「仕事師」みたいでカッコよかったが。

2012年9月26日

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『ロック・オブ・エイジス』観るなら立川一択! [映画ラ行]

『ロック・オブ・エイジス』

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「トム・クルーズ映画」として売れるわけではないから、シネコンの「箱割り」も最初から消極的で、公開の週末でも大きなキャパを割り振ってる所がほとんどない。
しかし、お祭り騒ぎ的なロック・ミュージカルなんだから、ちんまりと眺めるんじゃ楽しくない。

そんなわけで、東京都市部とその近郊で、『ロック・オブ・エイジス』を見るとすれば、
「立川シネマシティ」の「シネマ・ツー」というシネコンが、望みうる最高の環境ということになる。

見てきた後だからそう断言できるので、実際このシネコンは初めて利用したのだ。
立川という立地が、ウチからだと、ちょっとした遠征モードの距離にあり、今まではこれといった割引制度もなかった。
そこに有料会員システム「シネマシティズン」がスタートし、これは年会費1000円で、
入場料がいつでも1300円になるというもの。

それに今回の『ロック・オブ・エイジス』は、「ミュージカル映画」6本を連続上映する
「極上音響上映」というプログラムに組み込まれており、平日だと会員は1000円で見れるのだ。
「シネマ・ツー」にある5つのスクリーンは、「studio」という呼称となっており、ここ独自の音響調整卓を駆使した、サウンドシステムが売りとなってる。
レコーディング・スタジオの音の再現を目指してるという。

この日は3番目のキャパの「studio C」での上映で、スクリーンはさほど大きくないが、音は抜群にいい。
やたらとデカい音で鳴らすわけではなく、細かいニュアンスの音までクリアに耳に届く。
低音はもっとシートにズンズンきてもいいなとは思ったが、F列のド真ん中に陣取って、堪能し尽した。
1000円だし、足代かけても、また見に行きたいくらいだ。
シネコン時代が到来して、映画館の音響は飛躍的によくなったとは思うが、それにしても「音楽もの」を、こんないい音で味わえるとは、なんといい時代になったものか。

言っとくが映画の中身は「ない!」
『バーレスク』やら『コヨーテ・アグリー』やら、あのあたりと寸分変わらない。


ヒロインのシェリーが、オクラホマの田舎から、夜行バスでハリウッドへと向う。
その車中でたそがれながら、ナイト・レンジャーの『シスター・クリスチャン』を彼女が口ずさむと、他の乗客や運転手が、先を唄い継いでく。

サビの部分は車内で大合唱。そう、ミュージカルだから、これでいいのだ。
この導入部でもうグッとこさせるものがある。

シェリーがバスで降り立った1987年のサンセット・ブルヴァード。
伝説のライヴハウス「バーボンルーム」の向かいで引ったくりに遭い、呆然とする彼女に、店の下働きをしながら、ロックスターを夢見る青年ドリューが声をかける。

「困ってるならウチの店で雇ってくれるかも」
夢を叶える者、破れる者、無数の若者たちを見てきた中年オーナーのデニスは、シェリーのやる気を見込んで、ウェイトレスとして雇う。


折からこの店も経営は苦しく、新市長夫人のパトリシアが先頭切って、青少年への害毒と、ロックやライヴハウスを駆逐する活動を激化させてる。
デニスの店を救う唯一の頼みの綱が、ロックのカリスマ、ステイシー・ジャックスのソロ・ライヴの開催だった。
人気も落ち目となってきたステイシーは、自らのバンド「アーセナル」を解散して、ソロで巻き返しを図ろうとしていた。


シェリーとドリューは、同じ環境で働くうちに、気持ちも近づいてくる。
ロスの夜景を一望できる「HOLLYWOOD」の大看板のある丘で、ドリューはシェリーに捧げる曲を弾き語り、二人は同じ夢に向う恋人同士となる。

ステイシーのソロ・ライヴを真近に控え、前座バンドが急に舞台に立てなくなり、デニスはドリューのバンドに白羽の矢を立てる。
シェリーからの強力なプッシュもあったのだ。

ドリューのリハを嬉しそうに眺めるシェリーに、同僚のウェイトレスは
「別れを言うなら今のうちよ」
「スポットライトを浴びると、男は変わってしまう」


ライヴ当日、「バーボンルーム」にやってきたステイシー・ジャックスはシラフではなかった。
というよりシラフでいる時間など無いに等しかった。
ロックへの情熱も失せ、人間不信とニヒリズムとアルコールの混沌の中に漂っていた。

ライヴ前に「ローリングストーン」誌の女性記者コンスタンスが、インタビューにやってきた。
ステイシーは一方的に4分間と指定し、いい加減な物言いでやり過ごす。
だがコンスタンスは別れ際に、ステイシーに今の凋落っぷりを、面と向って突きつける。
「イエスマン」と取り巻きの女以外、周りに誰もいなかったステイシーは、彼女の忌憚のない物言いにグッときた。

前座のステージを控えたドリューは、シェリーがステイシーの楽屋から出て来たことに衝撃を受けた。
シェリーはワインを頼まれて運んだだけだったが、彼女の後からステイシーが股間を押さえながら出てきたことで、ドリューはすっかり勘違いした。

ライヴでその鬱憤を激しいロックナンバーで叩きつけ、オーディエンスの喝采を浴びる。
ステイシーのマネージャー、ポールは、落ち目のカリスマに代わるスターの原石を見出した気分だった。
ステージを降りたドリューは、駆け寄ってきたシェリーに冷たく言い放つ。
「君がいなくても、女はいくらでもいる」
シェリーは、あの言葉通り、ドリューがスポットライトを浴びて変わってしまったのだと思った。


シェリーは店を辞めると告げ、失意の中で、ダンスクラブのママに拾われる。
そこは女たちが艶かしい衣装で、ポールダンスを踊る「ヴィーナス・クラブ」という大人の遊び場だった。
シンガーを目指していたはずのシェリーは、ポールダンスのステージに立つことに。
ポールとの契約にサインしたドリューだったが、レコード会社には、もうロックは売れないと言われ、ヒップホップを取り入れた「ボーイズ・グループ」に衣替えさせられる。

同じ夢を見てたはずのシェリーとドリューは、どちらからともなく、あのロスを見下ろせる丘に足を運んだ。ダンサーとポップアイドル。再開した二人に笑顔はなかった。


シェリーとドリューの恋の行方は?二人の夢は叶うのか?
ステイシーはもう一度ロックへの情熱を取り戻せるのか?
そして「バーボンルーム」の危機は回避できるのか?

まあミュージカルなんで、すべてハッピーエンドにまとまるわけだが、この際ストーリーはどうでもいいのだ。
だがどうでもいいと思って楽しめるのは、80年代の洋楽を浴びるように通ってきた世代だろう。
『ベストヒットUSA』を毎週見てたようなね。
『ダーク・シャドウ』が「70年代洋楽世代向けエクスプロイテーション」だとすれば、この映画は
「80年代洋楽世代向けエクスプロイテーション」以外のなにものでもない。


トム・クルーズは特別出演扱いみたいになってるが、意外に出番が多く、主演といっても差し支えない目立ちっぷりだ。ほとんど上半身裸だし。

デフ・レパードの『シュガー・オン・ミー』や、ボン・ジョヴィの『ウォンテッド・デッド・オア・アライヴ』など、歌唱も含めてステージパフォーマンスは堂に入ってる。
ステイシーとコンスタンスが、ちょっとハレンチに絡む場面では、フォリナーの『アイ・ウォナ・ノウ』を唄い上げてる。

新市長夫人のパトリシアを演じてるのはキャサリン・ゼタ=ジョーンズ。パット・ベネターの
『ヒット・ミー・ウィズ・ユア・ベスト・ショット』を彼女が唄い踊る場面は楽しい。
『シカゴ』仕込みといおうか、ダンスさせると途端に精彩放つ感じで、パンチラのサービスまである。

パット・ベネターではもう1曲『シャドウズ・オブ・ザ・ナイト』も使われてた。
これは好きな曲なんで嬉しかったね。
シェリーが初めてポールダンスのショーを見る場面で、クォーターフラッシュの『ミスティー・ハート』とのマッシュアップ(2曲を紡ぐようにアレンジする)として唄われてた。

このマッシュアップという手法では、フォリナーの『ジュークボックス・ヒーロー』と、ジョーン・ジェット&ザ・ブラックハーツの『アイ・ラヴ・ロックン・ロール』とか、
スターシップの『シスコはロックシティ』とトウィステッド・シスターの『ウィア・ノット・ゴナ・テイク・イット』など、歌詞も場面に合っており、創意工夫のあとが偲ばれる。
大ラスのジャーニー『ドント・ストップ・ビリーヴィン』まで、80'Sに浸りっぱなしの2時間だ。


シェリーを演じるジュリアン・ハフは、ポールダンスではグラマラスな肢体も見せて、ヒロインを熱演してる。

だが面白いのはドリューを演じたディエゴ・ボネータの方で、ああいうカーリーヘアのロックシンガーが、80年代って感じが出てたし、途中で髪を切らされ、ボーイズ・グループを演らされるんだが、それがまたハマってる。
ニュー・エディションとかのパロディだろうが、キャップと、極彩色のジャンパーがすごい。
二人とも歌は普通に上手い。

アレック・ボールドウィンと、ラッセル・ブラントが、REOスピードワゴンの『涙のフィーリング』でカミングアウトする場面は「それ放りこまんでも」と思ったが。


70年代後半から80年代へ、すでにロックは、体制に対する反抗のシンボルとか、社会的なムーヴメントを牽引するものではなくなり、その概念も形骸化して、「産業ロック」と揶揄されるようになっていた。
『ロック・オブ・エイジス』はその時代の空気を「から騒ぎ」のように皮肉ってもいるんだが、映画のストーリーが陳腐であっても、その時代や音楽ビジネスが空虚なものだったとしても、ここに流れる楽曲はそれらを凌駕して、「やっぱりいい」とテンション上げてくれる。

俺はそこんとこに、消費されてるだけと思われてる、ポピュラー・ミュージックの凄みがあるんじゃないかと感じる。
つまり背景にある安っぽさとか、売れれば官軍みたいな姿勢とか、そんなことは耳馴染んだ曲の、着心地のよさの前では、些細なことでしかなくなるのだ。

だからこそ、この映画は「世代」を選ぶことにもなるだろう。

2012年9月25日

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架空のバンドドキュメンタリーが斬新 [映画サ行]

『スパイナル・タップ』

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近々に封切られる新作で断トツに見たいのが『ロック・オブ・エイジス』だ。
トム・クルーズがカリスマ・ロックシンガーを演じてるという例のヤツだが、楽曲がほとんど、
1980年代の「産業ロック」系で固められてるというんだから、これは観客を選ぶだろうな。

本国アメリカではすでに「ラジー賞」の有力候補なんて言われてるらしいが、ラジーだかオジーだか、そんなこたぁ問題じゃない。

その高鳴る期待を胸に、露払い的に見るには最適と思われるのが
『スパイナル・タップ』だ。
ロブ・ライナーの監督第1作となる1984年作。

日本では劇場未公開に終わったが、ビデオがエンバシーから出てた。
廃版となり、しばらく経ってようやくDVD化されたのだ。


ロブ・ライナー自身が出演していて、スパイナル・タップという「架空」のロックバンドの、久々の全米ツアーに同行取材するという設定になってる。
いわば近年流行りの「モキュメンタリー」のはしりともいえる。

時代設定は1982年だ。スパイナル・タップは、デヴィッドとナイジェルの幼なじみ二人を中心に、1960年代半ばに、イギリスで結成された。
当初は「ザ・テムズメン」というバンド名で、ビートルズのフォロワー的な音を出してた。
当時のテレビ番組の演奏シーンが映るが、これももちろん作りこんだ映像だ。解像度の落ちたモノクロの画像がリアルに再現されてる。

その数年後には「サイケサウンド」に乗りかえ、ドノヴァンみたいなヴィジュアルで愛を唄った。
その後も時節を眺めつつ、節操なくスタイルを変えながら、アラフォーとなった現在は、ハードロック・バンドを名乗ってる。
彼らによると、計37人ものメンバーの出入りを経て、現在の5人になったという。

スパイナル・タップにはジンクスがあり、過去にドラマーだけが、相次いで変死を遂げてる。
一人めはガーデニングの最中に突然死し、別のドラマーはステージの演奏中に爆死して、緑色の液体が残されたという。


そんな彼らのライヴを見ると、ある時はチープ・トリック、ある時はシン・リジィ、またある時はブラック・サバス、そうかと思えば初期カンサスやスティクス風と、よく言えば何でもあり、でなければ一貫性がない。

70年代にはアルバムも売れ、全米ツアーもアリーナクラスの会場を回ったが、今回久々のニューアルバムを引っさげてのツアーは、前回の10分の1のキャパがほとんどで、人気の凋落ぶりは否めない。

しかもアルバムは完成して、タイトルも「手袋の匂いを嗅げ!」に決まってるのに、仕上がったジャケに、レコード会社が難色を示して、リリースできないでいる。

ハードロックにエロは不可欠と、首輪をはめて四つん這いになった女の、綱を引っ張る男が、手袋をはめた片手を、女の顔に押し付けてるというジャケだった。
デヴィッドもナイジェルも、その程度で猥褻ってことないだろと思ってる。

そして妥協策が示され、できたアルバムは真っ黒だった。
「顔が映るくらい真っ黒だぞ!」
プリンスの『ブラック・アルバム』を先んじたジャケとなったわけだ。


しかしアルバムの売れ行きはさっぱりで、大都市でのライヴは、キャンセルが相次ぐ。
意趣を凝らしたステージセットも裏目に出る。

『SF/ボディ・スナッチャー』みたいな繭の中から、デヴィッドとナイジェルとベースの3人が、イントロ部分で出てくるはずが、ベースの繭だけ開かずに、繭の中で窮屈そうにベース弾いてる。
スタッフにも開けることができず、ついにはバーナーで燃やし始める始末。

そうかと思えば、ナイジェルが作曲した壮大な組曲のために、巨大なストーンヘッジのはりぼてを発注したのに、ステージに下りてきたのは、パイプ椅子くらいの背丈しかなくて、もはや何を表現してるのかすらわからない。


この全米ツアーの混迷ぶりを招いたのは、デヴィッドが恋人のジャニーンを、勝手にツアーに同行させ始めたからだ。
ジャニーンは占星術に凝っていて、妙な意見を繰り出してくる。
ナイジェルは元々ジャニーンと反りが合わず、マネージャーもキレて、バンドから去ってしまう。

ジャニーンがツアーを仕切るようになるが、いよいよローカルな方向に進んで行く。
田舎のホリディ・インで、市民劇団と抱き合わせにライヴ。
空軍基地の兵士たちのパーティで、卑猥なバラード演ってドン引きされ、ナイジェルはギター叩きつけて、そのまま脱退。
残ったメンバーでブッキングされたのは、遊園地で人形劇と抱き合わせのライヴ。
今まで曲作りを担当してたナイジェルに替わって、ベースが提案した、フリージャズ・スタイルの演奏は観客から総スカン。
果てしない負のスパイラルに陥ってくのだ。


ギターのナイジェルの妙なこだわりが可笑しい。
彼のマーシャルのアンプは、音量メモリが「11」まである。
「ふつうは10までしかないだろ?」
「このひとメモリが大きくちがうんだよ」
「他のヤツが10までの音しか出せない所を、俺はその上の世界を創造できるんだ」

インタビュアーのロブ・ライナーが
「音量の設定を変えといて、メモリは10のままでもいいんじゃない?」
するとしばし黙りこみ
「いや、それはちがうんだよ」

クリーブランドのライヴステージでは、楽屋からバックステージの通路を辿って、ステージまで行く間に迷子になる。
配線工のオヤジに道順聞くけど、またオヤジの所に戻ってしまう。
それでも「ロケンロー!」って言いながら、ステージを探してるのが笑える。
バジェットはかけてなさそうだが、多分ロック演ってる人間なら、さらにウケるような小ネタが散りばめられてそう。


いちばんの肝なのが、スパイナル・タップが「ブサイク」なバンドだということ。
正直ハードロックやヘビメタで、イケメンが揃ったバンドなんてほとんど見あたらない。
ツェッペリンとかクイーンとかチープトリックとかは、特別な存在なのだ。

だがハードロックは顔じゃない。ギターのテクがあって、ヴォーカルがシャウトできて、いい曲作れれば、それでよかったのだ。
ハードロックやヘビメタは、女より男のファンに支えられてたからだ。

俺は70年代のイギリスのバンドで、スイートがお気に入りなんだが、彼らもあれだけカッコいい曲演れてんだから、もう少しルックスがよくてもバチはあたらんだろ、というくらいブサイク揃いだった。

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逆に言えばブサイクでもスターになれるのが、ロックの世界とも言えるのだ。
ただブサイクでなければ、2割増し位には売れてるだろうが。


映画は一旦バンドを離れたナイジェルが、ライヴ前の楽屋に
「日本で俺たちの曲が売れてるらしいぜ」
と報告にきて、デヴィッドたちを送り出す場面がいい。

袖でライヴを眺めてるナイジェルを、デヴィッドが視線で招いて、ステージに立たせる。
「やっぱり俺たちこうでなきゃな!」
と盛り上がる次の場面は、熱狂に包まれる日本公演だ。


このラストの展開は、2009年に公開された、ロック・ドキュメンタリーの傑作
『アンヴィル!夢を諦めきれない男たち』のラストと奇しくもそっくりなのだ。

もう世間から忘れ去られたと感じてた、ヘビメタバンド、アンヴィルが日本のロックフェスに何十年ぶりかで呼ばれる。

その日のトップを飾る出番で、アンヴィルのメンバーは、まだ客なんか全然いないんじゃないか?と不安な表情でステージに上がると、ヘビメタファンの大歓声に迎えられるという、
「これぞハッピーエンド!」と快哉叫びたい場面となってた。

架空のバンド、スパイナル・タップと、実在のベテラン・ヘビメタバンドのアンヴィルが、同じ帰結を迎えるというのが凄い。
つまり『スパイナル・タップ』は、アンヴィルの、あの胸熱なエンディングを予言してたように思えるのだ。

2012年9月20日

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俺の星座はフォードだ。シボレーでもいい。 [映画ラ行]

『ラスト・アメリカン・ヒーロー』

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ジェフ・ブリッジスはロスアンゼルス生まれではあるが、まだキャリアの浅い1970年代前半は「カントリー・ボーイ」のイメージが強い。
この1973年作では、アメリカ南部ノースカロライナ州のストックカー・レースに、彗星のごとく現れた、稀代の「飛ばし屋」ジュニア・ジャクソン(実際の名はジュニア・ジョンソン)の若き日を演じてる。

この主人公の生き方を象徴するような主題歌がオープニングを飾る。
ジム・クロウチが歌う『アイ・ガット・ア・ネーム』だ。

「俺にだって名前がある」
それは無名の若者が、レーサーとして世の中に名を知らしめようとする野心であり、歌詞のサビの部分は
「ハイウェイを飛ばすんだ、もっとスピードを上げよう」
「人生に追い越されないように」

という、自爆も怖れない「攻め」の走りで、しばしば他のレーサーとトラブルも起こしたとされる、ジュニアの内面を映し出している。

初めてストックカー・レースへの出場を認められたジュニアが、レーサーのグルーピーとして、レース場を回ってるマージと一夜をともにしたベッドで、
「あなた星座は?」
と訊かれて答えるのが、コメント題にしたセリフだ。


ジュニア・ジャクソンの一家は、ウィスキーの密造を生業としてた。
父親のジャクソンは密造とはいえ、そのウィスキーの味には絶対の自信を持っており、地元では、密造を取り締まる側の役人たちも、その味を認めるほどだった。

ジュニアは森の中の醸造所から、出来上がった酒をボトルにつめて、夜間に車で運び出していた。
ジュニアの車は黒のフォード・マスタングで、パトカーを振り切るほどの猛スピードと、ハンドルさばきだった。
ジュニアのレーサーとしての資質は、こうして磨かれたものだった。

アメリカ南部には、密造酒作りという「伝統」が脈々と受け継がれてるようで、特に1970年代の映画では度々描かれてる。
この映画と同じく1973年作『白熱』では、バート・レイノルズが、
また1977年作『ランナウェイ』では、デヴィッド・キャラダインが、それぞれ密造酒作りに精を出してる。

1977年作『ブーツレガーツ』は同じく密造酒作りをテーマにしたサスペンス・アクションだったが、この映画は当時、年に一度開催されてた外配協による「秋の映画まつり」で上映されたのみで、一般公開には至らなかった、幻の作品だ。

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主演が『オメガマン』や『ロリ・マドンナ戦争』の脇役ポール・コスロというもの地味すぎた。
俺はその時の上映で見てるが、話の中身はほとんど憶えてないな。


話を戻すと、醸造所が摘発され、父親が1年の禁固刑に処せられる。
賄賂しだいで刑務所内の待遇もよくなると聞かされ、ジュニアはレースに出て賞金を稼ごうと思い立つ。
もともと車に詳しく、地元の修理工場にも出入りして、メカニックとしても腕の良かったジュニアは、自ら改造を施したポンコツのピックアップ・トラックで、「デモリション・ダービー」にエントリーする。


デモリション・ダービーとは、広場に数十台の車を集め、ひたすらぶつけ合って、最後まで動いてる車が優勝という、「車のバトルロワイヤル」のようなもの。

ジュニアは車に仕込んだ鉄骨を、フロントからスライドさせて、目の前の車の車体に突き刺すという荒業で、会場を大いに盛り上げるが、興行主は違反だと難癖をつけ、賞金からさっ引いた。
ジュニアは、こんなケチなレースはしてらんないと、ストックカー・レースへの出場を目指す。

中古のレースカーを3000ドルで譲り受けたジュニアは、自分でエンジンを組み立て、レース出場の条件を満たした。
ゴールを競うレースカーは、ほとんどがスポンサーのついたメーカー製の車体で、レーサーは雇われてハンドルを握ってた。ジュニアは
「そんな奴らはヒモみたいなもんだ」
と軽蔑を露にする。


ストックカー・レースのオフィスで、秘書として働くマージと、ジュニアは出会う。
エントリーを取り計らってくれたのだ。
田舎育ちの純朴なジュニアに、マージの色気は強力に作用した。

遠征先のホテルの部屋を格安に取ってくれたマージに、ジュニアはお礼の花束を贈り、ふたりは急速に親しくなった。
自分のやり方でレースを貫こうとするジュニアに、マージは
「野心を持つのはいいけど、のぼせると袋叩きにあうわよ」
とアドバイスする。

ジュニアはマージとは真剣な間柄だと思いこんでたが、彼女はジュニアとベッドを共にした後、ナンバー1レーサーのキングマンを部屋に呼び入れていた。
マージはレーサーのグルーピーのような存在だった。
彼女はいままで、ジュニアのような若者を何人も見てきたのだろう。


ジュニアは恋の挫折だけでなく、レースでも挫折を味わった。
恐れを知らぬ走りぶりは観客を熱狂させ、その名は少しづつ知られるようにはなったが、レースカーの維持や、エンジンの交換など、経費はかさむ一方だ。
レーサーとしての腕は確かだが、自前のマシンの性能には限界があった。

以前からジュニアの走りに目をつけて、声をかけてきたコルト自動車の社長のもとをジュニアは訪れた。それまでは、「いいなりのレーサーなどにはならない」と申し出を突っぱねていたのだ。

ジュニアはメーカー製のレースカーで、自分の腕前を証明したかった。
頭は下げたが、取り分などの条件では引かなかった。
「コンコード500マイルレース」の大舞台で、ジュニアはキングマンを倒すべく、アクセルを踏んだ。


ジェフ・ブリッジスはこの映画で、「俺の星座はフォードだ」というセリフを吐いてるが、1988年に主演した『タッカー』では、そのフォード社など、大手の自動車メーカーからの妨害にもめげず、自前で理想の車作りを追求した、自動車会社社長を演じることになる。

このブログでトニー・スコットの追悼として『デイズ・オブ・サンダー』を取り上げたんだが、あの映画のストックカー・レーサーのトム・クルーズは、ほとんど内面が描かれなかった。
トム・クルーズ自身が、役の内面を演じようとしない役者だからで、あの映画では単純にレースの迫力を堪能するのみだった。
ジェフ・ブリッジスは、若い時分から、役の内面を感じさせる微妙なニュアンスを表現できる人だった。なのでこの映画は、レース場面も見応えはあるが、やはり「レーサー」を描いたものになっている。

ドライバーとしてもメカニックとしても、絶対の自信を持ってる若者が、「実」を得るためには、自分のやり方を曲げなければならない。
その局面に立たされた苛立ちや、諦めの気分と、反骨心が、鍋の中でグラグラと煮立ってる。

『ふたりだけの微笑』にも出てきたが、メッセージをテープに吹き込める「電話ボックス」のようなスペースで、ジュニアが家族に向けて、思いを吐露する場面がある。
その時のジェフ・ブリッジスの表情がいいのだ。
しかも全部吹き込んで、持ち出したテープを結局ゴミ箱に捨ててしまう。
こういう演技ができるから、この映画は青春映画としても機能してるのだ。


この映画はトム・ウルフが「エスクワイア」誌に寄稿した、ジュニア・ジョンソンに関する記事を元に、伝記ではあるが、細部はフィクションの色づけがなされてる。
トム・ウルフはこの10年後に、『ライトスタッフ』の原作者として、脚光を浴びることになる。

監督のラモント・ジョンソンは、1974年のマーティン・シーン主演のTVムービー『兵士スロビクの銃殺』や、1977年の、ロビー・ベンソンが高校のバスケ選手を演じた『ワン・オン・ワン』など、青春映画に手腕を発揮する一方で、性的被害を扱った1976年の『リップスティック』のような問題作も手がけている。

この監督の映画で見たいものが1本あって、
1981年の日本未公開作『キャトル・アニーとリトル・ブリッチェス(原題)』という西部劇だ。

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ミズーリやオクラホマを荒らし回った、実在の強盗団「ドーリン・ダルトン・ギャング」の一味に飛び込んできた、二人の少女の向こう見ずな青春を描いた内容ということ。

当時16才のダイアン・レインがリトル・ブリッチェスに、アマンダ・プラマーがキャトル・アニーを演じてて、ギャングのドーリンにはバート・ランカスター、ダルトンにはスコット・グレンという豪華キャストなのだ。ロッド・スタイガーやジョン・サヴェージも出てる。

アメリカ本国では公開当時、少女版『明日に向って撃て!』と呼ばれてたそうだが、日本公開は見合わされてしまった。西部劇が流行らないということだったんだろう。
テレビで放映されてるかも知れないが、俺は録画してない。

2012年9月18日

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押し入れからビデオ⑲『ジプシーのとき』 [押し入れからビデオ]

『ジプシーのとき』

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先日『ディクテーター…』のコメント入れた折りに、『ボラット』に『ジプシーのとき』の音楽が流用されてたと書いた。で、久々にその曲が聴きたくなったんで、ビデオを探し出してきた。

エミール・クストリッツァ監督作では、つい最近『アンダーグラウンド』がブルーレイ化されたが、その前作の1989年作『ジプシーのとき』は、ビデオは廃版で、DVD化すらされてない。
俺は「こっちをブルーレイにしてくれ!」と叫びたい気分だ。

俺の持ってるビデオは音もあまり良くないので、あの心震えるような合唱曲「エデレジ」を、大音響で聴きたいのだ。
本当はニュープリント、デジタルリマスター版でリバイバル上映してほしい所なんだが。


主人公はロマ族の少年ペルハン。ニット帽に黒縁メガネ。
その片方のレンズは割れてて、紙が貼っつけてある。
「ロマ族ののび太」みたいな雰囲気だな。
ドラえもんがいない代わりに、ペルハン自身には、同居する祖母から受け継いだ、ちょっとした念力が備わってる。
空き缶を動かしてみたり、スプーンを壁に投げると、それがひっついて、自在に壁を這わすことができる。だがそれが実生活の役にはたってない。

ペルハンには足の悪い妹がいて、得意のアコーデオンで彼女を慰めてやったりする。
妹思いの兄さんなのだ。
ペルハンには両親がいない。父親は軍人だったらしいが、ペルハンには記憶がない。
母親は妹ダニラを産んですぐ死んだ。
祖母の家には、彼ら兄妹のほかに、叔父のメルジャンが同居してる。
女好き、バクチ好きでどーしょーもない。

ペルハンは同じ村に住む、アズラという美少女に恋をしていた。
彼女も満更でもなかったが、アズラの母親は、貧しいペルハンに娘を嫁にやる気などない。

ペルハンは、ロマ族の祭り「エデレジ」に、アズラと二人でいる。
無数の松明が揺らめく、川に胸までつかってる。
裸になったアズラのふくよかな乳房に目は吸い寄せられる。
二人で手漕ぎボートに寝そべってる。
それは現実のようであり、夢想のようでもあった。

そんな村にジーダ兄弟が、高級車で帰ってきた。
兄貴のアーメドが仕切る一味は、このユーゴスラヴィアから、イタリアに渡り、悪事を働いて懐を肥やし、村で一番羽振りがよかった。
バクチ好きの叔父メルジャンは、アーメドの弟にポーカーでカモにされ、借金を背負う。
祖母に泣きつくが、金はないと言われると、ブチ切れて、板を張り合わせた家の上屋を、ロープで括り、車で引き剥がしてしまう。降りしきる雨の中、祖母と幼い兄妹はただ立ち尽くす。


その祖母の元に、アーメドが駆け込んできた。
まだ1才くらいの息子の容態がおかしい。
ペルハンの祖母なら治せると思ってるらしい。
アーメドの家で小さな息子の体をさする祖母。
なにがしかの魔力を持ってるようだ。
昏睡状態だったアーメドの息子は意識を取り戻した。

祖母とペルハンたちが上屋を失くした家に戻ると、叔父のメルジャンは、頭を刈られ、ズボンも奪われてしょんぼりしてる。礼に訪れたアーメドに、祖母は食ってかかった。
「あんたの息子を治してやったお礼がこれかい?」
「メルジャンのことは弟がやったことだ」

だがアーメドはお詫びにと、ペルハンの妹を都会の病院へ連れて行き、足の治療を受けさせると請け負った。そのままイタリアに仕事に戻るという。ペルハンは妹に付き添うと言った。


兄妹を乗せたバンには、村を出るまでに何人か乗り込んできた。
どうやらアーメドが、イタリアでの仕事に使おうという者たちらしい。

妹のダニラは心細くて、しくしく泣いてる。車は夜の高速道路をひた走る。
ペルハンはおとぎ話を聞かせてやり、窓の外に視線を促した。
ダニラが窓に目をやると、花嫁姿の母親が宙に浮いていた。まるでダニラに会いに来たように。
そのまま車の天井に浮遊し、やがて消えた。

「ママが見えたよ」
「どんな顔してた?」
「きれいだった」
花嫁のベールだけが、まだ道路の上を舞っている。ダニラは泣くのをやめた。

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アーメドに伴われ、病院に入ると、妹はすぐに入院だと、引き離された。
付き添うと約束してたペルハンは途方にくれた。
アーメドは「どこにも行くあてがないのなら、イタリアに一緒に来い」
とペルハンを車に乗せる。
「お前もばあさんや妹のために稼がなきゃな」

だがアーメドは、ミラノに着くと、スリや物乞い、売春など、ロマの人間たちを束ねて、その上がりを取り立てていた。
最初は「悪事を働くのはイヤだ」と拒否してたペルハンだが、一味の男たちにリンチを受け、従わざるを得なくなる。

ペルハンは邸宅を狙っては空き巣を働き、戦利品をアーメドに献上した。
盗んだ金品の隠し場所も確保していた。
高血圧で一度倒れたアーメドは、親身になって介抱してくれたペルハンを信頼し、一味の頭の座を譲ると言った。
妹の手術費用は毎月送金してる。故郷に新しい家も建ててやる。
アーメドはそう言った。
スーツを着て、身なりも整ったペルハンに、悪事を働くことの罪悪感はもはや無かった。


アーメドから遠征して仕事をしてくるよう言われたペルハンは、内緒で故郷の村に戻ることにした。
アーメドからは「村では事件が起きてて、警官が多いから帰るな」
と言われてた。
だが羽振りのいい自分を祖母たちに見せたかった。

村に戻ったペルハンは、さっそく札束を持って、アズラの家に行った。
これで結婚にも文句は出ないだろう。
だがベッドで寝てるアズラは妊娠してた。
相手は叔父のメルジャンに決まってる。

さらに、アーメドが約束してた新しい家など、建ててる様子もなかった。
ペルハンは何も信じられなくなった。

久々に孫の顔を見た祖母は、あの純朴なペルハンの面影がなくなってたことを嘆いた。
アズラはペルハンとの結婚を望んでいた。
お腹の子は、「エデレジ」の日に抱き合った、その時の子だと。
だがペルハンはその言葉が信じられず、
「生まれた子供は売る」ということを条件に、結婚すると、アズラの母親に告げた。

結局ふたりは式を挙げることとなり、初夜を迎える。
だが服を脱いだアズラを、ペルハンは抱こうとしなかった。
アズラは悲しそうに見つめるだけだ。


ペルハンはお腹の大きなアズラを伴って、イタリアに戻った。
アーメドの嘘っぱちを責め立て、二人が諍い合ってる間に、アズラの姿が見えなくなった。
ペルハンもアーメドも、アズラを探し回る。

線路脇でアズラが横たわってる。その体がゆっくりと宙に浮く。
彼女の背後を列車が通過し、その音と、彼女の陣痛の叫び声が重なる。
すると赤ん坊の泣き声がして、アズラの体はゆっくりと地上に降りてゆく。
花嫁衣裳のまま出産したアズラの、白いドレスの下半身は血で染まっている。

「男の子だぞ!」アーメドが赤ん坊を抱く。
ペルハンはアズラの首に手を回す。
呼びかけるがアズラはこと切れる。
ペルハンはその体を抱いて声を上げて泣いた。

アズラの言葉を信じることができず、結果彼女を失い、さらに大雨によって、空き巣で得た金品の隠し場所も水没し、ペルハンは何もかも失った。
悪事に手を染めた自分への戒めと感じ、アーメドとの仕事から足を洗うことにした。


妹ダニラが入院してるはずの病院を訪ねたが、ダニラは居なかった。
看護婦に聞くと、実は入院すらしておらず、ダニラはローマに連れて行かれたらしいと。
ペルハンはただ妹の消息を訪ねて、ローマをさまよっていた。
祖母には度々手紙を書いた。

ある日、足を引き摺った少女が、車に乗り込むのを目撃した。
ペルハンは必死でその車を追った。
橋のたもとで少女は車から降ろされ、杖をついて歩き始めた。

息切れするほど走ったペルハンは叫んだ
「ダニラ!」
少女は振り向いて、一瞬怪訝な顔をした。
視線の先に誰がいるのかやっとわかった
「ペルハン!」
二人は抱き合った。あれから4年が経っていた。

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ダニラは「事情を聞きたい?」と言って話しだした。
ローマに連れて行かれた後、足が悪いからと、物乞いをさせられてたと。
もちろん入院も治療も受けてない。足はまだ痛む。

アズラの産んだ子はアーメドが引き取って育ててる。
アーメドはこのローマで新しい妻を迎えて、結婚式を挙げるという。

ペルハンは、ダニラに案内され、式の会場のそばまで来た。
子供たちが遊んでる。ダニラは一人の男の子の手を引いてきた。
「ペルハンの子だよ」
その男の子は名前を尋ねた。ペルハンと答えると
「嘘だい」と言う。その子もペルハンと名づけられてたのだ。
「俺の子だ」その顔を見て確信した。

だがペルハンにはしなければならないことがあった。
自分をとことん裏切ったアーメドへの復讐だ。
役に立たなかった念力を使う覚悟でいた。


冒頭のペルハンの暮らす村での、狂騒の気分から、クストリッツァ監督の世界に、グイと腕つかまれて引っ張りこまれる感じなのだが、ペルハンのナードなキャラや、叔父のロクデナシ感が楽しい。

ペルハンは、祖母に貰った七面鳥とも魂を通わすことができるようで、その描写は微笑ましいんだが、叔父はその七面鳥を鍋で煮込んでしまったよ。

随所に挟まれる「浮遊する」イメージと、そこに流れる、ゴラン・ブレゴヴィッチによる、エモーショナルな合唱曲。
全編を「ロマニ語」で撮影されてる、ロマの少年のビルドゥングスロマンたる傑作だ。

2012年9月17日

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白雪姫リリー・コリンズがキュート [映画サ行]

『白雪姫と鏡の女王』

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物語が終わり「THE END」のあとに、白雪姫リリー・コリンズが歌い踊る、マサラチックなミュージカル・エンディングを見ながら、俺は思ったのだ。
「なんで最初からミュージカル仕立てにしなかったんだろう?」

リリー・コリンズは歌手のキャリアはないものの、父親フィル・コリンズの遺伝子を受け継いでるだけあり、歌声も堂に入ったものだったし、女王の家臣ブライトンを演じるネイサン・レインは、『プロデューサーズ』など、ミュージカル経験もある。
まあジュリア・ロバーツは歌えるって印象はないけど。

なにより音楽を担当してるのが、『美女と野獣』や『アラジン』など、ディズニーのミュージカル・アニメを手がけてきたアラン・メンケンなのだ。
わざわざ彼を起用してるのは、ミュージカル的な作りを当初は意図してたということじゃないのかな。

監督のターセム・シン・ダンドワール(この人、新作撮るごとに名前が長くなってる気が)にしても、映画撮る前はREMのプロモとか手がけてるし、音楽と合わせるセンスはあると思うが。


国王が不慮の死を遂げ、後妻となった継母である女王に、その雪のような肌を「ムカつく」と思われて、子供時代から18才に至るまで、断崖に立てられた塔に幽閉されてた白雪姫。

贅を尽くした城に住んで、浪費とアンチエイジングに余念のない女王は、大がかりな舞踏会を催す資金が足りないと、「鏡よ鏡」と、魔法の鏡を頼ろうとするが、日銀じゃないんで財産は増やせないと、すげなく断られ、貧しい暮らしを強いられる国民から、さらに税金を徴収するのだった。


この「魔法の鏡」の性格づけに新味がある。
この『白雪姫と鏡の女王』においては、鏡の中に現れるのは、もう一人の女王だ。
正確に言うなら、女王の潜在意識とでもいうのか。

ジュリア・ロバーツが二役を演じてるが、鏡の中の彼女は、蒼白く陰気な表情をしてる。
表向きは何もかも手にしてるように見える女王だが、浪費が祟り、貯えも底を尽きていて、美容に熱を入れるも、老いは確実にやってくる。鏡の中の自分は、
「そんなことわかりきってるでしょ」と冷めた視線を投げ返すのだ。

元々「白雪姫」の物語においても、魔法の鏡は、女王の不安の象徴として描かれているんだろうが、この映画では、はっきり本人自身を投影させてる。


18才の誕生日だというのに、女王に祝ってももらえない白雪姫は、隙を見て城を脱け出し、村人たちの生活を見に行く。
もはや父親である国王が生きてた頃の、活気に満ちた村ではなくなっていて、その貧しさを目のあたりにした白雪姫はショックを受ける。

一方、森で盗賊の小人たちに、身ぐるみ剥がされた隣国の王子は、その森でばったり白雪姫と出会う。
吊るされたロープを切ってくれた彼女が、王国の姫だとは知るべくもなく、二人の関係は意外な運命を辿っていく。

裕福だが、ガマガエルのような男爵から、求婚されてたが拒否ってた女王は、城を訪れた、がっつり年下の隣国の王子にロックオン。
王子と結婚すれば財政問題も解決すると、「惚れ薬」まで用意して、王子に色目を使う。

村から戻った白雪姫は、その実情を女王に告げるが、聞く耳もたれない。
王国を女王の手から取り戻さねばという一念で、
「法的には、王位継承者は私なんですけど」
と言い放ってしまい、継母をブチ切れさせてしまう。


家臣のブライトンは、白雪姫を森に連れて行って殺しなさいと命じられてたが、森に置き去りにしたまま去ってしまう。
森の魔物の気配に逃げようとした白雪姫は、頭をぶつけて昏倒し、気がつくと7人の小人たちに囲まれていた。

映画としては、この小人たちが出てきて、テンポがよくなってくる。
アコーデオンみたいな「バネ足」をつけて巨人に見せかけてる小人たちが楽しい。

小人たちの家には、女王が命じて村人から徴収した税金が袋ごとあった。
女王に届ける馬車を襲って巻き上げたのだ。それを聞いた白雪姫は
「お金は村人に返すのよ」と言い、小人たちの隙を見て、村へ返しに行った。

奪い返そうと村まで追っかけてきた小人たちは、白雪姫に村人たちの前で
「お金を取り返してくれたのは、小人のみなさんです!」
と紹介されてしまう。
これで盗みはできなくなったが、今まで偏見の目で見られてた村人たちから、英雄視されたことは満更でもなかった。
この白雪姫の機転を利かせた判断がすばらしいじゃないか。

この後、白雪姫は王国を女王から取り戻すため、小人たちから剣術を習ったりする。
『スノーホワイト』よりも、この映画の方が、7人の小人と白雪姫の結びつきが強く描かれてる。

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アメリカ本国とは公開の順番が逆になり、日本では『スノーホワイト』が先行したわけだが、あちらがダーク・ファンタジーを志向してたのに対し、この『白雪姫と鏡の女王』ファンタジー・コメディとして、ファミリー向けに仕上げてある。

ターセム(以下略)監督はこれまで『ザ・セル』『落下の王国』『インモータルズ~神々の戦い~』ときて本作と、言ってみれば「血まみれ」「メルヘン」「血まみれ」「メルヘン」と交互に作ってるんで、次回作は血まみれを期待していいんだね?

つまり、常にどこかで「血」を欲してるような所がある人だから、ファンタジー・コメディをやろうとしてるんだけど、どこかそぐわない。

この映画もジュリア・ロバーツは、『スノーホワイト』のシャレが利かない、シャーリーズ・セロンの女王っぷりと比べて、ベテラン女優の余裕を見せる、コミカルな演技を披露してるんだが、ダイアログが今一なのか、監督の演出の呼吸が悪いのか、映画のノリ自体が、特に前半は空転気味なのだ。


白雪姫を演じるリリー・コリンズは、『ミッシングID』の時より、一段と眉毛が目立つんだが、石岡瑛子デザインのブルーのドレスに身を包んだ、そのルックスは、ディズニーの往年のアニメ版『白雪姫』を彷彿とさせる可愛らしさに溢れてる。

その彼女の個性も含めた上で、最初に書いたように、これはミュージカル仕立てになってた方が絶対楽しめたと思うのだ。

監督独特のヴィジュアル感覚と、これが惜しくも最後の仕事となった、石岡瑛子の艶やかカラフルな衣装が相まった、アーティスティックな映像世界は、ミュージカルの祝祭感にこそマッチすると思う。
ファンタジー・コメディとしては、弾け切らなかったのが残念だ。

2012年9月16日

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